第七話








恭也が蛍と付き合い始めて、もう一年をとうに越えた。
その間も色々なことがあったが、それでも二人にとって幸せな毎日だったのかもしれない。
何かが大きく変わったわけではない。
だが、それでも確かに変わった。
その変わらないものと、変わったものを、確かに恭也は幸せだと感じていた。


そして、今は二人だけの時間。
多くもなく、少なくもない二人だけの時。


「大丈夫、恭也さん?」

蛍は恭也の胸に頭を擦り付けながら手を伸ばし、恭也の右手に巻かれている包帯に軽く、そして優しく触れる。
その目は心配げに揺れ、表情も幾分か暗く、声までも僅かに震えていた。

「ああ、大丈夫だ。大した傷じゃない」

恭也は左手で蛍の髪に触れながらも、本当に優しく言った。それは蛍を安心させるように。
だが、蛍の表情は晴れない。
包帯が巻かれた場所だけではなく、恭也の身体はそうでなくとも傷だらけなのだから。

恭也はついこの間護衛の仕事をこなした。だが、その腕に傷を負った。恭也が言ったように別に深手ではない。
生活に支障はないし、痛みを無視すれば剣だって触れる。完治のときもすぐに来るだろう。
その怪我を負った理由を蛍は問わなかった。
恭也も聞かれたとしても誤魔化しただろう。
それにこれはいつものことでもあったから。
誰かを庇ったか、もしくはそれに近いことでも起こったと、蛍もわかるだろう。
だが、蛍にとっては……恭也が怪我をした。ただそれだけだ。
それだけしかわからないのだ。
そして、わかってもその結果だけは変わらない。

「恭也さん……」
「ん?」
「恭也さんは……」

蛍は包帯に触れたまま何かを言おうとした。
だが、それは言葉にはならなかった。

「ううん、何でもない」
「何かあるんじゃないのか?」

恭也が問いかけても蛍は何も答えず、包帯から手を離し、その顔を恭也の顔へと近づけた。
二人の視線が絡まる。
だが、その目が何を伝えているのか、両者共にわからなかった。
ただ二人は視線を絡ませた後、その唇を触れ合わせた。

「んっ……」

それは何かを誤魔化すための口づけだと恭也は思った。
困惑か、疑惑か、焦燥か、それはわからない。
お互いが何かを感じ、それを誤魔化そうとている。そう思ったのだ。
恭也自身、自分が何を誤魔化そうとしてるのかわからないし、蛍が何を誤魔化そうとしているかなどわかるわけがない。

だがたぶん、その根底にあるものは、傷だろう。
恭也の全身に及ぶ傷が、新たに増えた傷が、恐らくはそれを生ませた。

何となく、本当に何となくだが、このとき恭也は終わりが見えたような気がした。
それが何の終わりなのかは……やはり恭也自身わからなかった。



◇◇◇



なのはがあの報われない想いに、形だけの決着をつけた夜から一年と数ヶ月ほど経った。
未だ心の中に燻る想いではあるが、それは決して表には現れず、決してもうなのはの心を『大きく』痛めつけることはなくなるだけの時間が流れた。
恭也と話をしても、妹として笑顔を浮かべることができ、妹として兄と接することができた。蛍とも何も含まず接することができた。それこそたまに『義姉さん』等と冗談交じりで呼びかけることができるぐらいになっていた。
時間はそれだけのことをしてくれたのだ。
もちろんたまに思い出して涙が浮かぶこともあったが、それもきっと時間の問題となのはは思っていた。
蛍が大学を卒業すれば、たぶん二人は結婚する。それはなのはだけの考えではなく、家族たちや恭也の関係者の全員が思っていたこと。
そうなれば、きっとこの想いに完全に決着をつけられるだろうとなのはは思っていた。
まだ他の誰かを好きになれるかはわからないが、それでも一端の結末を向かえられると思っていたのだ。
それをまだ燻る想いが、受け入れたくないと言っているが、それでもきっと時間の問題だ。
もう、届かなくなるのだから。可能性は本当の意味で完全に潰えるのだから。
だから理解だけではなく……いつか受け入れられる時も来ると、信じていた。

