浮遊大陸アルビオンは南部に位置するサウスゴータ地方。そのサウスゴータの地に、ウエストウッドという名の村がある。アルビオン南部最大の都市シティオブサウスゴータと、港町ロサイスとを結ぶ街道から少しはずれた森の中に築かれた、小さな村だ。一九人いる村民のほぼ全員が、何らかの理由で親を失った子どもという、少々特殊な事情を抱えていることを除けば、いたって普通の村落だった。

 早朝。

 ウエストウッド村における村長のような立場にあるティファニアの家を目指して、一人の童女が上機嫌で道を歩いていた。

 エマ・スコフィールド。ウエストウッド村で暮らす孤児の中でも、現在最年少の少女だ。その齢、僅かに五歳。彼女が子どもたちだけの村で暮らすようになったのは三年前のことで、親を失った原因は、置き去り、だった。エマは、彼女の両親から口減らしのために捨てられたのだ。もっとも、当時二歳のエマは、そのときのことをよくは憶えていない。またティファニア達周囲の人間も、彼女が自分の境遇を真正面から受け止められるような年齢になるまではと、口を閉ざしていたから、彼女自身は、両親についての真実を知らなかった。

 エマは鼻歌混じりにスキップしながら、村長の家を目指していた。

 訪問の目的は二つ。一つは大好きなティファニアお姉ちゃんに、おはよう、の挨拶をすることだ。

 優しく、綺麗で、面倒見の良いティファニアは、ウエストウッド村で暮らす孤児たちにとって憧れの存在であり、勿論、エマも彼女のことが大好きだった。大好きなお姉ちゃんに元気いっぱい挨拶をすることは、彼女の毎朝の日課だった。

 もう一つの目的は、昨晩、ティファニアの家に泊まった、ある人物に会うことだった。

 昨日、野いちごを採りに足を運んだ森の中で、リザードマンに襲われた自分を助けてくれた赤い瞳の青年。彼は、自分と、自分のことを心配して森の中へとやって来たティファニアを村まで送り届けた後、何を考えたのか、そのまま大好きなお姉ちゃんの家に泊まってしまった。そのことに対して、兄貴分のサムはなぜか渋い顔をしていたが、エマからすれば、それはとても喜ばしいことだった。

 自分を救ってくれた青年には、なぜか自分達の言葉が通じなかった。

 彼に守られながらウエストウッド村に到着したとき、エマはとても寂しい気持ちになった。このまま感謝の気持ちも伝えられず、互いの名前さえ教え合えないまま、お別れしなければならないのかと、悲しい気持ちで胸が苦しくなった。

 だから、青年がティファニアの家に泊まるつもりだと知って、エマは喜んだ。まだ、お別れではない。明日も、彼に会えるんだ。そう知って、今度は嬉しさで胸が苦しくなってしまった。

 昨晩、エマは、明日のことを考えて、なかなか寝つくことが出来なかった。

 明日もまた会える。

 自分を助けてくれたあの人に。

 自分を救ってくれたヒーローに、会える。

 明日会ったら、まず何をしよう。どうやって自分の気持ちを伝えようか。どうすれば、感謝の気持ちを分かってもらえるだろうか……。そんなことばかりを考えて、彼女にしては珍しく、夜更かししてしまった。

 それでも早朝、鶏の鳴き声が響くと同時に目を覚ましたエマは、ウキウキ、した気持ちで、身支度を終え、家を出た。

 ――今日こそ、あの人に、ありがとう! って、伝えるんだ!

 感謝の気持ちを伝える。昨日は助けてくれてありがとう。その想いを、伝える。

 そして、

 そして、あわよくば……、

 ――わたしの名前を、知ってもらう。あの人の名前を、教えてもらう。あの人と、友達になる!

 エマは小さな胸にたくさんのドキドキと、いっぱいのワクワクと、大きな野望を抱いて、ティファニアの家へと歩いていった。

 ウエストウッド村は、子どもたちばかりが暮らす、本当に小さな村だ。

 目的のお姉ちゃんの家には、すぐ到着した。

 扉の前に立って、ノックを三回。「ティファニアお姉ちゃーん!」と、エマは自分の来訪を告げた。

 しばしの間を挟んで、扉が開く。

 するとそこには、

 そこには――――――、

 

 

 

 大好きなお姉ちゃんと、

 

 

 

 自分を助けてくれたヒーローと、

 

 

 

 そして、気を失ったイノシシの姿があった。

 それはそれは大きなイノシシだった。

 頭のあたりに、なにやらファンタスティックな形状のたんこぶが一つある。

 不意に、脳裏をよぎる、ギャグ、の文字。

 エマは、とりあえず無言で扉を閉めた。

 もう少し時間が経ってから、再度足を運ぼうと、彼女は決意した。

 

  

 

永遠のアセリアAnother × ゼロの使い魔クロスオーバー

ゼロの魔法使いとその使い魔と、ついでに現われた守護の双刃

EPISODE:49「Syun and Tiffania」

 

 

 

 結局、時間を置いて戸を開けても、ファンタスティックな光景は広がっていた。

 その日の朝食のメニューはイノシシ肉の黒胡椒焼きだった。

 村の子どもたちは朝一番にも拘らずハードな食事を前に、揃って目を白黒させていた。

 ナイフとフォークを手にジャックが、「この肉はどうしたの?」と、ティファニアに訊ねる。

 ティファニアは苦笑しながら、「彼が獲ってきてくれたのよ」と、昨日と同じように、居間のソファを占拠している赤い瞳の青年を示して言った。

 稼ぎ手というものが存在しないウエストウッド村では、肉料理はご馳走中のご馳走だ。特に、牛や豚の仲間の肉は、どんな高級料理にも勝る珍味でさえあった。ティファニアの発言を受けて、サムを除いた子どもたちの中で、青年への好感度が一ポイント上がった。なお、この場においてはどうでもいいことが、秋月瞬なる青年は基本的に子ども嫌いである。

 みんなでイノシシを美味しくいただいた後、エマは相変わらず居間のソファを独占する青年のもとへと歩み寄っていった。目的は勿論、彼に感謝の気持ちを伝えることだ。

 赤い瞳の青年は、昨日と同様ソファに腰かけ、みなの食事風景を鋭い眼差しで見つめていた。真紅の視線は食事が終わった後も食卓に注がれ続け、子どもたちの一挙一動を注視している。一刻も早くこの世界の言語を習得せねば、と考えている彼は、食後の団欒の観察に余念がなかった。

 青年の周りには、エマの他は誰もいない。子どもたちはみな彼のことを遠巻きに眺めるのみで、それ以上のアクションを起こそうとはしなかった。

 勿論、みんな興味は抱いている。ここにいるのは好奇心旺盛な年頃の子どもばかりで、自らの目で青年の持つ力の一端を見たジムなどは、あからさまに青年のことを意識していた。ティファニアと話しているときでさえ、少年の視線は、時折、ソファに座る美貌の青年へと向けられていた。

 みな、頭では大好きなお姉ちゃんと大切な妹分の恩人だと理解していた。とはいえ、やはり言葉が通じないという目には見えない壁、そして亜人かもしれないという推測が、彼らの心に楔を打っていた。

 どう接すればよいかが分からない。どこまで相手の心に踏み込んでよいかが、分からない。

 そんな中で青年に近づけるのは、明確な目的意識を持つエマだけだった。

 彼女は精一杯の勇気を振り絞って、ソファの彼に話しかける。

「あ、あの……!」

 興奮からか、あるいは緊張からか、やや上ずった声が、少女の唇から漏れた。

 声に反応して、真紅の視線がそちらを向く。

 なぜか不機嫌そうな眼差しに見つめられ、童女の肩が、びくり、と震えた。射るような眼差しを前にしぼみかける少女の勇気。しかしエマは、昨日のお礼をするんだ、と自らを奮い立たせ、視線を真っ向から受け止めた。赤い視線と、少女の動揺した視線が絡み合う。

 すると、赤い瞳の青年が意外そうな表情を浮かべた。

 どうやら自身の目つきの悪さを自覚しているらしく、エマが臆せず視線を合わせてきたことを、意外に感じているらしかった。

 一方、青年に声をかけたエマは、さてどうするべきか、と思い悩んだ。

 口を開かないうちは何も始まらないと、とりあえず声をかけた彼女だったが、僅か五歳の少女の頭の中に、具体的な作戦案はなかった。言葉の通じない相手にどうアプローチするべきか。どうすれば、自分の気持ちを相手に伝えられるか。まったく思いつかなかった。

 ただおぼろに、まずは名前を知ってもらおう、と考えていた。

 自己紹介はあらゆるコミュニケーションの基本だ。エマはしっかりと相手の目を見据えながら言う。

「ええと……わ、わたしの名前は、エマ・スコフィールドです!」

 か細い、自信なさげな声が居間にむなしく響いた。

 口を閉ざし、しばらく相手の反応を窺う。

 はたして、目立ったリアクションはなかった。

 青年は眉間に皺をよせ、怪訝な顔をするばかりで、エマの意図が伝わった様子はない。

 ――ダメだ。もっとシンプルじゃなきゃ、伝わらない。

 言葉の通じない赤い瞳の青年に、自分の名前を知ってもらうためには、無駄な装飾を一切剥ぎ取った、シンプルな言葉でなければ駄目だ。

 エマはもう一度、今度は人差し指で自らを示しながら、「エマ、エマ」と、自分の名前を何度も呟いた。何度も。何度も。目の前の彼が、自分の意図するところを理解してくれるまで。

「……エマ? ラスト、ラーリク、ニィクウ、セィン、エノウィ、ヤァ、コスカ? (……エマ? それが、お前の名前か?)

 やがて、青年の、形の整った唇から、呟きが漏れた。

 青年が何を言っているのか、相変わらずエマには分からなかった。ただ、自分の名前だけは、聞き取ることが出来た。

 青年の言葉に、何度もうなずくエマ。

 言葉の通じない相手に、自分の意思を伝えることが出来た。そのためか、童女の表情は晴れやかだった。

 赤い瞳の青年は、しばらく考え込むようなそぶりを見せ、やがて決然と頷き、自らを指差して小さく呟いた。

「……シュン」

 これまでとは打って変わった、短い呟き。エマの表情が、もしや、という期待に綻んだ。

「シュン……? それが、お兄ちゃんの名前?」

 青年を指差しながら問いかける。

 銀糸とまごう見事な白い前髪の奥で、赤い双眸が少女の顔と指とを交互に見比べた。小鹿のように大振りの瞳が、期待に輝いているのが見て取れる。青年は相変わらずの不機嫌そうな表情で、「キス(ああ)」と呟き、頷いた。青年の首肯を見て、エマの表情が、満開のひまわりのように輝いた。

 そのとき、ガタンッ、と椅子の足が床を叩く大きな音が背後から聞こえてきた。

 振り返ると、椅子から立ち上がったサムが、険しい表情でこちらを睨んでいた。射るような眼差しは、シュンを名乗った赤い瞳の青年に注がれている。普段は優しい兄貴分が浮かべる、あまり見たことのない恐ろしげな表情に、エマの小さな体が、びくり、と震えた。

 サムは無言でソファに近づくと、ずい、とエマと青年の間に、強引に身を割り込ませた。

 妹分の少女をかばうかのごとく背後に控えさせると、歯を剥き出しにした好戦的な表情を浮かべ、ソファに座る青年を見下ろす。

 対する赤い眼差しは、エマを見つめるときと同様、険を帯びていた。

「サミュエル・ウェッソンだ!」

 まだ完全に声変わりの終わりきっていないの少年の、高いとも低いとも形容出来ない声が響いた。

 やや怒気を帯びた声音に、事の成り行きを見守っていたみなの顔が強張る。

 サムは、自身の行いがみなを不安にさせていると自覚しつつも、どうしてもこれだけは言っておかねば、と青年に向けて口を開いた。

「どうせ伝わらないだろうけど、一応、言っておくぜ? 姉さんやエマを助けてくれたことは感謝している。けど、それとお前を信用するかどうかは別問題だ。姉さんやエマに……俺の家族に、ちょっとでも変なことをしてみろ? その時は俺が、お前をぶっ殺してやる!」

 脅し文句の最後の方は、ドスを孕んだ凄絶な声音で締め括られた。

 少年の瞳に浮かぶ、昏い殺気と焦燥の色。サムは、エマと青年とのやりとりを眺めているうちに、不安にかられたのだった。

 妹分の少女が、目の前の青年を慕っているのは誰の目にも明らかだった。

 おそらく、自分と、大好きなティファニアお姉ちゃんを救ってくれた彼に、古い童話に登場する英雄の姿を重ねて神聖視しているのだろう。エマの大好きなお話だ。悪いメイジに呪いをかけられたお姫さまを助ける、王子様の物語。その証拠に、青年を見つめる少女の眼差しはどこか熱っぽく、まるで恋をしているかのような印象をサムに与えた。幼い少女が抱いた思慕の気持ちを、兄貴分の少年は微笑ましく思った。

 しかし一方で、サムは同時に、危機感を覚えていた。

 目の前の青年は、童話に登場する王子様などではない。それどころか正体不明の、もしかすると人間を餌とする種類の、亜人かもしれない存在なのだ。

 エマが青年との心の距離を詰めようとすればするほど、青年がエマの思いに応えれば応えるほど、サムの不安は増大していった。

 ――こいつの正体が分からないうちは、エマを近づけさせるのは危険だ。

 かといって、妹分の少女に直接、「あいつには近づくな」と、言うのは憚られた。

 エマはまだ五歳の童女。危険だから、ではなく、危険かもしれない、という理屈を理解してくれるとは限らない。

 それよりは、と目の前の青年に釘を打っておいた方がはるかに効果的だろう、とサムは考えた。また、同じ「近づくな」という意思を伝えるにしても、見ず知らずの青年相手の方が気が楽、というのも、彼を脅迫した理由の一つだった。

 サムは内心感じている危機感を気取られまいと、努めて威圧的な態度を取った。

 幼い頃より、大人たちの汚い謀略に翻弄されてきた少年であればこそ発せられる、飢えた獣のような剣呑な眼光をもって、目の前の青年を睨みつける。サムの背後に立つエマが、周りのみなが、少年の発する殺気に当てられて、思わず息を呑んだ。

 他方、シュンを名乗る青年は、殺気漲る眼差しを平然と受け止めていた。

 表情を一切変えることなく、無言でサムのことを見上げ続けている。

 あまりにも変化に乏しい反応に、脅し文句を口にした張本人は思わず訝しんだ。

 単に言葉の意味を解さないから、かくも鈍感でいられるのか。いや、言葉の意味は分からずとも、語気に宿る不信感や殺気は彼にも伝わっているはずだ。にも拘らず、いったいなぜ……?

 サムは、目の前の青年をしげしげと観察し、やがて真紅の眼差しに宿る感情を見取って、顔を紅潮させた。

 自分を見上げる、青年の眼差し。赤い視線に宿る、嘲りの感情。お前の脅しなんて恐ろしくもなんともない。その程度の脅迫で、自分の行動を制限出来ると、本気で思っているのか?

