――聖ヨト暦三三〇年、ホーコの月、緑、みっつの日、深夜。

 

深夜。

異世界の夜気に頬を撫でられながら、桜坂柳也の意識は夢の世界にあった。

夢の中で柳也は五歳の子どもに戻っていた。

まだ父母ともに健在で、彼にとって今のところ人生で最も幸福であった日々の情景が、目の前で広がっている。今よりもまだ空が高く、冬の寒さに負けぬ人々の歓声がやけに鮮明に耳の残ったあの日。柳也にとって、いや多くの人々にとって、忘れられないあの日の光景だった。

一九九五年、十二月三日、浜松。

警察官という仕事に誇りを持ち、毎日を忙しく過ごしていた父が、家族と一緒に過ごす時間を求めて久しぶりに休みをとったその日、桜坂一家は家族揃っての小旅行に出かけた。刑事という仕事の大変さ、大切さを頭では理解していても、心では父のいない家の風景に寂しさを感じていた幼き日の柳也は、久々の家族旅行に胸を躍らせて車に乗り込んだ。行き先なんてどこでもいい。ただ柳也には父と一緒に出かけられるというだけで幸せだった。

父に手を惹かれて連れて行かれたのは、航空自衛隊浜松基地の、航空祭会場だった。

父の雪彦は特別、ミリタリー・オタクというわけではなかったが、飛行機とか鉄道といった乗り物が大好きな男だった。自分一人では行けない、遠くへ旅立てる乗り物が好きだったという。まるで五木寛之の小説のようだが、剣術に情熱を注ぐ姿といい、父にはどこか少年のような、子どもっぽい一面があった。

真冬の一二月にも関わらず、航空祭会場は熱気に包まれていた。

秋以降恵まれなかった天候も今日はすっかり回復し、富士山の絶景が見下ろす会場には一五万人にもなる観客で賑わいをみせていた。しっかりと着込んだジャンパーの隙間から吹き込む風が厳しかったが、それに負けない人々の熱気と声援が、コンクリートの滑走路を揺るがしている。

その日の航空祭は、空自唯一のアクロバット・ティーム“ブルーインパルス”の展示飛行が催される日であり、同隊が一三年にわたって運用し続けてきたT-2超音速高等練習機によるラスト・フライトが展示された日だった。観客動員数は過去最大の約一五万人。浜松名物の“5シップテイクオフ”を披露しつつ空へと舞い上がったT-2ブルーの演技に、人々は魅了された。

最後のT-2展示飛行で展開された曲技飛行は大胆かつ精緻。アフターバーナーの炎の尾をたなびかせ、五色のスモークを焚きながら六機のT-2が大空を所狭しと飛び回り、演技を完成させる度に、観客からは拍手喝采が沸き起こった。

飛行前のセレモニー、そして本番前のF-15DJ、空自の名救助機コンビ、T-4による演技も秀逸で、柳也は周囲の大人達と一緒になってはしゃいだ。

柳也にとっては始めての航空祭だった。しかし少年は幼いながらに航空祭の楽しみ方、空を飛ぶ巨大なものに対する畏敬の念を知っていた。そして一度空に見せられた父が、しばらくはあの水色の世界に心を囚われたままでいることも知っていた。

いくら好きだからといっても、子ども心に父親が自分ではなく空ばかりを見上げているというのは面白くない。

母はといえば、そんな父の横顔を呆れたような眼差しで、けれども優しい微笑みとともに見つめている。

時折、こちらにも目線を落としてくるが、母の視界の中心にいたのは主に父だった。

頭上のT-2ブルーの魔法の飛行は素晴らしかったが、段々とつまらない気分になってきた。

子どもっぽい独占欲だ…と、夢見る柳也の意識は苦笑する。

父にも母にも構ってもらえず、幼き日の自分は苛立ちを覚え始めていた。

その時、少年の手を柔らかな温もりが包んだ。

驚いて振り向くと、子どもの自分よりもやや年上の、十歳くらいの少女が己の手を握っていた。冬の快晴にまぶしい、夏物の真っ白なワンピースを着た女の子だ。帽子をかぶっているわけでもないのに、どういうわけか顔が見えない。けれど不思議と不信感を抱かせない雰囲気に包まれた少女だった。

――はて、こんな女の子があの当時いたか…。

子どもの身体に宿る青年・桜坂柳也の意識は首をかしげた。

初めて体験した航空祭の記憶は、今日でも鮮明に思い出すことができる。

自分の記憶が正しければ、あの当時こんな女の子はいなかったし、こんな場面はなかったはずだが…。

怪訝に思う少年の手を、少女は優しく引いた。

どうやら自分をどこかへ連れ出そうとしているらしい初対面のはずの少女に、しかし柳也は特に抵抗もせず歩調を合わせていった。

冷静に第三者の視点でみると人攫い以外の何者でもなかったが、なぜか少年の身体に宿った現在の柳也の意識は、少女に対して警戒心を抱かなかった。むしろ彼は少女に手をにぎられることで安心感を得ていた。それよりも柳也にはこの冬の寒空の下、上着も羽織らずに夏物のワンピースを着た少女の装いのほうが気になっていた。

彼が「さむくないの?」と、問うと、彼女はにっこり笑って、「ありがとう。でも、大丈夫ですよ」と答えた。顔は相変わらず見えないというのに、少女が笑みを浮かべたのが、柳也にはわかった。

「どこにいくの?」

柳也がまた訊ねた。

舌足らずな子どもの口によって紡がれた言葉だったが、それは現在の柳也が思う質問だった。

「ここよりもっと見晴らしがいい場所ですよ」

「そこならもっと飛行機がよくみえる?」

「ええ。それはもう、綺麗ですよ」

少女が優しく笑って、柳也も笑みを浮かべた。

相変わらず警戒心は一向に湧かず、顔が見えないことも段々と気にならなくなっていた。そればかりか柳也は徐々に少女に対して心を許し始めていた。

驚いたことに、少女が案内してくれたその場所は浜松基地の滑走路の上だった。

なるほど、たしかにここなら大人という邪魔な木々がないから、ブルーの活躍がよく見える。

またしても不思議なことに、幼い子ども二人が危険な滑走路の上に座り込んでも、誰も注意するどころか気にする素振りも見せなかった。

夢というのは大体にして非常識な内容をしているものだが、それにしたってこれは……と、柳也は思う。けれどそのおかげで、彼はブルーの活躍を誰にも邪魔されることなく、ゆっくりと堪能することができた。

「あの飛行機はなんていうんですか?」

隣に座ったワンピースの少女が、素朴に疑問を口にする。

柳也はさっきまでの父親と同じように、空を見上げたまま口を開いた。

T-2超音速高等練習機だよ。戦前戦中戦後合わせて、日本が初めて国産化に成功した超音速機さ。機体は三菱重工製。エンジンはロールスロイス・チェルボメカ製アドーア・エンジンで、最大速度はマッハ一・六……」

柳也はT-2について自分の知っている限りの知識を語った。

舌足らずな喋りはいつしか饒舌となり、気が付くと柳也はいつの間にか青年の身体を取り戻していた。

「……柳也様は本当に飛行機がお好きなんですね」

ワンピースの少女は微笑みを浮かべながら言った。「柳也様」と、敬称で呼ばれているのに、なぜか少しも気恥ずかしく思えない。

むしろ優しい眼差しのほうが頬にくすぐったく、柳也はなんだか恥ずかしい気持ちが湧いて、ふいっ、と少女から顔を背けた。

「ぐ、軍用機だけさ。民用の機体で知っているのなんて、両手で数えるくらいだよ」

「乗ってみたいですか?」

「そりゃあ、な。でもT-2はブルーだけじゃなく、もう正式に引退した機体だから、飛行教導隊にでも入らない限り、搭乗は無理だろうけど…。せめて、一緒に並んで飛ぶことができたらなぁ」

柳也は心から残念そうに言った。

航空自衛隊のパイロットになる。それはミリタリー・オタクの少年にとって、夢のひとつだった。

少女はそんな柳也の態度を、クスクス、と笑いながら見つめるばかりだ。

やがて頭上の展示飛行は佳境を迎えようとしていた、

一九八二年からの十四年間、T-2ブルーにとって、通算一七五回目の公式展示飛行最後の課目……ピッチアウトランディング。T-2が最後の力強い飛行を見せ、会場から拍手の嵐が吹き荒れた。柳也も立ち上がって手を叩いた。

そんな柳也のすぐ側では、帰投準備を整えたT-4が、偉大なる先輩機を出迎えるかのように置かれている。

柳也の記憶が正しければこの後はウォークバック、そして花束贈呈を受けた後、ホームベースの松島基地へ帰投するべく、最後の離陸を迎えたはず。柳也にとって、最初で最後の、T-2ブルーのダイナミックな展示飛行だった。

するとその時、T-4の発進準備を進めていた整備員の一人が、ブルーインパルス制式のヘルメットを二つ抱えて、柳也達の側に歩み寄ってきた。

「桜坂三等空佐、そろそろコクピットに乗り込んでください」

「……は?」

柳也は素っ頓狂な声をあげた。

見ると、いつの間にやら自分は空自で使用されているGスーツを着込んでいた。襟首の階級章には三等空佐を示すマーク、胸の部隊パッチにはブルーインパルス所属を示すエンブレムがプリントされている。振り返ると、そこにワンピースの少女の姿はなく、いつの間にか彼女はT-4の後部座席に座っていた。

「柳也様、早く乗ってください」

右開きにキャノピーの開け放たれたコクピットから身を乗り出し、少女が自分を手招きする。

相変わらずの白いワンピースのまま。ヘルメットも被っていない。しかし例によって誰もそのことについてふれようとしなかった。

「あ、ああ…いま、行くよ」

これは夢なのだと言い聞かせ、ならば存分に飛行を楽しもうと思った柳也は、ヘルメットを深々と被るやT-4に向かって歩き出した。

一歩前に進むその都度、周囲の光景がめまぐるしく変容し、彼がT-4に乗り込む頃には、先ほどまで空にいたT-2は、すでに発進準備を整えていた。

柳也の記憶ではこの後、T-2が先に離陸して、その後にT-4が離陸したはずだが、無線を通して次々に流れ込む情報を分析すると、どうやら自分のT-4は、T-2とほぼ同時に出発するらしかった。

――T-2ブルー最後の飛行に付き合えるのか…。

静かなる感動が、少年の胸を高鳴らせていた。

「この飛行機は何ていうんですか?」

少女が後席から訪ねてきた。

知らないで乗り込んだのかと思わず苦笑が口に浮かぶ。

T-4中等練習機だ。純国産のジェット機で、製造は川崎、三菱、富士が分担して担当。エンジンは石川島播磨製のF3-30ターボファンの双発で、最大速度は約五六〇ノット。軽快な運動性と素直な操縦性、高い安定性がパイロット達から人気の機体だ。非公式な愛称は“ドルフィン”」

「イルカ……ですか?」

「機体が丸っこいし、三枚の尾翼が尾びれと背びれに見えなくもないだろ? あと主翼も。だからイルカ」

「なんだか可愛いですね」

「ああ。…可愛らしい、とびきりの美人だよ」

発進前の最終確認が終了し、電源車が側に寄ってきて、エンジン始動に必要な電力を供給する。“バチッ”と、猛獣がうなるような駆動音が鳴り響いて、柳也の体が震えた。

二基のF3-300エンジンが稼動し、機体が振動を開始する。電源車が離れ、整備員も離散していった。誘導員だけが一定の距離を保ちながら、タクシングを促した。

狭いコクピットの中、少年と少女はたちまち二人だけの世界を得た。

聞こえるはずのない互いの鼓動を感じながら、柳也はペダルを踏んで機体を滑らせた。

エンジンが送り出す振動が、全身の血液を熱く煮えたぎらせる。

T-4を所定の位置に運び、柳也はキャノピーを下ろした。

柳也達の視界に、最後の5シップテイクオフで次々に飛び立つ、T-2ブルーの編隊が映じていた。

やがて彼らの搭乗する機体にも離陸の許可が下り、柳也は滑走路の中央へと機体を運んだ。エンジンの出力をミリタリーからアフターバーナーへと上昇させる。操縦のやり方は、誰に教えられるまでもなく理解できた。ここは自分の夢の中なのだ。自分にできないことは、何もない。

数百メートルを走って、やがてT-4の軽快なボディが、ふわり、と浮き上がり、

若干の振動。

キャノピーを通して映る世界がめまぐるしく変化し、慣性の法則がもたらす重圧が、柳也の身体に襲いかかる。

みるみるうちに上昇していく高度計の数字が、彼に、自分はいま、空を飛んでいるのだと実感させた。

上空ではまるで柳也が追いつくのを待っているかのように、T-2の編隊が旋回機動をしている。

T-4がその輪の中に入ると、T-2ブルーは、柳也のT-4を引っ張って、蒼穹の彼方へと舞った。

どこに目線を向けても必ず一機は青く塗装されたT-2が視界に入る空間で、柳也は初めての飛行を存分に楽しんだ。

聞こえるはずのない両親の声援が、柳也の耳朶を打つ。

たとえ夢の中の出来事だとわかっていても、楽しい経験であり、嬉しい体験だった。

「……ありがとう」

柳也は感謝の念を篭めて後ろを振り返った。

ワンピースの少女は嬉しそうにはにかんで、彼に頼もしげな眼差しを向けていた。

柳也はもう一度、「ありがとう」と、言った。

「ありがとう。君のおかげで、とても楽しい体験ができた」

「わたしは何もしていません。柳也様が、心のどこかで望んだから、こういう夢になったんですよ」

驚いたことに、ワンピースの少女はいまある世界を柳也の夢だと告げた。まさか夢の中の登場人物に、「これはあなたの夢」と、指摘されるとは思わなかった。

柳也は愉快そうに苦笑すると、

「君の顔が見られないのが残念だ。こんなに良いロケーションなのに、口説くこともままならない」

快晴の空に溶け込むように、六機のT-2が編隊飛行を組んでいる。

いつの間にか彼らは柳也と少女に見せ付けるようにスモークを焚き、曲技飛行を行っていた。

「……わたしの顔、見たいですか?」

少女が、嬉しそうな声音で訊ねてくる。

柳也は後席からもそれとわかる、大きな動作で首を縦に振った。

「当然。…俺達はもう友達だろ? 友人の顔を見たいと思うのは普通のことじゃないか」

「友達……そうですよね! わたしと柳也様はもう友達ですよね」

友達……その言葉の響きを、ゆっくりと噛み締めるように、間を置いてから少女は弾んだ声を紡いだ。

「それなら望んでください。柳也様がわたしのことを望んでくれれば、わたしはすぐにだって柳也様に顔を見せることができます」

「望む?」

「はい。わたしの名前を呼んでくだされば、すぐにでも……」

「…………」

つい最近、これと似たような話を聞いたのは気のせいだろうか。

頭の中に奇妙な引っ掛かりを覚えながらも、柳也はそれを思い出せぬまま口を開いた。

「君の、名前は……?」

少女はゆっくりと、改まった口調で言を紡いだ。

「わたしの、名前は――――――」

 

