第十九話 過去【未来】現在【今】未来【過去】






まだ朝も早いなか、恭吾と恭也はいつも通り鍛錬のために道場にいた。

「……はあ」

恭吾は、そんな恭也を眺めながらも、床に座り込み、壁に背をつけ、深々と、本当に深々と溜息をつく。
昨日、ざからとの戦闘で傷付いた身体は、雪に治療され、命に別状はない。
雪は、本当に魔法のように恭吾の傷付いた身体を治して見せた。原理はよくわからないが、傷を直接治したのではなく、恭吾の魂を治療したと言っている。身体が傷付けば、魂もまた傷付く。逆に魂についた傷を治してやれば、身体の傷も治るとのこと。もっともこれはわかりやすく説明するために、端折ったものらしいし、この治し方も色々と問題があり、多用できることでもないようだ。
未来で那美に施してもらった霊力治療に近いものであろうと恭吾は解釈していた。
とはいえ、まだ身体に違和感が残るため、今日は鍛錬を休むことにしたのだが、恭吾を知る者ならば……未来と過去両方の……、度肝を抜くだろう。
恭吾が自ら鍛錬を休む。未来ではフィリスに入院、絶対安静を命じられながらも、病室で飛針を投げていたような男が、自ら休むことを決めたのだ。それがどれだけありえないことかわかるだろう。少なくともいつもの恭吾ならば、軽くでも動く。

「兄さん、さっきから溜息ばかりなのだが」

恭吾の目の前で、鍛錬をしていた恭也もまた、溜息混じりで言った。

「……すまん。少々考え事がな」
「ざからと雪さんのことか?」
「それもある」

前世からの因縁とも言える決着は、恭吾の勝利で……恭吾自身は負けたと思っているが……終わった。ざからは、自衛のためでもなければもはや人を襲うことはない。彼女は決して嘘を吐かない。それは雪もわかっただろう。
ならばざからを封印する意味はもはや……恭吾や雪にとっては……ない。
雪は、故郷である雪女が住む里をざからに滅ぼされた。その復讐のため……雪自身に聞いたわけではないが、何となく『思い出せる』……に骸の付き従ったのだ。
しかし、その復讐心も、もはや雪にはないようだった。ざからと共に幾百年と眠り続けた雪にとって、ざからはもはや家族のようなものとして見ている節がある。
それが事実かはわからないが、恭吾たちと別れ、昨晩は二人きり……と一匹……のはずだから、溜め込んだものの話でもしていることだろう。
何にしても、雪が再びざからを封印しようとするとは思えなかった。

「大人しくしているだろうか」
「どうだろうな」

恭也が嘆息混じりで言うが、恭吾もそれはわからない。
二人には、とりあえず金を渡し、ビジネスホテルに泊まってもらうことにしたのだ。これは二人に話をさせるためだ。
一日ぐらいはそれでいいが、問題はこれから。

「やはり家しかないよな?」
「母さんには軽く話しておいたが、それしかない……厳密にはこの家と無関係な俺が言うのもなんだがな」
「兄さん、それは母さんには言わないでくれ。真面目に泣かれるぞ」
「すでに泣かれたあとだ」

無関係などと言えば、桃子は泣く。だが、それでも家に関しては無関係というしかないだろう。無茶を言っているのだ。
即ち、ざからと雪を高町家に住まわせる。
そもそも恭吾同様に、戸籍のない二人の面倒を見てくれるところなど、高町家しか考えられなかったのだ。今ならば、大枚を叩けば恭吾も、戸籍の偽造ぐらいはできるが、二人が住む場所がないことは変わらない。
桃子には軽い説明をし、許可は貰っているが、正式な決定は会わせてからになる。

「面倒なことが起こるのは確かだ」
「二人は世間知らずな感じがするからな。いや、眠っていたのだから当たり前だが」
「それだけならばいいのだがな」
「兄さん?」

沈痛な表情で呟く恭吾に、恭也は首を傾げる。しかし、恭吾は気にするなと首を振ってみせた。
ざからを保護する。それは下手をすると神咲をはじめとする退魔組織、退魔一族を敵に回す行為と見られる可能性があるのだ。
少なくとも薫と十六夜は、もうざからの存在に気付いている可能性が高い。

