〜〔翠屋〕にて〜

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第四話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――宴が終わり、その日の客を駅まで送ると、恭也は〔翠屋〕に戻った。

 店内に入ると、外に出ている間に桃子と松尾さんが食器やカップを下げたらしく、並べ

替えたままのテーブルと椅子が、わずかにその日が貸し切りだった事を、ただ静かに語る

のみである。

「これでおしまいね?」

「はい」

 厨房からの声が大きく聞こえてくるのが、今の恭也には意外でもあった。普段ウェイタ

ーなぞしている時は、全然気にも留めていなかったのだが。ともあれ、力仕事は俺の領分

とばかりに、テーブルと椅子を元の位置に戻していく。

 それほど時間をかける事もなく、テーブルと椅子は元の位置に収まった。厨房の方でも

仕事の方は終わったようで、

「それじゃ松っちゃん、先に上がっていいわよ。ご苦労様」

「あ、はぁい」

 厨房からひょこっと顔を見せた松尾さんが、

「それじゃ、またね」

 笑顔でばいばいの仕草をすると、奥へ引っ込んで行った。少しすると、桃子が厨房から

姿を見せる。

「恭也も、ご苦労様」

 その手にマグカップを持っていた。

「コーヒー、どう?」

「ありがたく」

「うん。ちょっと、座らない?」

 桃子に促されて、カウンター席に座る。カップを受け取ると、そっと口をつけた。香ば

しい香りと共に、酸味と苦味が程よく混ざり合った黒い液体が、恭也をじんわりと潤して

いく。

「で、恭也……彼女達の事、どう考えてるのかしらね? 桃子さん、ちょーっと気になっ

たりして」

「ん……どんな答えを出すにしろ、少し時間をくれ、とは言った」

「あら……」

 桃子からすれば、これは大きくはないにしても進歩、と言って差し支えない変化と言え

た。

「……本当は、まだどうしていいか分からない。それが、正直なところだが」

「それでもいいわよ……相手の気持ちにちゃんと答える……その為なんだから。大事な事

よ?」

 恭也を見る桃子の瞳は、母の慈しみに満ちている。

「父さんは……」

「えっ?」

 少しためらった恭也だが、

「父さんは、一体、何かに悩んだ事、あったんだろうか、な」

 ぼそり、と呟いた。桃子が、これまでに見た事のない表情で。

「そう、ねぇ……どうなのかしら」

 思い返せば、桃子から見た士郎は、悩むという事を知らないように見えたものだ。もし

悩んでいたとしても、自問自答を人知れず繰り返し、ひとたび決めたら、良くも悪くも曲

げる事がなかったのではないか。

 恭也の産みの母との恋愛は、どういう形だったのかしら、ふとそんな事も頭をよぎった

が、今更考えたところで自分の知らない事であり、また詮無い事でもある。

「いや。こうなった以上、分かっているんだ……俺が決めなければならないのは」

 淡々とした、しかし確かな口調で恭也は続ける。そして再びカップに口を付け、少しず

つコーヒーを流し込んでいく。

 その様を、桃子はただ見守っていた。

 

 

 

 

 

 ――宴が終わり、海鳴からM駅に着いた頃には、すっかり暗くなっていた。

「……さて、令」

「はい、何でしょう? お姉さま」

「恭也さんが誰を選んでも、恨みっこなしよ? うふふ」

 別れ際、江利子は令にこんな事を言ったものだ。何かと退屈気な目つきでいる事の多い

黄薔薇さまだが、最近は恭也が少しでも話のタネになると、目の色が変わるようになって

いた。

「江利子ったら、本気だね」

「そうね」

 聖のつぶやきに、蓉子が応えた。

「来月はバレンタインがあるから、多分そこら辺が勝負時かな」

「……同調したいところだけど、私はその話に乗れるかどうか、微妙だわ」

「あ、そうか……」

 リリアン女子大を選んだ聖はともかく、蓉子は別の大学を受ける為に目下、受験勉強の

只中――その点では江利子も同様だが――にある。元々、以前からそうすると公言してい

たのだから、誰にもそれを止める事は出来ない。

「って……蓉子」

「何?」

「もしかして、海鳴大受けよう、なんて気?」

 聖が呈した疑問は、蓉子の苦笑を誘う。

「考えたわよ。それも、結構本気で……でも、ね」

 蓉子はしばらく、口を閉ざしたままだった。それでも待っていると、

「別の大学、受ける事に決めたわ」

 やけにさばさばとした表情で答えたものだ。

「だって、そうでしょう? 恭也さんと一緒にいたいからって海鳴大受けたとしても、受

かるとは限らないし。もし受かったとしても、恭也さんが選んでくれなかったなら、私は

きっと……それから先の何年かを〔道化〕として暮らす事になるわ」

 そこから先を聞く必要などない。それだけ聞けば充分だった。

(それだけは嫌よ、か……)