 

 

 

 

永遠のアセリア

-The Spirit of Eternity Sword Another-

第一章「有限世界の妖精たち」

Episode19「防衛計画」

 

 

 

 

 

――聖ヨト暦三三〇年、ホーコの月、緑、みっつの日、朝。

 

桜坂柳也の一日は早朝五時半に起きて、六時からのランニングから始まる。

その老人のような生活スタイルは、住む場所を変えても変わらない。

エルスサーオ方面軍の兵舎で一夜を過ごした柳也は、翌朝、予想される戦場の確認も兼ねて、市街地の外へと飛び出した。

天気は灰色がやや濃い雲が多い曇り空。ホーコの月はハイペリアでいうところの六月に当たる。温帯に近い気候のラキオスでは、今は梅雨時なのだ。

幸いにして今日はまだ雨が降る気配こそなかったが、明日になったらどうなるかはわからない。敵がいつ来るかわからない現状、雨中での戦闘も考慮せねばならないだろう。

柳也は昨日セラスと歩いた距離よりもずっと遠く……エルスサーオから十キロの地点まで進出した。相変わらず変化に乏しい、平坦な地形が広がっている。草木の群生は原野というほどではなかったが、距離感の掴みにくい地形であることに変わりなかった。

――これだけ開けた地形だと、やはり隠密行動は無理だな。俺が敵の指揮官なら、むしろ大々的に部隊を動かして、敵を翻弄する作戦を執る。それを迎え撃とうとするなら……ブービートラップを仕掛けて機動力を殺し、こちらが望む戦場に誘い込むしかない。

昨日、セラス・セッカとともに確認しあった防衛計画を、頭の中で反芻する。

自分達の建てた計画がほぼ正しいという感触を得ると、柳也はなるべく街道の外を進むようにしてエルスサーオに引き返した。まがりなりにも舗装された街道を通るより、草木が茂る地形を走った方が、肉体にかかる負担が大きいことはいうまでもない。それに単に眺めているだけではわからない微妙な地形の変化を読み取る目的もあった。

エルスサーオに戻った時点で時刻は午前七時。昨晩、ファーレーン達から聞いたところによると、方面軍スピリット隊の訓練開始は朝食後の午前九時からだという。熱心な者は朝食前に体力トレーニングに励んでいるとのことだが、今のところそうした真面目な兵士には出会っていない。

柳也は野外訓練場に足を運ぶと、適当に場所を見繕って、閂に佩いた同田貫に〈決意〉を宿し、ひとり鍛錬を開始した。

刀の抜き差しから始まり、真剣を用いての素振り、そして頭の中に生み出した相手との形稽古を間断なく繰り返す。腹を練り、足腰を練り、呼吸を練り、技を練った。阿吽の呼吸がひと振りひと振りを一撃必殺の攻撃に変え、柳也は遅滞の欠片もみせずに動き続けた。

ひとりの鍛錬は四半刻、半刻と繰り返され、倦むところを知らない。

それでいて彼の呼吸に乱れはなく、下肢はどれほどの時が過ぎようとも力強かった。

一切の余分な力なく、それでいて実戦に匹敵する緊張感を伴った柳也の動きは、見る者がいれば教科書以上の教科書だった。

背後に気配を感じた。

動きを止め、剣先を地面に向けて振り返ると、そこには仮面のファーレーンが立っていた。いやファーレーンだけではない。見ればエルスサーオ方面軍スピリット隊の、非番組と訓練組の全員が揃っていた。

時計を見ればすでに時刻は午前九時。いつの間にやらスピリット隊の訓練開始の時刻になっていた。どうやら稽古に集中するあまり、周囲への気配りがおろそかになっていたらしい。

剣士として恥ずべき失態に、さっと柳也の顔に朱が差した。

『こ、これは恥ずかしいところを見られてしまったな…』

柳也は照れ隠しのつもりで苦笑した。

しかし、柳也を取り囲む少女達から笑みは返ってこなかった。

代わりに柳也を襲ったのは、少女達の呆れと、尊敬が同居した眼差しだった。

『りゅ、リュウヤさま、その剣術はどちらで……』

『ん? これか? これは直心影流といって、俺が元居た世界で学んでいた剣術だけど』

昨晩は世話になったレッドスピリット……アイシャの問いに、柳也は躊躇いなく答える。

すでに柳也は彼女達に自分が何者なのか、その正体を明かしていた。任務の性格上、さすがにエルスサーオにやって来た目的までは話していないが、柳也がエトランジェだと知って、彼女たちの態度はかなりくだけたものになっている。

『いつから稽古をお始めに?』

『棒振りだけなら七時からだから、二時間くらいか。その前の走りこみも含めると、三時間ちょいだな』

『その間、ずっと休まずに稽古を?』

『おかげで朝飯を食べ損ねた』

柳也は、からから、と笑った。

首都からやって来たエトランジェの、あまりにもさらりとした返答に、方面軍のスピリット達は茫然としている。

実際、柳也にとって三時間連続で身体を動かすことは特別、激しい運動ではなかった。十六キロの振り棒を一日に一千本振るい、阿吽の呼吸を身につけた直心影流剣士の持久力は、普通人の常識の外にある。柳也に限らず、柊園長始めしらかば学園の門弟達はみんなそうだった。小学二年生の小山明弘ですら、小学校六年生の門弟と同じメニューを消化していたほどだ。

戦士にとってなによりも持久力が大切なのは、剣者も兵士も変わらない。どんなに剣の技に優れていようとも、地力がなければそれを活かすことはできないし、どんなに射撃の技術に長けていようとも、行軍に着いていけなければそれを活かすべき戦場にも辿り着けない。

驚く少女らの目の前で、柳也は形式だけの血振り後、同田貫を納刀した。

額に浮かぶ汗を濡れた袖で拭いながら、ファーレーンとニムントールの姿を探す。

視線を感じたか、少女達は自分達のほうから柳也の前に出てきた。それぞれ愛用の永遠神剣を携え、戦闘用の装備一式を身に着けている。エーテル技術を用いて特別に編まれた色違いの戦闘服に、両手に嵌めた金属製の篭手。ラキオス軍スピリット部隊の、制式装備だった。ハイペリアの住人である柳也から見ると、古代の兵と比べてもいささか軽装すぎる印象のあるスピリットの装備だったが、神剣の加護を得ている彼女達に重装の鎧は必要ない、というのがファンタズマゴリアにおける主流の考え方だった。

二人の装いをしげしげと眺めていると、柳也の目線が不意にある一点に留まった。

柳也の眼差しは、ファーレーンが腰に佩いた日本刀に向けられていた。無論、本物の日本刀ではない。日本刀の形状を模した、永遠神剣だ。

――この世界にも日本刀に近い形状の刀剣があったのか!

それは柳也にとって新鮮な驚きであり、深い感動を呼ぶ発見だった。

たとえ永遠神剣といえど、自分の得物と似た武器を使う者がいる。剣者にとってこれほど嬉しい遭遇はなかった。

なんとなれば、柳也はファンタズマゴリアに来て以来、自らの修行に行き詰まりを感じ始めていたからだ。エトランジェとして正式にラキオス軍に編入されて以来、リリアナらと数多くの立会いを交わし、二度の実戦を経験した彼の実力は、ハイペリアにいた頃と比べて格段の進歩を遂げていた。しかし同時に、柳也は独学での修行に限界を感じつつあった。彼はまだ、独学によって己の道を切り拓けるほどの武芸者ではなかった。

『……居合か?』

柳也は思わず訊ねていた。

外から見える鞘の丈からして、納められているのは刃渡り二尺三寸(約七〇センチ)ほどだろうか。定寸の刀だが、女のファーレーンにはやや大きすぎる得物だ。しかし、それも彼女が居合の遣い手であれば納得がいく。

現代居合道では身長から三尺(約九〇センチ)差し引いた長さが、居合に用いる刀の最長限度とされている。無論、明治時代以前に成立した古流居合においてはその限りではないが、武道としての居合の標準に仮に照らすならば、一六〇センチをやや上回るファーレーンでも、定寸の得物を使いこなせぬ道理はない。

ファーレーンが静かに頷くと、柳也は莞爾と笑った。

素肌剣術を修める彼にとって、居合は同じ剣術でも未知の世界の業だった。それに触れられると思っただけで、剣士としての血が騒ぐ。

まして現代居合道と違い、ファーレーンが修めている居合は、戦乱の世界が生んだ実戦的なものだろう。彼の口元が緩むのも無理からぬことだった。

早くファーレーンの剣技を見てみたいという欲求にかられ、彼はアイシャに目線を転じた。

『昨日、話したとおりファーレーンとニムントールにはこれからしばらくの間、俺の仕事を手伝ってもらう。…二人を借りていくぞ』

ファーレーンらの訓練担当官らしいアイシャから許可を得ると、柳也は二人を連れて本隊から離れた場所へと移った。柳也がエルスサーオにやって来た目的を知らない彼女達の側では、あまり突っ込んだ話ができない。

一団から五〇メートルほど離れたところで、三人は足を止めた。聴覚に優れ、また神剣の加護を受けているスピリットにはまだ不十分な距離かもしれなかったが、あまり離れすぎると、かえって彼女達の不信感を刺激してしまう可能性が出てくる。

『…それじゃあ、今日からしばらく、よろしく頼む』

柳也は改めて二人の顔を見回すと、軽く頭を垂れた。

『…早速だが、君達の現在の実力を知りたい。それによっては、防衛計画に修正を加えなければならないかもしれないからな』

『具体的には何をすればいいのですか?』

仮面のファーレーンが静かに問うてくる。僅かに覗く目つきは真剣そのものだ。

『まず、二人には俺と手合わせをしてもらう。それが二人の実力を知る、一番手っ取り早い方法だからな。得物は神剣で。神剣魔法を使ってきても構わない。普段の対戦訓練と同じ気持ちでやってきてくれ』

『……めんどくさい』

『こ、こらっ、ニム!』

ぼそり、と呟いたニムントールに、ファーレーンが慌てて注意する。

真面目で真剣なファーレーンとはうって変わって、ニムントールの釣り目は倦怠に疲れていた。

『なんだ? あの後、夜更かしでもしていたか?』

『べつに。ただ面倒なだけ』

その言葉通り、ニムントールに特別、疲労した様子は見受けられない。どうやら本当に、ただ面倒臭いだけのようだ。

――なるほど、ファーレーンが妙に大人びているわけだ。

柳也は妙に納得した様子で頷いた。

下手をすれば自分の生死に結びつく訓練を、「面倒くさい」の一言で片付ける。大物なのか、それともただの無精者なのかはまだわからないが、およそ軍人向きの性格でないことだけは確かだ。妹分のニムントールがこの調子では、姉貴分のファーレーンはさぞ気苦労の絶えなかったことだろう。

外見は自分と同じくらいのファーレーンに、柳也が年上の印象を抱いたのも無理からぬことだったかもしれない。あの妹あっての、この姉なのだ。

『我慢してくれよ。これも任務の一つと思ってさ』

柳也は苦笑しながら言うと、二人から間合い三間(約五・五メートル)の距離を取った。居合を使うファーレーンはともかくとして、緑のスピリットの常として長柄の永遠神剣を武器とするニムントールの実力を調べるためには、試合開始の前にある程度の距離を設けておく必要があった。

ニムントールがぶつくさ言いながら槍の鞘を払った。穂先が銛のようになった刀身が姿を現す。面倒だなんだと言いながら、一番手は彼女らしい。

それを見ていた柳也は、

『敵はいつ攻めてくるかもわからない。時間が惜しい。ファーレーンも一緒に打ち込んできてくれ』

と、言った。

ファーレーンとニムントールは顔を見合わせた。

『……正気?』

やや、ムッ、とした様子で、ニムントールが呆れた眼差しを向けてくる。

柳也はその苛立ちは当然だと思った。もし逆の立場だったら、自分も怒りを覚えたに違いない。一人で二人を一度に相手取るなど、こちらの実力を侮っているもの同然ではないか。

とはいえ、いつ攻めてくるかも判然としない敵に対して、時間がないのもまた事実だ。限られた時間内で少しでも万全の態勢に近づけるためには、多少、憎まれ役を買うことも必要である。