「下手をすると、神咲と戦争か」

もう一度、面倒な、と恭吾はぼやき、頭を掻く。
ざからは今の退魔になど興味はないだろうが、神咲がざからの存在を許さないというのなら、そうなるのは確実だろう。そして、事実戦争となった場合、恭吾はざからに殺すなとは言えない。
人間であろうがなかろうが、自らの身を、命を守る権利はある。だからこそ恭吾は、ざからがそのために人を殺すならば、特に何かを言う気はなかった。むしろ戦争になれば、恭吾はざからに付く。回避に走るつもりではあるが、それでも回避できなければ、神咲に敵対するつもりだ。
二対何百という戦争になるだろうが、恭吾とざからが組めば、勝つことは不可能ではない。多数に対してはざからが蹂躙し、恭吾が組織の長を排撃すれば終わりだ。
かつて災厄と呼ばれたざからと、不破の剣士である恭吾という敵にとって最悪のタッグ。
不可能ではないどころか、九分九厘勝てる。しかし、勝ててしまうからこそまずいと言えた。
問題は、恭吾が霊力技で攻撃された場合、一撃で……それこそ掠っただけで死にかねないことだが、それならば単純に当たらなければいい話だ。少なくとも神咲の霊力技であれば、掠りさえさせない自信が恭吾にはある。
退魔の技は、正直放つまでプロセスが長すぎるし、放とうとしているのが完全にわかってしまう。祝詞を呟き、霊力を込め、武器を振るうか放つと、三行程。また基本的に一直線にしかこない。相手の身体から一歩分離れてしまえば終わりだ。範囲攻撃もあるが、それも対処法はいくらでもある。
退魔師という存在を知っている、敵が退魔師であると判明している場合、恭吾に限らず、それなりの戦闘者ならば、簡単に勝てるだろう。
そもそも土俵が違うのだ。人間相手ならば戦闘者が勝つに決まっている。逆に霊障が相手ならば、戦闘者が簡単に負けるが、退魔師は軽々と勝つ。
そもそもの所、ざからが前に立ち、恭吾が暗殺に動くとなれば、退魔師と真正面から相対することは少ない。

「はあ……」

近いうちに、薫と話をしなければならない。
神咲がどう動くか。いや、神咲だけの問題ではない。日本には他に数多く退魔がいるし、他の妖怪も動いてくる可能性がある。

「つくづく面倒だ」

やはりその言葉につきた。
しかしだからと言って、今更ざからたちを知らぬ存ぜぬという扱いにはできない。
だが、恭吾が何より悩むのはそんなことではなく、彼はらしくもないと自覚しながらも、思わず唇を噛むという動作をとった。
そんなとき、悩む恭吾を、暫く木刀……鉛の芯入り……を振りながらも見ていた恭也が、そういえばと前置きしつつ唐突に口を開く。

「御神流のことで、父さんにさわりだけしか聞けなかった話があるんだ」

それはきっと何かしらに悩む恭吾を心配し、多少でもリラックスできるようにか、それとも他のことを考えさせ、悩みを一時的に忘れさせようとして、あえて今出してきた疑問なのだろう。

「何だ?」

それがわかりながらも、恭吾は弟子のばればれの、そして不器用な気遣いに乗ることにした。
すると恭也は、振っていた木刀をいったん壁に立て掛けると、恭吾に向き直る。

「父さんの話だと、御神流には絞め技がないということなんだが」
「ああ、ないな」

それはある種当然のことで、恭吾はただ肯定した。
しかしそれを見て、恭也は眉を寄せる。

「ならばたまに俺にやらせてるのは、御神流ではなく、兄さんがどこか他の流派から盗んできたものか?」
「いや」
「うん? ということは兄さんのオリジナル?」
「それも違う。確かに鋼糸を用いての技を除けば、御神には絞め技というのがない。しかし、不破にはある。まあ、今の段階でお前に教えているのは、技とも言えない基礎の段階のものだが」

