注)この話はHeroes of Heartに登場するオリキャラ……闇舞北斗のストーリーであり、本編開始前の外伝的内容となっております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――1973年1月23日

 

 

 

 

 

真冬とは言え、モンテカルロに燦々と降り注ぐ正午の日差しは、紺碧の地中海を眠らせてしまうのではないか、と思わせるほどに、麗らかであった。

尽きぬ彼方へと茫漠たる広がりを見せている海面は、さながら鮮やかに磨き切ったサファイアの鏡のようで、浜辺に緩やかに打ち寄せる波はエメルド色に輝いている。

気温は14、5度ほど。

この季節のモンテカルロは、ヨーロッパの富豪や観光客が浪漫色の太陽を求め押し寄せる、夏のきらびやかさと賑わいから解放された、国際的避寒地として、比較的物静かな一面を取り戻す。

とはいえ、地中海に向って競うように林立する高級ホテルのいずれもが、華麗な伊吹を鎮め去ったわけではない。

むしろ、夏の喧燥から遠ざかったこの季節にこそ、と、ヨーロッパの大富豪達の絢爛たる生活が、其処此処の高級ホテルで繰り広げられることは、珍しくなかった。

だが、それらに気位と、誇りと、流麗な美しさはあっても、成り上がり者に見られがちな、醜悪な派手さは少ない。

そんな中、日本の大東亜企業グループ、大王産業の現社長……中原茂喜とその一団は、絢爛たる雰囲気の、『Hotel de Paris』の大宴会場の中では異質であった。

警視庁から派遣された、屈強なSP4人で周りを囲んでいるというのにも関わらず、中原の表情は穏かではない。自慢のカイゼル髭はどこか頼りなさげで、その瞳には不安の色があった。

 

「大丈夫です」

 

隣りで立っている中原の秘書が、彼を落ち着かせるように言った。中原が、緊張気味に頷く。

中原の秘書は、巨漢であった。名を、野崎茂という。もう50を越える高齢だったが、鍛え抜かれた肉体は、むしろ、中原を囲む4人のSPよりも、屈強である。

大王産業東京本社・社長付秘書という上品な肩書きとは似合わない男だったが、実質、秘書というより、ボディガードとして雇い入れられたというのは、社内でも多くが知るところだ。かつては陸上自衛隊空挺部隊で大勢の若手を育て上げた実績を持ち、20代のころ、フランス外人部隊に5年間籍を置いた経験を有していた。

 

「会場には財界の著名人が大勢いますし、SPやボディガードも大勢います。この状況下で、社長を暗殺するなど、不可能ですよ」

 

野崎の言葉に、中原は「うむ」と頷いたが、その表情はいまひとつ冴えない。

中原の不安の種は、一ヶ月前、大王産業のライバル会社である西部湘南産業が雇ったという、凄腕の殺し屋の存在にあった。

大王産業と西部湘南産業の歴史は、どちらも創設期からの因縁を持った、血で血を洗う関係であった。公には両者の社長が手と手を取り合って……といった、微笑ましい光景を見せているが、水面下では、それこそ熾烈な情報戦と、ゲリラ的な経済戦争を繰り広げている。無論、殺人もまた、しかりである。

大王産業がその情報を得たのは一ヶ月前。その殺し屋に関しての情報は、『凄腕』という以外になく、すべてが謎に包まれている。大企業、大東亜企業グループの情報網を持ってしても、その正体すら掴めなかったのだ。それでいて、一ヶ月前に情報は入ったというのに、未だ不気味に姿を隠している。

野崎は、中原が怯えるのも、分かるような気がした。

中原は、この2ヶ月ほど前に裏社会で突如として出現した、“ある噂”を懸念しているのだろうと、野崎は思った。

その噂について、野崎は、かつて彼の部下であった、現役の自衛官から、次のように聞かされていた。

 

「なんでもそいつは日本人で、『世界を変えうる3人の男』の1人として、カウントされてるらしいんですよ。英国情報部の切り札……ジェームズ・ボンド、米国CIA最強のスパイ……コナー・ウィルソンの2人を相手にしても互角に戦えるほどの実力を持っているって話です。……俺ですか? 勿論、そんなヨタ話信じちゃいませんよ。それも、そんな男がこの平和な日本にいるとも思えませんしね」

 

野崎は、その話を聞いて育て方を間違えたな、と思った。

“噂”についてはともかくとして、現在、日本は世界中から危険視されている。

太平洋戦争であれほどまで、完膚なきまでに叩きのめされたはずの日本は、わずか30年足らずの間に急成長を遂げ、あと数年もあればかつての国力を取り戻すであろう。

かつて真珠湾を奇襲攻撃した日本という国家の成長を、米ソは本気で恐れている。日本が再び『トラトラトラ』を打電する日がくるのではないかと、世界中が身構えている。

 

(……近いうちに、米国とソ連は手を組んで日本を攻撃してくる)

 

野崎は、口に咥えたケント紙をゆらゆらと揺らしながら、そう思った。

事実、野崎は知らぬことであったが、1年後日本は米ソが極秘裏に手を結んで設立された『GOD秘密機関』によって、侵略行為を受けている。

 

「……少し外に出ましょう」

 

緊張のしすぎは体によくないし、判断力を著しく損う恐れがある。

体の震えこそないものの、怪訝な顔をして辺りをきょろきょろと見回している中原を見て、野崎はそう薦めた。

中原が、ぎこちなく頷く。

SP達が動いて、一団はバルコニーに出た。

バルコニーは珍しく閉散としており、中原の一団以外には、1人、30代前後と思われる男が、クリスタルグラスを揺らしながら風に当たっていた。彫りの深い、精悍な顔立ちをしている。

野崎の視線が、その男に注がれた。

185センチは超えているであろうがっしりとした体に、りゅうと着こなした黒のタキシードが似合っている。ワイングラスを握る右手と、軽く握り締められた左の拳、そして、引き締まった口許には、並の者には見られない強靭な何かが覗いているのだが、直立不動に近いその姿勢は、あくまで“静”であった。身構えた固さなどは、微塵もない。

男の表情は、カミソリを思わせるような鋭いものだったが、バルコニーから見えるスイセンの花を見る瞳は、優しげな視線を放っていた。

地中海沿岸に咲くこの花は、最盛期が12月〜4月の間という、多年性の球根植物だ。

花弁の色は赤、ピンク、黄、オレンジ、白、緑と、実に様々で、男の見ているスイセンは、白い花弁をしている。

野崎は、男の放っている気配にただならぬものを感じながらも、視線を背けた。

 

「ギリシアの青年ナルキッソスは、その美貌から多くの乙女達を虜にしましたが、自分からは決して人を愛そうとはしませんでした……」

 

突然、何の前触れもなく男が、日本語で言った。

4人のSPのうちの何人かが一瞬ぎょっとして男を睨みつけたが、彼はそんな視線に気付いていないのか、唇から、歌を歌うように言葉を紡ぎ出す。

 

「その冷たい態度は森のニンフ、エコーが、仕事が出来なくなるほど彼を愛した時も変わらず、復讐の女神“ネメシス”は怒り、『人を愛せない者は自分自身を愛すればいい』と、呪いをかけたそうです。たちまち、ナルキッソスは水面に映った自分の姿に恋をし、その恋の苦しみで、食事も喉を通らなくなり、次第にやつれ、ついには1本の白いスイセンになったそうです……」

 

男が、冷笑を浮かべてワイングラスの中に浸された琥珀色の液体を、一気に飲み干した。

そして中原に向き直ると、一言……

 

「太平産業社長……中原茂喜、あなたには、青年ナルキッソスのように地中海のスイセンの糧となってもらう」

 

刹那、男が秒とかからぬ速さでタキシードの内側へと手を潜らせ、4本のナイフを投擲した。

弧を描きながら空を舞うナイフは、寸分の狂いもなく4人のSPの眉間に刺さり、彼らは、反撃をすることもなく絶命した。

 

「社長ッ!」

 

野崎が、反射的に懐に隠し持った自動拳銃に手を伸ばし、叫んだ。

だが、野崎が男に向って発砲するよりも速く、男は10メートルほどあった距離をコンマ3秒とかからずに詰め、男の拳銃を蹴り飛ばした。

……否、飛ばされたのは拳銃だけではない。

男の放った蹴りの威力は壮絶で、拳銃と一緒に、野崎の鍛えられた鋼のような手首すべてを持っていった。

男は、脊髄反射で絶叫を上げそうになる野崎の口を素早く塞ぐと、その首を、指3本で折った。

 

「…………ッ!」

 

野崎が、悲鳴も上げずに絶命する。

中原は、目の前で起きた2秒とかからぬ殺人劇に立ち竦み、尻餅を着いた。

助けを呼ぼうとするも、恐怖からか、上手く舌が回らない。

もし、ここで彼の舌が少しでも回って、「助けてッ!」と叫べたならば、彼の命は救われただろう。

男は秒とかからぬ速度で中原に近付き、彼の口を塞いだ。

 

「貴様の血で、白いスイセンを赤く染め上げろ……」

「お、お前は一体…………!?」

「…… killing gentleman 人からは、そう呼ばれている」

 

男は、無情にもそう言い放って、脂汗の浮かんだ中原の額を、人差し指で突いた。それだけで、中原の頭が拳銃で撃たれたように穴が穿たれ、脳髄がグチャグチャに掻き回される。

中原は、恐怖と激痛の中で、息絶えた。

男は、大宴会場にいる誰一人に見付かることなく6人もの殺人を犯すと、その死体すべてを、バルコニーから、スイセンの花が咲く大地へと捨てた。

男は、何事もなかったかのように踵を返し、大宴会場へと向った。

 

Which will you take, beer, wine or whisky ?

 

空のワイングラスを持った男を見つけて、ブロンドの女性が、『ビールか、ワインか、それともウィスキーはいかがですか?』と訊ねてきた。

男は、しばし迷って、ワインを頼んだ。

ワインは、グルジア産の、ソ連でも最高のものだった。

男は、それを受け取ると、バルコニーに向って「Silent toast……」と、呟いて、ワイングラスを傾けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Heroes of Heart外伝

〜漆黒の破壊王〜

―――奪われた誇り―――

第七話「改造“人間”」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――1973年1月24日

 

 

 

相模灘を背にした三浦半島の先端に、茅葺の豪壮な屋敷の姿があった。

開放された重厚な四脚門はまだ新しく、少なくとも、建ってからまだ20年と経っていない。

門の内側には、枯山水の庭園が広がっていた。

屋敷の門柱に、『夏目』の表札がかかっている。

その屋敷の門前に、1台のバイクが静かに止まっていた。粛然とした屋敷の雰囲気からすると、黒一色で統一されたバイクのボディは異質である。

バイクに跨っているのは、30前後の男性であった。185センチはゆうにある巨漢でありながら、その身は長身痩躯である。真一文字に引き締まった薄い唇からは、男の意思の強さが、男ならずもうかがえる。サングラスをかけているため、その双眸は見えなかったが、隠された瞳は、ギラギラと何かを射るような光を放っていた。

男は、バイクのエンジンをかけたまま、時計を見た。

時刻はもうじき、午後2時を指そうとしている。

屋敷の周りは、山桜が厳かな雰囲気を醸し出していた。人の手によって植えられたものなのだろう。どこか人工的な、規則正しい整然とした並び方をしている。

時計の針がちょうど2時を指すと、それが約束の時間なのか、男はバイクのハンドルを握り締め、夏目邸の門内へと乗り入れ、すぐ右手にある駐車スペースに、バイクを停めた。

開いていた屋敷の門が、かすかに軋みながら閉まっていく。

男は、バイクから降りて、サングラス越しに枯山水の美しい庭園を眺めながら、長い石畳を踏んで、玄関へと向った。庭は、石畳の左右に延びるかたちで、広がっていた。

石畳が、玄関の少し手前で、二手に分かれていた。一方は玄関へとまっすぐ向かい、もう一方は庭に沿って右へ折れ、屋敷の裏手へと繋がっている。

男は、石畳を右に進むと、少しだけ歩を速めた。茅葺屋根は葺き替えたばかりなのか、噎せ返るような萱の匂いが、広々とした庭内にたちこめている。

屋敷の裏手へと回ると、格子戸を嵌めた、立派な冠木門があった。表の四脚門を知らぬ者が見れば、おそらくこの冠木門こそが、正門と勘違いするであろう。

格子戸のずっと向こうには、点在する農家が見え、その集落に向って冠木門の前から、舗装された農道が、一直線にのびていた。

男が、縁側に正座している老人に気付いて、立ち止まり、威厳を正す。

 

「来たか……」

 

老人が、呟いて、カミソリを思わせるような、冷徹な笑みを浮かべた。その眼光は、鋭い。

男は、サングラスをはずすと、羽織っていたライダースーツの胸ポケットにそれを差し込んだ。

 

「大王の中原が死んだそうだね……まま、座りなさい」

 

老人が、穏かな声で切り出した。

男は、静かに頷きながら、老人に促がされるままに縁側へと腰を降ろす。その際に、さり気なく周囲を見回した男の仕草が、彼をよりいっそう、ただ者ではないと印象付けさせる。

 

「日本茶がいいか、それともコーヒーにするかね」

 

老人に訊ねられて、男は「茶を……」と、短く答えた。

老人が、近くにあったベルを鳴らして、使用人を呼びつけると、「茶を2杯……」と、やはり言葉短く告げた。

老人の名を、夏目源三郎といった。全国に65の支社を持つ、西部湘南産業の社長職にあり、今や大東亜企業グループとの年商差を7千億円にまで詰めた、国内第3位のコンツェルン……夏目財団の、幹部メンバーである。

西武湘南産業は、関東圏内に7社、北海道に11社、東北地方に9社、東海に6社、関西・近畿に12社、四国に7社、九州に13社をおく、全国規模の展開をしている超マンモス企業だ。軽電、重電、造船、航空、車両、製鉄の六事業部を有する、いわば、一大コンゴロマリットとも言える。