 舐められている、と思った。

 侮られている、と確信した。

 サムは憤怒の感情も露わに眦を吊り上げ、青年を睨みつけた。

 対する青年は、今度はあからさまな侮蔑の笑みを浮かべてサムを見つめ返した。

 その嗤いが、サムの自尊心をさらに傷つけた。

 背後に立つエマは、おろおろ、と二人の顔を交互に見比べるばかりで、何も出来ないでいる。

 他方、食卓から彼らのやりとりを眺めていたティファニアは、思わず頭を抱えてしまった。

 自分達を助けてくれた恩人の彼が、今後もこの村に居座り続けるとして。また、弟分のサムが今後も彼を敵視し続けるとして。

 はたして、自分達は上手くやっていけるだろうか。

 いつか、二人が和解する日がくるのだろうか。

 ティファニアは重苦しい溜め息をついた。

 

 

 

 

 時間は、瞬が異世界にやって来る一ヶ月前まで遡る。

 アルビオン大陸の覇権を巡る貴族派と王党派の争いは、いよいよ最終局面を迎えようとしていた。

 すなわち、レキシトンの会戦以後、連勝を重ねる貴族派が、とうとう王党派を大陸北東部のニューカッスル城に追い込んだのである。

 アルビオン大陸の覇権を巡る貴族派と王党派の戦いは、全般にわたって、貴族派が王党派の戦力を駆逐し、その勢力圏を拡大していく形で推移していた。

 内戦状態に突入してから二ヶ月後に勃発したレキシトンの会戦での敗北以来、王党派は貴族派に終始押されっぱなしで、急速に領地を失っていった。会戦の勝利の結果、それまで日和見をしていた有力諸侯の多くが貴族派につき、逆に王党派からは離脱する貴族が相次いだためだ。このため、王党派は各地で数倍の兵力を有する敵軍との戦闘を強いられ、徐々に追いつめられていった。

 ところで、今次内戦における主要な戦闘のほとんどは、大陸中央部より以北で行われた。これは、アルビオンの政治中枢たる王都ロンディニウムが、大陸の南部に位置していたことによる。内戦の始め、会戦勝利の余勢を駆って早々に王都を制圧した貴族派は、戦後もこの地を政治拠点として利用したい思惑から、以降南部を戦場にしないように戦線を構築していった。また王党派も、国民と国土を疲弊させる南部への戦線拡大は望むところではなく、両者の思惑が一致した結果、サウスゴータを始めとする大陸南部は、大きな戦禍から免れていた。

 しかしそれも、王党派がニューカッスル城に追いつめられるにいたって、状況が変わる。

 先述したように、王都が早々と陥落したことにより、大陸南部ではこれまで大きな戦闘が起こらなかった。

 このことは、もともと南部の地方に配置されていた部隊の多くは、いまだ健在であることを意味していた。

 王都陥落以降、王党派は北へ北へと追いつめられていった。この動きに追従出来ず、主力と合流出来なかった王党派の部隊が、南部にはまだ相当数残っていた。一個々々は数百人程度の、小規模な部隊だ。しかし、全部隊を合計した兵力は六〇〇〇にも達していた。

 当然、貴族派はこの兵力を脅威と見なし、警戒していたが、総司令官オリヴァー・クロムウェルが下した命令は、監視に留まった。

 命令の背景には、南部を戦場にしたくないというクロムウェルの思惑があった。また、南部に残存する王党派戦力を、司令本部が過少に見積もっていた、という理由もあった。南部に残存する六〇〇〇の兵力を、参謀たちは半分どころか三分一の二〇〇〇程度だろう、と推測していた。脅威には違いないが、二〇〇〇程度では貴族派優勢の戦況を覆すことは出来まい、というのが参謀らの見解だった。

 しかし、総司令部の見解を裏切るかのように、南部残存兵力は行動を開始する。

 王党派本隊の窮地を知った彼らは、本隊を援護するべく南部に新たな戦線を構築。敵の目と攻撃をそちらに吸引し、ニューカッスル城で籠城中の本隊に、反撃の機会を与える、という作戦を練った。

 伝え聞くところによれば、ニューカッスル城を包囲している貴族派の軍勢は約一〇万。話半分としても、兵力五万の大軍だ。他方、籠城中の王党派本隊は、非戦闘員も含めて約四〇〇〇程度だという。南部方面の六〇〇〇を含めても五倍以上の兵力差だが、戦術次第では、絶対に覆せない差ではない。作戦を実行する価値は、十分あった。

 また、内戦勃発以来大きな戦闘を経験していない南部の部隊は、武器・弾薬・兵糧といった、軍隊の継戦能力に関係する物資の消耗が最小限で済んでいた。新たな戦線の構築とその維持を可能とするのに、十分な量だ。作戦の実行は、不可能ではなかった。

 かくして、作戦は実行に移された。

 南部残存兵力六〇〇〇を取りまとめるのは、残存戦力中最上級の爵位を持つアンドーヴァー侯爵、四四歳。王都ロンディニウムより南西に位置するアンドーヴァーの地を所領とする貴族で、内戦当初は連隊規模の部隊を率いていた。

 新たな戦線を構築するということは、敵軍との間にはある程度の規模の戦闘が生じなければならず、なおかつそれに勝利しなければならない、ということだ。戦う敵は、弱すぎても、強すぎてもいけない。侯爵は大陸の南部全域を概観した地図と二日間向き合い、適当な相手を探した。

 地図との睨み合いを始めて三日目の朝、彼は手持ちの兵力すべてを率いて、貴族派の砦の一つ・アルレスフォード城を目指した。南部では王都に次ぐ大都市・シティオブサウスゴータより、北東六〇キロメートルほどの地点に築かれた城砦だ。内戦勃発後に貴族派によって築かれた城で、常駐している兵士の人数は約一五〇〇。その主任務は、王党派の残存兵力の監視だった。

 アンドーヴァー侯爵は、まずアルレスフォード城を制圧し、以後はここを拠点に南部全域へと戦線を拡大、本隊の支援を目論んだ。

 アルレスフォード城は先述した通り、開戦後に造られた、急場造りの小さな城砦だ。また、守備隊の兵力も一五〇〇と少なく、新戦線構築のための生贄には相応しい敵と、侯爵の目には映じた。

 この時点で、アンドーヴァー侯爵は誤算を二つ重ねていた。

 一つは、ニューカッスル城で籠城中の本隊の兵力を過大に見積もってしまったことだ。実際には四〇〇〇どころか三〇〇程度でしかない、という事実を知っていたら、侯爵も作戦の実行を躊躇していただろう。三〇〇対五万では、南部で新しく戦線を構築しようが何をしようが、滅びの瞬間が先延ばしにされるだけで、いずれ敗北するのは明らかだ。侯爵らの作戦は、本隊にまだある程度の戦力が残っていればこそ、実行する価値のある作戦だった。

 もう一つの誤算は、アルレスフォード城の防御力を過小評価していたことだった。

 三度繰り返すが、アルレスフォード城は開戦後に築城された、急造の城だ。一般に城というものは、時間と予算をかければかけるほど、軍事拠点としての防衛力は高くなる。急造のアルレスフォード城の防御力の低さは、築城した貴族派が誰より理解していた。

 そこで貴族派は、城の防御力を補うべく、アルレスフォード城に大量の火砲を持ち込んだ。有効射程三〇〇〇メートル前後の重砲一八門と、一〇〇〇メートル前後の小口径カノン砲が六〇門。計七八門の火力をもって、攻めくる敵を寄せつけない作戦だった。

 勿論、アンドーヴァー侯爵も敵城に火砲が配備されていることは予想していた。しかし、城の規模から考えて、せいぜい小口径カノン砲が数門程度だろうと楽観視していた。だが真実は、城の規模ゆえに多数の砲を配備している、というものだった。

 この二つの誤算が、後の攻城戦の結果に大きく影響する。

 瞬が異世界に召喚されるちょうど二週間前、アンドーヴァー侯爵率いる六〇〇〇からの兵力が、アルレスフォード城へと攻撃を開始した。

 戦術はいたってシンプルで、砲兵部隊による支援砲撃の後、歩兵部隊が突撃し、これを落とす、というものだ。アンドーヴァー隊はこの作戦に、温存していた重砲六門と軽カノン砲二〇門を投入していた。

 攻撃開始前、アンドーヴァー侯爵は部下達の前で、「アルレスフォード如き城は木剣で十分。三日間で落城せしめてみせる!」と、豪語した。

 はたして、侯爵が自信満々で挑んだ攻城戦は、初日から苦戦を強いられた。

 アンドーヴァー隊は城の西側に広がる平野に布陣すると、早速砲兵陣地を構築。重砲の設置を終えると、三〇〇〇メートルの距離で、砲列は一斉に火を噴いた。

 砲口から叩き出された六発の石弾は、放物線を描きつつ空を引き裂いた。ひゅるひゅるひゅる、という音を纏いながら、次々着弾する。最初の斉射では、命中弾は一発もなかった。すぐさま、次弾装填の準備が開始される。

 敵城からいくつもの砲声が轟然と鳴り響いたのは、その直後のことだった。敵重砲部隊による、猛烈な反撃。炸裂する砲弾の量から推測するに、敵の保有する重砲の数は自軍のおよそ三倍と目された。アンドーヴァー侯爵は、自分達が敵の火力を過小に見積もっていたことを悟った。

 ハルケギニアの砲兵部隊は砲自体の性能が低く、また照準の技術が確立されていないことから、総じて命中精度が低い。そのため、砲撃は基本的に、下手な鉄砲も数を撃てば当たる、というスタイルにならざるをえない。砲数の差が、そのまま火力の優劣となった。敵はわが方の三倍の確率で、命中弾を叩き込んできた。砲撃開始から僅か二時間で、六門中の二門が使用不能となる。

 ――重砲砲列では敵を圧倒することは出来ない!

 アンドーヴァー侯爵は軽カノン砲を装備する砲兵部隊と、直衛の歩兵部隊に迂回しながらの前進を命令した。重砲と比べて威力と射程の劣る軽カノン砲だが、機動力と発射速度では重砲に大きく勝っている。敵城への接近さえ出来れば、その発射速度をもって、敵の重砲を圧倒出来るはずだった。

 アンドーヴァー隊は残る四門の重砲による砲撃を陽動とし、軽カノン砲部隊と直衛の歩兵部隊を、右翼側より進発させた。彼らは戦場を大きく右回りに迂回しながら、アルレスフォード城への接近を図った。

 そんなアンドーヴァー隊の動きを、アルレスフォード城守備隊は正確に把握していた。

 彼らは重砲砲列の陽動にも惑わされることなく、迂回部隊の接近を察知。六〇門ある軽カノン砲のすべてを迂回部隊の迎撃に集中した。敵部隊を軽カノン砲の間合いの内に捉えるや否や、猛烈な砲火を浴びせかける。この砲撃により、砲兵部隊は身動きが取れなくなってしまった。

 ならばある程度の損害は覚悟の上と、正面から歩兵の突撃を試みるも、重砲の火力に阻まれて、三〇〇〇メートルの間合いを思うように詰められない。運よく城壁近くまで辿り着いたとしても、銃眼からの銃撃によってことごとく撃退されていった。

 この時点で、アンドーヴァー侯爵は、もはや力押しによる城の早期陥落は不可能と判断。攻城戦術を、長期戦覚悟の包囲戦へと切り替えた。

 侯爵が公約として掲げた三日はあっという間に過ぎていった。

 やがて攻撃開始から一週間目の夜、斥候として放った兵士が、城の北東方面で一万を超える敵兵の姿を確認した、と報告してきた。アンドーヴァー侯爵が心待ちにし、また恐れてもいた、敵の援軍だった。

 改めて述べるが、侯爵が南部に新たな戦線を設けようとしたのは、ニューカッスルで籠城中の王党派本隊を援護するためである。

 アルセスフォード城に万単位の援軍が来たということは、それだけニューカッスルへの圧力が弱まった証であり、本来ならばそれは歓迎されるべき事態だった。

 とはいえ、強気の権化のようなアンドーヴァー侯爵も、敵軍増援との戦闘はアルレスフォード城を落としてから、と考えていた。城を陥落させぬうちに増援部隊を相手取れば、ほぼ確実に挟撃を受けることになる。いかな六〇〇〇の兵力も、守備隊と増援部隊とから挟み撃ちを受ければひとたまりもなかった。

 はたして、戦況は侯爵が予想していた最悪へと突き進む。

 城からは砲撃に曝され、正面からは一万を超す兵力に圧迫され、アンドーヴァー隊は徐々に追いつめられていった。

 やがて死傷者の数が三〇〇〇を超えた時点で隊は敗走。撤退戦の最中に侯爵は行方不明となり、統制を失った部隊は散り散り潰走していった。かくして、アンドーヴァー隊は下り坂を転がるかのような勢いで壊滅した。

 貴族派による残敵掃討と、逃亡した部隊への追撃は執拗だった。上級の指揮官やメイジの首級は一つ一つが論功の対象となるし、首自体にはあまり価値のない平民の兵士も、大量の捕虜を獲得出来れば功績と見なされる。それだけに、より多くの戦果を挙げんとする追撃部隊の士気は旺盛だった。

 彼らは兵力の優越を最大限に活かし、人海戦術をもって、東西南北に散ったアンドーヴァー隊の生き残りを捜索した。

 

 

 

 

 時間は戻って、秋月瞬が異世界へとジャンプした翌日の正午前――――――。

 ウエストウッドの森の中を、ひとりの男が駆けていた。

 アルビオン王国軍が制式とする軍服に身を包んだ、若い男だ。一六〇センチとない身の丈に反して肩幅は広く、身体の輪郭線はがっしりとした体格を演出している。額では玉のような汗がいくつも噴き出し、一歩を踏み出す度に垂れて、細面を濡らしていた。

 身に纏う麻の布地は、袖と裾が擦り切れ、所々ほつれ、なにより戦場の塵埃にまみれて、濃く汚れていた。腰帯には、フリント・ロック式の拳銃が一挺だけ差されている。

 前へ前へと一散に駆ける彼は、後ろこそ振り返らなかったが、明らかに、追われる者の姿だった。

 すでにどれほどの距離を走破したのか。時折吹く風と、虫のさえずりだけが喧騒を生み出す静寂の世界を、荒い息遣いが掻き乱した。

 リチャード・ボング、二一歳。

 アルビオン王国軍はアンドーヴァー隊に所属していた、若い砲兵だった。アルレスフォード城を巡る戦いでは重砲大隊の一員として参戦し、砲弾の運搬や装填などの作業で活躍。しかし戦いの後は、原隊のみなとはぐれてしまい、ひとり追っ手をかわしながら、この地まで逃げてきたのだった。ボング砲兵はシティオブサウスゴータより南南東に位置するファーントーンの出身だった。戦いに敗れた彼は、一路故郷を目指して逃走を続けていた。ボングは農家の三男坊。しかし、三歳年上の長兄は病弱で、次兄は流行り病に罹りすでに逝去している。後継ぎがいるとはいえ、家族のことを想えばなんとしても帰郷せねばならなかった。

 ボングに差し向けられた追っ手は歩兵一個大隊(約四〇〇人)。三個中隊からなる部隊で、一個中隊は小銃小隊二個と、直衛のパイク兵小隊一個から構成されている。残敵掃討を任された部隊の一つで、彼らは主に南東方面へと逃げた敵を追っていた。彼らが南東方面へと差し向けられた理由はいたって単純で、大隊を構成する隊員の多くが、この地方の出身者だったことによった。

