――悠人が目覚めて十六日後、チーニの月。  
 

「……RPGゲームなら、二度目に謁見の間に訪れるのはデータをセーブする時か、囚われのお姫様を救った後なんだけどなぁ」

 まだセーブが必要なほど物語を進めてはいないし、囚われのお姫様も救出できていない。

 柳也は複雑な表情で溜め息をつくと、再び訪れたその部屋を見回した。

 兵士達の案内に従い通されたのは、以前佳織と衝撃的な再会を果たした場所……謁見の間だった。

 内装の変化はほとんどない。

 ただ以前にも増して増員された兵達の後ろに、豪著な服を着た、いかにも身分の高そうな人々が、部屋の中央に跪かされた二人の少年を物珍しそうに眺めている。先回の柳也の暴れっぷりがまだ記憶に生々しいのか、警護の任に就いている兵士達の装備も、前の時よりは充実していた。

 以前はいくら城中勤務といっても限度があるだろうというほど心許ない装備であったが、今回は全員が軽装ながら鎧を着込み、槍と長剣を携えている。どれも西洋拵えの武具。和式の武具を佩いている者は一人としていない。

 そして正面には――――相変わらず尊大な態度を隠そうともせず、王座に座る初老の男と、そしてその隣に立つ目麗しい姫がいた。

『来たか、エトランジェよ。身体の具合はどうだ? スピリットとは仲良くやっているようだな』

 王は含みのある笑いとともに二人を見回した。こちらの身体を気遣うような素振りだが、それが本心でないことは明らかだ。

 まるで高い買い物を前に値踏みするかのような視線は、人間に対して向けているといよりも、物に対して向けているような印象すら感じ取れた。

『そろそろ傷も癒えたようだな。では、本来の仕事をやって貰う時が来た、というわけだ』

 高圧的な態度で、老王は少年達を見下した。

 何を言っているかは分からないが、むしろ分からない方がこの場合は幸いかもしれない。王の表情、視線、態度からも、男が口に出している話しの内容が柳也達にとって歓迎せざるものであることは明白だった。

 柳也は自分の行動が悟られないよう極力動作を小さくし、視線だけを動かして隣の悠人を見た。

 悠人は王の言葉にはまったく興味はないらしく、しきりに視線をあちらこちらへと泳がしている。佳織の姿を探しているのだ。

「…いないようだな、佳織ちゃん」

 隣にいる悠人にしか聞こえないような、小さな呟き。

 悠人は苦渋に満ちた表情で忌々しげに頷くと、悔しげに下唇を噛んで肩を落とした。

「佳織……」

『レスティーナよ。例の物をここに』

『はい、父様。誰か、〈求め〉を』

 白いドレスの姫君が命令口調で言葉を放つ。すると、上座の奥から持ち手の部分を布に包まれた一本の鉄の棍棒が運ばれてきた。見たこともない金属のようで、不思議な鈍い光沢とともに、奇妙な存在感を醸し出している。

【主よ…】

 ――ああ、気付いている。あれは…永遠神剣だ。

 柳也には、それがひと目で永遠神剣だと分かった。それも自分の体内に宿る〈決意〉よりもはるかに強大な、高位の神剣だと眺めているだけで理解できる。どうやら今は休眠状態にあるようで、その力の大半を眠らせているようだが、それが自分達の方へと近付いてくるにつれて、柳也は自身の体温がゆっくりと低下していくのを自覚した。

 ――怯えている? 休眠状態で、このプレッシャーか…!

 柳也は気を抜くとすぐにも震えだしそうになる身体を必死に自制し、苦し紛れに運ばれてくる永遠神剣から目を逸らした。

 ――……ん?

 必然的に、視界に入る悠人の顔。

 悠人は、持ち出された永遠神剣から片時も視線をはずすことなく、その無骨な棒切れをじっと見つめていた。

「……悠人?」

「あの剣……見覚えがある」

「なに?」

 見覚えがあるとは、いったいどういうことなのだ。

 口に出そうとした疑問の囁きは、それよりも大きな王の朗々たる声によって掻き消される。

『この剣を取るがいい、エトランジェよ。本来の力、このラキオスのために発揮してみせよ』

 棍棒のような永遠神剣が、上座から下座へと運ばれ、少年達の前にそっと置かれた。

 剣を持ってきた兵士は、何かを恐れるようにそそくさとその場を離れていく。その動きは、明らかに自分の運んできた奇妙な金属の棒が、永遠神剣だと知っての早々とした動きだった。

 ――連中、これが永遠神剣だということは理解しているみたいだが…いったい何を始めるつもりだ?

 ねっとり、とした不快な汗が止まらない。背筋を走る悪寒が、より冷たく、凶暴なものへとなっていく。なぜだかは分からなかったが、嫌な予感がした。

『取らぬか…。それならば、やはり戦わせてみるか。レスティーナよ』

 老王がニヤリと、髭をさすりながら不敵な笑みを浮かべた。

 気味の悪さに悠人が身構え、柳也もまた油断のない態度で自分達を取り囲む環境に気を配る。

『はい、エスペリア。神剣を持って、ここに……』

 白いドレスの少女の澄んだ声が、謁見の間に響く。

 “エスペリア”、そして“カウート”という二つの単語が、やけに印象的だった。

 少年達の周囲を取り囲む兵士や側近達が、左右に分かれて道を作った。

 そしてその道を、静かな、どこかで聴いたことのある足音が、歩いてきた。

 身長ほどもある、巨大な槍。突くことにのみ能力を特化させた、洗練されたデザインの中国式の戦槍は、艶やかな輝きを宿している。敵を屠るための武器というよりは、職人の手によって完成された芸術品といった印象すら抱かせる槍から感じる気配は、永遠神剣特有のマナの波動。

 最初、槍にばかり視線のいっていた柳也は、それを携えてやってきた人物の顔に気付かなかった。

 最初にその少女の顔に気付き、続いてその表情に満ちた哀しみの色を見逃さなかったのは、悠人だった。

「エスペリア……どうして、ここに!?」

 悠人が、信じられないといった表情で驚愕の声を迸らせた。

 俯くメイド服の少女は少年の問いに対して答えを返すことなく、彼らから五歩という距離で立ち止まる。

「どうしたんだ! なにかされたのか? エスペリア」

 わけも分からず、悠人は叫んだ。

 だが悠人の問いに、エスペリアは床を見つめたまま、沈黙で答えた。

 わけの分からないのは柳也もまた一緒だ。

 しかし、永遠神剣に関して少なからず知識を持っている彼は、悠人に比べればまだ余裕があり、冷静でいられた。

 ――エスペリアが永遠神剣を持っているのは知っていたが、まさかこのタイミングで持ち出してくるとは……なぜだ? それに、この契約者不在の、休眠状態の永遠神剣。これでは、まるで……。

 柳也は、目の前のエスペリアの動きから目を逸らすことなく、拡大化された知覚を頼りに周囲の人間達の様子を窺った。

 辺りの人間の多くは、これから起きることを楽しみにしているように、ニヤニヤと卑しい笑みを浮かべていた。他の一部の人間達も、あからさまな物見遊山の視線こそ投げかけていないが、大勢と同じようにこれから起きる出来事に、少なからぬ関心を寄せている。

 ――これでは、まるで見世物の決闘じゃないか!

 古代ギリシアの闘技場。現代のプロレスやボクシングの試合のように厳粛なルールはなく、ただ観衆の目と心を満足させるためだけに行われた殺し合い。

 映画の中で見たような大歓声はない。

 あるのは、緊迫した静寂だけだった。

 やがて数分の沈黙を破り、エスペリアは静かに口を開いた。

『……ユート様。剣を、おとりください』

 悠人の目を見つめ、噛み締めるように呟く。

 ゆっくりと槍を中段に構え、その切っ先を混乱する少年に向けた。

「な、なんだよ! なんでエスペリアが……」

 未だ状況を理解できずに、悠人は叫んだ。

 あまりに現実離れした光景に、自分の目を疑ってしまう。あのエスペリアが、どうして自分に槍を向けるのか……?