『正気も正気。大真面目だ』

『わたしたちは構いませんが、リュウヤさまは大丈夫なんですか?』

すでに柳也は三時間にも及ぶ独り稽古を終え、体力を著しく消耗させている。いくら並外れた持久力の持ち主といっても、人間の体力は無尽蔵ではない。

自分の体調のことを気にかけてくれるファーレーンの優しさに感謝しつつ、柳也は同田貫を抜き放つや正眼に構えた。剣者にとって、これ以上にわかりやすい意思表示の作法はなかった。

柳也の全身から滾る烈々たる闘志、そして不退転の決意を悟ったファーレーンは、両脚を肩幅より狭めに開き、両手を体側に下ろした。必殺の居合を放つに相応しい、見事な自然体だ。

一方、その隣でニムントールは銛とも槍とも呼べる長柄の得物を中段に構え、穂先を柳也の胸元に向けている。透き通るエメラルド色の瞳には、柳也を見返してやろうという魂胆がありありと滲んでいた。

柳也は並び立つ二人を等分に見ると、視線をその中間に置いた。

阿吽の呼吸を静かに繰り返し、五体に力を漲らせる。

相手の出方を窺いながら、柳也は二人の挙動を冷静に観察した。

いつ訪れるかわからぬ抜刀の好機を見逃さんとするファーレーンの自然体は、それでいて気負いがなく、余計な力が感じられない。一方のニムントールはどっしりとした腰の座りからもそれなりの実力者であることが窺えるが、膝や肩に余分な力が入りすぎているきらいがある。

同じ訓練兵だが、二人の実力差は歴然としていた。

ニムントールは銛の穂先を僅かに揺らしながら、こちらに誘いをかけてくる。

柳也は静かに動かない。

やがてニムントールが銛を握り直した。蕪木から五寸下を右手で握り、左手で牽制しつつ構える。穂先の部分は、緑色に輝いていた。刀身にマナを集約させた神剣を、投擲するつもりだ。

槍投げと同時にすかさずファーレーンが殺到し、斬りかかる腹積もりだろう。

槍を防げば居合で斬られ、ファーレーンに対処しようとすれば銛に貫かれる。

即席で編み出した連携ではあるまい。どうやらファーレーンとニムントールは、訓練の時も普段から一緒にいるらしい。

柳也は相変わらず自らは動く気配を見せない。

誘いかける敵に対し、徹底して“待ち”の姿勢を貫こうとしていた。

『…いくよ、〈曙光〉』

ニムントールが小さく呟いた。

その言葉に呼応するかのように、少女の手の中で銛……永遠神剣第八位〈曙光〉がまばゆい光を放った。

そして次の瞬間、

『やあッ!』

という気合とともに、一条の光線が柳也のもとに飛来した。

ニムントールが投げると同時に、ファーレーンも走り出す。

わずかに遅れて、柳也は銛の前にわが身を突き出すように半歩ほど踏み込んだ。

同田貫がしなやかに円弧を描き、かーんッ! と、甲高い音が鳴った。

その音に、五〇メートルを隔てた本隊の少女達さえもが振り向いた。

峰で太刀打ちを叩かれた〈曙光〉が地面に落ちる。

続いて迫るファーレーンを迎え撃とうとしたその刹那、仮面の少女の手元で、閃光が走った。

柳也は、考えるよりも先に左手を同田貫の柄から離した。

僅か一挙動で、二尺三寸の永遠神剣と一尺五寸五分の脇差が完全に抜き放たれたのは、同時だった。

居合の一撃は突如出現した脇差に打ち返され、刀勢を失った。

柳也は右手一本で肥後の豪剣二尺四寸七分を振り下ろした。

ニムントールが息を飲む。

仮面のファーレーンの耳元で、ことり、と静かな音が鳴った。

ファーレーンの肩口に、峰を下にした同田貫が触れていた。

柳也の口元が、ふっ、と緩む。

ファーレーンの膝が、へなへな、と折れた。

柳也は同田貫をファーレーンの肩から離すや残心を示し、父の形見の大小を納刀した。

そしてその場に正座し、ファーレーンに向かって頭を垂れる。

『異世界の居合の技、とくと拝見させていただいた。いやはや、良い勉強をさせてもらった』

顔を上げた柳也は莞爾として笑うと、茫然とした様子のファーレーンに言った。

自らの顔と心を仮面で隠した少女の視線は、少年の腰元にある大小に向けられている。

『永遠神剣が、二本も……』

『そんなの、聞いたこともない。一人の契約者が、二つも永遠神剣を持ってるなんて』

ファーレーンとニムントールの、愕然とした響きの声が重なった。

体内寄生型の永遠神剣という〈決意〉の特性を知らない者が見れば、たしかに、一連の攻防の中で柳也はふた振りの神剣を使ったように見えただろう。

柳也は、またこの手の反応か……と、苦笑した。

『一人の人間が契約できる永遠神剣は原則ひと振り』という考え方が、長年のスピリット研究で示された一つの結論だから無理もない。

かといって誤解を解くために〈決意〉の特性について説明しようにも、異世界の住人である自分にはいまだ言語能力が不足している。医学の発達が未熟な有限世界のこと、そもそも“寄生”という言葉自体存在しないのだ。

無論、言葉では伝わらない事も、あの手この手と手段を選ばなければ伝えられないことはない。しかしそのためには多大な時間を必要としてしまう。

一分一秒でも時間が惜しい現状だ。誤解を解くのは、すべてが終わった後でも遅くはないだろう。

柳也は立ち上がると、いまだ茫然と座り込んでいるファーレーンの肩を叩いた。

仮面の少女の肩が、ビクン、と震え、目線が腰の大小から柳也の顔へと移る。

『続きを始めよう。できれば今度は、君達の神剣魔法が見たい』

柳也は目の前のファーレーンと、三間先のニムントールに向かって叫んだ。

ニムントールが慌てて〈曙光〉を拾いに走り、柳也は再び間合いを取るべく歩き出した。

 

 

二対一の立会い稽古は途中からファーレーンが攻撃の主軸となって果敢に攻め、それを遠間からニムントールが支援し、時に間合いを詰めて攻めかかる、という形にまとまっていった。

ファーレーンの攻撃を受け、時に意表を衝いて後方のニムントールを襲撃しながら、柳也は冷静に二人の技量と稽古具合を分析する。

ファーレーンは太刀行きの伸びも良く、なによりその居合は正確で、素早かった。しかし、柳也の目から見ても悪い癖が身についていたし、またその攻撃は慎重を意識しすぎて、大胆さに欠けるところがあった。

一方、ニムントールは攻防のバランスが取れ、回復魔法による支援も的確だった。だが、動きに無駄な箇所が多く、攻撃が単調になりがちな嫌いがあった。

打ち合いを続けること四半刻、二人の息がだいぶ乱れ始め、ファーレーンの太刀筋が雑になってきた頃合を見計らって、柳也は「やめ」の一声を発した。

合戦のような賑やかさがはたと消え、荒い息遣いの二人が柳也の前にやって来る。

攻撃の要として大立ち回りを演じたファーレーンはひどく疲れている様子だったが、それでも礼儀正しく背筋を伸ばし、柳也に向き直った。

ニムントールはといえば、後方支援に徹していたためか姉よりもまだまだ余裕があるように見受けられる。しかし呼吸が小刻みなのは、二人とも変わらなかった。

その一方で、彼自身は特に呼吸の乱れた様子もなく、平然と立っていた。

『ん。大体、二人の力量はつかんだ』

『……っていうか』

『ん?』

『なぜ、リュウヤさまはそんなに平気そうなのですか?』

言を紡ぐのも苦しそうに、ファーレーンが訊ねた。

『いや、なんでと言われても……鍛えているから、としか、言い様がないんだが』

柳也は複雑に笑いながら呟くと、

『二人とも技量だけならそれなりの水準に達している。こちらに有利な状況さえ作れれば、まず、バーンライトの正規兵には負けないだろう』

と、言った。

すると柳也との実力差を見せつけられた二人の顔に、さっと明るい輝きが差す。

『本当ですか?』

『嘘を言ってどうするよ』

ドラゴン・アタック作戦、そしてゲットバック作戦で戦ったバーンライトの兵士の実力の程を思い出し、柳也は断言する。二度の実戦で交戦した敵と、今のファーレーンらの間には大きな隔たりはないように思えた。

とはいえ、一応、釘を刺すことも忘れない。

『ただし、これはあくまで俺が戦った連中との比較だからな。敵が以前よりも強くなっている可能性だってあるし、戦場では何が起こるか分からん。それにバーンライト勢で最も警戒するべきは、正規兵よりも外人部隊の連中だ。これは決して油断できる相手じゃない』

柳也はゲットバック作戦の折に遭遇したセーラ・レッドスピリットのことを思い出した。あの時のセーラの力量を基準に考えると、今のファーレーンらの実力では二対一の状況に持ち込んだとしても、勝利を得ることは難しいだろう。

『今後の訓練方針としては、午前中は君達がいつも通り行なっている通常訓練を継続してもらう』

『午後はどうするのですか?』

『俺の防衛計画に即した訓練を行ってもらう』

柳也は、それについては午後に改めて説明すると言った。

『とりあえず、今日はこのまま稽古を続けよう。外人部隊と一対一で戦えるように…とまでは言わないが、せめて二対一で互角に戦えるくらいにはなってもらいたい』

数で優る敵に対して、少数の陣営は精鋭をもって挑むしかない。

精鋭という言葉とはおよそ縁遠い訓練兵の二人を与えられた柳也の、本心からの言葉だった。

 

 

――同日、昼。

 

午前中の通常訓練を終え、食堂で朝昼兼用の食事を摂った柳也は、ヤンレー司令から外出許可を得るや、早速、ファーレーンとニムントールの二人を連れてエルスサーオの外に出た。

勿論、目的は二人に戦場になるかもしれない場所の地形を把握させること、そして自分が考えている防衛計画を、実際の地形を利用して現地で説明するためだ。

二人は街の外に出るのが珍しいのか、歩けど歩けど変化のない景観を物珍しそうに見回している。

まるでラキオスを発った時の自分を見ているようで、柳也は思わず苦笑した。

エルスサーオを出て南東に街道を歩くこと約二キロ。防衛計画の最前線を予定する地点では、すでにセラス・セッカの指導の下、七人の兵士が作業を進めていた。最初に柳也達が立てた計画通りに、其処彼処で落とし穴を掘っている。昨夜のうちに地図と睨めっこをして柳也とセラスが書き込んだ、効果的な配置図に乗っ取っての作業だった。

『おーい、セラス殿〜!』

人手不足を補うべく、自らシャベルを両手に穴を掘るセラスが顔を上げ、やって来る三人のほうを向いた。

柳也達の存在に気が付いたセラスは、近くにいた中年の兵士に二言三言告げると、他の作業はそのままに、彼を連れて一同のほうへと歩み寄った。

『ようやく来たか、リュウヤ』

『申し訳ない。朝飯を食い損ねたんでね。昼を食べるのに、時間がかかってしまった』

『そちらの二人が、そうか?』

『ああ。昨日、話したファーレーンとニムントールだ』

柳也は後ろに控えた二人を紹介した。

相手が人間の騎士とあって、二人はいささか緊張した面持ちで腰を折る。

セラス・セッカは、うむ、と頷くと、

『セラス・セッカだ。ここにいるリュウヤとともに、貴様らの上官になる』

と言って、二人に右手を差し出した。

スピリットの少女達は、目の前の男が何を求めているのか一瞬わからず、きょとん、としている。セラス・セッカが握手をしようとしているのだと気付いた時、彼はもう諦めて手を引っ込めていた。

『リュウヤ、こっちはギャレット・リックスだ。七名の兵士の中では、最先任に当たる』

紹介された三十代半ばの男は、値踏みするような眼差しを三人に向ける。そして誰に対しても手を差し出すことなく、『ギャレット・リックスだ』と、ぶっきらぼうに告げた。

柳也の耳元でセラスが『彼は妖精差別主義者なのだ』と囁いた。

柳也はなるほどと頷き、リックスの態度に納得する。妖精差別主義者にとっては、エトランジェもスピリットも大差はない。

リックスはシャベルを掴んで作業に戻った。もともと寡黙な性質なのか、スピリットの側を離れても一言も喋ろうとしない。ただただ、無心に穴を掘っていた。

リックスが穴掘りを再開したのを見届けると、柳也は口を開いた。

『作業の進み具合はどうなっているんだ?』

『…どうもこうもない』

セラスは溜め息をついた。

『スピリットに対して落とし穴を掘って対抗するなど、前代未聞の戦略だ。穴掘りの経験がある者などむしろ少数ゆえ、作業の進捗も芳しくない』

『あとで俺も手伝うよ。とにかく、みんなには迎撃戦闘における“障害と射撃”の重要性を十分に認識させておいてくれ』

『昨晩、貴様が話してくれた“くれーしー”の会戦か』

『機動力に優る陸上兵力に対して、最も有効なのはその機動力を殺す障害と、機動力の届かないアウトレンジからの攻撃だ。…今回、俺達にはアウトレンジ戦法が可能なレッドスピリットがいないからな。障害作りに努力しようや』

柳也はセラスの肩を叩くと、背後で目をぱちくりさせている二人を振り返った。

『……と、いうわけだ』

『…………なにが?』

なぜか得意げに言ってみせた柳也に、ニムントールは当然の疑問を口にする。

柳也は『見ての通りだ』と、答えた。

『敵の目的はエルスサーオの陥落じゃなく、あくまでリクディウス山脈の龍を退治することだ。エルスサーオは通過点にすぎない。本番前の戦闘で被害を出すことは、なるべくなら避けたいはずだ。

敵はこちらの防衛態勢がたった三人で成り立っているとは知らない。敵はエルスサーオの方面軍すべてが迎撃に回ると想定した上で、戦略・戦術を立ててくるだろう。その際に数の暴力で押し切る戦法では、いたずらに自軍の損害を増やすだけだ。

