注)本作はタハ乱暴著『永遠のアセリアAnother』と『仮面ライダー電王』のクロスオーバーです。作中には『永遠のアセリアAnother』の登場人物が出演しますので、最低、同作のEPISODE:01を読んでおくことをお勧めします。基本的にEPISODE:02以降に登場するキャラは出てきませんので、その点はご安心を。

 

 

――二〇〇七年五月十日、午前六時二五分。

 

桜坂柳也の一日は、早朝五時半に起きて、六時からのランニングから始まる。

まるで老人のような生活スタイルだが、本人はそのことをまるで気にしてはおらず、彼はもう十年以上、毎朝この日課を続けていた。

コースはいつも決まっており、アパートを出てすぐのところにある川の土手を走り、まだ人気の少ない商店街を回ってから、アップダウンの激しい坂道を何度も繰り返す。そして、神社の境内へと続く長い石段を上ってコースの半分を消化、元来た道を辿ってアパートに帰宅する、というものだ。往復の距離は約一五キロメートルで、彼はこれを、毎日三五分以内に走りきることを目標に掲げていた。ちなみに自己ベストは三二分二五秒。短銃計算で時速二八キロ近い速度で毎時走っていたことになる。

その日も柳也は朝五時半に起床して、六時にはアパートの部屋を出た。

土手を走って商店街を巡り、息を乱すことなく坂道を抜けて石段を駆け上がった。

ここまでの所要時間は一四分、これまでで最短の記録だった。

今日は自己ベストを更新出来るかも、と自信を漲らせつつ、柳也は元来た道を引き返した。

事件が起こったのは帰りのコースを走っている最中のことだった。

商店街を抜けた柳也は川の土手に下りると、さすがに悲鳴を上げ始めた心肺器官を宥めすかし、ラストスパートをかけていた。

周囲の景色が素早く流れ、正面と足下以外ほとんど視界はなくなっていた。

そんな状況の中、柳也が視界の端にその光景を捉えることが出来たのは、偶然か、あるいは日頃の行いのせいだったのか。

不意に視界に映じた対岸の様子に、柳也は思わず足を止めた。

見ると、対岸ではスーツ姿の中年男性が、四人の若者に囲まれながら何かを喚き散らしていた。

夜勤明けなのか、よれよれのスーツを着た男はやや後退した額に脂汗を浮かべ、顔面を蒼白に染めている。

他方、若者達は全員十代といった風情で、とてもまともな職や学業に就いているとは思えないいでたちをしていた。街ですれ違うとしても、出来れば近付きたくない手合いの連中だ。そのうち一人の手には、キラリ、と光るものが見えた。安物のナイフのようだ。

朝帰りのサラリーマンを狙った親父狩りか。

柳也は重い溜め息をついた。

どうやら、自己ベストは更新出来そうにない。

今は亡き柳也の父、桜坂雪彦は生前警察官だった。その血と、血に溶け込んだ記憶は、柳也の中にも脈々と受け継がれている。

なにより、囲まれているサラリーマンは柳也の顔見知りだった。柳也とも近所付き合い盛んな三五歳、近藤さんだ。コーポ扶桑で一人暮らしをしている自分のことを何かと気にかけてくれる男性で、冬の寒い日には屋台のおでんなどを奢ってくれた。放っておくわけには、いかなかった。

ふと目線を落とせば足下にはちょうど手頃なサイズの石ころが転がっていた。大きすぎず、小さすぎず、ピンポン玉よりやや小さいくらいの石で、質量も軽い。これなら、思いっきり投げつけたところで大事には至らないだろう。

柳也は野球部出身の友人から以前教わったフォームをそっくりなぞった。

石を振りかぶり、気合を入れて闘志を燃やし、全身を一本の弓として、矢を放つ。

「一球入魂っ! ジャイロボゥゥゥルゥゥゥゥッッ!!」

「ぐえぇぇぇっ!」

柳也の手を離れた石飛礫は、近藤さんを取り囲む一人の脇腹に見事炸裂した。カエルを押しつぶしたかのような悲鳴。運の良いことに、命中したのはナイフをちらつかせていた男だった。

「大ちゃんっ!」

脇腹に直撃弾を受けた男は、どうやら周りから「大ちゃん」と呼ばれているらしい。

若者達は一斉にこちらを睨んだ。近藤氏も驚いた眼差しをこちらに向けてくる。

対岸の柳也は、ニヤリと笑ってポーズを決める。右手は親指を立てた状態で顎下に、左腕は斜め後ろに伸び伸びと。

「俺、参上! ……ってな」

「てめぇっ」

柳也はおもむろに靴を脱いだ。裸足になって、川の中へと入っていく。ひんやりとした水の冷たさが、火照った肌に心地良い。

「こらこら皆の衆、集団で寄ってたかって、弱い者苛めはいかんよ? 苛め、かっこ悪い」

「関係ない奴はすっこんでろっ!」

対岸に到達すると、逆上した若者の一人がいきなり殴りかかってきた。大振りな上、体重の乗り切れていないパンチ。加えて、速度も遅い。

柳也は左足を前に、右足を後ろにした摺り足で難なくそれを避けた。

のみならず、全身と同時に相手の肘を叩き、身体ごと拳の軌道を反らしてやる。

足下もろくに気にせず一撃を繰り出したらしい彼は、ごく自然な形で身体の向きを変えられて、足をもつれさせて転んでしまった。

「あ〜あ、本当、かっこ悪いねぇ」

柳也は鼻を鳴らして笑うと、近藤氏のもとに歩み寄った。

「やぁやぁのび太くん、助けに来たよ」

「柳也君……それは暗に、僕が駄目な奴って言っているのかい?」

「いえいえ、そんなことはありませんよ。一八歳の時に若気の至りで彼女を孕ませてしまいそのまま出来ちゃった婚、いまでは三人の子どもに囲まれる生活を送っている人生の勝ち組、近藤さんを、そんな駄目な奴だなんて……」

「……誰かに説明しているのかい?」

「そんなことは。……怪我は?」

「幸い、五体満足なままでいられている」

近藤氏は若者達に取り囲まれていたときとは一転して落ち着いた態度で答えた。

近所に住んでいるこの中年男性は、目の前の青年が剣術の遣い手で、並々ならぬ腕前の持ち主だということをよく知っていた。すっかり安心しきった様子だ。

一方、無視された若者達は、逆にすっかり怒ってしまった。

「てめぇっ……」

「んあ? ああ、あんたら、まだ居たの?」

柳也はいまやっと気付いたといった風に驚いた表情を浮かべてみせる。

自分でも安い挑発だな、と思ったが、頭にすっかり血を上らせ、冷静さを欠いている男達には効果覿面だった。

「てめぇ、俺達にこんなことしてただで済むと思っているのか!?」

「……ただでは済まないだろうねぇ」

柳也は苦笑して頷いた。

「主に、お前達が」

「てめぇ! ……謝るなら、いまのうちだぞ?」

若者の一人が、喚くように言った。

それから、隣に立つ男を示して続ける。

「こちらにいる浩二さんは空手道初段の腕前だぜ? てめぇなんか、あっという間にノック・アウトだ」

「浩二さん」と呼ばれた男が、己の存在を誇示するように前へ踏み出した。一八〇センチはあろう巨漢で、体格もなかなか良い。なるほど、空手道初段というのもあながち嘘ではないようだ。なにより、纏っている雰囲気が他の連中と違う。

