メッツァー・ハインケルンはひどく疲れた表情で、手にした書類に視線を落としていた。
 ロアから持ってきたA4サイズの紙には、ここ一ヶ月の地球侵攻作戦の経過状況が書かれており、その内容は一部メッツァーを満足させる数字を提出していたが、一部彼の心に大きな負担を強いる数字をも提出していた。
 宿敵・スイートナイツとの戦績はここのところ上々で、連勝が続いていたが、輝かしい戦績の裏で、メッツァーの軍勢はマナの消耗著しく、そのことは彼の頭を悩ませる大きな原因となっていた。

「……どうしたものか」

 ゼーロウに対して反旗を翻してからというもの、メッツァーの軍団は常にマナの不足に悩まされていた。
 最初の頃はスイートナイツとの戦闘で得られたマナで十分機能していた組織だが、軍団の戦力強化・大規模化が進むにつれて、それだけではとても足りない状態になっていた。今のところは同盟関係にあるエルウィン派からの支援により、なんとか組織は機能していたが、いずれはそれでも賄えないほど、台所事情は悪化していくだろう。
 女神近衛団とゼーロウの、巨大な2つの組織に真っ向から立ち向かうには、今以上の戦力強化・組織の大規模化は必須だ。下手にマナの消費を抑えて、組織の弱体化を招いてしまうような事態だけは絶対に避けなければならない。
 しかし、エルウィン派からの支援だけでは、現状の規模を維持するのだけで精一杯。かといって、マナを確保するべく、手当たり次第に地球の人間を襲うわけにもいかない。地球に存在する警察力、軍事力は決して侮れる相手ではない。

「やはり今まで通りスイートナイツ達から得るしかないのか…」

 だがそれにしたところで確保出来るマナには限界がある。一度の戦闘で消費するマナと、得られるマナ。どちらが大きくなるかは、多分に博打的要素が強い。よく勝負は時の運というが、まさしくその通りなのだ。
 地下アジトにある私室の椅子に背中を預けながら、メッツァーは疲労から溜め息を吐いた。
 もう、かれこれ一時間もの間、書類との睨めっこを続けているのだ。
 メッツァーは眉間に皺を寄せると、しばらく瞼を閉じた。長いこと書類を読み続けていたせいか、ひどく眼が疲れている。
 背後でノックの音が二回、鳴った。メッツァーは特に振り返る様子もなく、眼を閉じたまま入室の許可を下す。
 控えめな扉の開く音がして、部屋の中に人の気配がひとつ、増えた。

「……お疲れのようですね、メッツァー様」

 背後からおずおずとかけられたその声に、メッツァーはゆっくり瞠目する。
 地球の家具屋で手に入れた回転式の椅子を回して振り返ると、そこには自分が最も信頼を寄せる有能な副官が、お盆の上にティーセットと何枚かの皿を載せて立っていた。

「疲労回復の効能のあるハーブティーを淹れてきました。そろそろ休憩を挟みませんか?」
「ああ、そうだな。…ご苦労だった、ココノ」

 自分の作業効率が低下する頃合を見計らってやってきた副官の労をねぎらい、メッツァーはロアの伝統的装飾が施されたティーカップに手を伸ばす。
 事務用の回転椅子からくつろぐことを目的に作られたソファへと腰を下ろすと、黒衣の魔導士はカップに口元へと持っていった。
 彼好みの上品な香りが鼻腔をくすぐり、乾いた舌を熱い液体が湿らせていく。自分好みの味だ。

「……いつも通り、相変わらずの腕前だな」
「そんな…私なんてまだまだです」

 主に褒められた嬉しさと恥ずかしさに顔を赤らめながら、ココノは手際よくお盆に載せられた物を、テーブルの上に並べていった。
 メッツァーの視線が、黒炭色のテーブルを彩る赤や白に留まる。

「これは…?」
「メッツァー様が以前おっしゃっていた、地球のケーキです。どれがメッツァー様のお口にいちばん合うか分からなかったので、とりあえずメッツァー様がお食べになったと聞いたものを全部作ってみました」

 スタンダードかつオーソドックスなショートケーキにチョコレート。旬の味覚を取り入れたモンブラン。ホイップクリームの添えられた、ロールケーキ……。
 以前、村雲亮次の名を騙って七瀬凛々子や宮守麻由希らと足を運んだ喫茶店で振る舞われた、柚木香那葉製作のそれに負けず劣らずの逸品達が、テーブルを飾っていた。
 少なくとも、メッツァーの記憶にある見た目の点では、まったく引けを取っていない。
 問題は味だが……

「どれ……」

 適当にひとつ……モンブランを取って、フォークを突き刺す。
 口の中に運ぶと、やや甘さを控えたクリームと栗が、絶妙なハーモニーを奏でた。

「メッツァー様はあまり甘すぎるのは好みでないので、砂糖を控えめにしたんですが……お気に召したでしょうか?」

 お盆を両手に不安げに訊ねてくるココノ。
 自分の嗜好を自分以外で、誰よりもよく知る副官に、メッツァーはその味が気に入ったことを、言葉でなく態度で示す。
 彼は瀟洒な彫りを刻まれた銀のフォークを再びモンブランへと入刀し、適当な大きさをすくって、口の中へ送る。その動作を繰り返すこと6回。ケーキは見る見るうちに体積を減らし、すべてメッツァーの胃袋の中へと収まっていった。