 大隊がボングを補足したのは、追撃命令が下ってから二日後のことだった。

 彼らは敵が一人だからといって、決してを油断しなかった。

 大隊はあの手この手を使って、ボング砲兵を追いつめようと企んだ。

 またボングの方も、不屈の精神力をもって追撃部隊の罠をなんとかかわし続けた。

 そして貴族派による追撃戦が始まってから五日目のこの日、故郷への帰還を目指すボングは、危険は承知の上で、逃走経路にウエストウッドの森を選んだ。

 これまでの追撃部隊の動きから、ボングは、敵は土地勘を持った人間に違いないと判じていた。ウエストウッドの森の一部がリザードマンの縄張りとなっていることは、地元民の間では有名な話だ。敵も、この森の中までは追ってくるまい、と彼は踏んでいた。トカゲ頭の亜人達の縄張りを侵した人間がどうなるかは、敵とて重々承知しているはずだった。

 また、仮に追ってきたとしても、そのときはリザードマン達が連中の相手をしてくれるだろう。

 縄張りを侵した侵入者という点では、自分も連中と変わりないが、なんといってもこちらは一人。敵は、大隊規模の部隊だ。リザードマン達にとって、最優先で叩くべき敵がどちらかは明らかだった。

 ウエストウッドの森の中へと足を踏み入れたボングは、敵大隊をぎりぎりまで引きつけ、彼らの目の前で、リザードマンの縄張りへと侵入してみせた。

 さあ、どうだ。追ってこれるものなら、ここまで来てみろ。

 挑発の意思を背中に貼り付けて、ボングは森の奥へ奥へと進んでいった。

 追撃部隊は、彼の後ろ姿を悔しげに見送るしか出来なかった。

 ボング砲兵がリザードマン達の縄張りに侵入してから、十分ほどが経っていた。

 道なき道を疾走する彼は、不気味なほど静かな森の様子に違和感を感じていた。

 おかしい。亜人達の生活圏に足を踏み入れてから、もうそれなりの時間が経つというのに、いまだ一匹のリザードマンも見かけない。数多いる亜人種の中でも、縄張りを侵されることに対して特に敏感なのが彼らなのに……これはいったい、どういうことなのか。

 ――この森のリザードマンが縄張りを変えたなんて話は、聞いていないが……。

 縄張り意識の高さで知られるリザードマンだが、その一方で、土地そのものに対してはあまり執着しないことでも知られている。狩猟や採集といった手段で日々の糧を得ている彼らは遊牧民と同じで、特定の一箇所にこだわることをしない。餌となる動物や植物が少なくなれば別の土地へと移り住み、そこでまた新たな縄張りを形成する。それが、長年の研究で明らかとなったリザードマン達の生態だった。

 リザードマン達が縄張りを変更するのは、そう珍しいことではない。

 しかし、なんといってもウエストウッドの森に生息するリザードマンの個体数は二〇〇体超だ。それほどの規模の集団が移動して、人目につかないはずがない。そしてその話が、地元民の自分の耳に入ってこないというのは納得出来なかった。

 かといって、この森のリザードマン達が討伐されたという話も聞かない。

 そもそも、内戦状態にあるいまのアルビオンに、亜人種討伐のために軍隊を派遣する余裕はない。王党派も、貴族派も、いまがいちばんの正念場なのだ。他事に割ける余力は、どちらの勢力にもないはずだった。

 理由はなんであれ、いまこの森の中に、リザードマンが一匹もいないというのは大問題だ。

 なにせこっちは、彼らの存在を期待して、危険を承知でここまでやって来たのだ。

 追撃部隊が自分の背中を見送るしか出来なかったのも、リザードマンの脅威を警戒してのこと。亜人達にはこの森にいてもらわねば、自分が困ってしまう。己の作戦が、根底から覆ってしまう。

 貴族派の連中も、森の異変にはほどなくして気づくだろう。そうなれば大隊による追撃が再開されるのは火を見るより明らか。

 それまでに、少しでも敵との距離を稼いでおかねば。

 ボング砲兵は懸命に足を動かして、静かなる森林世界を疾駆した。

 目指す針路は南南東。彼の故郷・ファーントーンのある方角であり、奇しくも、ウエストウッド村の所在する方向だった。

 

 

 

 

 村民たる子ども達全員が一度に食事を摂る習慣のあるウエストウッド村では、調理は勿論、食後の後始末にも相応の時間を必要とする。

 特に時間がかかる作業が洗い物で、十数人分の食器や調理器具を洗浄する手間もさることながら、水場まで何度も往復せねばならないことが、なによりたいへんだった。

 シティオブサウスゴータなどの大都市と違い、ウエストウッド村では、用水路を始めとする各種の水道設備がまったく整備がされていなかった。そのため、生活用水の大部分は雨水か、村に一つだけ設けられた小さな井戸に頼っていた。この井戸は村のほぼ中央に設置されており、ティファニアの家からは三〇メートルほどの距離にあった。

 直接井戸の側で洗うにしろ、水を汲んできて家の中で行うにせよ、量が量だ。たかだか三〇メートルとはいえ、重い荷物を持って何度も往復するというのは、なかなかの重労働だった。

 子ども達に手伝ってもらいながら、なんとか十数人分の洗い物を終えたティファニアは、ふと空を見やった。

 浮遊大陸の上空でも弧を描く太陽は、早くも自分達の頭上へと差しかかろうとしていた。

 朝食の後始末が終わったと思ったら、もうお昼か……。

 時間の流れの速さを感じたティファニアは、思わず苦笑した。

 いまの自分の思考は、まるでおばあちゃんのそれではないか。

 いくら幼い子どもたちの面倒を見ているとはいえ、老成するにはまだ早すぎるだろう。

 洗い物を終えたティファニアが自宅の居間に戻ると、そこでは赤い瞳の青年が相変わらずソファを占拠……して、いなかった。

 エマに対して『シュン』を名乗った青年は、食卓の椅子を窓辺へと寄せて腰かけていた。正午前の燦々とした日差しに照らされて、銀糸とまごう白髪がいっそう艶やかに輝いている。まるで日向ぼっこをしている猫のようだ、とティファニアは思った。

 ルビー色の眼差しは、窓の外へと向けられている。

 いったい何を見ているのだろう、と思い、ティファニアは後ろから近づいてみた。

 青年の視線の先では、サムが薪割りをしていた。

 樫の木で作った台座の上に薪を立て、鉈を振り下ろして割っている。村の仕事の中でも、薪割りなど比較的腕力のいる仕事は、男の子で年長の彼の担当だった。

 亜人の彼の目には、薪割りという人間の営みが珍しく映るのだろうか。

 ティファニアはそんなことを考えながら、青年の横顔を見つめた。

「……下手な振り方だな」

 不意に、形の整った唇が開いた。

 耳朶を打つ馴染みのある発音に、ティファニアの顔に、驚きの表情が浮かぶ。

 シュンはそれに構うことなく、薪割りをするサムを眺めながら続けた。

「あんな力任せの振り抜いて……見るにたえない。鉈の重心バランスを活かした、もっとスマートなやり方があるだろうに。馬鹿の振り方だ、あれは」

「シュン、あなた……」

 驚愕から、声が震えてしまった。

 そこから先を、思うように言葉にすることが出来ない。

 彼の言葉が、理解出来る。

 彼が何を言っているのか、理解出来る!

 それも当然のことだ。彼が口にしたのは、自分やエマが普段使っている――――――、

「……なるほど。その様子では、どうやらいまの文法で通じたようだな」

「シュン、あなた、いま、統一言語を……」

 窓の外を見やったまま呟いた青年の発言を受けて、ティファニアはようやく言の葉を口に出来た。

 シュンは薪割りの様子を眺めながら続けた。

「先に言っておくが、勘違いをするな? 普通に喋れていたものを、いままで隠していたんじゃない。ついさっきまで、僕はお前達の言葉を、半分も理解出来ていなかった」 

 シュンはそこでようやくティファニアを振り返った。すらりと長い両脚を組み、右手で頬杖をつくという不躾な姿勢で、彼女を見上げる。

「昨日今日と、お前達を観察し続けて、やっと、お前達が何を言っているのか、分かるようになってきた。お前達の使っている言語を、まだ少しだけだが、僕も使えるようになった」

「観察?」

「そうだ。昨日、初めて出会った時から、僕はお前達をずっと観察していた。お前達がいつ、どこで、どんな状況で、どういった言葉を話すのか。その時の表情、仕草、相手の反応……。そのすべてを、僕は観察していた。観察することで、この世界の言語を学ぼうとした。……さすがの僕も苦労したよ。まったく未知の言語を、一から学ぶというのは」

 再度驚愕が、ティファニアの頭を打ちのめした。

 亜人が人間の言葉に興味を抱くなんて事例は聞いたことがないし、彼が人間ならば、統一言語をわざわざ一から学ぶ必要はない。なにより、この世界という言い回しは、いったい……?

「この世界の言語を学ぶって……シュン、あなた、本当にいったい……」

 「何者なの?」と、続けようとした。

 しかし、彼女の言葉を遮って、シュンは話題を、自らの望む方向へと強引にすり変えた。

「僕がこの世界の言語を学んだ理由は、第一に情報を得るためだ。……ティファニア、だったな?」

 ……気のせいだろうか。

 自分の名前を確認するとき、彼の視線が、いっそう鋭さを増したような気がしたが。

 ティファニアは怪訝に思いながらも、問いに対して首肯した。すると青年は、真紅の双眸に禍々しい活力を漲らせて、ティファニアを睨んだ。

「人を探している。さくら……いや、リュウヤ、という名前に、聞き覚えはないか?」

 耳慣れない発音だった。少なくとも、自分の周りにそんな名前の人間はいない。

 ティファニアはかぶりを振ってから、シュンに問いかける。

「知らないわ。……その、リュウヤって人は、あなたにとって大切な人なの?」

「……ああ」

 シュンは肩を落とし、ひどく落胆した様子で頷いた。怜悧なる美貌には、深い懊悩の色が窺える。なぜか、胸の奥が鈍く疼いた。彼の、そんな暗い顔は、見たくない、と思った。

「僕の、大切な親友だ。ある日突然、姿を消してしまった」

 シュンは悲壮な面持ちで、呻くように呟いた。

 言の葉を紡ぐことが。

 言葉にして、その事実を認めてしまうことが。

 恐くて、辛くて、たまらなく、嫌そうだった。

「僕は、あいつを探すために、この世界へやって来た」

 また、この世界。

 “この村”や“この国”ではなく、“この世界”という言い回し。

 それは、まるで自分が空間や時間を越えて、はるか天上世界からやって来たかのような口ぶりだった。

 脳裏をよぎったそんな突拍子もない考えに、しかし、ティファニアは、ありえるかもしれない、と真剣に思った。青年がはるか天上世界からの来訪者だとすれば、これまで彼に対して感じた数々の違和感についても得心がいく。言葉が通じなかったことも、人智を超越したあの強大な力も、納得出来る。

 はたして、目の前の彼は人間なのか、それとも亜人なのか。あるいは、人間でも、亜人でもない、まったく別な存在なのか。

 再度どういうことか問いただそうとしたティファニアの言葉は、しかし、声には出されなかった。

 美貌の少女が口を開くより早く、二人の耳膜を、黄色い悲鳴が激しく叩いた。

 ティファニアにとっては慣れ親しんだ、そしてシュンにとっては馴染みの薄い少年の声。

 ジャックの悲鳴だった。

 

 

 

 

 少年の悲鳴は、村のはずれの方から聞こえてきた。

 驚いたティファニアが声のした場所に駆けつけると、そこにはジャック以外にも、数人の人だかりが出来ていた。輪の中には、先ほどまで薪割りをしていたサムの姿もある。どうやらみんな、兄弟の悲鳴を聞いて駆けつけた様子だった。

 ティファニアの隣に、シュンを名乗る青年の姿はなかった。彼は悲鳴を耳にしても特に興味を示さず、僕には関係のないことだ、と彼女の自宅に留まった。

 輪の中心では、一人の男がうつ伏せに倒れていた。ぼろぼろの軍服を身に纏った、いかにも落ち武者といった風体の若い男だ。広い背中には赤黒い染みが滲み、手にはハンマーの降り切ったフリント・ロック拳銃が握られている。銃口には不完全燃焼した黒色火薬が付着しており、直前まで彼が銃撃戦の只中に身を置いていたことを推察させた。

 息は、まだあった。荒々しく乱れた、不規則な呼吸。まさに青色吐息といった様子で、血の気の引いた顔は、土気色に彩られていた。意識はあるようだが、双眸は、静かに閉じられている。

「ジャック、こいつ、どうしたんだ?」

 いまだ鉈を手にしたサムが、第一発見者のジャックに訊ねた。

「分からない。森から出てきたと思ったら、目の前で突然倒れちゃったんだ」

「銃声は?」

 サムは再度ジャックに訊ねた。彼としては目の前の男がどこの誰で、なぜこの場所にいるのかということよりも、彼が何と戦っていたのかの方が気になった。場合によってはその敵が、ウエストウッド村に危害を加えるかもしれないのだ。

 はたして敵は獣か、人か。人間だとすれば、いったい何人いるのか。

 もし、ジャックが複数の銃声を聞いていたとすれば、当然、相手も複数人の可能性が高いが。

「一発もしなかったと思う。たぶん」

 ジャックの返答に、サムは難しい表情を浮かべた。

 銃声が一発も聞こえなかったということは、男が最後に銃を撃ったのは、相当離れた場所でのことと考えられる。これでは、敵がどんな存在で、いったい何人いるのかを推測することが出来ない。

 ジャックから得られる情報には限界がある。

 あとのことは、本人から直接聞かねばなるまい。

 サムは鉈を持ったまま男に近づくと、その場にしゃがみこんだ。

 頬を刺す日差しの変化を感じたか、男の瞼が、ピクリ、と動く。そおっと、瞼が開くのを見て、これは起こす手間がはぶけたと、サムは内心ほくそ笑んだ。

「おい、あんた……俺が見えるか? 俺の声が聞こえるか?」

 サムは相手の頬を叩きながら訊ねた。

 戦場で視力を失う者は昔から後を絶たないが、黒色火薬が戦闘に用いられるようになって以来、戦傷者の中には砲声などで鼓膜をやられる者が続出していた。サムにはまず、相手の五感が生きているか確かめる必要があった。

「……ああ」

 ヒューヒュー、と危険な呼吸とともに吐き出された、かすれた声。早く医者――それも水の治療魔法を得意とするメイジの医者――に診せなければ、危険だとサムは思った。

「見えるし、聞こえている。……奴らは、まだ来てないのか?」

「奴ら?」

「俺を追っていた連中だ。貴族派の、一個大隊……!」

 その一言に、周りが騒然となった。

 貴族派に追われていたって? それじゃあ、この男は……。表情を硬化させたサムは、おそるおそる訊ねる。

「あんた、王党派の軍人か?」

「そう、だ。……俺のいた部隊は、奴らとの戦いに負けた。俺は、奴らの敗残兵狩りから逃げていたんだ」

「なぜ、この村に?」

「偶然だ。本当だ。この村に向かっていたという認識はなかった。この森に、村があることさえ知らなかった。俺はただ、この辺り縄張りにしているリザードマンを逃亡の手助けに利用しようとして、この森に逃げてきたんだ。……だが、肝心のリザードマンが、森にいなくて……」