受け入れたくないが、受け入れると時が来る。
信じたくはないが、信じた。
そうでなければ、きっとまた耐えられなくなるときが来てしまうから。



だが、それは唐突だった。
本当に唐突だった。

「はあ、はあ、はあ!」

なのはは駆けていた。
初等部とは僅かに違うデザインの真っ白な中等部の制服と、腰までかかるようになった長い髪を振り乱して、細い廊下を駆ける。
途中で注意らしき声が聞こえてきたが、それさえ無視して走り続ける。
もっと速くと思いながら、足の回転は上がってくれない。
息もひどく上がっている。
自分の運動音痴さと運動不足を恨めしく思いながら、それでもなのはは走り続けた。
そして辿り着いた病室。

「おにーちゃんっ!?」

その病室に恭也はいた。
目を覚まさず、ただ真っ白な部屋でベッドに横になっていた。
それを見て何を想像したのか、なのはは顔面を蒼白にしたばかりか、一瞬意識が遠のきそうになった。

恭也の横たわるベッドの隣には、蛍がパイプ椅子に座っていて、なのはが大声を上げて入ってきたため、驚いた顔を浮かべていたが……すぐに苦笑した。
そして落ち着かせるように静かな声音で告げた。

「大丈夫だよ。今は疲れて眠ってるだけ」

その言葉を聞いて、なのはは足の力が抜けてしまったかのようにへなへなとその場に崩れ落ちた。

「よ、良かったぁ……」

そしてうっすらと目に涙を溜めて、なのはは呟いた。



恭也が護衛の仕事で怪我を負った。
それは珍しいことではなかったかもしれないが、手術までしたとなのはは桃子から連絡を受けたのだ。
その言葉は、あの時の……恭也の血について知るきっかけになった日のことをなのはに思い出させた。だからなのはは、桃子の話の続きを聞かず、そのまま電話を切り、学校を早退してここまで来たのだ。
だが、なのはは最後まで話を聞くべきだった。
手術をしたのは本当のことだが、命に別状があるようなものではなかったのだ。もちろん怪我は怪我で、手術を必要とするのだから大怪我ではあるだろう。
だが恭也に意識はあった。前のように本当に緊急の事態ではなかったのだ。
桃子などはすでに恭也の入院の準備をするために家に戻っている。その途中になのはへと連絡を入れたのだろう。
それを蛍は簡単になのはへと説明した。
その説明を蛍の隣に座って聞いていたなのはは再び安堵の息を吐き、そして安心したように笑みを浮かべた。
だが、

「命に別状はない……それでも、怪我は怪我だよね」

蛍は辛そうな表情で、眠る恭也の顔を眺め、そしてその手を彼の頬に触れさせた。
まるでそこにいるのが本当に恭也なのかを確かめるように。

「誰かを護った代わりに怪我を負った。たぶん誇りある傷……でも、傷は傷だよ」
「蛍……さん?」

蛍は涙を流していた。
恭也の頬を愛おしげに撫でながら、ただ涙を流していた。
その意味は、なのはにはわからなかった。
だが、その姿は封じたはずの想いを疼かせた。嫉妬にも近く、だが同時に何かを予感させるもの。

「なのはちゃん……」
「はい……」
「あのときの言葉、覚えてる?」

あのとき。それは本来すぐに思い浮かべられるものではなかったはずだった。なぜならなのはと蛍が出会ってすでに三年近くが経つのだ。あのときの言葉と言われても、いつのことだかすぐに繋げられるものではない。
だが、なのはにはすぐにわかった。
蛍と初めて出会ったとき……いや、正確には二度目の出会いのとき。
今と同じような病室ではなかったが、この病院でなされた会話。
蛍が自分を怒らないのかと聞かれた時に言った言葉。
それがすぐに浮かんだ。
そして、絶対に正解であると思った。

「覚えてます」
「今でも変わらない?」
「はい」

そんなのは今でも変わらない。それはなのはにとってある意味誓いのようなものだ。
それが恭也の生き方であるならば。
なのはが恭也の傍にいるならば、絶対に必要なもの。
だから変わることなどない。

「私もそう。私も別に恭也さんが護衛していた人を恨む気も、怒る気もない」

蛍は恭也の頬を右手で触れたまま、空いた左手で涙を拭った。
その顔は真剣で、本当に心の底からその言葉を紡いでいるのがなのはにも伝わる。
そして蛍はその目をなのはへと向けた。

「なのはちゃん、もし……もしも、事前に恭也さんが傷つくってわかってたらどうする?」
「事前に?」
「うん。恭也さんが護衛の仕事に行くとして、予知でも何でもいい、なのはちゃんはそこで恭也さんが傷ついてしまうってわかってるの」