「ふむ。なかなか美味だったぞ」

 手渡されたナプキンで口元を拭きながら、メッツァーは満足そうに言った。
 実際口にしたモンブランの味は、香那葉の勤務する店で売っているのと比べても遜色なく、むしろ味にロア風の工夫がしてある分、メッツァーの口にはこちらの方が美味く感じられた。
 メッツァーの賛辞に、ココノは嬉しそうにはにかんだ。
 生来控えめな性格の少女は、自分の料理の腕前が、実際とは違って人に評価されるほどのものではないと思い込んでいる。実際にメッツァーの口に入り、褒め言葉を授かるまで不安だったのだろう。彼女の笑みは心から安心した様子で輝いていた。
 メッツァーは再び、テーブルの上に整然と並ぶケーキに視線を落とす。
 色鮮やかなケーキ達はすべて、先のモンブラン同様に味も美味いに違いない。
 メッツァーはケーキを食べたいという欲求にかられながら、「だが……」と、ココノに問うた。

「だが、さすがにこれは作りすぎじゃないのか?」

 テーブルを覆うケーキの数は、それぞれの種類で一品ずつ並んでいる。その数、ゆうに六個。いくら砂糖控えめとはいえ、これだけ食べれば胸焼けは必至だ。

「仮に俺が甘党でも、この数は食べきれないぞ」
「ああ、その点は大丈夫です。n二日ぐらいなら日持ちしますし、いざとなったら下魔達の食料にしますから」
「あいつらにケーキの味が分かるとも思えないが……ところで、お前は食べないのか?」
「私は味見のときにたくさん食べましたから」

 たしかに、これだけの数のケーキの味見をしたとなると、一口の量が少なかったとしても、総合的にはかなりの大量になるはずだ。少なくとも、テーブルの上に並ぶケーキ1個分は最低食べているはず。ココノの遠慮したいと思う気持ちも、分からなくはない。
 ケーキ1個の大きさは一般的な標準サイズだが、そこに秘められた糖分、カロリーは計り知れないものがある。女のココノにとって、サイズに反して巨大なカロリーは無視出来ない数字なのだろう。
 とはいえ、それはメッツァーとて一緒だ。
 メッツァーは男で、カロリーや糖質に関してはココノほど気にする必要はないが、さすがに3個も4個も一気に食べられるほど、彼の胃は巨大ではない。せいぜいあと1個食べられるか、食べられないか。
 メッツァーはブルーベリーの乗ったケーキの皿を手に取ると、フォークを差した。
 一口サイズの大きさにケーキを切り分けながら、彼は相変わらず立ったまま控えている副官に、ふと思いついたことを問う。

「そういえば、お前の分のハーブティーはどうした?」
「え?」
「いや、だからココノの分のハーブティーだ。ケーキは食べられなくとも、茶を飲むぐらいはいいだろう?」

 運ばれたカップの数は一つ。ティーポットの中には、未だ高い熱を持った液体が、あと三杯分は入っている。
 ココノはやや驚いたように眼を見開きながら、おずおずと訊ねた。

「あの……それはメッツァー様とご一緒にお茶を飲んでもいいってことですか?」
「べつに構わん。それに、後で今後の作戦のことでココノにも意見を聞きたいと思っていた。……それとも、俺と一緒では嫌か?」
「と、とんでもありません!」

 ココノはぱっと明るい表情を浮かべ、慌てて言い切った。

「すぐに私の分のカップを持ってきます」

 即座に踵を返し、脱兎の如く駆け出そうとするココノ。
 その背中を、メッツァーは素早く引き止めた。

「待て、ココノ」
「はい?」

 いままさに走り出そうとしていたココノは、メッツァーの声に振り返る。
 黒衣の魔道士は、やや困った表情でケーキを指差した。

「これももう下げてくれ。さすがに3個目は辛い」

 

 

 

「悪の秘密結社の休日」

 

 

 

 休憩を終えたメッツァーは、早速ココノに自分の頭を悩ませる難題について話した。
 まだゼーロウとの繋がりがあった時代にさえしばしば生じた、マナ不足という身近な、しかし重大な問題。
 だが、改めて説明をするまでもなく、ココノはその件については重々承知していた。もとより、メッツァーの報告書は現在、全て彼女が作成しているのである。そうでなくとも、情報収集に施設管理、侵攻作戦に必要な魔物の管理・運用と、平時からして大量のマナを必要する部署に勤める彼女だ。メッツァーとの認識の程度の差はあれど、自軍のマナが不足していることについては嫌でも気付く。
 話を聞き終え、神妙な顔をするココノに、メッツァーは問うた。

「根本的な解決策が必要なのはもとよりだが、とりあえず今は組織全体のマナの消費を抑えることと、マナの消費を最低限に抑えながら、獲得するマナが最大になるような作戦を、行うための手段を考えねばならん。……何か案はあるか?」
「そうですね……」

 ココノはしばし沈黙した。
 普段からメッツァーに最も近い立場にある人間として、彼女は黒衣の魔道士からしばしば意見を訊かれることがあった。元女神近衛団の第二騎士団『アップルナイツ』に所属し、そこでも副官を務めていた彼女の見識は深く、時折、メッツァーでも思いつかないような大胆な発想をすることもある。