「敵に追いつかれた、ってわけだ」

「ああ。肩に二発、喰らっちまった」

 リザードマンの名を聞いて、ティファニアやエマといった一部の人間が、びくり、と肩を震わせた。目の前の軍人が頼みにしていた亜人種達がどうして森の中から消えてしまったのか、その理由を知る彼女らは揃って動揺した表情を浮かべた。

「……なあ、ボウズ」

 傷ついた軍人はサムの左腕を掴んだ。震えた掌。振り払おうと思えば、子どものサムでもそう出来てしまうほど弱々しい握力だった。

「頼みがある。体を起こすのを、手伝ってくれ」

「……どうするつもりだよ?」

「逃げるんだよ、ここから。俺がいつまでもこの村にいちゃあ、迷惑になる。貴族派の奴らが来る前に、村を出ねぇと」

 そう言って、自力で立ち上がろうとして、失敗し、男は胸を地面に強打した。

 誰かの介助なしには、立ち上がれそうになかった。

 男の願いを受けて、サムは一瞬躊躇した。男の口にする一個大隊がいまどの位置にいるのかは知らないが、彼の口ぶりから察するに、じき村にやって来るのは時間の問題だろう。

 この村を戦場にするわけにはいかない。村のみんなを、危険に晒したくない。みんなを守るためには、男の言うことを聞いた方が得策だろう。

 サムは鉈をかたわらに置くと、まず男の身体を仰向けにするべく、自らの位置を移動させた。それを見て、ティファニアも「わたしも手伝うわ」と、男に歩み寄った。二人は男の両脇に座り込むと、いっせいので、男に寝返りを打たせようとした。

「……残念だが」

 そのとき、森の奥から、耳慣れぬ声がした。

 ティファニアが、サムが、ウエストウッド村の子どもたちが、一斉に、声のした方を振り向く。

 するとそこには、

 そこには――――――、

「どうやらきみの気遣いは無駄に終わるようだ。砲兵君」

 木々の合間から、軍服を身に纏った中年の大男が姿を現した。

 一九〇サントはあろう長身に大猿を思わせる堂々たる体躯の持ち主だった。分厚い胸板と丸太のような上腕が、灰色の軍服越しにも上半身の発達ぶりを窺わせる。スキンヘッドの頭には燃え盛る炎をモチーフにしたと思しき彫り物が刻まれ、野性味の漂う顔立ちが、大柄な体格とともに見る者を等しく威圧していた。

 腰帯には、フリント・ロック式の拳銃が二挺差さっている。

 巌のような拳には、左右の手の甲にルーン文字の刺青が刻まれていた。右の甲に“再生”、左の甲に“記録”と彫られている。

「オフィサー・グラハム……メイジ殺しの大隊長……!」

 いまだうつ伏せ状態の男が、首だけ動かして茫然と呟いた。

 ティール・グラハムは王党派の間でも有名な軍人の一人で、敵味方の双方からメイジ殺しと仇名される人物だった。今回の内戦でも、すでに五人のメイジを殴り殺しているという、歴戦の猛者だ。

「ほほう……私のことを知っているのか。失礼だが、どこかで会ったことが?」

「直接、顔を拝見したことはない。だが、手の甲の刺青を見れば、あんたが誰かはすぐ分かる」

「なるほど。そういえば私も、一部の業界では有名人だったな」

 グラハム大隊長は野人然とした容貌からは想像も出来ない理知的な口調で微笑んだ。

 それから彼は、男の両脇にしゃがんだティファニアとサムを見た。

「昼食の準備で忙しい時間帯に失礼する。私はレコン・キスタ第三〇二歩兵大隊隊長、ティール・グラハムだ。用件は……まぁ、言わなくても分かると思うが……」

 グラハム大隊長は二人に挟まれた男の背中に冷たい視線を注いだ。

 掌を上向きにした右手を差し出し、言う。

「その男の身柄を、こちらに渡してほしい。傷病者にさらなる鞭を振るうのは気が引けるが、捕虜獲得も軍人の仕事でね。素直に引き渡してくれると、こちらとしても助かる」

「引き渡したら、彼はどうなるんです?」

「さあ? 捕虜の扱いなんてものは、状況によりけりだよ。……彼に情けをかけようなんて思わないでくれたまえ? すでにわが大隊が、この村を包囲しているんだ」

 グラハム大隊長は莞爾と微笑んで、差し出した右手を掲げ、背後の森へ向けて軽く振ってみせた。

 すると、森の奥から、ザッザッ、と統率された軍靴の足音が響いてきた。どうやらいまのアクションは、すでに展開していた部下達への合図だったらしい。足音は徐々に大きくなっていき、やがて雑木の間から、青銅の胸当てを着込んだ幾人もの兵隊が姿を現した。全員が小銃を構え、銃口をこちらに向けている。どうやら大隊所属の一個小隊らしく、みなの視界に、四〇人を超す兵団が映じた。

「無論、兵はこれだけではない。どう動くのがいちばん利口かは、分かるね?」

 グラハム大隊長は穏やかな口調に剣呑な意図を載せて訊ねた。

「……二人とも、身体を起こすのを手伝ってくれ」

 グラハム大隊長から砲兵君と呼ばれた男が、両脇のティファニアとサムに言った。

 「何をするつもりだ?」と、問いかけるサムに、男は土気色の顔で微笑み答えた。

「逃げるのは、もう、無理そうだ。これ以上、きみたちに迷惑をかけたくないしな。大人しく、投降するさ」

「それがいちばん賢い選択だな、砲兵君。……おい」

 グラハム大隊長が背後の兵達に合図を送った。屈強の体つきをした二人の兵士が前へと出る。

「女性と子供の細腕では辛いだろう。砲兵君を手伝ってやれ」

 大隊長の命令に頷いて、二人はうつ伏せの砲兵に近づくと、やや乱暴な手つきで彼を立たせてやった。左右から肩を支えてやると、背中の銃創が疼いたか、砲兵の顔が苦悶に歪んだ。

 兵達はそれに構うことなく、砲兵を大隊長のもとへと引きずっていった。

「ご苦労だったな」

 グラハムはねぎらいの言葉を口にして、背後の兵達を振り返った。居並ぶ面々の顔を見回して、声高に叫ぶ。

「諸君! この五日間、本当にご苦労だった。これにてわが隊の任務は完了だ。アルレスフォード城に、帰還するとしよう。だが、その前に……」

 グラハムはいまだ小銃を構えている兵士の一人に声をかけた。やけに明るい声音だった。

「小隊長、残敵掃討の命令が下ってから五日間、わが隊は数々の艱難辛苦を経てここまで来たわけだが……糧食の残りはどのような感じかね?」

「あと半日も保たないかと思われます」

 グラハムから小隊長と呼ばれた兵は、小銃の射撃姿勢を解くと、大隊長に身体ごと向き直って答えた。

「わが隊が最後に糧食の補給を受けたのは一週間前。五日前に追撃作戦の命令が下された段階で、我々の手元には三日分の糧食しかありませんでした。それをなんとか今日まで保たせたのです。手元にある糧食だけでこれ以上食いつなぐのは、難しいかと」

「ふむ。ということは、アルレスフォード城へ帰る前に、どこかで補給を受ける必要があるわけだ。とすれば小隊長、ここで村を発見出来たのは、僥倖と言えるのではないかね?」

「同感であります。……が、この場合はむしろ、天佑にございましょう」

 ニヤリと笑って訊ねたグラハムに、小隊長もニヤリと笑って頷いた。

 ティファニアの、サムの、そして捕らわれの砲兵の顔が、みるみる硬化していく。糧食の残りが乏しい部隊。そして、この村を発見したことを僥倖と捉えている、その意図。それらの、意味するところ……。

 小隊長は彼らの反応を眺めて、愉快そうに微笑んだ。

「数々の苦難を乗り越えた我々に、始祖ブリミルが与えたプレゼントだと愚考いたします」

 現地徴発、という補給の手段がある。軍隊が必要とする物資を、侵略先の現地から求める行為だ。現地徴発などと言葉を飾ってはいるが、要するに略奪行為であり、古代から近世までは、ごく一般的な軍隊の活動の一つだった。彼らはその現地挑発を、この村でしようというのか。

 グラハム大隊長はにっこり微笑んで、小隊長に言う。

「プレゼントか。なるほど、そうだとしたら、我らが始祖はなんとも粋なはからいをしてくれるねぇ?」

「はい。温かい飯と、なにより、女がこの村にはいる」

 小隊長は好色そうな眼差しをティファニアの胸元に注いだ。ほっそりとした体つきに反比例した、圧倒的なボリュームの乳房がたわわに揺れている。

 小隊長の視線に、生理的な嫌悪感を覚えたティファニアは、思わず身をこわばらせた。

「テメェら!」

 屈強な兵士二人に左右から拘束されている砲兵が、激昂して怒鳴った。

 この村のみんなに迷惑をかけたくないと、自ら敵軍への投降を決意した彼だ。グラハムらの企みは、到底、看過出来ることではなかった。

 彼は傷ついた体を必死に動かし、揺さぶった。勿論、左右からの拘束を解くためだ。しかし、所詮は銃弾をもらって出血著しい身。むなしい抵抗だった。

 グラハムはそんな砲兵の姿を嘲笑う。

「おや砲兵君、あまり無理をするものではないよ。なにせ君は、手負いの身なんだからね」

「女子どもだぞ? 恥はないのか!?」

「指揮官としては、部下の兵達の腹を満たしてやれないことの方が恥だよ」

 グラハムはかたわらの小隊長に向き直った。

「銃の発砲を許可する。ただし、撃つなら手足を狙えよ? 死体を犯しても、何の面白みもないからね」

「あれはあれで、なかなか味のある行為だと思いますが……大隊長殿が、そう、おっしゃるのなら」

 あまりにもおぞましい発言だった。もはや発するべき言葉さえ見失った砲兵を無視し、小隊長は麾下の兵達に次々指示を飛ばした。四〇人からなる小隊をさらに十人ごとの班に分け、各所の制圧と、いまなおウエストウッド村を包囲する形で展開中の各隊への連絡を命令する。

「小さな村とはいえ、ここにいる子どもが村民の全員というはずがない。まだ他にも村人がいるはずだ。探し出して、全員をこの場に集めるよう各小隊に要請せよ。抵抗する者には、銃を使っても構わんとの、大隊長殿のお達しもな」

「銃を使う必要なんてありません」

 そのとき、ティファニアが立って、背後の子ども達を庇うように前へと踏み出た。毅然とした態度。しかし、よく見れば体の筋は不自然に強張り、僅かに肩が震えている。

「ここには、あなた方に抵抗出来る人間なんて、いませんから」

 この村には、自分も含め、二十歳に満たない子どもしかいない。子ども相手に銃を使うなんて、過剰反応が過ぎる。

 ティファニアは凛とした、だがやはり怯えを孕んだ声で続けた。

「監視の必要もありません。この村には、子どもしかいませんから」

「なに?」

 ティファニアの言葉に、グラハム大隊長が眉根をひそめる。

「それはどういう意味かね、お嬢さん?」

 子どもしかいない村とは、いったいどういう意味なのか。どうして、子どもしかいないのか。怪訝に思ったグラハムが、質問を口にした次の瞬間、甲高い銃声が、浮遊大陸の空に轟いた。

 複数の銃口が同時に火を噴いた証たる斉射の音。

 銃声は、村の西側から聞こえてきた。

 反射的にそちらを振り返るみな。

 筒音は、連続して何度も響き渡った。

 野戦のときでさえ、そうそうない高速かつ濃密な連続射。

 グラハム大隊長の顔に、困惑した表情が浮かんだ。村の西側には、小銃小隊二個と、直衛の長槍小隊一個を配置している。まだ、発砲の許可は下していないのに、いったい何が起こったのか。

「……どうやら、使う必要があったみたいだが?」

 茫然と村の西側へと目線をやるティファニアに、グラハム大隊長が言った。そう言うグラハムの声も、茫然としていた。

 並び建つ家屋に阻まれて見えないその先で、いったい、何が起こっているのか。

 一〇〇人を超す屈強な男達の集団が、銃を使わなければならない事態とは、いったい……?

 銃声は、ほどなくして唐突に、ぱったり、とやんだ。

 ティファニアの喉が、知らず、こくん、と鳴る。

 やがて、緊張した眼差しの先で、建物の陰から、一人の男が、姿を現した。

 真っ直ぐ、自分達の方へと向かってくる。

 若い男だった。

 漆黒の外套。銀糸とまごう白い髪。長い前髪の下にある甘いマスクは舞台役者のように端整で、白磁のように透き通った肌に、血の色を宿した双眸がよく映えている。

 左右の手には、それぞれ小銃と、奇怪な形状をした刀剣が握られていた。痛々しいほどに赤黒い剣身が特徴的な刀剣は、グラハム達が初めて見るタイプの剣だ。一方、小銃の方は彼らも見慣れたデザインをしていた。というより、普段から彼らも愛用している代物だ。シャスポー造兵廠で製造されたフリント・ロック式小銃。銃床に刻まれた刻印は、レコン・キスタ軍保有の兵器を意味している。大隊の誰かが所有していた銃に違いなかった。

「……なんだね、きみは?」

 突如として自分達の前に姿を現した青年に、グラハム大隊長は険しい面持ちで訊ねた。

 前後の状況と、左手に携えた小銃から考えて、先ほどの銃声と関係しているのは明白だ。とはいえ、目の前の青年は一見したところ美貌だけが取り柄の優男。剣を持っているとはいえ、一〇〇人以上の男達が脅威を覚える相手には思えないが……。

「……エトランジェだ」

 はたして、グラハムの質問に、赤い瞳の青年はそう答えた。

 エトランジェ。知らない単語だ。いったい、どういう意味なのか。

 怪訝な面持ちの大隊長に、彼は続けて言う。

「化け物、という意味さ」

「シュン……あなた……」

 かたわらで発せられた声が、グラハムの耳朶を叩いた。

 そちらを振り返る。

 ティファニアが、青年を見つめながら、茫然と呟いていた。

 

 

 

 

「……それで、その化け物君が、我々にいったい何の用だね?」

 自らを化け物と自称した青年に、グラハム大隊長は油断のない視線を置きながら訊ねた。一旦、言葉を区切り、「いいや、それよりも……」と、続ける。

「その、左手に持った小銃は、いったいどうした?」

 問いながら、グラハムは膝を軽く曲げて身構えた。返答次第では即座に相手に跳びかかれるよう、四肢の筋肉を軽く緊張させる。腰の拳銃を抜こうとは考えなかった。二挺の拳銃は彼の切り札であり、いきなりぶっ放すようなものではなかった。

 グラハム大隊長は警戒の意思も露わに赤い瞳の青年を見据えた。

 一見した限りは、武器を持っているとはいえ、美貌だけが取り柄の優男といった印象だ。しかし、長年、野戦の猛者として前線に立ち続けた、グラハムの戦士の勘が告げていた。この男は、只者ではない。この男を前にして、油断は命取りになる。彼はこれまでの十人近いメイジを殴り殺してきた両手を、軽く握った。

 対して、悠然と歩を進める青年……秋月瞬は、グラハムの質問には答えずに、

「……一三三人」

と、ぽつり、と呟いた。

 その瞬間、警戒心を剥き出しにして身構えるグラハム大隊長、そしてかたわらの小隊長らの顔が硬化した。

 一三三人。瞬が口にしたその数字は、村の西側に展開していた三個小隊の総人数だった。

 瞬の口にした数字の意味が分からないティファニア達が怪訝に見守る中、青年はひどく平坦な声で独り語りを続ける。

「フリント・ロック式小銃を装備した部隊が二に、直衛の長槍部隊が一……ずいぶん、古風な編成だな? 察するにこの世界の――少なくとも軍事の分野での――文明レベルは、中世後期から近世前中期といったところか」

「何を言っているのかね? それよりも、こちらの質問に……」

「答える義務があるのか?」

 真紅の眼光も鋭く、睨みつける。相手の意思など関係ない。有無を言わさぬ、凄絶なる気迫。瞬間、グラハム大隊長の背骨を、強烈な悪寒と緊張感が貫いた。周囲の気温が、いきなり二、三度下がったかのような錯覚と、喉元に刃を突きつけられたかのような感覚に襲われて、グラハム大隊長は何も言えなくなってしまう。

 本能の屈服。

 原始生命力の波動を感じ取れないグラハムだったが、それでも、理解出来た。

 この男は、違う。これまで自分が対峙してきたどんな敵とも、違う。

 逆らってはならない。抗ってはならない。

 この男が話をしているときに、決して口を挟んではならない。

 この男の勘気に触れれば最後、自分は……自分達は、塵一つ残らずに消滅させられることになる!