強大な財力を誇る夏目財団の、総資産の17%を占めている西部湘南産業は、夏目財団の中でも、かなりの地位を獲得している。

 

「今朝の朝刊に載っていたよ。『大東亜グループ、大王産業社長、中原茂喜殺害』とね」

 

源三郎は、男に件の朝刊と思われる新聞を渡すと、地頭気味に笑った。

 

「『犯人は不明で、モンテカルロにいる不良外国人の仕業と思われる』か……まったく、おかしな話だね、その不良外国人は、私の目と鼻の先にいるというのに」

 

男は、愛想笑いのひとつも浮かべぬまま、新聞を折り畳んで、源三郎へと手渡した。

源三郎が、上目遣いで男を見据えながら、それを受け取る。

男は、源三郎がどのような話を持ち出すか、すでに知っていた。というより、その話……否、条件を切り出したのは自分なのである。分からぬはずがない。

端正なマスクを持ち、冷ややかな凄みを漂わせる彼の名は闇舞北斗。

悲運の宿命を背負い、非業の過去を背負った、非情の戦士……『killing gentleman』その人である。

過去において、かつてたった1人で自分の所属していた事務所を壊滅させてしまった、若干15歳の死の天使……『killing child』として、あるいは、秘密結社〈ショッカー〉と呼ばれる組織における最強の戦闘員として、表社会、裏社会の両方から恐れられてきた存在である。

過去の事件によって、3ヶ月にも及ぶ仮死状態から復活した彼は、兵器としてのロボットを製造し、世界中に販売する死の商人……秘密結社『ダーク』、そして、今や日本第3位の巨大コンツェルン……夏目財団の両方から依頼を受ける、プロの暗殺者として活動していた。

復活したかれの異名は『killing(死の) gentleman(紳士)』。

その名前はこの2ヶ月の間に、世界中に轟き、彼自身も知らぬまま、『世界を変えうる3人の男』のひとりに、カウントされてしまっている。

いまだ独身の29歳。だが、精悍なマスクのせいか、実際の年齢よりも4つ、5つ年老いているように見えれば、やはり4つ、5つ若くも見える。

 

「キミが依頼を受ける必要最低限の条件だったな……君が依頼遂行上やむおえず殺してしまった警視庁のSP4名、ボディガードの野崎茂、そして中原茂喜の遺族に対しては、できる限りの償いはさせてもらったよ。もっとも、殺されたSPのうちの1人は、天涯孤独の身の上のうえ、妻も子もいなかったんだがね……」

「そうですか……」

「……しかし、君も変わっているね。普通は、暗殺者は殺した相手の遺族のことなど考えないものだと思うのだが……」

「偽善者を装っているだけです。そうすることで、少しでも罪悪感から逃れようとしている……愚かな行為ですよ、本当に」

 

それだけ言うと、北斗はもう用件は済んだといった様子で立ち上がった。

源三郎が、「まだ茶も来ていないじゃないか」と、苦笑する。

ふと、北斗は枯山水の庭園に植えられた、海棠の若木に視線をやった。若木はまだ花弁の服を纏っておらず、どこか寒々として、頼りなさげに見える。

彫りの深い北斗の横顔に、憂いの表情が浮かんだ。

 

「ゆふぐれを籠へ鳥呼ぶ妹の爪先ぬらす海棠の雨……」

「与謝野晶子か……」

 

北斗の唇から紡がれた歌に、源三郎が呟いた。

北斗は、肯定もせず、否定もせず、ただ無言であった。

 

 

 

 

 

闇舞北斗が、秘密結社『ダーク』から与えられたモンスター・バイク『イスカリオテ』を駆って、目的地に到着した頃には、すでに日も暮れようとしていた。

時刻は午後4時。

真冬の日暮れが早いのはどこも同じで、北斗は西の空にぼんやりと見える夕焼けを眺めながら、イスカリオテのスピードを絞った。周りには北斗と同じようになライダー達がいるが、誰一人として、西の空を見上げようとはしない。……みんな、北斗のようには、夕焼けが見えていないのだ。

改造人間である北斗の視力は常人を遥かに上回る4.0。その調整は彼の意思によって自由に行なえ、普通の人には見えない現象でも、北斗は見ることが出来る。

雄大な大自然が織り成す、夕焼けというコラボレーション……しかし、この街にいる人は誰一人として、それを見ることは叶わない。なぜなら、自然を汚し、夕焼けを見難くしているのもまた、彼らなのだから……

ふと、北斗は天を仰いだ。

 

「……お前なら見えるよな、留美」

 

端正なマスクに微笑みを浮かべて呟く北斗の瞳には、慈愛の色が満ち溢れていた。

件の女性のフルネームは闇舞留美。北斗にとって、恐らくは生涯忘れることが出来ないであろう女性の、名である。

 

「……すべては俺のせいか」

 

北斗は、やや自嘲気味に笑って、イスカリオテを駐車場に停めた。

北斗に与えられた新しい住居は、住宅街に並ぶ高級マンションのひとつだった。ひと部屋の広さが約100平方メートルもある、2階建てのマンションである。

ひと部屋の広さが100平方メートルという、この高級マンションは、元々政府が建設した公舎だった。しかし、設備の老朽化を理由に、数年ほど前、安く売りに出されていたところを、夏目一族が購入し、改装して現在にいたる。

部屋の広さのわりには2階建てと低いのは、一般民家への配慮のためなのだろう。このあたりが、いかにも日本政府の建築物件らしい。

北斗の部屋は、このマンションの2階の一室を貸与されていた。204号室。それが北斗の、新たな家だった。

ドアの前に立つと、部屋の中から聞えるかすかな音も聞き逃さないよう、聴覚を研ぎ澄ます。

……異常はない。

部屋には、一緒に暮らしている同居人以外(・・・・・・・・・・・・・・)、不審な人物の気配はない。

北斗は、ドアノブに手をかけた。

 

“ガチャリ……ッ”

 

鍵も差し込んでいないというのに、部屋のドアは苦もなく開いた。

扉が開くその音が聞えたのだろう。北斗の耳に、“ぱたぱた”というスリッパを履いて歩く音が聞えた。

 

「おかえりなさい」

 

わずかにはにかみながら言う彼女の言葉に、北斗は微笑を浮かべて、

 

「ただいま……」

 

と言った。

 

 

 

 

 

――1972年11月12日。

 

 

 

 

 

「や、闇舞先生!?」

 

彼女は俺の顔を見るなり、愕然として俺の名を呼んだ。

……常々思っていたのだが、どうも、如月学園の屋上は俺にとっての鬼門らしい。

いつも……とは言わないが、かなりの確率で、思わぬ出会いや、邂逅を果たしてしまう。小島や夕凪のときも、そうだった。

雨である程度流されたとはいえ、全身に纏わりつく血液は、冷え固まって、べっとりと張り付いている。戦闘服の繊維の隙間を、埋める。

夏目先生は、俺の姿を見て、呆然としていたものの、すぐに驚愕の表情を浮かべ、駆け寄ってきた。

 

「ど、どうしたんです? 血だらけじゃないですかっ!?」

 

細く、長い綺麗な指先が、俺の頬を労りながら撫でる。Kの銃弾で負った傷が、指先が触れるたびにズキリと痛む。

 

「……大丈夫です。心配、しないでください」

 

俺は無理矢理に笑顔をつくったが、上手くいったかどうか、自信はなかった。

俺の言葉に、夏目先生は激しく首を横に振った。

現状を把握しようとしているのだろうが、明らかに混乱し、怯えている。

自分の掌が血で汚れていないか一瞥すると、俺は彼女の肩を掴んだ。

 

「……落ち着いてください。あなたは、恐らく俺に聞きたいことがあるはずだ。何故、この3ヶ月間、俺が行方をくらましていたのか……そして、その間、俺がどういう状況におかれていたのか」

 

夏目光という女性は、聡明な人物である。

たとえ現状を満足に把握仕切れずとも、動転して、最悪の事態が起きる可能性は少ない。情報量の不足から、取り乱すことはあっても、最後には、落ち着いてくれるだろう。

夏目先生は何度か深呼吸をして、俺を見上げた。

静謐な、しかし、情熱的に燃え上がる瞳は俺の言葉を肯定し、次の言葉を促がしていた。

思わず、俺は目を逸らした。

俺のような人間は、彼女と目線を合わせることすら、憚られる。

 

「順を追って、説明していきましょう」

 

無論、真実をそっくりそのまま教えるつもりはない。

ある程度の内容を暈しながら、夏目先生を、こちら側に引き摺り込まない程度に、話すしかない。

勿論、他にも方法はある。

だが、今の俺には、他にいくつも存在する、最良の方法を拒んだ。

俺は……夏目先生に懺悔すことで、免罪符を求めているのかもしれない……

 

 

 

 

 

「と、とりあえずこれで頭を拭いてください」

「……すみません」

 

手渡された純白のタオルに触れただけで、白い布は朱色へと染まっていく。

いくら雨に流されたとはいえ、俺の手は、血で濡れすぎていた。

拭っても、拭っても、決して落ちはしない、紅の穢れ…………

 

「や、闇舞先生?」

 

知らず、自虐的な笑みが浮かんでいたらしい。

俺を真正面から見詰める夏目先生の顔は、引き攣っている。明らかに、俺のことを恐れている。

 

「……シャワーをお借りしてよろしいですか?」

「あ、はい、どうぞ……」

 

夏目先生は未だ頭が混乱しているのか、放心したように立ち尽くしていた。

無理もない。

今の今まで知らなくて当然であった世界のことが、生々しく、肉迫しているのだ。

俺……闇舞北斗という愚者のために、彼女に日常は非日常に変わろうとしているのだ。

……長居はできない。してはいけない。

呆然としている夏目先生の横を摺り抜けて、俺はバスルームを探した。

同僚の夏目先生が住んでいるこの高級マンションは、ひと部屋だけでも100平方メートルもの広さがあり、初見では、バスルームひとつ探すのにも一苦労である。

もっとも、マンションの構造などどこも似たり寄ったりなので、探せないこともない。

……さすがに、風呂釜に湯を張るのは憚られた。

無造作に戦闘服を脱ぎ捨て、全身に熱いシャワーを浴びる。血が、滝のように流れた。

湯が傷口に触れ、灼熱のような痛みが走ったが、今となっては、この痛みすらも愛おしいのだから、不思議な話である。

バスルームに備え付けられた姿見が、シャワーの熱気でたちまち白く曇る。

さすがに俺の全身……とまではいかずとも、膝より上から顎の辺りまでを、映している姿見を見て、やっと俺は、あのロボット……Kとの戦いで負った傷が、強大なものであったことを知った。

完全に回避したと思っていた弾丸も、かなりの数が体を掠めている。幸いにも、弾丸そのものの威力が高すぎたため、そのすべてが貫通していた。貫通銃創そのものも、すでに癒え始めている。

相変わらず怪物じみた体だと、思わず苦笑した。

バスルームから出ると、夏目先生がバスタオルを持って立っていた。

夏目先生は俺の裸体を見て一瞬、顔を紅潮させるも、次の瞬間にはサッと血の気が失せ、顔面蒼白としていた。

 

「や、闇舞先生、その体……!」

 

今にして思えば、俺はこの30年足らずの人生で、何千発の銃弾を受け、何千回肉を切られただろうか……?

いかに〈ショッカー〉の技術とて、完璧ではない。

それ以前に受けた傷痕は残ってしまうし、改造された後だったとしても、どうしようもない傷など、無数に存在する。

そしてそれらの傷痕は醜く、気の弱い人ならば失神しかねないほどのものすらある。

表情は消えたが、まだ立っていられる夏目先生は、立派と言えるだろう。

 

「これが、俺です。これが俺……闇舞北斗の真実です」

 

――くるべき時がきた。

ついに闇舞北斗が、表社会と永遠に袂を別つべき時がきた。

恐らく、夏目先生は俺の話を聞いて、俺を拒絶するだろう。

たとえそれが、真実の一端に過ぎなかったとしても……

 

「……この世界には、闇があります。人の……人間の業が、生み出した闇です。欲望が渦巻き、金と、武器と、麻薬と、セックス……そういった、ありとあらゆる快楽に満ちた、闇です。俺は、その闇の中を、舞ってきた男です」

 

俺の話に、夏目先生はただ呆然として聞き入っていた。

この、裏社会という闇の暗さと、深さ……

決して表社会に顔を出すことはない、無数の、蠢く者達……

俺もまた、そういった者達のひとりであること……

〈ショッカー〉のこと、改造人間のこと、さすがにそういったものは話さなかったが、夏目先生にとっては、それだけでもかなりの衝撃だっただろう。

だが、俺はこの時点で夏目光という彼女のことを、どこかで侮っていたのかもしれない。どこかで、愚弄していたのかもしれない。……否、むしろ嫉妬と言うべきだろうか?