「この世界の人間の武器を使う……というのは、どうでしょう?」
「人間の武器、か……」

 おそらく、ココノが言っているのは火薬をエネルギーとした銃に始まる諸々の武器のことだろう。
 メッツァーはその提案に少し考え、しかし頭を振る。
 火村竜人の名を語っていた頃から、この世界の歴史でいかに火薬が強力な武器として機能してきたのか、メッツァーはある程度の知識を学んでいた。確かに火薬をエネルギーとした兵器はみな強力で、生産性・経済的にも優れている。大量のマナを消費し、数人の魔法使いが一斉に呪文詠唱しなければ完成しないような超大型魔法も、火薬を使えばそれより遥かに少ないエネルギーで、同じ効果を、誰しもが発揮することが出来る。持っていて有益な代物であることに間違いはない。
 問題はそれら火薬を使用した武器を、どのように入手するかだ。自分達がアジトを設けている日本というこの国は、世界でもトップレベルの銃規制をしいており、一般の入手ルートはかなり限られている。それも、スポーツ用のハンドガン、ライフルがほとんどだ。実戦で使えるレベルの銃となると密輸入するしかないが、生憎、パイプラインがない。
 組織で秘密裏に生産するにしても、この世界と違ってロアにはそもそも火薬そのものがない。科学ではなく、魔法を発達させてきた世界が、ロアなのだ。火薬そのものがなければ、火薬についての知識があるわけもなく、大量生産にはかなりの時間がかかるだろう。10年スパン……いや、この世界での火薬の発達の歴史の長さを考えれば、一〇〇年を見積もっても少ないぐらいだろう。
 よしんば大量にそうした武器を入手出来たとしても、それを扱いこなせるようになるまでに、やはり時間は必要だ。魔物達の教育システムも、新しく編成しなければならない。
 すべての魔物に武器が行き渡り、それを使いこなせるようになる頃には……はたして、メッツァー陣営の台所事情はどうなっていることか。

「……駄目ですか」

 しょげた表情で肩を落とすココノ。
 とはいえ、メッツァーは彼女を責める気にはなれない。
 火薬の知識がほとんどないのは、彼もまた一緒なのだ。

「時間がいちばんの問題ですね」
「ああ。一日一日をただ過ごすだけで、マナは消耗していく」

 エルウィン派から定期的に送られてくる支援物資と、組織運営のためのマナが次に到着するは約2週間後。ゼーロウや女神近衛団の動きによっては早まることも、遅れることもあるだろうが、どちらにせよ、やはりこちらも時間が最大のネックとなっている。

「せめて、あと一ヶ月は備蓄分のマナだけでやり繰りしていかねばならない」

 せめてロアへの転移魔法が使えれば……ロアにある自分の屋敷が差し押さえられていなければ、あそこにはこれまでに集めたマナをストックした魔法石が大量にある。屋敷が駄目でも、万が一のときのためにいくつか用意してあるアジトには、それと同じぐらいの魔法石が備蓄してある。
 しかし、転移魔法には多くのマナが必要だ。現在の備蓄量を考えれば、往復はおろか片道切符すら買えないだろう。
 ――と、そこでメッツァーはふと気が付いた。

「……ココノ、以前国際教導学園で潜伏したときに使っていたアジトだが――――――」
「はい。作戦基地施設としての機能はすでに失っていますが、当時備蓄していたマナはまだ大分残っているかと」

 途中でメッツァーの言下に隠れた、彼の意図を悟ったのだろう。ココノの表情がぱっと明るくなり、説明をする口調が弾む。

「スイートナイツによる攻撃と、ゼーロウの残党狩りで大分やられていますが……マナの貯蔵庫には強力な結界が張ってありますし、不可視の魔法もかかっていますから、大丈夫だと思います」
「そうか。…あの時点でストックしていたマナは、どれぐらいあった?」
「詳しい数字はあとで資料を見ないと分かりませんが……」
「構わん。お前の憶えている限りではどれぐらいだ?」
「……大規模作戦の実行二日分程度は、残っているかと。ティアナ姫から得たマナが、かなり残っていたはずですから」

 それだけあれば、一ヶ月どころか二ヶ月だって保つだろう。もっとも、節約は必要だし、極力戦闘は控えねばならないだろうが。

「まずはその確保が急務だな」
「はい。しかし、あまり大掛かりに動いてもスイートナイツを刺激するだけですから、下魔を何体か連れて、活動は目立たぬよう水面下で行うべきかと」
「その辺りの詳細は、ココノに任せる」

 なんにせよ、これで当面はマナ不足で右往左往しなくても済むだろう。
 根本的な解決にはなっていないにせよ、とりあえず目先の問題の解決の目途がついたことで、メッツァーは肩の荷がひとつ下りたように息をつく。すると、身体は自分で思っている以上に大分疲れていたらしい。問題解決と同時に、急速に眠気が襲ってきた。

「……やっぱり、大分お疲れのようですね」
「…ん? ああ、そうだな」

 身を案じてくれるココノの声も、いつもより遠い。
 本格的に身体が睡眠を求めている証拠だ。そういえばここ数日は仮眠ばかりで、ロクに眠っていなかった。
 情勢は常に不安定で、いつ女神近衛団とゼーロウの最終戦争が始まってもおかしくない状況なのに、これでは……

「そろそろお眠りになっても大丈夫ですよ。後のことは、私がやっておきますから」
「そうか……じゃあ、頼む」

 甘く響くココノの声を遠く耳に受けながら、メッツァーはベッドに自分の身体を放る。
 相変わらず硬い。以前使用していたアジトの物と違い、今使っているのは地球の家具屋で手に入れたベッドだ。寝心地には雲泥の差がある。やはり、ぐっすり眠るのなら、あのベッドでなければ……

「おやすみなさいませ、メッツァー様…」

 国際教導学園に行けば、あのベッドも回収できるだろうか……そんな淡い期待も胸に、メッツァーは眠りに落ちていった。

 