「……馬鹿だな、お前達」

「浩二さん」を前にした柳也は、しかし、侮蔑の笑みを浮かべた。

「戦う前から自分達の切り札を明かしてどうするよ?」

なるほど、空手道初段の腕前を持つ「浩二さん」はたしかに脅威だろう。

しかしそれを自ら明かしているようでは、「この浩二さんは危険なので気を付けて戦ってください」と、言っているようなものではないか。

「よっしゃ、分かった。浩二さんには気を付けさせてもらうよ」

柳也は「浩二さん」の隣に立つ男に向かって踏み込んだ。直前で、短くステップ。鋭利な右フックが、男の左顔面に炸裂する。骨の砕ける感触。心地良い。

ニヤリと笑いながら、次なる標的へ。身体を捻って、背後に回り込もうとしていた一人に鎖骨砕き。右手の人差し指と中指を僅かに突き出した拳で、相手の鎖骨を叩く。空手の技の一つだ。そのまま体当たりをして敵を吹き飛ばすと同時に、注意すべき「浩二さん」から距離を取る。

無論、体当たりと同時に左の拳で鳩尾を打つのは忘れない。

「大ちゃん」はいまだ脇腹を押さえてうずくまっている。

これで雑魚は全員片付けた。ようやく、気をつけねばならない「浩二さん」にのみ集中して挑むことが出来る。

柳也は「浩二さん」に向き直った。

「それじゃあ、やろうぜ、浩二さん?」

「チッ」

「浩二さん」が舌打ちした。

そして、いきなり殴りかかってきた。

予備動作のない右ストレート。しかし腕の振りといい、腰の捻りといい、空手の基本にして要点はきちんと踏襲した上で一撃を繰り出している。

――……なるほど、取得段位以上に喧嘩慣れしている。

柳也は両腕を十字にクロスさせた盾で拳を受け止めた。

「浩二さん」の目線と拳は、一点の迷いもなく心臓を狙っていた。

「浩二さん」が拳を引いた。一瞬の遅滞もない、流れるような動作で側頭部を狙った左のハイ・キックを叩き込んでくる。どこまでも急所狙いの戦い方だ。

柳也はまた右腕を盾にしたガードでそれを受けると、そのまま衝撃を利用して横に跳んだ。「浩二さん」の右拳は、がら空きになった腹部を狙っていた。

逃げる柳也を、「浩二さん」は追った。

着地した柳也は素早く体勢を整えると、それを迎え撃つべく、ボクシング・スタイルに構える。

肉迫する「浩二さん」の右足が消えた。脛を狙ったロー・キック。ローで体勢を崩し、ハイでトドメを刺す腹積もりか。

柳也はニヤリと笑った。興奮で、背筋が震える。やはり戦いは良い。それも真剣勝負。ルールも、制限時間もないまさしく命のやり取り。楽しくて、楽しくて、たまらない。

柳也の右足が消えた。

脛狙いのロー・キック。

ローとローとがぶつかり合い、続いてハイとハイとが激突する。

算段を崩された「浩二さん」の表情に、苛立ちが生じた。その顔に、苦痛による歪みが生じたのは次の瞬間だった。

柳也はロー・キックを繰り出すと同時に、左のジャブを繰り出していた。

無理な体勢からの同時攻撃。当然、威力は分散されてしまう。しかし「浩二さん」の額に炸裂したその一撃は、ほんの僅か、その身体を仰け反らせた。

柳也は左の拳を素早く引き戻した。右足も。体勢を整え、呼吸を整え、気力を漲らせ、闘志を燃やす。普段剣を握るときに自然とそうしているように、「あ」の口で息を吸い、「う」の口で止め、「ん」で全身に気を充実させる。その気を、右の拳に送り込む。

柳也は右のストレートを繰り出した。標的は仰け反った「浩二さん」の顎。

グローブも使わずに繰り出した素手の一撃は、確実に「浩二さん」の顎を砕いた。

そしてその衝撃は、「浩二さん」の脳を揺さぶった。

脳震盪。「浩二さん」はそのまま気絶し、地面に倒れた。

 

 

――二〇〇七年五月十日、午前六時三七分。

 

「いやぁ、本当に助かったよ」

スーツに付着した砂埃を払いながら、近藤氏は笑いながら言った。

「柳也君のおかげでお金も払わずに済んだし……このお礼は必ず」

「そうですか。だったら今晩に屋台のおでんでも」

「そこで『いいえ、お礼が欲しくてやったわけではありませんから』と言わないのが、君らしいな。……素敵だ」

近藤氏は柳也の手を取った。心なしか、鼻息が荒く、目が血走っているように見える。

「今夜は屋台といわず、一緒にホテルにでも……」

「あんたそっちの趣味の人だったの!? っていうか、あんた妻子持ちでしょう?」

「嫌だなぁ。冗談に決まっているじゃないか」

近藤氏は爽やかな笑みを浮かべて柳也の手を離す。しかし、柳也は彼の手を離さなかった。

「……と言いつつ、俺の尻を触ろうとしているこの手は何ですか?」

なぜか自分の尻を触ろうと伸びてきた男の手をつねりながら、柳也は訊ねた。

「はははっ、いや、あまりにも良い筋肉が付いた尻だったものだから」

「……近藤さん、どうやら俺は、もうあなたとは二度と一緒におでんを食べれそうにない」

「まま、そう言わずに。なんだったら、いまからでもホテルに……」

「いや、俺、これから学校ありますから」

「いいじゃないか! 学校をサボっておじさんとデートだ!」

心からの笑みを浮かべながら手を引こうとする近藤氏の行動に、柳也はしかめっ面になって溜め息をついた。彼はこの男を助けるために自己ベスト更新を諦めたことを後悔し始めていた。

 

 

すり寄る男と、なんとかしてそれをなだめすかし、暴走する想いに歯止めをかけようとする男。

そんな二人のやりとりを、ソレは、じっ、と見つめていた。

正確には同性愛者の男から逃げる男……柳也のことを。

――ようやく見つけた。

一目惚れだった。その男が戦う姿を見ていただけで、ソレの心は興奮で震え、全身が火傷しそうなくらい熱くなった。

人を殴る時に浮かべたあの不敵な笑み。同胞の骨を躊躇なく砕いてみせた時の、あの残忍な眼差し。

あの笑みが、あの視線が自分に向けられていたらと思うと……想像だけでゾクゾクくる。

特に、最後の男と戦った時に浮かべたあの、残虐で、それでいて楽しそうで、それでいて哀しそうな、あの笑顔。あの笑顔が、魂に焼きついて離れない。

たまらない。

たまらなく、愛おしい。

あの笑顔に、自分は心底惚れてしまった。

――決めた。あれが、わたしの契約者よ。

かつては自分がその獲物と同じ存在だったことを憶えているが、いまはそんなことはどうでもいい。

地上よりはるか彼方の高空から、虹色の輝きを纏わせた光の球は、じっ、と桜坂柳也のことを見つめていた。

 

 

 

 

 

仮面ライダー夢王

EPISODE:01「仰せのままにマイ・マスター」

 

 

 

 

 

――二〇〇七年五月十日、午前八時一五分。

 

その道の玄人からの誘いを丁寧に断り、無事に学校にたどり着いた柳也は、教室に到着するなり机に突っ伏した。

「……なんで朝からこんなに疲れなければならないんだ?」

柳也はひどく疲れた様子で呻き声を発した。

日課の早朝ランニングでは疲労こそあれど、その疲労が後々尾を引くということはない。あの「浩二さん」たちとの戦いも、さして長時間続いたわけではない。

しかし近藤さんとの己の貞操を賭けた言葉の応酬は、体力の塊と称されてもなんら不思議でない柳也に、極度の消耗をしいていた。体力というより、精神の方に。

「……朝から疲れているな」

背後から声がかかった。

首だけ動かして振り向くと、幼馴染で親友の瞬だった。

相変わらず銀糸とまごう長い前髪の下から覗く赤い双眸が、心配そうに自分を見つめている。

「何かあったのか?」

「……その道の玄人から愛の告白された」

「その道の玄人?」

「ヒント。その昔エイズはこの人達にしかかからないっていう偏見があった」

「ああ、そっちの連中か」

ガタガタッ、と背後で椅子が転がる音が甲高く響いた。

今度は身体ごとそちらを振り返る。

クラスメイトの男子学生が、わなわな、と震える眼で柳也を見つめていた。

「あ、あ、愛の告白だって!?」

「や、勿論、断ったけどな。いくら女に縁ない生活を送っているとはいえ、男に手を出すほど餓えちゃいない」

「そ、そうか。男には、興味ないのか……」

「……なんでそこで残念そうになるんだ?」

柳也は背後のクラスメイトに対して身の危険を覚えた。

別世界の自分は女性に囲まれ、しかも美人に恵まれている生活を送っているというのに。なにゆえこの世界の自分はこうも……。ん? 別の世界?