俺は彼女のことを、金持ちの家に産まれ、何不自由なく暮らしてきた世間知らずのお嬢様……という印象を、払拭しきれなかったのだろう。

話し終えた俺に対して、夏目先生が放った言葉は、痛切に、俺の胸を抉った。

 

「……まだ、何か隠していることはありませんか?」

 

……拒絶された方が、罵倒された方がまだましだった。

これ以上話せば、夏目先生は間違いなく後戻り出来なくなる。暗闇に取り残され、誰からも救ってもらえず、ただ、死を待つのみとなってしまう。

俺は首を横に振った。しかし、夏目先生は引き下がらない。

 

「闇舞先生はわたしを箱入り娘だと思っていませんか? でも、箱入り娘だからこそ分かったり、知ってしまったりすることもあるんです……仮にも、夏目一族の女ですから、そういった世界があることぐらい、理解しているつもりです。けど……」

 

俺は目を瞑った。耳を塞いだ。激しく、首を横に振った。まるで駄々をこねる子供のように、首を振った。

聞きたくない。聞きたくなかった。

だが、精神の乱れた今の俺では、それは叶わない。

俺の耳に取り付けられた集音装置は、聴覚に危険が及ぶような大音量であれば、自動で音を遮断する機能が装備されている。しかし、どれほど俺が拒絶の意思を示そうと、夏目先生が静かに語っているかぎり、俺の特別製の耳はそれを受け入れてしまう。

精神を統一させることで調整は効くが、今の状態の俺に、それは出来ない。

無論、夏目先生は俺が改造人間であることなど知るはずがない。理不尽なことだったが、俺は狂おしいほどに彼女が憎かった。

 

「闇舞先生の表情からは、そんな話とは別次元のことが感じられます。……前も言ったと思いますけど、闇舞先生って、ポーカーフェイスに見えて、結構、色々な顔をするんですよ?」

 

迂闊だった。

善処しようと、誓ったというのに……

夏目先生の言葉は、なおも俺を痛めつけた。

 

「……以前、父が酔った拍子に言っていました。『人間は愚かでどうしようもない生き物だ。人間の欲には、際限がない。世論がよく騒ぎ立てる裏社会という闇にも、さらに闇があり、その闇にも、さらなる闇がある』と……闇舞先生は、その、闇の中の闇の住人ではないんですか?」

 

……もう、逃げることは叶わない。

夏目先生は、真実と向き合う姿勢を、すでにとっている。戦う体勢を、整えている。

何人たりとも、もはや彼女を制止することは、出来ない。

もう、彼女は逃げたすことの叶わない、蜘蛛の巣にかかってしまっていたのだ。

俺は、観念した。

 

 

 

 

 

――1973年1月24日

 

 

 

 

 

俺自身、今の自分の状況が信じられなかった。

闇の中の闇……

漆黒の暗闇の、さらにその奥にいる者……

『改造人間』の話を聞いた夏目先生は、案の定、絶句し、涙を流した。

罵倒されるのは当然覚悟していたし、拒絶されることとて、もはや、恐れはしなかった。

……だというのに、

 

「ご飯にしますか? それともお風呂?」

「いえ……アルコールを、1杯お願いできますか?」

 

俺の言葉に、夏目先生は流麗な動作で冷蔵庫から缶ビールを持ってくる。

缶ビールというあたり、少々物足りないが、仕事を終えた後の1杯が美味いのは、どこの世界でも共通事項なのだろう。

俺は今、夏目先生の住んでいるマンションの部屋に、厄介になっている。

『改造人間』の非業……それを話した時、夏目先生は、明らかな拒絶の意思を示していた。涙という、恐怖という、拒絶の意思。

だがしかし、もしかしたら、それは単に俺の勘違いだったのだろうか? と、思わせるほどに、夏目先生の態度は、表面上、あまり変わらなかった。それどころか、俺のこと彼女の父である夏目源三郎氏に話し、俺を、夏目財団直属のエージェントにまでしてしまった。

勿論、それはあくまで上辺だけの態度で、本心では別のことを思っている可能性は高い。

―――しかし、そうだとしても……

 

「地中海はどうでした?」

 

……この態度は、異常だ。

演技かとも思ったが、あまりにも自然体すぎて、そう考える方が、不自然に思える。

 

「綺麗は綺麗でしたよ……仕事さえなければ、もう2、3日、ゆっくりしていきたいぐらいでした」

「まあ……」

 

俺の言葉に、上品な苦笑を浮かべる。このあたりの仕草は、さすがに夏目一族の人間なのだと、感銘を受けた。

……言い方は悪いが、留美では、とてもではないが出来ない。

 

「さて……」

 

掌の中で空になった缶を握り潰して、立ち上がる。

 

「武器の手入れをしてきますので、食事の用意をお願いします」

「はい」

 

“武器”という単語を聞いて、夏目先生の表情は一瞬だけ曇ったが、次の瞬間には微笑を浮かべ、頷いてくれた。

仕事から帰ってくると、大抵、俺は武器の手入れをしている。いざという時になって、手入れを怠ったがために使い物にならない、では、泣くに泣けない。

一般のマンションと比べれば広大な、夏目先生の部屋は6LDKで、俺はそのうちのひと部屋を与えられている。この部屋には、たとえ家長である夏目先生でも、入ってはならない。

なぜなら、もはや後戻りの出来なくなってしまった彼女にすら、見せてはいけない物が、大量にあるためだ。

工具一式を取り出して、俺は、今回の仕事のために用意した武器、装備の数々を取り出し、整備を始めた。たとえ1度も使わなともよかった道具でも、ちゃんと手入れはしなければならない。

俺の愛銃……耐久性の高さにおいても評判のブローニング・ハイパワーはもまた、しかりだ。2ヶ月前、俺のもうひとつの雇い主である秘密結社『ダーク』が用意してくれたこの拳銃で、すでに俺は、この2ヶ月の間に5954発の弾丸……マガジンにして、458本分を撃っている。

長い間、〈ショッカー〉が対米戦を想定して、米軍制式の45口径コルト・ガバーメントと互換性のある45口径ショッカー弾使用の Assassin を使っていたため、9mm口径の拳銃に慣れるのに、時間がかかってしまったのだ。

 

「闇舞先生」

 

一通り、武器の手入れを終えたちょうどそのとき、夏目先生が、部屋の扉を2回ノックした。

どうやら、食事の準備が出来たらしい。

 

「すぐに行きます」

 

余分なオイルを拭き取り、その後から丹念に乾拭きする。過度の油は、むしろ武器の性能を落としてしまう。

すべての作業行程をクリアした俺は、のろのろと腰を上げた。

リビングに行って食事を終えると、俺は一旦、自室に戻ってから、ブランデーボトルを1本取り出して、リビングへと戻った。無論、一緒に持っているブランデーグラスは、俺の分と、夏目先生の分を含めて2つ。

ここ最近、俺と夏目先生は、よくこうして2人で一緒に飲み合うことが多くなった。

かつて俺が教師だった頃、こういった機会は少なくはなかったが、多くもなかった。

それゆえに、こうなるまで気がつかなかったのだが、夏目先生は、自分ではあまり飲めないと言っているが、それでも、日本人の平均と比較すると、それなりに飲めるタイプである。

 

「仕事に行った際に買ってきたんですが、いかがですか?」

「じゃあ、ちょっとだけ……」

 

夏目先生はクスリと笑みを浮かべて、グラスを受け取った。

グラスの3分1ほどまで、琥珀色の液体が注いでやる。

夏目先生が、グラスを傾けた。

 

「あ、美味しい……」

 

夏目先生が、うっとりとしてグラスに残った液体を眺めた。

俺もグラスにブランデーを注いで、ゆっくりと、喉を潤していく。芳醇な香りが口の中にひろがり、特有のコクが、なめらかに食道を滑り落ちる。

 

「……美味」

 

俺の呟きに、夏目先生が微笑を浮かべる。

……そんなに面白いことを、俺は言ったのだろうか?

 

「闇舞先生、まるでお酒が恋人みたいですよ」

「……そうでしょうか?」

「そうですよ。……でも、このお酒は本当に美味しいです。何て言う銘柄なんですか?」

「フランスの『アルマニャック・デ・モンタル』です」

 

アルマニャック・ブランデーは、コニャックと並んで、フランスが誇るブランデーの双璧だ。コニャックが2度蒸留されるのに対し、アルマニャックの蒸留は、1回だけ。

そうすることで、原料であるブドウの芳香と風味が強く残り、黒樫の樽で熟成されたその味は、コニャック以上といわれている。

『アルマニャック・デ・モンタル』は、12世紀から始まるデ・モンタル家伝統の製法によって、永年自家消費を目的として、丹念に…丹念に造り継がれてきた、ブランデーの中の最高傑作だ。

フランス南西部の、ボルドー、ツールズ、バイヨンヌに囲まれた丘陵地こそが、『アルマニャック・デ・モンタル』の故郷である。

 

「へぇ、そんなに凄いお酒なんですか……なんか、飲んじゃうのが勿体無いです」

「勿体無いでいいんですよ。勿体無いということは、アルコールに対する、最高の賛辞なんですから」

 

少なくとも、俺はそう思っている。

 

「最近は闇舞先生のおかげでお酒の美味しさがわかったような気がします」

「それは……俺にとっても、最高の賛辞です」

 

クスリと含み笑いを浮かべて、俺は彼女のグラスにブランデーを注ぎ足した。

気がつくと、2人でボトル1本を空けていた。配分としては、俺が7、8割を飲んでしまったのだろう。

俺と夏目先生は顔を見合わせて、笑った。

だがしかし、その笑顔は次の瞬間に、一変した。

 

「闇舞先生……」

 

アルコールに酔ったわけではないだろう。

だがしかし、夏目先生の頬は赤く上気していた。その瞳は、かすかに潤んでいる。

俺はまだ少しだけグラスに残ったブランデーを飲み干して、彼女の唇に自分のを重ねた。

――あの日、俺は『改造人間』の話をし終えた後、本能の赴くままに夏目先生を抱いた。

そこに愛欲はなく、情欲はおろか、快楽すらない。ただ、自分の気をまぎらわせるために、夏目先生を利用したのだ。今ではもう、大分落ち着いて、そんなことはないが、あの時の俺は、そうでもしていないと壊れてしまいそうだった。

毎夜、毎夜、本能のままに、彼女の体を貪った。そして夏目先生は、俺の、それら低俗で愚かな行為のすべてを、涙を流しながら受け入れてくれた。その涙が意図するものが何なのか、俺には分からなかった。

それは今でも続いている。

だが、最近は、あの時とは決定的に何かが違っていた。

それが何なのか、明確には分からない。

しかし、行為を終えた後に、かつてバネッサの小さな体を抱いた時に感じた罪悪とは、まったく別の何かを、いつも感じた。

2人の唇が、また触れ合った。

 

「強く抱いてください」

 

夏目先生が、震える声で言った。この一言を発するのが、女性にとって、どれほど勇気がいることなのだろうか。

リビングのソファに彼女を横たえて、俺は、今日もまた彼女を抱いた。

 

 

 

 

 

静かな、しかし激しい情事が終わって、光はバスルームでシャワーを浴びた。

北斗は、あの後すぐに眠ってしまい、今はソファの上で横になっている。

疲れている……というわけではないのだろうが、何故か、いつも北斗は彼女と行為を済ませると、泥のように眠ってしまう。

バスルームから出てきた光は、ほんのりと頬が紅潮していた。その表情には、どこか安堵と恥じらいがあり、穏かである。

光はソファで眠る北斗の傍までくると、椅子に腰掛け、彼の、彫りの深い引き締まった寝顔を眺めた。

それだけで、何か、彼女の奥深いところで、複雑な感情がくすぶり出す。

それは闇舞北斗に対する愛情であり、また、罪悪感でもあった。

――あの日、北斗から『改造人間』のことを聞かされたあの日……

光は、心のどこかで、もしかしたらと思っていた。

自分と闇舞北斗が初めて出会ったのは、彼女が教師になって、如月学園に配属された日のことだった。

事前に一度訪ねていたとはいえ、初の職場出勤にいささか緊張気味で臨んだ彼女は、そこで彼に出会った。光は、彼の姿を一目見て、心が突き動かされるのが分かった。

一目惚れ……と言っても、いいかもしれない。

彫りの深い精悍な顔立ちと、逞しい肉体。たしかに、闇舞北斗はそういった意味でも素晴らしかったが、それ以上に、光は北斗の瞳に惹かれた。正確には、その瞳の奥にある、何かに……

顔は、人の心を映し出す鏡だと言われている。特に目は、その人の心を知るいちばんの手掛かりになる。

彼女は、闇舞北斗の瞳の奥に感じ取った何かを、彼女は正確に理解していた。

闇舞北斗の瞳は、憤怒と慈愛に充ちていた。世界に対する憤怒と、世界に対する慈愛……相反する2つの感情は、同時に、1つの感情でもある。その感情の名は、哀しみ。

いくつもの感情を内包し、誰よりも人間らしく、それでいて、誰よりもそのことに気付かぬ男……

それが、闇舞北斗という男の本質であると知った時、光は、彼に興味を抱いた。それが恋心に変わるまでに、それほどの時間はかからなかった。

北斗には妹がいた。打算がなかったと言えば、嘘になる。光は彼女に近付いた。

彼女……闇舞留美は、意外にも素直に自分を後押ししてくれた。だが、そんな彼女の好意の裏に、留美の、北斗に対する劣情が隠されていることを、同じ女性である光は感じ取っていた。

留美は、光に対して過剰なほどの後押しを推した。それと同時に、光に対して、どことなく正体不明の何かを説き伏せるような言動もしてきた。それは言葉の装飾によって誤魔化された、裏社会の実状だった。

北斗から『改造人間』の話を聞いたあの時、光は、留美が自分にしてくれたそれらの好意と、話してくれた正体不明の何かが、一本で結ばれた。

留美は、せめて兄の幸せを祈って自分を後押しし、北斗が裏社会の人間であっても受け入れられるような算段を整えたのだ。その背後に、留美の、名伏しがたい感情が、どれほどあったのか、光には痛いほど分かってしまった。

そしてその目論見は、見事上手くいったわけである(もっとも、留美は北斗から改造人間について聞かされていなかったため、そこまでは予想できなかったようだが)。

光は、北斗の独白を聞いてなお、彼を受け入れた。

それは彼の姿形が、蜘蛛男や、蝙蝠男といった人間ばなれした『改造人間』でなかったことも、起因していた。どれほど強大な力を有していようとも、夏目光が見るかぎり、闇舞北斗は自分と何ら変わりのない、普通の人間だった。

無論、彼の話を聞いて、恐怖がなかったわけではない。

あの日、北斗に始めて抱かれた時、彼女は涙を流した。

恐怖からくる涙ではない。『改造人間』という異端の存在に、自らの身を捧げる恐怖に呑まれてしまった自分に対する、怒りの涙であった。

あれだけ、留美の途方もない兄に対する感情を知っておきながら、今更怯えている自分に対する、悲しみの涙だった。留美に対して、申し訳ない思いで一杯になった。

 

「北斗……」

 

光は、愛する人の名を呼んだ。『改造人間』ですら聞き取れぬ、心の中の呟きだった。

声に出して言えないのが、苦痛だった。

あの時、たった一度とはいえ彼を拒もうとしてしまった自分が、彼の名を呼ぶのは憚られた。

 

「北斗……」

 

光は、もう一度彼の名を呼んだ。

光の瞳から、一筋の涙が流れた。

鳴咽を堪え、彼女は自分の部屋に戻った。

自然と、部屋の片隅にある木箱に手をのばした。

木製の蓋を開けると、普通のフルートよりもやや小さい、ソプラノフルートの姿があった。学生時代から吹き続けている物だったが、手入れは行き届いており、フルートは銀色に輝いている。

せめて、この、言葉に出来ぬ気持ちを表わすべく、彼女はフルートを唇にあて、演奏を始めた。

悲しくも情熱的な、美しきメロディが、響いた。

 

「……すまない」

 

その言葉は、一体何に対してのものだったのか……?

