――聖ヨト暦三三〇年、シーレの月、赤、ひとつの日、夜。
 
 

 リモドアはラジード山脈から採掘された鉄鉱石などを、王都サモドアに運搬する上での中継地点として発展した都市だ。リーザリオから南東に、人間の足で三日ほど歩いたところに位置している。その周辺には痩せた土地ながら広大な平野が広がっており、平地の少ない王国領土の中でも有数の穀倉地帯として知られていた。リーザリオが王国のドル箱であれば、リモドアは、さながら王国の糧食庫といったところだろう。

 そうした出自と、敵国から最も離れた地理ゆえに、遠くから見たリモドアの外観は、リーザリオのような城塞都市然としていなかった。一応、市の外周を、ぐるり、と城壁が囲んでいるものの、それは古い時代に築かれた申し訳程度の代物だった。近年はまともな補修も受けていないのか、所々に実用上無視出来ない損傷が見受けられる。厚みだけでなく高さも不十分で、経験豊富な現代世界の軍人ならば、一個大隊の戦力で十分突破が可能と思われた。

 アイリス・青スピリットら殿部隊がリモドアに到着したのは、もう日も沈んで夜の帳が降り始めた時間帯のことだった。

 激戦を経た後の逃走劇の道程は約六〇キロにも及び、いかに頑健な肉体を持つスピリット達といえど、疲労の色は隠せない。

 温かいスープと、ふかふかのベッドが欲しい。

 アイリス達は全員が共通の想いを胸に抱きながら、さしあたってトティラ将軍を探すことにした。

 はたして、何の連絡もなしにリーザリオを脱出した自分達第三軍を、第二軍は受け入れてくれたのか。トティラ将軍の戦略計画を、第二軍の司令は理解し、承知してくれたのか。

 とにもかくにも、現状を正確に把握しなければ始まらない。

 トティラ将軍を探し始めて早々、アイリス達は第三軍の高官を見つけた。

 脱出最終陣の指揮を執っていた人物で、歩兵大隊長のカーネル・ビンソンだ。アイリスらスピリットの面々にはあまり馴染みのない顔だが、実直な軍人だと軍内の噂では聞いている。

 アイリス達はカーネル大隊長の姿を認めるや、矢継ぎ早に質問を浴びせかけた。

 そして、知りたくない事実を知ってしまった。

 内容は主に二つ。

 一つは、脱出最終陣に加わっていたはずのジャネット・赤スピリットの行方が分からないこと。

 そしてもう一つは、バーンライト王国最強の猛将トティラ・ゴート将軍が戦死したこと。

 ラキオスとの戦いに、暗雲が漂い始めていた。

 

 

 

永遠のアセリア

-The Spirit of Eternity Sword Another Story “Twin Edge of Protection”-

第二章「蠢く野心」

Episode45「サモドアの夜」

 

 

 

――聖ヨト暦三三〇年、シーレの月、青、ひとつの日、夜。
 
 

 トティラ将軍戦死の報を聞いて誰よりも動揺したのはオディールだった。

 過日の休暇の折、王都へ帰郷したトティラ将軍の護衛役として随伴して以来、将軍に特別な好意を抱いていた彼女は、スピリットという立場も忘れてカーネルに口角泡を飛ばした。その両肩には、トティラ将軍から預かったゴート家の家宝ドラゴニック・アーマーの姿がある。

「か、閣下が戦死なされたって……! いったいどういうことですか!?」

「落ち着け、オディール!」

 いまにも胸倉を掴みかからん勢いで大隊長に詰め寄るオディールの肩を、アイリスが掴んで引き寄せる。

 人間に顔を近づけただけで不敬罪として罰せられかねない世の中だ。冷静さを欠いたいまのオディールが、スピリット達にとっての禁忌を破ってしまう危険性は十分にあった。

 目の前の歩兵大隊長が妖精差別主義者だという噂は聞かない。かといって、スピリットに好意的な態度を取る人物、という話もない。おそらくは有限世界でもごくごく一般的な程度と範囲の妖精差別思想の持ち主だろう。失礼な態度を見せるわけにはいかなかった。

「いきなりそう、声を荒げては、カーネル様も落ち着いて話が出来ない!」

 アイリスは抵抗しようとするオディールの身を羽交い絞めにしながら、カーネル大隊長に頭を下げた。

「申し訳ありません、カーネル様。いま、オディールは混乱しているようで」

「いや……」

 カーネル歩兵大隊長は沈痛な面持ちでかぶりを振った。

「閣下を失って辛く感じるその気持ちは、私も分かる。その者の無礼を罰するつもりはない」

 カーネル歩兵大隊長は憔悴した顔で言った。

 そして、実弟のカール通信兵が自分に伝えた、トティラ将軍の最後の言葉を口にした。

「閣下の戦死は、私も直接目で見て確認したわけではない。ただ、状況からそう判断せざるをえないのだ。閣下は、一人でも多くの敵兵を自爆攻撃に巻き込むために、あえて自らを餌としたのだろう」

 スピリットが主戦力の有限世界の軍隊は小型だ。事実、スピリットを除いたバーンライト王国軍の総兵力は約一四〇〇人にすぎない。総兵力約二七万の自衛隊が被る一〇人のダメージと、総兵力一四〇〇の王国軍が被る一〇のダメージとでは意味合いがまったく異なる。一人でも多くの敵兵を確実に自爆攻撃に巻き込もうとしたトティラ将軍の行動は、戦略・戦術の両面から見てもそれなりの理があった。

 しかし、

 しかし――――――

「……なぜ、閣下が犠牲にならなければならないのですか?」

 アイリスに背中から取り押さえられ、もがくのを止めたオディールが静かに呟いた。その吐息はいやに湿っぽく、苦しげだった。

 守護の双刃に切り裂かれた胸甲越しに、彼女の方から震えが伝わってくる。

 オディールは、泣いていた。肩を震わせ、孔雀石の瞳から涙をこぼし、唇の隙間から嗚咽を漏らしていた。

 そんな彼女の様子に、アイリスはかける言葉が見つからなかった。

 こんな近くに彼女の存在を、熱を、吐息を感じているのに、戦友として何もしてやれない自分を、アイリスは胸の内で激しく罵った。

 オディールはカーネル大隊長を見た。

 白磁の肌を持つ美貌には、憤りの感情が滲んでいた。

「自爆を確実にするだけなら、何も閣下がやる必要はなかったじゃありませんか!?」

 オディールの発言は、決して間違いではない。

 自爆攻撃をより確実なものとするためだけの理由で、仮にも一軍の統率者たる者がみだりに命を散らしてよいはずがない。一兵卒が戦死するのと将軍が戦死するのとでは、後に与える影響が違いすぎる。

 そもそも将軍の仕事は軍を統率することであって、一人でも多くの敵を倒すことではない。敵を殺すことは、兵卒の仕事だ。誰かと代われる作業なら、代わるべきであった。

 しかし、オディールの糾弾の声に、カーネル大隊長はかぶりを振った。

 大隊長の言葉も、オディールの発するそれと同様、湿気と苦渋が滲んでいた。

「……仕方があるまい。エーテル火薬は貴重な代物だ。我が軍でエーテル火薬の使用経験がある者はほとんどいない。かく言う私も、大量の火薬を扱った経験は皆無だ。第三軍でいえば、トティラ将軍かバクシー様くらいしか、経験がないのだ」

 有限世界のエーテル火薬は、現代世界でいうところの黒色火薬に相当する性能を持つ。黒色火薬は、要は爆薬だ。化学反応は一瞬のうちに行われ、使い方次第では自らを傷つけてしまう。敵に確実な被害を与えるためには、扱いに熟達した者が手を動かす必要があった。

 誰かと代われる作業なら、代わるべきであった。しかし、将軍が手を染めた作業は、余人に代役が務まるようなものではなかった。

 カーネルとて、代われるものならトティラ将軍とその役目を代わりたかった。しかし、自分にエーテル火薬の使用経験はない。不心得者が下手に足掻いたところで、折角のエーテル火薬を無駄に浪費してしまう公算の方が高い。

 自分にエーテル火薬の使用経験があれば、と、どれほど過去の己を悔やんだことか。しかし、いくら後悔したところで現実は変わらない。

 代わりたいのに、代われない。自分では、トティラ将軍の代役を務めることが出来ない。その辛さ、あの絶望感……実弟と今生の別れをしたあの瞬間、カーネル大隊長は別な悲しみをも感じていたのだった。それは深い悔恨の念となって、カーネルの心を苛んだ。

「だったら、バクシー様が……」

「言うな!」

 なおも反論しようとしたオディールの言葉を、カーネルは怒りの形相で遮った。

 トティラ将軍戦死の件で、オディールの無礼な態度を罰するつもりはない、と初めに表明した大隊長だったが、いまの発言だけは無視出来なかった。

「それだけは言ってはならん!」

 バクシーは若く、有能な軍人だ。これからのバーンライトに必要な人材だ。実弟のカールが伝えた、トティラ将軍の最後の言葉だった。

 将軍は最後まで残す自分達のことを、家族のことを、そしてバクシーの身を案じていた。バクシー・アミュレットをこれからのバーンライトに必要な人材と評し、彼を生かすために、自ら手をかけた。

 そうすることでバクシーが将来、悔恨の念を抱いたとしても……トティラ将軍は、信頼する副官が生きることを望んだのだ。大切な家族を、彼に託したのだ。

 カーネルの言葉は、次第にまた湿り気を帯びていった。

「バクシー様は、閣下が自らを犠牲にしてでも王国軍に遺した希望だ。その閣下のご意志を、閣下のことを愛していた貴様だけは否定してはならん!」

 目の前の緑スピリットがトティラ将軍に特別な好意を抱いていたことは、第三軍ではほぼ公然の秘密となっていた。主に歩兵部隊としか触れ合っていないカーネルだが、スピリット隊内で蔓延していた噂くらいは耳にしている。

 本人は自らの感情を一人の女が一人の男に向ける愛なのか、家族のような存在に向ける親愛なのか判断しかねているようだったが、カーネルは、それは恋慕の情だ、と断定していた。そうであればこそ、目の前の少女に将軍の意向を否定してほしくなかった。

 カーネルから峻烈な言葉を叩きつけられたオディールは、アイリスの腕の中で脱力していった。

 もはやカーネルにぶつける言葉も見つからないのか、茫然とした表情のまま、彼女は無言で、ぼろぼろ、と泣き続けた。

 やるせない感情の捌け口を、涙を流すことにしか求められなかった。

 なぜ、自分には何も言ってくれなかったのか。

 どうして、自分を置いて逝ってしまったのか。

 虚しかった。

 ただただ、空虚な喪失感だけが残った。

 胸に、ぽっかり、と穴が開いたようだ。

 その穴に、冷たい風が吹き抜けていた。

 風が吹き抜ける度に、悲しさが、憎らしさが、なにより、辛さが込み上げてきた。

 アイリスは、そしてカーネルは、そんな彼女を悲痛な眼差しで見つめた。見つめることしか出来なかった。かける言葉が、見つからなかった。

 カーネルはアイリスを見た。

「……将軍戦死の報は、士気への影響を考えて、一般大衆への公開はいまのところ差し止められている。貴様たちも、そのつもりでいろ」

「はい」

「現在の第三軍はバクシー様が指揮を執っている。バクシー様は、いま第二軍の司令と面談中だ。最低限、我らの寝床くらいは保証されるだろう。上手く会議が進めば、当面の戦略方針も今夜中に決定されるかもしれん」

 カーネル大隊長はそう言って、殿部隊として戦い抜いた五人の勇士の肩を、順番に叩いていった。

 最後にオディールの肩を叩こうとして、カーネルは僅かに躊躇した。

「……戦いはまだまだこれからだ。貴様らにも働いてもらわねばならん。いまは、ゆっくり、休め」

 温かいスープが待っている。

 最後にそう、呟いて、カーネルはスピリット用の天幕を指差した。

 リモドア砦の練兵場は、さながら被災地のように其処彼処で炊き出しが行われていた。

 

 

――同日、夜。
 
 

 リモドアを拠点としている王国第二軍は、王国に三個ある軍の中でも最小規模の集団だった。もともとサモドアの第一軍とリーザリオの第三軍に何かあった時のための、予備戦力としての側面が強く、同都市の地理的位置もあって、常駐している正規兵の数は二〇〇名に過ぎない。スピリットこそかつては三〇体を擁していたものの、このところ続いた負け戦に伴う人事異動によって、いまは二一体を数えていた。内訳は王国軍の妖精が一二体、外人部隊が九体だ。

 その第二軍を統率しているのが、ナルセス・タギネー将軍だった。トティラ将軍より四つ年下の五八歳で、無論、三〇年前の鉄の山戦争を経験している。輜重出身の将軍で、鉄の山戦争では時として無謀としか思えないような機動作戦を実施するトティラ将軍らの部隊を、後方からよく支援した。

 茫洋とした風貌の持ち主で、下がり気味の左眉毛の下には細い目が並んでいる。骨格はがっしりとしており、肉付きも良い。全体として田舎の老爺を思わせる容姿の持ち主だが、外面とは真逆に繊細緻密な性格を内面とし、手堅く、几帳面な男として知られていた。王国軍叱咤の戦将ではない。帷幄にあって縦横に策を巡らせる謀将でもない。机上整理の上手い、官僚的軍人だった。

 第三軍四〇〇名の正規兵とスピリット一一体が、第二軍を頼ってリモドアにやって来た時、ナルセス将軍は仰天して束の間、思考停止状態に陥った。

 すぐに第三軍の最高指揮官を執務室に呼び寄せて事情を問いただそうとしたが、トティラ将軍ではなく、副官のバクシー・アミュレットが憔悴した面持ちでやって来たのを見て、また仰天した。聞くところによればトティラ将軍は戦死し、リーザリオはラキオスによって制圧されてしまったという。バクシーの話を聞いたナルセス将軍は、顔面蒼白となった。

 矢継ぎ早に質問を繰り返した彼は、詳細を聞くにつれて頭を抱え込み、肩をすくめた。

 他方、茫然自失の体のバクシーは、生気の感じられない眼差しで、ぼんやり、と執務室の天井を眺めていた。

 口も、頭も、鋭敏に働いていた。

 これから自分のなすべきことも、十分に理解していた。

 しかし、その思考に到達するまでの道程に感情はなかった。心だけが、ここになかった。

 ――なぜ、私だけが生き残った……。

 ナルセスの質問に明瞭な返答を言い放つかたわら、バクシーはそのことばかりを考えていた。

 僅かに数時間前、リモドアへ向かう荷馬車に揺られながら目を覚ました彼は、カーネル大隊長から自分達の置かれた現状を聞いて愕然とした。

 トティラ将軍が戦死した。自分一人を司令室から脱出させ、自らは炎の中に消えた。遺髪も、遺骨も残さずに、爆炎に飲み込まれた。バクシーに王国の未来を託して、将軍は逝った。

 それを聞かされた瞬間、バクシーは悔しさと怒りから澎湃と涙した。

 ――なぜ、一緒に死んでくれ、と言ってくれなかったのですか……閣下!!