――……何の話だ?

柳也は怪訝な顔で首を傾げた。どうやらどこからか毒電波が降り注いだらしい。

「まぁ、それはさておき……」

瞬はひとつ咳払いをした後、柳也に話しかけた。

「無事で何よりだ。最近は東京の方で物騒な事件が相次いでいるからな。それに巻き込まれたんじゃないかと思った」

「ああ、例の怪物が人を襲うっていう事件だろう?」

柳也は瞬の言葉に相槌を打った。

今年に入って一月頃から東京で頻発している事件だ。なんでも、古いおとぎ話に登場するような怪物が人を襲っているという。コーポ扶桑の自室にはテレビはないが、新聞でそれぐらいのニュースは知っている。

「専門家の間では、七年前の未確認生命体の再来じゃないか、って説が取り沙汰されている話だろう? まったく、物騒な世の中だよな」

七年前の未確認生命体事件では三万人以上の人間が犠牲となった。

戦後最大の大量殺人には届いていないが、今回の怪物騒動も、かなりの被害者が出ているという。

いや、七年前の事件や、今回ばかりではない。

あの世界同時多発テロによって本格的に始まった二一世紀は、あまりにも物騒すぎる。

「二〇〇二年に続発した行方不明事件。二〇〇三年は大企業スマートブレインの倒産と不可能犯罪。二〇〇四年には怪物の都市伝説が流行った。……そういや、九九年には渋谷に隕石が落ちたよな? ちょっと最近、世の中急がしすぎるだろう?」

「たしかにな。怪物については、警視庁のX5だか、F5だか、たしかそんな名前の部署が躍起になって追っているらしいが」

G5な、瞬。まぁ、でもその怪物事件は東京メインの話だろう? 俺達には関係ないさ」

柳也は瞬を安心させるよう朗らかに笑いかけた。

この普段冷静な親友は自分と、もう一人の幼馴染のことになると普段の平静を忘れてしまうことがしばしばある。

「いざとなったら、第四号に守ってもらうよ」

七年前の未確認の事件で、唯一人類に味方した未確認生命体。そのコードネームを引き合いにした柳也は、この時、よもや自分が話題の怪物事件に巻き込まれることになるとは、想像もしていなかった。

 

 

――二〇〇七年五月十日、午前一二時五〇分。

 

富樫浩二はギプスと包帯で固定した顎を撫でて、痛烈な痛みに顔をしかめた。

小遣い稼ぎのために始めた親父狩りで、酷い目に遭った。

空手の腕にはそれなりに自信があったし、喧嘩慣れしているという自負もあったが、あの男はそんな自分を嘲笑うかのように、己のプライドごと顎を砕いた。それこそ、ネズミをいたぶりながら狩る猫のように、楽しそうに、笑いながら。

――俺が、ネズミだと!

浩二はいまだに痛む右足を見下ろして、その瞳に怒りの炎を灯す。

――違う。俺は犬だ。猫を狩る猟犬だ。

富樫浩二は一九歳、それなりの資産家の長男坊としてこの世に生を受けた。両親は彼に愛情と、富樫家のいっそうの繁栄を願う期待を注いだが、浩二には愛情も、期待も重荷でしかなかった。

親子の不仲が決定的となったのは、浩二が高校進学を果たした春のことだった。

中学時代から空手をやっていた彼は、高校進学後も当然のように空手部に入部しようとした。しかし浩二の抱いたささやかな望みは、叶わなかった。空手部に入りたいという彼に、両親が反対したためだ。浩二の通う高校は県内でもトップクラスの進学校で、生徒にはそれ相応の学力が求められた。

なによりも勉強を優先しなければならないのに、部活動などもってのほか。両親の言い分は浩二の将来を案ずるがゆえの言葉だった。しかし浩二本人は、これに反発した。部活動一つ自由に出来ないのか。自分は、両親の奴隷ではない。この時から、親子の間には決定的な亀裂が走ってしまった。

それからの転落は坂道を転がるかのごとく速かった。

浩二は高校を中退し、家を出た。アパートで一人暮らしを始め、アルバイトで生計を立てた。年齢を偽ってバーで働き始めた頃、いまの仲間とつるむようになった。

浩二の仲間達は、彼と同様、社会のつまはじき者だった。浩二は彼らに自分を重ね、彼らも浩二に自分達を重ね合った。

仲間同士傷を舐め合う毎日が続いたある日、仲間の一人の大介が、空手道初段の浩二の腕っ節を見て、「楽に小遣いを稼ぐ方法があるんですけど」と、親父狩りの話を持ちかけた。

「明け方っていうのは、人間の判断力なんかがいちばん衰える時間帯なんすよ」

夜勤帰りのサラリーマンを集中的に狙って、親父狩りを繰り返した。初めてハントで、浩二の一週間分の給料を稼いだ。こいつは割の良い商売だと、浩二たちは味を占めた。味を占めた結果が、今朝の殴り合いで、この有様だった。

――ちくしょう、ちくしょう! あの野郎、今度会ったらただじゃ済まさねぇ。

浩二の抱いた怒りは、それ自体理不尽な感情だった。

しかし浩二は、その理不尽な感情を募らせることでしか自分を慰める術を知らなかった。

「……ん?」

その時、視界の端で一瞬、何か光るものが見えた。

ガラスか何かに反射した陽の光が、頬を掠めていったか。

その場で立ち止まった浩二は、辺りを見回したが、それらしいものは見当たらない。

病院からの帰り道。いつものように人気のない路地裏の通路。光源となりえる電飾はなく、また高い建物が寄り集まって出来た影には、陽の光でさえ容易に入り込めないでいる。

何か光ったような気がしたのは気のせいだったか。

気を取り直して浩二が歩き出そうとした直後、不意に浩二は、嫌な感触を覚えた。服の内側が、なんとなく砂利っぽい。まるで海水浴場で服の中に砂が入ったような皮膚感覚だ。

不快な触感に顔をしかめ、浩二は服を払った。

すると、ジャケットの袖から、トラウザーズの裾から、大量の砂がこぼれ落ちた。

「な、なんだぁ!?」

浩二は思わず悲鳴を上げた。服の中に砂が忍び込んでいたこと自体驚きに値することだが、それにしても異常な量だ。バケツ五杯、いや十杯分はあるだろう。服の内側の僅かなスペースに、こんなにも多量の砂粒が紛れ込むなんて、物理的にありえない。

「な、なんだぁ!?」

二度目の悲鳴が、浩二の口から迸った。

大量の砂の放出が収まったかと思った直後、彼の目の前で、信じられない事態が起きていた。

砂が。

浩二の身体からこぼれ落ちた砂の山が。

徐々に波打ち、ひとりでに盛り上がり、次第に形を成していった。

人の形を。

人間の、上半身部分を。

――か、怪物っ!