美しき旋律を耳にしながら、眠っているはずの北斗が、闇の中でひとつ呟いた。

 

 

 

 

 

――1973年2月5日

 

 

 

 

 

「高知……ですか?」

 

反芻する俺の言葉に、プロフェッサーは大仰な仕草で頷いた。

 

「うむ、高知だ。そこで夏目源三郎の父……夏目聖山の葬儀が行なわれる。いずれ正式に、君にも通達があると思うが……」

「その葬儀に集まるであろう夏目一族の護衛をせよ……と」

 

芝居のかかった仕草をして、プロフェッサーはまた頷いた。

俺のもうひとつの雇い主……秘密結社『ダーク』は、世界征服という壮大な最終目的を抱いているとはいえ、基本的に営利団体である。それも、三菱や川崎のような旧来からの組織ではなく、最近になって出現した、言わば新興勢力だ。

俺が夏目財団直属のエージェントになると聞いた時、プロフェッサーは大いに喜んだ。

無論、俺がこの業界に復帰したことを喜んでくれたのではない。

同じく新興勢力でありながら、今や日本でも有数のコンツェルンとなった夏目財団との親交を深めることが出来るからである。

案の定、同盟を結んだ夏目財団と『ダーク』は、以来、俺を仲立ちとして更なる急成長を果していた。

しかし、当然ながら、この手の黒い交際には、常に後ろ暗い緊張感が付き纏う。強くて脆い絆で結ばれたこの交際を、より強固なものにするために、プロフェッサーは今回の依頼をしてきたのだろう。

夏目聖山は、夏目先生の祖父であり、一代にして現在の夏目財団の地位を確立させた大事業家であった。あった……というのは、すでに彼が亡くなっているためである。93歳の高齢、大往生である。

元々東京に生まれ、東京で育った彼は、東京大学法学部を卒業したあと、四国の自然に強く惹かれ、高知に移り住んだという。若い頃から地方政治に夢を抱いていた彼は、事業に従事する傍ら、43歳で県政界入りを果たし、めきめきと頭角をあらわして、県政界の重鎮といわれるようになった人物である。67歳のとき、息子達に事業を受け継がせてからは、完全に政治に没頭。85歳で県政界を引退するまでの間、長きにわたって中道政治を貫く県知事の椅子を守り通した。その性格は質実剛健で、気の荒い素朴で実直な高知県民からは、こよなく愛された。

だが、その聖山でさえ、老いには勝てなかった。病床に伏したのではない。家政婦が、いつもより目覚めの遅い聖山を気遣って寝室を覗いたところ、座卓の前に泰然と正座し、ペンを片手に持って、息絶えていたという。

老衰による、大往生だ。

当然、彼の葬儀には夏目一族が一箇所に集中し、政財界の大物達が何十人とやってくるだろう。

もしその時を、過激派やテロリスト、産業工作員に襲われれば…………

ありえない話ではない。まだ浅間山荘の事件から1年と経っていないのだ。

 

「君がその会場を襲うとしたら、どうするかね?」

「資金や時間のことは考えずに、ただ実現可能かどうかとしての可能性で……ということですか?」

「うむ」

「……俺なら、潜水艦を用いてミサイルをぶち込むか、ヘリを飛ばします」

 

四国には陸上自衛隊第2混成団の善通寺本部があるが、海上自衛隊や、航空自衛隊の基地はない。言ってしまえば、四国全体が、外敵に対して無防備同然の島なのだ。

海上自衛隊の教育航空隊が徳島にあるとはいえ、これは戦力としては不十分である。

北海道に自衛隊の主力を置いた、日本列島の弱点を突くのならば、もっとも有効な策だろう。

 

「もっとも、金がかかりすぎる方法ですがね」

「しかし、ミサイル攻撃はともかくとして、潜水艦と、ヘリならば用意出来るかもしれんぞ」

 

たしかに、その可能性がないわけでもない。

特に、俺と同じように、最近になって名を上げ始めたあの連中ならば……

 

「――『機動戦士S.T.』」

「奴等が動く可能性がないとは言い切れぬだろう」

 

『機動戦士S.T.』とは、ここ最近になって急激に名を上げてきた暗殺集団だ。構成員は十数人とも、数百人ともいわれている。

S.T.の意味は不明で、彼らが機動戦士と言われる由縁は、彼らが、あらゆる機動力を発揮してクライアントの依頼を実行することを意味している。機動力とは、マシンガン、航空機、自動車、ミサイル……と、暗殺実行のためならばいかなる兵器をも入手できるという逸話からきた話だ。

……たしかに彼らなら、潜水艦も、ともすればミサイルも調達できるだろう。

 

「プロフェッサーは彼らが動くと?」

「すでに夏目財団と秘密結社『ダーク』が手を組んだことは周知の事実なのだよ。夏目財団と戦うということは、必然的に『ダーク』と戦わねばならない。それなりの者達でなければ、返り討ちに遭うだけだ。夏目財団か……『ダーク』か……どちらにせよ、我々を襲撃するにあたって、『機動戦士S.T.』はそれなり以上の者達だと思うがね」

 

そう言って、プロフェッサーは俺に厚さ4センチほどの書類綴りを手渡した。

表紙を捲ると、A4サイズの用紙に、ビッシリと小さな文字が規則正しく並んでいる。

読んでみると、書類綴りは葬儀の出席者の名簿、そして、今回の葬儀を襲撃してくる可能性が、1%以上の、裏社会ではそれなりに名の知れた連中の推定戦力と、規模などの資料が記されていた。無論、その中には『機動戦士S.T.』の名も記されている。

名前だけで、ゆうに2万人はいる。

 

「2日で頭に叩き込んでくれ」

「善処します」

 

俺は脳細胞の全機能を行使して、書類の内容を記憶していった。

 

 

 

 

 

――1973年2月6日

 

 

 

 

 

夏目聖山の葬儀は、生前、本人の言葉通り、夏目一族の間で2日前に密葬で、質素に済まされていた。

だが、県政界に多大な貢献を果し、一代にして、夏目財団の礎を築き上げてきた聖山の葬儀を、密葬だけで済ませることは、政財界が許さなかった。

北斗は、明日、聖山の葬儀が行なわれる予定の、夏目家の菩提寺を眺めた後、高知城から近い、『高知新阪急ホテル』の最上階スイートルームにチェックインを果たした。

べつに贅沢をするためではない。

スイート・ルームのスイートは sweet (甘い)ではなく、 suite であって、“色々な部屋の組み合わせ”を指している。つまり、ベッド・ルームの他に、リビング・ルームや、ダイニング・ルーム、会議室、応接室などが組み合わさった客室、という意味なのだ。

こういったたくさんの部屋は、突然の襲撃に対しての反撃がしやすいという、利点があった。

北斗は、拳銃ホルスターに差し込んだままのブローニング・ハイパワーをベットの枕の下に隠すと、ソファに腰を降ろした。

スプリングの利いているソファは、187センチの長身を見事に支えている。

明日の葬儀の準備のために、共に首都圏を発った光と源三郎は、今夜は夏目家で寝泊まりするという。

しばらくは警視庁から派遣されたSPが葬儀準備の警護に就くが、午後10時を過ぎたあとは、北斗が、人知れず遠くから夏目家を24時間体勢で警護し、そのまま葬儀に私人として献花し、会場の警護に就く予定である。

10時までは、まだ5時間あった。

その間眠りに就いて体力を温存しておくのもよいのだが、北斗は、そうせずに装備の点検を始めた。

プロフェッサー・ギルから渡された書類を読んだ彼は、想定されるであろうあらゆる状況を総合して考え、『ダーク』に、自分が選んだ武器の用意をさせた。

ひとりで持ち歩くのが困難な物などは、会場をさり気なく警護している『ダーク』の工作員から、その場で渡される予定である。今回は民間の旅客機を使って四国入りを果しているため、彼の愛車であるイスカリオテもまた、会場で受け取る予定だ。

ひと通りの装備を確認すると、北斗は最後にブローニング・ハイパワーを取り出した。

この拳銃は天才銃工ジョン・M・ブローニングが設計し、彼の死後、1935年にベルギー、FNダルム・ド・ゲール社(現FNハースタル社)が製品化した自動拳銃である。

有効射程は40メートル前後だが、射手の腕によっては50〜70メートルの目標に命中させることも可能だ。

9mmルガー弾を13発装填できるが、北斗の使用するハイパワーは、弾薬に通常の9mmルガーではなく、火薬の種類と量を増やし、弾頭の形状を変化させた9mm特殊徹甲弾を装填している。

この特殊徹甲弾ならば、やろうと思えば最大150メートルの射撃も可能である。

『ダーク』から今回の任務にあたって支給された9mm特殊徹甲弾入りの予備弾倉は全部で20本(260発分)。このうち10本はイスカリオテのサイドポットに収納されて運ばれる予定で、あとの10本は、四国入りを果たした際に、『ダーク』の秘密工作員から渡されたスーツケースにしまわれている。

慣れた手つきで拳銃を分解し、点検と掃除を終えたところで、枕元の電話が。けたましく鳴った。

北斗は手に付着したガンオイルをティッシュで拭ってから、受話器に手をのばした。

フロントの女子従業員の声が、北斗の鼓膜を打つ。

 

『ただいま、夏目光さんとおっしゃる方がロビーにお見えです。スイートルームの方にお訪ねしていただきますか?』

「わかりました。お通ししてください」

 

北斗は、ブローニング・ハイパワーをベットの下に隠すと、窓際に立ってカーテンの隙間から外を見て、不信な人影がないかどうか注意深く確認して、ベッドルームから出て、リビングダイニングルームの窓のカーテンが閉じられているのを確認してから、小さく照明を点けた。

寝室の窓も、リビングダイニングルームの窓も、狙撃から身を守るため、カーテンは一日中閉じきってある。

北斗はバスルームで顔を洗うと、リビングダイニングルームのゆったりとした椅子に座り、ドアがノックされるのを待った。

ドアが2回ノックされた。弱々しいノックの仕方である。

北斗は椅子から立ちあがって、ドアの方へ歩いていった。五感を集中して、ドアの向こう側に光以外の気配がないことを確認すると、ゆっくりとドアを開けた。

 

「葬儀の準備が予想より早く終わっちゃったので、来ちゃいました」

 

光は、開口一番にそう言った。

北斗は、一瞬だけ虚を衝かれたような顔をして、すぐに表情を引き締めると、

 

「どうぞ、お入りください」

 

と、言った。

あくまでも、高知にいる間は、プライベートと仕事は分けていくという姿勢である。

北斗は、彼女を部屋の中に入れると、そっとドアを閉めた。無論、周囲への警戒は怠らない。

光は、リビングダイニングルームの入り口で少しだけ不安そうに北斗を見たが、彼の大きな、傷だらけの巌のような手がそっと背中に触れると、安心したようにソファに座った。

北斗は、センターテーブルを隔てて光と向き合うと、事務的な口調で「何か飲みますか?」と、親指で部屋の冷蔵庫を指しながら訊ねた。

光が、ゆっくりと首を横に振る。

 

「実は、家の方から持ってきたんですよ」

 

そう言って、彼女は持っていた紙袋の中から包装されたグラスと、酒瓶を取り出した。

それを見て、北斗の表情が少しだけ困ったように歪む。

 

「……自分は、今は勤務中なのですが」

 

酒は飲みたいが、一応、今は任務中なので飲むわけにはいかない……そんな苦悩が、ありありと表情に浮かんでいる。

光は、それを見て思わず苦笑した。

北斗は、突然笑い出した光に怪訝な表情を浮かべたが、すぐに何か思い当たったのか、バツが悪そうに、

 

「……もしかして、またやってしまいましたか?」

 

と、言った。

光が、曖昧に笑いながら頷く。

 

「闇舞先生、今、お菓子を買ってもらえなかった子供みたいでしたよ」

「……以後、気をつけます」

 

光が、またぷっと吹き出す。

 

「……それで結局、飲むんですか? 飲まないんですか?」

「む……では、一杯だけ……」

 

北斗轟沈。

このことをきっかけに、『北斗を殺すにゃ言葉はいらぬ、酒さえあれば充分よ』という殺し文句ができたかどうかは定かではない。

北斗は、包装されたグラスの包みを取り除いて、そっと酒瓶を傾けた。

グラスに注がれる液体を見て、北斗がほう……と呻く。

酒瓶には何のラベルも貼られておらず、無名の酒ではあったが、北斗は、一目でその無名の酒が、かなりの銘酒にも引けを取らないと看破した。

 

「……では、拝見させていただきます」

 

一応、光に許可をとってから、グイッとグラスを傾ける。

 

「これはなかなかに……」

「祖父が好きなお酒だったんです。下町の酒屋さんが、祖父のためにだけ作っていたものだそうで、今日のは、明日の葬儀のために作ってくれた、最後の13本のうちの、1本なんです」