 口にこそ出さなかったが、バクシーは自分一人を生き残らせたトティラ将軍を罵った。恨んだ。憎みさえした。

 バクシーは父親を六歳の時に亡くしている。ゆえに、バクシーは実父のことほとんど知らぬまま成長した。そんな彼にとってトティラ将軍は尊敬に値する軍人であり、人物であり、第二の父も同然だった。岩石をそのまま削ったかのような厳しい面魂は怒ると鬼のように恐ろしげだったが、怒りの感情はいつも相手を慮っての発露だった。ケカレナマの少年大会で初めて会って以来、バクシーを見るトティラ将軍の視線はいつも優しかった。

 この人のためならば命を賭けても惜しくはない、と真実、そう思った。

 それなのに、トティラ将軍は逝った。

 自分を置いて、逝ってしまった。

 父親に、裏切られたも同然だった。

 悔しかった。

 悲しかった。

 そして、腹立たしかった。

 なにより、己自身が。

 将軍に最も近い立場にありながら、その意思一つ汲むことが出来なかった自分が。

 将軍の命を守れなかった、己の無力が。

 将軍が炎に包まれている時、馬鹿みたいに、のうのうと気を失っていた自分が。

 なにより、腹立たしかった。情けなかった。悔やんでも、悔やみきれなかった。

 ――私は、無力だ。閣下の考え一つ汲むことが出来ず、閣下のお命一つ守れなかった私には、この期待は重すぎる……。

 カーネルは言った。トティラ将軍は、自分に王国軍の未来を託したのだ、と。将軍は、自分に期待してくれていたのだ、と。

 故人から託された期待は重く、そして残酷だ。

 バクシーはプレッシャーが掛かれば掛かるほど実力を発揮するタイプの人間だったが、斯様に重く、辛い期待を押し付けられたのは初めてのことだった。

 バーンライトの未来を託される。それは、突如として自分の肩に、王国民九万の命を背負わされたようなものだった。

 代わってくれる者はいない。

 ともに荷物を分けて持ってくれる者もいない。

 孤独のうちに、ひとり立ち向かっていかなければならない難問だった。

 我が身一つで背負わねばならぬ試練だった。

 ――閣下、なぜ、私なのです? なぜ、私のような男に、未来を託したのですか……?

 あなたの……たった一人の命すらどうすることも出来なかったこの男に、いったい何が出来るというのか。どうしろというのか。

 バクシーの、声にならない悲痛な叫びは、あるいは神話の英雄達が共通して抱いた懊悩だったのかもしれない。親の代より、あるいは神代より苛酷な宿命を運命付けられた彼らの苦悩は、常人には耐え難い苦痛を伴うものだったろう。

 百万の語を費やしても余人には理解出来ぬ痛みを、バクシーは感じていた。

 孤独な痛みだった。

「……ともかくいまは、今後どう行動するかを考えねばならぬな」

 顔を土気色に染めたままナルセス将軍が言った。舌が吐き出す言葉は、どこか硬い。

 天井を、ぼぅっ、と眺めたまま、バクシーは小さく頷いた。

 故人から寄せられた期待からくる重圧に苦悩する彼だったが、その頭脳はいまだ明晰であり、軍人としてなすべきことを見失ってはいなかった。

 トティラ将軍亡きいま、第三軍の最高指揮官は自分だ。手を付けなければならない当面の課題は、リモドアへ逃げてきた第三軍の手綱をしっかりと握り、今後の方針を一つ一つ固めていくこと、将兵達の飯と寝床を確保することだ。

「トティラ将軍の考えた、当基地に戦力を集中させてラキオスを迎え撃つ、という戦略は至極もっとも。されど、斯様に重要な事柄を、本職の一存で決定するわけにはいかぬ。陛下のご意向を賜わねばなるまい」

 もっともらしい意見を口にしたナルセス将軍だったが、その胸中では恐怖の感情が渦を巻いていた。

 ナルセスは自らを現王アイデスの良き忠臣だと思い込んでいる。ラキオスと同様、王政国家のバーンライトでは国王は絶対的な権力者だ。ナルセスは、アイデス王に嫌われることを極度に畏怖していた。自分の一存で勝手な行動を取って、国王の機嫌を損ねてしまうことだけは、なんとしても避けたかった。

 責任を取りたくない。取らされたくない。その一心で、五八歳のナルセス将軍は、四十代のバクシーを見た。縋るような視線だった。

「バクシー殿、リーザリオからこの地までやって来て疲れているとは思うが、明朝にでもサモドアへ行ってくれ」

「……王都に、ですか?」

 掠れた声で、バクシーは訊き返した。

 うむ、とぎこちなく頷いたナルセスの顔は険しいものだった。

「陛下にリーザリオ陥落の件に関する詳細と、トティラ将軍の練った戦略計画を伝えてほしい。さらにその上で、陛下から新たな指示を賜ってきてほしい」

 ナルセスはそこで一旦言葉を区切ると、重い溜め息をついた。声を潜めて続ける。

「貴公も存じていよう。ラキオスからの使者を受け入れた一昨日より、各都市間の連絡が上手く取れていない。おそらく、わが国に潜伏しているラキオスの手の者による妨害工作であろうが、連絡のため遣いに出した通信兵のほとんどがそのまま行方知らずとなっている。本来ならば敵のこうした動きに対しては、わが国の情報部が対処するのだが、例のリリアナ・ヨゴウ暗殺計画の失敗で、情報部は戦闘員の大半を失っている。人手不足から、スパイ狩りを実行出来ずにいるのだ」

 リリアナ・ヨゴウ暗殺計画は情報部主導の秘密作戦だったが、いまでは、軍の要職に就く者ならば誰もが知っている公然の秘密となっていた。勿論、その結果が失敗だったことも伝わっている。作戦に投入された戦闘員はスピリット二体と外部協力者一名を含む三七人だったが、これはバーンライト王国の情報部が擁する戦闘部隊の七割にも及んでいた。桜坂柳也発案のドラゴン・アタック作戦が成功した時点で、王国情報部はその戦闘力を失っていたのである。

 ナルセス将軍は続けた。

「とりあえず次善の策として、いまは通信兵を走らせるその都度、護衛のスピリット隊を編成して対処している。しかしこれは泥縄式な上、非常に効率が悪い。スピリット運用の基本単位は三体一個小隊だ。通信兵を出す度に、いちいち三体ものスピリットを護衛に出していたのでは、どこの軍もシフトが回らん。事実、わが第二軍でもすでに基地周辺の警備任務に支障が出ている、との報告を受けている。

 どんなに優秀な戦略計画も、全軍に伝達され、徹底されなければ意味がない。トティラ将軍の計画を現実のものとする上でも、連絡線の確保が急務である。本職もいち早い安全な連絡線の復旧を望んでいる。敵間諜の妨害工作に対する抜本的な解決策がないか、その辺りの指示も、貴公には聞いてきてもらいたい」

 ロシア軍の作戦教義に、『敵の戦力の三分の一は火力によって減じ、次の三分の一を通信によって無力化すれば、残る三分の一は自然崩壊する』とある。

 また、『戦争論』を著したクラウゼヴィッツも、『戦争におけるすべての活動は、霧の中での出来事である』として、情報というものの重要性について語っている。

 ナルセス将軍の言うように、安全な連絡線の確保はまさしく急務であった。

「……分かりました」

 はたして、バクシーは僅かな沈黙の後、首肯した。

 ようやく逃げおおせた将兵達と別れることを思うと辛いものがあったが、これも第三軍のため、と考え堪えた。

「私も、王都へはいずれ向かわねばならないと思っておりました。閣下のご家族に、閣下の戦死をお伝えせねばなりません。むしろ、進んでその任に当たりたいと思います」

「そうか、やってくれるか」

 ナルセス将軍は嬉しそうに破顔した。

 その顔はさらに、バクシーの次の言葉でますます綻んだ。

「護衛のスピリット部隊も、第三軍の残存兵力から編成いたしましょう」

「それはありがたい」

 ナルセス将軍は莞爾と微笑んだ。出来ることなら護衛部隊など出したくない、というのが、彼の本音だ。第二軍の基幹戦力はスピリット二一体。そこから護衛の一個小隊を捻出すると、それだけで戦力は約一五パーセントのダウンとなる。

 その一五パーセント分を自分達でなんとかする、というバクシーの申し出に、ナルセス将軍は諸手を挙げて喜んだ。

「その代わり、現在、練兵場で待機中の第三軍の残存兵四〇〇と、スピリット一一体の寝床の確保だけは、確約していただきたい」

「む……」

 それまでの喜色満面から一転、バクシーの追加の申し出に、ナルセス将軍は途端難しい顔をした。

 眉間に深い縦皺を刻み、しばしの沈黙を置く。

 ここで第三軍の残存兵力を受け入れることで生じるメリットとデメリットを、頭の中で秤にかける。さらに、この場で第三軍の受け入れを確約した場合に、アイデス王に与える自分の心証を考える。はたして、国王陛下は己を、傷ついた将兵に救いの手を差し伸べた人格者と見るか、それとも独断専行が過ぎる煩わしい人物と見るか。

 判断を下すまでに時間がかかるのがこの将軍の悪い癖だ。それは、以前トティラ将軍が再三の要求をしたにも拘らず、結局アイデス王が命令を下すまで第三軍に援軍を送らなかった一事からも分かる。決断を下すまでには、もっと時間がかかる。

 たっぷり五秒間は熟考した後、ナルセス将軍は言った。

「……よかろう」

 バクシーに向かって、莞爾と微笑む。

「四〇〇人全員分の部屋を確保するのはさすがに難しいだろうが、全員分の毛布と糧食、生活用水、馬匹の飼葉は何とか用意しよう」

「ありがとうございます、閣下」

 バクシーは恭しく頭を垂れた。

 これで一つ、ほんの僅かな重みではあるが、肩の荷が下りた。

 安堵の溜め息をこぼすその背中は、寒々として寂しげだった。

 

 

――同日、夜。
 
 

 新たな命令があるまで外人部隊は天幕内で待機せよ。

 苛酷な戦いを生き延びたオディールら外人部隊のスピリット達に、カーネル大隊長が新たに下した命令は、斯様に温情あるものだった。待機ということは、気を抜くことは許されないが、少なくとも身体くらいは休めてもよい、ということだ。

 カーネルは歩兵大隊の隊長で、オディールらスピリット隊の直属の上司ではない。しかし、疲れきった少女達に彼の命令を拒絶する理由はなかった。

 スピリットの少女達は、外人部隊専用の天幕に入ると、各々のスタイルで束の間の休息を過ごした。

 ある者は毛布にくるまって、じっ、と座り込み、またある者は少しでも体力をつけようと炊き出しのパンとスープを口いっぱいに頬張った。昨日からの連戦で装備の消耗著しいアイリスはその手入れに没頭し、オデットは恋人の作業を手伝っていた。

 そして、オディールはといえば――――――。

 オディールは、身体を休めるでも武具の手入れをするでもなく、茫然自失の体で天幕の出入口から空を眺めていた。

 もう、かれこれ三〇分もの間、同じ姿勢を保ったまま空を見上げ続けている。

 膝を抱えて座るその胸元には、いまとなってはトティラ将軍の遺品とも言えるドラゴニック・アーマーが抱かれていた。過日の戦闘で、〈求め〉のエトランジェに斬割された右の肩当ては黒く煤けており、それに触れた彼女の頬も黒く汚れていた。

 夜空では数多の星々が、我こそが一等の綺羅星だと主張しているかのように煌々と照り輝いている。有限世界に星の運行を読む文化はない。ゆえに、龍の大地に生きる民達は、よっぽどの機会でもなければ夜空を見上げることなど稀だ。

 そんな数少ない機会を得たオディールは、しかし、夜空に浮かぶ綺羅星達を見ていなかった。

 そればかりか彼女は、空を仰ぎながらも、空のどこにも視点を置いていなかった。

 かといって、何か見たいものがあって視線を泳がせているわけでもない。目線は一方向へと定められている。しかし、その目線こそが、どこか虚ろだった。遠い夜の暗闇に向けて、ただ漠然と視線を注いでいる。まるでこの世に存在しない何かを探し求めているかのような眼差しだった。

 実際、いまのオディールが本当に見たいと願う光景は、龍の大地のどこにも存在していなかった。

 いまの彼女が本当に会いたいと願う人は、あのはるか彼方の天空の、さらに向こう側へと行ってしまった。

 スピリットの自分には見ることも、行くことも許されない、天上の楽園だ。

 人間だけが死後、そこに住むことを約束されている光の世界……ハイペリア。炎に飲まれたオディールの想い人の魂は、いまはそこにあるはずだった。

 ――閣下……あなたはいま、そこにいるのですか?

