Q.人を愛するのに、年の差なんて関係ない――と、あなたは思いますか?

 

A.証言者H「当たり前だろ! 俺は人妻だろうが女教師だろうが綺麗な女の人なら誰でも……」

 

 

Q.人を愛するのに、血の繋がりなんて関係ない――と、あなたは思いますか?

 

A.証言者S「う〜ん。どうでしょう? 法律で決められている以上、悪いことなんでしょうけど……でも、わたしは兄さんのこと、好きですよ」

 

 

Q.人を愛するのに、性別の差なんて関係ない――と、あなたは思いますか?

 

A.証言者J「モチロンよー。わたしは今も昔もずっと彼のことが好きなんだから。…だから、ねぇ? 雄真ー!!」

 

 

Q.人を愛するのに、××の差なんて関係ない――と、あなたは思いますか?

 

A.証言者Y「俺は……そうだな……」

 

 

 

 

 

 

 

放課後の屋上は、夕暮れの空が放つ茜色の光線に照らされて、一種幻想的な風景を生み出していた。

神坂春姫達の通う瑞穂坂学園の屋上は町全体を一望出来、その眺めは下手な展望台にも負けぬほどの絶景であったが、真っ赤に染まった町並みを見下ろすのはまた格別なものだった。

放課後になってもう30分、春姫はこの屋上で人を待っていた。

待ち人の名前は小日向雄真。彼女の初恋の人であり、現在の思い人である男の子。

クラスメイトの誰よりも早く登校してきた彼女の開閉式のロッカーに、彼からの手紙が入っていたのは今朝のことだ。

授業中、高鳴る胸の鼓動を抑えながら読んだ手紙には、

 

『放課後、魔法科の屋上に来てくれ』

 

と、簡潔に一文だけが書かれていた。

『式守の秘宝』を巡って起きた一連の騒動が終結してはや2ヶ月……魔法科への編入が決まった雄真は、未だ誰とも恋人同士にはなっていなかった。

事件の渦中の人…式守伊吹の想いも、春姫の想いも、誰からの好意も受け取らなかったのである。

しかしそれで春姫の雄真への想いが揺らぐことはなかった。

正確には彼は誰からの想いも受け取らなかったのではなく、誰からの想いにも気が付かなかったのだ。

騒動の終局、伊吹からの告白を聞いたときも、彼は苦笑いを浮かべているだけだった。彼は伊吹の言う『好き』という気持ちを、女が男に向けるものとして捉えず、友達が友達に向けるものとして捉えたのである。

春姫にしたところで、正式に告白した上で交際を断られたわけではない。

自分にもチャンスはある……春姫が彼のことを諦める理由はなかった。

そして今朝、当の雄真からの手紙を受け取ったことで、春姫のいやがおうにも期待は高まった。

手紙とはいかにも古風で彼らしいなと思いつつ、たった一文だけとはいえ、彼から手紙をもらったという事実が嬉しかった。

ましてそれが愛の告白を連想させるような内容であれば……自分から呼び出しておきながら、30分も待ちぼうけさせられているのも、苦にならない。

 

(これが杏璃ちゃんだったら、きっと文句を言ってるんだろうな)

 

手紙に書いてあったのは『放課後』という単語のみで、勿論具体的な時間などは決められていない。

にも拘わらず、『遅刻よ!』なんて言って、待ち人に対して文句を言う親友の姿がありありと想像できて、春姫は思わず苦笑する。

柊杏璃という少女はちょっとだけ我が侭で、時折周りが見えなくなってしまうことがあるけれど、基本的に根の真面目な、何事にも真摯な態度で臨む魅力的な女の子だ。そんな彼女だから、自分を何十分も待たせた相手のことをきっと許しはしないだろう。

一方の雄真は雄真で、そんな杏璃の性格を好ましく思っているだろうから、けれど、素直に謝るなんて恥ずかしくて出来ないだろうから、最初は冗談なんかで誤魔化そうとして、そして結局素直に謝罪するに違いない。

想像上のやり取りでは、雄真が杏璃に何度も頭を下げ、それを彼女が笑って許し、彼自身も笑顔を浮かべてもう一度謝る……という形で終結した。

杏璃に許されてほっとした顔で笑う想像上の雄真の笑顔を、微笑ましいと思う反面、思い浮かべると少しだけ胸が痛んだ。なぜならその笑顔は、想像上とはいえ自分に向けられたものではなく、他の人……それも自分以外の女の子に向けられたものだったから。

自分と杏璃は、親友であると同時にライバルでもある。

もっと具体的にいうなら、ライバルという語の前に『魔法の』と、『恋の』という、冠頭句がつく。

杏璃本人の前で言おうものなら間違いなく一蹴されてしまうであろうが、つまるところ、杏璃もまた雄真のことが好きなのだ。本人にその自覚はまだ薄いようだが、彼女を見ていれば誰でも分かる。もっとも、当の小日向雄真や、彼の友人で、自分とも共通の友人である上条信哉辺りに理解を求めるのは難しいだろうが。

今のところ魔法のライバルとしては春姫の方が一歩先じている。

しかし、恋のライバルとしては……正直、自分の方が一歩遅れていると、認めざるをえない。

 

(この間だって、杏璃ちゃん雄真くんと一緒に何処か出かけてたらしいし…)

 

それは『オアシス』の新作デザートの試食会に、杏璃が出品するケーキを作るための材料集めだったのだが、花も恥らう恋する乙女の春姫には、『杏璃と雄真が一緒に出かけた』という事実のみが重要だった。

後日、その日の模様を半ばうんざりしながら、しかし半ば楽しそうに語った雄真の傍らで、春姫は親友に対して少しだけ嫉妬を覚えたものだ。

 

(わたしって意外と独占欲の強い女の子だったのかな?)

 

自分でも気が付かなかった意外な一面に、いいや…と、春姫は首を横に振る。

好きな人のいる女の子なら当たり前のことだ……と、自分に言い聞かせ、深呼吸をひとつ。

それに、そんなことでいちいち嫉妬していたら、それこそ身がもたないと考え直す。

小日向雄真という少年に惚れてしまった春姫は、とにかく恋のライバルの存在にだけは困らない。

彼に想いを寄せている女の子は、自分以外にも大勢いる。

彼が別の女の子と一緒に出かけていることでいちいち腹を立てていたら、自分の胃は二日ともつまい。

 

(…って、やだ。『彼』だなんて……わたしったら、もう雄真くんと付き合ってる気になってる)

 

誰もいない屋上で、ひとり恥ずかしそうに身悶えする春姫。

その両頬が僅かに赤らんで見えるのは、夕日のせいだけではないだろう。

 

 

 

 

 

そのとき、屋上へと続く階段の扉が、勢いよく開いた。

驚いてそちらの方を振り向くと、そこには彼女の待ち人が……彼女が恋焦がれる少年が、息を切らしながら立っていた。

 

「ご、ゴメン! 春姫。すぐにこっちに向かおうとしたんだけど、準達に捕まっちまって…」

 

雄真は肩で息をしながら歩み寄ってきた。

屋上で待つ自分のことを思って走ってきたのだろう。顔は紅潮し、額では夕日に照らされて汗が輝いている。

 

「結構待ってただろ? 暑くなかったか?」

 

夏真っ盛り……とはいえないものの、暦の上ではもう6月。照りつける日差しの強さはそれほどでもないが、じめじめとした蒸し暑さが不快な季節だ。

少しだけ汗で張り付いた下着の感触に表情を変えることなく、春日は首を横に振った。

 

「ううん。校舎の中と比べると、外の方は過ごしやすいから。それより……」

「ああ、わかってる」

 

遅れてきたことをなおも詫びながら雄真が言う。

 

「話があって呼び出したんだ。春姫に、とても大事な話が…」

 

春姫の心臓が高鳴った。

三十分ほどの間に期待や妄想を膨らませていた彼女の心は、雄真の『大事な話』の一言で、ひどく揺れ動いた。

夕焼けの綺麗な屋上で2人きり……この状況で大事な話といえば、彼女にはひとつしか思い当たらない。

 

(これってやっぱり…そうだよね……?)