 

その話を聞いて、北斗は夏目聖山という人物が、高知県民から本当に愛されていたのだなと、思った。

 

「よろしいのですか? 俺のような一介の警備員に、このような銘酒を振る舞ったりして……」

「気にしないでください。お酒は誰かに飲んでもらった方が幸せだって、きっと、祖父も言うと思いますから」

「一度、夏目聖山氏に会ってみたかった」

「祖父もそう言っていました」

「ご存知なんですか? 俺のことを」

「はい。以前、わたしが親族会のときに話して……」

「親族会?」

「ええ……」

 

当時のことを思い出したのか、光は、クスリと含み笑いを洩らした。

 

「……と言っても、単に祖父の誕生日会だったんですけどね」

「それはまた……恐ろしい場所で話してくれましたね」

 

夏目聖山の誕生日会ならば、夏目一族の人間だけでなく、政財界の大物達が何人も席に並ぶであろう。そんな中、裏社会ではそれなりに名の通った自分の話題を持ち出されたのである。

北斗は、その時の周囲の反応を想像して苦笑いを洩らした。

 

「あ、勿論そのときは闇舞先生が裏社会の人だって知りませんでしたから、あの時、わたしから観た先生の人となりについて話したんですけど」

「どのように見えたんです? あの時点における、夏目先生から観た闇舞北斗という人間は」

「そうですね……第一印象は、とても素敵な方だと思いました」

「……失礼ですが、夏目先生は視力はいいほうですか?」

「? わたしは裸眼で1.2ですよ」

 

ちなみに北斗は4.0である。仮面ライダーのCアイで4.5なので、改造人間全体としてもかなりのレベルに達している。

光は、北斗の言わんがすることの意味を理解したのだろう。ひとつ溜め息をついてから、微笑を浮かべて、

 

「闇舞先生は謙遜しすぎです」

 

と言った。

 

「…………そうでしょうか?」

 

ほら、そのポーカーフェイスに考えるところなんか特に……とは言えなかった。

言えば、しばらくはその顔が見れなくなるかもしれなかったからだ。

 

「俺では、よくて二枚目半といったところでしょう」

「いえ、どう客観的に捉えても二枚目にしか見えません」

 

北斗は、「そうでしょうか……」などと呟きながら、グラスを傾けた。

やや間をおいて、北斗はグラスから唇を離す。

 

「……それで、今はどうなんです?」

「今……ですか?」

「ええ、今現時点における、夏目光から見た闇舞北斗は、どのような人間なのです?」

 

光は、ちょっと困ったような表情を浮かべて、沈黙した。

 

「……答えたくなければ、それでもいいのですが」

「あ、い、いえ、違うんです! ただ、その…………」

 

光は、やや頬を紅潮させながら、小さく、「言ったら笑われそうな気がして……」と、呟いた。よほど耳がよいか、そうでなければ、かなり集中しないと聞き取れないほどの声である。

しかし、約3.5km先の針の落ちた音すらも聞き分けられる北斗の……改造人間としての能力は、鮮明にその声を聞き取っていた。

 

「笑いませんよ」

 

北斗は、真顔でそう言った。

 

「え、えっと、じゃあ……本当に笑わないでくださいね?」

「ええ」

「えっと……とても人間らしい人だと、思います」

 

 

 

 

 

「人間、らしい……?」

 

夏目先生の思わぬ回答を聞いて、俺はしばし茫然としてしまった。

自分でも分かるぐらいに顔が硬直し、夏目先生を射るような視線で見てしまう。

そんな俺の態度を見て恐怖したのか、夏目先生は頬を紅潮させて、「し、失礼しました!」と、慌てた口調で言った。

その言葉に、はっと意識を引き戻される。

なんとか平静を装いながら、グラスに残っている酒をぐっと飲み干し、口を開く。

 

「いえ……それは、どういう意味なのでしょうか?」

 

我ながら情けない訊き方である。

夏目先生は、まだ少し慌てた口調で

 

「え、あ、そ、その……これはわたしの個人的な見解なんですけど…………」

「伺いましょう」

「あ、はい。その……人間って、とっても不思議な生き物だと思うんですよ」

「不思議……ですか?」

「はい」

 

先ほどよりはいくらか落ち着いた夏目先生が、軽く頷く。

 

「わたしは人間ほど不思議な生き物は、この地球上にないと思うんです。これまでの様々な歴史や、色々な学問から観ても、人間ほど複雑で矛盾した生き物はないと思うんです」

「…………」

「……特に、人間の持つ『心』……それが凄い不思議なんです」

 

「変でしょうか?」と、付け加えて、夏目先生は上目遣いに訊ねてきた。

俺はゆっくりと首を横に振ると、用心のために閉めたカーテンを少しだけ開いて、窓の外の景色を眺めた。

遠くに視線をやると、遠く彼方で燃え盛る太陽が雲間より顔を出し、辺りの風景を赤色に染めていた。

 

「分かりますよ、夏目先生の疑問」

「え―――」

「『心』の秘密は、デカルトが1637年に『方法序説』を著して300年以上が経った現在でさえ、解明されていません。……〈ショッカー〉でも、そうでした。ある研究者は、ニューロンの微小タンパク構造物のチューブリンにその謎を解く鍵があると、量子学の立場から『心』の謎に迫ろうとしましたが……結果は、言うまでもありません」

 

俺の唇から紡がれる専門用語に眉根を寄せながらも、夏目先生は「はい……」と答えてくれた。

多少、悪いことをしたかな……という罪悪感が、湧き上がる。

 

「人間は『心』があるから不思議なのか……不思議だから『心』があるのか……わたしは、前者の方だと思っています。深い根拠はなくて、なんとなく……なんですけど」

「俺は……改造人間です」

「改造人間だって、元々は人間じゃないですか。『心』は、きっとありますよ」

 

夏目先生は、わずかにはにかみながら言った。

俺には『心』がある……

『心』があるから、人間らしい……

だが、それは詭弁だ。

俺は今までに数多くの人を殺し、なんとも思わなかった。

なんの感傷も、抱かなかった。

快楽殺人者ならば、人を殺せば愉悦する。だが、俺はそれすら感じなかった。

俺は人形だ。

人を殺すことに対して、なんの感慨も抱かない、ただの人形……

人形に、『心』などありはしない。

その旨を言うと、夏目先生は今度は一転して、怒った。

 

「闇舞先生は人形なんかじゃありません!」

 

今度は、俺の方が面食らう番だった。

 

「だって闇舞先生は、留美さんが死んだことを、悲しんでるじゃないですか……人形は、人の死を悲しんだりしません。闇舞先生は、人間らしい感情を持った、人間です」

「……」

 

何も言えなかった。

反論しようとしたが、喉元でつかえたように、言葉にならなかった。

本当は分かっていたのだ。

分かっていて、知らぬフリをしてきた。

そうすることで、死んでいった人達の、せめてもの供養になると、思っていたから。

改造人間はどこまでいっても所詮“人間”……脳改造を施さない限り、人間と、『心』を切り離すことはできない。そして、俺にはその脳改造は施されていない。

人間だから、感情を持て余し、暴挙に走ることもある。

人間だから、生に執着し、周りが見えなくなることもある。

それが、人間として当たり前の感情なのなど、本当は、とうに気付いていたのだ。

そして、それが自分の中にあるということも……

ただ、認めてしまうのが恐かった。

認めてしまうと、今までの決意が、崩れそうで、恐かった。

今までの人生で築き上げてきた価値観が、一気に崩壊しそうで、恐かった。

“あのとき”に立てた誓い……それを破ってしまうことが、どれほどの事態を招くかを知っていたから……自分が人間だと、認めることが恐かった。

愚かな男だと……自分でもそう思う。

だが、それが当然のことだと認めてしまったら、これから自分が何をすればいいのか……終わりのない暗闇の中に放り出されて、これからどう生きていけばいいのか……それが分からないから、恐かった。

先が見えないという不安……

誰もが一度は経験することだ。

否、人によっては、何度となく経験する痛みだ。

だが、自分はそれすら恐れ、拒んだのである。

本当に、闇舞北斗は愚かな人間だ。

 

「……子供の頃から俺に求められていたのは、何億光年もの間、宇宙を一人で、彷徨っても生きていけるような強さで、無論、それは例えですが、孤独が前提でした……。そして、当時の俺にとって、裏社会という世界は、宇宙に匹敵する存在だった……。生き延びなきゃならない……どんなに無様でも、生き延びなきゃ……そう思い込んで……そうやって、自分を奮い立たせて……俺は自分を騙し続けてきた。闇舞北斗は、本当は弱い人間だということを隠し続け、自分と周りに嘘をつき続けて、生きてきた。でも、嘘はいつかばれると知っていたから、どうしようもなく不安で……嘘が見破られた時、自分がどうなってしまうか分からないから、不安で……」

「…………」

「……そんなときに、〈ショッカー〉と出会いました。……色々な意味で、道が開けた、と思いました。改造人間になったことで、闇舞北斗の嘘は磐石なものになった。……そう、思えました。『自分は人間じゃない。人間以上の、改造人間だ』……自分は人間じゃない。だから、嘘が見破られても大丈夫……そう、思い込んできたんです。でも、それはあくまでその場しのぎにすぎなかった。結局、嘘は見破られてしまった……」

「…………」

「ランバート少佐達の死……仮面ライダーとの戦い……そして敗北。留美の死……ロボット刑事との戦闘……それらすべての要因が、少しずつ、俺の嘘を崩していった。……正直、もう分からないんです。嘘をつき続けてきた期間が長すぎて……自分が何者なのか、自分はこれから一体どうすればいいのか……?そんな、当たり前のことが不安で……」

 

そのとき、夏目先生の気配が、変わった。

 

「――簡単ですよ」

「え……」

 

振り返ると、先程よりも夏目先生の顔が近くにあった。

 

「自分の『心』に聞けばいいんです。闇舞先生が人間なのかどうかも……これからどうするべきなのかも……全部……」

 

 

 

 

 

互いの熱を、やけに熱く感じる。

2人の産毛が触れ合い、顔中に、熱い吐息が吹き付ける。

やがて一分が経って、2人の唇が離れた。

北斗は虚を衝かれたように、茫然と光の顔を眺めた。

光は顔を赤らめ、俯き加減に、弱々しく言う。

 

「……以前、祖父が言っていました。『人間は日々成長するものだから、たとえそのときには最良の判断だと思ったことも、振り返ってみるともっと良策があったんじゃないか……って、後悔してしまう』って……わたしは闇舞先生が改造人間になるって決めたとき、何を考えていたかは分からないですけど、今の闇舞先生が何を考えているかは、推測できます。それは、今の闇舞先生を知っているから……」

「今の自分……」

「はい。……生意気言いますけど、今の自分に、聞いてみたらどうですか? 闇舞先生は、今の自分を知っているはずだから……答えはきっとあります」

 

言われて、北斗は窓の夕陽を眺めながら、漠然と思いを巡らした。

今の自分……

今の自分を、人間として認めるべきなのか……

今の自分は、なにをすべきなのか……

長い沈黙を挟んで、北斗は口を動かした。

 

「俺は……闇舞北斗は…………改造人間です」

 

そう、自分は改造人間だ。

 

「人間を超えた強大な力を持った、改造人間です」

 

改造人間はその身に肉食動物のような牙と爪を持っている。

 

「闇舞北斗は改造人間です。ですが……」

 

自分は少しばかり人と変わっている……だが、それはやはりほんの少しばかりのことで……

 

「闇舞北斗は、人間です」

 

ごく一部の例外を除けば、普通の人間と大差はない。

 

「闇舞北斗は人間であり、改造人間です」

 

人間の『心』と、改造人間の『牙』……その両方を内包した自分が、今、出来ること……今、したいと思うこと……

 

「闇舞北斗は今まで、ただ自分が生き延びるためだけに戦ってきました。そして、それは今現在、そして未来においても変わることはないでしょう……」

 

生に妄執してきた自分……それは決して変えられぬ過去であり、決して変えることの出来ぬ自分の本質……

 

「闇舞北斗は今までにも、何度となく生死の境を彷徨い歩いてきました……そして、そのたびに生き延びようという妄執から現在に至っています」

 

何度も死に掛けた。実際に死んだこともあった。

けれども、その都度、自分はこうして生き延びてきた。

……今だって、そうだ。

 

「今現在、ここにいる闇舞北斗は夏目光あっての闇舞北斗です……。夏目先生、あなたはもはや、俺にとっては自分の半身でもあります」

 

彼女がいなかったら……今の自分はなかったろう。

彼女と出会わなかったら……自分はただ死に逝くのみであったろう。

 

「闇舞北斗はこれからも自らが生き延びるためだけに戦い続けていくでしょう……それはすなわち、自らを守ること……」

 

北斗は振り向いた。

振り向き、光の眼下に跪くと、北斗は彼女と視線を絡めた。

かつて、『生き延びるためだけに戦う』と告げた戦士は、わずかに微笑みながら、

 

「今、俺のなすべきこと……なさねばならぬこと……なしたいと思うこと……それは、自らを守ることです。そしてそれは、俺にとって半身であるあなたを守ること……」

 

最後に「迷惑でしょうか?」と付け足して、彼は言った。

光が、優しく微笑んで首を横に振る。

北斗は、頭を垂れた。

 

「今だけは主従の立場を忘れ、無礼をお許し下さい。今から言うことは、この愚者の戯言と考えてもらって結構です」

 

光は、無言で北斗の言葉を待った。

長い、長い沈黙が場を支配し、不意にそれが、破られる。

 

「いかなることがあろうと、あなたを守り抜く……いや、守らせてくれ。夏目光の命は、闇舞北斗の命でもあるんだ」

「……守っていただけるのですか?」

「ああ」

「どんなことがあっても?」

「ああ……闇舞北斗の、名において……」

「じゃあ……お願いします」

 

光が微笑んで、北斗が立ち上がった。

 

「ありがとう……」

 