 己には見ることの出来ない楽園の光景を脳裏に描きながら、オディールは胸の内で呟いた。

 トティラ将軍戦死の報を耳にして四半刻、次々と溢れ出る涙をせき止め、ようやく平静を取り戻した彼女は、漆黒のカンパスに亡き将軍の横顔を思い浮かべていた。

 もう二度と戻ることのない、楽しかった過去を懐かしんでいるわけではない。むしろその逆で、後ろを振り返る気持ちは、いまやオディールの中に存在していなかった。

 僅かに十数時間前までは見られた壮健な姿は、もう見ることが出来ない。そう認めた上で、彼女は思い出の中の将軍に切々と語りかけた。

 現実には存在しない厳しい面魂に、かける言葉があった。伝えたい言葉があった。悲しみを乗り越え、前へ進むために、告げなければいけない言葉があった。

 ――閣下、今夜はあなたに、伝えたいことがあります。

 脳裏に描いた将軍は、何も言わずに黙って自分の話を聞いてくれた。

 あのリーザリオ軍事演習の朝、ジャネットに向けていた微笑みを今度は自分に向けて、老将はオディールの言葉を待った。

 僅かな逡巡の時間を挟んで、オディールは叫んだ。

「……閣下、どうやら私は、あなたを愛していたようです」

 胸の内でのみ紡がれるはずの言葉だった。しかし、知らぬうちに口が動いていた。自らの唇からこぼれ落ちた小さな呟きが、彼女の耳膜を震わせた。

 背後で休息を取る同僚達が、ぎくり、と反応してこちらを向く。オディールは、構わず続けた。

「カーネル様に指摘されて、ようやく気が付きました。私はやはり、閣下のことを愛していたみたいです」

 カーネル歩兵大隊長は言った。自分の抱えていた将軍への好意は、紛れもなく愛だった、と。他人から、はっきり、と指摘されてようやく気が付いた。自分でさえ気付けなかった自分の想いの正体を、自覚することが出来た。

 初めて会った時の第一印象は、「恐い方」だった。三年前、祖国ダーツィを離れたオディールが第三軍に配属されたその日、彼女は、当時五九歳の老将と初めて対面した。猛将スア・トティラ。三〇年前の鉄の山戦争を戦った王国の英雄にして、生粋の妖精差別主義者。岩石をそのまま削ったかのような相貌にはスピリットに対する嫌悪の感情がありありと滲み出ており、訓辞の最中、オディールは生きた心地がしなかった。あの厳しい顔で、じろり、と睨みつけられると、身体の芯までもが震えてしまった。訓辞の内容など、ほとんど頭に入らなかった。

 その印象が変わり始めたのは、程なく経ってからのことだった。オディール達がリーザリオに赴任して、最初の大規模演習があった日のことだ。演習を無事に終えた第三軍の全将兵を集めて、トティラ将軍は最後の訓示を垂れた。例によってその内容はほとんど頭に入らなかったが、最後に口にしたフレーズが印象に残った。

『……古来より、強き軍隊に不可欠なものは、強き団結である。一人の勇士がその日の戦闘を決するのではない。勇敢な部隊が、勝利をもたらすのだ。儂は貴公ら第三軍の将兵を家族と思っておる。儂は貴公らの父である。貴公らも儂を父と思え。そして戦友を兄と慕え。後任者を弟とせよ。さすれば皆は幸せになる。自分のことを考えるな! 戦友のことを考えよ』

 トティラ将軍はそう言って、演習に参加した将兵一人々々と握手を交わしていった。強き団結を育むために、軍司令自らが前へと踏み出し、手を差し伸べたのだ。

 勿論、軍の規模が小さな有限世界の軍隊であればこそ出来ることだ。それでも四〇〇人を超す兵達と握手を交わしていくとなると時間がかかる。軍司令は多忙な立場だ。僅かな時間とて惜しいはず。その僅かな時間すらも割いて、トティラ将軍は兵達の中に割って入っていった。

 オディールを始めスピリット隊の面々は将軍の行動に面くらいながらも、自分達のもとにはやって来るまいと考えていた。

 スピリットと進んで握手を交わしたいなどと思う人間はいない。ましてや、トティラ将軍はガチガチの妖精差別主義者だ。人間の将兵全員と握手を交わした時点で、踵を返すのは容易に予想出来た。

 しかし、スピリット達の予想は裏切られた。

 第三軍に所属する全正規兵との握手を終えたトティラ将軍は、スピリット隊の前に立つと、露骨に嫌そうな表情を浮かべながらも、「……よくやった」と、労いの言葉とともに右手を差し出してくれた。

 オディールは差し出された右手を、おそるおそる、握った。巌のような手だった。それに、大きい。所々節くれだっており、掌は数々の軍務に就いてきた証というべきタコで硬くなっていた。オディールが力を篭めると、トティラ将軍も力を篭めた。逞しい腕だった。

 「恐い方」は、「頼れる男」へと変わった。妖精差別主義者でありながらスピリットとも積極的に接していこうとするその態度は、オディールの目にとても貴い存在に映った。少なくとも彼女は、自分からスピリットと人間の間にある溝を埋めていこうとする指揮官を知らなかった。

 「頼れる男」が「愛しい人」へと変わったのは、いつからだったろう。好意を抱き始めたという意味では将軍のサモドアへの帰郷に付き合ってからとも言える。しかし一方で、想いを自覚したという意味ではカーネルに指摘されてからとも言える。

 あの日……オディールがトティラ将軍の帰郷に付き合ったあの日。将軍は自分に、温もりをくれた。血を分けた肉親の温もりを知らないスピリットの自分に、家族の温もりをくれた。あの日から、オディールの中でトティラ・ゴートという人物はいっそう特別な存在となった。

 将軍のことを思うだけで胸は高鳴るようになり、自分も彼の家族になりたい、と心の底から思うようになった。

 彼の妻になりたい、とか、愛人にしてほしい、などという想いはなかった。

 ただ純粋に、オディールはトティラ将軍の側にいたい、と思った。

 それは幼い恋心だった。

 オディールにとって、それは正真正銘の初恋だった。

 生まれたその瞬間から戦うことを運命付けられ、戦争のための道具としての教育を受けた。その過程で、どこかに置き忘れてしまった感情が、いつしか彼女の心に芽生え始めていた。

 スピリットとて女だ。眠っていた女の本能が、つがいを求める本能が、本能から生み落とされた幼い恋心が、彼女の中で熱いうねりとなっていた。

 もっとも、オディール自身がその感情を恋慕の情だと自覚したのは、つい先ほどのことだったが。

「……ふふっ」

 特に可笑しくもないのに、自然と口元の筋肉が緩んだ。

 失ってから好意に気付くなんて、なんてベタな女なんだろう、と自嘲気味に微笑む。

 オディールは夜の涼しげな空気を吸い、言葉を吐き出した。

 堰を切ったように、次々と、切々と言の葉があふれ出した。

「スピリット嫌いの閣下には迷惑この上ないことなんでしょうね。でも、私は、あなたが好きです。大好き、なんです。閣下が妖精差別主義者だということはよく知っています。でも、この想いを、止められないんです。あなたのことを考えると、とても楽しい気持ちになります。あなたのことを思うと、とても嬉しい気持ちになります。……あなたのことを思うと、少しだけ寂しくて、でも、幸せで…………ごめんなさい。私、何を言っているのか、分かりませんよね」

 胸元のドラゴニック・アーマーを強く抱き締め、オディールは、上手く思考をまとめられない自分自身へ呆れた溜め息をひとつついた。それから、涙をひとつ、こぼした。

 記憶の中のトティラ将軍は、変わらぬ微笑をたたえていた。

「……とにかく、お伝えしたいことだけを言います。トティラ将軍、私はあなたのことが好きです。オディール・緑スピリットは、あなたのことを愛しています。いままでも、そして、これからも。だから……」

 オディールは、エメラルド色の双眸に強い決意をたたえて呟いた。

 夜空を見上げるその眼差しは、もはや虚ろではない。その視線は、はっきり、とした目標を見据えていた。

 冷たい炎が、瞳に灯っていた。

「私は、あなたを殺したラキオスを憎みます。戦友を殺したラキオスを、恨みます。ラキオスをこの手で、叩き潰します。そして、あなたが未来を託したバクシー様を、守ります」

 だから、見ていてください。私には決して行くことの出来ない、その天上世界から。

 最後の呟きは、音をなさなかった。

 オディールの想いは、彼女の胸の内だけで消化された。

 エメラルドの視線が、夜空から、地平へと下がる。

 オディールらの天幕に、カーネル歩兵大隊長が歩み寄ってきた。背後に、憔悴した様子のバクシーの姿がある。どうやら、例の新たな命令とやらを伝えにきたらしい。

 手の甲で、目元を拭った。これから守らねばならないバクシーに、涙は見せられない。

 オディールは天幕を出て大隊長らを出迎えた。

 その口元には、暗い冷笑が浮かんでいた。

 

 

――同日、夜。
 
 

 天幕にやって来たカーネルとバクシーの目的は、案の定、アイリスら外人部隊のスピリット達に新たな命令を下すことだった。

 命令の内容は、新しい任務に従事せよ、というもの。そしてその任務の内容は、これからサモドアへと向かうバクシーの護衛だった。

 まずバクシーが、つい一時間前に終わったばかりのナルセス第二軍司令との会談の内容についてみなに語った。トティラ将軍の戦略を伝えるには伝えたが、ナルセス司令からは色良い返事はもらえなかったこと。自分の一存では決断しかねるとし、軍司令がバクシーにサモドアへ行くよう打診したこと。バクシーがそれを受け入れたこと。そのための護衛のスピリットを第三軍から捻出せねばならないこと。それらの申し出を受け入れた代わりに、第二軍から毛布や糧食を提供してもらえるよう確約を取ったことなどを伝えた。その後を、カーネルが引き継いだ。

「リモドアからサモドアまでは遠い。整備された街道を通っても一〇〇キロの道程だ。この間には、敵間諜が待ち伏せるには最適なポイントがいくつもある。例えば、リモドアから南に二〇キロの地点に広がる森がそうだ。音を殺し、息を殺し、臭いさえも殺した上で木々の陰に潜んだ弓兵の狙撃から身を守ることは難しい。

 ……先のリリアナ・ヨゴウ暗殺作戦の失敗が響いている。情報部の戦闘部隊が壊滅していることから、スパイ狩り専門の部隊を編成出来ないでいる。ラキオス密偵の妨害工作を止める有効な手立てがない。護衛のスピリットは、絶対に付けねばならん。

 トティラ閣下の悲願を叶えるためにも、バクシー様をなんとしてもサモドアへ無事送り届ける必要がある。貴様らも疲れているところすまなく思う。が、貴様ら五体の中から、護衛のため一個小隊を編成してほしい」

「……了解しました」

 生き残った外人部隊を代表して、アイリスが頷いた。

「断る理由も、躊躇う理由もありません」

「バクシー様は王国の未来のため、必要なお方だ。絶対に死守せよ」

「最精鋭で臨みます。……オデット、オディール、この三人でいくぞ」

「分かりました」

「ええ、分かったわ」

 アイリスの言葉に、頼れる戦友達は寸分の躊躇いも、迷いも見せずに頷いた。

「……ちょうど私も、サモドアへは行きたいと思っていたの」

 ドラゴニック・アーマーを抱えながらオディールが呟いた。サモドアにはトティラ将軍の生家がある。そして、オディールも会った家族がいる。

 アイリスは親友の呟きの真意は、その辺りの事情と関係しているのではないか、と考えた。

「移動にはリーザリオ脱出の際にも使った馬車を一台用意する。出発は夜間の奇襲を避けるため明朝とする。……それでよろしいですね、バクシー様?」

「ええ。……すべて、大隊長のおっしゃる通りで構いません」

 バクシーが気のない返事で言った。

 カーネルは一瞬、複雑な面持ちとなったが、すぐに表情を引き締めて言った。

「明日のために英気を養っておけ。……明日からは我々は、覚めることのない悪夢を見ることになる」

 

 

――聖ヨト暦三三〇年、シーレの月、赤、ふたつの日、昼。
 
 

 リーザリオから脱出した第三軍の残存兵力がリモドアに到着したその翌朝。

 午前六時、バクシー・アミュレットと護衛のスピリット一個小隊を乗せた馬車は、一路サモドアを目指し、リモドアを発った。

 休憩を挟みながら馬車に揺られること六時間、一〇〇キロメートルの道程をクリアした一行は、ちょうど昼飯時にサモドアに到着した。

 王都に到着したバクシー達は、早速その足でアイデス王のいる王城へと向かった。

 事前のアポイトメントのない、突然の訪問だ。通常、王宮への登城にはいくつもの手続きを踏まねばならないが、なんといっても事が事だ。バクシーもスピリット達も、非常時ということで宮殿へと向ける足行きに迷いや躊躇いはなかった。

 突然の訪問者達に対し、城門を守る番兵らは、当然、持っていた槍を突き出した。

 スピリットを三体も引き連れているバクシーが軍の関係者だということは一目で分かったはずだが、職務に忠実な警備兵の追及に容赦はなかった。

 バクシーは部隊長と二人きりで話がしたい、と番兵らの中でも最先任の兵を呼んだ。

 部隊長の証として、他の番兵よりも一等上級のハーフ・アーマーを身に付けた彼はマリウス・サックス。大振りの目と鋭い鷲鼻が特徴的な男で、バクシーとは過去に二度面識があった。

 バクシーはマリウスに、トティラ将軍の訃報とリーザリオ陥落の報を伝えた上で、陛下と面会したい旨を口にした。

 バクシーの舌が滑らかに動くにつれて、水滴型の兜の下にある顔面の筋肉が硬化していった。

 事態を重く見たマリウスは、バクシーに静かに囁いた。

「……すぐ、然るべき方々に報告いたします」

「頼む」

 マリウスは黙礼すると王城の中へと引っ込んでいった。

 それから一五分。

 顔面を硬直させたままのマリウスが戻ってきた。

 彼はバクシーに用件だけを告げた。

「謁見の間にて、陛下がお待ちです」

 

 

――同日、昼。
 
 

 国王への拝謁を許されたバクシーとスピリット達は、早速、謁見の間へと足を運ぶことにした。

 通常、スピリットが謁見の間へ入室することは許されていないが、いまは平時でなく有事の時だ。国王は実際にラキオス軍と交戦したアイリス達にたいへんな興味を抱いたらしく、四人は緊張の面持ちで案内役のマリウスの先導に従った。