 慌しく周囲を見回していると、初老の男と目が合った。

『どうした? はやく剣を取った方が良いぞ』

 王は不敵に笑った。

『このスピリットには、お前を殺せ、と命じてある。このままでは、お前は死ぬ。もちろん、あの赤毛の娘もお前の後を追う事になるだろうな』

「!」

 悠人は、愕然とした。

 ようやく、彼にもこの状況が理解できた。

 初老の男は、笑っていた。

 自分と、エスペリアが戦う場面を作り出して。

 楽しげに、愉快そうに、笑っていた。

「は……ハハッ!」

 悠人は乾いた笑いを口から漏らした。

 怒りで、自分がどうにかなってしまいそうだった。いやいっそのこと、どうにかなってしまった方がラクだったかもしれない。

 目の前の剣で戦わなければ、己はエスペリアに殺されてしまうのだ。

 弱った自分を助けてくれた。

 傷だらけの自分の心を癒してくれた。

 あの安らぎに満ちた微笑み、あの心温まる声の持ち主。

 この十数日間の中で、すでに掛け替えのない存在となりつつある少女に、殺されてしまうのだ。

「これが……これが人間のすることかッ!!」

「悠人……」

『エスペリア、戦いなさい』

 悠人の怒りをよそに、白いドレスの少女が冷たく言い放った。

『……承知しました。ユート様、剣をお取りください』

 エスペリアの表情に、もはや哀しみの色はない。あるのは、与えられた命令に従容と従う、決意の眼差しだった。

『私は…ユートさまを、殺します』

 ソサレク……呟いたエスペリアの言葉に反応して、彼女の持つ永遠神剣が、強い緑色の光を放つ。

 刀身から吹き上がる光の粒子が収束し、エスペリアの頭上に、天使の輪のようなものを構築する。

「なんだ…エスペリアの永遠神剣のマナが……?」

 柳也の小さな声が、悠人の耳膜を虚しく叩く。

 〈決意〉との契約の際に得た知識の中に、あのような光輪に関する情報はなかった。

『ユートさま、剣をおとりください。〈献身〉のエスペリアが、お相手します!』

 突然の耳鳴り。

 正面のエスペリアから風圧のようなものを受け、思わず悠人は顔をしかめる。

 だがそれは運動エネルギーを伴った風ではない。

 目の前のエスペリアから感じるそれは……明らかな、殺意だった。

「エスペリア……」

 今にも泣き出しそうな表情の悠人。

 だがそんな悠人の顔を、エスペリアが直接見ることはなかった。

 悠人とエスペリアの間に、割って入るように柳也が立ち塞がった。

『リュウヤ様……』

「言ったろ? 悠人は、俺が守るって」

 手製の木刀を下段に、柳也は決意に漲る眼差しを向けた。永遠神剣を取り上げたと思って安心しきっていた兵達は、この、一見するとただの棒切れ同然の武器を、柳也から無理に取り上げようとはしなかった。

 周囲で、明らかな侮蔑の笑い声がはじけた。

 その中でも最も目立って大きな笑い声をあげていたのは、初老の王君だった。

『構わん。エスペリア、その男からやれ』

『……承知しました』

 エスペリアが低く前傾姿勢を取った。

 スローモーションのような動き。だがそれは柳也だからそう見えるだけだ。エスペリアの挙動は素早く、その動きにはほとんど付け入る隙がない。

 この世界に初めてやってきたあの日、初めて見たエスペリアの洗練された挙動に、柳也は優雅さとは別な殺伐とした印象を感じた。なるほど、あの時に感じた洗練された動きは、この必殺の一撃へと通じる動きだったか。

 稲妻のような疾風怒濤の一撃が、柳也の横鬢を切り裂いていった。

 顔を捻って致命傷を避けた柳也は、〈決意〉の一部を寄生させて強化した木刀を突き立てた。

『……ッ!!』

 エスペリアが顔をしかめ、苦悶の声が形の良い唇からこぼれる。

 カウンター気味に炸裂した突きの一撃が深く身に食い込む前にバックステップで後退するその身体能力は常人のものではありえず、両者の距離は一気に離れた。

 周囲から上がる、騒然とした声。

 エスペリアの一撃を刹那の判断で回避し、その上でカウンターの突きまで放った柳也の動きに、誰もが驚嘆の声を出さずにはいられないようだった。

『…油断、しました』

 エスペリアが、苦しげに言葉を紡いだ。

 彼女自身もまた、神剣を持たない柳也の反撃が予想外だったようだ。

 どうやらこの場にいる全員は、てっきり柳也の持つ永遠神剣は同田貫だと思い込み、それを取り上げたことで安心しきっていたらしい。

『ですが、次は本気でいきます』

 エスペリアが、呼吸を整えて言った。腹部への突きのダメージは、もう回復してしまったらしい。

 一方、迎え撃つ柳也は、背筋を駆け上ってくる快感とも悪寒ともつかない奇妙な感覚に翻弄されながら、次の一手を考えていた。

 永遠神剣によって強化されたエスペリアの突進力は、柳也の予想をはるかに上回る鋭さ、素早さを持っていた。本当なら顔を捻った柳也は横鬢すら切られることなく終わるはずだったのだが、予想以上のエスペリアのスピードに、回避しきれなかったのだ。

 先ほどのカウンターは半ば奇襲のようなものだった。もう、同じ手は二度と通用しないだろう。

 ――さて、どうするか……?

 そもそも槍と刀とでは間合いが違いすぎる。エスペリアの携えている永遠神剣は、三メートルとか四メートルもある長槍に比べればまだ短いが、それでも刀と比べれば断然、長射程の得物だ。なんとか間合いの内側に潜り込まなくてはならないが、迂闊に近付くことすらままならない。

 〈決意〉の能力をもってすれば接近は可能だろうが……そうすると、確実にエスペリアを殺さねばならないだろう。〈決意〉の力は強大だ。その力を使ってエスペリアを倒した時、彼女がまだ生きているとは限らない。自分は悠人を守りたいのであって、エスペリアを殺したいわけではない。

 エスペリアを殺さずして倒し、悠人を守る方法を模索しなければ。

 ――なぁ、〈決意〉…。

【なんだ? 主よ…】

 ――ほら、あの森の中で黒い翼の女の子が使ってた、マナの防壁があっただろ?

【うむ。ウォーターシールドか】

 ――あれと同じものを、俺も張ることはできないか?

 付け入る隙は、相手が抱いている“自分は永遠神剣を持っていない”という思い込み。

 永遠神剣を所持している者にしか発動不可能なマナの防壁を目の前に出現させてやれば、少しは相手の動揺を誘うことができるかもしれない。上手くいけばエスペリアの攻撃を受け止め、その上で心理的な動揺も誘える。その際に生じる隙は、かなり大きいものとなるはずだ。試してみる価値は、十分ある。

 はたして、〈決意〉の返答は、柳也の作戦を成功へと導くのに、十分な材料を提供してくれた。

【張れぬことはない。だがあの娘の一撃は強力だ。あれを完全に防ぐほどの防御となれば、かなりのマナを消費せねばならないが…】

 ――構わない。それにマナの防壁を全面に覆う必要なんてない。槍の攻撃は基本的に一点集中。当たれば痛いが、その一点さえ特定できれば回避も防御も容易だ。

【マナの障壁を、ピンポイントに張れと?】

 ――第三世代戦車に採用されている複合装甲だって、全面に張り巡らせているわけじゃない。最も被弾率の高い部分にしか、最強の盾は使われない。

【ふむ。相変わらず例えが分からんが……たしかに、それならばマナの消費も最小限に抑えられるな】

 ――攻撃点は俺が見極める。〈決意〉は、力の供給だけ頼むぜ。

【領解した。では、新たな力を開放するための、主の決意を聞かせよ】

 鬢を、生温かい血が流れる。掠り傷を負ったか。しかし、流血が目に入る心配はない。

『……』

 今度は合図も何もなく、エスペリアの姿が唐突に掻き消える。

 その動きを終えたのは、謁見の間には僅か二人……柳也と、慄然と瞠目する一人の男のみ――――――

 手作りの曲がった木刀が、柳也の手元からぱっと離れた。

 突進するエスペリアの息を呑む音が、やけに大きく聞こえた。

 背後で悠人が、隣接する二つの闘気に総毛立つ。

 遠巻きに眺めている兵達の中から、旋風がひとつ、飛び出す。

「俺は、悠人を守る!!!」

【汝の決意、しかと聞き入れた!】

 〈決意〉の声が頭の中で弾け飛び、己の中に、また新たな力が一つ、生まれたのを実感する。

 今までのような攻めるための力ではない。

 大切なものを、守り抜くための、防御の力だ。

 柳也は、迫りくる槍撃の終着点を見切るや、右手の甲にマナの力を集め、心臓にかざした。

「オーラフォトン・シィィィルドォッッ!!」

 攻めるために特化した力と、守るために特化した力とがぶつかり合い、少年の叫びは、やがて光の奔流の中へと沈んだ…。

 

 

 

永遠のアセリア

-The Spirit of Eternity Sword Another-

第一章「有限世界の妖精たち」

Episode07「エトランジェ」

 

 

 