 

結論からいうと、メッツァー達のマナを確保するための作戦は成功した。スイートナイツとゼーロウの追討部隊によって散々蹂躙されたアジトは、かつての偉容こそ失ってはいたが、貯蔵していたマナや、他にも使える資材などが豊富に揃っていた。メッツァーは下魔に命じてまずマナを回収し、ついで残された資材の回収を命じた。最後に旧アジトにやってきたという足跡を消すための魔法をかけ、彼らはかつての根城を跡にした。

 

 

 しいてその理由を挙げるなら、気分転換と、懐かしさに負けた……といったところだろう。偽りの学び舎であったとはいえ、この都市で自分は3つの名前を駆使し、それなりに有意義な時間を過ごしたのだから。
 作戦が無事成功したのを見届けたメッツァーは、後のことはすべて配下の下魔達に任せ、学園都市の一画を悠々歩いていた。
 袖を通しているのはいつもの魔導服ではなく、限られた期間だけ着ているはずだった学園の制服だ。もっとも、今着ているのは、かつてこの学園で作戦を実行していたときに身に着けていた物ではない。その辺りを歩いていた適当な学生に声をかけ、催眠魔法をかけて奪った物だ。自分と似たような背格好の相手を見繕ったつもりだったが、若干サイズは大きい。

「あの、メッツァー…様……」

 隣を歩くココノが、人ごみを気にしてか躊躇いがちに主の名前を口にする。彼女もまた仮初めの制服に身を包み、周囲を気にしながらメッツァーの後ろに付き従っている。

「なぜ、このような場所へ来られたんですか?」
「気分転換だ」

 ココノの問いに、メッツァーは即答した。

「今回のマナの一件も含めて、ここ最近考え事ばかりしていたからな。外に出るのも、スイートナイツ攻略のための作戦ばかりで、いつも夜中だった。たまにはいつもと違った場所で、いつもと違った時間帯に、外に出てみたいと思ったまでだ」
「でしたら、何もここでなくとも…」

 火村竜人、水瀬蒼也の名前を記憶している者は、現在国際教導学園にはいない。プリンセス・ティアの一件の後、事態の拡大を良しとしない女神近衛団とゼーロウの利害が一致し、暗黙の了解の下に大規模な記憶操作が行われたのだ。とはいえ、人の記憶を完全に消し去ることは、どんな高度な魔法でも出来ない。現在、あのスイートナイツ達との一件は、一種の都市伝説として、学園都市に残っている。
 また、かつて二人の人間の名を騙っていたとき、メッツァーは偽装魔法を自らにかけ、顔を変えていた。今、メッツァーは偽装魔法をかけることなく、素顔のまま出歩いている。
 行き交う人々に主人の正体がばれる可能性は低かったが、ふとしたきっかけで、かつての級友や人質となった被害者達が、メッツァーの存在を思い出さないとも限らない。ココノは気が気でなかった。

「だったら何処ならよかったというのだ? 今の街にはスイートナイツ達がいるのだぞ? 昼間から出歩いて、街中で鉢合わせないとも限らない。他の街に出歩くにしても、我々はこの学園都市以外の地理を知らない。気分転換で安心して歩けるのは、この街ぐらいしかないではないか」
「それはそうですけど…」

 たしかにメッツァーの言うことは正しい。
 情報収集や、買い出しで普段地上に出ることの多いココノとて、地球の地理に関する知識はメッツァーと大差ない。多少、今住んでいる街の裏路地とかに詳しいぐらいだ。

「それに、以前この学園で作戦を遂行していたときには、お前は地下に篭もりっきりで、あまり地上に出ることはなかっただろう?」

 より正確にいうのなら、『自分が地下に篭もらせていた』だ。
 あのときはまだ地球の勝手が分からずに、ココノには今以上の迷惑をかけてしまっていた。陰惨な地下空間でココノはずっと、嫌な顔ひとつせずに自分に尽くしてくれた。今回のこの学園都市に足を運ぼうと思った理由には、そんな過去の彼女への罪滅ぼしの思いもある。
 それに、最近働きづめだったのは何も自分だけではない。細かい雑事なども含めれば、労働量は自分より彼女の方が上だ。
 ここはひとつ、ココノにも休息を与えてやるべきだろう。部下が本当に辛くなったときに休息を与えるのでは、良い上司とは言えない。本当に良い上司なら、部下の限界を見極め、適当なところで休養を与えなければ…。

「先日はお前が俺に街を案内してくれた。この学園都市については、お前より俺の方が詳しい。案内させろ」

 普段の自分ならば絶対に言わないような台詞も、今はなぜかすらすらと唇から出ていく。
 自分にとってこの場所は、ロアとは違った意味で第二の故郷。この学園都市から、地球での自分達の旅路が始まったのだ。故郷に戻れば誰しもがそうであるように、素直な自分になることが出来る。
 メッツァーは躊躇うことなくココノに腕を差し出した。絡ませるか、繋ぐかしろ……という意味合いで。
 男と女の関係でいえば、自分とココノのそれは『主人と性奴隷』。二人を繋ぐ絆は互いの手と手の温もりではなく、冷たい快楽の鎖。だが、たまには普通の恋人同士のように、手と手を取り合うのも良いだろう。
 ココノは驚いた表情でメッツァーの顔と、差し出された手を見比べた。
 普段一緒に歩くときは、副官という立場を踏まえて二歩後ろに付き従うようにしているココノである。差し出された手に対する戸惑いは大きい。