 謁見の間にはアイデス王を始めバーンライトの主要な重臣達が集まっていた。国家の舵取りを任された最高機関のお歴々の顔は、この大事に際して疲労困憊の色を濃くしていた。

「突然の訪問にも拘らずお顔を拝見出来、たいへん恐縮に思います」

 バクシーとスピリット達は下座に着くと、国王とその廷臣達に恭しく頭を垂れた。

 トティラ将軍の付き添いで何度か王宮には足を運んでいるバクシーだが、アイデス王と直接の面識はない。おそらくはこちらが一方的に向こうの顔を知っているというくらいの関係にすぎなかった。

 アイデス王はバクシーの口上に「うむ」と、頷いた。芸術王の方も、バクシー・アミュレットという人物についてはトティラ将軍の口から何度も聞かされていたが、実際に顔を見るのは初めてのことだった。

「斯様な状況ゆえ、形式張った挨拶はなしにしたく思う。まず、単刀直入に訊ねたい。トティラ将軍が戦死し、リーザリオが陥落したとのことだが、それは真か?」

「はい」

 バクシーの淀みのない返答に、国王の側にいた廷臣達がざわついた。

 アイデス王はその喧騒を無視して、

「詳しく聞きたい」

と、バクシーを促した。

 バクシーは頷いて、リーザリオ陥落までの詳細な経緯と、トティラ将軍の戦死について語った。老将軍が失脚覚悟で実施したリーザリオ軍事演習に端を発する緒戦の敗北についても、事細かに説明した。

 すべての話を聞き終えたアイデス王は俯き、しばしの間瞑目した。

 南方異民族の血統特有の浅黒い肌を持つこの王は、若い頃にトティラ将軍から軍事の手ほどきを受けている。将軍に対する信頼は人一倍厚く、その戦死を静かに嘆く様子は、バクシーの胸を苦しくさせた。

「……そうか。トティラは、最期の瞬間まで余と、わが国の未来を思ってくれていたのだな。礼を言うぞ、バクシー・アミュレット。余に、将軍の最期を教えてくれたこと、たいへん感謝する」

「陛下、失礼を承知で発言させていただきたく思います」

 バクシーはさらにトティラ将軍の戦略計画について告げた。

「現状の第三軍の戦力ではリーザリオを守りきることは不可能と判じたトティラ将軍は、リモドアまで戦線を一時下げ、同地に戦力を集中させてこれを迎え撃つ方針を考えました。王国全軍の戦力をリモドアに集結させるのが閣下の最上の理想ですが、第二軍と第三軍残存兵力がコンバインするだけでも、かなりの防衛力が期待出来ます。ですが、第二軍のナルセス将軍は、陛下の許可なしに勝手なことは出来ないと、残存兵の正式な受け入れを保留しております。

 第三軍の将兵は連戦で疲れております。将軍閣下の戦略を採択する如何に関わらず、せめてこの合流だけでも、認めてはいただけないでしょうか?」

「ううむ……」

 アイデス王は渋面を浮かべ、即答を避けた。

 王政国家のバーンライトでは、国王は政治の最高権力者であると同時に、軍の最高指揮官でもある。王国軍の人間はみな彼の命令に逆らえないが、それだけにその発言には常に重大な責任が伴うこととなる。国王の決断次第では、王国九万の民が路頭に迷うかもしれないのだ。即断即決を避けようとするのは当然の配慮だった。

 そもそも、リーザリオ軍事演習に始まるトティラ将軍の戦略計画自体、正式な上奏という形を取っていない独断である。いくら国王自身が信頼しているといっても、これに対し無条件で頷くのは憚られた。他の者への示しがつかない。

 また、軍同士を合体させるとなれば、指揮権をどうするかなどの諸問題が山積みとなるのは必至だ。軍の主力を務めるのはどちらの軍出身の部隊になるか、といった現場レベルでの縄張り争いも避けられまい。そうした諸問題への具体的な対策なしに軍同士の合体を指示したところで、実戦で上手く働けるはずがなかった。

 過去の戦例でいえば、島原の乱の鎮圧に当たった幕府軍がそうだった。この時、幕府は二回に分けて追討軍を派遣しているが、いずれの場合も大損害を被った。

 一般的に島原の乱は、天草四郎時貞を総大将とする切支丹信徒の反乱として知られている。しかし、実際にはそのような単純なものではなかった。

 寛永一一年(一六三四年)からの飢饉にも拘らず、島原藩藩主松倉勝家は、先代より継承した切支丹迫害と領民虐待の政策に拍車をかけ、厳しい年貢の取立てを変わらず実施し続けた。支払えない者には役人が拷問を加え、体力の減衰していた領民の間には死者が続出した。かくして、島原半島に一揆発生の条件が整った。

 西国には大阪冬・夏の陣を逃げ延びた明石掃部隊出身の切支丹信徒約五、六〇〇〇とその子孫が潜伏していた。迫害政策を受ける切支丹信徒達と、死んだ方がましと考えている領民達が合流した結果、一大反乱へと発展していたのである。すなわち島原の乱とは、宗教的内乱であると同時に、農民一揆でもあった。

 島原藩はすぐに鎮圧部隊を送った。こうした内乱は、初期の段階で大兵力を送り、速やかに鎮圧するのが常道だ。島原藩の対応はその原則からいえばもっともな行動だったが、朝鮮出兵、関ヶ原合戦、大阪の陣を経験した一部の切支丹信徒に鍛えられた一揆勢力は精強で、逆に島原城を包囲するほどの勢いを見せた。

 一揆勢はさらに、以前から天草大矢野で密かに救世主と噂されていた益田四郎時貞を総大将に頂くと、その活動を島原藩だけでなく唐津藩の領地・天草島へも移していった。唐津藩は増援を重ねてなんとか天草島を奪還したものの、一揆軍は主力を残したまま島原島へと戦線を下げた。その兵力は四万。

 事態を重く見た幕府は細川藩や鍋島藩といった大藩を含む近くの諸藩に出兵を命じた。第一回の追討軍の規模は三万人に達し、その追討使には板倉重昌が任命された。三河額田一万五〇〇〇石の藩主で、この小藩出身の追討使が、有力な大藩が主力を務める連合軍を指揮するという問題が第一回追討軍の敗北の原因となった。すなわち、大藩の大名達は小藩出身の板倉を舐めきっており、命令無視が相次いで起こったのだ。幕府は板倉に絶対的な権力を与えぬまま派遣し、また命令無視のことを知ってもほとんど対策を講じなかった。

 一二月一九日の第一回総攻撃、寛永一二年元旦の第二回総攻撃の両方において、抜け駆けが起こった。特に、二回目の総攻撃では幕府側の死傷者四〜五〇〇〇に対し、一揆軍は一〇〇程度に過ぎない大惨敗となった。追討使の板倉自身も討ち死にした。

 幕府は派遣軍総司令官の討ち死に吃驚仰天し、九州全土の大名に動員令を掛けた。一二万五〇〇〇もの兵力が集まり、追討使には老中の松平信綱が任命された。信綱はありとあらゆる手段をもって一揆の鎮圧に当たった。その中には、オランダの東インド会社に依頼して、敵城を砲撃させる、という手段さえあった。

 そうした経過を経て、最終的に一月二八日に総攻撃が決まった。しかしここで、信じられないことにまたしても抜け駆けが起こった。内乱を通じての抜け駆けの常連鍋島藩が、前日のうちに攻撃を始めてしまったのだ。鍋島藩の予期せぬ行動に追討軍は引きずられ、準備不十分なまま総攻撃が開始された。幕府軍はなんとか一揆の鎮圧に成功したが、損害は一万五〇〇〇にも及んだ。大損害の原因の多くは、追討軍内の軍規の緩みに求められた。

 余談だが、島原の乱で四万近い兵力を擁した一揆勢力は、一名の裏切り者を除いて全員が討ち死にした。通常の戦闘であれば、少なくとも〇・五〜一パーセントが投降したり、恐ろしくなって逃げ出してしまうものだが、島原の乱の場合は誰一人投降しなかった。

 こうした投降者の少ないことは、宗教戦争の恐るべき特徴である。宗教が背景にある蜂起では、死んだとしても極楽あるいは天国に往けるから、信徒達も後顧の憂いなく戦うためだ。そのため、宗教戦争では一般に投降者が少なく、損害も大きくなる。

 閑話休題。

「……余の愛する臣民が飢え、寒さに震えるのはたいへん遺憾である。よろしい。第二軍司令へはこれから余直筆の命令書をしたためよう。但し、これは第二軍と第三軍の合体を示すものではない。あくまで第三軍の残存兵力の受け入れを、第二軍に求める形とする」

 アイデス王はそうした問題も加味して、あくまでも軍同士の合体ではなく、第二軍が第三軍の残存兵を受け入れる、第二軍が救いの手を差し伸べる、という形にこだわった。

「第二軍と第三軍の合体及び、第一軍をリモドアに差し向けるかどうかの決定は、後日判ずるものとする」

「……承知いたしました」

 バクシーは恭しく頷いたが、内心の不満は否めなかった。

 為政者として慎重な判断を下したいその姿勢は分からなくもないが、現場に立つ身としてはいち早く結論が欲しいと思う。自分達軍人は一分一秒の判断・命令の遅れがそれだけ命を縮めてしまうのだから。

 バクシーは内心の忸怩たる思いもあって、話題を変えることにした。ナルセス将軍から申し付かってきた、もう一つの用件についてだ。

「ところで陛下、現在、バーンライトの各都市は通信障害に陥っておりますが、これについて王都ではどういった結論が下されているのでしょうか?」

「うむ。情報部では、国内に潜伏した敵間諜の妨害工作ではないか、と考えているそうだ」

 アイデス王はこの場にはいない情報部長官の顔を思い浮かべて言った。

「実際に敵間諜を捕らえた報告や、目撃情報はまだ挙がっていないが、情報戦や特殊作戦の専門家達の見解だ。おそらくそれで間違いないだろう」

「対策は?」

「情報部の方でスパイ狩りが出来ればよいのだが、先のリリアナ・ヨゴウ暗殺計画の失敗が響いておる」

 アイデス王は、チラリ、と隣に控えるラフォス王妃を一瞥した。リリアナ・ヨゴウ暗殺計画はもともと情報部からの発案で、情報部長官との不義が噂されるラフォス王妃が強力に推進し、妻の言葉に折れたアイデス王がゴー・サインを下した、という経緯があった。

「肝心の敵間諜を排除する有効な手立てがない以上、いまはまだ通信兵に護衛を付けるといった消極策しか取れぬ。情報部からは、この状況を利用して偽の命令書を持たせた通信兵をわざと捕まらせる、という案も提出されたが、そも友軍とのまともな連絡線が確保出来ぬ現状では、我が軍にそんな余力はない」

 すなわち結論は現状維持、ということか。これはしばらくスピリット戦力のやりくりに苦労しそうだ。バクシーは王には気付かれぬよう小さく溜め息をついた。

「そなたらから話すことは以上か? では、今度は余からそなたらに訊ねたい」

 アイデス王はそう言って背後のアイリスらを見た。

「アイリス・青、オディール・緑、オデット・赤の三人であったな? 全員、外人部隊のスピリットだと聞く。そのことに相違ないか?」

「はっ」

 三人を代表してアイリスが首肯した。

 アイデス王が続ける。

「ではそなたらに訊ねたい。そなたらはラキオスのスピリット達、そしてエトランジェと実際に矛を交えたそうだな? どうであった? ラキオスのスピリットの練度と、噂のエトランジェの実力は?」

 アイリス達は顔を見合わせた。目線だけの相談を交わし、代表でアイリスが口を開いた。

「我々の主観となりますが、それでもよろしいですか?」

「構わん。申せ」

「では、無礼を承知で正直に申し上げさせていただきます。ラキオスのスピリットの練度は、王国軍の平均的なスピリットのそれと比べても遜色ない……いえ、むしろ王国軍のスピリットよりも優れておりました」

 国王の側に並ぶ廷臣達が、またざわめいた。

 アイデス王も、露骨な狼狽こそ口にしなかったが、かなりの動揺を受けた様子だった。

 無理もない。現場のスピリット……それも経験豊富な外人部隊の口から、わが国の妖精は敵国に比べて劣っています、とはっきり告げられたのだ。ショックは隠しきれまい。

 アイリスは国王達の反応を無視して続けた。

 主観にまみれた意見とはいえ、正確な報告こそが自分の任務だ。いちいち彼らの反応に構って言葉を選ぶのは、むしろ職務怠慢だろう。

「特に、ラキオスの蒼い牙と謳われるアセリア・青スピリット。私は実際に剣を交えたわけではありませんが、相当な実力者と思われました。彼女一人で王国軍の平均的なスピリット三人分のはたらきができましょう」

「ふむ。余もアセリア・青スピリットの活躍は聞いている。しかし、それほどのものだったとは……して、エトランジェの方はどうだ?」

「ラキオスには現在、二人のエトランジェがおります」

 アイリスは背後のオディールを見た。

「守護の双刃を自称するリュウヤ・サクラザカなるエトランジェと、伝説の〈求め〉と契約を交わしたエトランジェの二人です。私はこのうちリュウヤの方と二度、交戦しました。後ろのオディールとオデットは、その両方と交戦した経験があります。ですから、〈求め〉のエトランジェに関しては、私よりもむしろオディールらに聞いた方がよろしいかと思われます」

「あい分かった。では、まずオディール、〈求め〉のエトランジェはどうであった?」

 アイデス王の使命を受け、オディールは緊張した面持ちで顔を上げた。

「一見したところ剣技は未熟、戦いに身を投じる覚悟もまだ定まっていないらしく、その太刀筋には迷いが多く見られました。ですが、扱う神剣の力には目を見張るものがあります」