「…チッ。他に永遠神剣の気配がないから、大丈夫だと思ったら……!」

『若きエトランジェよ、今のはなかなかに良い一撃だったぞ。この場に私がいなければ、間違いなくエスペリアは一撃もらっていただろうな』

 一度は手放した木剣を、再び反対側の手で握り直し、オーラフォトンの盾で攻撃を受け止めたと同時に生じた隙を突いて反撃の一撃を放つ……柳也の目論みは半ば成功し、半ば失敗した。

 手の甲にマナを集中させ、肘の辺りまでを防御するオーラフォトンのシールドは、たしかにエスペリアの攻撃を防御し、のみならず、永遠神剣を持っていないはずの男がマナの防御壁を構築したという予想外の展開に、メイド服の少女は動揺し、一瞬、我を忘れてしまった。

 しかし、第三者の客観的な視点から戦いの成り行きを見届けていた達人には、この奇策は通用しなかった。

『リリアナ・ヨゴウ様……』

『エスペリア、一度、距離を置け』

『あ…は、はい!』

 二人の攻防の側面を突いた男は、四十代も半ばほどの美丈夫だった。背丈は並よりもやや高い程度。だが細身の体躯に無駄な肉は一切なく、引き締まった体つきは実際の身長よりも男の背を高く見せている。

 〈決意〉の力によって強化した木刀をただの一撃の下に叩き折ったのは永遠神剣ではなく、普通の刀剣だ。柳也達の世界でファルシオンと呼ばれる湾曲した重い剣に似た片手剣で、側面を衝かれたとはいえ頑健な木刀を一撃でへし折ったあたり、並々ならぬ技量の持ち主であることは明らかだった。

 突如として参戦してきた謎の中年男の言葉に反応するかのように、機敏な動作でエスペリアが柳也から離れる。

 エスペリアからリリアナと呼ばれた男もまた柳也が反撃の拳を叩き込む前にその間合いから離脱し、戦況は再び振り出しへと戻った。

 周りの人間は、唖然とした様子で言葉を失ったまま、事の成り行きを見つめている。

 永遠神剣を持たない柳也がマナの防御壁を構築したことに対してもそうだが、めまぐるしく推移する戦局に、意識がついていっていないようだ。

『ば、馬鹿な…なぜ、あのエトランジェは神剣を持たずに……』  やがて、愕然とした王の呟きが謁見の間に虚しく響き、それを合図に、雪崩を切ったように周囲から騒然とした声の嵐が鳴り響いた。

 ほとんどの者が冷静さを欠いた中で、不意に轟いた冷静な姫の声は、やけに鮮明だった。

『エスペリア!』

 突然、名前を呼ばれて、エスペリアの視線が上座へと向いた。

 姫は優雅さすら漂う自然な動作で、事態の渦中にありながら周りの人間達と同様、めまぐるしい戦況の推移についていくことができず、茫然としている悠人を指差した。

『そのエトランジェは後にしなさい。まずは、そちらのエトランジェと戦うのです。その間リリアナ・ヨゴウは、もう一人のエトランジェの相手を』

『!! …は、はい』

『かしこまりました。レスティーナ様』

 二人が同時に頷き、エスペリアは再び槍の矛先を悠人に、ファルシオンの戦士は木刀を折られて丸腰同然の柳也へと刃を向ける。

『ユート様…』

「エ、エスペリア…」

 悠人は未だ信じられないといった眼差しでエスペリアの顔を見つめている。

 一方のエスペリアはそんな悠人の視線を正視できないのか、哀しげな表情とともに視線を逸らし、苦渋の決断を胸に彼女は言った。

『行きますっ!』

「悠人っ…!」

 柳也が叫び、助けに入ろうと折れた木刀を片手に身を躍らせる。

 だがその機先を制するファルシオンの刃が、容赦なく斬撃の緊迫を柳也へと放った。

『させんぞっ、エトランジェ!』

 ファルシオンの起こす刃風が、おそろしい伸びをみせる。凄まじい刀勢だ。

『ラキオス国王陛下から直々に剣術指南役を拝命したこのリリアナ・ヨゴウの、“リープアタック”を受けてみるかッ!!』

 打ち込むその都度加速する斬撃の連打を、オーラフォトンの盾で受け止めることは容易なことではないが、柳也の力量をもってすれば不可能なことではない。

 だが、ファルシオンの攻撃を防ぐことに意識を割けば割くほど、悠人に気を配る余裕はなくなってしまう。

 目の前の敵を相手に精一杯の柳也の背後を一陣の風が吹きすさび、水平に薙いだ槍の一撃が、悠人の前髪を数本、散らしていった。

 交錯する視線と視線。

 悠人を見つめるエスペリアの目にあるのは決意と哀しみ。

 エスペリアを見つめる悠人の目にあるのは驚愕と恐れ。

 視線だけの会話は、一瞬のうちに終結する。軽やかなバックステップで、またエスペリアが間合いを取った。

 エスペリアの攻撃に対してまったく反応することのできなかった悠人は、恐怖のあまりその場にへたりこむ。

「う、うわ……!」

「悠人! …くッ、このぉ…邪魔だぁッッ!!」

『ぬぅっ!!』

 裂帛の気合とともに背を丸め、鞠のように飛び込むファルシオンの剣士。

 重量級の刃が柳也の眉間を目掛けて振り下ろされたその刹那、オーラフォトン・シールドを張った柳也の右拳が稲妻の速さで大気を裂き、振り下ろされるファルシオンを受け止めた。すると虚空高く剣士の手から得物が舞い飛んで、観衆の群れの中へと静かに落ちた。

 つんざく悲鳴が、渦中の四人の耳膜を虚しく打つ。

 直後、ファルシオンの戦士が放った跳び蹴りと、柳也の投げ放った木刀が互いの身体に炸裂し、二人の剣士は赤絨毯の上を転がり滑った。

「しまっ……!」

『エスペリア、今だ!』

 己の振り下ろす斬撃が不発に終わると悟った瞬間、せめてこの男をもう一人のエトランジェから遠ざけようと、ファルシオンの戦士が放った起死回生の一撃によって、柳也は悠人から僅かに引き離される。

 そしてその僅かな距離を、立ち上がった柳也が取り戻すためにかかる一瞬さえあれば、エスペリアはすぐに詰めることができた。

 

 

 初撃をエスペリアがわざとはずしたのは、誰の目にも明らかなことだった。

 彼女と悠人の力量差は誰が見ても絶対的だ。牽制の横薙ぎなど加えずとも、勢いを載せた槍の一突きですぐに片が付く。

 それをあえて水平に払い、槍での攻撃には本来適さぬ斬撃を放ったということは、エスペリアの手心に他ならない。

 王達の命令にあくまでも忠実な少女は、悠人に、チャンスを与えたのだ。

 剣を手に取り、生き残るためのチャンスを。

『次は、外しません』

 槍を中段に構える。

 一分のブレもなく空中に固定された矛先は狙う標的は、己の心臓。

 少女が手にする、冗談のように美しい、けれども凶悪な輝きを秘めた器械を真っ直ぐ一突きされただけで、今度こそ自分は死んでしまう。

 そう思うと、悠人の心臓は自然と高鳴った。

 だが、今度は足がすくむことはなかった。

 このまま殺されるのは嫌だという思いが、正常な生物であれば誰しもが持ちうる生きたいと願う本能が、悠人の身体を突き動かしていた。

「悠人ぉッ! 逃げろぉッッ!!」

「くそっ!」

 エスペリアが仕掛けるより速く、床の剣に手を伸ばす。

 ほぼ同時に、エスペリアが地面を蹴った。

 少女が立つ赤い絨毯が波紋を波打ち、突風が、死の恐怖に総毛立つ少年の顔面を優しく撫でる。

 槍が届くよりも僅かに速く、悠人は剣を手に取った。

 鋭い踏み込みからの突きを、半ば無意識的に拾った剣で懸命に受け止める。

『!』

 刃と、刃がぶつかり合い、金属の火花が鳴ったその時……

【……マナを…】

「また、あの声…!?」

 聞き覚えのある声が、頭の中を蹂躙した。

 そしてその刹那、悠人は今度こそ完全に無意識の動作で、鍔迫り合いに持ち込まれかかった緑の刃を、弾き飛ばした。

 衝撃を無理に押さえ込むことなく、むしろ逃がしつつエスペリアが後ろに飛ぶ。

 悠人もまた後ろへと飛び退き、両者の間合いは、必然的に大きく離れる。その距離、なんと一歩にして十メートル以上。

 その流れるような一連の動きは、悠人の身を案じて張り裂けんばかりに叫ぶ直心影流二段の若武者が、思わず息を呑むほど、洗練された武芸者の動きだった。

「ゆ、悠人……?」

「なんだ……この感覚は?」

 剣を握ったその瞬間から、身体が異常に軽くなっていた。

 いやそればかりか、先刻まではほとんど見えなかったエスペリアの動きが、かろうじてだがなんとか見える。周囲の人間の動きなど、まるでスローモーション映像を見せられているかのようだ。