 接近に伴って増大する圧迫感に身動きが取れずにいるのは、グラハムばかりではなかった。

 かたわらの小隊長も含む、麾下の兵士達全員が言葉を失っていた。発するべき言葉が思いつかないのではない。声そのものが、出せずにいた。声帯が、麻痺していた。

 恐怖から声を奪われた兵達を見て、瞬は嘲りの冷笑を浮かべる。すでにグラハムとの間合いは、三メートルほどに縮まっていた。

「……まぁ、いい。貴様の質問に答えてやるよ。

 簡単なことさ。僕はもともと、こんな銃は持っていなかった。この銃は、この村を包囲していた連中の一人から取り上げた物だ」

 瞬は、間合い一間のところで立ち止まると、左手で掴んだ小銃を掲げ示した。

 グラハム大隊長の表情が、慄然と硬化した。小銃を取り上げた? 馬鹿な。だとすれば、西側の三個小隊のみなは……最悪の想像が、大隊長の頭の中を駆け巡る。

 表情から相手の思考を察したか。瞬は淡々とした口調で、事務的に続けた。

「村の西側を囲んでいた連中には、全員、死んでもらった」

 頭を金槌で強く殴られたかのような衝撃が、グラハム大隊長を襲った。眩暈。両脚で踏ん張り、なんとか、転倒だけは避ける。鈍く痙攣する声帯を必死に動かして、「馬鹿な……」と、呟いた。それから、彼は臍下丹田に気合いを入れ、轟然と吠えた。

「ありえない! 一三三人からなる小銃兵と、パイク兵の部隊を、たった一人で全滅させるなど、ありえない!! たとえ貴様が、メイジだとしてもだ!」

「メイジ?」

 それまでの穏やかな口調をかなぐり捨てたヒステリックな叫びに対して、瞬の反応は彼の言葉を訝しむもの。メイジ。知らない単語だ。文脈から察するに、有限世界におけるスピリットや、現代世界における戦車といった、強力な兵器のような存在らしいが。

【契約者よぉ、いまは、気にするこたぁ、ねぇんじゃねぇか? あとでティファニアにでも訊きゃあすむことだろ?】

 手の内で、〈誓い〉が震えた。

 それもそうだと頷いて、烈火の如き形相で睨んでくるグラハムに、冷然と告げた。

「じゃあ、僕がいま手に持っているこの小銃は何だ? どうやら貴様の部下だったらしいが、奴らが生きているのなら、どうして僕がこの銃を手に出来る? こっそり盗んだとでも? そう思い込むのなら、それでも構わないが……じゃあ、なんで奴らはこいつを取り返しに僕を追ってこない? さっきの銃声は、ここにも聴こえたはずだ。あれは、どう説明する?」

 矢継ぎ早に叩きつけられる質問。

 グラハム大隊長は、答えない。いや、答えられない。

 厳めしい表情に苦汁を滲ませ、俯き、やがて「くそっ……」と、吐き捨てた。

 自身、納得のいく回答を、導き出すことが出来なかった。

「……なんなら、目の前で実践してやろうか? 僕がどうやって、一三三人を殺したのか」

 続く瞬の問いかけに、グラハム大隊長は、はっ、と顔を上げた。

 赤い双眸が、怪しく輝いたように見えた。

「貴様と、貴様……」

 小銃の銃口で、二人の小銃兵を指し示す。警戒姿勢のまま瞬に銃口を向けていた二人の肩が、思わず震えた。

 次に、瞬が言の葉を発した瞬間、目を疑うような事態が起こった。

「互いに、脳天を撃ち合え」

 銃声が、轟いた。

 二発分。

 直前まで、瞬に銃口を向けていた二人の兵士は、くるり、と踵を返すや互いに向かい合い、照準を相手の頭部へと合わせて、同時に、引き金を引き絞った。フリントとバッテリーが打ち合い火花を散らし、点火薬に引火。そのまま発射薬を燃焼させ、鉛の弾丸を、銃身から叩き出す。

 ほぼ同時に発射された二つの銃弾は、やはりほぼ同時に着弾。

 互いの頭を、柘榴の実を割るように吹っ飛ばした。

 やや遅れて、悲鳴が上がった。

 その光景を見ていた、兵士達の口から。

 その光景を目撃させられた、子ども達の口から。

 さらに一拍遅れて、悲憤の声が轟いた。

 グラハム大隊長の、口から。

「き、貴様ぁッ! いったい何をした!?」

「見て分からなかったのか?」

 瞬は侮蔑の態度も露わに、目の前の男を嘲笑した。

「そこの二人に、互いに殺し合うよう、命令したんだ」

 〈誓い〉の持つ人心操作能力。永遠神剣の精神干渉能力に対して抵抗力を持たないノーマルの人間は、自分の言葉に従うしかない。与えられた命令に対しては何ら疑問を抱かず、たとえそれが同士討ちを誘発するものだとしても、至上の命題として実行してしまう。

 相手が何人いようが関係ない。いやむしろ、敵対勢力の兵数が多ければ多いほど、瞬にとっては有利となりうるのが、〈誓い〉の人心操作能力だった。

 瞬は相棒の神剣が持つこの能力を駆使して、自らの手を汚すことなく西側の三個小隊を全滅させたのだった。一般に軍事の世界では、部隊の損害が五割を超えると全滅とされる。しかしこの場合は文字通りの全滅であり、皆殺しだった。

 ――人の心を操る魔法……この男、やはりメイジか!?

 グラハム大隊長が、慄然とした眼差しで瞬の顔を見つめた。

 メイジ殺しと仇名されるグラハムは、これまで数々の貴族と戦い、数多の魔法をその身に浴びてきた。その中には、急な眠気を誘発するものや、欲求を過剰に刺激するものなど、人間の精神に作用する魔法も少なからずあった。そういった過去の実戦経験から、グラハムは目の前の青年がメイジではないかと推測した。杖によるアクションも呪文の詠唱もなかったが、青年が引き起こした現象は、明らかに魔法だった。

 ――そうだとすれば、なんという精神力なのかッ!

 人間の精神にはたらきかける類の魔法は、いくつもの系統を組み合わせねば発動出来ないことから、一般に上等な魔法とされている。当然、精神力の消費も激しく、その度合いは魔法をかける対象の人数に比例して倍増する。そのため、スクエア・クラスのメイジでさえ一度に操れる人数は十人程度が限界で、連発も難しいという。

 青年の話が本当だとすれば、彼は同時に一〇〇人以上の人間の心を支配し、なおかつそれを長時間持続させていたことになる。スクエア・クラスのメイジ一〇人分以上の精神力を、たった一人で持っていることになる。

 勿論、ブラフの可能性もある。しかし、青年の言っていることが嘘だとすれば、それはそれで問題だ。西側の三個小隊一三三人を、精神支配の魔法を使わずに全滅させたことになってしまう。それほどの火力を、いったいどうやって生み出したというのか。

 はたして目の前の男はいったい何者なのか。自分が推測するように、本当にメイジなのか。それともまったく別な存在なのか。いやいやそもそも、目の前の彼は、自分と同じ人間なのか。自らを化け物と称する彼は……。

「僕の力は、これで分かったな?」

 音を拾った耳膜が、凍傷にかかったかと錯覚してしまうほど、冷然とした声が響いた。

 真紅の永遠神剣を手に、秋月瞬は嗤う。

「運が悪かったな。本来なら僕には、この村を守る理由も、義理もなかった。だが、いまはあるんだ。この村を守る、理由というのが」

 真紅の眼差しが、僅かに一瞬、ティファニアを捉えた。刹那ほどの僅かな時間、互いの視線が交錯する。すぐに目線をそらして、瞬は小銃を放り捨て、〈誓い〉の柄を両手で握った。正眼の構え。

「さっき西側の連中をやったときに気づかされた。同士討ち作戦は、死体の処理が後で面倒だ。貴様らには、始めからこの刃を叩き込んでやるよ」

 真紅の剣身に、闇色のオーラフォトンを纏わせて、言い放った。

 ダークフォトンの属性は、限りなく赤に近い無色。紅色の刃が宿す熱は、摂氏一万度を数えていた。生体の主要な構成物質たるタンパク質はおろか、あらゆる物質をプラズマ化させてしまう温度だ。瞬が空間へのエネルギーの干渉を制御していなければ、大惨事間違いなしの熱量だった。

 同士討ち作戦の末に西側の三個小隊を全滅させた際、新たな問題として瞬を悩ませたのが死体の処理についてだった。一〇〇体以上の死体をそのまま放置することが衛生上不味いのは、子どもでも分かることだ。腐敗臭によるストレス性の疾患もさることながら、各種の細菌による感染症がいちばん恐い。神剣士の自分はともかく、ノーマルな人間――とりわけ抵抗力の弱い子どもなどは、真っ先に病を患うことになるだろう。

 そうした事態を避けるためには、死体の適切な処理が重要だ。最も手っ取り早い手段は火葬してやること。そこで瞬は、高熱の精霊光を宿した刃を、戦死体に次々突き刺していった。一万度の熱をもって死体ごと雑菌を蒸発させてしまおう、という考えだ。この方法なら、戦死体がもともと持っていた菌も、死体にたかるハエやカラスなどが撒き散らす疫病も防ぐことが出来る。

 しかし、実際にやってみると、これが実に面倒な作業だった。一三三人もの戦死体一つ一つに、いちいち剣を突き刺すというのは骨が折れるし、時間もかかった。

 同士討ちなんて横着をせず、最初からオーラフォトンの刃を振り回していた方がずっと早く終わっていただろうと気がついたのは、労働を終えた後のことだった。

「安心するといい。マッハ二桁の斬撃に加えて、摂氏一万度の熱量だ。痛みは、微塵も感じないからさ!」

 赤い双眸に、凶暴な輝きが宿った。

 瞬と正対していないティファニア達でさえ、総身が震えるほどの凄絶な覇気。

 正面から対峙している兵達は、ひとたまりもない。まだ干戈を交えぬうちから、戦意を折られてしまう。

 恐怖と緊張に耐えかねたか、一人の兵士が悲鳴を上げ、グラハムがまだ命令を下していないにも拘らず、小銃をぶっ放した。一〇メートルと離れていない至近距離からの射撃。

 その筒音が、開戦を告げるゴングとなった。

 つられて引き金を引き絞る兵達。グラハムの制止の声もむなしく、統制なき一斉射撃の雄叫びが、ウエストウッドの森にこだました。

 

 

 

 

 四〇近い銃口から一斉に叩き出された鉛弾の嵐は、しかし、瞬の身体を捉えることなく、そのことごとくが三〇メートル先にある木造家屋に炸裂した。どうやらジャックの家だったらしく、蜂の巣のように穴だらけとなった我が家の壁を見て、少年の口からは悲痛な叫びが迸った。

 他方、銃撃を叩き込んだ兵達は、みな一様に狐につままれたかのような困惑の表情を浮かべていた。

 自分達は確かに標的を射線上に捉えていた。目標との距離は一〇メートルとなく、黒色火薬の燃焼エネルギーによって加速された銃弾は音速の速さで飛翔した。加えて、火を噴いた銃口の数は約四〇、控えめに言っても濃密な弾幕を形成していた。間違いなく、絶対にはずすはずのない距離、絶対にはずすはずのない状況での射撃だった。

 しかし、実際に引き金を引き絞ってみれば、これはいったい、どうしたことか……。

「……消えた?」

 一人の兵士が、呻くように呟いた。

 兵達がトリガーを引き絞った、その瞬間の出来事だった。

 突然兵達の、そして客観的な立場から両者の戦いを見守るティファニア達の視界から、瞬の姿が消えてしまったのだ。勿論、煙のように消えてしまったわけではない。襲いくる弾丸を避け、次の行動へと繋げるために移動したのは明らかだ。では、いったいどこへ移動してしまったのか……。

「……第一分隊は次弾を装填。第二、第三分隊は抜刀し、輪形陣を組んで周囲を警戒せよ」

 自らは銃撃に参加しなかったグラハムが命令を発した。

 兵達の勝手な行動に憤りを感じているらしく、険を帯びた表情を浮かべている。

 口調も荒々しく、大隊長の怒りを感じ取った小隊のみなは、慌てて与えられた命令の実行に努めた。

 グラハム大隊に所属する小隊はすべて三個分隊から構成されている。分隊の規模は一三〜五人で、三個小隊+小隊本部で、一個小隊の兵力は通常四〜五〇人を数えた。

 先込め式単発銃のフリント・ロック小銃では、熟練の古参兵でも次弾の装填までに数秒からの時間を必要とする。

 次弾の装填を急ぐ第一分隊を守るように輪形陣を組んだ第二、第三分隊の面々は、補助兵装のショートソードを抜き放つと、消えた男の姿を探すべく目線を巡らせた。

 そんな中、第二分隊に所属する一人の兵士が、自身の胸元で不意に違和感を覚えた。ショートソードを持っていない方の左手で胸を押さえてみる。金属の硬い感触と、ぬるり、とした液体の感触を指先に覚えた。目線を落とす。闇色の光輝を放つ赤い剣身が、己の胸元から生えていた。

 背後からの刺突。

 いったい、いつの間に後ろへと回り込んだのか。

 兵士が、自分の身に起きた事態を正確に把握したその刹那、爆発とともに、彼の意識は消滅した。

 摂氏一万度の熱が体内を蹂躙した結果だった。ダークフォトンの高熱は、まず人体の三分の二を占める水分を瞬間的に沸騰させた。水が蒸発すると、体積は液体のときの一七〇〇倍にもなる。体内で生じた爆発的な圧力の変化に耐えきれなくなった肉と骨、そして臓器が次々爆発し、周囲に炭化した肉片を飛び散らせた。辺りに四散した黒い肉片は、数千度の余熱によって蒸発。原始生命力の残滓さえ残さず、一人の男の命が、この世から消えた。

 突然の爆発は側にいた何人かの兵士を巻き込んだ。勿論、爆弾が炸裂したわけではないから、みなダメージはほとんどない。しかし、僅かに怯んだその隙を、瞬は容赦なく突いた。二度三度と、〈誓い〉が振り抜かれる。連続して上がる不快な爆発音。あっという間に、六人が消滅した。

 ことここに至って、グラハム大隊長もようやく異変に気がついた。

 部下達の身に起こった突然の異常事態。ふとそちらを振り向けば、いつの間に忍び寄ったのか、輪形陣の内側に敵の姿を発見した。

 驚きはなかった。もとより、音速で迫る無数の銃弾を完全に回避してしまうほどの運動能力を持つ彼だ。自分達に気取られぬよう接近することなど、容易いはずだった。

 それよりも、背骨を貫く危機感の方が勝った。

 ――不味い!