そう囁きかけて、北斗は光の手の甲に口付けた。

手の甲へのキスは忠誠の証……その意味を知らぬ光だったが、彼女は満面の笑みを浮かべて、

 

「どういたしまして」

 

と、言った。

 

 

 

 

 

十時になって、北斗は光を伴って故・夏目聖山邸へと足を運んだ。

屋敷の周辺は警視庁から派遣されてきたSP達が24時間体勢で警護にあたっており、屋敷の門の所まで光を送迎した北斗は、彼らの視界には言った瞬間、鋭い視線を全身に受けた。

 

「頼もしいかぎりだ……」

「え?」

「いえ……では、よい夢を」

 

遠ざかる光の後姿がちゃんと玄関の戸を開け、閉めるまで見届けてから、彼はようやく踵を返した。

SP達に、挙手をして「ご苦労さん」と、ねぎらいの言葉をかける。

SP達は、北斗の言葉にさして目立った反応を見せる事もなく、変わらぬ鋭い視線を投げつけている。

北斗は、その剃刀を思わせる視線を背に浴びながら、屋敷を離れた。

やがて100メートルばかり歩いたところで、北斗は一度だけ屋敷の方を振り向いた。夜とはいえ、街の街灯は明るく、改造人間である北斗の網膜には、変わらぬ様子の屋敷が鮮明に焼き付いている。

険しい視線を屋敷の方に向けながら、スーツの内側へと左手を滑り込ませ、ショルダーホルスターからブローニング・ハイパワーを引き抜いて、セフティを解除した。

まさにこの瞬間、北斗の戦いは始まったのである。

警視庁のSPは誠実で、かつ有能である。命を賭けて要人を守るということにかけて、SPはサムライ以上のサムライであり、しかも純粋だ。屋敷の内外にかけての警護は、そういった優秀なSP達が鉄壁の布陣で守りを固めている。

かつて〈ショッカー〉に所属していたとき、北斗は何度となくそれら有能なSPと激突し、何度となく苦汁を飲まされている。幸いにして任務が失敗したことはなかったが、警視庁のSP達が要人警護にかけて、いかに優秀なのかは北斗自身、よく知っていた。

しかし、そういった有能なSP達に、弱点がないわけではない。

その反撃能力の高さを知っているがゆえに、襲撃者はその弱点を衝いてくる。

SP(Security Police)の仕事はあくまで要人警護という“Security”であり、“Attack”ではない。守りということは、すなわち後手に回ってしまう可能性があるということである。接触時の最初のタイミングで、必殺の一撃を受けては、いかに有能なSPでも太刀打ちは出来ない。北斗もまた、SPと戦うときは常に先手の必殺の一撃を心得ている。

北斗に課せられた任務は、そういった先手の一撃に弱いSP達の代わりに、自ら先手を打つことであった。

具体的には、事前に屋敷の間取りから高知県全域の地理、さらにはプロフェッサー・ギルより与えられたデータをコンピューターにインプットして弾き出された、想定される敵の侵攻ルート14種類を北斗が巡回する手筈になっている。

5つ目のルートに差し掛かったところで、北斗の表情が、わずかに動いた。

暗闇のうえに街灯もないため、分かりにくいが、かすかに、道路が水で濡れている。

奇妙なことであった。

ここ数日の高知県は快晴に恵まれ、雨といえるような雨は一滴たりとも降ってはいない。さらさらとした手触りから、人間の体液とも思えない。

北斗は、街灯のある所まで歩いて、濡れそぼった指先を見た。

拒絶反応は出ていない。どうやら、化学薬品でもなさそうである。

北斗は、無言のうちに指先を舐めた。

 

「海水……」

 

北斗はハッとした表情を浮かべ、来た道を引き返した。

500メートルほど走ると、北斗の4.0の視力が、ついに夜闇にまぎれて歩く彼らの姿を捉えた。人数は、4人。後姿だけで判断するのは禁物だが、全員が平均的日本人の体格を大きく上回っている。

北斗は、その後姿を追った。

4人の歩き方から、外国人観光客が夜道に迷って歩いているとは考えにくかった。彼らは、明らかに明確な目的意識を持って、道を歩いていると、北斗は思った。

 

(このままの進路だと、夏目聖山邸に着くが……)

 

半ば確信してはいるが、それでもまだ外国人達が襲撃者になりうる可能性は100%ではない。

また、北斗は屋敷を警護しているSP達のように司法機関に所属しているわけでもないため、不審者だからと、職質をするわけにもいかない。

 

「いっそのこと拳銃でも見せつけてくれればな……」

 

冗談ともつかぬ口調で、北斗は呟いた。

その呟きはかすれるような程度の小声であったが、冬の澄んだ夜気には充分に伝わり、先を歩く外国人の耳膜を打ったようである。

4人の外国人は、チラリと後ろを歩く北斗を一瞥した。そのさり気なさを装った仕草は、明らかなプロの反応であった。加えて、北斗の日本語を解しているようなふしがある。

北斗は、スーツのボタンを上から2つはずして、抜き撃ちに備えた。

無論、こんな市街地で、サイレンサーもなしに拳銃を使う気など毛頭なかったが、万が一の事態に備えての、所為である。

そのとき、突如として、4人の外国人が予備動作もほとんどなしに、脱兎の如く駆け出した。洗練された、プロの動きであった。

北斗は、「鶴が鴉に変わったか……」と呟いて、4人の外国人を追った。

あらかじめこういった事態を予想していたのか、4人の外国人は、入り組んだ路地裏で四方向に分かれた。

北斗は、少しも躊躇することなく、分かれた4人のうちの、もっとも長身の黒人に目をつけ、その後ろ姿を追った。

黒人の逃走は、明らかに近隣の地理を知り尽くしての走り方であった。

距離にして500メートルほど走ると、聖山の屋敷からも、住宅街からも、かなり離れたところを、北斗達は走っていた。

さらに100メートルほど走ったところで、黒人が、くるりと振り向いて北斗の顔面に切れ味の鋭いフックを放った。

咄嗟に両腕をクロスして、それを受け止める。

両腕にハンマーで殴られたような物凄い衝撃を受けて、北斗の70キロの体が吹っ飛ばされた。

壁に激突する寸前で、北斗が空中で器用に足をバタつかせ、ゆったりと着地する。

直後、黒人の手元でバチンッと鈍い音が鳴った。

拳銃の撃鉄を起こした音ではない。

黒人は、その手に小型のジャック・ナイフを握っていた。

黒人が、跳んだ。北斗の187センチと大差ない巨体が、軽々と宙を舞い上がり、北斗の頭頂部目掛けて、振り下ろされる。

北斗は、黒人のナイフを握った方の腕を?んで、豪快な山嵐を放った。後ろエリを?んで、頭から叩きつけるように投げる山嵐には、絶対に受身が効かない。

黒人が、「ぐぇっ」と叫んで、仰向けに倒れた。頭が割れ、血が川のように流れ出している。

北斗は、倒れた黒人を一瞥して、踵を返し、一目散に走り出した。蜘蛛の巣のような路地裏を、迷いもせずに全力で駆ける。

走っている間にも、常に分かれた3人の情報を入手していた北斗であった。

彼の改造人間としての感覚能力は、彼らの足音を常に聞き、彼らの匂いを常に感じていた。もしわずかでも『あの3人だ』と断定できる要素さえ発見できれば、北斗にとって、彼らの気配を探るなど、あとは容易なことであった。

 

「近い」

 

口元に冷笑を浮かべて、北斗は気配のする方へと最短距離を用いて走った。

15メートル以下の高さの建物は全て跳び越し、それ以上の高さの建物は壁を蹴って疾走した。走りながら、北斗はスーツの内ポケットに左手を滑り込ませ、投げナイフを1本抜く。

 

「そこか……!」

 

居住区とビル街の境界とも言える道路……そこに、3人の外国人はいた。

屋根瓦を壊さぬよう、しかし最大限の滞空時間が稼げるように、北斗が民家の屋根を蹴る。

冬の夜空に北斗が舞い、刃が飛んだ。

 

“サクッ”

 

まるで、新雪に第一歩を踏み入れたかのように、ナイフは、スルリと3人のうちの1人……長身の白人の延髄へと突き刺さった。

同時に呼吸器系もやられたのだろう。叫び声も上げずに、白人は両腕を宙で泳がせるだけだった。

北斗が、音もなく地面に着地する。

仲間の異変にやっと気がついた2人が振り向いたとき、右側の白人の顔面を、北斗の右ストレートが襲った。

白人の体が吹っ飛び、地面を転がる。

残った巨漢の黒人が、半ば茫然として北斗を見つめた。

 

「最初に聞いておく……」

 

北斗が、静かに英語で言った。

黒人が、ハッとして北斗を睨みつける。ゆっくりと北斗に滲みよって、怒りに表情を歪める。

大きい!

身長187センチの北斗が見上げる、大男である。

 

「どこの組織の手の者だ? ……いや、質問の方向性を変えよう。お前達は『機動戦士S.T.』か?」

「殺れッ、バイソン!」

 

吹っ飛ばされた白人が、唇から血を流しながら、黒人の闘魂を煽った。

パイソンという黒人の名を聞いて、北斗は(なるほど……)と、思った。

5、6年前、プロボクシングの世界ヘビー級チャンピオンに、ジャック・バイソンという黒人の選手がいた。

21歳という若さで世界チャンピオンとなったジャック・バイソンは、プロ入り以来37戦37勝37KOという無敗記録を打ち立てたが、なぜか7度目の防衛戦に勝利したあと、忽然とボクシング界から姿を消していた。

その恐るべきファイターが、北斗の目の前に出現したのである。

北斗はバイソンに背を向けると、3歩歩いて、上着を脱いだ。

北斗が肩から下げている拳銃ホルスターを見て、バイソンが一瞬たじろいだ。

まさか北斗が拳銃を所持しているとは、思いもよらなかったのだろう。

日本で、公に拳銃を持ち歩けるものといえば、犯罪捜査に直接タッチしている者だけである。

だが、北斗はバイソンに対して拳銃を使う気はなかった。また、改造人間・闇舞北斗として戦う気も、まったくなかった。

素手で強い者を倒すのは、ある種のロマンである。

北斗は、拳銃ホルスターをとって、脱ぎ捨てた背広の上に放った。ネクタイも同様に緩めて取り除き、背広の上に置く。

相手は無敗を誇った、元ヘビー級チャンピオンである。

そんな相手に、本当にただの人間として戦おうというのか、闇舞北斗。

――と、そのときであった。

ブンと風を切って、バイソンの拳が北斗に突き出された。

北斗が上体を揺らして避けた刹那、それを待ち構えていたバイソンの左拳が、回りこむようにして、北斗の横面に爆発した。

北斗が「があッ」と喉を鳴らし、倒れる。

バイソンが、北斗の肋骨に狙いを定め、追撃の拳を振り下ろそうとする。

しかし、彼は両脚を北斗に払われ水溜りの中に倒れていた。

怒りの形相凄まじく、バイソンが立ち上がる。

北斗は、顔をしかめ、よろめきながら片膝を立てた。強烈なバイソンのパンチで、頭の中が、まだ痺れている。

バイソンの巨体が、伸し掛かるようにして、北斗に突っ込んだ。

バイソンが、殴る、殴る、殴る、殴る。

北斗は両腕をクロスさせて、懸命に防いだ。打たれた肉が、ドスッドスッと不気味に鳴る。

バイソンが呼吸を整えようとして半歩退き、また踏み込んだ。その瞬間、北斗の双眸がギラリと光った。

 

「しゃあッ」

 

異様な裂帛の気合が北斗の唇から漏れて、片膝をついていた北斗の体が伸びあがった。

そしてそのまま、右足が物凄い速度で垂直に蹴りあがる。

革靴の先端が、バイソンの顎を捉えて、骨の砕ける鈍い音がした。

バイソンの両足が、路面から浮き上がる。

だがそのときにはすでに、北斗の捻り込むような右フックが、バイソンの左胸から首へ飛んでいた。

バイソンの巨体が朽木の如く、ドスンと倒れる。

 

「うおおおッ」

 

バイソンが、陥没した顎をひと撫でして、立ち上がった。

彼は、自分が倒されたことが信じられなかった。プロボクサー時代、一度としてリングに両手両膝を落としたことのないバイソンである。

彼の誇りは、無残に、ズタズタに傷つけられていた。

北斗は、両手をだらりと下げた姿勢で、バイソンが挑みかかってくるのを待った。

バイソンが、ファイティング・ポーズをとって、左フックを繰り出すと見せかけて、右ストレートを放つ。目にも留まらぬ速さである。

北斗が、左掌でバイソンの強襲を受けた。

不敗を誇った元ヘビー級世界チャンピオンのパンチは、北斗の掌に耐え難い激痛を与えた。

北斗が思わず一歩退くよりも早く、バイソンの連打が、北斗の腹から胸にかけて何発もヒットする。

北斗の背中が街灯にぶつかり、支柱が揺れ動いた。

北斗の表情が、苦痛で歪む。

とどめを刺そうとして、バイソンが北斗の右側頭部に振り回すようなパンチを打ち込んだ。

腰を沈めた北斗が、陥没したバイソンの下顎に、すくいあげるような右の拳を叩き込む。

2人の拳が、十字を描いて交差し、“メシャアッ”と、鈍い音が鳴った。

バイソンの顎の骨が完全に砕け、彼の口から断末魔の呻き声が漏れた。

北斗の連打が、バイソンの心臓の真上を打つ、打つ、打つ。

胸骨がへし折れ、バイソンが口から血の塊を吐瀉した。

北斗の手刀がバイソンの眉間に、音を立てて食い込む。

眉間が陥没し、バイソンの右眼球が鉄砲玉のように飛び出して、路上に転がった。

バイソンの巨体が、朽木のように前に倒れる。

吹っ飛ばされた白人が、北斗の凄まじいパワーを目の前に見て、顔をひきつらせた。

尋常の強さではない。プロボクシング史上ににその名を残す無配の王者を倒してしまったのである。

 