 

期待に膨らむ気持ちをぐっと押し殺し、春姫は「何の話なの?」と、雄真の言葉を待った。

少年はどこか思い詰めたような表情で、視線を泳がせながらおずおずと口を開く。

 

「じ、実は…その……」

 

一旦開いた口を、再び閉じてしまう雄真。

普段は平気で男らしい台詞を言うくせに、こういうときだけ躊躇する。だが、それを優柔不断とは思わない。

自分は男の子ではないが彼の気持ちは分かるような気がする。

きっと彼は今、気恥ずかしさと、その先に待つ結果に対する恐怖と闘っているのだろう。もしかすると顔の紅潮は、単に激しい運動をしてきたからだけではなく、緊張だとか他の要因も関係しているのかもしれない。

屋上に風が吹いた。

前髪を揺らすとともにお節介焼きの風が雄真の体臭を運んでくる。

鼻にツンとくる汗の匂い。

不快ではない。

春姫の中の女の本能を揺さぶる、好きな男の匂いだ。

そして風は、彼の体臭を運んでくると同時に、突風に掻き消されそうになった彼の言葉をも、春姫の耳に届けた。

 

「その俺と、…………が、付き合う……………ほしいんだ!」

 

小さくかすれた声が、春姫の耳の中で繰り返し響く。

けれど肝心なところが聞き取れなかった。

春姫は彼の言葉がもう一度聞きたくて聞き返す。

 

「え?」

「いやだから…俺と……」

 

また風が吹いた。海から陸へと、先刻とは違って唸りを上げる無粋な突風が、屋上へと吹き込む。

雄真は大きく息を吸い込むと、顔を真っ赤にしながら自棄になったように大きく叫んだ。

 

「俺と、ソプラノが付き合うのを許してほしいんだ!!!」

「すいません雄真君、もう一度言ってください!!!」

 

……またこんなネタかと、思ってはけない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幸せの音色

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

屋上で発せられたその雄叫びは反響して学園中を駆け巡った。

まだ魔法科の校舎に残っていた教師や生徒は言うに及ばず、その世界の中心で愛を叫んだかの如き直談判は、遠く離れた普通科の校舎にも届いた。

ざわざわと遠くから聞こえてくるどよめきを耳から耳へと聞き流し、瑞穂坂学園始まって以来の才媛・神坂春姫『ClassB”』の魔法使いは、目の前の少年の言葉に目を点にしていた。どうやら遭遇した目の前の現実を脳が理解することを拒み、自己防衛本能が機能したらしい。

一方、彼女をそんな状態にしてしまった当の本人は、慌てて春姫の両肩をつかむと揺さぶった。

 

「お、おい春姫! どうしたんだ? しっかりしてくれ」

「……はっ!?」

 

雄真の言葉にはっと点になった目を元に戻す春姫。

彼女は驚いた様子で辺りを見回すと、

 

「う、う〜ん。気のせいかな? 今雄真君からとても重大なことを言われたような……」

 

と、記憶をなくしていた。

 

「ああ。言ったぞ。俺とソプラノが付き合うのを許してほしいって」

「…………はぅッ!!」

 

再び記憶をなくし、屋上に倒れる春姫。なんというか器用な娘である。

しかしこのままでは物語も進まないし、雄真の話も一向に終わらない。

少年は先刻と同じように彼女の肩をつかむと上下に揺さぶった。90のFカップという豊満な二つの山がたゆみはずむが、それには目もくれない。これで春姫が起きていたら、女のプライドはズタズタであろう。

 

「う、う〜ん…」

 

だがどうやらその心配はなさそうである。

今度は肩を揺さぶる程度ではなかなか起きそうにない。

 

「これじゃ拉致があかないな」

 

コラコラ雄真君、字が間違っているよ。たしかに北との拉致問題は一向に解決の糸口が見えないではいるが……

 

「……よし!」

 

などとタハ乱暴が突っ込みを入れているうちに、どうやら何か思いついたようである。

雄真はおもむろに右手を春姫の肩から離すと、「はぁー」と、息を吹きかけた。

 

「起きんしゃい、春姫!」

 

“シュパパパパパパパパパパッ!”

 

秒間十発という高速で放たれたビンタが、春姫の両方を激しく殴打する。

いわゆる往復ビンタだ。手首のスナップを利かせたその鮮やかな返しは、プロのレスラーでもそうそう出来る人間はいないだろう。

再び春姫が目を覚ましたとき、彼女は自分の両頬がひどく痛むのに気が付いた。

 

「……なんでこんなに腫れてるんだろ?」

「風邪でも引いたんじゃないか?」

 

酷い男だ小日向雄真。

それはともかくとして、雄真は春姫にみたびその衝撃の台詞をぶつけた。

今度も春姫は気を失いかけたが、さすがに二度の経験から寸でのところで食い止めた。

ただそれでも、彼女の動揺までもを食い止めることは出来なかった。

 

「そ、それってどういうことなの!?」

「い、いや…どういうことも何も、言葉通りの意味だけど…」

 

春姫の物凄い剣幕に身構えながらも、素直に答える雄真。

春姫はこの男では埒があかない(惚れた男に酷い言い草だ)と、魔法の勉強を始めて以来の相棒に話しかけた。

 

「ソプラノ! これはいったいどういうことなの!?」

『どういうことも何も、雄真様の言葉通りですが?』

 

――チィッ。こいつもか。

ならばとばかりに春姫はその場にたまたま居合わせた第三者……午後の授業をサボって屋上で昼寝をし、そのまま放課後まで眠り続けて現在にいたる校内一の不良・斉藤君(仮名)に詰め寄る。

 

「斉藤君! これはいったいどういうことなの!?」

『は、春姫、斉藤様が答えられるはずないではありませんか…』

 

落ち着き払ったソプラノの正論も、今の春姫には届かない。

そして斉藤君もまた……

 

「どういうことも何も、小日向のやつが言ったとおりだぜ」

「――って、何でお前が事情を知っているんだよ!」

 

いったい何者だ!? 斉藤君(仮名)!

しかしそんな雄真やソプラノ、読者に加えて、作者すら思う疑問を無視し、斉藤君は言葉を続ける。

 

「小日向と神坂のマジックワンドが互いに好き合っているのは誰が見ても明らかだ。そんな正式に恋人同士になりたいって思うのは、当然の成り行きだろうが。そのとき、マジックワンドの持ち主の神坂に、許可をもらいにいかないでどうするよ? …つまり、そういうことだ」

 

本当に何者だ!? 斉藤君(仮名)!!?

 

「雄真君、斉藤君が言ったことは本当なの!?」

「あ、ああ……。春姫には黙ってて悪いとは思っていたけど、ソプラノと俺は前々からその……つ、付き合っていたんだ」

 

頭をハンマーで殴られたようなショックが、春姫を襲った。

その衝撃力、物理的運動エネルギーに変換して一平方メートル辺り10t!

ふらふらとよろめきながら、しかしなおも正気を保って、春姫は雄真に激しく問う。

 

「で、でも分かってるの? ソプラノは女の子だけど、マジックワンドなんだよ? 人間じゃないんだよ!?」

「分かってるさ! そりゃ、最初はそのことで悩んだりもしたけど……でも、やっぱり俺はソプラノのことが好きなんだ! ソプラノじゃなきゃ駄目なんだ!!」

『雄真様……』

 

一平方メートル辺り20tに増加!!

さしもの瑞穂坂学園始まって以来の才媛・『Class“B”』魔法使い神坂春姫も、この精神的打撃には膝を屈せざるを得ない。

そして対照的に、雄真の男気あふれる発言にソプラノは感極まった様子だ。

 

『雄真様、私はあなたに一生着いていきます』

「ソプラノ……」

「見直したぜ小日向。俺はお前を優柔不断な野郎だと思っていたが、お前、やるときにはやる男だったんだな!」

 

見詰め合う男と女(マジックワンド)。そして謎の男・斉藤君(仮名)。

一方、頭に20tの錘りを乗せ、煙を上げる春姫の心はズタボロである。

 

(あ、杏璃ちゃんやすももちゃん達に取られるのは仕方がないと思ってた。みんな良い娘だし、わたしも大好きだから、雄真君が誰を選んでも祝福してあげるつもりだった。準さんは……男の人だけど、雄真君を想う気持ちは本物だったから、諦める気にもなれた。けど…けど……!)

 

がらがらと崩れ落ちていく大切な何か。

そして彼女は、静かに言葉を紡ぐ。誰にも聞き取られないよう小さな声で、しかし確実に、一語一語を丁寧に、ありったけの想いを篭めて。

 

「エル・アムダルト・リ・エルス……」

「え? なんだって春姫? ソプラノと俺とのこと認めてくれるのか?」

「……ディ・ルテ・エル・アダファルス!!!」

「え――――――?」

 

収束する魔力!

熱量を増す大気!

ClassB”』魔法使いである以前に、ひとりの女である春姫の放った初級魔法が、膨大な威力を伴って空気を焦がす!!!

打ち放たれた火砕流は雄真の鼻先数センチのところを掠めていき、背後にあったコンクリートブロックに炸裂した。

マジックワンドを介さず直接放たれた炎は小さく、糸のように細い。しかし、それだけに篭められた魔力の密度は濃く、ピンポイントに狙われた雄真はたまったものではない。

“ドロリ…”と、粘性を有した液体がモダンな造りの魔法科校舎の屋上を汚す。

春姫の放った火炎魔法によって融解し、固体から液体に戻ったコールタールだ。

 

「……は・る・ひ?」

 

“ギギギ……”と、油の切れた機械のように鈍い動作で首を回す。

少年の視線の先には――――――口から“何か”吐き出している鬼がいた。

 

「フー…フー……フー……!」

「春姫が壊れたー!!」

 

壊したのはお前だ、小日向雄真。

 

「――って、人を鬼畜系18禁ゲームの主人公みたいに!」

 

壊したのはお前だ、小日向雄真。

それはともかくとして、雄真にさんざん心を弄ばれ、好き放題にされた挙句の果てに壊れてしまった春姫の暴走は、時間が経過するとともにより悪化していった。

 

「ユウマクンハワタシノモノユウマクンハワタシノモノユウマクンハワタシノモノ……」

 

なにやら物騒な台詞を口にしつつ、魔力によって精製された破壊の光を撒き散らしながら雄真に迫る春姫。

 

「ま、待つんだ春姫。落ち着いてくれ。お前はもうよくやった。だから山に帰れ……」

 