 オディールはいまや左の肩当てのみとなったドラゴニック・アーマーを撫でた。

「陛下は、ドラゴニック・アーマーという防具をご存知ですか?」

「……トティラ将軍から聞いたことがある。たしか、ゴート家の家宝で、龍の骨を利用した防具ではなかったか?」

「その通りです。そして、いま私が左肩に付けている肩当てがそれです。長い年月の中でほとんどのパーツが失われ、左右の肩当てだけが残りました」

「左右? しかし、そなたの肩にあるのは?」

「はい。左の肩当てのみです。右側は、〈求め〉のエトランジェに破壊されました」

 オディールはその時の状況を詳しく説明した。

 アイリスが追い詰めた守護の双刃を助けようとした〈求め〉のエトランジェ。その進撃を阻むべく、オディール達五人のスピリットはその前に立ちはだかった。〈求め〉のエトランジェは道を塞ぐ自分達に八双からの横一閃を、一度だけ振るった。その、たった一度の一刀で、五体いたスピリットのうち三体が消滅し、自分もドラゴニック・アーマーの片方を破壊されるというダメージを被った。あの男の太刀筋が特に冴え渡っていたわけではない。あまりにも圧倒的な、〈求め〉の攻撃力だった。

 〈求め〉のエトランジェが一撃で三体のスピリットを瞬殺した事実を知って、アイデス王は唸り声を発した。

「流石は第四位の神剣といったところでしょうか。少なくともいまは、エトランジェ自身はさして脅威ではありません。ですが、〈求め〉そのものの力は、危険だと判断します」

「左様か……。では、もう一人のエトランジェについてはどうか?」

「「危険な男です」」

 アイリスとオディールの声が重なった。

 アイデス王が、思わず目を丸くする。

 アイリスもオディールも歴戦の外人部隊のスピリットだ。その二人が、迷わず危険な男と判断した。そういえば生前のトティラ将軍も、守護の双刃を名乗るエトランジェのことを気にかけていた。いったい、リュウヤ・サクラザカなるエトランジェは、如何なる人物なのか。

 顔を見合わせた二人だったが、やがてアイリスが代表して話すこととなった。

「所有する神剣は第七位と思われる細身の刀剣が二振。それを操る剣技は凄まじく、本人も体力旺盛にして場数慣れしており、一個の戦士としては極めて強力です。また、戦闘指揮官としての実力も高く、魔龍討伐作戦や此度の戦で垣間見えた大胆かつ奇抜な作戦は、並の指揮官では打ち破ることはおろかその狙いを見破ることさえ不可能かと存じます。そして、なにより我々がこの男を危険と判断するのは、その人格にあります」

「人格?」

「はい。この男は、はっきり、と申し上げて異常な人格の持ち主です」

 アイリスは、きっぱり、と断言した。

 その背後で、オディールとオデットも同意とばかりに頷いた。

「この男は、戦いを楽しんでいます。勿論、私も戦士ですから、戦いに際して心躍る自分は常にあります。ですが、その点を踏まえたとしても、この男の戦いを望む心は異常です。戦場で言葉を交わし、刃を重ねて実感しました。この男の闘争心は、常軌を逸しています」

 アイリスの脳裏に思い浮かんだのは、二度の戦闘の両方で見せた柳也の笑顔だった。

 自分の命を危険に晒してもなお、戦いを望んだあの笑顔。戦うことが楽しくてたまらないと公言して憚らないあの笑顔。自らの痛みすらも快楽と感じ、戦いを望んだあの笑顔……。思い出すだけで、身の毛がよだった。身体が震えた。歴戦の勇気が凍えた。

「そしてなにより危険なのは、あの男自身が自分のそうした人格を認め、認めた上で戦いに臨んでいることです。……あの男は、危険です。ある意味では〈求め〉のエトランジェ以上に、危険な存在です」

 アイリスは硬い声音で言い切った。

 ダーツィ大公から唯一アウステートの称号を授かったスピリットの力強い断言に、アイデス王や廷臣達ばかりか、バクシーさえも顔を硬化させた。

 アイリスは危機感を滾らせた口調でさらに続けた。

「大袈裟と思われるかもしれません。馬鹿なスピリットの突飛な妄想と思われるかもしれません。ですが、奇妙な確信があるのです。あの男は危険な存在だ。あの男を生かしておけば、いずれ戦火は大陸全土に飛び火することになる、と」

 

 

――同日、夕方。
 
 

 バクシー達が謁見の間にてアイデス王に拝謁出来た時間は、僅か一時間に過ぎなかった。

 結果的に突然の訪問になってしまったとはいえ、これはあまりにも短すぎた。

 結局、一時間のうちで決定した事といえば、第二軍司令宛に第三軍残存兵の受け入れを要請した命令書を送ること一つだけで、その他の第二軍と第三軍の合体の件や、第一軍を動かすか否かについての決定は、第一軍司令とも相談した上で近日中に通達することとなった。つまりは、結論の先送りだ。

 軍人として歯がゆい思いを抱えたまま謁見の間を辞したバクシー達は、ついで飛ぶように市街地のゴート家へと向かった。トティラ将軍の家族に、将軍の訃報を伝えるためだ。

 バクシーと三人のスピリットを快く出迎えたのはサラ婦人だった。

 彼女は顔見知りのバクシーを居間に通した。

 バクシーはいまにも泣き出しそうになる己を必死に律し、テーブルを挟んでサラと向かい合った。婦人の隣にはトティラの娘、レフィーナの姿もある。

「申し上げなければならないことがあります。心の準備をしておいてください」

 ゆったり、としたソファに座ったバクシーは、背筋を伸ばして言った。

 にこやかだったサラの顔が、瞬時に強張った。レフィーナも同様だ。

 やや間を置いて、バクシーは口を開いた。

「トティラ将軍が戦死なされました」

 サラは一瞬、ふらっ、と横に倒れそうになった。慌てて支えたレフィーナだったが、その顔は青ざめていた。

 婦人とはトティラと同じくらい付き合いの長いバクシーは、顔をくしゃくしゃにした。

 元軍人のサラ婦人は気の強い女性で、気に入らないことがあれば夫のトティラ将軍にも構わず意見した。威勢の良い啖呵を前に、猛将と名高い将軍が恐縮していた場面も一度や二度ではない。

 バクシーにとってサラは強い女性であり、彼女のこんな姿を見るのは初めてのことだった。

 婦人は、やがて娘に支えられながら頭を垂れた。

「ご連絡、ありがとうございます」

 淡々と、それだけを口にする。

 戦死の時の詳しい様子や、どうしてそうなってしまったのか。いったいどこの勢力と戦って死んだのか。本当はもっと聞きたいことがあるはずだが、サラはそれをしなかった。軍人の妻として、彼女は軍機の重要性をよく理解していた。余計なことは訊ねない。ただ、粛々と事実のみを噛み締めた。

 頭を下げた瞬間、サラの目元で光った何かが、重力に従い落下した。大粒の涙がテーブルを濡らした。

 

 

 戦死報告から一時間ほどが経った。

 ようやく落ち着きを取り戻したサラ婦人は、バクシー達に自邸での宿泊を勧めた。

 サモドアへの来訪は急なことだったため、バクシー達は本日の宿を用意していなかった。これがバクシー一人ならば、サモドアには彼の実家があるからそちらに出向けば済むことだったが、あいにく、今回の帰郷ではスピリットも随伴している。それも三体も。べつにスピリットなのだからわざわざ部屋を用意する必要はなかったし、なんなら馬小屋を貸してもらえればいい話だったが、バクシーはそうしなかった。第三軍のスピリット達はここのところ働き詰めだ。そんな彼女らに、せめてまともに雨風凌げる場所を提供したい、と彼は考えていた。

 そんなバクシーの思いを知ったサラは、彼らに快く屋敷の部屋を提供した。ゴート・ファミリーは大家族だったから、屋敷には十分な部屋数があった。

 サラとレフィーナは、バクシー達に夕食も勧めてくれた。

 バクシーもスピリット達もこの二、三日はまともな食事を摂っていなかった。

 軍務の詳細を知らないはずのサラだが、元看護兵としての勘か、四人の顔色を見るなりすぐその事実を察したらしい。

 彼女はバクシー達の返事も聞かずに、「今夜は精のつく物を作らないとね」と、呟き台所へと向かった。

 残された四人は、レフィーナから部屋に案内された。

 バクシーが案内された部屋は、生前トティラ将軍が使っていた書斎だった。

 夫婦の寝室は勿論別にあるが、部屋には机と本棚の他にも仮眠用のベッドが置かれていた。書架には、軍事以外にも政治、経済といった様々な分野の本が並んでいた。

「本当はちゃんとした部屋を用意してあげたかったんですけど」

「いえ、構いません」

 レフィーナの言葉に、バクシーはかぶりを振った。

 鼻腔いっぱいに、かび臭い書斎の空気を吸う。

 そこには、トティラの匂いがあった。バクシーは自らの目で、耳で、鼻で、それを感じた。この俺を、ケカレナマの少年大会で優勝して天狗になっていたこの俺を、ここまで引き立ててくれた恩人だった。時に厳しく、時に優しく、おそらくは亡き父以上に愛情を注いでくれた存在だった。

 ――大きな人だったなぁ……。

 バクシーは机に備え付けられた椅子を引いた。深く腰を下ろす。手近なところにあった本を一冊、手に取った。パラパラ、と捲ってみる。ダーツィ大公国の軍人の著作で、ページには所々赤い線が引かれていた。余白の部分に、将軍の字で小さくメモ書きされたページもある。著者が誇らしげに語る戦術に対する賞賛とともに、批判の言葉が殴り書きされていた。荒々しい文字の羅列は、将軍の気性の激しさを表しているようだった。

 はたして、将軍はこの部屋で本に囲まれて何を思っていたのだろうか。

 この本を読んで、何を考えていたのだろうか。

 パタン、と本を閉じて、バクシーはレフィーナを見た。

「この部屋で、結構です。いえ、この部屋がいいんです」

 自分では優しく微笑んだつもりだったが、はたして、彼女にはどう見えただろう。

 レフィーナは悲痛な顔を浮かべて、素早く後ろに回り込んでバクシーを抱き締めた。

 彼女のふくよかな胸が、背中で押しつぶされる。

 背中が、熱かった。

 バクシーは茫然と後ろを振り向いた。

 すぐ間近に、レフィーナの顔があった。

 唇から吐き出された彼女の熱い息が産毛を撫でた。

「大丈夫です……」

 最初、彼女が何を言っているのか分からなかった。

 彼女はもう一度、「大丈夫ですから」と、言った。

「ここには私一人しかいません。……だから、泣いていいんです」

 言われてみて、バクシーは気が付いた。

 そうだ。将軍の死を聞かされてから、自分はまだ、涙の一滴も流していない。

 トティラ将軍が戦死した事実を、カーネル大隊長から聞かされた。

 まず、喪失感が襲ってきた。ついで、悲しみが襲ってきた。辛かった。泣きたいほどに辛かった。

 しかし、将軍を失ったいま、自分に涙することは許されなかった。

 将軍亡き後の第三軍を統率し、彼の戦略計画を実現する義務が、自分にはあった。部下達の前で、ナルセス将軍の前で、はてはスピリットの前で、涙を見せるわけにはいかなかった。泣きたいのに、泣けなかった。一人の時間が持てなかったから、側には常に誰かがいた。決して弱いところを見せられない隣人が。

 レフィーナは、バクシーの態度からそうした事情を察したのだろう。

 だからこそ、彼女はあんな言葉を口にした。

 この場には、自分一人しかいない。だから、泣いても構わない。

 レフィーナの言葉は、救いの言葉だった。

「泣いていいんです。泣けば、きっとすっきりします。泣いて、解決することだってあります。誰彼憚ることなく泣いて、めいいっぱい悲しんだら、今度はその悲しみを、明日への活力にすればいいんです」

 バクシーは椅子から飛び降りた。

 床に膝を着き、彼女の下腹に顔を埋めた。

 緊張の糸が、解ける。

 この場では、自分は、自分の本当の気持ちを偽る必要はない。

 そう思った途端、堰を切ったように涙がこぼれた。

 泣き声はない。

 ただただ、温かく、柔らかな肉に頬を擦りつけ、むせぶように泣いた。

 血が滴るほどに唇を噛み締めた。

 赤い糸を幾条も垂らした唇から、悲しげな呻き声が漏れた。

 レフィーナは無言でバクシーの頭を撫でさすった。

 何度も。

 何度も。

 バクシーを見下ろす女の瞳にも、涙が浮かんでいた。

 

 

「あの……サラ・ゴート様」

 台所で鉄鍋と向かい合うサラの背中に、オディールは躊躇いがちに声をかけた。

 生まれたその瞬間から今日に至るまで、軍の中で育ってきた彼女は、軍人以外の人間と話したことがほとんどない。サラは元軍人だが、どう呼ぶべきか一瞬迷った末に、彼女はお決まりの「様」を付けた。

 ぐつぐつ、とスープを煮込んでいる鍋と向かい合うサラは、顔だけをこちらに向けた。

「あら? あなたはたしか……」

「はい。オディール・緑スピリットです。先日、閣下が帰郷なされた際に、護衛として付いた……」

 オディールは軍隊式に敬礼して言った。

 以前、彼女と会った時は側にトティラ将軍がいた。であればこそ、話しやすかった。

 しかし、今日は側に誰もいない。

 オディールはふとした拍子に萎えそうになる勇気を振り絞って、サラに発言した。

 バクシーは自分の責任を果たした。ならば次は、自分の番だ。

 簡潔に要件だけを告げる。

「サラ様、お話ししたいことがあります。長い話ではありません。一、二分、お時間をいただけないでしょうか?」

「……このままでいいかしら?」

 サラは鍋の中のスープをかき混ぜながら訊ねた。

 オディールは頷いて、左肩のドラゴニック・アーマーの留め具をはずした。

「この肩当てが何なのか、ご存知ですか?」

「ええ。ゴート家の家宝……ドラゴニック・アーマーだったかしら?」

 サラ婦人はオディールの質問に淀みなく答えた。

 どうやら、生前のトティラ将軍から話は窺っているらしい。

 それならば話は早い、とオディールは続けた。

「そうです。以前、閣下からお借りした物を、そのまま使っておりました。……将軍亡き後、この肩当てはご家族に返還しなければならないと思い……」

「いりません」

 オディールの言葉を最後まで聞くことなく、サラは途中で遮った。

 婦人の口から飛び出した予想外の言葉に、緑の妖精は目を丸くした。

 明らかな狼狽を口調に宿して言う。

「は? あ、あの、いらないとは……」

「言葉通りの意味よ」

 サラは鍋の中のスープと向かい合ったまま言った。

「誤解しないでくださいね。べつに、スピリットが身に着けた物だからいらない、ってわけじゃないの。……ただ、いま、その鎧は誰に必要なのか。その鎧を本当に必要としているのは誰なのか、を考えると、きっと、あなたの手元にあった方がいいと、私は思ったのよ」