「……もう一度聞く」

 

北斗が、静かに口を開いた。

 

「貴様らは何者だ……?」

 

白人が、諦めたように口を開いた。

 

「き、『機動戦士S.T.』……」

「やはりそうか……貴様にはまだいくつか聞きたいことがある」

「な、なんだ……?」

「まずは『機動戦士S.T.』の規模について答えてもらおうか」

「き、『機動戦士S.T.』の構成員は約3万……」

「待て。今、3万と言ったが、それは正確な数字か?」

「ほ、ほぼ正確な数字だ。3万人のうち8千人は国際要員として中東やペルシャ湾の紛争地帯や、各国の主要都市に配置されている。と、東京も例外じゃない」

「貴様達は東京にある支部の人間か?」

「そ、そうだ」

「東京支部には何人が配置されている?」

「さ、344名」

 

それは恐るべき『機動戦士S.T.』の組織力だった。

白人が言葉を紡ぐにつれて、北斗の表情がかすかに陰りを帯びていく。

正直、これ以上先のことを聞くのは恐かった。下手をすれば、北斗は、たったひとりでその3万人と戦う事になるかもしれないのだ。

しかし、聞かないわけにはいかなかった。

 

「残りの2万2千人は本部に配置されているのか?」

「そうだ」

「本部の場所は?」

「イギリス、ロンドン……」

「組織構成員の素性を答えろ」

「こ、構成員のほとんどは各国軍隊の不良分子、バイソンのような元プロスポーツ界のエース。それから、60年代後半に、ベトナムを経験した者達……」

「組織の保有する戦力は?」

「わ、分からない。俺は組織の末端だから……」

「分かる範囲でいい。……そうだな、東京支部の戦力だけでいい」

「軍用トラック及びジープ各20台、F−4EファントムU6機、AH−1Gヒュイコブラ4機、装甲戦闘車8両、空中給油機1機、ロッキードC−5Bギャラクシー1機、日本のあさしお型潜水艦2隻」

 

北斗の背筋に、冷たいものが走った。

構成員3万人という数字だけでも相当の衝撃だというのに、『機動戦士S.T.』の保有する戦力は、いかに改造人間といえど、驚愕に値するものだった。

特に北斗が戦慄したのは、ロッキードC−5ギャラクシー1機と、あさしお型潜水艦2隻である。

ロッキードC−5ギャラクシーは米国、ロッキード社が開発した世界最大の戦略輸送機で、330名の完全武装した兵士を時速866キロで、9504キロにわたって輸送することが出来る。つまり、『機動戦士S.T.』東京支部の全戦力を、一度で運ぶことが出来るということだ。

また、あさしお型潜水艦は、昭和41年に就役したばかりの海上自衛隊の潜水艦であり、これを持ってすれば、怪しまれることなく日本の領海内を移動することが出来る。

おそらく、今この瞬間も、あさしおは太平洋を潜行しているのだろう。

そして虎視眈々と、夏目聖山の葬儀に出席する政財界の著名人を狙っているに違いなかった。

 

「……もうひとつ、貴様らの背後には誰がいる? 『機動戦士S.T.』は3万人の人間に加えて、戦闘機や潜水艦まで保有している……とても、一国の政府が関与していなければ成立しない巨大組織だ」

「し、知らない」

「そうか……」

 

北斗は、『機動戦士S.T.』に仕事を依頼したクライアントについては、あまり興味を示さなかった。

クライアントについての調査は別の人間がすることであり、自分は襲いくる敵をひとつずつ潰していけばいいと、彼は考えていた。

そのためにも、出来るだけ情報は多く仕入れておきたかったのだが……

 

「仕方ないな」

 

静かに呟いて、北斗は白人の鳩尾に拳を沈めた。

白人が、「うっ」呻いて、ガクリと腰を折る。

北斗は、ショルダーホルスターと背広を着なおしてから、外国人達の事後処理を依頼するべく、公衆電話を探した。

 

 

 

 

 

――1973年2月7日

 

 

 

 

 

夜が明けた。

一晩中街を巡回していた北斗は、あの後も何人かの不信な外国人を見つけ、その度に探りを入れると、彼ら全員が『機動戦士S.T.』東京支部の人間であることが分かった。

どうやら、他の襲撃者はいないようである。

 

「もっとも……その単一の襲撃者自体、かなりの強敵なのだが」

 

やや自嘲気味に苦笑を浮かべ、北斗はコンビニで買ったパンを口に含んだ。

北斗は今、聖山の家に続く早朝の道を歩いていた。りゅうと着こなしたスーツの、第1〜3までのボタンははずしてあり、いつでもショルダーホルスターのブローニング・ハイパワーを引き抜ける状態である。

北斗のハイパワーに装填されている9mm特殊徹甲弾は、装薬にSPHEを用いて、弾頭と薬莢を超硬質合金で強化コーティングが施されている。SPHEとは、Stopping Power High Explosive の略で、高純度のニトログリセリンを主原料とした強力な装薬である。通常拳銃用装薬の、約3.7倍の爆発力を有しており、この特殊徹甲弾は既存のボディアーマーの全てを貫通し、1センチ以下ならば、戦車の装甲板すら貫くことが可能だった。

しかし、それほどの強力な武器を持っているというのに、北斗の表情からは微塵の余裕も感じられなかった。

それは、『機動戦士S.T.』の保有する戦力が、それほど強大であるということを証明している。

屋敷の前まで来た北斗は、鉄壁の守りを固めたSP達を頼もしく思う反面、不甲斐なくも思った。

いかに警視庁のSPと言えど、F−4EファントムUが相手では勝ち目がないし、彼らの装備では低空飛行のAH−1Gコブラに、攻撃を命中させることすら難しい。

 

(やつらは昨日のうちに刺客を送り込んで、極秘裏に暗殺を行うための下地を作ろうとしていた……全員が、一騎当千のメンバーばかりだ。それが失敗したとなると、今度くるとすれば、大人数の武装した集団か、航空兵器を持ってくるはず)

 

それでも、“暗殺”集団という性質上、表沙汰に『機動戦士S.T.』の名が出ることはないだろう。

 

「ファントム……それに、コブラか……」

 

いかに改造人間とて、生身で戦うには、どちらも強力すぎる敵である。

……否、北斗にはイスカリオテというモンスターバイクがあり、イスカリオテには短距離用のマイクロミサイルが装備されている。この短距離というのは約4キロメートルを指し、この距離まで接近できれば、あるいはなんとかなるかもしれない。

 

「分の悪い賭けだな」

 

クシャクシャとパンの包み紙を丸め、屑籠に捨てる。

すでに屋敷の前まで来ているのだが、SP達は北斗の姿を一瞥するだけで、何も言わないし、昨夜のような鋭い視線の集中砲火もなかった。

それどころか、SPのうちのひとりは、北斗の姿を捉えるなり、無言で挙手をしてきた。

昨日のうちに、源三郎から伝達があったのだろう。

背広の隙間から見えるショルダーホルスターを目にしても、何も言わない。かえってそれが不気味ですらある。

 

(一体どんな説明をしたのやら……?)

 

北斗は口元に冷笑を浮かべると、すぐに表情を引き締め、周囲の警戒を始めた。

聴覚を研ぎ澄まし、かすかな足音や、囁き、大気の流れる音すらも聞き逃すまいと集中する。

嗅覚を研ぎ澄まし、火薬の臭いや、ガンオイルの臭いなど、一般人とはおおよそ無縁な臭いを探し出す。

SP達は、北斗がなにをしているのか分からずに、何人かは不思議そうに彼を見ていた。

幸いにも、まだ付近に怪しげな気配はない。

北斗は、そのことを確認すると、足早に屋敷の敷地に入っていった。

これから葬儀の始まる10時までの間、彼は屋敷内の警護を任されているのだ。

 

 

 

 

 

葬儀が始まった。

北斗は、当初の予定であった私人としての献花を諦め、屋敷の外で、常に不信な気配がないか探っていた。五感をフルに研ぎ澄まし、場合によっては予知能力の使用すらやむえずと、考えている。

警備には警視庁のSPの他、秘密結社『ダーク』の工作員が何人か、参列者に紛れて、最終防衛線を確保していた。

北斗の任務は、敵をその最終防衛線に近付けないことである。

葬儀が始まって、一時間が経過しようとしていた。

北斗は屋根瓦の上で静かに周囲の監視をしていた。

そんな北斗の耳膜を、どこからともなく、団扇を素早く掌で叩くような音が打った。

 

「来たか……」

 

北斗の表情が厳しさを増し、彼の体がふわりと宙を舞い、地面に着地する。

団扇を叩くような音は、南の空から聞こえてきた。

音はまだ遠く、SP達の耳には届いていないようである。

北斗は、SP達に不信がられないように注意して、南の方角に向かった。

団扇を叩くような音は、次第に近付きつつあった。かなりの速さで、急速に接近しつつある。北斗は、人目のつかないところまで来ると、全力で疾走を始めた。

5分ほど走ると、空に、ぽつんと、小さな黒点が、真っ直ぐこちらに飛来しつつあった。団扇を叩くような音は、どうやらあの黒点から発せられているようである。

その音が、まぎれもなくヘリの爆音だと分かったとき、北斗は、人気のない、鬱蒼と木々の繁る林の中に入っていた。

一際大きく、太い木の一本に、足の力だけで登り、ショルダーホルスターからブローニング・ハイパワーを引き抜く。

 

「撃ち堕とす……」

 

ドスを孕んだ声で、北斗は呟いた。低いが、断固たる響きがあった。

急速に大きさを増していく黒点は、武装攻撃ヘリの特徴をはっきりと見せ始めていた。

 

「コブラ……」

 

北斗の口から、低い呟きが漏れた。

それは、まぎれもなく、米国ベル社で開発された対戦車ヘリ……AH−1Gヒュイコブラであった。幅1メートルにも満たないその細長い機体が空を飛ぶ様子は、まさに本物のコブラを思わせる。

ヘリの爆音が、一段と近付いてきた。ヘリが真上に到達するのに、あと1分とかからないであろう。

視認できるコブラの高度は約150メートル。

北斗の登った木の高さが約20メートル。水平射撃におけるブローニング・ハイパワーの射程が約150メートルなので、ギリギリの距離である。

ローターの回転によって生じる旋風が、林を大波のように揺らす。

コブラの機首下にある旋回ターレットが、北斗の存在に気付いたのか、稼動し、搭載されているM134ミニガンの銃口を、彼の方に向けた。1分6000発という発射速度を誇る、7.62mm口径のガトリングガンである。

北斗の背筋を、なにか冷たいものが走った。

コブラが、爆音とともに迫る。

北斗とコブラの間の緊張が最高点に達したとき、ミニガンが、突如として咆哮した。

秒間100発という超連射の7.62mm弾が、銃弾のシャワーとなって、天から地へと降り注いだ。林が、雷鳴のような悲鳴をあげる。

北斗の右肩を、手首を、膝を、背中を十数発が擦過し、彼の体が、万有の法則に従って20メートルの高さから落下する。

北斗は、ふわりと地面に着地すると、苦痛に顔を歪める間もなく、ブローニング・ハイパワーの引金を引き絞った。

9mm特殊徹甲弾の反動が、北斗の傷付いた右手首を襲う。

コブラのトランスミッションが被弾し、甲高い音と青い火花を散らす。9mm特殊徹甲弾が、弾き返されたのだ。

トランスミッションは、ヘリコプターの最大の弱点の一つである。

その部分の弾道耐性が著しく強化されていると判断した北斗は、秒の間も置かずに、ドライブシャフトに集中射撃を加えた。

だが、これも弾き返されてしまう。

 

「くそッ」

 

北斗は次々と振ってくる木屑と銃弾を躱しながら疾走した。走りながら、射撃に最適なポイントを探す。

ヘリの真下からでは、コックピットを狙えない。

―――と、そのときであった。

コブラが、姿勢を変えて自ら機首を北斗の方へ向けたかと思うと、“ボッ”と、北斗にとっては絶望的な重低音を鳴らした。

40mm口径、グレネードランチャーであった。

林が、大音響の爆発音に包まれた。

爆風が、爆炎が、グレネードの破片が、北斗の身に襲いかかる。

北斗の背広の上着が、たちまち泥と、血で汚れた。

 

「くっ…………イスカリオテ!」

 

灼熱のような熱風に吹き飛ばされ、地面を転がりながら、北斗は、咄嗟に左手首に巻かれたスピードマスターに向かって叫んだ。

このスピードマスターは、通常のスピードマスターとしての機能以外に、小型通信端末機としての機能があり、直接、イスカリオテの高性能電子コンピューターに電波を飛ばす事が出来る。

つまり、夏目聖山の屋敷の傍で待機している『ダーク』工作班の持ってきたイスカリオテを、直接、遠隔自動操縦で呼び寄せることが出来るのだ。

動きの鈍った北斗を狙って、ミニガンが火を噴いた。北斗のハイパワーも、ドンドンドンッと重低音を叩き出す。同時に、ハイパワーの機関部が“カチッ”と、場にそぐわない小さな音を立てた。

北斗の耳の傍を、ミニガン着弾線が走り抜け。コブラが頭上で急旋回しながら上昇する。

その間を縫って、北斗が、ハイパワーに新しい弾倉を叩き込む。

ハイパワーの銃口が、爆音とともに回転するローターを追い、北斗の指が、秒速5発という恐るべきスピードでトリガーを引いた。

“ドンドンドンドンドンッ”という重低音衝撃波に送り出された9mm特殊徹甲弾が、コックピットの風防ガラスを撃ち抜いた。

前席のオペレーターの頭が、ザクロのように破裂し、血飛沫がコックピットの外まで飛び散って、北斗の頬を濡らした。

いったん上昇したコブラが、急降下に移った。

まだやる気だ。

上体を起こした北斗が片膝をつき、左腕を真っ直ぐに伸ばして、先制の一撃を撃った。

ハイパワーの機関部が悲鳴を上げながらピストン運動し、反動に打たれた北斗の手首が、血管を膨らませ、しなる。

ドンドンドンッという爆裂的な銃声を引っさげて、9mm特殊徹甲弾が、真正面からコックピットを捉えた。

仰け反るパイロット。血に染まる風防ガラス。

北斗の超人的視力は、その様子をコマ送りのように捉えていた。

機体を横転させ、コブラが一直線に北斗に向かって堕ちてくる。笛のような音は、空気を裂く音なのだろうか?