浩二はギプスで固定された痛みも忘れて、腰を抜かしてその場にへたり込んだ。

それまで浮かべていた怒りの表情から一転、怯えを含んだ眼差しで、砂のヒトガタを見つめる。

「な、なんなんだよ、いったい!?」

三度目の悲鳴が上がった。

浩二の目の前でヒトガタをなした砂が、突如として声を発したからだ。

「お前の望みを言ってみろ。どんな願いも叶えてやる。お前の払うべき代償は、たった一つ……」

砂のヒトガタは淡々と浩二に告げた。

浩二の脳裏に、最近東京に出没しているという噂の怪物の存在がよぎったのは、その直後のことだった。

 

 

――二〇〇七年五月十日、午後六時。

 

放課後。

柳也はランニングコースの川岸で身を屈めていた。

中腰になって、川岸に群生している草花を摘んでいる。

どうやら戦闘狂のこの男にも、野に咲く草花を愛でる心があるらしい。

「オオバコ、タンポポ、ワラビに……イラクサ! ハナイもあるな。今日の晩飯はこれで決まりだな」

……訂正。どうやら川原には今晩の夕食のおかずを調達しにきたらしい。

「今週はついついイカ○ス出版監修の世界の名機シリーズ、スピットファイア編全種類を衝動買いしてしまったからなぁ。節約しないと」

柳也は人間としてなかなか駄目な呟きをこぼしながら、食料調達にいそしんだ。

と、その時――

「……あん?」

額に浮かんだ汗を拭い、不意に見上げた青空には、太陽が二つあった。一つは天高き場所からあまねく地上を照らし続け、もう一つは、ふわふわ、とどこか頼りない軌道を描きながら、こちらに向かって降下してくる。文字通りの、光の球だった。

「ひ、人魂だとぅッ!?」

柳也の唇から、驚愕の唸り声が迸った。

しかし光の球を睨みつける眼差しは、なぜか好奇心の輝きを宿していた。

「夏でもないこのシーズン、しかもこんな真っ昼間から人魂……こいつはドリームなシチュエーションだぜぇ。……む?」

突如として人魂が降下速度を上げた。

咄嗟に柳也が避けようとするよりも早く、彼の身体に激突した。

「むぅっ!」

痛みはない。しかし、不快な触感が全身を襲った。服の中が、不自然に砂利っぽい。まるで砂が入ったようだ。

服を払ってみる。

大量に砂がこぼれ落ちた。

ブレザーの袖から、スラックスの裾から、瀑布の如き勢いで、大量の白砂が飛び出した。物理的にありえない量の砂だ。

「な、な、なんじゃこりゃあああああああッ!!!??」

柳也は某ジーパンの似合う刑事よろしく、絶叫した。

茫然とした面持ちで、辺りを見回す。

柳也の周辺は、他ならぬ彼自身からあふれ出した多量の砂で埋め尽くされていた。

野生の草花が生い茂る川岸が、まるで砂丘のようになっている。

柳也は思わず己の目を疑った。ついで、これが夢ではないかと疑ってみる。舌を噛んでみると、痛みが走った。どうやら夢ではないらしい。

「こいつはいったい……」

何か尋常ならざる事態が、自分の身に起きている。

それまでのおちゃらけた様子から一転、柳也は真顔で身構える。

夕食の材料の入った買い物籠を放り、何時なんとき、どの方向から不測の事態が襲い掛かったとしても対処出来るよう、呼気を整え、即応態勢を作る。

猛禽類を連想させる柳也の双眸が、よりいっそう鋭さを増した。

視線の先では、到底現実の事象だとは受け入れがたい光景が広がっていた。

砂の山が、波打っている。

その一箇所だけがひとりでに盛り上がり、徐々に形を成していく。

人の。

人間の、上半身部分を。

頭が生じ、胴が生じ、腕が生じて、徹底的に簡略化された顔が生じた。目と、口の部分にへこみが、鼻の部分に盛り上がりが生じただけの、歪な顔。中性的な輪郭を持った、砂のヒトガタ。

「あんたの……」

不意に、柳也の耳朶を声が撫でた。野太い声だ。

それが砂のヒトガタが発したものだと気付くまでに、まばたき数回分の時間を要した。

そしてその間に、ヒトガタはさらなる言葉を、

「あんたの望みを言ってごっ……」

「悪霊退散!」

紡ごうとして、柳也の鉄拳によって粉砕された。

ちょうど人間の頭部にあたる部分を破壊されたヒトガタは、一瞬、怯むような様子を見せた後、すぐにまた周囲に飛び散った砂を集め、頭を復活させた。

表情らしい表情がないため、感情というものがまったく伝わってこないが、肩を怒らせるような素振りから察するに、怒っているようだ。

「ちょ、ちょっと、いきなり何すっ……」

「悪霊退散!」

またしても柳也の鉄拳がヒトガタの頭部に炸裂した。

再び頭部を失ったヒトガタは、方向感覚を見失ったか、あたふたとよろめいた。

「おのれ悪霊めッ。この桜坂柳也に取り憑くたぁ、いい度胸だ。俺は基本霊感ゼロ人間だが、これまでに幽霊を四人除霊した経験がある! ……と、いいなぁ、と思っている男だ!」

「それはあんたの願望じゃないっ」

また頭部を再生させたヒトガタが叫んだ。

砂で出来ているわりには、なかなかタフな奴だ。

「チィッ、なかなかしぶとい悪霊だな。では、今朝コンビニで一五〇円で購入した魔祓いの聖水、南ア○プスの天然水を……」

「いや、それ絶対聖水違うから。……そもそも、あたしは悪霊じゃないってばっ」

「じゃあ、化け物だなっ!?」

「化け物って……や、まぁ、あんたたちこの時代の人間からしたら、そうかもしれないけれど……と、ともかく、あたしの話を聞きなさい!」

「断る!」

柳也はきっぱりと言い切った。

胸の前で腕を組み、上から目線で言い放つ。

「化け物のたわ言に付き合うような耳は我、持ちえず」

「ちょ、ちょっとぉ、少しくらいいいじゃない」

「いや、断る。お前たちセールスマンはちょっとこちらが気を許すと、次々とマルチまがいの商法で、押し付けがましく商品を売ろうとするからな」

「……あたし、セールスマンじゃないんだけど」

「とにかく! 貴様に貸してやるような耳は二つしか持っていない」

「や、二つあれば十分だから」

というより、この男は三つ以上耳を持っているのか。

いまだ腕組みをしながら上から目線の柳也は、ふいっ、と砂のヒトガタから顔を背けた。

「べ、べつにお前が困っているようだから聞いているわけじゃないからな! このまま延々とやり取りを続けても、読者が疲れるだけと思ったから聞いてやるんだからな? 勘違いするなよ?」

「はいはい、ツンデレツンデレ」

砂のヒトガタは疲れたように溜め息をついた。

しかしすぐに姿勢を正すと、こほんっ、と咳払いを一つして、口を開いた。

「決まり文句なんだから、邪魔しないでよ? ……あんたの望みを言ってごらん。どんな望みも叶えてあげる。あんたが払う代償は、たった一つ……って、どこ見てるのよ?」

柳也の目線が自分に向いていないことに気が付いたヒトガタが、抗議の声を上げた。もし表情があったなら、三白眼で柳也を睨み、唇を尖らせていたことだろう。

他方、柳也は、自分の立つ川岸の対岸を見つめたまま、視点を一箇所に集中させていた。

額に、ひんやりとした脂汗が浮かんでいる。

砂のヒトガタもそちらの方を見ると、対岸には、若い男が一人、立っていた。ギプスと包帯で顎を固定した怪我人だ。

砂のヒトガタには一瞥もくれず、憎悪の篭もった眼差しを柳也に向けている。

今朝、柳也が叩きのめした、「浩二さん」だった。

 