本番の戦闘に備えてなるべく戦力を温存しながら敵地拠点を突破する。…そのための具体的な戦術として、俺とセラス殿は“部隊をいくつかにわけ、機動力を駆使して敵を翻弄している隙に本隊がエルスサーオを通過する”というのが妥当と考えた。そしてそれに対抗する戦術として、落とし穴などの障害を用意することで敵の機動力を奪い、往生している間に各個撃破という方針で、防衛計画を進めることにしたんだ』

柳也は『これは俺の世界での戦例なんだが』と、断った上で、機動力に勝る敵に対しての迎撃戦術として一三四六年のクレーシーの会戦について語り始めた。

フランス南西部の領有権を巡って開戦した百年戦が十年目を迎えた一三四六年八月、フランスに侵攻したエドワード三世のイングランド軍は、現在のノール・パドガレー地方クレーシーの地にて、フィリップ六世率いるフランス軍と激突した。

当時のフランス軍は六千人のジェノバ人傭兵を集めるとともに、国内の騎士階級を糾合。重装騎兵を中心とした軍編成に取り組み、イングランド軍を上回る戦力を揃えた。これに対抗するイングランド軍の兵士の質量双方の面において劣勢で、特に騎兵戦力において大きく離されていた。

両軍の総兵力は資料によってまちまちだが、一般的にはイングランド軍が約一万、フランス軍が約三万から四万ほど(うち六〇〇〇がジェノバ人傭兵部隊)だったという。

フランス軍によって北進を阻まれたイングランド軍はやむなく進路を変更。地元住民から聞き出した渡河地点の近辺に、戦闘に適した地形を見つけ出し、そこでフランス軍を迎撃する方針を固める。

クレーシーは帯状に連なる丘陵地で、なだらかな斜面から広い平野へと続いており、騎兵が展開して突撃をかけるのには最適の地形だった。事実、フィリップ六世は平野に布陣した騎兵隊で決着をつけるつもりだった。

斜面に沿うような形で布陣したイングランド軍は、背後に森を控え、帯状に隊列を敷いた。エドワードは直属の重騎士団を左翼に配置、右翼には歩兵の密集横隊を配した。そして両翼と中央に、長弓を構えた弓兵部隊を密集して整列させた。中央の弓兵は約一千人、両翼はそれを上回る数で、それぞれ敵陣に向かってV字型に突き出した。さらにエドワードが陣取る本陣の両翼も長弓隊が固め、その後方には矢を補給するための荷駄隊が、森を背にして並んでいた。

イングランド軍は各弓兵横隊の前方に落とし穴を掘って障害を作った。さらに穴の間に丸太を埋め、騎兵部隊が弓兵部隊を直接打撃できないようにする。重騎士団と歩兵の前方に落とし穴は掘らなかった。

対するフランス軍はジェノバ人傭兵部隊を前陣に置き、その後方に重騎兵隊を置いた。まずジェノバ人傭兵部隊で敵を蹂躙し、その隙を衝いて騎兵隊を突撃させる腹積もりだった。

開戦の火蓋を切ったのはフランス軍・ジェノバ傭兵だった。ジェノバ傭兵部隊の主装備は射程と一射当たりの貫徹力でイングランド軍長弓部隊を大きく凌ぐクロスボウ。しかしクロスボウはその構造上発射速度の点で長弓に劣り、ジェノバ人傭兵が一度矢を放つ間に、イングランド軍は五度、六度と矢を射った。徐々にジェノバ人傭兵部隊はその数を減らしていき、ついには戦線を維持できなくなる。

ジェノバ人傭兵部隊の崩壊を看取ったイングランド軍は、弓兵の照準をフランス軍重騎兵隊に向けた。馬の機動力すら届かぬアウトレンジ戦法に、騎兵隊は反撃すらできぬまま徐々に数を減らしていき、フランス軍は混乱した。

一方的な戦闘の推移に耐えかねたフィリップ六世は、起死回生の騎兵突撃を敢行した。しかし倒すべき弓兵隊の前には落とし穴という障害が立ちはだかり、手が出せない。やむなく前方に落とし穴のない歩兵に矛先を転ずるも、今度は両翼から弓兵隊に攻め立てられた。

計十五回に及ぶ突撃がすべて失敗に終わり、自軍の損害一万二千を数えた時、フランス軍は撤退を決意した。対するイングランド軍の損害は諸説あるが、妥当なもので一千人。実に一対十二の戦果であった。

『機動力で負ける敵に対して“障害と射撃”が有効なのは、戦争における原則のひとつだ。それでなくとも、君達にとって反撃不可能な距離からの赤スピリットの神剣魔法は脅威だろ?』

『ですが、今回、わたしたちの側には赤スピリットはいません』

『そうだな。だからこうして、障害作りに努力しているんだ』

柳也は予備のシャベルをつかむと二人に笑いかけた。ファーレーンらに教えるべきことを伝えた後は、彼自身穴掘りに加わるつもりだった。

予備のシャベルが山積みにされたすぐ側では、何十枚もの麻袋が重石を載せ状態で時折吹く風にはためいている。掘り返した土を入れるための土嚢袋だ。もともと土嚢による陣地構築の文化はファンタズマゴリアにはない。しかしその効果についてセラスに教えたところ、彼は半信半疑ながらも陣地構築用の物資として麻袋三〇〇枚を要請してくれた。ヤンレー司令は首を傾げながらこの要請を受け入れ、柳也達の手元には現在、二〇〇枚の麻袋があった。

『リュウヤさまのおっしゃることはわかりましたけど……』

『それで、ニムたちはどうすればいいの?』

チラチラと周りの作業を気にしながら、二人が問うた。相変わらず仮面で覆ったファーレーンの表情は見えないが、ニムントールが難しい顔をしている。

どうやら彼女達は話の流れから、自分が『穴掘りを手伝え』と、命令を下すと思っているようだ。なるほど、たしかにニムントールにとって穴掘り作業は歓迎できない『面倒』事だろう。彼女が難しい顔をするのも、よくわかる。

しかし、柳也が二人にさせようと思っていた事は、まったく別の作業だった。

『…その質問に答える前に訊きたいんだが、君達が普通に戦うとして、青、赤、緑、黒のうち、いちばん戦いたくないのはどれだ?』

『……赤』

やや間を置いて、ニムントールが答えた。

なるほど、クレーシーの会戦の例を持ち出すまでもなく、グリーンスピリットの彼女にとって、レッドスピリットは天敵以外の何者でもないだろう。

さらにしばらく間を挟んで、ファーレーンも、

『わたしも赤ですね。リュウヤさまのお話を踏まえると、わたしたちブラックスピリットの天敵も赤ということになりますし』

と、言った。

これは黒のスピリットに限らず、柳也達エトランジェにも言えることだ。己の剣の届かぬ範囲からの射撃に対して、有力な対抗手段も反撃の術も持たない彼らは無力である。

『その次は青。こっちの魔法を邪魔してくるし……』

『わたしは緑です。こちらがダメージを与えてもすぐに回復されてしまうので』

『俺はニムントールと同じ青だな。俺自身、実戦で経験したことだが、連中を先に潰しておかないとこっちは攻撃も防御も大きく制限されてしまう。脅威なのは消滅魔法だけじゃない。青の攻撃力は敵に回せばあれほど恐ろしく、味方にすれば頼もしいものはない』

実戦経験のある柳也の言葉だけに、彼の話を聞く二人の顔は真剣だ。

柳也は二人の顔を見比べた後、指折り数えながら言った。

『攻撃の優先順位は赤、青、緑、黒の順番だ。まずはこのことを徹底的に頭の中に叩き込んでくれ』

戦場という一種、混乱の極みにあるような状況では、実戦経験の浅い新兵、訓練兵ほど前後不覚に陥りやすい。特に訓練兵は、攻撃の優先順位をしっかりと頭の中に叩き込んでおかねば動?して、最初に脅威の少ない敵に対して攻撃、数瞬後に強力な攻撃に仕留められるという最悪の事態に陥りかねない。

『その後は落とし穴の配置を覚えてほしい。それから、平野での戦闘感覚に慣れてもらいたい』

平野は地形に特徴が乏しいため、かえって目視による距離感が把握しにくい。

ランドマークをきちんと自分で設定しておかなければ、遠間の敵との戦闘は困難といえた。

『とりあえずは迎撃時の優先順位を憶えてくれ。落とし穴の配置については後で配置図を見せる。このあたりの地理については…二人とも大丈夫か?』

『はい』

『うん』

ファーレーンとニムントールが、ほぼ同時に頷いた。

さすがにホームベース周辺の地形とあって、頼もしい返事だ。しかし土地勘のある彼女達ですら、意外な見落としがあるかもしれない。

『念のために二時間、自由時間をやるから、その辺りを自分達で見て回ってきてくれ。そうだな……』

柳也はすでに麻袋にいっぱいの土を入れた土嚢の山の頂に上ると、「ん〜…」と、唸りつつ遠目に周囲を見回した。

『仮にここから四キロ先、エルスサーオから六キロメートルの辺りまでを、防衛ラインと置こうか。ランドマークになりそうなものがあったら、後で教えてくれ。…今、時計を渡すから』

柳也は愛用の腕時計をはずすとファーレーンに投げ渡した。俗にミリタリーウォッチと呼ばれる部類の時計だから、多少、手荒に扱っても心配ない。

とはいえ、ジンの腕時計は亡き父の形見であり、ハイペリアから持ち込めた数少ない物品の一つだ。

生真面目な性格のファーレーンのことだから大丈夫だとは思うが、一応、念のために釘を刺しておく。

『大事に扱ってくれよ』

しかし、ファーレーンはその言葉に答えることなく、細い眉を“ハ”の字にして、困ったように呟いた。

『あの…これはどのように使うのでしょうか?』

思ってもみなかった問いかけに、柳也は思わず眉をひそめる。

見れば腕時計を扱うファーレーンの手つきは、拙いを通り越して危なっかしい。

時計の小型実用化に成功していない世界の住人だから、当然といえば当然の反応だった。しかも今、ファーレーンは手首までをすっぽり覆う篭手を嵌めている。柳也のModel 603.EZM3はシャークスキンのベルトを三つ折式のバックルで留める仕様だが、今のままでは、そもそも手首に巻くことすら叶わない。

『貸してみろ』

柳也はファーレーンの左手首を掴み、腕時計のバックルを留めようとした。篭手をはずしてやったその手に、少年の指先が触れる。

そしてその瞬間、

『……ッ!』

ファーレーンは一瞬、ビクリ、と肩を震わせた。

慌てて柳也の手を乱暴に振り払い、自らの左手を引っ込める。

『あ……』

柳也とファーレーンが、同時に“しまった…”というような表情を浮かべた。

『す、すみません!』

ファーレーンは先ほど以上に慌てた様子で腰を折った。仮面の隙間から覗く淡水湖のような瞳に、後悔と怯え、そして哀しみの波紋が揺れていた。

『いや…こちらこそ、申し訳ない』

柳也は己の迂闊さを呪った。ファーレーンが男性恐怖症だということを、すっかり忘れていたのである。

『本当に、申し訳ない』

柳也は後悔に苦みばしった顔でもう一度謝罪した。

しかし、ファーレーンは後ろめたい気持ちが強いのか、それとも柳也を警戒してか、まともに目線を合わせようとしなかった。許しの返事すら、返ってこない。

柳也は苦渋に歯噛みした面持ちのまま、目線をニムントールに転じた。

己を見上げる緑色の眼には、姉と慕う少女に恐怖を抱かせた男に対する敵意の炎が、めらめらと燃えていた。

『…それじゃあ、時計はニムントールが持っていてくれ』

『……うん。わかった』

ニムントールは嫌悪も明らかに、柳也から腕時計を受け取った。

今度は柳也も説明は口頭のみに留め、ニムントールには触れぬようにしながら、彼女の左腕に時計を巻かせる。柳也の手首にサイズを合わせているため、さすがにニムントールの細腕にはぶかぶかだったが、篭手を嵌めれば問題ない。ただしその場合は、手首というよりも肘の辺りで巻くことになるが。

柳也は異世界の文字盤の読み方を教えると、気まずい空気のまま二人を見送った。

やがて時折こちらを振り向く後ろ姿と、つかつかとその先を行く後ろ姿が見えなくなって、柳也はシャベルを思いっきり地面に突き立てた。

何も考えずにいられる単純な力作業が、今はありがたかった。

 

 

――同日、夜。

 

エルスサーオ方面軍の兵宿舎は防衛の要たる塔に隣接する形で、砦の敷地内に計四箇所設けられていた。四つの塔は敵の進軍が予想される東側に平行四辺形状に配置されており、スピリット達の詰め所はそれよりもさらに東の、いわば最前線とでもいうべき場所に建てられている。

柳也とセラス・セッカは、案内役の下士官の先導の下、最も北側に建っている兵舎の廊下を歩いていた。

昨日は突然の来訪ということで先方の受け入れ態勢が整っておらず、結局、セラスの私費にて民間の宿での一泊を余儀なくされた二人だったが、さすがに今日は一部屋都合ができたという。ガンルーム(少尉や中尉といった尉官クラスの部屋)にベッドをツインに並べた即席の相部屋ということだが、余計な出費を伴わないだけマシだった。

『お二人の部屋はこちらになります』

先を歩いていた案内の下士官が立ち止まって、その部屋のドアを開けた。二人は揃って足を踏み入れる。それなりに立派なホテルの客室だった。床と壁に使われているチークのような木材には、まだ匂いが残っている。