『よく避けました。ですが……』

 一瞬の間にして己の中で起こった変化に戸惑う暇すら与えることなく、緊迫したエスペリアの声が悠人の思考を遮った。

 槍を携え、こちらを見るその表情にもはや哀しみも、決意の色も窺えない。

 ただ、気を抜いたらやれるのはこちら…というような、油断のない戦士の顔で、少年のことを見ていた。

『ユートさま、これから私たちスピリットの戦いを、教えて差し上げます。もうユートさまの刃が、私に届くことはありません』

 悠人だけを見たまま、歌うように言葉を紡ぐ。

 エスペリアの口から次々と奏でられる言葉が、まるで母国語のように理解できた。聞こえていくのは別な言語体系から生み出された単語なのに、頭の中で次々と知っている言葉に置き換えられていくようだった。

 ファルシオンの戦士が押さえている柳也の存在は、完全に意識の外にあるようだ。いや、柳也にまで気を割く余裕がないのか。

 今やエスペリアの眼差しは、悠人を、完全にひとりの戦士として見なしていた。

 経験や技術はともかくとして、目の前の少年はもはや無力な若者ではない。強大な永遠神剣の力を手にした、ひとりの戦士なのだ。対峙している戦士から一瞬でも視線を外すということは、速やかなる死を意味することになる。

『永遠神剣の主たる、〈献身〉のエスペリアの名において命ずる。風よ、私の守りとなって!』

 詠唱が終わると同時に、身長のわりに小柄な少女の体躯を優しく包む緑色のマナの輝き。地面に魔方陣が浮かび上がり、そこから吹き上がる暖かな風が、悠人のところまで漂ってくる。

『風…いや、マナの盾か!』

「悠人? そ、その言葉は……!?」

 頭の中に、マナという単語が自然に浮かんだ。

 同時に、エスペリアが風の力を使って防壁を構築したことも理解してしまう。

 エスペリアの周囲に集束するマナが、はっきりと見えた。

 背中を大量の冷や汗が伝う。

 自分ではあの防壁を抜けることはできない。そんな事まで、分かってしまったのだ。

 力を得ることで分かる力の差というものがある。

 今の悠人が、まさにそれだった。

『せめて、苦しまないように、一撃で……』

 小さく呟いた言葉。

 槍の金具が不吉に鳴り、エスペリアの目から迷いは完全に霧散した。

 おそらく、次の一撃ですべてを終わらせるつもりなのだろう。

 ――だめだ! 受けきれない………どうする?

 受けることも、避けることも今の自分にはできそうにない。

 一か八か、こちらから仕掛けるしかないのか……額に浮いた脂汗が、赤い絨毯に染みを作り始めたその時――――――

『そこまで! 双方とも剣を引きなさい』

 不意に、白いドレスの少女の声が空気を引き裂き、悠人達を制止した。

 それを耳にして、エスペリアは安堵の溜め息とともに槍の矛先を向かい合う少年から何もない地面へと向ける。

 悠人もまた相手から敵意が消えたことを確認し、剣尖を地面へと向ける。

 戦いを終えたその視線は、自然と自分達の戦いを仕組んだ上座の王のもとへと向かった。

『いかがでしたか、父様? このエトランジェ、やはり本物のようです』

 姫の視線が、悠人をちらりと一瞥した。

『いまだ神剣は覚醒していません。それでも、エスペリアと渡り合うのならば』

『ふむ。及第点と言ったところか?』

『はい』

『よかろう。スピリットよ、剣を引け』

 一旦言葉を区切ると同時に、相変わらず品定めをするような視線から、一転して商談を決めたかのように、王は口調を改めた。

『エトランジェよ。なかなか期待できるようだな。一刻も早く、その〈求め〉を使えるようになってもらわんとな』

 ――〈求め〉? この剣のことか?

 高いが、それだけの価値のある品を買い終えたかのような満足げな笑み。

 エスペリアのことをスピリットと呼び、この奇妙な剣のことを〈求め〉と呼んでいる。そして、自分達に対するエトランジェという呼称。いったい、どういう意味なのだろうか……?

『エスペリア、もう戻りなさい』

『はい。失礼します』

 考えている間にも、事態はめまぐるしく推移していく。

 姫の言葉にエスペリアは辞去の礼とともにチラリと、一瞬だけ二人の少年達に力のない笑みを浮かべると、謁見の間を後にした。

 どうやらエスペリアと戦う必要だけはなくなったようで、ほっと悠人は安堵する。

 だがその安心感も束の間、すぐにあの不快な老翁の声が、頭の中に強制的に入ってきた。

『エトランジェよ。明日からスピリットと共に、訓練に参加するのだ。死に物狂いでな。フフフ……』

 不敵な笑い声が、謁見の間に響いた。

 人を人と思わぬ、そんな狂気の笑みだった。

『エトランジェ。その〈求め〉を手放さないように。剣の声を聞き、その力を自分のものとせよ』

 白いドレスの少女は、淡々と悠人に命令する。

 その態度に、悠人の怒りがついに爆発した。

 ――エスペリアに俺を殺させようとしておいて、なにをわけの分からないことを言ってやがる!

『知るかよ、そんな事! なぜ俺とエスペリアを戦わせた! それに……佳織はどこにいるッ!!』

『そのようなことを知る必要はない。〈求め〉を使えるようになることだけを考えよ』

『何勝手なこと言ってんだよ!』  強引に呼び出して、エスペリアと戦わせて、何も知らせずに、この剣を使えだと?

 ――こいつらに対して使ってやろうか…。

 怒りのあまり、そんなどす黒い考えが、頭の中にちらつく。

 今なら…先ほどの力があれば、連中に捕まることなく佳織を救い出せるのではないか?

 ――そうだ、エスペリアだって助けられる!

 名案が浮かんだように頭の中がすっきりとした。

 剣の柄を握る手に、自然と力が篭もる。

 決意とともに剣を振り上げようとした、その瞬間――――――

「!! なッ……か、らだ…が、また……!!」

 以前にもこの場所で感じた、いや以前よりもはるかに強烈な重圧。

 激しい頭痛と嘔吐感。

 視界が回り、悠人はすぐに立っていられなくなった。

『フフ。元気なエトランジェだ。主には逆らえんというのに。お前がその剣を握っている限りは、な…』

 気が狂いそうだった。

 王の言葉が、吐き出す息が、その存在自体が不愉快でたまらなかった。

 怒りの感情だけが、悠人を正気へと繋ぎ止めていた。

『もうやめよ。このままでは心が壊れる。心も体もすでに縛られている』

 冷徹に客観的な事実だけを告げる、姫の言葉。

 しかしそれでも悠人は逆らい続け、立ち上がろうとした。

 だがしかし、次の瞬間、襲ってきたひと際強い衝撃に、今度こそ悠人は耐えられなかった。

 為す術もなく倒れこみ、目を開けていることすら困難な作業になってしまう。

『ほう! ははは、やはりこのエトランジェは拾い物だ! ここまで耐えおるか』

 すでに視界は喪失していた。

 徐々に耳も聞こえなくなっていく。

 暗闇へと沈む意識の中、悠人は必死に憎い敵に向かって手を伸ばす。

 だがいつまでたっても、何の感触も伝わってこない。

 どれほど遠くへと伸ばしても、自分の手は、何にも届かないのだ。

「く、くそ……また、届かないのか……」

『ふはぁっ、はぁ、はぁ! 頼もしいぞ』

 冥府の底へと沈みゆく意識の中で、悠人にできたせめてもの抵抗といえば、

 ――く、癪に触る声だ…。

と、思うことぐらいだった。

 

 

『ふはぁっ、はぁ、はぁ! 頼もしいぞ』

 王の笑い声が、雑然とざわめく謁見の間に乾いて響く。

 その笑い声を不愉快に思って聞いていたのは、何も悠人だけではなかった。

「貴様らぁ……!!」

 静かな口調の中に、明らかな怒りを篭めて、柳也は居並ぶ重鎮達を見回した。

 これまで悠人の立ち振る舞いばかりに目がいき、まったくその存在を忘れていた王達も、敵意を剥き出しにしたその視線には息を詰まらせ、それまで思考の外にいた少年を恐怖の眼差しで見つめた。