 

――二〇〇七年五月十日、午後六時二〇分。

 

「見つけた、ぞ……」

富樫浩二は呻くように呟くと、おもむろに川の中へ足を踏み入れた。

服が濡れるのも、靴の中に水が入るのも構わずに、対岸の柳也のもとへと近付いていく。

「なんだ、今朝のリベンジか?」

ふらふら、とどこか頼りない足取りで歩み寄ってくる浩二を見た柳也は、挑発的な口調で言った。

砂のヒトガタのことなどもはや視界の隅にも置かず、臨戦態勢で身構える。

すでに思考回路は、砂の化け物に対するそれから、ルール無用の殴り合いに向けてのそれに切り替わっていた。

「ああ……」

柳也の挑発に、浩二が頷いた。

対岸にいた時は遠すぎてよく分からなかったが、たった半日でずいぶんとやつれている。顔色は青を通り越して土気色に染まっており、いまにも吐きそうな様子だった。

柳也は眉をひそめて言う。

「……やめとけよ。何があったか知らないが、いまのあんたのテンションじゃ、俺には絶対に勝てないぜ?」

再戦自体は柳也としても望むところだ。以前倒した相手でも、次に対戦する時に強くなっていれば、また戦いを楽しむことが出来る。

しかし、いまの浩二の顔色は、どう贔屓目に見ても、彼の心身が戦える状態にないことを示している。そんな相手との戦いは、柳也の望むところではない。戦ったところで面白くもなんともない。

「せめてその顎、治してから来いよ」

「必要ない」

しかし、浩二は柳也の言葉を一言の下につっぱねた。

ニタリ、と不敵な笑みを見せて、

「戦うのは、俺じゃない」

と、静かに呟いた。

次の瞬間、浩二の全身から白砂が噴出した。服の隙間から、ではない。文字通り全身の穴という穴、無論、毛穴からも、大量の白砂が噴出した。

「むッ!?」

柳也は反射的に後ずさった。

剣士の勘か、なにやら不吉な悪寒が背筋を走り、彼の意識を臨戦態勢へと駆り立てた。

「ふ、ふ、ふ……」

浩二が、不気味な笑みをこぼした。

唇の端からは、涎ではなく、白砂が垂れている。

やがて砂の噴出が止まり、こぼれ落ちた白砂の中から、ヒトガタが生じた。

鋭い爪。

強靭な四肢。

群青色の身体は、その大部分が刺々しさの目立つ鎧に覆われている。

そしてその頭部は――――――人の形態を、なしていなかった。

ヒトガタの頭部には、シェパード犬を彷彿とさせる犬の顔があった。群青色の体表と対照的な真紅の双眸が、柳也を睨んでいる。

人の姿をした犬。あるいは、犬の姿をした人。

その異容は、二十世紀最後の年に日本列島を恐怖の坩堝へと追いやった怪物達を彷彿とさせた。当時の柳也はまだほんの子どもだったが、テレビで、新聞で、あらゆるメディアで報道されたその姿を、彼は鮮明に覚えていた。

「み、未確認……?」

柳也の唇から、茫然とした呟きが漏れた。

しかし、目の前の異形は、彼のこぼした呟きを、鼻で笑って否定した。

「未確認? あんな時代遅れの連中と一緒にするな。俺の方が最先端だ」

怪人は不機嫌そうに呟いて、ついで、誇るように言った。

「俺は、イマジンだ」

ドッグイマジン。富樫浩二の想い描く『ブレーメンの音楽隊』のイメージから現出した、異形の怪人。

「この男を痛めつけるのがお前の望み、だったな……」

群青色の犬頭人は、浩二を振り返ることなく問うた。

浩二が無言で頷いた。

ドッグイマジンの耳が、ぴくぴく、と動く。

大気のそよぐ僅かな振動で、背後の浩二が首肯したことを察したか、ドッグイマジンも静かに頷いた。

「では、契約の執行を開始する」

ドッグイマジンの呟きが、耳朶を打ったと思ったその時、柳也は左側に殺気を感じた。

反射的に両腕をクロスした盾で側頭部を守ると同時に右へ跳躍。直後、柳也の両腕に凄まじい圧力がかかった。速い、と、そう思う暇すら与えられない。メキメキ、と骨の軋む感触。跳躍していなければ、間違いなく折れていただろう。

「グッ…ヌゥッ!」

衝撃を身体全体で逃しながら、柳也はなんとか着地した。

先ほどまで自分のいた場所に目線をやると、ややオーバーアクション気味に鉄拳を振り抜いたドッグイマジンが、感心したように口笛を鳴らしていた。

「ほぅ。生身の人間でイマジンの……それも、シェパード犬の俊足を得た俺の一撃を避けるか。なるほど、勘の良さそう男だな」

「へっ、そりゃあ、どうも」

「ちょっと、あんた何してくれるのよ!?」

それまで蚊帳の外に置かれていた砂のヒトガタが、ドッグイマジンの前に回り込んだ。

もとより表情のない化け物だが、明らかに怒っている様子だ。

「その男はあたしの契約者なのよ? 勝手に傷をつけないでちょうだい!」

「こちらも契約者の望みでな。わが親愛なる主は、この男が、『痛い』と無様に泣き叫ぶ姿が見たいらしい。……恨むなら、その男を契約者に選んだ、貴様自身を恨むんだな」

「ちょっと!」

なおも抗議の声を上げようとした砂の化け物を、ドッグイマジンは踏み潰した。

狩猟犬が獲物を追い詰めるように、咆哮もけたましく突進してくる。

ドッグイマジンの爪が、唸りを上げた。

「クッ……!」

襲ってきた烈爪の一撃を、間一髪のところで左に転がり避ける。

しかしすぐに方向転換をしたドッグイマジンの回し蹴りが、柳也の脇腹を薙いだ。

「――――――ッ!!?」

折れた。そう感じた。

声にならない絶叫。

柳也の身体は、川の中へと放り出される。

盛大に散る水飛沫の中には、赤黒い塊も混ざっていた。

ごつごつとした川底の上を何度も横転した柳也は、最終的にうつ伏せの形で倒れ込んだ。ガチガチ、と鳴る歯を必死に噛み合わせ、両腕に力を篭めて状態を起こす。

左の脇腹に激痛。肋骨骨折。何本が折れたのか。砕けた骨の破片が、内臓を傷つけているようだ。

加えて、横転の際に脳まで揺さぶられてしまったらしい。いまいち安定しない視界を引っさげて、ドッグイマジンの方を見上げた。

黒炭色の瞳には憎悪の炎が宿っている。しかし犬頭の怪人は、柳也の眼力など歯牙にもかけない。

「どうだ、痛いか?」

ドッグイマジンは柳也に近付くと、必死に起き上がろうとするその背中を踏みつけた。背骨が悲鳴を上げる。口と鼻が水面に没した。水の中でむせる。踏みつけられた拍子に、思わず水を飲んでしまったためだ。

「痛かったら、痛いと言え。泣き叫べ」

「がっ、だ、誰が……ぼほぉっ」

首だけを動かしてなんとか気道を確保した柳也は、しかし再び背中を勢いよく踏みつけられた衝撃で、また水を飲んでしまう。それどころか今度は川底の石に前歯が当たって、血が流れた。

「……ッノヤロゥ!」

「む?」

柳也の両手が、背中を踏みつけていない方の足を掴んだ。そのまま掬い投げる。

盛大な水飛沫が、また散った。しかし今度川底に突っ伏したのは、ドッグイマジンだった。

柳也はその隙に立ち上がると、川岸へと非難した。ただでさえスピード差のある相手だ。川の中で戦っては、あまりにも分が悪い。

「契約とか、イマジンとか、ワケわかんねぇことばかり言いやがって……っ。そんな奴の言うこと、誰が聞いてやるかよ!?」

「……面倒な男だな」

ドッグイマジンが立ち上がった。転倒によるダメージはまったく見られない。

「あまり手間をかけさせるな? 貴様如き男にそう長い時間かかずりあっている暇はないんだ。俺には、さっさと契約を終わらせて、やらなければならないことがあるんだ」

「だから、その契約っていうやつの意味が分からねぇって、言っているだろうがッ!?」

「ん?」

前に踏み込んだ。

ドッグイマジンの俊足を相手に自分が逃げ回れないのはすでに証明済み。ならば、あえて敵の内懐に飛び込み、死中に活を見出す方がまだ建設的だ。

――左右のワンツーは囮。隙を見せた瞬間に、本命を叩き込む!