『ガンルームではありますが、用意できるのはここしかありませんでしたので、ご容赦ください』

『いや、十分だ』

騎士という身分にありながら放浪の旅を経験しているセラスが、気にしてないという風に微笑んだ。

その隣では柳也が部屋の中を見回している。こぢんまりとしているが、コーポ扶桑の自室を思えば比べようもない快適な空間だ。すっかり気に入ってしまった。

『ああ。気に入ったよ』

柳也はツインの内側のベッドに腰を下ろすと、にっこりと笑った。干したばかりなのか、毛布もシーツもふかふかだ。

柳也のその言葉に、下士官は、ほっ、と安堵の笑みを浮かべた。

自分達をここまで案内してくれた下士官に、二人は柳也の正体を伝えていない。騎士セラス・セッカの従者として紹介していたから、エトランジェの柳也に対しても等しく好感の持てる笑みを向けてきた。

下士官は二人にさっと敬礼を送ると、きびきびとした動作でその場から去っていった。

ガンルームに腰を落ち着けた柳也とセラスは、早速、明日の行動について侃侃諤諤の討議を始めた。

部屋に一つだけ置かれた長方形の机に、エルスサーオとその周辺の地理を印刷した白地図を広げて、紙面上にペンを走らせる。

白地図にはすでにいくつかの書き込みが記されていた。紙面上に点在する“×”印は落とし穴の予定地を意味し、それを囲んでいる“○”印は、落とし穴を掘り終えた場所を示している。

無秩序に散らばっているように見えて実は二人にしかわからない規則性に従って記された×印は、すでに全体の三割ほどが○印で囲まれていた。

『今日一日で予定の約三割か…』

今日一日で掘り終えた穴の位置を○で囲みながら、セラスが溜め息をついた。悪態をつく声には予定よりやや遅れ気味の作業の進捗に対する不満がありありと滲み出ている。

対面に立つ柳也はそんな彼を苦笑しながら、『仕方がないさ』と、なだめた。

スピリットが戦争に投入されるようになって三〇〇年以上、この世界においてエーテル関連以外の軍事技術は、ハイペリアでの中世暗黒時代同様大きく後退している。

『穴掘りなんてこっちの世界じゃ、とうに廃れちまった技術だからな。誰もノウハウなんて知らないし、コツも知らない。初日から上手く進むなんて、俺も思っていないよ』

『しかしせめて四割まではゆきたかった。明日からは穴を掘る予定地もどんどん遠くなる。作業能率は、さらに落ちるぞ』

明日からの作業を思ってか、セラスが辛辣に言い放つ。そしてそれは、セラスをなだめる柳也の本音でもあった。

皮肉なことにこの世界ではスピリットが人間の代わりに戦うようになったおかげで、人間が傷つくことは減ったが、堀などの技術は退化していた。

他方、柳也達の世界では、人間の傷つく戦争が数千年繰り返された結果、多くの技術が発展している。集落同士の争いから生まれた堀は時代とともに進化し、やがては塹壕となってあの第一次世界大戦で泥沼の塹壕戦を繰り広げた。

『このままのペースで試算すると、速くとも予定地全部の穴を掘り終えるのに五日はかかる。その時まで、敵が攻めてこない保証はない』

『……たしかに、な。今のままのペースでいくと、落とし穴以外の仕掛け作りは断念せざるをえないか』

『かといって、落とし穴だけでは不安が残る』

『機動力に勝る相手を迎撃する上 “障害と射撃”が有効なのは、一つの原則だ。…しかし、今回は片方の射撃がない。それに俺達の世界の戦闘原則が、この世界の戦争にも適応できるとは限らない。正直なところ、障害だけでどこまで戦えるか、俺自身予想がつかない。まして障害が落とし穴だけだとな……』

『しかし、サムライが立てた計画以外に、有効な手立てが見つからんのもまた事実だ』

『結局、時間との戦いだな』

柳也は諦めたように呟くと、ベッドに身を放り投げた。

最終的にはいつもそこに結論が落ち着いてしまう。いつ攻めてくるかわからない敵に対して備えるというのは非常に難しい。いつやってくるかわからないという点では、災害への備えにも似ている。

たとえば非常時持ち出し品を準備しておくことは、その必要性と価値は分かっていても、常に即時持ち出し可能な状態を保っておくのは難しい。バッグの中に常時、保険証や預金通帳印鑑などを入れておくのは防犯という点からも不安だし、日ごろいちいち出し入れするのは極めてわずらわしい。乾パンを半年とか二年ごとに新しいもの取り替えるのはもとより、飲料水を数ヶ月に一度取り替えるのさえ、いざそれを実施するとなると、大変に面倒なものがなる。このためどうしても持ち出しバッグの中身は、いつしか空に近い状態となっていく。

一般的に防御側は攻撃側よりも神経の消耗が激しいという。なんとなれば、防御側が二四時間、八万六四〇〇秒常に気を張っていなければならないのに対し、攻撃側はその何分の一、何十分の一かの間のみ、全エネルギーを集中させればよいのだから。

『敵の指揮官がのんびりした性格か、慎重すぎることを祈るしかないな』

『リーザリオの最高司令は猛将スア・トティラだ。その祈りは、届きそうにないな』

『せめて十日だ。十日も時間があれば、猛将トティラ・ゴートをして仰天するような大量出血を、敵に強いてみせる』

柳也は力強く宣言すると、ベッドから起き上がってセラスを見た。

セラスの顔にも、彼を見つめる柳也の顔にも、いつしか精悍な面構えが戻っている。

『ゴフ殿は明日、ヤンレー司令に会って敵方に怪しい動きがないかどうか訊いてきてくれ。…あと、情報部から何か敵の動向に関する連絡があれば、優先的に回してもらえるよう伝えておいてほしい』

柳也がセラスの事を本名で呼ぶと、モーリーンは、言われるまでもない、という風に頷いた。とにかく、情報部からもたらされる情報にすべてが懸かっているといっても過言ではない。敵の動静如何次第で、計画を見直す必要性さえ出てくるかもしれない。

敵国の動向について常に最新の情報を握っている情報部からの連絡。

それを管理する方面軍司令部との関係。

彼らの防衛計画は、まだ始まったばかりだった。

 

 

――同日、深夜。

 

そろそろ日付も変わろうかという刻限、ツイン・ベッドの外側で眠る柳也の目が、静かに開いた。

音もなく首を動かし、隣のモーリーンの様子を覗う。

モーリーンはこちらに後頭部を向けたまま、身じろぎもせずにいる。規則正しい寝息の音は、彼が眠っている証だ。

柳也は衣擦れの音も最小にベッドから滑り降りた。剣者のたしなみとして、いつなんとき襲撃を受けてもすかさず手元に手繰り寄せられるよう立てかけておいた父の形見の大小を掴み、ベッド下に用意しておいた着替えを取り出す。

ベルト代わりの帯で縛った荷を肩から提げ、柳也は息を潜め、足音を殺してドアのほうへと忍び歩いた。

内側のベッドの前まで歩いて、もう一度だけモーリーンに一瞥をくれる。

やはりふかふかの夜具の上では疲労回復の度合いが違うのか、彼は安らかな寝顔を晒していた。

柳也はほっと安堵したように息をつくと、ドアに向かっての歩みを再開する。

するとその背中に、声がかけられた。

『こんな夜更けにどこへ行く気だ?』

眠っていると思われたモーリーンだった。

いつの間に目を覚ましたのか、それとも最初から寝たふりをしていたのか。

すっかり眠っているものと思っていた男の声が突如として鳴り響き、柳也は、ビクリ、と一瞬肩を震わせた後、おそるおそる後ろを振り向く。

モーリーンは瞼を閉じたままだったが、眉の間には深い縦皺を二本も刻んでいた。

『い、いやあ…ちょっと厠に……』

咄嗟に口から思いつきの嘘が出る。今時、子どもでつかないような苦しい言い訳だ。

モーリーンは目を瞑ったまま『ほぅ…』と、冷笑を浮かべた。

『ハイペリアでは厠へ行くのにも武器を持参するのか。変わった習慣だな』

『……自分でもそう思う』

柳也は諦めたように嘆息した。どうやらこの騎士殿には自分の考えなどお見通しらしい。ここは諦めてベッドに戻ったほうがよさそうだ。

柳也はガックリと肩を落として自分のベッドに戻ろうとした。

その時、呆れたように溜め息をついたモーリーンが寝返りを打ち、柳也に背中を向けてから口を開いた。

『…今日の夕餉は美味であったな』

『……ゴフ殿?』

同意を求める突然の言葉に、柳也が怪訝そうに眉をひそめる。

背中を向けながらも柳也の表情の変化を鋭敏に感じたか、モーリーンは愉快そうに続けた。

『特にあの川魚の刺身が美味かった。…ところで、貴様は内臓も一緒に、それも生で食べていたようが……気をつけるのだな。魚は一度当たると、後に尾が引くぞ』

『ゴフ殿……』

柳也がはっとした様子でモーリーンの背中を見つめた。

物言わぬ背中は、優しげに笑っていた。

『腹に何かしらの害を残したままでは翌日の作業に差し支えがある。何時間かかってもいい。サムライの頭を悩ます腹の毒……自分のすっきりするまで、出してくるがいい』

『……ありがとう』

柳也はモーリーンの背中に向かって深々と腰を折った。

顔を上げると、そこには晴れやかな笑みが浮かんでいる。

『資材置き場の倉庫の鍵は、ヤンレー司令の許可証なしには借りれんぞ?』

『わかっているよ。だから、忍び込むつもり』

『ふっ…騎士モーリーン・ゴフも堕ちたものだ。よもや泥棒の片棒を担ぐことになろうとは』

そう自嘲の言葉を口にするモーリーンの口調には、穏やかな感情が宿っている。

柳也はもう一度深い感謝の念を篭めて頭を下げると、静かに部屋を出た。

『…まったく。下手な嘘をつくくらいならば、正直に言えばよいものを……』

退室の間際、モーリーンのそんな呟きが、彼の背中を叩いた。

 

 

ガンルームを辞去した柳也は音もなく廊下を忍び歩くと、誰にも気付かれることなく玄関を出て、勇み足を方面軍資材倉庫へと向けた。

時刻が時刻だけあって、さすがに誰とも擦れ違わないが、二四時間体制で見張りを設けている塔には皓々と灯りが見て取れる。

ふと夜空に目線を向ければ、満天の星空が彼を優しく見つめていた。

以前、悠人が口にしていたように、あの中の一つが自分達の暮らしていた地球かと思うと、こんな異世界にまで来て戦争をしている自分の存在が、酷く馬鹿らしく、そしてちっぽけに思えてくる。

――星空を見上げることで己の小ささを感じる…俺もロマンチストだよなぁ…。

【どの辺りがだ?】

久々に〈決意〉の冷静なツッコミが返ってきて、思わず柳也は微笑する。

ここ数日、柳也の口は開けば、エルスサーオ防衛に関することを話すばかりで、話題についていけない〈決意〉としては面白くなかったのだろう。彼の声を聞くのは実に三日ぶりだった。

数日ぶりに聞く一心同体の相棒の声に、柳也は不思議な安心感を覚えた。

【ふぅむ…やはり我も主の神剣として、まずは戦車の名前を憶えるべきか……】

――無理して憶えなくてもいいっての。…ちなみに、本気で戦車のことを知りたいのなら、まずはドイツのW号戦車から入るといいぞ。あれは戦車という兵器の一つの完成形だからな。ティーガー、パンター、T-34、シャーマン…第二次世界大戦じゃたくさんの名戦車が生まれたが、W号戦車ほどバランスの取れた戦車はなかったからな。

柳也はW号戦車について熱く語った。当時としては革新的な動力駆動方式の砲塔。戦後第三世代の戦車にも通じる完成されたレイアウト。短砲身7.5cm砲の威力。長砲身7.5cm砲の貫通力。最強のH型。アフリカ戦線での戦い。無理に憶える必要はないと言っておきながら、その語り草はまるで歌舞伎役者のように熱が篭もっている。

いよいよ柳也の語りが饒舌になり、ノルマンディー上陸作戦以後の話に進もうとした段階で、しかし彼は不意に足を止めた。目的の場所に、到着したためだ。柳也の前方七・八メートル先に、六件の資材倉庫が梯子状に連なって建っている。

「…〈決意〉、W号戦車の話はまた今度だ」

【うむ…】

断腸の思いで話を打ち切ると、なぜか〈決意〉から、安堵したかのような感情のうねりが伝わってくる。

楽しい会話の中断を残念がるならばまだしも、なぜ、相棒は安堵しているのだろうか。

柳也は不思議でしょうがなかったが、本人に訊ねようとは思わなかった。これから〈決意〉には、自分の質問に答える以上に、やってもらわねばならない事があるのだ。

柳也は勇み足を慎重な忍び足へと移すと、気配を殺して倉庫に近付いた。

六つの倉庫に対して守衛は二人。柳也と同世代か、それよりやや若いくらいか。おそらくは徴兵だろう。二人は欠伸を噛み殺しながら、猥談に花を咲かせている。

今夜の柳也にとってはありがたいことに、あまり真面目な性格ではないようだ。

柳也は二人の死角に回り込むと、倉庫の一つに忍び寄った。エルスサーオ防衛計画で要請した資材がストックしてある倉庫だ。幸いにしてその倉庫は守衛の二人がたむろしている倉庫とは正反対に位置しているから、ちょっとやそっと騒がしくしても、気付かれる心配はない。

柳也は倉庫のドアに手をかけた。

引き戸の扉には無論、錠前がかかっている。鍵は守衛のどちらかが持っているはずだ。

――それじゃあ〈決意〉、頼むぜ…。

【承知した…】

柳也はドアの錠前に触れた。

血とともに体内を巡る〈決意〉を指先に集め、錠前にその一部を寄生させる。

すると、錠前に宿った〈決意〉を通して、柳也の脳裏に錠の内部構造が鮮明に浮かんできた。以前、イギリスの特殊部隊についての本で見たことがある、単純なピストン方式の錠だ。