「で、ですがこれは閣下の遺品では……」

「勿論、そうよ。でも、現実主義者で、合理主義のあの人のことだもの。きっと、あなたの肩にある姿を望んでいるでしょう」

「サラ様……」

 オディールは感極まったように目尻に涙を浮かべた。

 震える声で、彼女はサラに訊ねた。

「私は……私は、また、これを着けて戦ってもよいのでしょうか? 閣下を守れなかった私は……」

「あの人の好きな言葉を言ってあげましょうか? 経験は何よりの宝。失敗は、次に活かせばいい。……その鎧を着けて、あの人の仇を討ってちょうだい」

 サラは、にこやかに微笑みな振り返った。

 細い肩は僅かに震えていた。

 オディールは必死に涙を堪えて、また敬礼した。

「はい。……必ず」

 その胸には、ドラゴニック・アーマーが、しっかり、と抱かれていた。

 

 

「……はふぅ。夕食前なのに貪ってしまった」

 書斎に設けられた仮眠用のベッドに寝転びながら、レフィーナは上気した頬のまま呟いた。

 毛布にくるまったその身はちゃんと衣服を着込んだままだが、着衣には不自然な皺が寄っている。首筋には薄い痣と形容する以外にない腫れが浮き出ており、行為の激しさを物語っていた。ここでいう行為が何を指すかは、読者諸兄の想像に任せたい。

「でもバクシーさん、服を着たままっていうのは、ちょっとマニアックじゃありません?」

「……自分でも驚いています。まさか自分に、こんな一面があったとは……」

 同じくベッドで横になっているバクシーは、レフィーナに背を向けたまま溜め息混じりに呟いた。

 さんざん泣き腫らした目にはもう涙はなかったが、深い懊悩の色が横たわっていた。

 そんなバクシーに密着し、レフィーナはからかうように耳元で囁く。

 もともと仮眠用のベッドは狭く、同じ寝台を共有する二人は、ぴったり、と寄り添っていた。

「私が服、脱いだ方がいいですか? って、訊いたら、『いや、そのままで』ですものね」

「……あまり苛めないでください」

 バクシーは寝返りを打ってレフィーナの顔を見つめた。

 するとレフィーナは、真顔になって溜め息をひとつこぼした。

 バクシーも、真剣な表情を浮かべる。

「それにしても、王国の未来を頼む……か。お父様も無茶な遺言を残したものね」

「無茶でも、やらなければなりません。それが、閣下を守れなかった私の義務ですから」

「こら」

 レフィーナはバクシーの額を小突いた。

「義務、とか言わないの。それから、一人で大仰に考えて、一人で大仰に背負い込まない」

「大仰、ですか?」

「大仰よ」

 レフィーナはきっぱりと言い切って、それから優しく微笑んだ。

「男の人って、何でこう、物事を大きく考えすぎるのかしら。バクシー様は、バクシー様に出来る範囲で、やれることをやればいいの」

「私に、出来る範囲で、やれることを……」

「そう。大体、第三軍を頼む、って言ったお父様だって、一人で軍の事全部を取り仕切っていたわけじゃないでしょう? 人間だもの。一人で出来ることには、限りがある」

 レフィーナはバクシーの唇に軽く口付けた。

 熱を伴うキスは、バクシーに勇気をもたらした。

「バクシー様がやるべきことは、第三軍を指揮することでも、お父様の計画を実現させることでもない。一人でも多くの人と協力して、より良い未来を作っていくことよ。……差し当たってまずするべきことは、あのスピリットの娘達と、仲良くすることかしら?」

 バクシーは思わず笑ってしまった。

 やはり親子だな、と思う。こういう話の組み立て方は、将軍とそっくりだ。

「……そうですね」

 バクシーはゆっくりと頷いた。戦場で実際に戦うことになるのは彼女達だ。彼女達の協力と信頼を得られずして、この国の未来を守ることなど出来やしない。

 自分の出来る範囲で、やれることを。

 胸の内で、レフィーナの言葉を何度も反芻した。

 ――とりあえずはこの後の食事で、おかずの一つでも分けてやろうか。

 バクシーは心なしか軽くなったような気のする心で、そう考えた。

 

 

――聖ヨト暦三三〇年、シーレの月、赤、みっつの日、朝。
 
 

 トティラ将軍の邸宅で一夜を過ごしたその翌日、バクシー・アミュレットと三体のスピリットは、朝一番で王城からやって来た兵達にたたき起こされた。

 昨日、王城で門番を務めていたマリウス・サックス上等兵が率いる五人の部隊で、話を聞くと、屋敷の外に馬車を待たせているらしかった。

「国王陛下がお呼びです。すぐ、準備していただけますか?」

 バクシーにも、スピリット達にも、マリウスの問いを断る理由はなかった。

 バクシーはいまだベッドの中で丸まっているレフィーナの頬に軽く口付けをしてから、馬車に乗り込んだ。

 王城に到着したバクシー達は、すぐに謁見の間へと通された。

 室内には昨日と同様、アイデス王とラフォス王妃の他、主だった廷臣達が顔を並べていた。

 王妃と不義の噂のある情報部の長官も顔を出している。ウィリアム・マクダネル。情報部の最高責任者だけあって暗殺の危険が多く、公の場には滅多に姿を現さない人物として知られていたが、国家の大事にあって、今日ばかりは顔を見せに来たらしい。

 件の長官は礼服に身を包んだ、四十前半の美丈夫だった。赤毛の長髪と太い眉、大振りな双眸からなる顔の造作は、舞台役者としても十分食べていけるような甘いマスクで、背も高く、すらり、とスマートな体型をしていた。

 バクシーが長官の顔を見るのは、彼が情報部の長官になってからこれで二度目のことだった。一度目は長官の就任式の時で、かれこれ六年も前のことになる。

 六年ぶりに見た長官は、六年前とまったく変わらぬ美貌に冷笑を浮かべ、自分を見下していた。長官は上座に立っていた。

 下座に跪いたバクシーに、王座の国王は淡々と言った。

「結論から先に言おう。バクシー、そなたの申した第二軍と第三軍の合体案は承認する。しかし、第一軍はリモドアへは差し向けない」

「…………」

 バクシーは硬化した顔でアイデス王を見た。

 自分の出来る範囲で、自分のやれることを。

 レフィーナの言葉を思い出しながら、彼は訊ねた。そう結論を下した国王の考えを知りたかった。

「理由をお聞きしてよろしいですか?」

「うむ。それは……」

「それは、いま、王都から第一軍を動かすわけにはいかないからです」

 謁見の間に、険を帯びた声が響いた。

 生来の気の強さを感じさせる、張りのある声。

 アイデス王の話を遮ったのは、誰であろう、彼の隣に立つラフォス王妃だった。

 バクシーは露骨に顔をしかめた。トティラ将軍がそうだったように、バクシーも情報部長官との不義が噂されるこの王妃のことを嫌っていた。

 たしかに容姿は優れている。しかし、その言動はあまりにも浅慮だ。

 いまは大切な軍議の真っ最中であり、軍人でない王妃が口を挟む資格はない。そもそも、居並ぶ大臣達と違って、本来王妃に公的な権力は一切ない。にも拘らず、茶々を入れてくる。常識はずれにも程がある。

 彼女はいったい何を考えているのか。この軍議をどうしたいのか。この国の未来を、どうしようというのか。

「……どういうことですか?」

 バクシーは内心、はらわたの煮えくり返る思いを抱えながら、王妃に訊ねた。

 嫌いな相手には違いない。しかし、まがりなりにも相手は王室の人間だ。ぞんざいに扱うわけにはいかない。

 はたして、ラフォス王妃は下座のバクシーを冷たい目線で見下した。

 王国のために戦い、命からがら逃げ延びた敗残兵を労う気持ちなどまったく感じられない視線だった。侮蔑の眼差しだ。

「昨日付けで、王都第一軍は新たな任務を遂行することになりました。現在、第一軍の全部隊はその作戦のために特別訓練を実施中です」

「新しい任務、ですか?」

 バクシーは訝しげな表情を浮かべ、ラフォス王妃とアイデス王を交互に見た。

 下手を打てば王国の存続さえ危ういこの状況下で、王国軍最強の第一軍に新たな命令を下した。ために、リモドアへは兵力を送れないという。

 はたして、現状で最良と思われるトティラ将軍の戦略計画を蹴ってまで下した任務とは如何なる内容なのか。

 狡猾なラキオス軍さえも手玉に取った、起死回生の秘策なのか。

 ラフォス王妃は胸元の開いたドレスから覗く妖しい胸を張って続けた。

「昨日、あなたがこの部屋を退室して二時間ほど経った頃に、情報部長官から一つの提案がなされました」

 ラフォス王妃はそう言って、大臣達と一緒に並ぶ情報部長官に目配せをした。

 その光景を垣間見て、バクシーは渋面を作った。

 嫌な予感が、背筋を駆け上がる。

 情報部長官といえば先の“新型エーテル変換装置奪取作戦”や“魔龍討伐作戦”の原型案を作った男だ。ともに成功の公算が低すぎる、と周囲から猛反対を受けながらも、ラフォス王妃に取り入って無理矢理作戦を実施させた張本人である。

 まともな提案とは思えなかった。

 はたして、バクシーの危惧は的中する。

「長官によれば、リーザリオを落としたラキオスは主攻方面をリモドアに定めているとか。そのためにリーザリオの前線基地化を進め、王都直轄軍を迎え入れる準備を整えているそうではありませんか。斯様な状況下で、リモドアに我が軍の全戦力を集めることは、敵の策に乗るも同然のこと。ここは、むしろラキオスの裏を掻く手を打ってはどうか……と」

 優雅な所作とともに言葉を紡ぐラフォス王妃は、そこで一旦言の葉を区切った。

「第二軍と第三軍の残存兵力で敵の主力をリモドアに釘付けにしている間隙を縫って、第一軍は山岳大隊を先鋒にサモドア山脈を下山。敵が防備を固めているラセリオは無視して、がら空きの王都ラキオスに直接攻め込む。いかな大蛇も、頭を潰してしまえばそれで終わりです。これが、情報部長官からなされた提案です。

 ご聡明な陛下は、この案を採択なされました。作戦コードは、迅雷作戦だそうです」

「…………」

 開いた口が塞がらなかった。

 ラフォス王妃の口を借りた情報部長官の提案は、一見したところ理に叶っているように思える。しかしその意見は、所詮、現場を知らない人間の言葉だった。

 サモドア山脈を下山する? 簡単に言ってくれるが、それがどれほど困難な任務か、この女はちゃんと理解した上で口を利いているのか?

 バクシーは慌ててアイデス王を見た。

「畏れながら申し上げます。情報部長官と王妃様のおっしゃっている事は夢物語の如き作戦にございます。ご承知の通り、サモドア山脈はわが国の経済を支える重要な山です。巨大で、広大で、そして険しい山です。過去、何人もの屈強な男達が鉱物資源採掘のためにこの山へ登り、命を落としました。あの山はそれほどに険しいのです。サモドアの山道は、そんな彼らの負担を少しでも減らすために設けられたと言っても過言ではありません。

 そのサモドア山道を利用してでさえ、採掘現場との行き来には何日も掛かるのです。ましてや下山してラキオス領に攻め入るなど、山道に慣れた山岳大隊でも、最短で一週間は要しましょう。他のスピリット大隊ならば十日、我々人間の部隊なら一ヶ月は掛かります。

 ラキオスの情報収集能力を侮ってはなりませぬ。それだけの時間があれば、ラキオスはたちどころに我が軍の動きを察し、対策を打ってくることでしょう。そうなれば、相手の裏を掻くどころではありません。蟻地獄に餌を放り込むようなものです」

 敵が打ち合う覚悟で待ち構えているところに飛び込むほど危険極まりないことはない。

 情報部長官の打ち立てた作戦は、そうなる危険を孕んだ一か八かの賭博行為に他ならなかった。

 たしかに、戦争というものは一種の賭博行為だ。一か八かの賭けを張るのも、時には必要だろう。しかし、本当にいまがその賭け時なのか。

 情報部長官から作戦の原案が提出されたのが昨日。

 長官から提出された原案の詳細を煮詰め、具体案にしたのも昨日。

 アイデス王が第一軍に訓練を命じたのも昨日。

 そんな僅かな時間で、アイデス王は、ここで打たねば後はない、という賭け時を見極めたというのか。

「陛下、もう一度熟考なさって下さい。決断と命令は、それからでも遅くはありません」

「いいえ、それでは遅すぎます」

 ラフォス王妃が、バクシーの言葉を遮って、ぴしゃり、と言った。

「此度のラキオスの侵攻はかつてない大規模なものです。まさに、王国存亡の危機、と言っても過言ではありません。危機に際しては、なにより素早い判断が求められるものです」

「王国存亡の危機だからこそ、素早い判断よりも、正しい判断が必要なのです! 為政者であれば、それはなおのこと……!」

「お黙りなさい! 一介の軍人風情が、誰に向かって物を言っているのですか!?」

 語気を強めたバクシーの発言に、ラフォス王妃はヒステリックに叫んだ。

 これを受けたバクシーは、ぐっ、と押し黙った。

 身分のことを持ち出されては何も言えない。

 本来、この場において何の権力も持っていないのはむしろ彼女の方だ。しかし、この場に、それを指摘する人物はいない。バクシーも含めて、この場にいる誰しもが、言っても無駄だと諦めていたからだ。亡きトティラ将軍ならば臆することなく発言しただろうが、その将軍は、もういない。