それは現実味のない話だった。
だが、この世界には色々な不思議があると知っているなのはは、そんなことをできる人もいるかもしれないと、内心では同時に考えていた。
しかし、その現実味のない話を止めようとも、その内容の意図を問おうとせず、なのはは蛍の話を聞き続ける。

「その時、なのはちゃんは恭也さんを止める?」
「え?」
「怪我をするからって……なのはちゃんは恭也さんを止めるかな?」

質問の意図はなのはにはまったくわからなかった。
だが、すぐに答えは出た。
それほど深く考えもしなかった。

「止めません」

その答えをなのはははっきりと告げた。
それは恭也が傷ついてもいいと言っているともとれる言葉からもしれない。だが、なのははそれを理解した上で答えた。
そしてその答えに蛍はとくに驚いていなかった。

「どうして?」

まるで答えがわかっているかのように、苦笑に近い笑みを見せながら、蛍は再び問う。

「護衛の仕事に行くってことは、おにーちゃんには護る人がいた……ううん、護りたい人がいた。もしおにーちゃんが行かなかったら、おにーちゃんが傷つかない代わりに、その人が傷つくかもしれない。その人が死んでしまうかもしれない……だからです」

護衛の仕事と言っていたからこそ、その答えは出たのだ。
それがもし日常の中でだったならば、なのはは間違いなく止める。

「でもその代わりに恭也さんは傷ついていいの……っていう意地悪な質問していいかな?」

傷ついていいわけがない。
なのはだって決して恭也に傷ついてほしくない。
それは蛍にだってわかっているだろう。だからこそ意地悪な質問だと言ったのだ。
たぶん彼女はなのはがどう思ってその答えを出したのかわかっている。それをなのはの言葉で聞きたいのだ。

「正直私はおにーちゃんが護ろうとしている人が傷ついたとしても、死んでしまったとしても、それが近しい人でなければ、私自身が気にすることはないと思います」

それを知っても、テレビのニュース番組や新聞の記事でも見たかのように、可哀想だぐらいには思うかもしれないが、決して悲しむことはないだろう。
なのはは争いは嫌いだが、そんな彼女でも見も知らない人のために涙を流せるほどの博愛精神は流石にない。
そんな人たちと恭也とを天秤に掛けたら、どうやっても恭也の方に傾くに決まっている。
ではなぜ、そんな人のために恭也が傷つくのを許容するのか。

「だけど、それをおにーちゃんが望むんですよ。自分が傷ついてでも護りたいって」
「……そうだね。恭也さんは望むだろうね」
「はい。そして本当に私が止められて、それでその人が本当に傷ついたなら、死んでしまったなら、おにーちゃんは自分を責める。止めた私を責めないで、自分だけを責める。それはおにーちゃんが今まで歩んできた道の……自分の信念の否定だから」

だからなのはは止めない。
もし、本当に死んでしまうとわかったなら止めるかもしれない。だが、傷では止めないだろう。いや、止められない。
心配して、心配して、それでも恭也を信じて待つ。そして怪我をして帰って来たなら、少しお説教をして、お帰りなさいと笑顔で言う。それぐらいしかなのはにはできないのだ。同時にそれがなのはだけにできること。

「同時にそれはあの時の蛍さんに言ったことと同じで、私がおにーちゃんを否定しているのと同じだから……だから私は止めない」

それは恭也への想いがこの胸の奥底にしまわれ、純粋に妹としての感情になってしまっても変わりはしない。
だが、それでも奥底にしまわれたものが疼いた。それを押さえるために、なのはは自分の胸の前でギュッと手を握った。

「もっとも、おにーちゃんが護衛の仕事を私に言われたぐらいで放り出すとは思えませんけど」

それを誤魔化すように、なのはは苦笑して告げる。
だが、それもきっと真実。
恭也はきっと止まらない。もしかしたら自分が死ぬと言われても止まらないかもしれない。
だが恭也ならば死ぬと言われても、予知されても、運命だと言われても、その手に握る剣でそんなものを斬り捨ててしまうだろう。
そう思わせるものが、恭也にはあるから。
それをなのはは信じているから。

「そっか……」

そんななのはを見て、蛍はどこか眩しいものを見るかのように目を細め、優しげに笑った。

「蛍さん?」

やはりなのはにはその表情の意味も、質問の意図も伝わらなかった。
だが蛍はただ笑い、そして恭也の頬から手を離すと立ち上がった。

「さて、なのはちゃんが来てくれたし、私は桃子さんのお手伝いしてくるね」
「え?」
「恭也さん、怪我はそんなに酷くないけど、少しの間入院だからその準備のお手伝い。だから恭也さんのことはなのはちゃんに任せる」