柳也が〈決意〉にマナを送り込むと、脳裏に浮かぶシリンダーが次々と上昇し、やがて、カチャリ…、と、静かにロックが解除される。

柳也はしめしめと邪悪に唇を歪め、無駄に音を立てぬよう慎重にドアを開いた。

僅かに開いた隙間からするりと侵入し、灯りのない倉庫内をぐるりと見回す。普段から鍛えている柳也の視力には、問題のない暗闇だった。

すぐに目的の物を見つけた彼は、続いてそれらを運ぶためのリヤカーを探す。程なくして、ちょうどよい大きさの代物が見つかった。僅かに錆が気になったが、馬の皮を貼り付けた車輪に問題はなさそうだ。

柳也はリヤカーの荷台にシャベルを三本と空の麻袋を積めるだけ、そして落とし穴の底に仕掛けるスパイク用の木版を載せると、そっと入口のほうへと歩き出した。

荷台の荷がガタガタとうるさい。柳也は外に出る前に一度リヤカーを置き、土嚢を一つ探した。袋の中身を暴き出し、荷物の隙間を埋めるように土を被せる。かなり重量が増えてしまったが、その分騒音は大きく減少した。

柳也は満足そうに頷くと、徐に衣服を脱いだ。小脇に抱えていた着替えを広げ、持ってきた戦闘服に袖を通す。軍用のトラウザーはエーテル技術加工こそ施されていないものの、それでも、寝巻きよりは丈夫で動き易い。

「…さてと、いっちょ腹ン中に溜め込んでいるモンを、すっきりさせますかね」

柳也はひとりニタリと微笑むと、リヤカーを押し出した。

 

 

日付が完全に変わってしまった深夜。

ファーレーンは誰もいない野外訓練所でひとり木剣を振るっていた。当然、練磨しているのは居合の技ではない。居合の技を練習するためには、たとえ刀身が竹光であっても鞘付の拵が必要だ。木剣、木刀に鞘はない。

ファーレーンは剣術の初心にかえって素振りを繰り返していた。扱う木剣の尺は、愛用の永遠神剣に合わせて定寸だ。女の手には扱い余る代物だが、ファーレーンはそれを苦もなく振るっている。

しかし、その太刀筋は普段の彼女が振るう居合の太刀筋と比べると鈍重で、のびやかさに欠けていた。

別段、居合の稽古ばかりにかまけて、素振りの要訣を忘れたわけではない。居合の使い手は、並の剣者以上に撃剣稽古を重視しているという。居合は、ハイペリアでは時代が時代なら秘儀として、たとえ第一の門弟であっても秘匿されてきた技だ。素振りもロクに出来ない剣士に、居合の技が使いこなせるはずもない。

彼女の太刀筋を鈍らせている原因は、単なる稽古不足ではなかった。

ファーレーンの太刀筋を鈍らせる原因は、ひとえに彼女の胸の内のつかえにあった。

『今日は失敗しちゃったな……』

木剣を振るう反復動作の手を休めぬまま、仮面のファーレーンは呟いた。

月明かりに照らされて、鉄の仮面がくすんだ青色に染まっている。相変わらずその表情は隠れて見えなかったが、僅かに覗く目元は悲しげに揺れていた。

木剣を上下に往復させるその都度、ファーレーンの脳裏には柳也の顔が浮かんでいた。

『本当に、申し訳ない』

かえすがえすも後悔の念とともに思い返されるのは、そう言って謝罪した柳也の顔。自責の念にかられた少年の、苦しげな表情だった。

――リュウヤさま……。

脳裏に焼きついて離れない少年の沈んだ面持ちを思い浮かべて、ファーレーンもまた苦しげに唇を噛む。

あの時……柳也に手をつかまれたあの時、自分は驚きのあまり思わず手を引っ込めてしまった。

特に柳也が何かしたというわけではない。彼は異世界の小道具の扱いがわからない自分に、使い方を教えようとしてくれただけで、非は突然、何も言わずに手を引っ込めた自分のほうにある。

それなのに、柳也は自分に謝ってくれた。非はファーレーンが男性恐怖症だということをすっかり忘れていた自分にあるとして、深々と腰を折ってくれた。

ファーレーンにはそれが嬉しかった。

人間のほうから謝罪してくる。それはファーレーンにとって、生まれて初めての経験だった。

謝罪とは、自らを相手の下に置いて己の罪を謝る行為のことをいう。

人間以下の…国際情勢次第では家畜にすら劣る存在として扱われるスピリットに、謝罪の言葉を述べる人間はほとんどいない。たとえ自分のほうに非があるのは明白であったとしても、逆にスピリットに謝らせ、責任を取らせるのがこの世界の常識なのだ。

それがたとえ一時の恥に過ぎなかったとしても、この世界の人間は自らをスピリットの下に……家畜の下に置くことを、絶対に認めない。

そんな常識がはびこる世界にあって、自分を対等の立場の人間として扱ってくれた柳也の謝罪は、ファーレーンに驚きと深い感動を与えた。

誠実な柳也の態度を好ましく思うと同時に、非礼をはたらいた後も自分達の身を気遣う彼の気持ちが嬉しかった。

そしてそんな彼の態度によって、『自分だけが悪いんじゃないんだ』と、心の片隅で芽生えた小さな思いに気が付いたファーレーンは、愕然とした。

――わたしは……。

『自分だけが悪いんじゃないんだ』と、救われた気持ちになっていた。

視界に映る柳也の頭に、『この人にも非はあるんだ』と、安心してしまった。

それは心の土壌に芽吹いた、本当に小さな芽にすぎなかったが、ファーレーンはそんな感情を抱いてしまった自分が、なんだか醜いもののように思えてならなかった。そんな自分が嫌いだった。

正規の訓練時間が終わって四時間以上、人気のない野外訓練場で独り稽古に赴いたのも、すべてはそこに起因する。身体を動かし続けていることで、ちょっとでも考える時間を減らしたかったからだった。

しかし、こうして木剣を振るっている最中ですら後悔の念と柳也の顔が浮かんでは消えない。

雑念を払おうと一太刀を振るうたびに、かえって胸のわだかまりは大きくなっていく。

そして胸のつかえが大きくなればなるほどに、ファーレーンの太刀筋は鈍っていった。

『これじゃ、駄目よね…』

自分の不甲斐ない太刀捌きに嘆息し、ファーレーンは素振りの本数が一千本を数えたところで、木剣を地面に置いた。

一千本に及ぶ素振りの後、荒い息遣いとともに厚い戦闘服の生地に覆われた形の良い胸がゆっくりと上下する。

内に篭もった熱を逃がすべく鉄の仮面をはずすと、火照った頬に冷たい風が心地良い。

『あら……?』

仮面をはずして広がった視野の中、ファーレーンはふと気が付いた。

エルスサーオ方面軍の野外訓練場は、いざ敵が捲土重来してきた時に備えて、ちょっとした野戦が可能な広さの敷地面積を持っている。

ファーレーンの居る位置から数十メートル先、スピリットの詰め所へと続く道を、一人リヤカーを押して進む男がいた。それは目下、ファーレーンの頭の中から消えない人物だった。

『…リュウヤさま?』

異世界からやって来た少年は、こちらのほうには一瞥もくれずに静かな足取りでリヤカーを押していた。どうやらファーレーンの存在に気付いていないらしい。

こんな夜更けに何をやっているのだろう? いや、深夜に独りで歩いているのは自分も一緒だが、それにしてもあのリヤカーはいったい……?

ファーレーンは少し考えてから彼の後をつけることにした。

昼間は動揺のあまり謝罪されてもそれを許す言葉一つかけられなかったから、そのことを謝りたいという気持ちもあった。

一度はずした仮面を被り、木剣と長年連れ添ってきた愛用の永遠神剣を掴む。

永遠神剣第六位〈月光〉。細身の刀身に鉄をも裂く切れ味を宿した、ファーレーンの無二の親友だ。庄内拵えにも似たシンプルな黒鞘の内に隠した刀身は、面長の三日月を思わせ、ファーレーンの密かな自慢だった。

ファーレーンは息を潜め、足音を殺すと、神剣の力をコントロールして完全に気配を消す。もともとブラックスピリットは隠密行動の術に長けている。訓練途中の自分でも、十メートルくらいまでの接近なら気付かれないはずだ。

ファーレーンは念のため二十メートルの距離を測りながら柳也の後を追った。

柳也は奇妙なくらいに周囲を気にしながら、リヤカーを押していた。その足取りは極めて静かで、ガタガタとうるさいはずのリヤカーからもほとんど音がしない。夜道にも拘らず、携帯エーテル灯は持っていなかった。柳也が人目を忍んで歩いているのは明らかだ。

柳也はスピリット隊の詰め所へと続く分かれ道を通り過ぎると、そのまま砦の城門のほうへと向かっていった。進行方向からスピリットの詰め所が行き先かと思っていたが、どうやら違ったらしい。

――けど、このままじゃ街の外に……。

敵の侵攻に備えて街の最南端に設けられた砦の城壁を抜ければ、もはやそこはエルスサーオの外である。街の中であればともかく、外となるとますます深夜にする事などないように思えるが。

やがて柳也はリヤカーを押して城門のほうへと歩いていった。

門番の兵士に二、三言葉を交わし、ぺこり、と頭を下げる。どうやら門を通ることを許されたらしい。

後を追うファーレーンは、しかし城門を前にして少し迷う。

一部の人間を除いて、柳也の存在は騎士セラス・セッカの従者としてエルスサーオでは通っている。人間ならばこそ許される夜間の外出も、スピリットの自分に許可が下りることはないだろう。夜間に基地からスピリットが外出することは、余程の用がない限り厳しく制限されている。

――…ごめんなさい。

ファーレーンは胸の内で何度も番兵に謝罪すると、神剣の出力は最小限にウィングハイロゥを展開した。神剣の力を抑えているため、純白の翼はやや小ぶりだ。それでも、城壁を飛び越えるのに十分な跳躍力を与えてくれる。

小さく地面を蹴って跳躍すると、ファーレーンの身体は七、八メートルもある城壁のさらに二、三メートル上空まで舞い上がった。小ぶりな翼に飛行するほどの力はないが、それでも滞空時間は長い。空から獲物を狙う猛禽の気持ちで地上に目線を走らせると、程なくして街道を南東に進む柳也の姿を見つけた。

エルスサーオの外に出て人目を気にする必要がなくなったのか、柳也は神剣の力を解放していた。まるで獲物を捕捉した野生の肉食獣のような勢いで猛然と街道を疾走し、リヤカーを押し出している。

軽く見積もっても時速四〇キロ近い俊足だろう。そのスピードと反動は、上空から見ていてリヤカーの車輪が壊れてしまうのではないかと思わせるほど苛烈だった。

ファーレーンは慌てて地上に降り立った。

柳也は人目を気にしないでよくなったかもしれないが、尾行する彼女は必死だった。

自分の存在を秘匿するために神剣の力は使えないから、文字通り自力で追わなければならない。居合の剣をたしなむ者として人並み以上には鍛えているファーレーンだったが、同じように鍛えている上、神剣の力を解放している柳也の脚力とは比べるまでもなかった。

ファーレーンは懸命に足を動かしたが、柳也の後ろ姿はどんどんと遠ざかっていった。

もはや二十メートルを測りながらなどと言ってはいられない。ファーレーンは何とか柳也の姿を視界に捉えようと必死だった。

一方的に差が開き続けるばかりの鬼ごっこは、しかし両者の距離が致命的なものになる前に終わった。

走り続けること約三分、エルスサーオの街から東に二キロほど進んだところで、柳也は足を止めた。どうやら目的の場所に着いたらしく、ファーレーンも立ち止まり、街道をはずれて草むらの中へと身を隠す。しゃがんだ状態でじっと動かずにいれば、エーテル灯を持たない遠目には大きな石にしか見えないはずだった。

草むらにしゃがみこんだファーレーンは、そこでふと気が付いた。

この場所には見覚えがある。というより、つい最近自分はここを訪れたばかりではないか。それも昨日の昼過ぎという、極めて最近の出来事だ。

ふと柳也に目線を向けると、彼はリヤカーを倒して大量の土を地面に吐き出していた。さらに彼は荷台に手を突っ込むと、大型のシャベルを取り出す。

その光景を目にして、ファーレーンはようやく柳也の目的に気が付いた。

「さあて、いっちょ気張っていきましょうかッ!」

異世界の言語だろうか。

聞き慣れぬ発音の気合を口から迸らせ、柳也はシャベルを地面に突き立てた。

シャベルのブレードが面白いように地面を裂き、サクッ、と小気味良い音が響く。

そして同時に、いまや現地人と比べても遜色のない聖ヨト語が、柳也の口から紡がれた。

『…ところで、そこの草むらに隠れている人よ、できるなら俺のことは見逃してくれないか?』

 

 

――聖ヨト暦三三〇年、ホーコの月、緑、よっつの日、深夜。

 

『――できるなら俺のことは見逃してくれないか?』

柳也は背後の気配に背を向けたまま、溜め息混じりに呟いた。

背後の草むらから、ガサリ、と不自然な葉のこすれ合う音が鳴り響く。

柳也はシャベルで地面を突き刺しながら、顔の見えない相手に向かって語りかけた。

『城壁を飛び越えるのにウィングハイロゥの力を使ったのは失敗だったな。出力を抑えていたみたいだが、あの程度のマナの放出でも、気付く奴は気付くぞ』

『……』

草むらから返事はない。

しかし、返答がなくとも柳也には相手の動揺が手に取るように分かった。

柳也が己を尾行する者の存在に気が付いたのは、エルスサーオの城門をくぐってすぐの事だった。それ以前にも自分の後ろを隠れて追う何者かの気配を薄々は感じ取っていた柳也だったが、尾行されている、という確信を抱いたのはその時だ。城門をくぐって程なくして、世話焼きの相棒がかすかなマナの揺らぎを教えてくれたのである。