ある意味、答えになっていない答えではあったが、それはここに御神に関係のない誰かがいた場合だけだ。その答えだけで、恭也はその意味を悟ることができた。

「……つまり、護衛には必要ないが、殲滅や暗殺、諜報……裏には必要だった?」
「そういうことだ」

御神にはなく、不破にはある、というのはつまりはそういうことである。
両者の必要に応じてということだ。

「そもそものところだ、絞め技というのは、本来人を殺すのには向かない」
「当然というかなんというか。基本は落とすか、腱や筋、筋肉を圧迫して、弱体化させるものだ。まあ、絞め殺すことも可能ではあるけど、絶対的に時間がかかるし、相手よりも力があることが大前提だからな。ある程度の差でも覆される可能性もある。同じ組み技ならば、極めて折った方が早いし確実だ」

言われるまでもなく、その理由を恭也が答えると、恭吾は頷いて返した。
別にそれは時間がかかるというだけであって、使えないというわけではない。実際、相手を殺すことなく制圧するということに使えるということで、そういった治安組織などでは絞め技はよく教えられる。
だが、よくサスペンスドラマなどで、正面から手だけで首を絞めて人を殺すという描写があるが、あれは本来それなりに難しいのだ。
道具を使うならばともかく、ただ手で首絞めをして殺すのは、よほど練習でもしていたか、不意打ちか真後ろから襲うか、それとも相手との体格か力にかなりの差……実際ドラマでも男性が女性にという描写が多い……でもなければ、まず成功しない。現実では全身で暴れられて解かれるのがオチだ。
素手で絞めるより、腕で締めた方がよほど可能性がある。

「しかしそれだったら、むしろ不破にこそいらないんじゃないか?」
「それがそうでもない。そうだな、絞めを使ってはいけない場面はどんなときだ? そして、その理由は?」

恭吾の質問に、恭也は少し考えたあとに、再び口を開いた。

「特にだと、敵が複数いると確定している、もしくは予見される場合。それと時間制限があるか、迅速な行動が求められる場合だな。
絞めは基本的には一人、両手でどうにか二人にしかできず、また絞め殺す、もしくは絞め落とす場合でも、どうしても時間がかかる。絞めている間は長時間無防備になるのだから敵が複数いるとそもそも使えないし、時間がかかるから時間制限などがある場合は使うべきではない……ああ、そういうことか。つまり、護衛のときはほぼ使えないわけだな」

恭也は自分の口に出しての説明で、理由にいきついた。
護衛の仕事は、何かが起きた場合、迅速な行動こそ求められるし、敵が単独であるという保証もない。
その中で、時間のとられる、また一人にしか使えない絞めなど使っていられないのだ。
これがこちらに複数の味方がいるというのなら、またわずかでも違うのだが、しかしそうであっても、護衛の場においては、時間がとられ、また自身の動きを自ら止めてしまうという意味では、ほぼ最終手段にも等しい。
また御神が複数で守るということも……あくまで一人の護衛対象者に御神の剣士が複数という意味で……少ない上に、他の同業者とは肉体的スペックが違いすぎて、連携も追いつかず、絞めなどやっていられない。

「そうだ。しかし不破の場合は、ほぼ一人の上、影から不意打ちだ。情報の入手のために殺さずに捕まえたい場合が多々あるからな。その場合、最初は殺さずに確保せねはぜならんから、それなりに重宝する」

これは諜報員としての側面もあるからというのもあるが、殲滅する場合敵全ての居場所という情報を得る必要がある場合があるし、暗殺でも対象の情報を得る必要がある場合も多い。また絞めは、首に使えば相手に声を上げさせずに意識を落とすことができるのだ。
御神が敵を確保したいならば、両足の骨を折れば事足りるし、最悪鋼糸を使えばいい。

「それと拷問にも使う。うまく使うと痛みを与えつつ、鬱血していく自分の体を見せ付けるということができるし、酸欠にするのを繰り返すという拷問もでき、骨が軋む音も聞かせられ、暴れるなり何なりで、情報源として使えないなら、その瞬間に極めに移行し、首を折って殺す」

呼吸ができないというのは、生物にとっては最大の恐怖の一つである。
どんな屈強な者でも、数秒呼吸ができなくなるだけで、パニックに陥るものだ。それを拷問や相手の動きを止めるために使う。