 柳也の右手には、いまだファルシオンを弾き飛ばしたオーラフォトンの盾が、まばゆい光輝を放って存在している。

 明らかな険を含んだ声音と、敵意を孕んだ視線。そして強大な力を秘めた右拳と、王達を怯えさせる材料には事欠かない。

『お、お前は…』

「何を言っているのかは分からんし、何をしたかったのかも分からん。その上で意見を述べさせてもらえば……理不尽な話で申し訳ないが、俺は今、えらく腹が立っている」

 バチバチと、右手のオーラフォトンと大気中のマナが反応し、火花が散る。

 柳也の感情の昂ぶりとともに激しくなっていくその輝きに、王は堰を切ったように口を開いた。

『ぶ、無礼者め! 我々には人質があるこを忘れたか!?』

「……早口だと、一つも単語が分からないなぁッッ」

 柳也は一歩前へと出た。

『く、来るな! それ以上近付くな! お、お前達、速くそのエトランジェをここからつまみだせ!!』

 喚くような命令口調で、王が背後の衛兵達に何か話しかける。

 その言葉を聞いた途端、気色ばんだ兵達が悲壮な表情で、上座から下座へと駆け下りた。また、周囲の廷臣達を守護していた兵達も、異界の少年達を取り囲む円陣をじりじりと狭めていく。包囲陣の先頭には、あのファルシオンの戦士の姿もあった。

『お待ちなさい、リュウヤ!』

 その時、兵達の動きを妨げるように、姫の叫び声が響いた。

「……なに?」

 突如として耳慣れた単語が耳膜を打ち、柳也が驚きも露わに目を丸くする。

 今、彼女は何と言った?

 「柳也…」と、言ったのか? はっきりと、己の名前を? 名乗ってもいない、己の名前を?

『下がりなさい、リュウヤ…』

 静かな、反論を許さない強い口調。

 しかし強い語調の口とは裏腹に、柳也を見つめるその眼差しには、弱々しい光が輝いている。

 ――なんだ? あの視線は……?

 あれが毅然と命令を下す、王族の瞳だろうか。姫の紫水晶の瞳には、気品と、威厳と、それ以上に、柳也達に対する申し訳なさが宿っていた。

 許しとともに願いを乞うているような嘆願の眼差しは、あの冷淡な姫の一面だけからは予想もつかないほど真摯な輝きを帯び、柳也の心を、強く鷲掴んだ。

 ――……ここは退いてくれって、ことだろうな。やっぱり。

 柳也は深々と溜め息をついた。

 大きく息を吸い、吐いてみると、怒りで熱くなっていた頭が急速に冷えていくのが実感できる。

 たしかに、この包囲陣をひとりも殺さずに突破することは不可能だろう。よしんば一人も殺すことなく突破できたとしても、その後はいったいどうするというのか。この世界の常識とコミュニケーション手段を獲得するまで、ここに留まろうと提案したのは、そもそも自分だというのに…。

 太陽の光を宿す右手から輝きが消え、オーラフォトン・シールドが影も形もなく消滅する。

 上座へと向かう足並みを、柳也が反転させたのを見て、姫がほっと安堵した。

 悠人の倒れている位置まで歩いて、振り向いた瞬間に合った視線は、「ありがとう」と、言っているかのように、感謝の気持ちが見え隠れしていた。

 透き通るようなアメシストの眼差しを正視できずに、柳也は面映そうに顔を背ける。

 彼は倒れている悠人をひょいと背負い上げると、平手を振って包囲陣を散らし始めた。

「ほら、ほら。どいた、どいた!」

『お待ちなさい! どこへ行くつもりです?』

 去っていく柳也達の背中に、姫が言葉を投げかける。

 柳也の言葉の理解度を知っているのか、ゆっくりとした、柳也でもなんとか聞き取れる程度の速さで紡がれた言葉に、彼は振り返った。

 なんとか、“シミ”と“ハサキカナ”という単語を聞き取ることができた。たしか“シミ”が“どこ”、“ハサキカナ”が“行く”という意味だったはずだ。

 柳也は僅かに知っている単語を繋ぎ合わせ、片言の言葉を吐き出した。

「スオル、ナ、ユンテ、セィン、エスペリア(エスペリアの館に帰る)

 

 

 悠人は悪夢の世界にいた。

 といっても、いつも見る夢ではない。

 まだ幼い頃の佳織が、暗闇の中で、ただただ泣きじゃくっている夢だ。

 ――かおり…佳織……くそっ…ちくしょう。

 手を伸ばす。

 だがいくら求めても、伸ばした手と同じだけ距離が開いていく。

 悠人の存在に気が付いた佳織は、必死に手を伸ばす少年に向かって何かを叫んでいる。

 けれど悠人は、どんなに耳を澄ましてもそれを聞き取ることができない。

 ――佳織! 佳織っ! 今行くからっ、だから泣くなぁぁっ。

 佳織の名前を、必死に呼び続ける。

「かお……りぃ…」

 叫ぶ――と、額に冷たい感触。

 誰かが濡れた布巾で、身体を拭いてくれているらしい。

 ――かお…り。

 額から顔、首へと布巾が移動していく。

 その冷たい感触に、少しずつ不快感が抑えられていった。

 徐々に頭がはっきりとしていき、悪夢の世界から一歩外へと踏み出す。

 ――俺……どうしてたんだっけ。

 倒れる直前までの記憶は、鮮明に脳裏に焼きついていた。

 すぐに頭の中に浮かんできたのは、己に向けられた哀しい笑顔。

 ――そうだ……エスペリアと戦わされて…。

 ゆっくりと目を開ける。

 真昼の燦然と輝く陽光とともに、見慣れた緑のメイド服が視界に入った。

 悠人の隣では、エスペリアがいつもと変わらぬ微笑みをたたえていた。

「エス、ペリア…」

『ユートさま、お目覚めですか。お身体の調子はいかがですか?』

 起き抜けの耳に心地良い、優しい声。

 そして額を撫でる、優しい手。

 温かな、まるで太陽を思わせる安らぎの手。

 ゆっくりと身体を起こすと、開いた胸元に乗せられた布巾が静かに落ちる。

 床に落ちかけたそれを、間一髪でキャッチする、ヤスデの葉を思わせる大きな手。

「よう。おはよう、悠人」

 大きな手の持ち主……柳也は穏やかな笑みとともに温かい声を投げかけると、落ちかかった布巾をテーブルの洗面器へと入れ、満たされた水に浸け、固く絞ってエスペリアに手渡す。

 受け取ったエスペリアが布巾で汗まみれになった自分の胸元を拭いてくれるのを、まだ目覚めたばかりの頭で眺めている悠人に、柳也は心配そうに言った。

「身体の調子はどうだ? どうやら悪い夢を見ていたみたいだが…」

「………悪い夢?」

「ずっと、うなされていたぞ。佳織ちゃんの名前を呼びながら」

「…そうか」

 悠人はまだ額に残っていた汗を拭った。

『身体は、大丈夫、だと思う。ちょっと頭がボンヤリしているけど、なんとか』

『……!』

「ッ! 悠人……」

 二人を安心させるつもりで、何気なしに告げた言葉に、柳也とエスペリアは顔を見合わせた。

 エスペリアはすぐに悠人の身体を拭う作業をやめると、離した手を強く握り締めた。顔からは微笑みが掻き消え、どこか哀しそうな雰囲気が漂っていた。

 他方、柳也は驚きのあまり続けるべき言葉を失っている様子だ。目の前の現実が納得できないかのように、怪訝な眼差しを悠人に向けている。

『二人とも、どうしたんだ?』

 悠人は不思議そうに言った。

 実際問題として、頭の中は依然として霧がかかっているようだが、身体自体に痛みはない。以前までの倦怠感すら身体からは失せ、ようやく本調子を取り戻した気分だった。

 悠人は二人に心配をかけまいと、どこか様子のおかしい彼らに笑顔を向けた。

 身体の快調を示すように、オーバーアクション気味に伸びをする悠人に、エスペリアは気を取り直したのか笑顔で答えた。

『よかった…』

 胸を撫で下ろすエスペリア。

 一方の柳也は、まだ納得のいかない様子だ。

 柳也の態度がおかしいことは気がかりだが……それよりも、悠人には気になることがあった。

『……エスペリア。さっきのこと、聞いていいか?』

 こうして目の前で少女の微笑む姿を見ていると、とても記憶の中にある槍を構えたエスペリアの姿は現実味を帯びて思い返せない。

 しかし槍を振るい、自分と剣を交えた事実は、しっかりと己の記憶に、己の肌に、己の心に刻み付けられていた。掌に感じた剣の重み。頬を撫でていった刃風。それらはすべて、本物だった。