「……えっと、あの…よろしいんですか? 私なんかが隣にいて」

 お前だから隣にいることを許しているのだ……とは、さすがに口にしなかった。
 しかし、ココノが自分の最も信頼を寄せる副官であることに変わりはない。仮に現在の作戦が上手くいって、スイートリップやキッス達を服従させることが出来たとしても、彼女達を自分の隣に立たせようなどとは思わない。
 ココノでなければ……そう、ココノだからこそ、自分の隣に立つ資格がある。
 他のナイツ達と違い、性の虜となって、魔に堕ちてなお清廉なる心を失わなかったココノだからこそ……この黒衣の魔導士の隣に立つ人間には、相応しい。
 メッツァーは無言で手を出し続けていた。
 ココノがおずおずと前に出て、その手を掴む。

「じゃ、じゃあメッツァー様……ご案内、よろしくお願いします」
「まかせろ。……それとココノ、そのメッツァー様というのはやめろ」

 時刻は日中。行き交う人の波は未だ高く、何処で誰に見られているものか分からない。
 往来を行き交うごく普通の一般人が、『メッツァー様』などと、様付けで呼ばれているのを目にし、耳にすれば、胸中に抱くのはどんな思いか……不用意に目立つような真似は、自分としてもしたくない。

「偽名か……せめて呼び捨てにしろ」
「そんな! メッツァー様を呼び捨てにだなんて、私には出来ません!!」
「……」

 だから、その大声がいけないのだと……言葉にしなけば、分からないのだろうか、彼女は。
 おそるおそる……と、いった風に、メッツァーは周囲に視線を巡らせる。
 大半の人々は自分達の日常の方を優先して通り過ぎていってくれたが、残りの一部は、自分達に好奇の視線を向けていた。動物園のコアラの気持ちが、なんとなく分かった瞬間だった。
 メッツァーは昨夜までのとは違った意味での、溜め息をついた。

 

 

 傍目には学生同士のカップルが、デートを楽しんでいるようにしか見えなかっただろう。
 メッツァーとココノのふたりは、それぞれ仮初めの制服に身を包みながら、巨大な学園都市をのんびりと散策していた。
 巨大な……といっても、所詮は学生達の生活環境を整備するため、また地域の経済活性化のために築かれた、人工島の上。東京や大阪といった大都会というほど娯楽があるわけでもなく、ましてメッツァー達ロアの住人が楽しめる施設なんてほとんどない。
 必然、ぶらぶらと散歩をするしかない彼らだったが、ふたりはこの時間をそれなりに楽しんでいた。
 任務以外で純粋に外に出ること自体久しぶりのメッツァーの目には、学園都市の風景は懐かしさを感じると同時に新鮮味に満ちて映り、ただでさえ知らない街を歩くというのでワクワクしているココノは、メッツァーと一緒の外出ということでなお嬉しかった。
 物珍しい街の風景に目を奪われながら、ココノは優秀な副官としての顔ではなく、ココノ・アクアというひとりの少女の表情を浮かべていた。アジトの中では自分とメッツァーの部屋でしか表に出さない、素の彼女がそこにはいた。

「わわっ! 火村君、ここに珍しい動物がいますよ〜」

 あの後、さんざんメッツァーに釘を刺され、ようやくかつての偽名である『火村竜人』の名を呼ぶことを承諾したココノは、ケージに収められた四足歩行の姿にはしゃいでいた。
 寮生活が基本の国際教導学園の生徒達だが、毎日勉強ばかりではストレスが溜まる。ふたりが訪れたペットショップは、そうした学生達に対するアニマルセラピーの効果を期待して、国が企業に委託して作らせたものだった。
 ふたりが並んで前に立つケージの中には、エキゾチック・アニマルの代表格(タハ乱暴私見)……フェレットがいた。
 だらりと長い胴体に、短いながらもしっかりとした下肢。愛嬌のあるタヌキ顔の一匹が、ケージの前に立つ二人を見つめている。

「ロアでは見ない姿の生き物ですね」

 そう言いながらここのは、ケージの中に人差し指を差し入れた。
 タヌキ顔が興味深そうに寄ってきて、クンクンと鼻を鳴らす。もともと好奇心が強く、人懐っこい動物なのだ。
 タヌキ顔はひとしきり臭いを嗅ぐと、ココノの指を甘噛みした。

「め、メッツァー様! 大変です! この子、ものすっっっっごく可愛いです!!」

 思わず偽名ではなく本名を呼んで感激するココノに、メッツァーは何も言わなかった。
 黒衣の魔導士の視線は、別のケージの中にいる一匹に釘付けとなっていた。
 作者タハ乱暴も飼っている、スターリングシルバーのフェレットだ。これまただらりと長い胴体に短い四肢。白と銀の毛並みが、精悍な顔つきをさらに引き締めている。
 しかし、凛々しい外見とは真逆に、スターリングシルバーの彼はだらけていた。
 正確には、定員の若い女性の腕の中で、だらけていた。

「……お前、オスだな」

 メッツァーが言うと、スターリングシルバーは声に反応して彼の方を振り向いた。
 やや赤みの入った獣の目と、金色のメッツァーの視線が絡み合い、数瞬して、フェレットは『なんだ、男かよ』とばかりに、そっぽを向いた。ちなみにフェレットは色盲である。