 ラフォス王妃は空咳を一つして、艶美に微笑んだ。

 口元こそ笑っていたが、バクシーを見下す視線には侮蔑に加えて、明らかな嫌悪が宿っている。

「とにかく、迅雷作戦に変更はありません。これはもう決まったことなのです。……そうですわね、陛下?」

 しなを作って、ラフォス王妃は王座のアイデス王を見る。

 若き芸術王は「う、うむ」と、弱々しく頷いた。完全に尻に敷かれている。

 それを見て、ラフォス王は我が意を得たり、とばかりに満面の笑みを浮かべた。

「迅雷作戦は予定通りに進めます。作戦開始予定はシーレの月、緑、いつつの日とします」

 王妃は、まるで自らの言葉を王国全土に伝えるかの如く、声高に言い放った。

 バクシーは己の腹の底で、何か暗いものが渦を巻くのを自覚した。

 歯噛みしながら、上座の王妃を睨み上げる。ついで、情報部長官を見た。

 なんということだろう。ラキオス軍や守護の双刃などよりもよっぽど性質が悪い。最大の敵は、他ならぬ王国の内部に居たのだ。

 バクシーは密かに決意を固めた。

 迅雷作戦とやらがもはや止められない以上、この上は死力を尽くして、少しでも作戦の成功率が上がるよう努力するしかない。

 差し当たってはすぐにでもリモドアへ戻り、ナルセス司令に事の経緯を告げなければ。迅雷作戦はラキオス軍の主力がリモドアに釘付けになっている状態を前提にした作戦だ。。迅雷作戦を成功させるためには、まずなんとしてもリモドアを死守しなければならない。司令とよく相談した上で、防備を整えなければ……。

 しかし、バクシーの決意は無駄に終わった。

 事態は、どんどん、とバクシーにとって悪い方向へと進んでいった。

「バクシー・アミュレット」

 アイデス王が、バクシーの名前を呼んだ。

「情報部長官からの意見具申があった。そなたと、そなたが連れてきた三体のスピリットには、本日より第一軍の訓練を任せたい。そなたらはラキオスと実際に矛を交わした経験を持っている。その経験を、第一軍の将兵に伝授することを長官は望んでいる」

 バクシーは一瞬、返す言葉を見失った。

 第一軍の訓練を担当する。平時であればそれはバーンライトの軍人にとって最高の栄誉だ。しかし戦時の今は、必ずしもそれは栄誉とは言えない。

 事実、いまのバクシーは、国王自身の口から第一軍の訓練を任せたいと打診されたにも拘らず、何ら高揚を感じなかった。

 それどころか、やり場のない憤りすら感じていた。

 ――軍人の、命令ってやつは……!

 トティラ将軍亡きいま、指揮統率の序列からいえば、自分には第三軍の残存兵力を取りまとめるという大事な使命がある。迅雷作戦の訓練とやらは、その仕事を放り出してまでやらねばならない大事なのか。自分でなければならない仕事なのか。

 ――陛下は……情報部の連中はいったい何を考えているのだ!?

 バクシーは反射的に情報部長官を見た。

 彼には、情報部長官が何を考えているのか分からなかった。

 彼には、まるでこの男が、この国の未来を滅びへと導こうとしているようにすら思えてしまった。

 そう思えてならなかった。

 ともあれ、命令は下された。

 その発言内容を考えたのが誰であれ、明確な言葉にしたのはアイデス王だ。

 バクシーの所属する王国軍は彼の軍隊であり、最高司令官たる国王の命令には従わねばならない。

 アイデス王の下した命令に、バクシーは表情硬く頷いた。

「……謹んで承らせていただきます」

 

 

「バクシー様……」

 謁見の間を辞したバクシーの背中に、声がかけられた。

 振り返ると、そこには緊張した面持ちのマリウス・サックス上等兵がいた。

「バクシー様、一五分ほどお時間をよろしいでしょうか?」

「陛下の命令をスピリット達に伝えねばならない。リモドアの第三軍に、私がこちらに残ることを伝える手配もしなければならないが……それくらいなら、まぁ」

「よかった」

 マリウス上等兵は莞爾とはにかんで、「あなた様のサモドア来訪を知って、是非、あなた様にお会いしたい、とおっしゃられている方がおります」と、言った。

 バクシーは当然、「誰だね、それは?」と、問いかけた。

 マリウス上等兵は誇らしげに胸を張って言った。

「我々の直接の上官……第一軍第二歩兵大隊隊長、キャシアス・ゴート大隊長です」

 

 

 王国軍の最精鋭、第一軍の歩兵大隊長に与えられた個室は、インテリアこそ官給品の質素な物を使っていたが、広さは第三軍の歩兵大隊長に提供されていた個室の二倍近くあった。第三軍の副司令だったバクシーの部屋並みに広い。

 王都の勤めともなるとこうも待遇が違ってくるのかと思いながら、バクシーは椅子に腰掛けている目の前の男を見た。

 日焼けした細面の顔。いくらか高い鷲鼻。軍服を、りゅう、と着こなした容姿は同性のバクシーから見てもハンサムで、ひとたび彼が街へと繰り出せば、すれ違う女性はみな流し目に彼を眺めてしまうであろうことは必至と思われた。

 年齢は三十手前か。背は高く、体格はスマートながらがっしりしており、その所作は優雅だった。見知った顔だった。

「お久しぶりです。バクシーさん」

 キャシアス・ゴート歩兵大隊長。トティラ将軍の長男坊にして、バクシーと同様王国軍の未来を背負った男は、柔和な微笑みを浮かべて訪問者を出迎えた。

 

 

――同日、同時刻。
 
 

 たとえそれが如何なる人物であったとしても、一度、国家を代表する正式な使者として迎え入れてしまった以上、その取り扱いは丁重に行わなければならない。

 ラキオス王国の正式な使者としてバーンライトに派遣されたリリィ・フェンネスに宛がわれた部屋は、サモドアの王城内にある、いまは使われていない一室だった。十畳ほどのそれなりに広い部屋で、ベッドと机の他は最低限の家具しか置かれていなかったが、普段の生活をする分には何ら支障はなかった。

 背中を預けるベッドは上等で、三度の食事も毎日決まった時間にきっちり用意された。

 必要な物がある時は、見張りの兵士に頼めばよほど無理を言わない限り依頼品をちゃんと持って来てくれた。さすがに武器になるような物は却下されたが、書物など暇を潰す道具には事欠かなかった。

 入室に際して、リリィは厳しい身体検査を受けたが、所持品は武器以外一切取り上げられなかった。

 その代わり、外部との接触をほとんど絶たれた。部屋からの外出は原則禁止で、唯一の例外は手洗い場に向かう時のみ。その時でさえ、見張りの兵の付き添いが必要となる。

 早い話が軟禁状態だ。

 それだけが唯一の不満だったが、それ以外はおおむね問題なかった。日々の生活は、むしろ快適ですらあった。

 リリィがこの部屋に放り込まれてから、二日が過ぎていた。

 この間、部屋の外で起きている出来事に関しては一切の情報がシャット・アウトされていた。……表向きは。

 部屋のドアがノックされた。

 ベッドに腰掛け、書物に視線を落としていたリリィは顔を上げた。

 部屋に時計はない。窓の外に見える太陽の位置を確認して、いまが何時なのか大体の見当をつける。朝食時だった。

「朝食をお持ちしました」

 ドアの外から、男の硬い声が聞こえた。

 この三日間のうちにすっかり耳馴染んだ声だ。毎回、自分の食事を持ってきてくれる給仕役の兵だった。

 リリィが「どうぞ」と、言うと、部屋のドアが開けられた。

 ワゴンを引いて入室したのは、若い兵士だった。癖ッ毛の強い髪をした、朴訥な顔立ちの青年だ。年の頃は二十歳を過ぎて間もない齢か。身の丈こそ一六〇センチ前後だが、鉄の鎧を着込んだ体つきは大柄だ。

 おそらくは下っ端ゆえに、このような雑務を任されたのだろう。

 料理を運んできた兵の表情はどこか憮然としていた。

 リリィは栞を挟み、読みかけの本を閉じた。表紙に描かれたタイトルを読み、憮然としていた兵がますます苦々しい表情を浮かべた。

「……面白いですか?」

「割と」

 兵の問いに、リリィは静かな声で答えた。

 書のタイトルは、『ロソリ、セィン、ホメスト、アハナ』。日本語に訳せば、『人妻達の目覚め』。

「なぜ、わざわざそのタイトルを?」

「私の好きな人が、熟女好きなので、ちょっと研究を。どうすれば人妻の色気が出せるのか、勉強しています」

 若い兵士は天を仰いだ。

 芝居がかった仕草と口調で、言う。

「ダグラス閣下、あなたの娘は、間違った方向に進んでおります」

「……ここでは、その名前はタブーです」

 ダグラスの名を呟いた若い兵士にリリィは眉をひそめた。強い口調でたしなめる。

 青年は「分かっております」と、冗談っぽく笑って肩をすくめた。

 それから彼は、テーブルに料理を並べながら、口調を改めた。

「さて〈隠七番〉、本日も恒例のモーニング・サービスの時間だ」

 青年は、口元に不敵な冷笑をたたえていた。

 〈隠七番〉。それはリリィ・フェンネスの持つもう一つの名だ。それを知る彼は――――――

 彼は、自らの懐中へと右手を差し込んだ。一通の書状を取り出し、リリィに差し出す。

「閣下の出身世界では朝刊……といったか? いつも購読あいすまんな」

「べつに買っているわけではありませんが」

「なあに、言葉の綾というやつだ。人が生涯のうちに吐き出す言の葉の半分は、綾だ」

「相変わらずの詩人気取りですか、〈隠六番〉」

 リリィは溜め息混じりに呟いて、書状を受け取った。

 〈隠六番〉。この呼び名からも分かる通り、彼もまたダグラス・スカイホークお抱えの密偵の一人だった。変装術の達人で、いまは二十歳そこそこの若者にしか見えないが、実際の年齢は四十をとうにすぎている。密偵としての力量は、リリィよりも上だ。

 その人格を一言で表現するならば、捉えどころのない人物、という形容がしっくりくる。

 自他ともに認める変装術の達人だけあって、外見だけでなく人格すら装うことに長ける彼は、普段から自分を偽って生きていた。リリィ達密偵の仲間にさえ、本当の自分の顔や、素の性格を明かしたことはない。

 実をいえばリリィは、目の前の彼が本当に男なのかも知らなかった。〈隠六番〉の変装術は完璧だった。男の所作と女の所作の両方をマスターし、訓練された喉は高音低音自由自在だった。〈隠六番〉は、時に屈強な戦士に化け、また時には華麗な貴婦人に化けた。貴婦人に化けた時の彼は、女のリリィの目にも違和感なく映じた。見た目や、普段の言動なのから彼の性別を判断することは難しかった。

 〈隠六番〉についてリリィが知っているのは、詩を好み、自らも詩吟を嗜んでいるということだけだ。その趣味が高じて、得意の変装術を活かして吟遊詩人に身をやつし、諸国を巡りながらの情報収集を主な任務としていた。

 リリィは〈隠六番〉から渡された書状に目を通した。

 紙面には、ラキオスとバーンライトを巡る国際情勢と、両国間で行われている戦争の模様についての詳細が記されていた。その中には、現在ラキオス軍がいまだ知りえぬ情報……トティラ将軍の戦死についても記載されていた。

「……リーザリオが落ちましたか」

「ああ。オペレーション・スレッジハンマーだったか。お前の想い人が考案した作戦は、まぁ、六割方成功した。敵兵力の大部分を逃したのは痛いが……」

「ですが、当初の目的は達成しました」

 リリィは能面の表情を浮かべて、書状を丁寧に折り畳んだ。そしてそれを、〈隠六番〉に返す。

「どうやらこのサモドアで第一軍が不審な動きをしているようですね。そのことは、陛下には?」

「すでに〈隠五番〉に情報を持たせて走らせた」

 〈隠五番〉はリリィの先輩の密偵のコードネームだ。本名をネネ・アグライアという。リリィにとっては姉のような存在で、彼女の密偵としての技術はネネに仕込まれた。

 〈隠六番〉は続けて言った。

「〈隠五番〉には、マンハッタン・プランの進行状況について、陛下だけでなくエトランジェにも接触するように伝えてある。ただ、トティラ将軍戦死の件については、陛下にのみ知らせるように伝えておいた。それから、陛下には将軍戦死の報はいたずらに喧伝すべきではない、という注進もしておいた」

「それは何故です?」

 解せぬことだった。王国軍にとってトティラ将軍は間違いなく最大の敵だった。その将軍が戦死した事実を明らかにすれば、敵の士気はがた落ちし、以後の戦いがぐっと楽になるはず。それなのに、どうして〈隠六番〉はその事実を隠すのか。

 リリィの問いに、〈隠六番〉は淡々と答えた。

「理由は二つある」

 詩を嗜む彼は言葉のプロだ。その説明は最初に結論を述べることから始まった。

「一つ目の理由は、いまトティラ将軍の戦死をわが軍で喧伝すれば、逆にその事実を相手に利用されかねないからだ。偉大なる英雄トティラは散った。彼の将軍は全王国民のために戦い、散ったのだ。遺された我らは、彼の死を決して無駄にはしない。バーンライトの民よ、いまこそ立ち上がるのだ! 卑劣なるラキオスを、この手で討つのだ! ……とかなんとか言って、士気を上げられては面倒だ」

 〈隠六番〉は朗々と詠うように言い放った。外にいる見張りの兵を気にしてか、声量こそ控えめだったが、雄弁と語るその調子は堂に入ったものがあった。

 〈隠六番〉はまた口調を改めた。

「二つ目の理由は、仮にトティラ将軍戦死の報をラキオスが喧伝した場合、国内に潜伏している我ら密偵の存在の露見に繋がるからだ。バーンライト王国軍でも僅かな人間にしか知らされていない事実を、どうしてラキオスが知っているのか? 国内にスパイがいるのは間違いない。それも、王城の中にいる可能性が高い。そうした場合、最初に疑われるのは……」