『青か黒かは知らないが、夜間、スピリットが基地の外に出ることは厳しく禁じられているはずだ。まぁ、その点は俺も一緒だがな。…どうだい? ここはお互い顔も見ていないことだし、事は穏便に済ませるっていうのは?』

『……それを決める前に、一つ訊きたいことがあります』

やや間があって、背後の草むらから声がした。

昨日と、一昨日の二日間で随分と耳に馴染んだ声だった。

柳也は地面を掘る手を休めぬまま、背後からの問いかけを待った。

やがてゆっくりと言葉を選ぶように、草むらから美麗な声が流れてきた。

『あなたは……どうしてこんな時間にこんな場所へ?』

『ん。見ての通り、穴掘りのためさ』

柳也は淡々とした口調で答えた。

顔の見えない話し相手が自分の部下のひとりであることはほぼ間違いなかったが、彼はあえて何も知らない他人と接するように言った。

『実はここに落とし穴を始めとする障害を設けて防御陣地を作ろうと思っているんだ。そのための作業を昨日から始めているんだが、どうも進捗芳しくない。みんな落とし穴なんて掘ったことがないせいか、予定していたよりも作業が遅れ気味なんだ。それで、ちょっとでも作業の遅れを是正できたらなと、時間外労働に励もうかなって』

『…よく、ヤンレー司令から許可が下りましたね?』

『う……痛いところをついてくるなぁ』

柳也は思わず地面を掘る手を止めた。

その反応に、草むらからは『まさか……』と、震えた声があがる。

『忍び込んだんですか? 倉庫に?』

『あ〜…いやぁ……まぁ……こんな深夜に、シャベルを借りるためだけに司令を叩き起こすのもアレだしさ、資材管理部にも迷惑がかかるだろうと思って』

『……ばれたら厳罰ですよ』

『見逃してください』

柳也は神妙な態度で言った。

背後から呆れとも嘆きともつかない溜め息が聞こえてくる。

そして同時に、草むらの奥で苦笑がはじけた。

何事かと不信に思う柳也の視界の端から、ぬっ、とシャベルが伸びてくる。

柳也は地面を突く手を休め、隣を振り返った。

『……ファーレーン?』

『わたしも手伝います。リュウヤさま』

仮面のファーレーンはそう言うと、柳也が予備のために持ち出したシャベルを地面に突き立てた。柳也が掘っている落とし穴の縁を崩し、穴を広げていく。たちまち、人一人がすっぽり腰まで入る落とし穴が完成した。

『一人よりも二人でやったほうが効率が良いと思いますし』

『そりゃまぁそうだが……しかし、いいのか?』

スピリットの夜間外出は正当な理由がない限り固く禁じられている。第二次世界大戦中、ドイツの統治下にあったポーランドなどのユダヤ人と同じだ。外出厳禁の規則を破った者には、規律を乱したとして厳しい処罰が待っている。

スピリットの場合はユダヤ人と違って戦力としての価値があるから、さすがに刑務所送りといった罰則はない。それでも、この時間帯に自分と一緒に基地の外にいることは、ファーレーンとしては歓迎できる状況ではないはずだ。自分ひとりならばリリアナの従者ということで言い訳が立つが、ファーレーンが一緒だと万が一、誰かに見つかった時に、取り繕いようがない。彼女の場合はスピリットというだけで有罪になってしまう。

それでなくても、ファーレーンには今日も朝から訓練が待っている。ごく近い将来のことを考えるなら、ここは無理をして夜更かしするべきではない。

しかし、柳也の懸念をよそに、ファーレーンは迷わず首肯した。

『これこれファーレーンさんや、もう少し考えてから頷いておくれ』

『ええ、考えました。考えに考えた上で、リュウヤさまのお手伝いをすることに決めました。……それに、基地から無断で外出していることがばれたら大変なのは、リュウヤさまもご一緒ですよね?』

仮面の奥から探るような視線。

たしかに、いくら言い訳が立つといっても調べれば自分がエトランジェだということはすぐに分かることだし、無許可で倉庫から資材を持ち出したのは立派な横領だ。破った際の罰則は、外出禁止どころの騒ぎではない。

そしてファーレーンは、自分がエトランジェだということも、倉庫から無断で資材を持ち出したことも知っている。

――なんとまぁ、可愛らしい脅迫もあったもんだ。

手伝わせてくれないならこの二つの事実を公表します……暗に提示された脅迫内容に、柳也は思わず苦笑した。

諦めたように肩をすくめると、

『……わかった』

と、穏やかな笑みを浮かべて首肯する。

『それじゃあ、頼むよ。落とし穴の配置は覚えているか?』

『はい。…まだ少し不安ですけど』

『一応、配置図のほうも持ってきたから確認しながら掘っていってくれ』

マップケースにしまった白地図を取り出し、ファーレーンに手渡す。

紙一枚を挟んでの接触。ファーレーンは、今度は手を引っ込めなかった。

柳也の唇から安堵の息が漏れる。直接手に触れないよう注意したとはいえ、また避けられないかやはり不安だったのだ。

そんな柳也の表情の変化を読み取ったか、ファーレーンは今しかないとばかりに、柳也に向かって頭を垂れた。その肩は、わずかに震えている。

『昼間は申し訳ありませんでした! リュウヤさまのお気持ちも考えずに、あんな……』

『ファーレーン…もう、いいって』

柳也は、長年の憑き物が落ちたかのようにすっきりとした顔に優しい笑みをたたえた。

胸の奥底から、ぐっ、と熱い感情の迸りが込み上げてくる。嬉しいという熱い感情が、柳也の顔面に笑みを作っていた。

だが柳也はすぐに神妙な表情を浮かべると、今度は自分のほうからファーレーンに向かって深々と頭を下げた。

『俺のほうこそ、すまなかったな。ファーレーンが男性恐怖症だって、すっかり忘れていた。本当なら、指揮官の俺がいちばんよく知っていなければいけないことなのに。…本当に、申し訳ない』

『リュウヤさま……いえ、ありがとうございます。スピリットのわたしに、そんな風に謝ってくださるなんて……』

『スピリットだからとか、人間だからとかは関係ない。これは、俺の正直な気持ちだから』

柳也は顔を上げると、重々しく口を開いた。

『実は、さ……昔、もとの世界で暮らしていた時にも、同じような事があったんだ。…知り合いに、ファーレーンと似た奴がいたんだ』

『わたしと?』

『ああ』

柳也はゆっくりと頷くと、どこか遠い目をして夜空を見上げた。故郷の惑星の空と、同じ空だった。

『そいつは男で、ファーレーンみたいに異性が怖いってわけじゃなかったけど、一時期、他人を物凄く怖がっていた時期があったんだ。両親を失って、その財産目当てに近寄ってきた大人達の……人間の、汚い部分ばかりを幼い頃に見て、人間不信になっていたんだよ。……当時、そいつが信じることができたのは、死んだ両親の言葉だけだった。他人の温もりを恐れて、怯えて、人肌に触れることすら嫌がった。そういう時期があった』

『その方は……』

『いま、ファーレーンの目の前に居るよ』

『…………』

ファーレーンは驚愕の眼差しで柳也を見つめた。

目の前の陽気な少年に、そんな時期があったなど信じられなかった。

茫然と口をつぐんでしまったファーレーンに苦笑を向けると、柳也はしゃがんで作業に戻った。十分な深さと広さを確保した落とし穴の底と壁面に、先端を尖らせた木材を埋め込んでいく。

スパイクを埋めながら、茫然と立ち尽くす彼女に、思い出を懐かしむように語りかける。

『父さんと母さんが死んだばかりの頃の俺は、そんなだった。人間の汚い部分ばかりが目立って、同世代の友達すら作らずに、自分さえも汚らしく思って……荒れていた。売られた喧嘩はすぐに買ったし、こっちからも喧嘩を吹っかけていた。あの時期の俺は、どうしようもないガキだった。施設の先生にも、たくさん迷惑をかけた。自分以外のすべての人間が、怖かったんだ』

あの頃の自分はどうしようもない子どもで、自分を含めたすべての人間が汚らしい存在に思えて、ただただ怖かった。恐ろしかった。だから他人との接触を避けた。自分に触れようとする全てに対して、幼い牙を剥いた。信じられるのは死んだ父と、母の言葉だけだった。

まだ小さかった佳織と瞬が野犬に襲われているのを助けようと飛び出した時でさえ、頭の中にあったのは死んだ父の言葉だった。当時の柳也は瞬と佳織を守るために無謀な戦いに挑んだわけではない。ただ、父の遺言を忠実に守って飛び出したのだった。

『俺は特別、女の人が怖いというわけじゃない。俺が他人を怖がっていたのと、ファーレーンの男性恐怖症とは本質的には違う問題だ。けど、触れられるのが怖いっていう気持ちは、俺にもよく分かる。…いちばんよく分かっていなければ、ならないからこそ、自分の不注意が腹立たしく、情けないんだ』

『リュウヤさまは……』

『ん?』

『リュウヤさまは、どうやってそれを克服したんですか?』

『……正確にいうと、克服させてもらった、だな』

異世界の夜空の星の並びにありもしない星座を見つけて、柳也は口元に微笑をたたえる。

満天の星空の中に見つけた第二の父と、大切な幼馴染、そして唯一無二の親友は満面の笑みとともに自分を見下ろしていた。

『…三人だ。人間が決して汚いばかりの存在でないことを教えてくれた人達が、俺の側には三人もいてくれた。そしてそれ以上にもっと多くの人達が、いまの俺を作ってくれた。…勿論、その中には一昨日会ったばかりのファーレーン達も含まれているぜ?』

柊慎也。高嶺佳織。高嶺悠人。碧光陰。岬今日子。夏小鳥。しらかば学園の兄妹達。学園の仲間達。アセリア。エスペリア。オルファ。リリアナ・ヨゴウ。クルバン・グリゼフ。モーリーン・ゴフ。そして、秋月瞬。

いまの自分があるのは、すべて彼らのおかげだ。今この瞬間に至るまでの間に出会ってきた彼らの誰一人が欠けても、今の自分はありえなかった。

『恐怖症に特効薬は存在しない。だから、俺はファーレーンに男性恐怖症を治せなんて、無茶な事は言わない。でも、出来るだけ努力はしてくれ。俺も出来る限り注意して行動するし、協力もするから』

かつての柊園長や佳織、瞬達のように、自分がファーレーンの男性恐怖症を治してやる、なんて軽々しく言を吐けるほど、柳也は自信家ではない。だが、過去の自分とよく似たファーレーンの力になってやりたいというのは、偽らざる柳也の本心だった。

少しでも彼女の力になれればと思ったからこそ、柳也は恥ずべき過去の自分を明かしたのだった。

スパイクを埋める柳也の手が止まった。落ちた者に容赦なく牙を剥く凶悪な落とし穴が完成し、彼はおもむろに立ち上がる。

掌や膝に付いた土を払いながら、柳也は口を開いた。

『……俺からの話は終了。悪いな。謝るだけのつもりが、長々と説教話みたいになっちまって』

『いえ…とても、素敵なお話でしたから』

『そうか、そう言ってくれると俺も嬉しいよ』

柳也はにっこりと笑いかけた。自分の人生の中で特に大切な三人を褒められたようで、誇らしい気持ちだった。

『さて、無駄話はここまでにして、そろそろ本格的に作業を始めようか。時間もあまり、ないことだし』

『はい。……あ、でも……』

一旦は頷いたファーレーンが、思い出したように前言を撤回するように口を開く。

『でも、無駄ではないお話なら、してみたいです』

『あん?』

『リュウヤさまのこと、リュウヤさまの暮らしていた世界のこと…もっと話していただけませんか?』

柳也は仮面の奥のファーレーンの目を見た。

柳也の話を聞いて異世界の風景に興味を抱いたか、彼を見つめる眼差しはきらきらと輝いていた。

『……ああ、いいとも』

柳也は力強く頷いた。

『W号戦車の素晴らしさについて、とくと語ってやるよ』

【……それこそ、無駄話のような気もするが】

柳也の力強い発言に、〈決意〉が冷静に言い放った。

 

 

――聖ヨト暦三三〇年、ホーコの月、緑、よっつの日、早朝。

 

大陸全土の空がうっすらと桃色に染まろうとしていた。

もうすぐ、夜が明ける。

白兵戦用の重装備に身を包んだセラス・セッカは馬を駆って城門をくぐると、一路南東へと愛馬を走らせた。

手綱を握る馬は、ラキオス軍通信部隊で飼っている軍馬の中でも、特に俊足で知られた荒馬だ。名を、ウラヌスという。ラキオス軍に入隊したばかりの頃、兵達の前で得意の馬術を披露してやろうと馬の選定をした時に一目惚れしてしまった馬だった。

ウラヌスは駿馬だったが、同時に気性の激しい荒馬だった。気を許した相手でなければ決して背中に乗せない誇り高い性格の持ち主でもあり、セラスはこの荒馬を十回二十回と振り落とされながら、やっとのことで調教に成功したのだった。