 輪形陣は、外に対する守りは堅いが、一度輪の内側に入られると脆い。もとより、輪の外側での迎撃を主目的とする陣形だから、内懐に入られること自体あまり想定していない。

 ――精神干渉を受ける受けない以前の問題だ。乱戦になれば、同士討ちは必至!

 剣を振り回している分にはまだいい。しかし、敵味方が斯様に近接したこの状況で銃をぶっ放せば……兵力優勢なわが方が、かえって危険だ。

 瞬の存在に気付いた兵達が、ショートソードを振り上げ、殺到した。

 構えはみな上段。打ち込みの速さによほどの自信がなければ、実戦の場においては役に立たぬとされる構えからの斬撃。隣の者を傷つけぬようにとの配慮から、剣を縦方向にしか振り抜けぬ彼らが選んだ、苦汁の選択だった。

 始めから、それが狙いだったのか。

 同士討ちを気にする必要のない瞬は、神剣の柄を右手一本で取るや、〈誓い〉を一文字に振り抜いた。

 踏み込みはせず、右腕の膂力のみに頼った薙ぎの一閃。

 それでも、最初の宣言通りマッハ二桁の速さで振り抜かれた刃が、正面から殺到する三人を襲った。

 切っ先ががら空きの胴体を薙いだ瞬間、三人の身体は瞬時に爆発、蒸散した。

 背後より、複数の気配。

 踵を返し、剣を振るう。

 またしても右腕一本からの回転一文字斬り。

 闇色の光線が、大気を引き裂いた。

 背後からの不意打ちを狙っていた四人が斬割され、また、爆発の絶叫が轟いた。

「第一分隊は距離を一旦距離を取れ! 後の者は奴を囲んで押し潰せ!」

 小隊長の咆哮が響いた。同胞の身体が爆発するという異常事態を立て続けに目撃したせいか、命令を伝えるその声は、恐慌から震えていた。

 みなを統率する立場にある彼でさえ、この有り様だ。実際に瞬に立ち向かわなければならない兵卒らが感じる恐怖は、尋常ではなかった。

 前後から、あるいは左右から果敢に挑む彼らだったが、その太刀行きは鈍かった。

「……遅い」

 瞬の口元に、侮蔑の冷笑が浮かんだ。

 愚かな連中だ。ただでさえ運動能力に格段の差があるというのに、恐怖心から刀勢を鈍らせるとは……。ここはいっそ思い切って、一か八かの勝負を挑むところだろうに。

 ――少なくとも柳也ならそうしていただろう。

 正面からの打ち込みを右に跳んで避け、同時に、右方より迫っていた二人の喉元目がけて〈誓い〉を叩き込む。闇色の光線が二条閃き、恐怖に引き攣った首級が二つ、宙を舞った。そうかと思ったのも束の間、切断面より伝播する熱がまず質量の小さな首を、次いで大きな胴体を爆散させた。

 戦友の身体から発生した爆風を浴びた兵達は、悲壮な表情で瞬を追った。その数、七人。詰めなければならない距離は六メートルほどか。

 対する瞬は踵を返すと、連続して剣を振るった。

 闇色のダークフォトンが刃の形を保持したまま真紅の剣身から次々射出され、猛然と迫る七人の敵兵を襲う。

 オース・ソニック。大気のマナを支配することで指向性を持たせた衝撃波に、ダークフォトンを載せて射出する、いわば“飛ぶ斬撃”だ。

 物体が空気中を移動すると、空気が圧力を受け、その圧力の変化の波が周囲に伝わる。これが音だが、物体の移動速度が音速を超えてしまうと、起こり続ける変化の波を空気が運びきれなくなってしまう。その結果、変化の波は時間を置いて、固まった状態で同時に進んでしまうことになる。この固まった波が、いわゆる衝撃波だ。

 衝撃波の持つエネルギーは強烈だ。空気の塊がマッハいくつという速度で移動するわけだから、その威力は凄まじい。超音速飛行を可能とするジェット戦闘機などは、高度五千メートルを飛んでいて、なお地上の窓ガラスをぶち破ってしまうほどの衝撃波を発生させてしまうという。

 通常、衝撃波は物体の運動方向とは逆向きに作用するが、空気を構成するマナさえも支配するのが永遠神剣だ。指向性を持たせた空気の塊に、摂氏一万度の熱量を孕んだダークフォトンを載せ、敵に向けて超音速で発射する。故郷の地球では天才と呼ばれていた瞬が、得意の物理の知識を活かして編み出した技……それが、オース・ソニックだった。

 漆黒の衝斬波は、まるで引き寄せられるかのように全弾が敵兵の胴へと炸裂した。

 異音とともに真っ二つに裂け、爆ぜる人、人、人。

 あっという間に七人を殺され、小隊長は顔面蒼白、わなわなと震える唇は、とうとう言葉を見失った。

「おのれぇ!」

 捕虜の砲兵を拘束していた二人が、敵兵を放り捨て、剣を抜き放った。

 支えを失った負傷兵が地面に尻餅を着く。

 一人は中段、もう一人は下段に取りながら、力強く踏み込んだ。もはや同士討ちを気にする必要がないほどに、小隊は兵力をすり減らしていた。

 二人は正面から瞬に挑みかかった。先を行く下段構えの男が脛を斬り、運動能力を奪ったところを中段構えの男が胸を突く作戦だ。

 迎え撃つ瞬は、〈誓い〉を地擦りに取るや、袈裟がけに斬り上げ、返す刀を逆袈裟に振り下ろした。剣尖から射出された闇色の斬撃が、十文字にクロスしながら空を飛ぶ。オース・ソニック二連斬、十字斬りだ。

 ダークフォトンを纏った衝撃波は高速回転をしながら飛翔し、二人の体をズタズタに引き裂いた。

 水蒸気爆発の轟音が鳴り、いままた二つのマナが、消滅した。

 左方より、火薬の臭いが漂ってきた。

 小隊長の命令を受けて距離を取っていた第一分隊が、射撃の準備を完了させたらしい。

 分隊長の命令一過、一斉射撃が叩き込まれた。

 たった一人の男に向けて。

 一〇以上の銃口が、一斉に火を噴いた。

「……ふん」

 しかし瞬は、左方より迫る弾雨に対して、振り向くことさえしなかった。

 左腕をそちらへ突き出し、精霊光のバリアを展開。襲いくる銃弾のことごとくを弾き飛ばした。

 それから彼は、射撃の間隙を衝いて、バリアのエネルギーをすべて攻撃力に転換。オーラフォトンのビームを、お返しとばかりに叩き込んだ。呪文の詠唱を破棄した魔法攻撃。当然、威力も精度も低い。しかし、神剣魔法に対する抵抗力を持たないノーマルな人間には、それでも絶大な威力を誇った。

「伝令!」

 二度目の、今度は統制された一斉射撃が通用しなかったのを見て、グラハム大隊長が叫んだ。

「村を包囲している四個小隊と、予備の一個小隊をここに集めろ。大隊の全戦力をもって、あの男を葬り去るのだ!」

 古来より変わらぬ戦いの原則は、緊要な時期、緊要な場所に、投入可能なすべての戦力を集中させることだ。その原則は、異世界でも変わらない。

 目の前の男の持つ圧倒的な戦闘力を目の当たりにしたグラハムは、大隊長としての自分が持つすべての戦力をこの場に集結させることにした。それでも、確実に勝てる保証はなかったが、何もやらないよりはましだった。

 大隊長から伝令役に任じられた兵は、ただちに散っていった。

 瞬はあえて彼らを見逃した。

 この村を守るには、敵対勢力の全滅が最良の手段と考えている彼だ。獲物が向こうから集まってくれるのなら願ったり叶ったりと、指先から精霊光線を放ちながら彼はほくそ笑んだ。

 

 

 

 

 秋月瞬とグラハム大隊の戦いは、ティファニア達第三者の目線からすれば、およそ戦闘と呼べるようなものではなかった。

 たった一人の男による、一方的な蹂躙。一方的な虐殺。男が剣を振るう度、爆発とともに命がまた一つ消え、この世にまた新たな災厄が解き放たれる。残された者の苦しみ、悲しみ、怒り、無力感。涙で顔をくしゃくしゃにしながら銃を取る兵士。悲壮な決意を胸に剣を振り回す兵士の顔。怒号。悲鳴。ありとあらゆる負の感情を向けられながら、冷然と死を振り撒く白髪の死神の姿……。一般人よりは死というものに免疫のある、軍人のボング砲兵でさえまともに正視出来ぬほどの惨劇が、彼らの目の前で繰り広げられていた。

 ウエストウッド村の子ども達にいたっては、目を背けていてさえ、泣き出す者が出る始末だった。無理からぬことだろう。彼らがいまいるこの場所は、彼らが普段から生活している場所なのだ。

 子どもたちだけの村。孤児たちの村。彼らの日常が、彼らの、たくさんの思い出が詰まった場所。その場所で、いま、凄惨な殺戮劇が繰り広げられている。子どもたちからすれば、普段の日常が、自分達の思い出が、穢され、壊され、否定されているようなものだった。

 正視出来るはずがなかった。

 平静でいられるはずがなかった。

 膝を着くサムなどは唇を噛み締め、悲憤の涙を流し、握り拳を何度も地面に打ちつけた。自分達の村を荒らす貴族派の連中が、自分達の思い出を破壊する赤い瞳の青年が、憎くて、憎くて、たまらなかった。

 多くの子ども達が目をそむける中で、しかし一人、ティファニアだけは、片時も目線をそらさなかった。

 彼女は食い入るようにただ一点だけを見つめていた。

 熱い視線の先には、赤い瞳の青年の姿があった。

 斬撃とともに、死を振りまく修羅の背中。不思議と、嫌悪感も、恐怖も覚えなかった。自分達の村を、自分達の思い出を破壊しているはずのその背中に、ティファニアはむしろ頼もしささえ感じていた。

 脳裏に蘇る、シュンの挙動。彼の言葉。グラハム大隊との本格的な戦闘を前にして、彼は言ってくれた。自分を見つめ、言ってくれた。

『……だが、いまはあるんだ。この村を守る、理由というのが』

 この村を守ると、彼が言ってくれて。この村を守ると言った彼と、僅かに一瞬、目が合って。もう大丈夫だ、と確信した。赤い瞳に宿った決然とした輝きに、心の底から安堵した。

 自然と思い起こすのは、昨日、彼と初めて出会ったときの光景。

 磔のエマを助けるために、リザードマンの群れと飛び込んでいく、彼の姿。

 あのときも、戦いは一方的な殺戮の様相を呈していたが、やはり自分は、シュンのことを怖いとは思わなかった。

 それどころか、戦いに身を投じる彼の姿を見て、美しい、とさえ感じた。

 人間の何倍もの膂力を誇る亜人達を蹴散らす彼の姿に背徳的な美しさを感じ、背筋が凍るほどの恍惚を覚えた。魂の興奮を、自覚した。

 なによりティファニアの目を捕らえて離さなかったのは、真紅の眼差しだった。

 切れ長の双眸に宿った、禍々しくも力強い輝き。必ず救い出す。守ってみせる。猛々しい、意思力の炎。自分では決して持ちえぬだろう美しい眼差しに、ティファニアの心は強く惹かれた。

 あの眼差しを、自分は知っている。あれは、確たる目的を見据え、何があろうともそれを見失わない、強い意思を持った人間だけが発する眼光だ。ティファニアの身近にも、一人いる。彼女が姉と慕い、この村の維持・運営に力を貸してくれている人物。彼女の眼差しにも、逞しい力強さと、誇り高さが漲っていた。

 炯々と輝く真紅の瞳を見て、ティファニアは、もう大丈夫だ、と反射的に思った。

 このときはまだ名前も知らない青年を横顔を眺めて、この人ならきっとエマを助けてくれる、と確信した。

 あの眼差しを浮かべる人は強い人。何があろうと、最終的な目的を目指し突き進むことをやめない人。揺るぎない、信念を持った人。そんな人が、エマを助けようとしているのだ。だからきっと大丈夫。きっと、妹分を救い出してくれる。根拠薄弱な確信。しかし実際にそれは、現実の出来事となった。彼はリザードマンの群れの中からエマを助け出し、さらには自分達をウエストウッド村に送り届けてくれた。

 いままた、彼の瞳には、あの力強い輝きが宿っている。

 その上で、彼は、この村を守る、と口に出して言ってくれた。

 力強い言葉だった。頼もしい発言だった。勇気と、安堵を与えてくれる魔法の言霊だった。

 ――きっと大丈夫。彼なら、きっと……。

 昨日と同じように、守ってくれる。

 自分と、自分の大切な人達を。

 自分達の大切な、この村を。

 守ってくれる。

 死体処理の手間や疫病の蔓延を考えてか、敵兵を跡形もなく消滅させていく瞬の背中に、ティファニアは信頼の眼差しを注ぎ続けた。

 

 

 

 

 グラハム大隊長が起死回生の策として呼び寄せた援軍の五個小隊だったが、彼らの力をもってしても、秋月瞬という異世界からやって来た神剣士に対しては決定打とならなかった。

 瞬の〈誓い〉は、格闘戦に優れると同時に、オーラフォトン・レイに代表される広域殲滅魔法を得意とする永遠神剣だ。多対一の戦闘は彼の得意とするところであり、二〇〇人以上の増援は、むしろ瞬に対して的を提供することに他ならなかった。神剣士の瞬にとって、ノーマルの人間など静止目標も同然だった。

 瞬は敵の増援を機械的に処理していった。

 まず、〈誓い〉の能力を使って相手の精神に干渉し、逃亡の意思そのものを敵軍の心から消し去る。そうして敵前逃亡という後顧の憂いを絶った上で、七、八人を一度にまとめて始末していった。オーラフォトン・レイは使わない。敵は神剣魔法に対してなんら抵抗力を持たないノーマルな人間が二〇〇人と少し。オーラフォトン・レイなどの強力な神剣魔法は、マナが勿体ない。

 大隊は見る見るうちに兵力をすり減らし、やがてグラハム一人だけとなった。勿論、意図した結果だ。この世界にやって来てまだ日の浅い瞬だったが、周りの兵達に命令を下している様子から、グラハムを上級指揮官と判断。彼が最後まで生き残るよう注意しつつ、攻撃を叩き込んでいった。

 大隊長を最後まで生き残らせたのには、当然理由があった。援軍の五個小隊の他にも、兵力を隠し持っていないか確かめるためだ。

 村の将来を考えるのなら、敵はこの場で皆殺しにしてしまうのがベストだ。敵兵を一人でも取り逃がせば、そいつの口からこの村の所在が暴かれてしまう。そうなると、今度はさらに大きな規模の部隊が送り込まれる可能性が生じてしまう。

 死人に口なし。再度の来襲を防ぐためには、敵の持つ全戦力を撃破する必要があった。

 逃亡者を許すにしても、それは自分の意図した結果でなければならない。

 ――ただの一兵たりとも逃しはしない。敵がまだ戦力を温存しているのなら、すべて引きずり出す!

