〜蘭陵王舞 海鳴大学園祭〜

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第二話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 始まりを告げるアナウンスが終わると、ステージを隠していたカーテンが、するすると

左右に開かれた。

 最初に目に付いたのは、ステージの奥に並んだ奏者達。広さの制約から、本来の作法通

りに座しているわけではない。客席から見て右側奥から順に、大鉦鼓(おおしょうこ)大太鼓(だだいこ)鞨鼓(かっこ)(横

置きの鼓をイメージすると近いかもしれない)それぞれ一人ずつ、左側奥に龍笛(りゅうてき)篳篥(ひちりき)

そして笙が二人ずつ、という順だ。

 奏者は全員装束を身に着けている為、ステージの上だけがタイムスリップしたかのよう

になった。

 ステージの壁面に、特にこれと言った装飾をしているわけではない。簡単ながらセット

を組んだ、とかいうわけでもない。舞台そのものだけ見れば殺風景そのものだが、奏者達

の姿がその事を気にさせなくしている。

 

 

 

 

 

 客席からの拍手が収まるや、龍笛の奏者が笛を構え、流麗なひと吹きを奏で始めた。

 舞楽『蘭陵王』の前奏曲とも言える、〔小乱声〕(こらんじょう)と呼ばれる曲だ。舞人(まいにん)が舞台に上がる

前に奏するものとされ、龍笛の旋律に大太鼓、大鉦鼓が加わって、厳かな旋律を奏でる。

 ひょう、ひょう、と吹かれる龍笛の音を追うように、一度、二度と太鼓が打たれ、時に

鉦鼓がからり、からりと加わる。

 せいぜい一分半もかからない曲だが、龍笛の余韻を持たせるような独特の音色と、慎ま

しく打たれる太鼓や鉦鼓が、観衆を別世界に誘う。

 

 

 

 

 

 

 短く締めた〔小乱声〕から、一拍の間を置いて、今度は太鼓と鉦鼓が交互に打ち鳴ら

され、追いかけるような形で鞨鼓が加わる。

 それに合わせて舞人――恭也が静々と姿を現した。

 出手(でるて)の舞、〔陵王乱序〕(りょうおうらんじょ)である。

 観客の間から、ひそやかなざわめき、溜め息が漏れ聞こえる。片や、最前列に座る高町

ファミリーや三薔薇さまたちは、呆然として言葉が出ない。ハンディカムを手にするなの

はや山村に至っては、危うく手元を狂わせるところだった。

 恭也の着る服と言えば、まず思い起こされるのが暗色系。中でも黒の割合の多いこと、

知っている人なら皆、頷くはずだ。それがこの時ばかりは、緋色が中心の裲襠装束を身に

纏い、しかも魁偉な龍頭の面が、恭也の顔を完全に覆ってしまっている。

(これで、面がなかったら良かったのに)

 観客のうち、幾人がそんな事を思ったかどうかはさて置いて。

 恭也は摺り足も危なげなく、背筋をしっかりと伸ばし、ゆるりと腕を振り、舞を舞う。

 たん、たん、たんたん。鞨鼓が一定のリズムで打たれ、それに太鼓と鉦鼓が呼吸を合わ

せる。恭也もまた、このリズムに合わせて桴を持つ右手を、剣印を結んだ左手を振ってい

く。

 しばらくすると、これに龍笛が一時加わるが、一定のリズムは保たれたままであり、恭

也も全く動じる事無く、舞い続ける。

 時に瞳を閉じつつ、静謐な心持ちで舞う恭也の表情は、面の内に隠されていて観客から

はうかがい知る事が出来ない。しかし、逆にそれが、恭也にとっては良かったのかもしれ

なかった。

 剣術の経験も活かし、桴の動きを小太刀に見立てて鋭く、力強くする。左手の剣印、伸

ばした人差し指と中指も、同様に見立てる。

 それによって恭也に生じた〔気〕の変化は、急激だった。

(あっ、恭ちゃんの〔気〕が変わった……)

(師匠の雰囲気……何か、いつにも増して凄いや)

(うーん、お師匠、ごっつい気ぃやわぁ……)

 美由希、晶、レン、それぞれ剣士としての恭也を知っている三人が、共に気付いた。周

囲を圧する様な〔気〕が、舞の動作の中から見え隠れしていた。優雅さと力強さが入り混

じった恭也の舞。

 龍笛が休んでもしばらく続けられたリズムは、太鼓の強い一打と共に、一瞬短い休符が

取られ、龍笛の音色が再び加わって結びの部分に入る。本来これは六段、つまり六回繰り

返されるのだが、時間の兼ね合いからここでは一段のみ、という事になっていた。

 曲が終わると、不意に体育館の中が静寂に包まれる。恭也の動きが一度止まると、それ

まで放たれていた〔気〕すらも、影を潜める。まるで何かが、

(ふっ、と)

 抜けていくかのように。

 

 

 

 

 

 再び、恭也は舞を始める。が、今度は曲は奏でられない。

 舞人の動きのみで表現される〔囀〕(さえずり)である。

 かつては、舞人が漢語の詩を詠ったとされているが、現在では舞のみが行われると言わ

れている。

 静寂の中、おもむろに恭也はステージの上を舞い動いていた。

 相も変わらず力強さを伴った動きだが、その中でふっ、と力が抜けるところがいくつか

あった。陵王乱序が終わった時と同様、力どころか〔気〕すら感じられない。瞬間的な儚

さとでも、形容するべきだろうか。

(あれ? 今のは、何……?)