「私、ということですか」

 リリィは以前、柳也から聞かされた、彼の世界における過去の戦例の一つを思い出した。戦術講義の題材選びの最中に、ふと彼がこぼしていた話だ。

『戦争における指導者は、時に非情な決断を下さなければならないことがある』

 そう言って始まった彼の話は、第二次世界大戦における熾烈な情報戦に関する内容だった。

 イギリス本島イングランド北部の都市バーミンガムから、東に五十キロ以上進んだ先に、コヴェントリーという街がある。古くから石炭により栄えた街で、大戦中この都市は軍需都市としてイギリスの兵站を支える戦略上の要地だった。ドイツ軍は当然の如くこの都市を爆撃の目標として設定した。

 当時、イギリスの情報機関MI6は、世界初の電子計算機と一〇〇〇人の人材を投入して、ドイツ軍の誇るエニグマ暗号装置の解析に成功していた。エニグマ暗号装置はドイツ軍が絶対に解読は不可能と胸を張る電動式のサイファー暗号装置で、大戦中は国家の最高機密として取り扱われていた。かくして、イギリス側はドイツ空軍のコヴェントリー爆撃のスケジュールの把握に成功する。

 しかし、時の英首相ウェストン・チャーチルは、暗号解読の秘密を守るために、コヴェントリーを犠牲にする決断を下した。

 彼は事前に爆撃のスケジュールを掴んでおきながら、コヴェントリーに対して警報を出さなかったのだ。

 もしコヴェントリーに警報を出せば、ドイツ軍に暗号解読の事実が漏れてしまう。そうなればドイツ側は間違いなく暗号コードの変更を行うだろう。一〇〇〇人もの人材を投入してようやく得た結果が無駄になってしまう。

 チャーチルは警報を握り潰した。結果、コヴェントリーの町はドイツ空軍の爆撃によって何千という死傷者が出た。

 エニグマの解読という、その一事を秘匿するためだけに。何千人が、死んだ。

 いまの自分達は、まさにそのエニグマだ。自分達の身の安全のためにも、そしてラキオスの勝利のためにも、自分達の存在はなんとしても秘匿されなければならない。

 そういえばあの時、柳也はこうも言っていた。

『戦争では綺麗事は言っていられない。最も非情な手段こそが、勝利に繋がるんだ』

 英米は最初、日本の中国戦線での上海や重慶の無差別爆撃、ソ連のフィンランド爆撃などを、人道にもとる、と言って非難した。戦争に民間人を巻き込むべきではない、というのが彼らの主張だった。

 しかしいざ自分達が戦い始めると、無差別爆撃を導入した。ドイツのドレスデンなどは猛爆を受けて灰燼と化した。一三万もの市民が死んだ。

『まぁもっとも、俺個人の意見としては、民間人を巻き込むような戦いはしたくないがな。

 リリィ、俺は戦争が大好きだ。過去の軍人達の物語を読む度に胸の高鳴りを覚え、自らが戦場に挑めば恐怖とともに歓喜を感じるような男だ。だが、そんな俺にも、許せない戦い方がある。無差別爆撃と、もう一つ……』

 それは武人としての彼の矜持の一つだったのだろう。

 そう口にした彼の横顔は誇り高く、それでいて黒檀色の瞳には悲壮な色が滲んでいた。

「……ともあれ、そういう次第だ」

 不意に耳朶を撫でた〈隠六番〉の声に、リリィは、はっ、となった。

「こちらから報告するべきことは以上だ。そっちは何かあるか?」

「いえ、特には……」

「引き続きこちらで入手した情報はお前にも伝える。虜囚の身では難しいとは思うが、お前も何か気になることがあったら、俺に報告してくれ」

「はい」

「それじゃあ、食べ終わった頃にまた来る」

 〈隠六番〉はそう言ってワゴンを翻した。

 会話に集中していたせいで気が付かなかったが、テーブルにはいつの間にか朝食が並べられていた。

 リリィは「ありがとうございます」と、呟いて、その背中を見送った。

 相変わらず、能面のような表情だった。

 

 


<あとがき>

柳也「…………」(←茫然としながら、今回の台本を読んでいる)

柳也「…………」(←引き続き茫然としながら、今回の台本を読んでいる)

柳也「…………」(←しつこいようだけど茫然としながら、今回の台本を読んでいる)

柳也「…………」(←やがて、パタン、と台本を閉じて)

柳也「ほ、本当に、俺の出番がない……」

北斗「……さて、読者の皆さん、いつも永遠のアセリアAnotherを読んでくれてありがとう。今回の話は、いかがだっただろうか?」

タハ乱暴「今回の話はバーンライトサイドの話だな。トティラ将軍の戦死を受けたバーンライト側の人間模様を書いてみました!」

北斗「人間は関係性の中で生きる生き物だ。人一人がいなくなれば、それに関係していた全員に影響が及ぶ。当然といえば当然の、しかし書こうと思うと難しいこのテーマを、よくもまぁ、書く気になったな?」

タハ乱暴「ちょっとした冒険ってやつですよ。まぁ、挑戦です。いまの自分の力量で、そういう話がどこまで書けるか、っていう」

北斗「なるほど。ところで、今回もまた主人公不在の群像劇のような構成だったな? 群像劇として書いたわけではないにも拘らず」

タハ乱暴「うぐっ。今回もまた痛いところを衝いてくるなぁ……」

北斗「バクシーが主役といえなくもないが、本来の主人公の柳也との絡みで言えば、アイリスやオディールが主役ともいえる」

タハ乱暴「タハ乱暴の中では、一応、今回の話の主役はバクシーだよ。次点がオディール」

北斗「そういえば柳也はオディールとも因縁を残したままだったか……」

タハ乱暴「そろそろ、その辺りの風呂敷も畳んでいこうと思っております。さて、次回ですが」

北斗「次回はリモドア攻略戦だな。そして動き出すバーンライト起死回生の作戦」

タハ乱暴「はたしてハリオン効果は如何ほどのものか? そして謎のオペレーション・ゴモラとは?」

北斗「自分で煽るでない。……さて、読者の皆さん、今回も永遠のアセリアAnotherを読んでくれて、本当にありがとう」

タハ乱暴「また次回もお付き合いいただければ幸いです。ではでは〜」

柳也「いいんだ〜。どうせ俺なんてー、出演率、九五パーセントの男なんだぁ〜……」

 

 

 

 

 

<おまけ>

 洛陽攻めの戦後処理がようやく一段落着いたある日の昼。

 ジョニー・サクラザカは最近愉快な仲間達の一員となったメンバー……月、詠、華雄の三人を私室に召喚した。執務室ではなく、私室に呼び出したのは、余人には聞かせられぬ内容の話をするためだ。

 一国一城の主とはいえ、桜坂柳也の私室は決して広いものではない。八畳ほど部屋で、床面積だけで言えば武将の鈴々らの私室にも劣る。インテリアの類にしても、寝台と机、それから桐の箪笥が一つ置かれているだけで、わびしい内装をしていた。

「……あんた、一応、幽州二強の一人なのよね?」

 部屋に入るなりメイド服の詠は室内の方々に視線を散らすや、刺々しい口調で言った。

 柳也は「いやぁ……」と、照れくさそうに笑いながら応じる。

「元居た世界では、これよりもっと狭い部屋で暮らしていたからなぁ……あまり広すぎる部屋だと、逆に落ち着かないんだよ。掃除も面倒臭いし」

「え? ご自分でお掃除なさっているんですか?」

 これは月の発言だ。いまや幽州を公孫賛と二分する勢力の長たる人物とは思えぬ発言に、彼女は目を丸くしていた。

「そりゃあ、テメェのケツぐらい、テメェで拭けねぇとな。自分で出来ることは、自分でやるもんさ」

 柳也が平然とした様子で答えると、月は尊敬の眼差しを向けてきた。

 他方、沈痛な面持ちで頭を抱えるのは詠だ。「駄目だコイツ……君主としての自覚が全然ない……」などと、忌々しげに呟いている。もともとコーポ扶桑の四畳半で暮らし、金欠の度に日々の糧を求めて山へと登り、海へと潜るような男だ。本来は王になるべき器ではない人物だった。

 柳也はやって来た三人の顔を見回した。

「今日、この場に集まってもらったのは他でもない。かつて董卓軍の総大将、武将、軍師だった君達の目に、わが幽州領土はどう映っているか、忌憚のない意見を聞きたかったからだ。月と詠の二人は公的な場に顔を出すわけにはいかないし、華雄将軍も軍議の席では言いにくいこともあるだろう。今日は三人に、その辺りの意見をもらいたい」

 「良い意見があったらドンドン採用していくんでよろしく」と、柳也は言葉を締めくくった。

 四人は早速意見の交換をし合った。

 幽州ジョニー・サクラザカ領の政治と経済について月と詠が意見し、ジョニーポイントカードのポイント二倍デーをいつにするべきか、華雄が口を挟んだ。どうやら猛将華雄は、庶民派らしかった。彼女はすでにジョニーポイントカードのゴールドカードを持っていた。お得意様だった。

「えへへ、実はわたしも……」

 そう言って、チラリ、と懐からゴールドカードを見せる月。彼女もお得意様らしかった。

 ちなみに詠は、ノーマルカードの持ち主だった。

「もっとポイント溜めてくださいね〜」

 そう言って朗らかに営業スマイルを浮かべる柳也の懐には、しっかりゴールドカードが仕舞われている。

 それはさておき、やがて話の主題は、ジョニー軍の軍備へと推移していった。

 これについては、特に詠の意見が役に立った。

 柳也が、

「我が軍に足りないものは何だと思う?」

と、質問すれば、打てば響くかの如きレスポンス・タイムで詠が、

「騎兵ね」

と、淀みなく答える。

 両者の言葉のキャッチボールは、まさに丁々発止のやり取りだった。

「騎兵は確かにお金のかかる兵科だけど、実戦配備出来ればその効果は絶大よ。戦術の幅も、ぐっと広がるわ」

「確かに。問題は時間と予算、そして……」

「人材ね。騎兵を指揮する者は、単に武勇や知略に優れるだけでなく、馬に精通する人間でなくちゃならない。いまのジョニー軍にいる将で、騎兵部隊の指揮官としての適性があるのは……」

「主だった将では鈴々、程遠志のアニキ、恋、華雄といったところか……中堅所の将だと、管亥のチビや、陳到辺りがそうか」

「関羽は?」

「愛紗は将じゃないから駄目だ。なんといっても一兵卒だからな、あいつ」

「……あんたくらいのものよ? 恋姫の二次創作で、関羽を一兵卒扱いしているのは」

「そういうネタを割るような発言は辞めなさい。……他には何がある?」

「水軍の存在、ね。いまはその必要がないからいいけど、今後領土を広げるとなると、水軍の存在は不可欠になるわ」

「なるほど。そこは気が付かなかったな……」

「準備だけは早いうちから進めておくことね。水軍の育成は、騎兵の育成よりも時間が掛かるから」

 この時代の船は人力だから、船員の大部分は櫂手となる。なるほど、船の建造や維持もそうだが、櫂手と戦闘員の連携は大きな課題となるだろう。早い段階で水軍の整備は進めておいた方が無難か。

 ――とはいえ、これまたカネのかかることだからなぁ……。

 水軍の充実は自分としても望むところだが、問題は、ジョニー軍のお財布を握るはわわ軍師様をどう説得するか、だ。

 柳也はさらに言葉を重ねる。

「逆に、我が軍が他州の軍に誇れる強みは何だと思う?」

「ボクの見たところ、二つあるわね。一つは、中堅武将の育成に力を入れていること」

 ミリタリー・オタクとして有史以来の戦争に精通している柳也は、特に中堅武将の教育に力を注いでいた。戦史に名を刻むのはいわゆる上級の将ばかりだが、戦場で実際に部隊の指揮を執るのは無名の中堅武将達だ。また、彼ら中堅どころの将は、十年後、二十年後の軍の将帥たる人材である。いまのうちから鍛えておいて、損はないはずだった。

「ジョニー軍の中堅武将は身贔屓を抜きにしてもかなりの質よ。このことはジョニー軍を支える大きな力と言えるわ。

 第二に、ジョニー軍にはあんたという存在がいる」

「俺?」

「そうよ。天の知識を惜しみなく使うあんたの存在は、他の陣営にはない強力な武器よ。例えば、この間の調練でも見せてもらったあの重装歩兵隊……」

「ああ。ファランクス隊のことか」

 柳也は得心した様子で頷いた。

 ファランクス隊は先日ジョニー軍内に発足した新たな部隊で、古代ローマ帝国の重装歩兵隊をイメージした部隊だ。強力な鎧に身を固め、長槍を持ったこの部隊は、機動力にこそ欠けるものの、正面に対して絶大な攻撃力と防御力を誇った。

「あの部隊は、両翼を他の機動力のある部隊で固めれば、大陸最強の戦力となりうるわ。……でもその部隊も、元を正せばあんたの発案だっていうじゃない?」

「あ、ああ」

「あんたはこの陣営の柱であり、最大の武器なのよ。あんたの知識を駆使すれば、それこそこの大陸の全地域の支配だって可能なんだから」

「大陸全土の支配、ねぇ……」

 柳也は複雑な顔をして呟いた。

 大陸支配。なんとも男心をくすぐる言葉だが、もとより自分には、行方不明の瞬を探すという目的がある。面倒なこと、この上なかった。




今回は完全にバーンライト側のお話だったな。
美姫 「囚われているリリィだけれど、他にもやっぱり内通者がいたみたいね」
お蔭で軟禁状態ながらも情報を収集できているな。
美姫 「それにしても、あの王妃というか情報部の長官は何を考えているのかしら」
何か企んでいるのか、そうじゃないのか。
結構、気になる部分ではあるな。
美姫 「この策を知ったラキオスの王や柳也がどう出るのか楽しみよね」
うんうん。次回も楽しみにしてます。
美姫 「待ってますね〜」



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