 グラハムが上級指揮官だとは推測出来ても、彼の指揮する部隊が大隊規模とは知らない瞬だった。彼は、敵の指揮官はまだ相当の兵力を温存しているという想定の下、敵兵を次々屠っていった。

 兵隊どもを蹴散らすかたわら、瞬はグラハムの一挙一動に常に意識を向けていた。

 グラハムに次ぐ立場の指揮官が誰なのか分からない現状では、彼のアクションから予備兵力の有無を見分けるほかない。さらなる兵力投入の命令を下す様子がないかどうか、瞬は鋭い眼差しを大隊長に注いだ。

 一般に軍隊では、兵の損耗が三割を超えると壊滅状態に陥ったとみなされ、五割を失うと全滅したとみなされる。死傷者が五割を超えるような戦闘では、生き残った兵士も無傷ではいられず、また無事な兵の多くは負傷者の介抱に充てられるためだ。

 援軍の五個小隊二三二名が全滅状態に陥った後も、グラハムはさらなる部隊の投入を命令しなかった。

 瞬はそこでようやく、敵はもう兵が尽きた、と判断した。

 数を頼みに襲いかかる雑魚どもをすべて蒸発させた後、改めてグラハム大隊長に向き直った。

 睨み合う両者を隔てる距離はおよそ一間半(約二・四メートル)。神剣士の瞬にとっても、長身のグラハムにとっても、十分、一足一刀の間合いとなりえる距離だった。

 圧倒的な戦闘力を誇る瞬を前にして、しかし、グラハム大隊長の表情からは、臆した様子などは微塵も感じられなかった。

 むしろ彼の胸中では、四〇〇人近い部下達を全員殺害した目の前の男への怒りが渦を巻いていた。部下達の仇を取るためには、臆してなどいられない。

 また、目の前の男はたしかに圧倒的な戦力を有しているが、勝算がまったくないわけではなかった。

 自分には腰の拳銃以外にも切り札がある。平民出身のティール・グラハムを、メイジ殺したらしめる必殺の技。あの技を用いれば、十中八九、相手の意表を衝くことが出来るだろう。

 ――いかに強大な力を持つ敵でも、一瞬の虚を衝かれれば脆い。

 グラハムは軽く握り拳を作ると、胸の前で構えた。両脚を肩幅で広げ、左足を前に置く。地球の格闘技でいえば、ボクシングやムエタイに近い構えだ。投げ技やサブミッションよりも、殴る蹴るといった動作に備えた姿勢だった。

「……拳銃は使わないのか?」

 瞬が訝しげな声で訊ねた。

 武器を持った自分に徒手空拳――それもグローブなどを使わず素手――で挑んでくるとは。何かあるな、と察した瞬は、神剣士としての感覚野を最大まで拡げた。構えは正眼。攻防自在の姿勢からは、対手への強い警戒心が窺えた。

「必要ない」

 瞬の質問に、グラハムは淡々とした口調で答えた。

 応じると同時に、鋭く踏み込みながら腰を落とし、ボディに向けて左ジャブを放った。先制打。しかし、神剣士の動体視力と運動能力からすれば、牛歩の如きスピードだ。瞬は余裕で回避するとともに、音の速さで相手の背後へと回り込む。地擦りに持ち替えた〈誓い〉を、逆袈裟に斬り上げた。肉を裂く手応え。剣身の高温に焼かれて、血飛沫が迸ると同時に蒸発する。

 瞬の唇から、小さな舌打ちがこぼれた。

 入りが浅かった。背中の皮膚と筋組織を何層か抉ってやっただけで、決定打とならなかった。パンチのために前へと進んでいた敵の背後を狙ったためだ。こんなことならばすれ違いざまに斬り捨てるべきだったと、後悔の念がよぎる。

 背中を浅く斬られたグラハムは、衝撃で二歩三歩とよろめくも、なんとかその場に踏みとどまり、横転だけは免れた。踵を返し、瞬の顔を睨みつける。口元には冷笑。一撃もらっているにも拘らず、余裕の窺える表情だった。距離はおよそ三メートル。

「さすがに速いな」

 呟き、左足を前に置いたまま、右腕を大きく引いた。間合いを隔てた状態での、あからさまな予備動作。あれでは、次の攻撃は避けてくれと言っているようなものではないか。瞬の顔に、再び怪訝な表情が浮かぶ。いったい、何を企んでいるのか。

 そのとき、グラハムの左手の甲に刻まれたルーン文字が鈍い光を放った。瞬には読めないが、“記録”と銘打たれた彫り物だ。

 次いで、まるで左手の発光に呼応するかのように、右手のルーンも輝いた。“再生”の彫り物だ。

 次の瞬間、瞬の頬を、悪寒とともに突風がなぶった。

 風速十メートル以上。

 何度も、何度も。連続して、途切れることなく、総身を舐める。

 神剣士の触覚が、周囲の気流の急激な変化を知覚した。

 精神を集中し、感覚をさらに研ぎ澄ますと、周辺一帯の空気が、ある一点へ向かって流れ、集束していくのが分かった。

 ――あいつの右手に、空気が集まっている……いや、あいつが集めているのか。

 空気の流れを操作し、一点に集め、何十、何百倍と圧縮している。

 何のためにそのようなことをするのか。目的は明白だった。空気を圧縮すれば熱が生じ、質量もまた増大する。高熱かつ大質量の、強力な武器の出来上がりだ。

 問題は、そうやって作った武器をどう使うかだが……はたして瞬の懸念は、間を置かずして解決する。

「エアぁ・ハンマァァ!」

 グラハムが、腰の回転を効かせながら右拳を前へと突き出した。踏み込みはなく、その場での右ストレート。当然、三メートルの距離を隔てている瞬には、届くはずのない攻撃だ。

 しかし、瞬は反射的に地面を蹴り、左へと飛んだ。

 目には見えずとも、神剣士の五感は、迫りくる攻撃の気配を鋭敏に捉えていた。

 ――圧縮した空気を砲弾のように高速で射出する。それが、奴の切り札か……。

 一目見て攻撃の正体を看破した瞬は、着地と同時に〈誓い〉を下段に取った。

 先ほどまで彼が立っていた空間を圧縮空気の砲弾が制圧し、背後に立つ巨木に炸裂。幹をへし折った。

「風の魔法……なんで、あいつが……」

 拘束から解き放たれたボング砲兵を介抱するサムの口から、茫然とした呟きが漏れた。

 無理もない。自分と同じ平民のはずのグラハムが、突然、魔法を使ったのだ。それも特別なマジック・アイテムを使った様子なく、素手から、風の魔法の代表格、エア・ハンマーを放った。彼の感じた驚きは、ウエストウッド村で暮らすみなの驚愕でもあった。

「……聞いたことがある」

 サムに体を支えられながら上体を起こし、二人の戦いを見つめるボング砲兵が呟いた。

「ティール・グラハムは昔、とある貴族の召使いだったって話だ。その貴族は、優れた水のメイジで、特に回復の魔法を得意としていた。彼は新しい医療魔法の術式研究に精力的で、ときには非道な人体実験もしたって……」

「その通りだよ、砲兵君」

 ボング砲兵の言葉に、瞬を睨んだままグラハムが頷いた。

「私はその人体実験の犠牲者というわけだ。もう、七年も昔のことだがね」

 グラハムは両手の甲に刻まれた“記録”と、“再生”のルーンを示して言った。

件の水メイジが当時研究していたのは、平民でも使える回復魔法の術式だった。外科手術の存在しないハルケギニア世界では、内科療法と回復魔法が医療の中心となる。このうち回復魔法は、メイジの絶対数自体が少ないことと身分差ゆえに、平民が気軽に利用出来るものではなかった。また、内科療法にしても、病状が重ければ重いほど、必要とされる薬は強力かつ高価なものとなる。これまた、所得の少ない大多数の平民には、手の出せる代物ではなかった。

 こうした医療の現状に加えて、医学知識の低さと食料供給の不足から、ハルケギニア世界における一般大衆の死亡率は、現代地球と比べれば極めて高かった。かつてグラハムが仕えた水メイジは、この現状を憂いて少しでも死亡率を改善出来ればと、平民でも使える回復魔法の術式研究に乗り出した。その研究の過程で生まれたのが、グラハムの身体に施された術式だった。

「“記録”と“再生”のルーンを利用した術式だ。まず平民の肉体に“記録”のルーンを刻み、あらかじめ特定の魔法を記憶させる。次に、キーワードを口にすることでその魔法が発動するようよう、対となる“再生”のルーンを刻む」

 “記録”と“再生”のルーン。指を弾けば灯りが点いたり消えたりする魔法のランプなど、多くのマジック・アイテムに刻まれている二語一対のルーンだ。“記録”のルーンは文字通り、ルーンを刻んだ対象に魔法を記憶させる効果を持っている。魔法のランプの例でいえば、火を起こす魔法と、火を消す魔法だ。他方、“再生”のルーンは、“記録”のルーンが記憶した魔法を、特定のアクションをキーにして発動させる効果を持っている。魔法のランプでいえば、指を弾く動作が、キー・アクションとなる。件の水メイジは、この二つのルーンを使って、平民でも回復魔法を使えるようにしようと試みた。

 その結果は失敗だった。

 魔法の発動に伴う精神力の消耗が、あまりにも莫大すぎたためだ。

 ハルケギニアの系統魔法は、発動に際して精神力を消費する。精神力とは、すなわち人間が持つ生命力の呼び名の一つだ。精神力の消費量は高位の魔法になればなるほど大きくなる。たとえばライン・スペルはドット・スペルの二倍、トライアングル・スペルはさらにその二倍で四倍消耗するといった具合だ。

 高位のメイジは、魔法についての知識と技術を磨くことで、この精神力の消費量を減らすことが出来る。

 では、魔法について何の知識も技術も持っていない平民が、いきなり魔法を唱えればどんな事態になるか。答えは明白だった。

 水メイジはこの術式を自らの屋敷で働く使用人たちに強制的に施した。

 精神力とはすなわち生命力。

 魔法の扱いに慣れていない平民の使用人達は、急激な生命力の喪失が原因で次々人事不省へと陥り、最悪の場合死にいたった。

 水メイジはまず、初歩の初歩たるドット・スペルの回復魔法を平民の肉体に刻み、それに成功したら、徐々にスペルを高等なものにしていこうと考えていた。しかし、記録と再生のルーンを使った術式は、最初のドット・スペルからして躓いてしまった。

「その場で死んだ者はむしろましだったかもしれない。実験術式を施された者の中には、いまでも昏睡状態から覚めない者もいる。私は幸い、生まれつき精神力が強かったらしく、いまも五体壮健でいられているがね」

 水メイジは、これは実験だからと、使用人達の身体に様々な魔法を“記録”していった。グラハムの場合は、“風”のドット・スペル、エア・ハンマーの魔法。自分の身に得体の知れない術式を施そうとする主人に、グラハムは当然抵抗したが、魔法で拘束され、結局はルーンを刻まれた。

 グラハムは主人から授かった力をもって水メイジに復讐を果たし、その後は、当時すでに水面下で勢力を拡大しつつあったレコン・キスタに接触。貴族派の特攻隊長として、数々の勝利に貢献した。

「平民の私だが、エア・ハンマーの威力は本物だよ。投降するなら、いまのうちだが……」

 左右の拳を打ち合わせ、全身から発する覇気も猛々しく威嚇しながら、グラハムが言った。

 他方、対峙する瞬は「面白い技だ」と、呟くだけで、それ以外は特に目立った反応を示さなかった。突然の魔法攻撃にも、動じた様子はない。

「神剣魔法以外で、こうも魔法じみた技を見るのは初めてだ。……もっと見せてくれよ」

「ぬかせ!」

 無頼な発声とともに拳を突き出した。“記録”と“再生”のルーンが輝き、突き出した鉄拳からエア・ハンマーが発射される。

 先ほどと同様避けようとした瞬は、しかし、舌打ちとともにその場に踏みとどまった。〈誓い〉が鈍い輝きを発し、ダークフォトンのバリアを前面に展開する。バリアの形状は直径八メートルの半円形。圧縮空気の砲弾が精霊光の壁を叩くも有効打とはならず、逆にダークフォトンの発する高熱によってプラズマ化、消滅した。

 バリアを展開した瞬の行動に、グラハムの表情が怪訝なものとなった。

 先の一撃は回避したのに、いまの一撃はバリアで防いだ。エア・ハンマーの打撃を回避するだけの運動能力がありながら、いったいなぜ……。

 グラハムの抱いた疑問は、同時にサム達ウエストウッド村の子ども達もまた同様に抱いた疑問だった。

 ただ一人、ティファニアだけが、なんとなくこういう理由だろう、と考えていた。

「……なるほど」

 不意に、瞬の背後へと視線をやったグラハムは、得心した様子で呟いた。

 一発目のエア・ハンマーを避けた直後に、瞬が移動したその場所。彼の背後十メートルほどの位置に、ボング砲兵を最初に見つけたジャックの姿があった。もし、瞬が初撃と同様回避行動を取ったとしたら、あの少年がエア・ハンマーの直撃弾を受けることになっていただろう。

「ずいぶん、可愛らしい理由だな」

「勘違いするな。べつにあのガキのためじゃない」

 背後には一瞥もくれることなく、グラハムに冷然と言い放つ。

 両者のやり取りから、瞬が回避行動を取らずにバリアで防いだ理由を察したサムの表情に、驚愕の色が浮かんだ。対象的に、やっぱり……、と安堵するのはティファニアだ。

 外野から送られる様々な感情を孕んだ視線を一切無視して、瞬は続けた。

「いまここであのガキに死なれるのは、僕にとって都合が悪い。だから守った。全部、僕の都合だ。あのガキのためじゃない」

 桜坂柳也という名前を知らないか、と訊ねたとき、ティファニアは、知らない、と自分に答えた。

 とはいえ、この村で出会った少女が、倉橋時深の言っていたティファニアである可能性は依然として残っている。この村で暮らすティファニアが、あの女の言っていた“ティファニア”なのか、もう少し側で観察し、見極める必要があった。

 そんな状況下で、あの娘が大切にしていると思しき子どもに傷を負わせるわけにはいかない。

 すべて、自分のためだ。行方不明の柳也を見つけ出すのに必要なこと。だから、嫌いな子どもでも守ってやる。それ以上でも、それ以下でもない。

【はいはいツンデレツンデレ】

 ――うるさい黙れどこで覚えたそんな言葉。

【契約者の頭ン中にある、桜坂柳也との会話の記憶から学習した。いや、あいつ色々面白い言葉知ってるよなぁ。なぁ、契約者よぉ、突撃一番って何を差すのか知っているか?】

 頭の中で響く〈誓い〉の言葉を無視し、瞬はグラハムに向けて話題を転じた。

「……ともあれ、いまの打撃をバリアで防いだのは、思わぬ成果だった」

「ん?」

「実際にバリアで受け止めて、理解した。貴様の攻撃……エア・ハンマーと言ったか? あの一撃は……」

 いまだ展開中だったダークフォトンのバリアを、解く。

 瞬は余裕たっぷり、鋭利な美貌に冷笑さえ浮かべて言い放った。

「僕の肌に、かすり傷一つ負わせられない」

 バリアで、防ぐ必要さえない。

 グラハムの米神が、ビシリ、と痙攣し、強面の顔がさらに険しく硬化した。

「そう言うのならなら、次は避けるな!」

 右ストレートとともに、三発目のエア・ハンマーが発射された。

 対する瞬は避けることも、バリアを展開することもせず――――――、

 ただ静かに、〈誓い〉の柄頭から左手を離した。

 相棒の永遠神剣を右手一本で保持しつつ、左手は拳を作る。

「ふん」

 鬱陶しそうに、拳を空気砲弾にぶつけた。裏拳。衝撃で手の甲が熱くなるのを感じるも、それも僅かに一瞬のこと。拳の返しで軌道を逸らされた圧縮空気の砲弾は明後日の砲口へと飛び、森の木々を数本薙ぎ倒したところで、エネルギーを失い消滅した。

「…………」

 グラハムは愕然とした眼差しで瞬を見つめた。

 いやグラハムだけでなく、サムやボング砲兵といったギャラリーの面々も、唖然とした表情を浮かべている。

 いまのは……なんだ?