そして気が動転してなにやらわけのわからない喚きを吐き出す雄真。

恋する乙女と少年の心の距離は、どうやら今は天と地ほどの隔たりがあるようである。

 

「ソプラノニハワタサナイソプラノニハワタサナイソプラノニハワタサナイ……」

『春姫、雄真様を物扱いするのはおよしなさい。雄真様はあなたの所有物ではないのですよ!』

「ソプラノ…サンキュ。ソプラノが俺のことをそんなに想ってくれてるなんて……嬉しいぜ」

 

自分では移動の出来ないソプラノは、雄真に抱きかかえられる形で逃走中だ。

これが普通なら男と女が見つめ合い、抱き合っている構図になるのだろうが、傍目にはとても音楽のセンスがあるように思えない少年が、奇妙な形をした管楽器を抱きながら走っているようにしか見えない。

だが、心を通い合わせる当の本人達に、そんな周りの目は関係ないようである。

追う春姫と追われる二人。

しかし追われる二人の視界には、追う鬼の姿はあっても、意識の中にはなかった。

雄真にはソプラノしか目に入らず、ソプラノには雄真しか目に入らない。

その様子を一言で形容するならバカップル。

禁断の愛に手を染めながら、許されぬ恋に身を焦がしながら、雄真はソプラノを、ソプラノは雄真を想い、互いの熱を求める。

大切な人を守るために、雄真は必死で足を動かす。

大切な人を守るために、ソプラノは必死で主の説得を試みる。

しかし鬼は、そんな二人の愛にむしろ憎悪を抱き、嫉妬の炎を燃やした。

春姫は次々と攻撃魔法を繰り出しながら、屋上を駆け抜けた。

マジックワンドを介さずして放たれる魔法の威力・精度は、魔力の消耗とは裏腹にむしろ向上している。

ここにきてその恐るべき執念、恐るべき愛憎。

今の春姫ならばゲーム本編でさんざん苦戦した伊吹との戦闘も、難なく勝利出来るだろう。

 

「エル・アムダルト・リ・エルス……」

 

壊れかけの彼女がトドメとばかりに撃ち放つは春姫が最も得意とし、最も最初期に習得した初級魔法。彼女が魔法を目指すきっかけを作った、思い出の魔法。

 

「……ディ・ルテ・エル・アダファルス!!!」

 

掌から溢れ出る炎の舌が、煉獄の火砕流が、今再び愛する少年を管楽器の魔手から救わんと、大気を引き裂く。

そのとき、背を向けて逃げる二人の背後を守るかのように、ひとつの影が飛び出した!

 

「させるかぁッ!」

 

斉藤君(仮名)だ!!!

襲いくる灼熱の業火に立ち向かい、斉藤君は勇敢にも正拳を突き出す。

 

「うおおおおおお――――――ッ!!!」

 

次の瞬間、打ち出された鉄拳と火炎がぶつかり合い、爆発した。

 

「うあああああああああああッ!!!」

 

斉藤くーん(仮名)!!?

爆発の衝撃で斉藤君の身体が吹き飛び、きりもみになり、魔法科の校舎の屋上から、校庭へと真っ逆さまに落ちていく。

 

「斉藤ぉ!」

『斉藤様!』

 

雄真とソプラノの絶望の悲鳴が同時に上がった。

二人は春姫から逃げなければならない状況にあることも忘れ、慌ててフェンスへと駆け寄った。

薄い金網の壁一枚を隔てたその先で、斉藤君は……

 

「まだ…まだだぁぁぁぁぁぁあああッ!!!」

 

……飛んだ!

落下の最中重力に逆らい、くるりと一回転。地面に着地するかと思いきや、斉藤君はそのままグランドを蹴る。そして……

 

「おおおおおお――――――ッ!!!」

 

凄いよ斉藤君。君、出る作品を間違えているよ。

天高く舞い踊った昇竜は、沈みゆく夕日を背に空で躍る。

玉のような汗が夕焼けに染まった空へと飛沫を散らし、男は愛を誓い合う二人を守るために、暴走する鬼に立ち向かう!

 

「しゃいいいッ!!」

 

 

 

 

 

……夕日に照らされ校庭に下りる2つのシルエット。

男の影は女の顎を打ち、女の影は男の胸を突く。

男は……

そして女は…………

 

 

 

 

 

翌日。

いつものように朝、準やハチといったお馴染みの面々と待ち合わせをしていると、唐突にすももが言った。

 

「そういえば兄さん、朝から訊きたかったんですけど…兄さんが背中に背負ってるのって、姫ちゃんのマジックワンドですよね?」

「ん? ああ、そうだ。……実は、昨日春姫から頼まれてな。今日は一日忙しくて、毎日の掃除も出来そうにないからって、ウチに泊まっていってもらったんだ」

「そうだったんですか。…あれ? でもそれだったら預かっていた……って、言った方が適切じゃないですか?」

「おいおい、ソプラノを物扱いするなよ。マジックワンドって言っても、俺たちと同じでソプラノにはちゃんと人格があるんだ。そんな他の物と一緒の扱いをするな」

「あ! たしかにそうですよね……すみません。ソプラノさん」

『いえいえ、いいんですよ。すもも様』

 

しゅんと肩を落として謝罪するすももに、ソプラノは優しく語り掛ける。

 

『雄真様はああ言ってくださいますが、私は所詮“物”に過ぎませんから』

「そんなことないですよ!」

 

ソプラノの自虐を含んだ発言に、雄真が反論するよりも早く、すももがきっぱりと言い切った。

 

「ただの“物”がそんな風に自分について考えますか? ただの“物”がさっきわたしにしてくれたみたいに人を慰めてくれますか? ソプラノさんはただの“物”なんかじゃありません! わたし達と同じように考えて、喋れる、人間です。ソプラノさんはわたしの大切な友達です!」

『すもも様……』

 

ソプラノは思わず言葉を失った。

マジックワンドを人間だと言い、友達だと言う彼女……なんと青臭い意見だろう。所詮マジックワンドは魔法使いより効率良く魔法を行使するために生み出した“道具”に過ぎない。自分達が持つ心は、人に作られた偽りのものだ。

けれど、それをあくまで真っ直ぐな瞳で、真摯な態度で言う彼女の姿、その言葉は、そんなソプラノの作られた心に大きく響いた。

 

『……やっぱり兄妹ですね』

 

ソプラノの口……トランペットを模した彼女の冷たい唇から、優しげな呟きが漏れた。

自分のことを愛してくれた少年と、自分のことを人間と呼んでくれた少女は、兄妹ではあるが血は繋がっていない。

しかし、二人はまるで本当の兄妹のように似通った部分がある。

おそらく、血の繋がり以上に確かな心の繋がりが、二人を似せたものにしているのだろう。

ふと二人の方を向けば、自分の呟きの意味が分からずに、キョトンとした顔をしている。

 

『いえ…以前、雄真様も同じようなことを言ってくれたものですから』

「兄さんが?」

『はい…』

 

目を丸くして聞き返してくるすももと、何か思い当たる節があったのか、突如顔を真っ赤にする雄真。対照的な二人の反応に自身偽りと認識している心の中で苦笑する。

あれは、そう……彼が自分のことを好きだと言ってくれた日のことだ。

あのときの事を思い返すと、与えられた名の通りの自分の声色は、さらに高く、優しい歌へと変わる。

あのときの事を思い返すと、ないはずの胸が幸せな気持ちでいっぱいになり、気分まで優しいものになる。

 

『……私は幸せ者ですね。春姫だけでなく、雄真様やすもも様のような優しい人達に囲まれて』

 

黄金色のマジックワンドは優しく微笑んで、歌うように美しい声で言った。

本当に自分は果報者のマジックワンドだ。

こんなにも優しい人達に囲まれて、こんなにも優しい気持ちになれて。

こんなにも、愛しい人が傍に居てくれて……。

すぐ傍に雄真の背中の広さを、心臓の鼓動を、彼の吐息を感じながら、ソプラノはひとときの安息を覚える。

春姫と一緒に過ごすときとはまた違った、嬉しさの混じる安らぎだ。

遠くの方から、聞き慣れた声が聞こえてきた。

どうやら、愛しい彼の友人達がやってきたらしい。

ソプラノはすももに挨拶をする、いやらしさを感じさせる男の声を聞きながら雄真の鼓動を聞き逃すまいと、耳を傾けた。

 

 

 

 

 

「……何の騒ぎだ?」

 

瑞穂坂学園を象徴する二つの校舎の外壁が見え始めた頃、それまでにもざわざわ聞こえてきたいつもより大きめの周囲の喧騒は、校門の前まで来るとひとつの群集が発しているものであることが分かった。

人々の群れの中からは悲鳴と怒号、どよめきがひとつの音楽隊をなし、指揮者不在の楽曲は統制のない不協和音を奏でている。

そんな中、回転する赤色灯と白いボディを見つけた準は、「何か事故でもあったのかしら?」と、ひとり呟いた。

やがて群集の列に変化が生じた。

どよめきがより大きなものとなり、黒い群れの中から「どいてください!」と、切羽詰った男達の声が飛んでくる。

校門の辺りに密集する野次馬達が道を開け、救急隊員が担架を持ってやってきた。

軽金属の合金パイプと厚い繊維で出来た神輿には、ひとりの少年が、見るも無残な重体が運ばれていた。

 

「あれは……!」

「いやぁ!」

 

黒い制服に身を包んだ二人が息を飲み、特徴的なデザインの制服に身を包んだ二人が悲鳴を上げた。

担架に付き添うように走る少女の声が、周りの喧騒をものともせず、むなしく響く。

 

「斉藤君(仮名)! ねぇ、しっかりしてよ斉藤君……!」

 

担架の上には、満身創痍の様子で意識不明の状態にある斉藤君の姿があった。

丈夫な生地で作られているはずの学生服はぼろぼろで、とくに胸の部分は完全に焼け焦げて、彼の厚い胸板に二度の火傷を負わせている。おそらく、よほど強力な火災に巻き込まれたのだろう。

 

「くそッ! いったい誰がこんなことを!!」

 

不良の斉藤君の唯一の友人が、はけ口のない怒りを校舎にぶつける。

殴った拳は赤く腫れ、しかしそれ以上にその顔は真っ赤だった。

 

「クショウ…チクショウ……!」

 

少年の呻きと悲しみは校舎を揺らし、少女の悲鳴は六月のじめじめとした大気をより陰惨な雰囲気へと狂わせる。

それを傍観しながら雄真は、

 

(クソッ! いったい誰がこんなことを!!)