「……やはりお前はオスだ」

 メッツァーは奇妙な確信とともに言い切った。
 彼はスターリングシルバーから視線をそらすと、隣のココノに戻した。
 しかし、メッツァーの隣に彼女の姿はなかった。
 いつの間に移動したのか、ココノは二メートル先の小型犬のコーナーに貼り付いていた。

「ほ、火村君……この子達は危険です。あと十秒ここにいたら、ココノはこの子達全員を基地に連れて帰ってしまいまそうです!」
「……」

 ……残念ながら現在の逼迫した財政状況では、とてもそんな余裕はありません。

「……なら、そこからさっさと離れろ」
「足が動きません」
「……」

 メッツァーは以前地球のテレビで観たプロレス技(お好きな技を想像してください。タハ乱暴はパイルドライバーを想像しました)で、ココノをその場から引き剥がした。
 ペットショップを後にしながら、ココノは、

「ち、地球の小動物は危険です。あの可愛さはもはや兵器ですよ…」
「地球の小動物のすべてが可愛いわけじゃないだろう? 地球の定義でいえば、小型の爬虫類だって小動物になる。お前は、蛇やイグアナが可愛いと思うのか?」
「え? 可愛いじゃないですか? あの精悍な顔つきとか、きらきらした鱗とか」
「……」

 本当に不思議そうに言うココノの返答に、メッツァーは二の句をなくし沈黙した。
 彼女との付き合いはもうかなりの年月になるが、爬虫類が好きだったとは知らなかった。副官の意外な一面との遭遇に、メッツァーは言葉もない。そういえばココノは触手プレイも好きだった。案外、あのヌメヌメした感触が好きなのも、そんな彼女の動物好きの一側面なのかもしれない。

「……あれ? 火村君、あれは何なんでしょう?」

 唐突に、ココノが言った。
 衝撃的発言の直後で思考がフリーズ状態に陥っていたメッツァーは、回らぬ頭でココノが指差す方向を見た。
 そこには、一軒の店があった。じっと見ていると目が痛くなるほどのカラフルなネオン灯が、その存在感を主張している。自動扉で仕切られた店内からは、時折人の出入りとともに、情緒も何もない、ロアの音楽とはまるで異質のやかましい騒音が漏れ出て、ロアの住人達の耳を激しく犯した。客層は、若者が圧倒的に多い。

「あれは……ゲームセンターか」

 未だ足を踏み入れたことのない場所ではあるが、知識としてはメッツァーも知っている。たしか、主に地球人の若者をターゲットとした娯楽施設だったはずだ。コンピュータによって制御された様々な種類の機械を動かして、それぞれの機種ごとに設定されたルールの下、遊ぶのだという。

「あれが噂に聞くゲームセンターですか」
「そのようだな。…なにやらうるさすぎて、入る気にならないが」

 ロア生まれのロア育ち、生粋の異世界の人間であるメッツァーは、やたらやかましいだけの音楽にあからさまな不快感を表情に出し、言った。
 火村竜人を名乗っていたときも、水瀬蒼也を名乗っていたときも、地球人の娘達との関わりを持つ機会の多かった、村雲亮次を名乗っていたときでさえ、メッツァーはこの手の施設を利用したことがない。
 理由は単純明白なもので、『やかましい』、『金の無駄』、『何が面白いのか分からない』の三拍子。
 炸裂する電子音に明滅するテレビ画面。ただでさえ密閉されて息苦しい空間に、自分を不快にさせる機械の数々。科学ではなく魔法を発展させたロアの住人達にとって、ゲームセンターという場所は劣悪な環境を保持した、異星のごとき空間だった。
 メッツァーの言葉に、ココノは頷いて同意した。ココノもメッツァーと同じで、こういったやたら騒がしいだけの場所はあまり好きではない。
 メッツァーは早くこの場から離れようと足を動かした。
 しかし、ココノがその後を着いてくる気配はない。
 振り返ると、ココノは未だ先ほどの場所で立ち尽くし、その視線はゲームセンターに注がれたままだった。
 いったい何を見ているのかと、メッツァーは隣に立つ少女の青い瞳が見つめるその先を見た。
 ココノの視線は、仮想空間へとトリップするための装置ではなく、透明なプラスチックの板一枚をはさんで具体物が収められた、箱に注がれていた。
 UFOキャッチャーの景品の中には、さっきのタヌキ顔によく似た、フェレットのヌイグルミがあった。
 どうやらココノは、あれに興味を惹かれたらしい。
 メッツァーが元居た場所に引き返すと、ココノは言った。

「……あの機械はどうやって動かすんでしょうか?」
「分からん。分からないが……」

 メッツァーは頭の中にポケットの財布の中身を思い浮かべた。
 四日前の夜に出撃する際、夜勤帰りのサラリーマンに催眠魔法をかけたところ、自らすすんで献上してくれた財布の中身は、大丈夫、まだかなりの余裕がある。あの善意の人物には、いずれお礼をしなければならないだろう。

「……何事も経験だ。後学のためにやってみよう」
「はい」

 ふたりは激しくも不快なサウンド音をなるべく避けるように歩いて、UFOキャッチャーの前に移動した。
 最初にメッツァーが、

「ふむ。まずはここに硬貨を入れて……」

 と、説明を読みながらボタンを押した。
 お世辞にもスムーズとは言えぬ動きでクレーンが動き、縦軸の座標が固定される。続いて横軸の座標をセット。クレーンが降下し、アームが開いて、静かに閉じる。

「……」
「……何も掴みませんでしたね」

 ココノの容赦ない一言が、メッツァーの乾いた心に染み渡る。
 最初の座標設定がいけなかったのか、クレーンのアームは乱雑に放られたヌイグルミに触れることすらなく、元の位置へと戻っていった。