 聞きづらいことではあったが、聞かずにはいられない。

 いや、聞かなくてはならないはずだ。

 どうして自分とエスペリアが戦わねばならなかったのか。

 エスペリアは何者なのか。

 そして何より、己自身のこと。

 どうしてあの剣を手にした瞬間、普通の学生にすぎないはずの自分に、あんな力が出せたのか。

 エスペリアは悠人の目をじっと見つめた。

 悠人もエスペリアの目をじっと見つめる。

 しばしの沈黙が、昼の穏やかな日差しの篭もる空間に漂い、やがてその沈黙を、エスペリアは自ら破った。

『はい。ユートさま……ご説明しましょう。私たちのこと、ユートさまのこと、この世界のことを』

 

 

『それでは失礼いたします。今日はお二人とも、ごゆっくりお休みくださいませ』

 あくまでも丁寧な仕草と口調で、エスペリアが頭を下げ、部屋から出て行く。

 残された少年達は、それぞれに複雑な表情を浮かべて、退室する彼女を見送った。

 静かな音とともに戸が閉まり、同時に気が抜けたように悠人がベッドに寝転がる。

 エスペリアとの会話でよほど疲れたのだろうが、柳也は、まだ悠人を休ませるわけにはいかなかった。

「なぁ、悠人…疲れているところ、申し訳ないんだが……」

 柳也は、いつもの窓際のポジションに椅子を移動させると、そこに座った。

「なんだよ? 悪いけど本当に疲れたんだ。少し休ませてくれ」

「いや、それはよく分かっている。…けど、どうやらこっちもお前を休ませるわけにはいかないようなんだ」

 柳也は相変わらずの怪訝な面持ちで悠人を見た。

 何か奇妙なものを見るような視線に、さすがに悠人もただならぬものを感じ、全身にどっとのしかかる疲労をひとまず意識の外に追いやって、身体を起こす。

「柳也……?」

「さっき、エスペリアと何を話していたんだ?」

 柳也の問いに、悠人は眉をひそめた。

「…聞いてなかったのか?」

「いや、聞いていた。……だが、話の内容はまったく理解できなかった」

 今度は悠人が怪訝な顔をする番だった。

 悠人の訝しげな視線に、柳也は「やっぱり気付いてなかったか…」と、呟いてから、

「悠人、お前はさっきからエスペリアと普通に話していたよな?」

「あ、ああ…」

「エスペリアがお前に何か話をしている時、俺は口出しをしようとしたか?」

「…いや。そういえば、何も言ってなかったな。けど、まさか……」

 悠人の視線に、柳也は神妙に頷いた。

「…ああ。俺にはお前が話していた言葉も、エスペリアが話していた言葉も、理解できなかった。つまり、そういうことだ」

 柳也はベッドの脇に立てかけられた永遠神剣を顎でしゃくった。

「…その永遠神剣を手にした辺りから、エスペリア達の言葉を話せるようになっていたみたいだが……」

「あ、ああ…。この剣、〈求め〉を手に取ったらいつの間にか……って、柳也!?」

 柳也の口から飛び出した、“永遠神剣”という単語。

 自分もたった今知ったばかりのその言葉に、悠人は目を丸くする。

「お前、永遠神剣って……」

「そのことについては後で嫌ってほど説明してやるよ。…結論だけ先に言っておくと、俺も永遠神剣の契約者だ。……とにかく、そういうわけだから、エスペリアと話していたことを、俺にも教えてくれないか?」

「…わかった」

 友の口から飛び出した衝撃的な事実。そのことについて追求しようとする前に釘を刺され、悠人は仕方なしに自分から口を開く。

 悠人から話を聞き終えた直後の、柳也の表情は言葉での形容が困難なほど、驚愕に慄然としていた。

「……永遠神剣、スピリット、それにエトランジェ。やっぱりここは地球ではなかったか」

「ああ。お前の言った通りだったよ」

「オマケに俺達に戦えって? …ったく、ミリタリー・オタクが本当に戦争をおっぱじめたら、大変な事態になるっていうのは、歴史が証明してるってのに」

 柳也は、彼にしては珍しく苛立ちも露わに頭を抱えた。

 しかしそれも無理もないことだと、悠人は思う。

 むしろこんなおとぎ話同然の与太話を混乱することなく、ちゃんと聞き入れて理解してくれた辺り、柳也の適応力には目を見張るものがある。

「…ったく、まいったよなぁ。なんて面白い展開になってきちまったんだよ、これは」

「どちらにせよ、俺はあいつらに逆らえないし、佳織を人質に取られている。どんなに嫌でも、俺はここに残って、戦わないといけないみたいだ」

「逆に俺は、どういうわけか王族の強制力が効かない。逃げ出すことはいつでも可能だが……それでも、やっぱり佳織ちゃんのことを持ち出されると、きついなぁ」

 柳也は深々と溜め息をついた。

 本日何度目になるか分からない深い呼吸は、本日ついた中でいちばん疲弊した吐息だった。

「こっちの世界の言葉もまだ覚えていないし、覚えたところで、今更この館を出るのも容易じゃない。…俺も、残るしかないか」

「…すまん」

「悠人が謝ることじゃないさ」

 柳也は、苦しげに俯く悠人に明るい声音で言った。

 同時に彼を安心させるよう笑顔も浮かべたつもりだったが、上手くいったかどうかは分からない。もし上手くいってなかったとしたら、真昼の日差しが隠してくれること祈るばかりだ。

「俺にとって佳織ちゃんは大切な幼馴染で、悠人は大切な友人だ。助け合うのは当然のことだろ」

「柳也……」

「それにしても、エトランジェとはまた…」

 柳也は立ち上がると、忌々しげに外の景色を見つめた。

 いつもは目を和ませてくれる窓際から景観も、今の少年達の心を癒すほどの力はない。

 身を乗り出して外を見ている顔の見えない友人に、悠人は静かに声をかけた。

「……どういう意味なんだ、エトランジェって?」

 柳也は、苦々しげに答えた。

「外人部隊……って、意味さ」

 

 

――同日、別室。
 
 

 多くの者達にとって、その部屋は憧憬の眼差しを集める豪著な造りをしていた。

 だがそれは、ある程度心に余裕を持った者に限られる。

 現に、佳織はベッドの上で小さく震えているだけだった。

 すでにこの部屋に軟禁状態にされて数日が経過しているが、いまだ佳織はこの部屋の広さに慣れていない。使い慣れたマンションの一室と違い、無駄に広い部屋の中でひとりきりという状況は、少女の孤独感をさらに煽り、胸に立てかけた小さな決意の札をへし折ろうと容赦なく襲い掛かる。

 柳也の言葉に諭されて、悠人の結論に促されて、この軟禁状態を受け入れた佳織だったが、決してこの状況のすべてを受け入れたわけではなかった。

「……お兄ちゃん……う、うぅ……」

 なぜ、悠人と引き離されねばならなかったのか?

 佳織はそれだけを考えて嘆く。

 元々が理不尽なだけに、その問いに対する結論はいくら考えても出なかった。

「どうして……」

 悠人に会いたい。

 柳也に会いたい。

 目尻から止め処なくあふれ出す涙とともに、胸の奥からこぼれ落ちる強い感情。

 だがその想いは、叶わない。

 どんなに願っても、奇跡のような現実は起きえない。

 そんな当たり前のことは、この十数日の間に何度も実感していた。

 コンコン、と、不意に耳膜を打つノックの音。

「……っっ!!」

 ノックに対して感じたのは恐怖だった。自分の居る部屋の戸を叩くその主が、悠人でないことは明らかなのだから。

 ベッドから飛び降り、一歩後ろに下がる。

 青ざめる佳織をよそに、ドアはゆっくりと開いていった。

『…………』

 入ってきたレスティーナは無言だった。

 ただ、怯える佳織の様子を見て、痛ましげに表情を曇らせている。普段、いつも側に付き添っている近衛兵や廷臣達、実の父親にすら滅多に見せない、姫としてではなくひとりの少女としての表情。

 だが悲しげに歪められた表情は、年頃の少女が浮かべるにはずいぶんと大人びていた。

「あ……あ、あ……」

『怯えないで』

「……っ!!」

 近付いてくるレスティーナに、佳織はますます怯えてしまう。

 何かを喋っているようだが、その意味もわからない。いや、少女が何を喋っているかなど、佳織には関係なかった。

 相手もただの少女なのに、そんなこととは関係なく、佳織はただただ恐怖に包まれていた。

『……怯えないで』

 レスティーナは言葉を繰り返す。

 できるだけ刺激しないように、ゆっくりと優しく。

「…………」

 だが佳織は、何とわからぬままに嫌々と首を横に振るばかりだ。ゆっくりと後ずさるその足取りは震えていて、少女の上体を支える両足が、レスティーナには酷く頼りないものに見えた。