一度背中を許した相手に対して、ウラヌスは従順だった。そして騎手の思いによく応えた。

文字通り疾風怒濤の勢いで街道を駆け抜けること僅か四分弱、ウラヌスはほとんど時の経過を感じさせぬまま建設中の防衛陣地へと到着した。

セラスは手綱を力強く引いてウラヌスの歩みを止めると、自らはその背中からひらりと飛び降りた。

鼻をこすりつけてくるウラヌスに僅かな間の別れを告げて、彼は何を思ったか、街道の外へと一歩踏み出す。民間人も利用する街道の外に足を運ぶことは、巧妙にカモフラージュされた落とし穴の森に飛び込むことを意味している。他ならぬセラス達が手ずから掘った落とし穴の群れだった。セラスは頭の中に叩き込んだ地図を思い出しながら慎重な足取りで平原へと足を踏み入れた。

一歩前に進むその度に、草の根を踏み折る音と、じゃらじゃらとした鎖の音が鳴り響く。

やがてセラスの歩みが止まった。

鉄板を仕込んだ革靴を履く彼の足下には、未完成の落とし穴があった。縦の深さは約二・五メートル、横の幅は最大で一・五メートルほど。スパイクはまだ埋め込まれておらず、その奥底には……

『……』

落とし穴の底へと目線を落としたセラスは、軽く溜め息をつくとマントを剥ぎ取った。敵の攻撃から身を守るために、厚手ながら軽量に編まれたマントを、そっと穴の中へと放ってやる。

厚手の生地は徐々に落下していき、やがて終点にて温もりに触れた。

落とし穴の底では、セラスの見知った顔ぶれが二人、まるで寄り添うように眠っていた。

桜坂柳也と、ファーレーン・ブラックスピリット。

土に汚れ、埃に塗れた彼らの寝顔は、しかし労働の後だからか、気持ち良さそうに見えた。

『……よもや私がエトランジェやスピリットなどに施しをしようとはな』

セラス・セッカは自嘲気味に呟くと、ウラヌスのもとへと引き返した。

 

 

 

 

 


<あとがき>

 

タハ乱暴「読者の皆様、おはこんばんちはっす。作者のタハ乱暴でございます。前回のあとがきではまず最初に述べておくべき感謝の言葉を後回しにしてしまい、たいへん申し訳ございませんでした。その反省というわけではありませんが、今回はいの一番に感謝させていただきます。

永遠のアセリアAnotherEPISODE:19、お読みいただき、本当にありがとうございました!」

 

北斗「おお! 今回はわりとまともな出だしだな」

 

タハ乱暴「それは聞き捨てならならないな、北斗。いままでまともでない出だしが一度でもあったか?」

 

北斗「たくさんあったと思うんだがなぁ……ところで、タハ乱暴?」

 

タハ乱暴「んん?」

 

北斗「なぜ、今回のあとがきの柳也は、あんなニッコニッコしているんだ?(柳也を指差しながら)」

 

柳也「ひゃっほーい!」

 

薄紅のセーラ「ようやく彼のイラストが上がってきた、らしい……ふん、あんなド畜生など一生あのままでよかったものを」

 

柳也「……む、それは聞き捨てならないなぁ、そこな可愛い子ちゃぁああん(某乳母車の子どものように)! それに畜生は差別用語だぞ? そんな汚らしい言葉遣いはやめなさい」

 

北斗「む? たしか、お前も第四話で同じ言葉を使っていた記憶が……」

 

柳也「細かいことは気にするなっハハーン! それよりも、今回、ついに俺の絵が!」

 

タハ乱暴「ゆきっぷうが頑張って描いたのを、俺が頑張って隠していたんだがなぁ……ついに見つかってしまった」

疾風春雷のゆきっぷう「隠すなよ。ともかく、桜坂柳也のデザインについては当局からの規制もあって(嘘)、だいぶ難航したのだ。その辺りの苦労とか経済的出費とか、踏まえた上で俺をあがめろ、柳也」

 

柳也「らっせらー、らっせらー」

 

北斗「……いいのか、ねぶた祭り風で?」

 

セーラ「ド畜生二人にはお似合いです」

 

北斗「二人!?」

 

ゆきっぷう「俺もかYO!?」

 

柳也「こら、勝手に俺まで含むなYO!」

 

タハ乱暴「ええと……このまんまだと、話進まないから、そろそろ、絵、載っけてもいい?」

 

柳也「おう! 載せろ! そして俺の美形ぶりをあがめたたえろ!」




柳也「どうだ! この、俺様の超絶的にカッコイイ絵…は……あれぇ?」

 

若菜のクリス「は、はじめまして。EPISODE14で戦死した後、夢とロマンを追い求めて地獄の底から復活したクリス・グリーンスピリット改め若菜のクリスです。気安くクリスなんて呼ばないでね、そこの羽虫ども」

 

柳也「E!?」

 

ゆきっぷう「前回の宣言どおり、描き上げてきたぜ! タハ乱暴!」

 

タハ乱暴「ウレーシェ、ゆきっぷう! ガッデム、ゆきっぷう(よく意味もわからずに使っている)! どうだ柳也、この可愛らしいお嬢さんは!? 嫁にしたいか? 嫁にしたいだろう!?」

 

柳也「チョット待てYO! なんで主人公の俺の絵よりも先にこんな出番が一話限りモブキャラなんだYO!?」

 

クリス「当然よ。アンタみたいな羽虫なんか一生立ち絵なしで世の中オッケーなの。っていうか紙と容量の無駄よね」

 

柳也「チョット待てYO! 百万歩譲って紙と容量の無駄は認めてやるけどYO! なんで俺が羽虫なんだYO!」

 

タハ乱暴「羽虫でいったらバッタ繋がりで北斗なんだけどなぁ」

 

クリス「だから言ったでしょ、羽虫どもって(北斗と柳也を指差す)」

 

北斗「……ふむ。自信家という性格設定はタハ乱暴が決めていたが、そこにゆきっぷうが毒舌属性を付加しおったか」

 

柳也「チョット待てYO! そんな冷静に言ってる場合じゃないYO! このままじゃ俺の絵がどんどん先送りになるだけだYO!」

 

ゆきっぷう「しょうがないな……じゃあ、いくぞ。ほれ」




クリス「うあ、キモ」

 

セーラ「アポカリプス!」(黙示録の業火が原稿を襲う)

 

柳也「わ、ちょ、ちょっと待てって! 原稿が、燃える! 燃える!」

 

北斗「いかん! 原稿を身を挺して守ろうとしている柳也まで燃えている」

 

柳也「うあちゃ! うあちゃ! あ、いかん、俺の体内のブラックエネルギー胃袋器官が!」

 

タハ乱暴「いつからお前は怪獣になったんだ」

 

ゆきっぷう「データ化してるから燃えないんだけどね。ともかくデザインについて真面目な話をば。タハ乱暴?」

 

タハ乱暴「ええと、まず、事の経緯を話すとですねぇ……アセリアAnotherの構想を話している段階で、突然、ゆきっぷうが『俺、アイリス書くよ!』と、言い出したために、本作の作画師がゆきっぷうになってしまったのは皆様もご承知の通りですが……」

 

北斗「いや、初耳だぞ、それ」

 

タハ乱暴「ともかく、それでアイリスが出来ちゃったもんだから、ついでに柳也を描いてくれ、とタハ乱暴から依頼したわけなんですよ。ハイ。んで、その際に挙げたデザイン上の指定というのが……」

 

 

The ゴミっぽい顔!!

 

 

タハ乱暴「……というわけなんですよ」

 

セーラ「まんまゴミにしてしまえばよかったのに」

 

クリス「セーラ、もっかいアポカリプス」

 

セーラ「はいはい、アポカリプス!(今度は柳也本人を狙う)

 

柳也「うぎゃあああああああーーーーーーー!!!」

 

北斗「原稿は焼けないが、ネット炎上しそうな展開だな」

 

タハ乱暴「ま、大丈夫さ。……さすがにゴミっぽい顔とは言っていないけど、なるべく柳也を美形には描かないでくれ、とは言っておいたね」

 

柳也「What!?」

 

ゆきっぷう「そこで俺は世の中のむさい男たちが活躍する漫画を片っ端から読み漁った。HELLSING(作・平野耕太)とか、HELLSING(作・平野耕太)とかHELLSING(作・平野耕太)とかHELLSING(作・平野耕太)とかHELLSING(作・平野耕太)とかHELLSING(作・平野耕太)とかHELLSING(作・平野耕太)とかHELLSING(作・平野耕太)とかHELLSING(作・平野耕太)とかHELLSING(作・平野耕太)とか」

 

柳也「“へるすぃいんぐ”だけじゃねぇか!」

 

セーラ「煩いぞ、家畜」

 

クリス「今度はイグニッションで」

 

セーラ「イグニッション」(柳也が三回ぐらい宙を舞う)

 

ゆきっぷう「と・に・か・く! ぶっちぎりの戦闘野郎に仕立て上げたんだよ! 今回は!」

 

北斗「いかにも凶悪そうな面構え。エロゲー二次創作らしくいやらしい左手の指遣い。どこをとっても……ううむ、主人公に見えない」

 

タハ乱暴「いい意味で悠人と差別化出来てるだろ?」

 

ゆきっぷう「おかげで原稿用紙が四枚ほど犠牲になったが、必要経費は北斗の酒蔵予算から差っ引いといたから問題なし。次はセラス・セッカでも描くか?」

 

北斗「待て。いま、非常に聞き捨てならない言動がなかったか?」

 

タハ乱暴「気のせいさー(白々しく)。んー……そうだなぁ、それよりも先にEPISODE01で柳也が口にしていた“ぺー介”を描いてほしいかな?」

 

セーラ「あー、ペー介なら美味しく頂きました」

 

クリス「ちょっと生だったけどね」

 

タハ乱暴「こ、この野蛮人どもぐわぁッ!」

 

北斗「やはりこの二人、ゆきっぷうによって新たな命を与えられたせいで性格が変わっているな」

 

セーラ「そんなことないわよ。ねぇ、クリス?」

 

クリス「もちろんよ、セーラ」

 

タハ乱暴「嘘だ! 俺の書いたクリスは、上官のセーラを呼び捨てにするような娘じゃないやい」

 

柳也「そうだー、そうだー。ついでに言わせてもらうと、なんか俺の絵のほうが手抜き感あるぞー!」

 

北斗「ここで文句を言うのか……」

 

セーラ「ゆきっぷうとて本来は多忙な身……にも拘らず貴様のような家畜のために余力を裂いたためにクリスのイラストが手抜きになってしまったのは事実です」

 

柳也「割いたが裂いたに! ゆきっぷう、いったいお前の身に何が……って、そんなものが言い訳になるか!(ヒドイ)」

 

クリス「本当なら今頃は自作の挿絵に没頭しなきゃいけないんだけど……ゲッター線とか浴びて路線変わっちゃったしね」

 

タハ乱ビーム「(ヒソヒソ)なんかぁ、収拾つかなくなってきたなぁ」

 

北斗「(ヒソヒソ)このままだと容量が増えるばかりだ。そろそろ締めねばならんと思うのだが」

 

タハ乱暴「そうだよなぁ…。てなわけでまずはゆきっぷう、ヨロシク」

 

ゆきっぷう「クリス、セーラ、帰るよー。そろそろ三人目の選考に入らねばならんからなー。そしてスーパーロボット『ゲッターエターナル』を起動させるのだ!」

 

柳也「おい、テメェら、逃げんな、待ちやがれ。まだ話は終わってねぇぞ!」

 

セーラ「しょうがないわねー。クリス、ゆきっぷう……チェンジするわよ!」

 

クリス「はーい! チェンジゲッター……!」

 

ゆきっぷう「ま、まて! 俺は操縦資格持ってない!」

 

セーラ「チェンジ! ゲッターエターナ―――――――!」

 

チュドム!

 

タハ乱暴「失敗した―――――――!?」

 

北斗「(ひとり冷静に)……永遠のアセリアAnotherEPISODE:19、お読みいただきありがとうございました」

 

タハ乱暴「お、おい北斗、ゆきっぷうの姿が見えないぞ! 脱出した様子もない!」

 

北斗「(やっぱりひとり冷静に)次回もまたお付き合いいただければ幸いです」

 

タハ乱暴「ああ! ゆきっぷうの姿が見えた! ……って、なんじゃコリャァ!?」

 

北斗「(あくまでもひとり冷静)では皆さん、また次回のあとがきでお会いしましょう」

 

柳也「ではでは〜……って、俺は認めないぞぅ。あんな、モブキャラどもに絵が負けるなんて……俺は認めないぞぅ!」

 

北斗「諦めの悪い主人公だ」

 

柳也「うがーーーーーー!」

 

タハ乱暴「それより二人とも! ゆきっぷうが、ゆきっぷうががががががががガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガ……ピピ、ガガ」

 

 

 

―次回予告―

 爆散した新ゲッターロボ『ゲッターエターナル』。

 セーラとクリスは亡きゆきっぷうに代わり機体の修復を進めながら三人目のパイロットを探し続ける。難航する作業、反発する三人目の搭乗者。そして世界は最後の日を迎える……!

 次回! 偽チェンジ! ゲッターロボ! 〜あとがき世界最期の日〜

第七話『発進せよ、嘘ゲッターチーム!』

 

タハ乱暴「作品乗っ取られたーーー!!」

 

 

アセリア「……ん。次回もちゃんとアセリアだから」




何とか防衛の準備をしているみたいだな。
美姫 「その間に、ファーレンとはちょっと仲良くなったみたいね」
だな。今回の罠の一つである落とし穴って、大きい物は難しいししんどいよな。
美姫 「まあ、単純に掘るという作業だけれど、重労働ではあるわね」
まあ、深夜の残業で少しは予定通りに進むかな。
美姫 「さてさて、全ての準備が整うのが先か、敵の進軍が先か」
次回も楽しみにしてます。
美姫 「待ってますね〜」



▲頂きものの部屋へ

▲SSのトップへ



▲Home          ▲戻る