「……もう一回だ」

 自分がこのゲームをやるのはまだ一回目。初めてなのだから失敗してもしょうがない。
 気を取り直してメッツァーは、もう一度コインを投入。一回目と同じ要領でクレーンの座標をポイントし、アームを……

「……えっと、空気を掴みました」
「…………失敗は成功の母だ」

 地球にもある故事を持ち出して、メッツァーは再度クレーンに立ち向かう。意外と熱くなるタイプのようだ。
 コインを投入し、一呼吸。高等魔法を駆使するときのように極限まで精神を集中し、狙いを定める。先の二度の失敗の轍は踏まない。自分は初心者なのだから、最も取りやすそうなものを狙う……はたして、メッツァーがターゲットに選んだのは、タヌキのような顔した動物のヌイグルミだった。

「この俺を本気にさせたのが運の尽きだ…」

 …たかがゲームで、何を口走っているのだろう? この黒衣の魔導士殿は。
 メッツァーは慎重に初期座標を設定し、目標のヌイグルミのちょうど真上へとクレーンを運ぶ。

(ククククク……待っていろ、タヌキよ)

 ちなみにメッツァーが狙いを定めたタヌキ顔のヌイグルミの正体は、レッサーパンダ。中央アジアを主な生息圏とする、木登りが得意なパンダの親戚である。
 メッツァーは横軸操作のボタンの上に載せていた人差し指を、そっと持ち上げた。素早いレスポンスでクレーンの動きが止まり、アームが開く。そしてそのまま、ゆっくりと降下を開始した。
 アームのフックが、レッサーパンダのなだらかな腹部を捉える。

「取った!」

 メッツァーは叫んだ。確信に満ちた響きの声だった。
 しかしメッツァーの確信は、素人にありがちなUFOキャッチャーの罠によって、もろくも打ち砕かれた。
 クレーンのアームは、確かにレッサーパンダのボディに引っかかった。引っかかっりはしたが……

“つるん♪”

「……」
「……」

 ……滑って、空振りした。

「お、おそるべしUFOキャッチャー……」

 金色の瞳を大きく見開くメッツァーの声は、震えていた。
 ロアでは敵なし、女神近衛団のナイツでさえ恐れる黒衣の魔導士を、こうもてこずらせる電気仕掛けの遊戯機械。初めて遭遇した未知の存在に対して、このときメッツァーが抱いたのは驚異ではなかった。恐怖でもなかった。戦慄でもまだ言い足りないほどの経験だった。

「そんな大げさな……」
「ココノよ! お前はこのUFOキャッチャーを実際にやっていないからそんな事が言えるのだ!」

 ちなみに、まったく関係ない話だが、タハ乱暴は生まれてこの方、UFOキャッチャーでゲットした景品はひとつもない。一方、タハ乱暴の実妹はとんでもなくUFOキャッチャーが得意で、1000円札1枚あれば、それが1000倍の質量に化けることも少なくない(あれ、絶対、才能が関係しているよねー)。

「そい言うのならココノ、お前もやってみろ」

 メッツァーは憤りも露わにココノに命じた。
 そもそもUFOキャッチャーをやりたがっていたのは自分ではなくココノではなかったか。それが何故、自分がこんな敗北感に打ちひしがれねばならないのか。ああ、無性に腹が立つ。このやり場のない怒りを、どうすればいいのか。そうだ、今夜はあの勝気で生意気なスイートパッションの小娘を襲ってやろう。あの敵意に満ちた眼差しを、快楽と屈辱とで歪め、あの清らかなる体をこの身で汚してやろう。そうだ、それがよい。そうすればこの怒りもいくらかは……

「メッツァー様!」

 黒衣の魔導士の崇高な思考は、しかし、不意に耳を撫でた副官の声によって中断させられる。
 いきなり隣で大声を上げられ、メッツァーは思わずココノの方を振り向いた。
 いったい何が起こったというのか? その切羽詰った声の意味は……?
 メッツァーが見下ろす先で、普段とは違った印象を与えてくれる制服に身を包む少女は、嬉々としていた。

「メッツァー様メッツァー様、囚われのタヌキさんを解放しました!」
「なに!?」

 見ると、ココノの手には先ほどメッツァーを散々苦しめたレッサーパンダがあった。
 そしてそれを抱き締めるココノの表情は、ものすっっっっっっごく、嬉しそうに輝いていた。

「……」

 メッツァーは開いた口が塞がらなかった。
 頭の中で、「え、嘘ぉ?」とか、「は? マジィ?」とか、奇妙な若者言葉が何度もリフレインする。思考が上手く、まとまらない。
 そしてメッツァーが混乱から脱せずにいる間にも、ココノは黒衣の魔導士を苦しめた遊戯機械に囚われた動物達の救出活動に従事していた。次々とコインが投入され、物言わぬ動物達に救いの手が差し伸べられる。

「次は、あのクマさんを狙います」

 クマさんを救い出すためにはその上に覆いかぶさっているブタさんをなんとかせねばならない。
 一回目のプレイでココノはブタさんの身体から生えているナイロン製のタグにアームを引っ掛けるという高度なテクニックで、桃色の彼を救助。続いて本命のクマさんのずんぐりとした体に、クレーンの矛先を向ける……。