 

……昨日の出来事を、さっぱり忘れていた。

どうやら一晩寝て、自己防衛本能がはたらいたらしい(コイツもか)。

“バタン”と、救急車のドアが閉じ、赤色回転灯が唸りを上げる。患者を乗せた自動車は、公道を急げる限りのスピードで校門前から去っていった。

残された者達の心には動揺と悲しみ、そして……

 

「クショウ…チクショウ……!」

 

やり場のない怒りだけが残留していた。

 

 

 

 

 

斉藤君が救急車で搬送されたというただ一点を除けば、本日も瑞穂坂学園の一日はいつも通りの日常の下始まった。

ただし、悲しいかな当の斉藤君が籍を置く普通科二年A組だげは、本日の欠席者三名という悲しい始まりを迎えてしまった。

欠席したのは今朝、魔法科の屋上で重体で発見された斉藤君と、彼の幼馴染で、不良の彼といちばんに仲の良い少女。そして連絡不届けの欠席をした神坂春姫。

 

(……斉藤達はともかくとして、何で春姫まで)

 

昨日の記憶を一晩で綺麗さっぱり忘れ去った雄真は、優等生・神坂春姫の無断欠席の報に首を傾げていた。

補足すると雄真はまだ普通科の教室で授業を受けている。九月から魔法科に転科する予定の彼だが、六月の今はまだ慣れ親しんだ学び舎の中にいた。また、魔法科の校舎での授業は同じく九月からなので、柊杏璃や上条兄妹といった魔法科の面々も、未だ同じクラスメイトである。

雄真はエロゲー主人公のたしなみ……教室最後尾、窓際の座席にて、古文の授業を聞き流しながら、ぼうっと窓の外を眺めていた。

側の壁には、春姫が欠席ということでそのまま持っていることになったソプラノが、陽気に照らされ立てかけられている。

考えることは色々あった。

欠席した春姫のこと。斉藤君をあんな目に遭わせた犯人のこと。それから……魔法のこと。

魔法科への転科まですでに三ヶ月を切っている。目下必死に勉強中ではあるが、数年ものブランクを抱えた身では、正直周りに着いていけるかどうか不安である。

それに……

 

(……やっぱり、もっと高度な魔法を使えるようになったら、マジックワンドを作らなくちゃならないのか?)

 

マジックワンドは魔力の増幅器。

より高度な魔法を行使しようとするのなら、一流の魔法使いにとっては必需品である。

 

(けど、なあ……)

 

傍らのソプラノにチラリと視線をやる。

正直、あまり考えたい内容の話ではない。

今朝、すももが言ったようにマジックワンドはただの道具ではない。人格を持ち、思考力を持ち、持ち主と常に時間をともにする、いわばパートナーなのだ。

 

(パートナーって、ソプラノ以外に考えられないんだよなぁ…)

 

一緒に同じ時間を過ごしたい。一緒に同じものを見て、同じことを考えて、同じ道を歩んでゆきたい。

たとえそれが、茨の道であったとしても。

 

(パートナー…か……)

 

記憶の糸車を回し、雄真は過去へと意識をかたむける。

自身言うとおり、所詮道具でしかないマジックワンドに、何故自分がこんなにも惚れ込んでしまったのか。

その、道程の記憶を……

 

 

 

 

 

……道具でしかないはずの彼女。

そこに魅力的な女の顔を見つけたのは、そう、まだ四月の始め頃で、普通化の生徒にとって魔法科の生徒が珍しかった頃のことだ。

会話の流れで春姫達のマジックワンドの話になったとき、ハチがふざけてソプラノに触ろうとして、彼女が身を震わせたとき。

あのとき、自分初めてマジックワンドを生きた存在と意識した。

ハチに怯えるあのときのソプラノの様子は、まるでクラスメイトの他の女の子達同然で、マジックワンドはただの喋る道具ではない…と、改めて認識させられた瞬間だった。

小動物のように震える彼女を可愛いと思い、春姫の前ではそれこそ本当のお姉さんのように振る舞う普段とのギャップから、思わずドキリとしてしまった。

そしてやってきた、『式守の秘宝』とそれにまつわる過去の因縁、あの事件。意識的に魔法を遠ざけていた自分に、初めて真剣に魔法と向き合う機会をくれた、一件。

今となっては人生万事塞翁がなんとやらで……良い経験をしたものだと思える。

だが、渦中の当時は緊張に次ぐ緊張、息吐く暇もなく流動する状況に翻弄されて、他の事を考えるあまり余裕はなかった。

また、春姫も、杏璃も……事件に関わっていた人間は、誰しもが少なからず悩みを抱えていて、雄真同様余裕がなかった。

そんなときに雄真を陰ながら支えてくれたが、ソプラノを始めとするマジックワンドの皆だった。

“物”でしかないはずの彼らは苦悩する主人達を、あるときは言葉で慰め、悩みを聞いてやり、心を癒し、支えとなるよう努力した。

特にソプラノの存在は雄真にとってもまたお姉さんのような存在であり、一緒に居るとなぜか心が安心出来る……そんな不思議な気持ちにかられるほどだった。

だがそのときはまだ、ソプラノのことは好きではあったが、それは男が女に向けるようなそれではなく、家族が同じ家族に向ける……もっと言えば、弟が尊敬できる姉に向ける、憧れと恋慕の混じった、初恋にも似た“好き”だった。

 

(…ははっ。これじゃ準の言葉を否定出来ないじゃないか)

 

親友の言うとおり、やはり自分はシスコンの気があるのかもしれない。いや勿論、ちっちゃい方へではなく、大きい方へはたらく気持ちだが。

意識がはっきりと変わり始めたのはいつぐらいからだったか。

多分あの事件の終わり頃には、もう彼女を……彼女達マジックワンドを、“物”として見られなくなっていたように思う。

けれど、それでも、愛しているほどの、強い感情はなかった。

初恋の少女にも抱かなかったほどの強い想い…それを抱いたのは、いつだったか。

 

(……あのとき、か)

 

魔法科への転科。その決意を固めたとき、雄真には不安があった。

はたして、魔法から逃げ出して数年が経つ自分が、高度な魔法科の授業に着いていけるかどうか……かえって周りの人間に迷惑をかけ、足を引っ張ってしまうのではないか。

その不安は、魔法科への転科までの間、春姫達が勉強を見てくれることになって多少は軽減していたが、依然として彼の心に重く圧し掛かっていた。

そして、それを取り除いてくれたのが、他ならぬマジックワンドだった。

 

『雄真様は魔法を始めたばかりの頃の春姫に似ています』

 

勉強の合間、先生の用事で春姫が席を離れたときに言われた言葉が鮮明に蘇る。

 

『春姫は今でこそ瑞穂坂始まって以来の才媛なんて呼ばれていますけど、本当は魔法の才能なんてほとんどなかったんです』

 

その言葉に、どれほど心を元気付けられたことか。

 

『それがあの歳で『ClassB”』の称号を与えられたのは、すべてあの娘が努力した結果です』

 

その言葉に、どれほど心を癒されたことか。

 

『…だから雄真様も、努力すればきっと大丈夫ですよ』

 

優しく微笑む彼女の歌声を、どれほど美しいと感じたことか。

 

『不安を抱えていない人なんていませんよ、雄真様。不安と一緒に、頑張っていきましょう』

 

あのときほど、自分は彼女に感謝の念を抱いたことはなかった。

自分の悩みを聞き、不安を知ってくれた。

暗い自分の心を励まし、目の前の不安を取り除いてくれた。

雄真はそのとき、彼女に感謝してもし足りぬほど、大切なものをたくさんもらったのだ。

そしてそのとき、同時に雄真は思った。

ソプラノの歌声に癒され、元気付けられながら、彼は自分の得たこの安らぎを、いつか彼女にも分け与えてやりと。

いつか、自分も彼女を優しさで包み込める男になりたいと。

“物”でしかない彼女。

“物”でしかないはずの彼女。

けれど、確かに心を持った、生きた存在である彼女。

自分に安らぎをくれ、自分に優しい時間をくれ、自分を幸せな気持ちにしれくれた。

そんな彼女に、自分も何かしてやりたいと。

そんな彼女が頼れるような男に、なりたいと。

そう、強く思い、そんな理想の自分を、強く願った。

 