 泰然とした、包容力のある人となりで、リリアンの生徒達の憧れの対象でもあり、聖も

また一目置いている蓉子。しかし、彼女も同じ。恭也が一体誰を選ぶのか、その事を不安

に思い、かつ恐れているのだ。

(まぁ、いざと言う時の大胆さは、知る人ぞ知る……だけどね。一度蓉子が本気になった

ら、私も含めて誰も敵わないんだけど)

 そんな事を考えて思わず、苦笑をほのめかせる。

「どうかした? 聖」

「え? ううん、何でもない」

 聖は決めた。恭也さんがこの先誰を選ぼうとも、私は決して恨まない。恭也さんも、選

ばれた誰かも。その代わり、私があの人の隣に〔本当の意味で〕立つ事が出来たなら、絶

対に後悔しない。私は――

「それにしても……」

 蓉子が不意に呟いた事で、聖は現実に引き戻された。

「……どう見ればいいのかしら。これ」

「どれ……って、これ……もしかして、携帯の番号、と……住所?」

 それは〔翠屋〕からの帰り際、桃子からそれぞれに手渡されたクッキーの包み。その包

みに結ばれたリボンが問題だった。蓉子のもののみならず、聖の持っているものにもそれ

はあった。携帯の番号と住所――そういう事か。

「桃子さん、私達以上に策士だね。これ、多分恭也さんの携帯番号と、家の住所だよ」

 蓉子は、一瞬呆気に取られ、それから優雅に笑った。

「これをどう使うか……つまり私達次第、というわけね」

 

 

 

 

 

 ――自宅に帰った江利子がそれに気付いたのは、部屋でクッキーの包みのリボンを何気

なくほどいた、その時だった。最初は特に注意を払っていなかったのである。

「ん? 何か書いてある……えっ、もしかして、携帯の番号? それに、まだ何か書いて

あるわ……んー、字が小さいから読み辛いわね。ええと……海鳴市……藤見(ふじみ)町?」

 携帯の番号は、どう考えても〔翠屋〕の番号であるはずがない。ましてや――そこまで

考えて、江利子もまた結論に達した。

「あっ、これ……もしかして恭也さんの……」

 ぞくぞくと、震えるような歓喜が背筋を衝き上がって来る。こんな事は、今までなかっ

た。そう、これまでは。

 以前、入院していた時に恭也が見舞いに来た時の事を、江利子は今でも鮮明に思い出す

事が出来る。未だ記憶に新しい、というのもあるが、その時に垣間見た恭也の言動、仕草

が忘れられない。

 りんごを食べさせてもらってから、恭也に色々と話を聞いたし――とは言え、その時の

恭也は過去の事などおくびにも出さなかったが――自分もあれこれと話しかけた。恭也は、

話す時こそ淡々としていたが、聞く時は優しげに瞳を細めつつ、時には相づちを打ってち

ゃんと話を聞いてくれたものだ。

 普段誰か、増して異性と話していてこれほど楽しいと思った事はなかったし、大体話題

が長続きする事などなかった――話題がつまらないと思えば、江利子は殆ど聞き流してい

るのが常だ――のに、あの時はそんな〔退屈〕を味わう事もなかった。

 もっとも異性、と言っても、話す相手と言えばせいぜい父親と三人の兄、後はリリアン

の職員くらいのものだ。前者四人は家族だし――過剰に甘やかそうとしてくるのが、江利

子には負担だった――後者は年配ばかりで――言動が何かと型にはまった教条的なものと

なりがちである――話を聞いても、退屈の度合いが増える一方だったのである。

 もし、恭也を相手に話し込む江利子を聖が見たらきっと、

「あーあ、江利子ったら恭也さん相手にスッポンなってるねぇ」

 などと言い放つのかもしれないが。

(恭也さんと話す、と言うより、会う事自体が楽しみになった……ふぅ、私も蓉子や聖と

同じように、はまっちゃってるわね)

 恋敵、と言っていい二人と同じ、というのを悪くないと思っている、そんな自分に可笑

しさを覚える。

「令も恭也さんにはまっちゃった、か……」

 交流試合の前――江利子はその頃、病院で無聊(ぶりょう)を囲っていたのだが――令は恭也に、そ

れはそれは大きな影響を受けたらしい。

(……私達とは全然比べ物にならないくらい、色んな経験をして来ているんだもの)

 恭也さんの事だ、きっと不器用に語りかけたに違いない――繊細な令の事である。あの

瞳に見つめられ、深く優しい声と真摯な態度で朴訥に諭されれば、あっと言う間に心が傾

いた事だろう。

(それで格上の相手に一本勝ちしたって言うくらいだから、恭也さんの影響力って相当よ

ね。うん、やっぱり恭也さんって、面白い人だわ……うふふ)