脇腹の痛みを堪えながら、左ジャブ。

いとも簡単に右手の手刀で弾かれる。

すかさず右ストレート。と同時に、摺り足で右足を前に出す。

「契約のことを、知らないだと?」

ドッグイマジンの左手が消えた。

気が付いた時にはもう、右ストレートを受け止められた。

会話の機会を設けるためだろう、拳を掴んだままの状態で、砂のヒトガタを見る。

「まさかお前、そいつから何も聞いていないのか?」

「何度言われりゃ気が済むんだ? 日本語話せ」

左手は右ストレートを防御するため胸元に寄せられている。

ドッグイマジンの頭部はいま、無防備な状態だ。

最大の好機。

摺り足で引き寄せた右膝のスナップを利かせ、側頭目掛けて回し蹴りを叩き込む――――――

 

“ガッ……”

 

「なにッ!?」

会心の一打になるはずだった回し蹴りは、しかしあえなく不発に終わった。

ドッグイマジンが取った行動は、ほんの僅かに首を動かしただけ。

しかし突き出した肉食動物の顎と首の骨は蹴りの威力を完全に殺し、柳也の右脚を受け止めていた。

「……そうか。まだ契約前だったのか。どうりでそいつが実体化していないはずだ」

柳也の右脚を咥えたまま、ドッグイマジンは砂のヒトガタを見た。

ヒトガタはヒステリックに叫ぶ。

「そうよ! これから契約しようって時に、あんたたちが邪魔してくれたのよ!」

「そうだったか……だとしたら、俺は運が良い」

ドッグイマジンが顎を開いた。右脚を解放された柳也は、即座にバックステップ。改めて間合いを取り、左体側を前に出して身構える。

「貴様が実体化していたら、契約を果たせなかったかもしれん」

「だから、日本語を話せって言っているだろうが!?」

「……うるさいぞ」

目の前から、ドッグイマジンの姿が掻き消えた。

「いま、俺はそいつと話しをしているんだ」

次に声がした時、ドッグイマジンは柳也の背後に立っていた。

慌てて振り返ろうとした柳也は、しかしその瞬間身体の不調を覚えた。両足に力が入らない。そればかりか、腕も上がらない。

すれ違いざまに何か攻撃を受けたか。

見ると、両足の腱と左右の肩の間接部が切断されていた。計四箇所。出血している。

ぐらり、と視界が揺れた。

両足の腱が切られているような状態で無理に体を動かそうとした反動だろう、そのまま、うつ伏せに倒れてしまった。

そして直後、柳也はようやく、攻撃の痛みを知覚した。

「あ、ああああああ――――――ッッ!!!」

「大の男が喚くな。鬱陶しい。どうせ叫ぶなら、いっそ痛いと言ってしまえ」

ドッグイマジンは不機嫌そうに呟いた。

しかし、柳也の口から絶叫がやむことはない。

単に四肢の運動機能を奪われただけではない。肩を攻撃された際に血管まで切断されたらしく、流れ出す血が止まらない。このまま三十分も放置すれば、致死量に達する勢いだ。いや失血死を待つまでもなく、十分もすればショック状態に陥ってしまうだろう。