 

 

 

 

……おそらく、自分はあのときから、マジックワンドの彼女に恋をしていると気付いたのだろう。

そしておそらく、自分はそれ以前からソプラノに、恋をしていたのだろう。

そう思うと、雄真の口元は自然とにやけてしまう。心の中に幸せな気持ちと一緒に、誇らしさすら湧き上ってくる。

自分の惚れた女は、確かに人ではない。

けれど、世界でいちばんの女だと、確信できる。

俺は世界有数の幸せ者だ。

ソプラノのことを好きになって、ソプラノに恋をして、ソプラノを愛して……ソプラノと結ばれた。

世界でいちばんの女のことを好きになって、恋をして、愛して、結ばれたのだ。

こんな幸せなことが、他にあるだろうか。

誰もが求め、誰もが欲しながら、実際はその一部しか手に入れられない望み……愛しい人との時間を、自分は得ることが出来たのだから。

どこまでも青い、透き通った天空を見上げながら、雄真は思う。

神様は俺に茨の道を歩むことを……辛い試練を強いた。けど、その試練を乗り越えた果てに、とても素敵なプレゼントをくれた。

ソプラノとの出会い……その魔法を、自分にかけてくれた。

 

「……俺は幸せだよ、かーさん」

 

ここまでの道程は決して平坦なものではなかったけれど、辛いことばかりの人生だったけれど、それでも、確信を以って言える。

雄真の小さな呟きは、蒼穹へと飲み込まれていった。

 

 

 

 

 

退屈な古文の授業にも、終わりの瞬間が近づこうとしていた。

壮年の教師は黒板に日本語とは到底思えないような文章をつらつらと書き並べた後、時計を見て、授業終了のチャイムが鳴るまで3分を切っていたことに気が付いた。

 

「……ちょうど切りの良いところだしな。今日の授業はここまでにしておこう」

 

眼鏡をかけた男の言葉に、教室中がどっと湧く。

その喧騒に導かれ、思考の闇へと意識を飛ばしていた雄真は、空から教室の中へと視線を戻した。

 

「……ん!?」

 

一旦は戻した視線を、再び校舎の外へと向ける。

栗色の瞳が見つめるその先には、普通科の校舎と向かい合う形で建つ魔法科の校舎……その屋上がある。

そして屋上には、ユラリ…と、不気味な、怪しい影が――――――

 

「いやああああああ――――――ッ!!!」

 

そのとき、雄真の頭脳がスパークした。

忘却の闇へと追いやったはずの記憶が鮮明に蘇り、恐怖が、絶望が、彼の心を支配し、生物の本能を揺さぶり、悲鳴を上げさせる。

魔法科の屋上に立つ影……それは紛れもなく、神坂春姫その人であった。

突然悲鳴を上げた雄真に、教室中が騒然とする。

 

「い、如何いたしたのだ雄真殿!」

 

最初に席を立ったのは武人・上条信哉。

彼は雄真の尋常でない様子から愛用の木刀にしてマジックワンド……『風神雷神』を手に取り、窓枠へと片足をかける。

そして、見た。

見てしまった。

ソレを。

見てはいけないものを。

 

「ぬ、ぬぅうッ!」

 

信哉の表情が、一瞬にして険しいものへと変わった。

自身魔法使いであると同時に優れた剣士でもある彼は、屋上に立つ人影放つ膨大な量の殺気を感じ取り、思わず木刀を八相に構える。

 

「あれは神坂殿か!?」

「え! 春姫ですって!?」

 

信じられないといった様子で杏璃が窓際に駆け寄る。

ツインテールの少女が視線をやったその先には……見慣れた、自分が親友と認め、ライバルと認める少女の姿はなかった。

 

「柊殿! 窓から離れろ!」

「え……?」

 

信哉の警告は素早かった。

しかし、それを聞く杏璃の反応は遅すぎた。

杏璃の視界が、突然何か黒いモノに遮られる。

頬に触れたその感触は柔らかく……それが女の手だと気付かされる。

 

「……エルートラス・レオラ!」

「って、その呪文はあたしの――――――」

 

杏璃の抗議は、最後まで続かなかった。

次の瞬間、彼女の小柄な体は宙を華麗に舞い躍った。

 

“グシャァア!”

 

“萌え”と“えっち”を大切にしているメーカーのゲームの二次創作とは思えぬ擬音が、教室を席巻した。

いつもはやかましいぐらいに騒がしい二年A組の教室を、沈黙が支配した。

そして窓を乗り越え、降り立つ幽鬼。

それは可憐な美少女の皮を被った、修羅だった。

 

「ふーふーふー。さあ、雄真君、お勉強の時間だよー」

 

春姫の声で、春姫の笑顔で、不気味に笑い、不気味に迫るソレ。

傍らのソプラノが、カタカタと震えている。

 

『は、春姫。いけません! 今のあなたを支配しているその力は、人間の手に余るものです!』

「ソプラノ? ……ああ、そう。あなたもわたしと雄真君の愛を邪魔するつもりなのね」

 

黒きオーラを身に纏いながら、ゆっくりと壁に立てかけられたソプラノににじり寄る春姫。

雄真は素早くソプラノを抱きかかえると、春姫から距離を取った。

 

「……雄真君?」

「は、春姫。落ち着くんだ。今はまだ一時間目が終わったばかりだし、魔法の勉強はいつも放課後に――――――」

「雄真君、何も言わずにソプラノを渡してくれないかな?」

 

雄真の言葉を途中で遮り、春姫はにっこりと笑った。

それは世界一の気難しがり家でも、思わず微笑み返してしまいたくなるような、満面の笑みだった。

 

「勉強をするんだから、その邪魔になるようなものは取り除かないとね♪」

「ええいッ、乱心なされたか神坂殿!」

 

雄真と春姫の間に、果敢にも木刀を構えた信哉が割って入る。

 

「事情は分からぬが神坂殿、雄真殿は今怯えている。そしてその原因が神坂殿にあるのは誰の目にも明らか。それ以上雄真殿に近づこうものなら、この『風神雷神』で斬り捨てる!」

「信哉……」

 

友を守るため、身を張って雄真を庇う武人・上条信哉。

その勇敢な姿と高潔なる魂に、雄真は感涙のあまり言葉もない。

 

「上条君……そっか、上条君もわたし達の邪魔をするんだね」

 

だが、そんな信哉の友を庇う姿も、昨日から暴走を続ける今の春姫の心を揺さぶるには至らなかった。

彼女は呪文詠唱を始め、掌に魔力を集中させていく。

それを見て、信哉はニヤリと笑った。

 

「フッ! いくら瑞穂坂始まって以来の才媛・神坂春姫殿といえど、マジックワンドもなしに放つ魔法が、この風神雷神に通用すると思ったかッ」

 

信哉のマジックワンドには強力な魔法に対する抵抗能力と、防御専門の結界をも無力化する攻撃力が宿っている。いかに『Class“B”』の魔法使いといえど、マジックワンドもなし放つ魔法では、その攻防を突破することは不可能だ。

だが、信哉のその確信は、もろくも崩れ去る。

 

「マジックワンドを持っていない? 本当にそう思っているのかしら……ねぇ、『パエリア』」

「な、なにぃ!?」

 

信哉の顔が、驚きに漂白した。

いつの間に手中に収めたのか、なんと春姫の手には、杏璃のマジックワンド……パエリアが握られていた。

 

『あああおおおううういいいあああ――――――』

「くっ! パエリアのやつ、春姫の魔力を送り込まれて人格を破壊されてやがる!」

 

純白の羽をどす黒く染め、バチバチと紫電を纏わせるパエリアを軽々と振るい、春姫は呪文を紡ぐ。

杏璃や信哉、ひょっとすると小雪すらも軽々とねじ伏せるだけの威力を持った、高位魔法の呪文を…。

 

「ア・グナ・ギザ・ラ・デライド……」

「馬鹿な!? 伊吹様の呪文だと――――――」

「信哉ぁ、油断するな!」

「ぬッ!」

 

自分の知りうる限り、この魔法を使いこなせた人間はたったふたり。そしてそのうちのひとりはすでに墓の下。

信哉は、何人もの魔法使いが自分のものにしようとしながら、己の主以外何人たりとも行使出来なかったその魔法の発動が近いことを知って、風神雷神に限界まで魔力を注ぎ、防御を最大にする。結界という、密度の濃い魔力の障壁を斬割出来る雷神の攻撃力は、同時に防御力にも転換することが出来る。

 

「ラ・ディーエ!」

 

虚空に生まれる魔法陣。紫電の雷光を纏いし光の矢が、無数に、凄まじいスピードで、豪雨のように信哉に降り注ぐ。

 

「うおおおおおおッ! 父上、母上ぇ、俺に力を――――――!!!」

 

風の王が雨を吹き飛ばし、雷の王が矢を打ち落とす。

信哉は、

木刀を握る侍は、雲霞の如き爆撃を、真っ向から受け止める。

光の矢の数は確かに無数ではあるが、信哉の身体能力を以ってすれば躱せぬ数ではない。

しかし、彼はそれをあえて真正面から受け、防ぎ、捌いた。

そんな信哉の背後には、雄真がいた。

やがて一条の光線が、信哉の太刀捌きの間隙を縫って進み、彼の体を貫いた。

 