蛍はそう言って、なのはの頭に軽く触れ、お願いね、と告げて、なのはの答えは待たずに病室から出ていってしまった。
残されたなのはは展開についていけず、しばらく惚けていたものの、すぐに恭也の顔を覗き込んだ。

どんな怪我を負ったのかは聞いていなかったが、その寝顔は穏やかだった。それを見て、思わずなのはが微笑んでしまう程に。
こんなふうに兄の寝顔をじっくりと見るのは初めてかもしれない。なのはは朝が弱いし、恭也は寝ていようが誰かが近づくと目を覚ます。なのでその寝顔を見る機会はあまり多くなかったのだ。
今なのはが近くにいても眠っているのは、よっぽど疲れているのか、それとも麻酔のせいだろうか。
とそこまで考えて、なのはは顔面を蒼白にした。

「お、おにーちゃん、起きてないよね?」

そう聞いても返事はない。
それでも信じられず、なのはは色々な角度から恭也の姿を見たり、顔や身体を触れたり、寝息を確認したりと忙しく動き、本当に恭也が寝ているのかを確かめる。
どうやら本当に寝ているようだと、なのはは安堵の息を吐く。

(さっきの聞かれてたら恥ずかしすぎるよ〜)

先ほどの蛍との会話。あの内容が恭也に聞かれていたなら赤面ものだ。
絶対に普通なら言えないクサいセリフというやつに入るだろう。そんなもの兄に聞かれたら、これからどうやって顔を合わせればいいのやら、ということだ。
どうやらその心配は杞憂であったようだが。
聞かれていないならいいと、なのはは再びパイプ椅子に座り直し、もう一度恭也の寝顔を堪能する。

「あ……」

堪能していたが、すぐに胸の底が再び疼いた。
ダメだと言い聞かせても、あまり見ない兄の寝顔を見つめていたせいで、封印したはずの想いが動く。
そのあどけない表情が惑わせる。

「っ……ダメ」

折角妹でいなくてはならないと『理解した』のだ。納得はできなかったが、それでも兄の幸せを見ていようと決めたのだ。
自分が想いを封じれば、兄はきっと幸せになれて、もしかしたら自分も何かが変わるかもしれないからと。
そう言い聞かせていたのに。
だから、ここでそれを解き放ってはいけない。
だけど、

「おにー……ちゃん……」

最後だ。
本当に最後。
二人が本当に結婚する前に。
きっとこれで、理解だけではなく、諦めもつく。自分の心も納得させられるかもしれない。
それは甘美な誘惑だ。
最後という言葉と、自分の心を落ち着かせるためという免罪符で……兄と触れ合いたいという。

「おにーちゃん……」

その甘い誘惑に耐えきれず、なのはは恭也の唇に、自分の唇を近づかせる……。

そしてこの日、自分の初めての口づけを、なのはは兄に捧げた。







あとがき

とりあえず次回への伏線でした。
エリス「なんか恭也は蛍とラブラブしてるし。まあそのあとまた大変な目に合ってるけど」
ラブラブ……してるか? とりあえずどんな怪我をしたかは謎。
エリス「それよりも、この話も前話と負けず劣らず短いんだけど」
それに関してはすみません。本来はこの七話を含めて六話でした。
エリス「なんでわざわざ分けたの?」
なのはパートとわけたかったのと、少し時間が経つので、その間を取りたかったため。同じの話のうちでそのまんま年が経ちました、だとなんかなのはに感情移入しにくくなりそうだったんで。
エリス「一緒に送ったんだから意味ないんじゃない?」
そうかもしれないけど、一応。まあとりあえず、次回は少し話が動きますので。
エリス「とりあえず今回はここで区切りです」
それではー。





ぬぐぐ、ここで次回とは。
美姫 「とっても気になっちゃうわね」
ああ。しかし、恭也と蛍の間になんか、うーん、上手く言えないけれど、なぁ。
美姫 「いや、私に聞かれても」
ああ、にしても本当に気になるな〜。
美姫 「次回が待ち遠しいわね」
本当に。
次回も楽しみにしてます!
美姫 「待ってますね〜」



▲頂きものの部屋へ

▲SSのトップへ



▲Home          ▲戻る