「あ……」

 グラリ…と、佳織の上体が揺れた。

 足下の段差に気付くことなく、震える足取りで段差を踏み抜いてしまう。

 唐突に地面を失ったような違和感とともに流れる視界。重力に引かれ、身体が倒れ――――――

『…………ッ!!』

 床に激突する寸前、レスティーナに抱きとめられた。

「え……?」

『間に合った…………んっ!』

 あからさまにほっとした声。

 その後で、佳織の身体を支えながらゆっくりと立たせる。

『ふぅ……気を付けなければいけませんよ?』

「え、あ、えっと……」

 相変わらず、何と言っているかは分からない。

 どうしてこの人は自分を助けてくれたのか……さらに混乱する佳織の前で、レスティーナは膝に付いた埃を払った。

「とにかく、間に合ってよかった」

 レスティーナはふわりと微笑んだ。

 気品漂う笑顔に、佳織は同性ながら思わずドキリとしてしまう。

『そういえば言葉がわからないのでしたね……』

「え……」

 突然、身体を優しく抱き締められた。

 そっと、優しい手つきで背中を撫でられる。

 なんともいえない良い香りがして、強張っていたはずの佳織の身体から、少しずつ力が抜けていく。

『大丈夫です』

「あ、あ、えっと……」

『落ち着いて……危害は加えません……』

「あ…………」

 暖かい。

 佳織はそう感じた。

 自分と同じように華奢な腕、そして小さな身体。

 いたわるようにかけられる声に、少しだけ気持ちが安らいだ。

『誰にも手は出させませんから……』

「…………」

 抵抗する気は完全に消えていた。

 佳織は、優しく微笑むレスティーナを茫然と見上げた。

「お兄ちゃんたちに、会いたい……」

『え……?』

「お兄ちゃんたちに、会いたい……会わせて……お兄ちゃんは……無事なの……?」

 一瞬とはいえ気が緩んだせいか、普段の佳織なら使わないような言葉が、次々と口からあふれ出てくる。

 だがその異界の言語を、レスティーナは理解できない。

 理解したいと強く思っても、それだけで理解できるはずがない。

 レスティーナは困ったように微笑みかけることしかできなかった。

『不自由はあるでしょうが、我慢してください。決して、悪いようにはしません』

「お兄ちゃん……お兄ちゃん……っ!」

『……ッ!』

 堰を切ったように、ぽろぽろとこぼれ落ちる涙。

 それを見て、レスティーナは唇をきつく噛む。

 佳織の口から出る「お兄ちゃん」という言葉。それはあの少年達と引き離した時に、何度も耳にしたのと同じ叫び。あの二人のエトランジェのうち、悠人のことを差しているのはすぐに分かった。

「あなたたちを会わせてあげることはできません……」

 レスティーナは、苦渋に満ちた表情で、自分にも言い聞かせるように、その言葉を噛み締めた。

『私も父様も、許されるべきではないでしょう……。ですが、いつかはきっと、あなたたちを自由にして差し上げますから……』

 レスティーナは泣きじゃくる佳織の背中を優しくさする。

 情緒が不安定になるのは、当然のことだった。

「……ぅ、ぐす……」

『あなたに危害は加えさせません。この私が、絶対に』

 自分自身に打ち立てた、固い決意の言葉。

 佳織ははっと顔を上げた。

 お互いに言葉は理解できない。それでも、態度から意識は伝わっていく。

 もともと佳織は感受性の強い子だ。

 悪い人じゃない……佳織は、そう思った。

『だから泣かないで……ね?』

「…………」

 佳織は無言でレスティーナの顔を見つめる。

 信じられるか、否か。

 少しだけ悩んで、結論を出した。

「たぶん……いい人、だよね……?」

 この場にいない、悠人への問いかけ。

 レスティーナは佳織が落ち着いてきたのに気付き、そっと腕をほどいた。

『落ち着きましたか?』

「心配してくれたのかな……えと、ありがとうございます」

 佳織は、ぺこり、と頭を下げた。日本式の感謝の意。

 それで意思が伝わるかどうかは定かではなかったが、どうにかして自分が大丈夫だと分かってほしかった。

『どうやら大丈夫みたいですね』

 泣き止んだ様子の佳織に、レスティーナは安堵の笑みを漏らす。

『あ、でも……名前ぐらいわからないと不便ですね。まさか、名前を持つ習慣がない世界から来たわけじゃないでしょうけど……』

「…………?」

 安堵の表情から一転、難しそうに眉根を寄せるレスティーナに、佳織は首を傾げた。

 レスティーナは意を決すると、佳織から離れて、自分を指差した。

『私は、レスティーナ。あなたの名前は?』

 自分を指差す人差し指を、続いて首を傾げている佳織に向ける。

「? なんだろう……」

『……レスティーナ、レスティーナ』

 要領を得ない様子の佳織に、レスティーナは何度も自分を示して、名前を呼んだ。

「レスティーナ……?」

 ゆっくりと、言葉を反芻する。

 佳織が呟くと、レスティーナはにっこりと笑った。

 佳織にも、それが彼女の名前だとようやく分かった。

「名前……だよね? レスティーナさん……?」

『通じた……の? ええと……それでは、あなたは?』

 レスティーナは掌を佳織に向ける。

 レスティーナが自分に何を求めているのか、今度は佳織にもすぐに分かった。

「私のことかな? わたしは……佳織、です。えと……か・お・り」

 ゆっくりと、異世界の発音を紡ぎ出し、佳織は自分を指出す。

 レスティーナは得心したように頷いた。

『カオリ……ですね』

「……通じた、みたい。はい、そうです」

 なんだか佳織は嬉しくなって、何度もコクコクと頷いた。

 その表情は、自分でも十数日だと分かる笑顔だった。

 その笑みを受け、レスティーナもまたやわらかな笑みを浮かべる。

『……ふぅ、わかってよかった』

 いつの間にか、佳織の緊張もとけていた。

『カオリ……負けてはいけませんよ』

「…………」

 名前以外の言葉は、相変わらずまったく理解できない。

 けれど、今の佳織には、レスティーなのいたわりと優しさがわかるような気がした。

「大丈夫……私、がんばる……」

 

 

――同日、深夜。
 
 

 日付が変わり、午前一時(スーク)を越えた頃だった。

 柳也達の世界でいうところの、モット・アンド・ベリー形式に近いラキオスの王城には、人工の庭園にいくつもの施設が建ち並び、人目を忍ぶ場所に事欠かない。

 深夜とあって人気のない醸造室に、二つのシルエットがあった。

『そうですか。ユートは聖ヨト語を……』

 ほのかにアルコールの香る室内で、優美なシルエットは凛とした声で呟いた。

『はい。おそらく、一時的なものと思われますが…。ユート様に聞かされて、リュウヤ様もご自身の立場を理解していただけたようです』

 たおやかなシルエットが、うやうやしく頷いた。

『リュウヤ、ですか……』

 優美なシルエットは、考え込むようにしばし沈黙した。

 たおやかなシルエットは、主上の言葉を待たずして、自分の疑問を口にする。

『リュウヤ様は、いったい何者なのでしょう? 口伝に言い伝えられている四神剣以外の神剣を持ち、しかもその神剣を手離した状態でオーラフォトンを制御するなんて……』

『…リュウヤの神剣は、もしかしたらあの取り上げた刀ではないのかもしれませんね』

『はい…。私のことを警戒してか、ユート様にも、ご自身の永遠神剣については最低限のことしか話していないようです』

『単に用心深いだけなのか、それとも何か別な思惑があるのか……』

 どちらにせよ、今後もあのエトランジェからは目が離せないだろう。

 優美なシルエットは口から出掛かった言葉を飲み込むと、話題を変えた。

『…ダーツィ大公国に動きがみられました』

『公国が、ですか?』

『ええ。キロノキロの第一軍、ヒエムナの第二軍、ケムセラウトの第三軍のすべてで、大きな編成の変化がみられているようです』

『…情報部での分析結果は?』

『おそらく、軍事援助を行っているバーンライトへの軍事顧問外人部隊派兵に応じてのものだろう、ということです。私の見解もほぼ同じです。もし情報部の分析結果が正しければ、バーンライト王国の戦力にはダーツィからの外人部隊も含めて考えなければなりません』