 いま、自分達の目の前で、何が起こった?

 弾いた、のか? エア・ハンマーの一撃を。拳で、それも素手で。

 驚愕。戦慄。恐怖。様々な感情が煮えたぎった眼差しを向けてくるグラハムに、瞬は自身の左手の掲げ、手の甲を見せた。傷一つない、白い肌を。

「ほら、傷一つついていないだろう?」

「こ、この化け物めぇぇ!!」

 グラハムが、裂帛の気合いとともに拳を突き出した。圧縮空気の鉄槌が、眼前の標的を叩き潰さんと真っ直ぐ飛んでいく。

 瞬は再びエア・ハンマーの打撃に自らの拳をぶつけて軌道を逸らすと、

「そう。最初に言った通り、僕は化け物だ」

 冷たい声が、グラハムの耳朶を叩いた。

 背後から。

 慌てて振り返ろうとしたその直後、右胸に違和感を覚えた。

 熱い。

 しかしまた同時に、寒い。

 目線を落とすと、背後から突き放たれた真紅の刀身が、胸板を貫通して切っ先を己の顎へと向けていた。

 最初に青年が言ったように、痛みはなかった。

 グラハムの意識は、急速に薄れていった。

 

 

 

 

 グラハムの意識が失われたことを認めた瞬は、彼の身体に突き刺した〈誓い〉の剣身をゆっくりと引き抜いていった。

 出血はほとんどなかった。真紅の剣身が纏うダークフォトンの熱が、傷口を塞いでいたためだ。精霊光の熱は剣身に付着した血脂をも蒸発させ、血振りの必要もなく、瞬は相棒の永遠神剣を抜き身のままベルトから吊り下げた。

 支えを失った六尺豊かな巨躯が、こちらへと倒れ込んでくる。軽くその背中を小突いて、軌道を修正。グラハムの身体は、ゆっくり前へと倒れた。

 ドスンッ、という地面を叩く重たげな音。

 戦いの始まりを告げた銃声とは対照的に、終わりを告げる音は低く、一度だけ、寂しげに響いた。

「……殺したのか?」

 二人の戦いを見つめていたボング砲兵が、背を向ける瞬に訊ねた。

 サムに肩を支えらながら上体を起こす彼の顔には、訝しげな表情が浮かんでいる。

 これまで死体を残すことなく敵兵を倒してきた男が、ここにきて死体が残るような形で敵を倒した。はたしてグラハム大隊長は死んだのか、まだ生きているのか。手負いの砲兵の位置からでは、判断が難しかった。

「……まだ生きている」

 ボング砲兵の問いに、瞬は背を向けたまま答えた。

 その場にしゃがみ込み、グラハムの身体を仰向きに直してやる。顔を泥と土とで薄化粧したグラハムの唇からは、苦しげな吐息が漏れていた。

「正確には、生かしてやった、だ。剣身は肋骨の隙間を通って右肺を貫通しただけだ。急所ははずしている。……剣の熱で傷口もすぐに塞いだ。これで失血死するようなら、もともと貧血気味だったんだろう」

「なぜ、そんなことを? あんたの力なら、そいつだって……」

「こいつにはまだ用がある」

「用?」

「僕はこの男がどんな組織の人間で、どれほどの地位にあるのか知らない」

 瞬はそこでようやくボング砲兵の顔を見た。

「だが、四〇〇人近い人間を統率していたことや行動からも、軍隊か警察、それに類似した組織の人間で、そこそこの身分にあるのは明らかだ。……仮に貴様がこの男の上官だとして、四〇〇人からなる部隊をある地点に送り込んで、一人も帰ってこなかったとしたら、どう思う?」

「……何かあったんじゃないか、って考える。それでその後は調査のために新しい部隊を……ああ、なるほど」

 ボングは得心した様子で頷いた。砲兵という、ハルケギニアの軍隊でも頭脳優秀でなければ務まらない兵科の人間だけに、理解力は抜群だった。

 四〇〇人からなる大隊が誰一人として帰還することなく行方不明になれば、当然、誰もが不審に思う。特に聡い指揮官でなくとも、いずれは事故や敵対勢力による攻撃の可能性に辿り着き、調査のための部隊編成へと動き出すだろう。

 貴族派からしてみれば一個大隊がまるごと行方不明になるという大事件だ。何が起こっても対処出来るよう、調査部隊の戦力は少なくとも連隊規模となるはず。調査の過程でグラハム大隊がウエストウッドの森の周辺で行方をくらましたことが明らかとなれば、今度はそれだけの規模の部隊が、この小さな村へと押し寄せることになってしまう。

 しかし、一人でも生存者がいれば、話は違ってくる。

「たった一人でも生き残りがいれば、いきなり調査部隊の編成なんて事態にはなるまい。軍のお偉方はまず、そいつの口が事の次第を聞き出そうとするだろう。そのとき、そいつが嘘の供述をすれば……たとえば、この村とはまったく別な方角、別な場所で、何頭もの『ドラゴン』に襲われて部隊は全滅した、とでも言えば……少なくとも、村の所在は隠蔽出来る!」

「そういうことだ」

 ボング砲兵の言葉に、瞬は言葉短く首肯した。

 頷きながら、瞬は改めて言語の習得こそが最優先事項だと確認する。ボングが何気なく口にした『ドラゴン』という単語は、瞬の知らないものだった。

「組織における身分が高ければ高いほど、この男の発言には信憑性が持たれる。『あの土地に手を出してはならない』と、この男が言えば、その通りになる公算が高い」

 瞬はかたわらで倒れる男を示して続けた。その言葉は、ボングに向けてというよりは、ティファニア達ウエストウッド村の住人達に向けたものといえた。

「だから、あの大隊で最も位の高いオフィサー・グラハムを生かしたわけか。……しかし、どうやって嘘を口にさせるつもりなんだ?」

「手はある」

 人心操作能力。第五位の永遠神剣の中でも特に強力な<誓い>の力をもってすれば、傷つき、消耗したいまのグラハムの精神を支配するなど容易いことだった。

 ――ついでにこの男の精神も支配してしまおう。

 瞬は「あんたスゲェな」と、しきりに感心しているボング砲兵の顔を見た。

 詳しい事情は知らないが、この村に災難が振りかかったそもそもの原因は、どうやら彼にあるらしい。自分に手間を取らせたのだ。本来ならばこの場で八つ裂きにしてやりたいところだが、ティファニア達の手前、そうもいかない。せめてこの村に近寄る気が二度と起こらないよう記憶を書き換えてしまおう、と瞬は考えた。

「待って、シュン」

 瞬が腰の永遠神剣に意識を向けようとした、そのときだった。

 背後から、制止の声が投げかけられた。

 勿論、ティファニアの言だ。

 平素の彼なら、佳織や柳也といった一部の人間以外の言うことを聞いたりはしない。しかし、いまはその柳也が行方不明という状況だ。彼を探す上でキーパーソンとなるかもしれないティファニアの発言に、瞬は黙って従った。

 振り返り、「なんだ?」と、問いかける。その発音は完璧だ。親友の柳也からは、「あいつは天才だ」と、評されている瞬だ。常人離れした記憶力と理解力、そして集中力を持つ彼は、早くもこの世界の言語を使いこなし始めていた。

「それ、わたしにやらせてくれないかしら?」

「……なに?」

 瞬の美貌に、訝しげな表情が浮かんだ。

 これまでの行動を顧みる限り、ティファニアは子ども達に慕われているというだけで、特に話術に長けている印象はない。とても交渉術の上手い人間には見えないが。

 表情から、瞬の懸念を察したか。ティファニアはほろ苦く笑ってみせて、

「あなたほどじゃないけれど、わたしにも、ちょっとした力があるの」

と言った。

 

 

 

 

 それから一時間後、意識を取り戻したグラハムをなんとか“説得”したティファニア達は、急ぎ本隊のもとへ戻ろうとする彼に僅かばかりの食糧を分け与えて、その後ろ姿を見送った。

 見送る一同の中には、瞬の姿もあった。

 遠ざかる後ろ姿を眺めながら、彼は隣に立つティファニアに問いかける。

「……いったい何をした?」

 押したり引いたり、脅したりすかしたり、瞬の知る限り、交渉術や説得術とはおよそそういったものだ。

 しかし、たったいま見せられたティファニアの“説得”は、瞬の知る交渉術の常識からあまりにもはずれたものだった。

 グラハムが意識を取り戻してからすぐ、ティファニアは彼の前に立つと、おもむろに口を開いた。

 しかし、形の整った唇から飛び出したのは脅し文句の類ではなく、耳慣れない発音によって構成された、歌うような調べだった。

 詠唱を終えた彼女は、いつの間にか取り出した小さな杖を相手に向けて振り下した。するといったいどうしたことか、途端、グラハムの態度が豹変した。起き抜けとはいえ、あれほど好戦的だった彼が突然呆けた表情になり、ティファニアの言葉を、素直に聞き入れるようになった。

 彼女が「仲間達はこの森に棲むリザードマンに殺された」と説明すれば、愕然とした様子で項垂れ、「もうこの森に近寄ってはいけない」と言うと、俯きながら首肯した。交渉と呼ぶにはあまりにも一方的なやり取り。記憶の書き換え。グラハムはティファニアの告げる誤った情報を、疑うことなく受け入れた。まるで催眠術にでもかかったかのよう、グラハムの態度だった。

 だが、ティファニアがやったことといえば、不思議な歌を口にしたことと、杖を振るというアクションのみ。特別、薬品を使ったり、トランス状態を誘発するような環境作りに努めていた様子もなかった。明らかに、催眠術の類ではない。

 だとすれば、自分の<誓い>と同じく、相手の精神に直接作用する何らかの力を行使したのか。

 瞬は油断のない眼差しでティファニアを見つめた。

 はたして、瞬の問いかけに、ティファニアは恥ずかしそうな声で答えた。

「あの人の記憶を奪ったの。ここに来た目的と、仲間を失った原因に関する記憶を、ね」

「……その上で、新しい情報を奴の頭の中に叩き込んだ、というわけか。だが、どうやって?」

「言ったでしょ、シュン? あなたほどじゃないけれど、わたしにもちょっとした力がある、って」

 ティファニアはそう言って微笑み、後ろを振り返った。

 視線の先には、彼女自身の自宅がある。室内では今頃、ボング砲兵がサムの手によって怪我の手当てを受けているることだろう。

「可哀想だけど、あの人の記憶も変えてあげないと」

 呟くティファニアの横顔を、瞬は険を帯びた表情で睨んだ。

 恐るべき能力だ。彼女自身は何でもないように告げたが、真実そう思う。永遠神剣などの道具を使わずに、他者の脳や精神に介入するなど、脅威の一言に尽きる。

 ――<誓い>がなければ、僕も記憶を奪われていたかもしれない……。

 胸の内で呟き、視線の先にある家の中で手当てを受けているであろう男の未来を憐れむ。聞けばあの男、負け戦の戦場からなんとか逃げ延び、やっとの思いで故郷に近いこの地までたどり着いたところを追っ手に補足されたという。そんな悲惨な目に遭ってなお記憶を奪われるとは……不幸と形容するほかなかった。

「その後は、あなたのことを教えてね」

 ティファニアは瞬の顔を見て言った。

 見ると、職人の手で磨き上げられたかのようなアクアマリンの瞳に、強い意志の輝きが宿っていた。

「あなたが何者で、どこの誰なのか、ちゃんと教えてちょうだい」

「……いいだろう」

 ティファニアの言葉に、瞬はゆっくりと頷いた。

 願ってもない申し出だった。目の前の女が倉橋時深の言っていた“ティファニア”かどうか、見極めるためにも、この女とはもっと会話する必要がある。この女の言動を、もっと観察する必要がある。

「僕も、貴様とは話したいことがたくさんある」

 自らの意思を告げて、瞬はティファニアの家を目指し歩き出した。

 家主たる少女は、慌ててその背中を追った。

 


<あとがき>

 

 異世界の言語をたった二日で覚えてしまうのが、秋月瞬が天才たる所以です。

 はい。読者の皆様、おはこんばんちはっす。タハ乱暴でございます。今回もゼロ魔刃をお読みいただき、ありがとうございました! 今回の話は、いかがでしたでしょうか?

 今回の話は難産でした。何が難しかったかって、瞬が意外と動かしにくい! もともと原作でも悠人や佳織とセットで描かれることの多い瞬でした。彼単体で書こうとするのが、こんなにも難しかったとは……辛い戦いだったなぁ。

 オース・ソニックはそんな苦闘の中で生まれたオリジナル・スキルです。一応、アセリア、ゼロ魔双方の世界観を壊さぬような技のつもりですが、どうでしたでしょう?

 さて、今回のEPISODE:49を持ちまして、Another Etranger編は終了です。次回からゼロ魔刃は原作第三巻へと突入します。

 次回もお付き合いいただければ幸いです。

 ではでは〜

 

 

 

 

 ところでタイトルに書いたティファニアのスペルって、あれでいいんだったか?




すぐに言葉を覚えてしまったな。
美姫 「本当よね。凄いわね」
正直、羨ましいな。と、それはさておき。
美姫 「今回は結構、大事になってしまったわね」
だよな。正直、瞬がいなければやばかったな。
美姫 「そうよね。でも、どうにか撃退もできたし」
これで森に入ってくる者も減るかもしれないな。
美姫 「救助されたボングはどうなるのかしらね」
まあ、このまま解放かな。ともあれ、瞬は事情を説明して、村に滞在という形かな。
美姫 「柳也との再会はいつになるかしら」
次回も楽しみに待っています。
美姫 「待ってますね」



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