 最初に気付いたのは、聖だった。陵王乱序が終わった時には全然気に留めていなかった

が、今となっては気になって仕方がない。しかし、それはすぐに影を潜め、また精悍な舞

が眼前で繰り広げられている。

 再び〔それ〕が現れた時、今度は蓉子も江利子も気付いた。今度も、現れたのはほんの

一瞬の内だった。

(何だったのかしら……今の)

 江利子も、聖と同様首をひねっていたが、

(今……恭也さんの〔存在を感じなかった〕……)

 蓉子は、背筋が寒くなるような感覚を覚えた。ステージの上で、確かに恭也は舞ってい

るのに、一瞬――そう、ほんの一瞬だけ、存在そのものが消え失せてしまった、そんな気

がしたのだ。それ以外の部分では優雅さと力強さが同居している。だからこそ印象は強く、

だからこそ異様だった。

 三度目。今度は聖も江利子も、何が起こっていたのか気付いて慄然とした。二人して、

顔を見合わせる。お互い、すぐに恭也の方に向き直ると、その舞は既に、元の雰囲気に戻

ってしまっている。

 蓉子がふと気付いて山村の横顔をちら、と見ると、何が起こったのか分からないような

表情をしている。

(きっと、先生も気付いたんだわ……)

 恭也に再び視線を戻すと、動きがだいぶん緩やかなものになっているのが分かった。す

ぐに、ステージの中央でぴたりと止まる。瞬間、恭也から発せられる〔気〕が、今度は今

までよりも圧倒的なものをもって迫ってきた。

 魁偉な龍頭の面の下で光る――ように感じられた――視線が、客席全てを睥睨している

かの如く、蓉子には思えてならない。それは、恐らく〔剣気〕と同じものとでも、呼ぶべ

きだろう。

 

 

 

 

 

 笙よりも淡く、龍笛よりもはるかにくぐもった、独特の音色が響く。篳篥である。

 さっきまで舞っていた恭也が、ここでは全く動きを見せない。奏者のみによって行われ

〔沙陀調音取〕(さだちょうのねとり)である。

 沙陀調、と呼ばれる調子そのもの――必ずしもそうだと言うわけではないが、洋楽のキ

ー、日本語で言うところの長調、短調の類だと思えば、遠からずだろう――は現存してお

らず、早くに壱越調(いちこつちょう)(洋楽のD音に近いそうな)に組み込まれた事で、今に残ったのだと

言われる。

 篳篥の後を追いかけるように龍笛、次いで笙が玄妙な音色を奏で、その間を縫うように

鞨鼓がとん、とん、間隔を置いて打たれ、あくまでも平静に曲が進行する。

 この間、恭也は全く動きを見せず、ステージの中央にただ、立っている。立っているだ

けなのだが、そこには観客が自ずと居住まいを正すような、不思議な存在感があった。

 一分にも満たないこの短い曲は、笙のひと吹きによって静かに幕を下ろす。

 

 

 

 

 