「ぐぅ…ガッ……!」

 

光の矢が命中したのは信哉の右肩。

利き腕の支柱を失い、彼の太刀捌きがわずかに鈍る。

そして剣風の嘶きが徐々に小さくなるにつれ、光の矢が次々と彼の体に炸裂した。

 

「うぐぉ…か……はぁ……ッ!」

「兄様!」

「信哉!」

 

ついに膝を着く信哉。

だがそれでも、彼は真っ直ぐ春姫を見据え、自分の身が傷ついていくのにも構わず、背後の友を守るために剣を振るう。

 

「うおおおおおおおお――――――ッ!!!」

 

ここで友を守れずして何の剣士か。何の剣術か。

十年前の“あの日”、自分には力がなかった。

そればかりか自分達の過失で、途方もない悲劇を招いてしまった。

母に会いたいという……親の愛を知る子であれば誰しもが思うその気持ちが、ひとりの命と、多くの人間の運命を変えてしまった。

さらにそんな過去を苦に思い、自分は間違った道を歩んでしまった。

その結果自分達は、さらなる悲劇を呼び起こしてしまった。

そしてその間違った道から、自分を真っ当な正しい方向へと連れ戻しくれた男が……今、自分の背後にいる。

 

(もう…もう、俺の目の前で悲劇を繰り返させはしないッ!)

 

あのとき、自分はあまりにも無力だった。

それが悔しくて力を得た後も、自分はその使い方を間違えてしまった。

そしてその誤った考えを諭し、正しい方向に導いてくれた友……

 

「ゆ…う……ま……殿はぁ――――――」

 

今一度両膝に力を篭め、もはや筋肉の千切れかけた両腕を叱咤し、信哉は立ち上がる。

そして彼は、今一度友を守るために、剣を振るう。

 

「俺が、守るッ!」

 

風神が、雷神が、竜巻を、稲妻を発する。

学校の教室という狭い空間に嵐が巻き起こり、信哉の魔力のすべてが、ひとつの方向性へと集束していく。

真剣にあって、模造の木刀にないもの……何か“切断する”という、その機能。

信哉の魔力が雷よりも素早く走る刃となり、風よりも軽い木刀の刀身部を包む。

 

「来るがいい! 神坂殿! これが、俺の――――――」

「……ラ・ディーエ!」

 

両眼を見開き、血を吐きながら咆哮する信哉。

相変わらずの壊れた笑顔を浮かべながら魔法を放つ春姫。

無数の光の矢がひとつにまとまり、圧倒的な光線の奔流となって大気を焼き尽くす!

それに立ち向かう男の刃が、閃光を放ち重力すらも切り裂く!!

ふたつの力が、ぶつかり合う!!!

そして世界は、白い闇に包まれた――――――

 

 

 

 

 

光が、消えた。

視界を取り戻した雄真、そしてクラスの面々は、まず目に入ってきた光景に絶句する。

教室は、見るも無残に荒れ果てていた。

机や椅子といった備品は原形を留めず焼け爛れ、床、天井、壁は、あまりの閃光に一瞬にして日焼けしてしまっている。

……そしてなにより、生徒達の目を釘付けにしたものがあった。

 

「うふふふふ。わたしの邪魔をするからこうなるのよ」

「ゆ、雄真…殿ぉ……に、逃げろぉ……」

 

光の爆心地では、魔法服を着た春姫が信哉の首を絞め、片手で持ち上げていた。

いったいあの細腕のどこにそれほどの力があるのか、彼女はまるでゴミを放るように一八〇センチの信哉の体を投げ捨てる。

 

「ひっ……!」

 

信哉の体は、奇しくも雄真の足元に放られた。

自分を守るために犠牲となったクラスメイトの無残な姿を前に、雄真は悲鳴をあげる。

 

「……これでもまだ、わたしの邪魔をする気の人、いるかな?」

 

教師を含めた教室にいる面々が、二人を除いて首を横に振る。

首を横に振らなかったひとり……上条沙耶は、兄の変わり果てた姿へと駆け寄った。

 

「兄様! しっかりしてください兄様!」

 

しかし妹の必死の声も、今の信哉には届かない。

そして今や守ってくれる者など誰一人おらず、また相手との実力差明らかな雄真は、絶体絶命のピンチにあった。

 

「さあ、雄真君。ソプラノを渡して」

 

いたって優しい声音で、春姫は雄真に語り掛ける。

だが手にしたパエリアは黒い光を放ったままだ。

 

「春姫……」

 

もはや打つ手はない。

今の暴走状態の春姫では、御薙先生と小雪先輩、伊吹が三人がかりで仕掛けても、傷ひとつ負わせることすら出来ないだろう。そして自分の実力は普段の彼女にも及ばない。完全な詰めだ。

このまま、おとなしく彼女の言葉に従ってソプラノを引き渡すしかないのか……

 

(……小日向雄真。馬鹿か、お前は)

 

一瞬とはいえ浮かんできた考えに、自分で自分に怒りが湧く。

小日向雄真、お前は忘れたわけではないだろう。

“物”でしかない彼女。

“物”でしかないはずの彼女。

けれど、確かに心を持った、生きた存在である彼女。

自分に安らぎをくれ、自分に優しい時間をくれ、自分を幸せな気持ちにしれくれた。

そんな彼女に、自分も何かしてやりたいと。

そんな彼女が頼れるような男に、なりたいと。

そう、強く思い、そんな理想の自分を、強く願ったのではなかったか?

彼女を守れる男になりたいと、思ったのではなかったか……?

 

(信哉……)

 

チラリと、足元に倒れる友の横顔へと視線を這わす。

自分を守るために犠牲になった武士の手には、未だ木刀がしっかりと握られていた。

気を失ってなお、彼は自分を……大切なものを守ろうとしてくれているのだ。

ならば、今度は自分の番だ。

 

(男を見せろよ、小日向雄真!)

 

上条信哉は自分の大切な友のために戦った。

ならば自分も、自分のために倒れた彼の意思を、想いを守るために…そして、手の中にある大切な人を守るために、戦おう。

たとえそれが、勝ち目のない戦いだったとしても。

 

「ソプラノ……」

『雄真様……』

 

雄真はソプラノを強く握り締めた。

たったそれだけの行為で、雄真の思いはソプラノに伝わった。

二人の間に、もはや言葉は不要だった。

 

(私もお手伝いします)

(頼む……)

 

人の身を持たないマジックワンド。

柔らかく温かい身体を持たないマジックワンド。

けれどそれだけに、心の深いところで繋がることが出来る。

雄真は、いつも春姫がそうしているようにソプラノを掲げた。その動きに不自然さはなく、華麗に舞うような姿は、一種の演舞のようですらあった。やり方は、ソプラノが教えてくれた。

 

(私の言う通りに、集中を)

(分かった)

 

今の自分に出来る、唯一の魔法。

魔法を少しでもかじった者になら、いとも容易く出来てしまうような初歩の魔法。

雄真はそれに自分の想いのすべてを乗せて、ソプラノとともに調べを奏でる。

 

「エル・アムダルト・リ・エルス・ディ・ルテ……」

「……ふ〜ん。あくまでもソプラノを守る気なんだ」

 

春姫の顔に、狂気の笑みが広がる。

 

「じゃあ、雄真君も一緒にソプラノと消し飛ばしてあげる。好きな娘と一緒に死ねる……雄真君も嬉しいでしょ? 喜んでくれるよね? わたしは雄真君のことが好きだから、雄真君の望む通りの死をプレゼントしてあげる」

 

六月に現れたサンタクロースは、手にしたマジックワンドをゆっくりと掲げる。

そして彼女もまた、魔法使いとしての自分の原点……その呪文を、詠唱する。

 

「エル・アムダルト・リ・エルス・ディ・ルテ……」

 

すべての原点。

すべての起源。

春姫は、黒く染まったパエリアに力を注ぎ、

雄真は、ソプラノとともに旋律を奏でる。

そして呪文は、同時に帰結する。

 

『……エル・アダファルス!!!』

 

ソプラノから、終末の火が噴き出した。

パエリアから、地獄の硫黄が噴出した。

清浄なる炎と、邪悪に染まった炎が、今、激突する。

ぶつかり合う炎が押しつ押されつで拮抗し、教室の気温を一気に何十度も跳ね上げる。

 

「くぅ……ッ!」

 

熱い。

身体がとてつもなく熱い。

けれど、集中を解くわけにはいかない。

技術で劣る自分が春姫と拮抗していられるのは、自分の中にある膨大な魔力のおかげだ。

その制御のための集中を、今解くわけにはいかない。

熱と焦燥にかられる雄真の心に、不意に温かいものが触れた。

 

『大丈夫です。雄真様…』

「そ、ソプラノ……」

『あなたはひとりで戦っているのではありません。私を…私を信じてください』

 

ソプラノの優しい光に心を包まれながら、雄真はこくりと頷く。

自分は大丈夫だ。

なぜなら自分の傍には、世界でいちばんの女が……自分の大切な、唯一無二のパートナーがいるのだから。

そして雄真は、自分の中に眠る魔力の、最後の一滴まで搾り出す――――――!