北斗が、林の外に逃げ出すべく走り出した。

……だが、間に合わない!

北斗の後方14・5メートルのあたりで、コブラは大地に突き刺さるように激突した。

爆発音が炎を、炎が爆風を一気に膨張させ、北斗の頭上に覆いかぶさる。

北斗が、咄嗟に地面に伏せた。

ボロボロの背広から覗く彼の肌が、火脹れに耐えようとして、たちまち真っ赤になる。

高熱を堪え、北斗が呻いた。

天高く散ったコブラの残骸が、まだ彼に戦いを挑むかのように、北斗の周囲に落下して、地響きをたてる。

このとき、風が逆に吹いて、北斗の頭上に渦巻いていた炎が、ゆっくりと流れた。

立ち上がった北斗は、20数メートルを走って、ようやく林の外に出た。

全身が、燃えるように熱い。

そのときであった。

小型通信端末も兼ねているスピードマスターがアラームを鳴らし、通信の受信を告げた。

端末を弄って聞こえてきたのは、切羽詰ったようなプロフェッサー・ギルの声だった。

 

『「killing gentleman」、ただちに夏目聖山邸に急行せよ』

「……何かありましたね?」

『うむ。夏目聖山の屋敷が、武装攻撃ヘリに襲撃された』

「なんですって」

『警護にあたっていたSP達が全滅し、何人かが別働隊のトラックで攫われた。どうやら、攻撃ヘリは防衛力を削ぐための奇襲だったらしい』

「やられた……」

 

愕然として、北斗はギルにAH−1Gヒュイコブラと交戦したことを話した。

念のため確認をとると、屋敷を襲った攻撃ヘリも、ヒュイコブラであることが分かった。

 

『してやられたな』

「ええ……ともかく、ただちにそちらへ向かいます。俺が着くまでに、攫われた人間を特定しておいてください」

『うむ、頼んだぞ』

 

通信を切ってから、北斗は苦しげに歯軋りした。

彼の脳裏に、彼女の言葉が蘇る。

 

『わたし、最近じゃ夏目議員の専属なんですよ』

 

夏目翔一市会議員と、バネッサの連絡はあれ以来とれていないらしい。

もし、その襲撃の際、バネッサが居てくれれば、みすみす誘拐を許しはしなかっただろう。

ちょうどそのときであった。

北斗の鼓膜を、聞き慣れたバイクの爆音が打ち、振り向くと、やはり見慣れた純白のシルエットが映った。

―――イスカリオテである。

イスカリオテは北斗の目の前までくると、急停車し、その機首を北斗へと向けた。

北斗は黙ってイスカリオテに跨ると、自動操縦で夏目邸まで向かった。

 

 

 

 

 

襲撃を受けたと思われる夏目聖山の屋敷は、凄惨たる有様であった。

ミニガンによって傷つけられた屋根瓦はことごとく砕け、木の柱は蜂の巣のようである。

人的被害もかなりのものなのだろう。北斗が到着した時点でも、かなりの数の救急車が止まっていた。

 

「おお、北斗」

 

群がる野次馬達を押し退けて、プロフェッサー・ギルが顔を出した。

 

「大変なことになりましたね、プロフェッサー」

「まったくだ。これを」

 

そう言って、ギルはポケットからシステム手帳を取り出すと、びっしりと細かな文字で書かれたページを千切って、北斗に手渡した。

そのページには、現在の内閣官房長官他、13名の名前が記されていた。トラックの別働隊によって攫われた人々のリストである。

 

「夏目先生……」

 

リストの中には、夏目光の名も記されていた。

 

「そうだ。夏目光は夏目源三郎を庇って連れていかれてしまった」

 

そこまで言ったところで、野次馬達の波を掻き分けて、源三郎が姿を現した。

 

「おお、闇舞君」

 

源三郎は力なく歩を進め、北斗の目の前まできたところで、ガクリと力なく肩を下げて、膝を折った。

夏目財団数社の総帥である彼も、さすがに娘を連れ去られたことは堪えたのだろう。その顔は蒼白であった。

北斗は、その初老の男の肩に手を置くと、諭すような口調で言った。

 

「娘さんは必ず助け出します。……いえ、13人の人間、すべてを連れて帰ってみせましょう」

「……頼む」

 

しゃがれた声で、源三郎は頭を下げた。

北斗の巌のような手が、源三郎の肩を励ますように揺する。

しばらく沈黙が続いた後、源三郎は改まって、北斗に話しかけた。

 

「ところで闇舞君……」

「なんでしょう?」

「きみは備前長船五郎入道正光(びぜんおさふねごろうにゅうどうまさみつ)という名を知っているかね?」

「愛好家達の間で、“幻の名刀”と言われている刀でしょう? 丁子乱れに蛙子乱が入り混じった、特有の刃文がさぞ美しいと聞いています」

「さすがによく知っているな。実は、この日本刀愛好家が鵜の目鷹の目になって探している刀は、我が夏目家の家宝なのだよ」

「ほう……」

 

すでにこの時点で、源三郎が何を言おうとしているのか理解したのだろう。

北斗の眼光が、鋭さを増した。

 

「備前長船五郎入道正光、きみに使ってもらいたい。失礼だがきみは剣道は……」

「柳生新陰流をいささか……」

 

柳生新陰流とは、日本を代表する剣術流派のひとつであり、かつては伊藤一刀斎流祖の“一刀流”とともに、徳川将軍家の剣術指南役を勤めていた流派である。

正式名称を柳生新陰流兵法といい、これは柳生流が単なる斬り合いの技ではなく、天下を治めるための妙術……『活人剣』の理想を目指してきたことを意味している。

 

「着いてきたまえ」

 

源三郎が立ち上がり、屋敷内へと歩を進める。北斗とギルがその後を追うと、連れてこられたのは20畳ほどの広さの和室であった。

長い時を経てなお濃く香る畳の臭いを鼻腔に感じながら、北斗は、その床に置かれていた刀掛けにかけられている刀を見た。

 

「これが……」

「うむ、備前長船、五郎入道正光だ」

 

北斗は黙って五郎入道正光を受け取った。

柄や鞘に鋭い視線を注いで、丁寧に白刃を抜き放つ。

 

「素晴らしい……」

 

思わず、溜め息が漏れてしまうような美しさであった。

今、ベルトの拳銃ホルスターに差し込まれた電磁ブレードのそれとは、まったく比較にならない。

 

「備前長船五郎入道正光、たしかにお預かりいたしました……この刀は、たしかに利息をつけて返上いたします」

「頼んだぞ」

 

北斗は、丁寧に腰を折ってギルに向き直った。

 

「奴らのアジトは分かりますか?」

「きみが来る2分ほど前に、政府に対して脅迫電話がかかってきた。1人につき1億ドル……だそうだ。どうやら奴らの目的は、最初から要人の暗殺ではなく、誘拐及び脅迫だったらしい」

「さらに別の仲間がいるか、アジトが近場なのか……」

「もしくは、自動車電話でかけたかだ」

「内閣特別調査室の方で逆探知した結果、電話は高知市内からかかってきたということまでが分かったそうだ。現在、市内にいる『ダーク』の工作員達にそれらしい場所を探させている」

 

ギルが言い終えたそのとき、ギルの左手首に巻かれた腕時計が、ピピッと電子音を鳴らした。北斗のスピードマスターと同じ、小型通信端末である。

聞こえてきたのは、とうの工作員の声だった。

どうやらそれらしいアジトが特定できたらしい。

 

「いいタイミングだ」

「では、いきます」

「うむ、頼んだぞ」

「娘のこと、官房長官のこと……よろしく頼む」

 

2人の視線を受けながら、北斗は静かに和室を出た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

“イスカリオテ”

 

全長:2340mm 全幅:1115mm 全高:1320mm

乾燥重量:235kg 全備重量:272kg

最高出力:520ps/8500rpm 最大トルク:65kg-m/7500rpm

最高速度:650km/h 総排気量:3500cc

武装:50口径機関砲×2門(各200発)、短距離マイクロミサイル×8発

 

秘密結社『ダーク』が闇舞北斗に与えたオートバイ。

圧倒的な加速性能とブレーキ、ハンドリングの軽さを誇り、並のアンドロイドや改造人間では前進することすらままにならないほどのモンスター・バイク。

純粋な“足”として開発された仮面ライダーのバイクと違い、こちらはバイクそのものがある程度の戦闘力を持てるようにと、かなりの重装備化が施されている。

その装甲材質はダークのアンドロイドに使われているものと同質の素材でできており、自衛隊の61式戦車(当時の主力戦車)の52口径90mm戦車砲の直撃を受けても、最低2時間の稼働が可能。

なお、イスカリオテの名称は北斗が自らの所業にちなんで名付けた。

 

 

“FNハイパワー”

 

秘密結社『ダーク』より給与された北斗の愛銃。

秘密結社『ダーク』の技術陣の手によってかなりの改造が施されている。主な改造点は以下の通り

ハンマー露出式のダブルアクション・トリガーへの変更(これによって連射が可能になった)

9mm特殊徹甲弾の使用に耐えられるようスライドと銃身に軽合金を採用

北斗の掌にジャストフィットするようにグリップの形状変更

 

 

“アーマライトAR−18”

 

全長:960mm 重量:3000g 口径:5.56mm×45

装弾数:30発 製造:アメリカ

 

スプリングフィールドM14(当時の米国製式アサルト・ライフル)に代わる、米陸軍制式突撃銃次期後継銃として、名銃コルトM16(世界三大突撃銃のひとつ)と同時期に開発されたアサルト・ライフル。

コルトM16(当時の名はAR−15)が、レシーバーをアルミニュウム系軽合金で製造し、軽量化を図っていたのに対し、AR−18は広範にスチール板をプレス加工することで、生産効率の高い設計がとられている。

新米的な第三世界でのライセンス生産を前提に考えていたのか、簡単な農耕具製造技術さえあれば生産可能なほど、生産効率はよい。

もっとも、結果的に第三世界諸国でのライセンス生産は行われず、また、トライアルの結果、次期後継銃にはM16が選出されている。

一応、メーカーは民間用にアサルト・ライフル自慢のフル・オート機能を殺したAR−180を販売したが、こちらも簡単な改造でフル・オート機能が使用できるため犯罪者に好まれ、海外販売に切り替えたものの、イマイチぱっとしない。

その他、ライセンス生産していた日本の豊和工業で生産した一部の製品も、アイルランドのテロ組織IRAが秘密裏に購入していたことが発覚して……と言う具合に、何かと不遇の目に遭っている。

しかし、性能事態は悪くなく、単純な設計と構造から安全性、信頼性も高く、頑丈。

なお、このAR−18こそが、後に現在の自衛隊の制式突撃銃である89式小銃(「世界一高いアサルト・ライフル」という、有難いんだか、そうでないんだか分からない異名を持っている)のシステムの雛型となっている。

 

 

“備前長船五郎入道正光”

 

全長:105cm 刃渡り:80cm 重量:1060g

 

本編で北斗が使用していた刀。無論、架空の物であるが、一応、モデルはある。

宮本武蔵著の『二天記』などで有名な、佐々木小次郎の愛刀『備前長船長光』である。さすがにあそこまで(刃渡り3尺)長物ではないが、それでもかなりの名刀。

ちなみに、“五郎入道”に関しては日本刀の代名詞とも言える『正宗』の刀工……五郎入道正宗の名からとっている。

なお、備前長船長光の異名として有名な『物干竿』であるが、剣術を志す方々にとって、たとえ佐々木小次郎が架空の人物であったとしても、その異名は屈辱的以外の何ものでもないので、あまりこの名前は使わないようにしましょう。

 

 

 

 

 

 

〜言い訳〜

 

タハ乱暴「うが〜〜〜!」

真一郎「ど、どうしたんだよ?」

タハ乱暴「長い!長い!!長すぎる〜〜〜〜〜!!!」

真一郎「……って、これはお前が書いてるんじゃ……」

タハ乱暴「脳細胞を絞りまくって、脳内にあるネタを全部引き出して……」

真一郎「お、お〜い……」

タハ乱暴「……歪んだ高知県の知識を持ってして、北斗を軟弱者にして……挙句、出来たのがこんな駄文!」

北斗C「いや、駄文なのは今更のような気もするのだが……」

北斗A「そうだな、今に始まったことでもないし……」

北斗B「ネタは豊富にあるのだが、問題はこの男の文章構成能力の問題ではないか?」

タハ乱暴「シクシクシク……みんなしてボクを苛める……」

真一郎「……キモ」

北斗A「黙れ、外道」

北斗B「この鬼畜王が」

北斗C「いい加減にせぬとこの場でたたっ斬るぞ」

タハ乱暴「……真一郎はいいとして何でお前らまで! 仮にも俺の子供だろうが!!」

北斗A「貴様のために俺の未来が悲惨なものになっていく……」

北斗B「貴様のために俺の現在が悲惨なものになっていく……」

北斗C「貴様のために俺の過去が悲惨なものになっていく……」

タハ乱暴「……いや、ステレオでハモられても……いじいじ……」

真一郎「……キモ」

北斗A「黙れ、外道」

北斗B「この鬼畜王が」

北斗C「いい加減にせぬとこの場でたたっ斬るぞ」

タハ乱暴「う、うわあああああああんっ……ドテッ」

真一郎「あ……転んだ……」

タハ乱暴「うが〜〜〜〜〜!!!」






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