「お、おい、いくらなんでもやりすぎじゃないか?」

それまで、ドッグイマジンの戦いには不介入を貫いていた浩二が、おそるおそる、訊ねた。

ドッグイマジンに柳也への仕返しを依頼した張本人の彼だったが、さすがに危険と思ったのだろう。

「不満か?」

「い、いや」

ドッグイマジンがにらみを効かせると、浩二は押し黙った。

砂のヒトガタが叫ぶ。

「ちょっと! あたしの契約者を殺す気!?」

「そこまではしないさ。俺の契約者の望みはこの男を痛い目に遭わせること……ふむ。だが、その方が手っ取り早いかもしれんな」

ドッグイマジンは浩二を見た。

「おい、契約者よ。いまから契約内容を変更する気はないか? この男を痛い目に遭わせる、ではなく、この男を殺す、に」

「こ、殺すって……」

「そうだな。いっそその方が良い。お前は憎いこの男の存在を消せて溜飲を下げられるし、俺は契約を早く終えられる。お互い最もハッピーになれるパターンだ」

ドッグイマジンは浩二に近付いていった。柳也のことは、もはや毛ほども気にしていない。

犬頭の怪人は契約者の青年に詰め寄ると、胸倉を掴み、そのまま彼の身体を持ち上げた。

ヤスデの葉を思わせる柳也の拳よりふた回りは巨大な拳骨が、今朝顎を砕かれたばかりの男の気道を圧迫する。

「なぁ、そうしないか?」

「う、ぐぐぐぐぐ……」

浩二は顔を真っ赤にしてドッグイマジンの腕を叩いた。くぐもった悲鳴は、解放を求めているように聞こえる。

しかし丸太を思わせる強靭な腕は、びく、ともしない。

砂のヒトガタが、茫然と呟く。

「く、狂ってる……契約者に危害を加えるなんて……」

「人聞きの悪いことを言うな。俺は、効率を考えているだけだ」

「くっ」

ヒトガタは小さく舌打ちすると、いまだ悲鳴をこぼしながら、苦悶に表情を歪める柳也のもとへと肉薄した。

「ねぇ、あんた!」

「な、なんだ化け物!? ぐぅぅ…あぁっ、いま……話しかけるんじゃねぇ!!」

「そういうわけにもいかないのよ! あたしの命にも関わることなんだから」

ヒトガタは必死に訴えた。

「いい? あんたはいまのままだと間違いなく死ぬわ。医者を呼ぶにしても、まずはあいつをなんとかしないといけない」

「それが出来ないからいまぶっ倒れているんじゃねぇかッ!」

柳也はヒステリックに叫んだ。痛みからか、すっかり冷静さを失っている。

しかし砂のヒトガタは、構わずに続けた。

「なんとか出来る手段が、あるとしたら?」

「な、にぃ!?」

柳也の双眸が、鋭く光った。

力の入らない身体を必死に動かし、背筋の力だけでヒトガタを仰ぎ見る。

土と血で汚れた顔に、冷徹な表情が戻り始めていた。

「あるのか? あの化け物に対抗する手段が?」

「ええ。……時間がないから結論だけ言うわよ。あんた、あたしと契約しなさい」

「契約?」

「そう」

砂のヒトガタが頷いた。やけに人間臭い動きだった。

「契約を交わせば、あたしもあいつと同じように実体化することが出来る。実体化出来れば、あいつと戦える」

「戦う? お前がか?」

「ええ。……あんたが死んだら、あんたに取り憑いたあたしも消えることになる。そんなのは嫌だの」

「……へへっ」

柳也がニヤリと笑った。

折れた肋骨が内臓を傷つけている状態での、横隔膜の急激な振動に、喉の奥から血が込み上げてくる。それをぐっと堪えて、柳也は言った。

「正直な奴だな。でも、好きだぜ、そういうの」

「な、なに言ってんのよ!」

「ははっ、照れるなって」

柳也の目が、凶悪に輝いた。

絶体絶命のこの窮地にあって、なお不敵な笑み。

今朝、「浩二さん」との戦いを楽しんでいた時の、あの活き活きとした表情を、彼は取り戻していた。

砂のヒトガタが、はっ、と息を飲む。

「正直、契約とか、実体化とか、わけの分からないことだらけだ。けど、あいつに一泡吹かせられるっていうなら、いいぜ? その契約とやらを結んでやる」

「……その目」

「あん?」

「いいわぁ。すごくいい。爛々と光った凶悪な目つき。見ているだけでイッちゃいそうになるくらいよ」

不意に表情を持たない砂のヒトガタが笑ったような気がして、柳也は怪訝な顔をした。

「変な奴だな、お前」

「お互い様でしょ? あたしみたいな怪物の言うことを、いきなり信用するんだもの」

「へっ……違いない。……どうすればいい?」

「願い事を言って。一つだけ。あんたの願いを」

「願い事、か。そうだな……」

柳也は僅かな時間、沈黙した。どうせ願うなら、何か大きなことが良い。たとえばそう、全世界のミリタリー・オタクが憧れてやまない願いを……。

「……本物の、戦艦大和が見たい! これでどうだ?」

「あんたの望み、聞いたわよ」

砂のヒトガタが、砂の海に沈んだ。

白砂が飛び散って、柳也の目に飛び込もうとする。

柳也は思わず目を閉じた。

再び柳也が目を開けた時、黒檀色の瞳は、虹色の輝きを放っていた。

 

 

「いい加減、うん、と言ってくれないか? 親愛なるわが主よ」

富樫浩二は酸素不足で正常な思考が難しくなっていく中、必死に首を横に振り続けた。

自分が望んだのはあの男に仕返しをすること。しかしそれはあの男に自分と同じ程度の怪我を負わせたい、といった程度の願望に過ぎない。ましてや命を奪うなど、微塵も考えていなかった。

それなのに、自分の願いを叶えるためにやって来たというこの怪物は、そんな恐ろしい言葉を、いとも容易く言ってのけた。

――こいつ、普通じゃない……!

浩二は目の前の怪物に対して、今更ながら戦慄の感情を覚えた。

二本の足で立ち、人語を理解しているからといって、なぜこの怪物も自分達と同じ倫理や常識を共有していると思ったのか。怪物は、所詮怪物に過ぎなかった。怪物の倫理など、人間の自分が推し量れるわけがなかった。

「俺だって好きでこんなことをしているわけじゃないんだ。俺だってこういうことをしていると、心が苦しい。だから、早く、うん、と言ってくれ。この男を殺すことに、契約を変更するか?」

「い、いやだ……」

酸素欠乏により薄れゆく意識の中、浩二は必死に首を横に振った。

もはやそうすることでしか、ドッグイマジンに抵抗することが出来なかった。

「ねぇ」

不意に耳朶を、聞き慣れない声が撫でた。

どこからともなく漂ってくる、フローラルの香り。

ドッグイマジンの背後に憎き男の姿を見た刹那、浩二の意識へ闇へと落ちていった。

 

 

突如として背後からかけられた声にドッグイマジンが振り向くと、いきなり拳骨が顔面を襲った。

背後からの奇襲を浴びせられたドッグイマジンは、思わず浩二から手を離し、後ずさってしまう。

いったい何者が自分を攻撃したのか。顔を上げると、そこには先ほど自分が四肢の運動機能を壊してやったはずの男が立っていた。どんな魔法を使ったのか、はずしたはずの肩関節まで元通りになっている。

「貴様、なぜ……」

「うふふ、あんたって、意外と間抜けなのね。そういうとこ、ちょっと可愛いかも」

桜坂柳也は虹色の双眸に喜色を宿すと、くすり、と微笑んだ。

妙に艶っぽい微笑だ。それに、物腰もどこか柔らかい。口調もどことなくおかしな感じがする。姿形は先ほどまで自分に歯向かってきた男そのままなのに、まるで中身だけ別人になってしまったかのようだ。

「貴様、まさかっ……!」

そこまで思い至ったところで、ドッグイマジンは身構える。

先ほどまで青色吐息で倒れていた男。

目の前で、楽しそうに笑みを浮かべているいまの男。

この差を埋めたものの正体に、ようやく気が付いた。

「契約したな? その男と……っ!」

「ご明察♪ ……それじゃ、そろそろあたしの、本当の姿を見せてあげるわ」

男は、まるでファッションモデルのように腰をくねらせると、その場で一回転ターン。クスリ、と、物腰だけならば華族の令嬢にも負けぬ上品な笑みを見せ、その身から大量の白砂を溢れさせた。

瀑布の如き勢いで噴出した砂は、地面へ飛び散ることなく一つの形を成し、ドッグイマジンの前に立ちふさがった。

戦国時代の武者を連想させる具足姿。

腰には三尺近い打刀と一尺五寸の脇差を差し、肉食動物の顔を頂いている。

全体的に細身な印象だが、甲冑の下から覗く獣の肉体は頑健で、特に下肢はすらりと逞しかった。

鎧甲冑に身を包んだムササビ。

それまで余裕の笑みを浮かべていた男が、ばたり、と倒れた。

対照的に目の前に現われた異形の怪人は、やや突き出した顎をニヤリと歪めると、腰をくねらせた。

「あたし、参上よん♪」

ムササビの怪人が言い放った瞬間、ドッグイマジンは言い様のない悪寒を背筋に感じた。

口調や態度は女性らしさを感じさせるが、この声といい、あの身体つきといい……

「……お前、オカマだったのかよ?」

ムササビの怪人が現出した直後、壊れた人形のように倒れた男の口から、呟きが漏れた。

ムササビの怪物が、唇を尖らせて言う。野太い声だった。

「ちょっとぉ! オカマじゃなくってニューハーフって言いなさいよ」

「へぇい」

男が気のない返事を紡いだ。

そして男は、うつ伏せに倒れた体勢のまま、自分を見た。

「それじゃあ、やっちまえ、化け物!」

「仰せのままに、マイ・マスター」

男の呟きが聞こえた直後、白銀の流星が目の前で弾けた。

 

 

柳也の叫びが迸るのとほぼ同時に放たれた居合の初太刀は、鞘から抜き放たれてコンマ秒とかからずにドッグイマジンの胸部を切り裂いた。

残念なことに、犬頭の怪人の胴は堅牢な胸甲によって守られていたため、致命傷こそ負わせられなかったものの、ムササビの怪人が放った一撃は、これまででいちばんの有効打を与えるに至った。

「一気に攻め立てるわよん?!」

背後で倒れる柳也のことを気にしてか、ムササビの怪人は横薙ぎに放った刀身を頭上に持っていくや、左手を柄頭に添え、そのままドッグイマジンの肩口へと振り下ろす。

鋼と鋼がぶつかり合い、火花が散った。

追い討つように、返す刃で逆袈裟に斬り上げる。

それからは、反撃の暇を与えぬよう素早く、それでいて急所を的確に狙った容赦のない刀を振るった。

人間のそれをはるかに上回る膂力によって振り回された剣は、文字通り白銀の流星と化し、切っ先が描く軌跡は燕のように空を躍る。

ムササビの怪人が一太刀を振るう度にドッグイマジンの身体からは白砂が噴出し、俊足を誇ったその動きはみるみる鈍くなっていった。

「そろそろ終わりにしてあげるッ」

頃合良しと見たか、ムササビの怪人が相手との距離を取った。

手の内を整え、三尺近い大刀を冗談に振りかぶる。

一般的に実戦の場で上段に構えるのは素人の技とされる。しかし熟練者の中には、この上段からの打ち込みを必殺の一撃とする者がいる。数ある剣の技の中でも、上段からの面打ちが最も威力があることを熟知しているからだ。