 龍笛の甲高いひと吹きと同時に、沙陀調音取の時には動きを見せなかった恭也が、再び

動き始めた。頃合いを見て鞨鼓と鉦鼓が、とん、からりと、控えめに追随する。

 当曲――要するにメインの曲である、〔蘭陵王破〕(らんりょうおうのは)が、いよいよ始まった。

 太鼓、篳篥、笙の順に楽器が相次いで加わり、合奏がゆっくりと奏でられる。それに合

わせて恭也も振りの大きな舞をゆったりと見せていく。

 足の動きも摺り足だけではなく、足を上げ下げして勇壮さをも表現する。腕の振りもま

すます伸びやかとなり、首の振り方もそれまでになく増えている。

 更に、曲のテンポが次第に上がっていく。中間部を境に、そのスピードは聴いていても

分かってきた。恭也はそれに全く遅れる事なく、しかも先走ってつんのめる事もない。

 奏者と舞人の呼吸が、まさに一致している。徐々に熱を帯び、恭也の動きもこれまで以

上に大胆なものとなった。

 太鼓もそれまでのどん、どん、という音から、だん、だん、という引き締まったものに

変わる。

 全体のテンポに合わせた恭也の動きが、舞人から剣士のそれに移行しそうになる瞬間も

あるが、微妙なところで踏み止まり、それがまた良い意味での緊張感を観客に与えていた。

 ステージの上を縦横に動き、身体全体の動きも見せつつ、雅さと勇壮さがひとつとなっ

て表現される。

 円を描くような右手の動き。そこには桴が小太刀の如く握られている。時に水平に伸ば

される左手の剣印もまた、今は小太刀そのものとして恭也はイメージしている。しかし、

舞の優美さは全く損なわれていない。

 走舞(はしりまい)(手足の動きが活発な舞を指す)の名作として知られるこの曲が、今確かに、恭也

の舞によって観客を圧倒しきったのだ。本来は二帖、即ち二度繰り返されるこの曲も、時

間の都合で一度しか行われない事になっていたが、観客の様子を見れば、二度繰り返す必

要も、まずなかったと言える。

(す、凄いよ恭ちゃん……)

(師匠……かっこいいなぁ)

(さすが、お師匠やなぁ)

(おにーちゃん、すごいすごい!)

(うーん、やっぱり桃子さん自慢の息子だわぁ)

 高町ファミリーは、もう手放しの絶賛。

(後でなのはちゃんにダビングしてもらって、ノエルやさくらにも見せてあげよう)

(はぁー……久遠にも見せてあげたかったなぁ)

 忍と那美も、恭也の舞にすっかり惹き込まれてしまっていた。

 片や三薔薇さま達だが。

(単に舞うだけなら、私にも出来るかな……でも)

 江利子は確信していた。恭也さんのあの舞の雰囲気だけは誰にも、そう、私も真似する

事なんか出来そうにない、と。

(うわぁ……ちょっと、ここまでとは思ってなかったなぁ……)

 恭也を、リリアンの学園祭に招待する事を考え付いた張本人である聖は、その実恭也の

舞を、少しばかり軽く予想していたのかもしれない。今は完全に圧倒されていた。

 蓉子はと言うと、恭也の一挙動をひたすら目で追いかけている。むしろ、ただそれだけ

に全神経を集中している風にすら見える。普段の泰然とした、全体から俯瞰するような視

点すら持っているような彼女だけを知っている人が見たら、きっと驚いた事だろう。

 山村は――ハンディカムがなるべくぶれないようにするので、手一杯だった。

 やがて、ひとしきり高潮したテンポも急速に静まり、観客を惹き込んだ恭也の舞も、そ

の勢いを減ずる。それまでとは全く対照的に、まるで沙陀調音取のような静謐さをもって

曲が締められたのだった。

 

 

 

 

 

 大太鼓と鉦鼓が打たれ、そこに龍笛と鞨鼓が加わって、速いリズムの曲が奏でられる。

舞人が退出する為の入手(いるて)の舞、〔安摩乱声〕(あまらんじょう)である。

 恭也はその速いテンポに呼吸を合わせ、いわば観客への御礼と退出の挨拶を兼ねた舞を、

滞りなくこなしていく。

 物事には、なべて始まりと終わりがあり、恭也の舞もまた、この時終わりに近付いてい

たのだ。

 舞いながら、その姿は舞台の袖に向かって少しずつ動いていく。

 たん、たん、たんたん。

 だん、だん、だん、だん。

 からり、からり、からり、からり。

 三つの打楽器が龍笛と呼応しつつ、規則的に打ち続けられた。

 恭也が袖に姿を消して鞨鼓がひとつ、たん、と強めに打たれると、一拍おいて龍笛と太

鼓、鉦鼓が締めの調子を奏でる。

 鳥の鳴き声にも似た甲高い龍笛の音が、最後にひょう、と、体育館の中を駆け抜けた。

 

 

 

 

 

 曲が終わったその時、静寂がしばし、その場を支配した。

 誰かが、それを破って拍手しようとするのを、周りが静止する光景すら見られる。龍笛

の残響が未だたゆたっているのに、無粋な拍手など誰も聞きたくはなかったのだ。

 奏者たちが一斉に身体を折り曲げて礼をするに及んで、ようやく拍手が沸き起こった。

海鳴大雅楽同好会はこの時、自分達が快心の演奏をした事を、肌身に確かなものとして実

感したのである。

 そして、舞を終えた恭也も、瞳を閉じてその達成感を感じていた。

(……ふぅ)

 大きく息を吐く。

「高町君、ご苦労様。最高の舞だったわ」

 久我が声をかけてきた。

「ありがとうございます。良い経験になりました」

「うふふ、面を着けたままだと、ちょっと怖いわよ?」

「それもそうですね」

 桴を置き、龍頭の面を外す。盛大な、未だ鳴り止まぬ拍手に送られて、奏者達も戻って

来た。互いに讃え合いながら、

(皆、いい顔になっているな……良かった)

 恭也は改めて、その実感を噛み締める。

 かくして、今年の学園祭における雅楽同好会の演奏は、成功裡の内にその幕を下ろした

のだった。








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