 

「エル・アムダルト・リ・エルス・ディ・ルテ・カル・ア・ラト・リアラ……」

 

自分は一人じゃない……その安心感が、そのことの幸せが、雄真の中で荒れ狂う魔力を、ひとつの形へと集束させる。

さらなる魔力を注がれた清浄なる炎が光を放ち、膨張し、最後の一言を待ち侘びて、世界を真っ白に染め上げていく。

 

「……カルティエ!!!」

 

最後のキーワードが、紡がれた。

 

「ッ!? この魔法は――――――!!?」

 

知らない魔法だった。

“あの日”出会った彼のようになりたいと、必死に独学で魔法の勉強をしてきた彼女をして、まったく知らない、未知の魔法。

だがそれは当然だった。

なぜなら今、雄真が放とうとしている魔法は、かつて多くの魔法使いがやろうとし、ことごとく失敗してきた、『Class』などというカテゴリーでまとめることなどおこがましい、神の領域の魔法だったのだから――――――

それはすべての母にして父なる炎。

この世界のありとあらゆる万物を生み落とした、宇宙開闢の大爆発。

小さな小さな爆発が、

大きな大きなエネルギーを持った爆発が、

今、春姫の心の闇を切り拓き、新たなる世界をこの惑星の上に生み出す!

炎が、世界を飲み込んだ。

 

 

 

 

 

ここのところ晴れの日が続いていたものだから、てっきり梅雨は明けたのだと思った矢先、六月の最終日に雨が降ってきた。

眼下の校庭が徐々にぬかるんでいくのを眺めながら、一人…いや、二人きりの教室で、雄真は傍らの恋人に問う。

 

「雨か……そういやソプラノは雨、嫌いなのか?」

『いいえ、特に嫌いというわけではありませんが……何故ですか?』

 

突然の雄真の質問に、ソプラノが不思議そうに問い返す。

雄真は、窓の外の雨を見ながらふと思い至った事を話した。

 

「いやさ、雨の日って湿気が溜まって、ソプラノ達には辛いんじゃないかって。特に、ソプラノの場合は」

 

トランペットを元に生み出されたソプラノは、いわば生きた楽器だ。楽器にとって高い湿度というのは天敵ではないだろうか……雄真は、そう思ったのである。

得心したソプラノは『ああ、そういうことですか』と、応じてから、

 

『確かに辛いは辛いですね。人間の感覚で言うと、服が汗でべっとり纏わりつく感じで』

「ああ、やっぱり」

 

雄真は窓の外から視線をソプラノに戻すと、

 

「じゃあ、今日の手入れは特に入念にしてやらないとな」

『……雄真様、言い方がいやらしいです』

 

わきわきと指を動かしながら言う雄真に、ソプラノが苦笑する。

最近ではソプラノの毎日の日課……彼女の手入れはもっぱら雄真がやっている。最初は慣れない作業で、入念にすると一時間もかかることもあったが、最近は手馴れたもので、恋人の身体は毎日綺麗に保たれていた。

 

「そりゃ、な。ソプラノのあんなところやこんなところを手入れしてやるわけだし」

『ゆ、雄真様! こ、こんな場所でなんてことを言うんですか!』

 

人間であれば顔を真っ赤にしていたであろう慌てようで、ソプラノが言う。

マジックワンドの手入れをするということは、人間で例えれば風呂場で背中を流してやるようなものだ。当然相手は裸であり、女のソプラノからすれば今の雄真の発言は顔から火が出るほどに恥ずかしい。

一日の授業工程が全て終了し、教室に居るのは雄真とソプラノの二人だけとはいえ、時間的に校舎にはまだ人がいる。いつ、誰かが教室の前を通ってくるか分からない。ソプラノは気が気でなかった。

 

「あはは! 今のソプラノの慌てよう、可愛かったぜ」

『も、もう! 雄真様ったら…』

 

さすがにいじめすぎたのか、ソプラノはそれっきり黙って何も言わなくなる。どうやら拗ねてしまったらしい。普段はお姉さんのようなソプラノだが、こんなときはまるで自分よりも年下を相手にしているように感じてしまう。

 

「悪い悪い。つい、ソプラノが可愛すぎたもんだからさ。からかいたくなった」

『…………』

 

返事はない。

どうやら本格的に機嫌を損ねてしまったらしい。

慌てた雄真は何とか彼女の口を開かせようと、話題を最初に戻す。

 

「そ、それでさっきの話だけどさ……」

『……』

「ソプラノは雨は嫌いじゃないって言ったけど、じゃあ、雨、好きなのか?」

『……好きですよ』

 

しばしの沈黙の後、ソプラノは答えてくれた。

雄真は内心ほっと安堵の息をつきながら、「え? 何でなんだ?」と、訊ねた。

ソプラノは雄真の問いに即答した。

 

『だって雨の日は、雄真様と一緒にいられる時間が多くできますから』

「ソプラノ……」

 

楽しそうに言うソプラノの歌声。

あまりにも素直に告げられたその言葉に、雄真はまたも慌ててしまう。今度は別の、まったく違った意味で。

顔を真っ赤にしながら雄真は、自分の心臓が徐々に高鳴っていくのを感じた。嬉しさのあまり、自然に口元がにやけそうになってしまう。

 

「ソプラノ……!」

 

雄真はほぼ衝動的にソプラノを抱きしめた。

マジックワンドの恋人は、愛する男の両腕にすっぽりと包まれる。

その触り心地は冷たい金属の感触だったけれど……

人間のように温かくも柔らかくもなかったけれど……

雄真は、ソプラノの“心”の温もりを確かに感じた。

 

『雄真様は……雄真は今、幸せですか?』

「……幸せだよ。とても」

 

愛しい人が、傍にいるのだから……

校舎の壁一枚を隔てて、外では雨が相変わらずの猛威を振るっている。

雄真は、雨の音が自分の心臓の鼓動を掻き消してくれればいいのに……なんて、都合の良いことを考えながら、雄真はソプラノの“心”を感じ続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

オマケ

 

 

 

少女にとって、幼馴染の男の子はヒーローだった。

彼は昔から気性の荒い性格で、乱暴者ではあったけど、決して自分からは手を出そうとしない、そんな一本筋の通った少年だった。

しかし、そんな彼が例外的に自分から手を出すことがしばしばあった。

それはいつも自分が男の子達に意地悪されたときや、イジメられたときで……少年はその対象になったことは一度もないのに、いつも自分のために喧嘩してくれていた。

泣いている自分の元にいつも颯爽と現れる少年は、白馬の王子様のように美男子でも、お金持ちでもなかったけれど、傷だらけの顔に作った笑顔で、「ほら、もう大丈夫だぞ」と、自分を慰めるその姿は、少女に取って世の中のどんなおとぎ話に登場する主人公よりもカッコよく、テレビに出てくるどんなヒーローよりもたくましい存在に見えた。

そしてそんな少年に、少女は恋をした。

中学生になって、少年が周りから不良のレッテルを貼られ、遠ざけられるようになっても、自分だけはいつも彼の傍にいようとした。

ぶっきらぼうで、気性の荒い性格で、喧嘩っ早くて傍にいるといつも苦労させられた彼だけど、そんな喧嘩屋の性格の裏にある彼の優しい部分が、彼女は好きだった。

彼と長く一緒にいる時間を作りたかったから、彼の中学卒業後の進路希望が就職であると知って、彼女は彼を自分の受験に巻き込んだ。

彼はしぶしぶながらも自分と一緒に瑞穂坂学園を受けることにし、なんだかんだ言いながらも自分と一緒に勉強をして、ギリギリの成績で合格した。

 

(また三年間一緒の学校にいられる!)

 

合格通知が届いたその日、彼女の喜びようは両親も呆れるぐらいのものだった。

別段彼女は彼と付き合っているではない。

恋は一方的な彼女の片想いで、告白もしていなかったから二人の関係は幼馴染を逸脱するものにはなっていなかった。

けれど、彼女はそれでも一緒の校舎にいられるだけで……一緒の教室にいられるだけで、満足だった。

好きな彼と傍にいられるだけで、大好きな彼の笑っている顔を遠くから見ているだけで……それだけでもう、彼女は幸せだった。

それなのに……

 

 

 

 

 

少女は今、病院にいる。

リノリウムで四方を囲まれた部屋には一台のベッドがあり、そこには一人の少年が、いつ覚めるとも分からない眠りに就いている。

 

「今日も、お見舞いに来たよ…」

 

返ってくるはずのない返事。

特に期待をしていたわけではない。

彼がこのベッドに世話になるようになった以前にも、少女は何度も彼に言葉をかけていたが、まともな返事はほとんど返ってこなかった。

ただ以前は、それでも「おう」とか、「ああ?」とか、気のない返事を返してくれた。しかし今は、それすらない。

少女は持ってきた花を手早く花瓶に生けると、ここ数日の間に日課となった行為を始めた。

そっと椅子に腰掛け、白い毛布から覗く彼の大きな手を優しく握り締める。

 