 鳥居江利子、自分の〔妹〕が恋敵、という事態になっても、むしろその事すら面白がっ

ているようである。まことに始末に終えない。

 で――

「あ、そうかぁ……」

 不意に思い起こした。恭也が答えを出すまでの期限を、

(遅くとも私達が卒業するまでに)

 そう確約させたはいいが、それまでの間にひとつ、大きなイベントが控えている。近付

くに連れて、約四名の男家族がやたら落ち着きをなくすその日。

「考えてみれば……来月はヤマ場、よね」

 何となく他人事に思えるような口調で、その実大まじめに呟き、考え事にふけり始める

江利子だった。

 

 

 

 

 

 ――静かな空間の中で、小さな呟きが漏れ聞こえる。

「ん、幅はこんな感じかな?」

 令は、ベッドの縁に腰かけて、手先を忙しく動かし続けている。編み棒をせっせと操り、

毛糸を少しずつ編み上げていた。

 こうした事は、由乃が得意とするものだと思われがちだが、実際はこういう事だ。もし

祐巳辺りが見たら、唖然となる事確実の光景である。しかしながら、令の編み物の腕前は

かなりのもので、例えば、由乃が普段教室で使っている深緑の膝掛けなど、その作品は結

構な数に及んでいる。そして今は、由乃に似合うような、普段自分が使っているものと色

違いの手袋を編んでいた。

 どのくらいそうしていたか、ふと手を止めて時計を見やる。

(あ、もう十時……早いな)

 編み物を膝の上に置くと、そのまま仰向けになる。腕を伸ばし、指を屈伸させ、ひとつ

息を吐いた。黙って天井を見ている内に、恭也が臨時講師として来た時の事が自然と思い

出される。

 あの時高町さまがいなかったら、私はあんな勝ち方をしていただろうか? いなかった

とすれば、山村先生が恭也の役を似たような、しかし微妙に違う形で果たしただろう。そ

の結末はもしかすれば、やはり微妙に違う形で迎えたかもしれない。

 そうして始まる回想は自然と、病院での由乃との会話につながって行く。恭也が由乃の

見舞いを終えた――恭也はその後間もなく、江利子に会う事となったが――その後だ。

 ――令ちゃん。

 何? 由乃。

 ――やっぱり、高町さまの事、好きになっているんじゃない?

 えっ? ど、どうしてそう思うの?

 ――だって、部活に来た高町さまの事を話してる時、顔に出てたもん。まるで自分の事

話してるみたいで。

 そ、そう? 私、そんなに顔に出てた? んー、そんな事ないと思うけど……。

 ――ふーん……それじゃあ、私が高町さまを好きになってもいいんだ?

 ちょ、由乃!? それって、ま、まさか?

 ――ぷっ、うふふふ。

 由乃?

 ――令ちゃん。そんな顔してたら、ばればれだよ?

 う……。

 ――そう言えば、令ちゃんの持ってる小説か漫画だったかな? 誰かの台詞にあったよ

ね? 恋をするのに、時間はいらない。きっかけさえあれば、後はほんの少し、心に勇気

を持てばいい、って。もし相手が高町さまでなかったら、私、絶対に妨害するところだけ

ど。えへへ。

 由乃……。

(はぁ……)

 令の胸中は、いささか複雑である。

「世界で一番、令ちゃんが好きよ」

 そう言ってくれた由乃に申し訳ないと思う一方で、恭也への好意は日ごとに大きくなる

一方だった。もっとも、だからと言って令には彼を振り向かせる、という自信など、全く

と言っていいくらい、無い。

(だって、お姉さま達の方がよっぽど魅力的だし……私なんか、とても敵わない)

 先の交流戦の方が、まだしもマシだった――令は、実のところ本気でそう思っている。

高町恭也、というただ一人の心を巡って三薔薇さま相手に立ち回るには、

(私は、あまりに分が悪い)

 でも――そろそろ風呂に入りなさいと、母の呼ぶ声が聞こえた。

 編み物を片付けて、部屋を出る――もう、引き下がるには遅過ぎる程、私は高町さまに

惹かれてしまった。だったら――

 

 

 

 

 

 ――最初は、三人と一人の出会いだった。それがいつしかこうなるに至った。これが偶

然によるものか、あるいは必然であったのか、という推測――あるいは憶測――は、いく

ら論じたところで、この際何の意味も持たない。

 はっきりしているのは、〔山百合会〕のメンバーで高町恭也を明確に、

(恋愛の対象)

 として位置付けたのが四人、という事である。




まさに物語の転となるような出来事。
美姫 「恭也の過去を知って、その上で好意をはっきりとさせた章ね」
これを受けては、恭也も気持ちをはっきりとさせないといけないだろうし。
美姫 「この事によって、恭也がどんな答えを出すにせよ、色々と考え悩む事になるわね」
これから先の展開も楽しみです。
美姫 「次回も待っていますね」
ではでは。



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