『戦が、始まるのでしょうか?』

 不安げな、だがすでにそうなる未来が確定しているかのように、たおやかなシルエットが問う。

 優美なシルエットはしばし沈黙した後、悲しげに答えた。

『……少なくとも、バーンライトとの領土問題に関して、父様は話し合いで解決するつもりはないようです』

 アルコールの芳醇な香りがなんとも甘く、切なかった。

 必要以上の光を嫌って閉ざされた窓の、僅かな隙間から覗く月光。

 細い線のような光に照らされて、レスティーナは表情を曇らせた。

 

 

――聖ヨト暦三三○年、チーニの月、緑、ふたつの日、昼。
 
 

 昼食を終えた後の、穏やかな午後の一時。

 食事を終えた後も一階の食堂に腰を落ち着けた柳也は、朗々と呪文を唱えていた。

 といっても、本当に誰かを呪っているわけではない。呪文のように聞こえているのは、異世界の単語の羅列で、また呪文のように聞こえたのは柳也の隣に座る悠人だけだった。

「……5+4−2は、え〜…ミート、テカ、ハート、コマ、ラート……で、答えはニトラ。…8+9−1だと……キトラ、テカ、クトラ、コマ、スートで…ミトラト、か。…うぅ、頭痛くなってきたぜ」

「それ、計算問題だよな?」

「ああ。昨日は数字の読み書き話すを一通り教わって、数え方なんかも教わったんだが……」

 柳也は深々と溜め息をついた。

「どうにもさっぱり身に付かん。普通に数字だけ言うのと、その数字を使って数えるとなると、微妙に単語が変わっちまうんだよなぁ…」

「……大変そうだな」

「大変なんですよ。……っていうか、他人事か!?」

 柳也は呆れたように悠人を見た。

「悠人も今日から本格的に言葉の勉強を始めるんだろ? 正確な文法とかイントネーションはともかく、ある程度単語の意味が推測できるようになっておかないと、正直キツイぜ」

「その時はよろしく」

 向けられた乾いた笑みに、柳也は冷たい視線を返した。

 もう一度深く溜め息をつき、頭の体操を再開する。頭の中で次々と簡単な計算問題を作り、それをこの世界の単語を使って解いていく。この世界に長く留まることになった以上、数字の読み書き、数の数え方は必須だ。

 世界有数の富裕民族ユダヤ人は、ヘブライ語で書かれた聖書を目で読み、口で音読し、耳で聞いて、余裕があれば手で書き写して、あの長い旧約聖書を暗記するのだという。

 それに習って柳也もまた、頭の中に浮かんだ数式を紙に書き、目で読んで、口に出して言い、それを耳で聞く作業を進めていった。

 穏やかな陽気と静かな風が、開け放たれた大きな窓から吹き込んでくる。

 悠人達が落ちてきたこのラキオスという国は、大陸でも比較的過ごしやすい気候条件に恵まれた環境らしい。

 まったりと過ぎていく時間と、穏やかな季節風に、自然と悠人の瞼が重くなってきた時、食堂と隣接したキッチンの方から、盆を持ったエスペリアがやってきた。

『お待たせいたしました。どうぞ』

 盆の上にはティーカップが二つ。

 湯気を立てる熱いお茶からは、ほんのりと甘い香りが漂ってきた。

 二人の前にカップを置くと、エスペリアは優しげに微笑んだ。

『どうぞ。暖かいうちに召し上がれ』

「……何て?」

「聞かなくても分かるだろ。シェサンが“どうぞ”で、ウテンサムが“暖かいうちに”とか何とか。テネアマウラスは分からないけど…ハルっていう単語の後は、大体において“〜してくれ”って風に使われているみたいだから、大方、熱いうちに召し上がれ……とか、言っているんだろ」

「……大したもんだな」

 感心したように悠人が言い、カップを口元に運んで一口。

 口から鼻腔に甘酸っぱい香りが駆け抜け、またゆっくりと熱い液体に浸した舌にも、控えめの甘さと一緒にほんのりとした酸味と、ほろ苦い味が広がっていく。野生の山葡萄を連想させる、そんな味だ。

「ええと、ヤスハム……イスカ」

 葡萄ジュースみたいだな、などとはまだ言えない。

 とりあえず片言で、「美味しい」、「これ」と、知っている数少ない単語を並べてみる。

 柳也と違い、まだ正式に言葉の勉強を始めていない悠人でも、いくつかの簡単な単語ぐらいは、意味を理解できるようになっていた。

「本当だな。えっと…ヤスハム、テハン、イスカ、イスィーイス…エスペリア(このお茶は本当に美味いな…エスペリア)」

 柳也も一口含んで、穏やかに笑みを浮かべる。

 どちらかといえば和風嗜好で苦学生だった柳也にとって、お茶といえばまず思いつくのは焙じ茶だが、こういう甘みのあるお茶も、これはこれでなかなか…。

 柳也はエスペリアの腕前を称賛するつもりで親指を立て、サムズアップを投げかけようとして、やめた。

 以前、悠人がエスペリアに同じようにサムズアップをやって、コミュニケーションに失敗したことを思い出したのだ。

 ――言葉だけじゃない。ちょっとした仕草とか、この世界のボディランゲージについても、ゆくゆくは覚えていかないとな。

 学ぶべきことは、思った以上に多い。

 しかし勉強すること自体を、柳也は耐えがたいほどの苦痛だとは思わなかった。

 これも生きるために必要なこと、言葉を覚えればエスペリアとももっと楽しくお喋りできると思えば、辛い勉強もそれなりに楽しめる。

 なにより、地球における学園での学習作業もそうだったが、柳也は基本的に勉強が嫌いではなかった。

 

 

 

<あとがき>

タハ乱暴「エトランジェと聞いて、まず最初に思い浮かぶものといえば……」

北斗「当然、フランス外人部隊だ」

柳也「俺はエリア88。グレッグのスカイホークが好きだった」

タハ乱暴「そうか。俺はやっぱりF-15が好きだな。たった一回の登場だけど、やっぱ日本人だから。次点はトムキャットかなぁ? 能力を制限された条件下でよくやっていたよ」

柳也「いい趣味してるなぁ〜。…ちなみにあんたは?」

北斗「……クフィル」

柳也「通だねぇ〜……」

北斗「中東のどこか、という漫画の舞台を考えれば、クフィルが最良の機体だ」

柳也「それだとサンダーボルトも最良機の一つだな。アメリカ製だけど、あれ、湾岸戦争では問題なく動いていたし」

タハ乱暴「最新鋭のF-14、F-15、F-16、F-18は稼働率維持に必死だったそうだ」

北斗「……おい、軍オタども、そろそろ始めていいか?」

タハ乱暴「んう? ああ、勝手に始めてくれや」

北斗「こいつは本当に作者なんだろうな……永遠のアセリアAnthor、EPISODE:07、ご愛読いただきありがとうございました!」

柳也「しかしライトニングは惜しかったよな。登場インパクトのわりに活躍なしっていうのは……」

北斗「今回の話はいかがだっただろうか? 今話ではついに悠人が神剣と初接触をはたしたわけだが…」

タハ乱暴「この漫画がドラケンに果たした功績は大きいと思うんだ。この作品がなければ、『群青の空』でのグリペンの活躍は……」

北斗「…………」

柳也「ん? どうしたんだ闇舞北斗?」

タハ乱暴「そうだぜ、黙ってないであとがき続けろよ?」

北斗「……おのれら、いっぺん地獄を見たいらしいなぁッ!!!」

 

 

北斗「……というわけで、今回の話についてだが……」

柳也「こ、今回、ついに悠人が神剣を手に入れたな…ぐふはっ(吐血)」

北斗「そして新しいキャラクターの登場だ。タハ乱暴、あの男はいったい?」

タハ乱暴「あ、あのキャラは原作で名前のみが登場していた訓練士で……ぐふほえばぁッ(喀血)」

北斗「なんだ二人とも、あの程度の折檻で血を吐くなど情けない」

柳也「あんた改造人間、俺、生身の人間」

タハ乱暴「柳也は神剣持ちだけどね」

柳也「神剣持ちっつっても第七位の神剣だし…」

タハ乱暴「その第七位の神剣が、次回からは大活躍だ」

北斗「そうなのか?」

タハ乱暴「次回はちょっと原作から離れた内容になる。オリキャラ大活躍編だ」




悠人が求めを手に!
美姫 「それにしても、あの王は腹立つ〜」
はいはい、カリカリしない。
美姫 「きっと悠人たちもボロボロに刻みたい所だけれど、人質が居るから手を出せないのよね」
いや、彼らはそこまで過激じゃないだろう。
何はともあれ、神剣を入手してこれから戦いが始まっていくんだな。
美姫 「その前に次回は柳也のお話みたいだけれどね」
どんなお話のかな。
美姫 「次回も楽しみにしてますね」
待ってます。



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