「斉藤君が入院してもう二週間だよね」

「……」

「まったく! 喧嘩して怪我して入院なんて、腕が鈍ったんじゃないの?」

「……」

「『大人のたしなみだー』なんて言って、タバコばっかり吸ってるからこうなるんだよ」

「……」

「これに懲りたらもう二度とタバコなんて吸わないこと。いい? 分かった?」

「……」

「むぅ。そうやっていつも返事せずにはぐらかす…。いいですか? 私は怒ってるんですよ?」

「……」

「またそうやって無視して。近藤君も言ってたよ? 『斉藤の奴は昔より弱くなった。最近は殴り合ってても張り合いがない』って。喧嘩ばかりしてるのも駄目だけど、健康には気をつけなきゃ」

「……」

「まったく! なんで本当に、こんな……」

「……」

 

いくら呼びかけても、いくら言葉をかけても、決して返事など返ってこない空しい独り語り。

それでも少女は、それが少しでも闇に沈んでいる少年の意識を呼び覚ます一助となることを願って、健気に言葉をかける。

 

「そういえばこの間留美ちゃん達と一緒に新しい料理本買ったんだ。試作第一号が出来たら、斉藤君食べてよ」

「……」

「料理といえば……斉藤君いつも購買だったよね? 朝、弱いからお弁当作れないんだよねー。…そ、それでさ、もしよかったらだけど……今度お弁当作ってきてあげようか?」

「……」

「むぅ、照れてないでちゃんと答えてよ……って、寝たフリするなー!」

「……」

「むぅぅ…斉藤君本当に寝ちゃった」

「……」

「この寝ぼすけめっ! もう知らないんだから!」

「……」

「斉藤君って本当に朝弱いよね〜。低血圧なんじゃないの? あ、そうだ。今度低血圧を治す料理っていうのを作ってあげようか?」

「……」

「って、寝てるんだから聞こえるわけないか」

「……」

「……もう、本当に寝ぼすけさんなんだから」

「……」

 

いくら言葉を重ねても、いくら想いをぶつけても、少年が起きる気配は一向にない。

落ち着いた呼吸と口を閉ざした穏やかな表情は、少年の眠りが普通のそれと何ら変わりのないものであることを証明していたが、彼はもうこの状態のまま二週間も寝過ごしている。

少女は手を握る少年に、どんなに小さくてもいい、何か変化はないかと、懸命に注意を張り巡らした。

彼の指先、彼の瞼、彼の唇……だがそのいずれにも、微細な、そして劇的な変化は起こらない。

少女は片手で少年の手を握ったまま、音を立てないようそっと椅子から腰を上げた。

もっと近くで、もっとよく彼の顔を見ようと、それがしやすい位置へと移動する。

空いた方の手で薄っすらと汗ばんだ額にかかる前髪を払い除けてやっても、少年の頬はピクリとも動かない。

 

「……まったく、そんなに寝てばっかりいると、イタズラしちゃうよ?」

「……」

「返事なし。無言の肯定、無言の了承と受け取りました」

「……」

「……本当に、しちゃうからね?」

「……」

 

ふと頭によぎったその考え。

普段の彼にやろうものなら、慌てて突き飛ばされることは目に見えている行為。

少女はゆっくりと少年に顔を寄せていった。

 

「寝てる斉藤君が悪いんだからね…」

 

そう、言い訳じみた言葉を口にしながら、そっと彼の唇を奪う。

軽く触れ合うだけのキス。

何度も空想の中で憧れ、何度も夢に見て望んだ、短いワンアクション。

けれど、夢にまで見た彼とのキスは、実際にやってみれば嬉しくもなんともなくて……むしろ、胸が締め付けられるような痛みすら感じた。

 

「……起きない、ね」

「……」

「もう、お姫様が自分からキスしてくれたっていうのに……これで起きないなんて、男の子としてエチケット違反だよ」

「……」

「もう、本当に駄目な王子様なんだから」

 

互いの吐息が感じるほどの距離なのに、

こんなにも近くにいるのに、

彼の声が聞こえない。

彼の音が世界にない。

たったそれだけのことなのに、どうしようもなく悲しい。

憧れのキスを果たしたというのに、途方もなく悲しい。

 

「斉藤君……」

 

少年の頬に、小さな雨が降り注ぐ。

一滴…また一滴と、悲しみの雫が、寂しさの結晶が、彼の頬へと吸い込まれていく。

何でこんなに近くにいるのに、彼の声が聞こえないのだろう。

何でこんなに言葉をかけているのに、彼は何も言ってくれないのだろう。

 

「ねぇ、起きてよ……」

 

自分がピンチのときにはいつもやってきてくれた彼。

自分が寂しさで泣いてしまいそうになったときには、なんだかんだ言いながらいつも傍にいてくれた幼馴染。

自分だけの、永遠のヒーロー。

それなのに、

今、自分はこんなに悲しくて、寂しくて、泣いているのに……彼は一向にやってこない。

 

「起きてさ、斉藤君の声を聞かせてよ…」

 

その声さえ聞ければ、元気は出てくるから。

その笑顔さえ見れば、勇気は湧くから。

あなたが目覚めてくれさえすれば、私はいくらでも頑張れるのだから。

だから、ねぇ、早く起きて……

 

「会いたいよぉ。斉藤君…」

 

もう一度、彼に会いたい。

こんな風に病院のベッドに眠る彼ではなく、喧嘩っ早い不良でもいい、元気な彼の姿が見たい。

彼のいない世界に、私の幸せなんてありえない。

子供のように泣きじゃくる少女は、もう一度少年の口元へと自分の唇を降下させる。

少しでもその寂しさを紛らわすように、今度はより強く、執拗に、相手の唇を求める。

 

「ん……あむ……んふ……」

 

堅く閉ざされた唇の門は、どれほど舐めたところで鍵穴が開くことはない。

だがそれでも一心不乱に、少女は少年を求めた。

少年の熱を求めた。

門を開いた先にある少年の舌が、自分のを絡め取ってくれる……そんな幻想を抱いた。

 

「……」

「……んんっ!?」

 

しかし、その幻想は次の瞬間幻ではなくなった。

少年の唇に隙間が出来たかと思うと、一気にあちら側から舌が伸びてきて、彼女の領域を侵した。

それこそ執拗に、少女の喉が唾液でおぼれるほどに、長く、深く、強く……少女の唇は、求める側から求められる側へと変わる。

やがて二つの紅の谷間は、静かに別れた。

少女は驚いた表情で少年の顔を見つめた。

そして彼女の視線の先にある、少年は、眩しそうに目を細めながら、

 

「……お前、キス、下手だな」

「斉藤……君? 亮、ちゃん……?」

 

自分が本当にピンチになったときには、いつも駆けつけてくれた。

自分が本当に悲しいときには、いつも傍にいて慰めてくれた。

今も、そう。

彼は、自分が本当に苦しいときには、いつもやってきてくれて、自分の心を救ってくれる。

誰よりも強くて、誰よりもカッコよくて、ちょっとだけ優しい、永遠の、私だけのヒーロー……。

 

「も、もう! 朝はとっくに過ぎてるんだからね。ほら、早く起きてよ」

 

何でだろう?

こんなに…こんなにも嬉しいのに……なぜか、涙が止まらない。

 

「――ったく、うるせぇなぁ。分かった。起きる、起きるよ。……おはよう、梓」

「うん、おはよう。……亮ちゃん」

 

頬を流れる涙をそっと拭いながら、化粧の取れた酷い顔で、けれど何よりも美しい笑顔で、少女は……桐原梓は、斉藤亮介の挨拶に応える。

病室に飾られた、遅咲きのルナピスの花が、雲間から覗く日に照らされて輝いていた。

 

 

 

 


〜あとがき〜

 

本作は決してギャグ小説でも、バトル小説でもありません。暦としたほのぼの系小説です(笑)。

さて、「幸せの音色」、お読みいただきありがとうございます!

初めての「はぴねす!」SSということで、今回のメインにはタハ乱暴が「はぴねす!」中でトップ3に入るお気に入りのキャラ……ソプラノ(ここ重要)を据え置きました。

あとは他に本編では二枚目なのにあまりカッコ良いシナリオに恵まれなかった信哉や、そもそも本編に出ていない斉藤君なんかの出番を多めに取っています(苦笑)。

壊れ春姫に関しては作者の好みと偏見が多分に影響しています。

春姫、嫌いではないんですが好きにもなれません。何でだろ? やっぱりああいうスタンダードなヒロインは、サブキャラ大好きなタハ乱暴の中では決して一番になれない運命なんだろうか?

偏見の方に関しては、タハ乱暴は春姫は絶対に黒いと思っているので(苦笑)。

ああいう何年も想いを抱え込んだのは、一旦化けると対処のしようが……。

 

さてさて今回、「はぴねす!」を題材にしてやりたいことを90%詰め込みました。

なので多少、作者の私をして味付けを間違えたごった煮鍋の感が否めませんが、読んでやってくださると幸いです。

ではでは、「はぴねす!」SS「幸せの音色」で、タハ乱暴でした。

 

 

 





…………え、えぇ! ほのぼの!?
美姫 「あれだけ爆発や炎が上がってもほのぼのなのよ」
ま、まあ、確かに随所随所や後半はほのぼのだけど、それ以前ってバト……。
美姫 「ほのぼのなのよ!」
ぶべらっ! ううぅぅ、ほのぼのです。
しかし、まさかヒロイン(?)にソプラノとは。
全然、思ってもなかったです。
美姫 「確かにね。完全に予想外だったわね」
うんうん。ソプラノとのほのぼの小説、ありがとうございました。
美姫 「ありがとうございま〜す」



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