斬撃に継ぐ斬撃を浴びせかけられたドッグイマジンの動きに、もはや怪人の太刀筋を避けるだけの軽快さはない。

ムササビ頭の怪人が、前へと踏み出した。

「あたしの必殺技、ラブ・ジェネシス・ストライク!」

天から地へと、稲妻の如く振り下ろされた白刃が、犬の眉間を捉えた。

「がああああああああっ――――――!!!」

ドッグイマジンの顎から、絶叫が迸った。

人体の正中線を一刀の下に両断され、血飛沫の如く白砂が舞い散った。

刹那、ドッグイマジンの肉体が崩れ落ち、その場には、大量の砂だけが残った。

 

 

思うように四肢の動かぬ身体に鞭をいれ、やっとの思いで寝返りを打って仰向けになった柳也は、犬頭の怪人を倒したムササビの怪物を眩しそうに見上げた。

「やるじゃねぇか、化け物」

自らの血の紅で真っ赤に染まった唇をニヤリと不敵に歪めつつ、咳き込みながら言う。

「説明してもらうぞ。契約とか、実体化とか、イマジンとか……その他諸々全部な。ただ、その前に……」

柳也は自分と同じように倒れている「浩二さん」を見た。

エドウィンのジーンズのポケットからは、ジャラジャラと連なったストラップが見える。膨らみ具合から察するに、携帯電話が入っているようだ。

喉の奥からまた、血の塊がせり上がってきた。

いよいよ失血量が馬鹿にならなくなり始めたらしい。視界も霞み始めている。

「まずは、病院連れてってくれ」

「仰せのままに、マイ・マスター」

ほろ苦く笑って、柳也は意識を失った。

 

 

――二〇〇七年五月十日、午後七時五〇分。

 

孤児院しらかば学園の院長・柊慎二のもとに、一本の電話が入ったのは、夕食後のコーヒーブレイクを楽しんでいる最中のことだった。

電話の相手は自らを名乗らず、用件にしても「いまから会えないか?」という簡素なものだったが、柊にはそれだけで十分だった。

「いつもの場所だな?」と、電話の相手に問うた彼は、応の返事を受け取ると、生徒達に一声かけて我が家ともいえる学園を出た。

 

 

――二〇〇七年五月十日、午後時。

 

十分後、柊の姿は学園から程近い霊園の中にあった。

鈴鐘寺という日蓮宗の寺が抱える墓地で、あまり広くはない分、よく手入れが行き届いている。碁盤の目のように整然と区分けされた墓地には、墓所特有の湿った暗さはなく、そこかしこに設けられた花壇が、孤独に墓石の間を通る柊の目を慰めた。

時刻はちょうど午後八時。

柊は三列目の奥から三番目に、目的の墓石を見つけて立ち止まった。

墓石には、『桜坂雪彦、咲』と刻まれている。かつて警官だった柊の同僚であり、親友だった男と、その妻の名だ。かつてしらかば学園の生徒だった桜坂柳也の、両親の墓だった。

桜坂夫妻の墓石の前には、すでに先客がいた。お目当ての人物だ。

一六〇センチに満たない柊とは対照的に、一八〇センチ近い大柄な男だった。初夏といえる五月にも拘らず、白いロングコートを羽織っている。その下には白いワイシャツと、これまた白いスラックス。全身を白一色で統一したファッションの中、山羊の子どもから作ったグローブがやけに印象的だった。

「久しぶりだな、柊。……ちょっと老けたんじゃないか?」

最初に声をかけてきたのは、相手の方だった。旧知の仲とはいえ、あまりにも失礼な言い草。しかし柊は気にすることなく、むしろ笑みをもってそれを受け入れる。

「君は、変わらないな」

墓石に刻まれた名前を指でなぞりながら、柊は呟いた。

「あの交通事故があった日から、ずっとそのままだ。……まだ、時の旅人を?」

「ああ。……不完全なハイパークロックアップシステムの影響だ。俺はこのまま、時の流れに逆らって生きていくしかない」

白服の男は自嘲気味に笑うと、柊の肩を叩いた。

「この時代にも、長くはいられない。用件だけを伝えるぞ。未来からの侵略者が、この町にも来ている。そのうちの一体は、あれに憑いた」

「柳也君、か」

「ああ。親が親なら、子も子だな。どうやら俺達親子は、トラブルの女神様に惚れられているらしい。その手の怪異なるモノと、縁が切れんようだ。……平行世界では、異世界にまで飛びやがった」

「正真正銘、君の息子だよ。女好きで、喧嘩好き、なによりトラブルが大好きなんだ」

柊は苦笑いを浮かべつつ呟いた。

穏やかに細められた双眸が、一瞬、動揺に見開かれる。

白服の男の身体が、透けて見えた。まるでB級ホラー映画に登場する幽霊のように、向こう側の景色が薄っすらとだが見える。顔の輪郭や、声さえも、徐々に判然としなくなっていった。

「……そろそろ、限界らしい」

「そうみたいだな。次は、いつ会える?」

「さて、な? 答えはこいつに聞いてくれ」

男はそう言って、自らの右手を掲げた。

男の右手には、黄金色の甲虫をモチーフにしたらしいモニュメントを頂いたブレスレットが巻かれていた。三本角のコーカサスオオカブトムシ。羽の部分には、メーカー名なのか、ZECTの刻印が印字されている。

「俺の旅の行き先はこいつが決める。この、カブティックゼクターがな」

「そうか。……なら、せいぜい、美人がたくさんいる所に行けるよう祈ってやる」

「サンクス。……柳也のこと、頼んだぞ」

「ああ」

柊が頷くと、白服の男は莞爾と笑って、消えた。

まるで初めからこの世には存在していなかったかのように、跡形もなく。存在したという痕跡一つ残さずに、消えた。

柊は桜坂夫妻の墓石に目線を戻した。

一度だけ手を合わせ、黙祷を捧げた後、彼は携帯電話を手に取った。電話帳メニューを開き、登録されている古い知人の名前を探した。

電話機を耳に当てる。

五回コール音が鳴った後、件の人物が出た。

『はい。嶋ですが……』

「嶋さん。お久しぶりです。柊慎二です」

『おお、柊君か。本当に久しぶりだな。いったいどうしたんだね?』

「実はお願いがありまして」

『なんだね?』

「預かってもらっていた雪彦さんの遺品……ライダーパスを、返してほしいんです」

霊園に、春の風が吹いた。

温もりを帯びた風が、柊の前髪を揺らす。

墓石を眺める彼の顔には、冷徹な剣士としての表情が貼り付いていた。

 

 

 

 

 


<あとがき>

 

銀幕の向こうのモモの扱いに俺が泣いた!

……というわけで、またしても劇場版仮面ライダー電王……もとい、超・電王の影響を受けて執筆してしまいました。

しかも前回は電王の二次創作だったけど、今回はオリ主メインのクロスオーバー。カブティックゼクターだの、第四号だの、嶋さんだの、怪しげな単語のオン・パレード。正直、需要があるかどうかすんごく心配です。

でも、いいです。

感想はいらないし、読んでくれたかどうかも関係ないです。

だって答えは聞いてない! から(笑)。

 

お読みいただき、ありがとうございました。

 

 

……それにしても、パー子がやけに可愛く見えてしまうのはなぜだろう?




あははは、仮面ライダーはよく知らないけれど、柳也は柳也だなと思わず思ってしまった。
美姫 「確かに、柳也節というか、それは健在ね」
何やら怪しげな言葉も出てきたりと、続きがあるのかとちょっと楽しみです。
美姫 「投稿ありがとうございました〜」
ではでは。



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