「……両替だ」

 そのとき、放心状態にあったはずの男が、沈黙に思考すら失った黒衣の魔導士が、動き出した。
 彼はいそいそと財布の中身に視線を落とすと踵を返し、少し離れた場所にある両替機に向かって歩を進める。両替機の隣にはメダルゲーム用の両替機もあり、それにはメダルをプールするためのプラスチックざるが備え付けられている。
 機械の前に立ったメッツァーは、豪快に皮の牢獄に閉じ込められていた過去の偉人らを解放するや、彼らを、別の牢獄へと放り込んだ。ジャラジャラと甲高い、しかし機械の中で行われている作業ゆえにくぐもった金属音が鳴り響き、白っぽい使い古されたステンレスの取り出し口に、大量のコインが集積される。
 メッツァーはそれら銀の輝きを、掴んでは放り、掴んでは放った。
 本来は安っぽいデザインのメダルが入れられるはずのざるの中に、凝った造りの100円玉が、大量にプールされる。
 メッツァーは重くなったざるを両手に、元居たUFOキャッチャーの前へと戻った。
 ゲームに熱中していたココノは、メッツァーが戻ってくるや否や、僅か数分の間にゲットした大量の成果を、彼に見せた。

「メッツァー様、メッツァー様! 見てください、こーんなに取れました!」

 やや興奮気味に語るココノの両腕には、彼女の小柄な体では上手く支えきれないほどのヌイグルミが、すでに抱えられていた。どうやらココノには、UFOキャッチャーの才能があるらしい。
 満面の笑みで救出した動物達とともにメッツァーを迎えるココノは、そこで気が付いた。
 いつになく鬼気迫った表情の黒衣の魔導士が、100円玉の入ったざるを両手に、凄まじいほどの殺気を彼女の背後にあるその機械に向けていることを…。

「あ、あの〜……メッツァー様?」

 (こんなメッツァー様見たことない……)――その思いを胸に抱きながら、おそるおそるといった感じで声をかける副官の唇を、メッツァーはそっと指でさえぎった。

「……何も言うな、ココノ。俺は、俺の戦いをしなければならない」
「…………はい?」

 メッツァーはそう言うと、己が宿敵に向き直った。
 UFOキャッチャーは、数分前と変わらぬ姿で彼を待っていった。
 メッツァーは、正六角形の一面に陣取ると、プラスチックケースの向こう側にいる彼らを、自らの力では動くことも出来ず、誰かに助けられるのを待っているしかない彼らを、睨みつけた。
 その隣で、ココノは両腕からこぼれたシルバーミットも拾わずに、茫然と自分の主の姿を眺めていた。
 男という生き物は、時に女には分からない言葉と理由で、己を戦に駆り立てる……ココノは呆気に取られた表情で、コインを投入するその都度、げっそりと頬がやつれていくメッツァーの横顔を見つめ続けた。

 

 

 両替機へと投入される福沢大先生が三人目を数えたところで、メッツァーは正気に戻った。

「……はッ! お、俺はいったい何を……俺はいったい、何者なのだ!?」

 ……どうやらメッツァーは、忘れてよい記憶と同時に忘れてはいけない記憶まで失ってしまったらしい。
 その後ココノの必死の説明が一時間ばかり続いて、今度こそ完全にメッツァーが正気を取り戻したとき、時刻はちょうど午後一時になろうとしていた。

「……そういえば、朝食を食べてから何も口にしていなかったな」

 今日は作戦のために朝早くから活動を続け、朝食以外に何も食べていない。加えて旧アジトから現在のアジトへとマナを運搬するための転移魔法で、かなりの魔力を使ってしまった。単に空腹感を満たすためだけでなく、ある程度魔力を補充する必要がある。
 それに……

「ほ、火村…君! こ、ココノはもう……限界ですぅ!」

 ……この、憎たらしいことに両手いっぱいにヌイグルミを抱えて顔を真っ赤にしている副官にも、休憩を与えてやらなければ。
 ヌイグルミによって視界の塞がっているココノに変わって、メッツァーは歩きながら周囲を見回した。
 時刻は昼時で、ほとんどの飲食店が混雑していたが、ちょうど近くの喫茶店から上手い具合に5人連れが出てきた。店の中で、他に誰かが並んでいる様子はない。

「いくぞ、ココノ」
「は、はい、メッツァー様」

 素早いレスポンスで返事をするココノだったが、なかなか動こうとはしない。
 不思議に思って振り向くと、両手の重いココノはやや困ったように、そして少しだけ恥ずかしそうな口調で、

「……あの、出来れば手を引いてもらえないでしょうか?」

 ココノの視界は、いまだヌイグルミによって塞がれたままだ。
 「半分持ってやろうか?」というメッツァーの申し出は、「そんな畏れ多いです」というココノの言い分によって、すでに一蹴されている。
 メッツァーは少しの間腕を組んで考えて、やがてヌイグルミを抱えるココノの手首をつかんだ。とてもひとつの組織の運営を任されている副官とは思えないほど、細い腕だった。

「ほら、こっちだ…」

 ヌイグルミが手からこぼれないようゆっくりとしたココノの歩調に合わせて、メッツァーもまたゆっくりと彼女の手を引く。
 喫茶店までの、たった数メートルに満たない距離を、メッツァーとココノは時間をかけて歩いていった。

 

 

 

後編に続く


<あとがき>

 前編なので割愛。あとがきは後編の後にやらせていただきます。




このジャンルはうちでは初かな。
美姫 「かもね。悪の秘密結社だけれど、ほのぼのとしたお話ね」
うんうん。後編ではどうなるのか。
美姫 「気になる続きはこの後すぐ!」



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