「それは確かに、実に不破らしいが」

本当に『実戦の中』では、裏でこそ輝く技能だと恭也は頷いた。

「ということは、美由希には教えないのか?」

御神にあって不破にはないという技は『基本的』にはない。しかし、不破にあって御神にはない技というのは多数存在した。
恭吾が体得する絞め技というのは、後者となる。
恭也は不破である以上、いつかは教えることになるだろう。しかし、美由希はあくまでも御神である。

「どうしたものか。あれで不破の絞め技というのは、応用が利くのは間違いないからな」

未来においては、絞め落とし方などの基礎部分は教えたが、不破の本格的な技としての絞めは教えていなかった。つまり今の恭也と同じで、絞め方は知っていても、技というのとはまた違う段階であり、その後教えることもなかったのである。
しかし、教えておけばよかったかもしれない、という場面は確かにあった。

「今まで教えた基礎ではなく、本格的に教えるときに詳しく説明するが、不破の絞め技には、それこそ一切痛覚を刺激せず、つまり痛みを与えずに、ただ呼吸だけをさせないようにするような技もある。ついでに皮膚などにもほとんど跡を残さない」
「……なんと極悪な。死因がわかっても、殺人かを見分けるのか困難ということ?」
「そういうことだ。だから暗殺に向く。というかそのために開発したのだろうさ。あとは痛みを与えないからな、呼吸ができないという苦しみだけをより一層刻む拷問に使える」
「本当に極悪だな」

そう言いながらも、恭也は顔を顰めることもなく、またそれに対して嫌悪感すら浮かんでいない。ある種、人としてはおかしい反応と言えるだろう。

「それに拘束にも使えるし、絞めて拘束し、小刀で一突きにする技もあり、他の部位を砕くというのもある。的確に、強烈に筋肉や腱などを痛めつける技法も当然存在する。
また身体全体、腕、手どころか、最悪指二本で絞めるような技もあるから、ある程度怪我をしていても使えるんだ」
「なるほど、応用が利きすぎるというぐらいに利く」
「まあな。基本は組み技でもあるから派生もさせやすい。ただ先ほどお前が言ったとおり、一対一か二のときにしか使えないというのと、根本的に相手が格上だったり、面倒な技能を持っていたりする場合は、不意打ちでぐらいしか使えないというのが難点だ。無論、不破の絞め技の型や基本理論として、それと組技の型や基本理論には、それらを覆す方法はあるにはあるのだがな」

絞め落とす、絞め殺すだけで終わらないからこそ『技』なのだ。ただ絞めるだけならば誰だってできるし、それが技であるというのなら、誰であろうと開発できる。

「ただまあ、相手を打倒する、殺害するというのが前提ならば、やはり締めるより極めた方が確実で、早いのは確かだ。絞めは不安定すぎる」

そこまで言うと、恭也は納得したように何度も頷いた。

「しかし、聞いてみると本当に御神には向かない技だな」

御神は根本的に、不意打ちをするような場面が少ない。別に不意打ちを禁じているのではなく、その性質上正面から戦うことの方が多いのだ。
先の技の話と似たようなことだが、御神と同じ仕事を不破がすることはあっても、御神が不破と同じ仕事をすることはまずない。
それは未来でも変わらず、そのような場面があった場合、美由希は恭也や美沙斗を頼った。
それが正しい御神と不破の関係なのだ。
御神ができないことは不破がする。それだけの話であった。

「技として見た場合まったく必要性がないわけではないし、覚えることがまったくの無意味でもない。むしろ有用に見える部分も多々ある。
だが同時に、使用場所を想定すると限りなく必要性がなく、限りなく無意味だ。余計な『引き出し』を増やすだけの可能性も高い」

故に御神にはない。過去にはあった可能性……不破に残っているのがそれである可能性……もあるが、少なくとも近代では消失している。
当然ながら御神流の伝書がすでに喪失している今、それを確認する術はない。
そう恭吾は締め括ったのだった。



◇◇◇



いつまでも恭也の目の前で溜息をついているのは悪いと考えた恭吾は、恭也の質問に答えたあと軽い指示を出し、道場を出て、縁側に座った。
無論そんな恭吾を、恭也は眉を寄せて眺めていた。しかし、半日ほど前に死にかけたせいで気が抜けたのかもしれない、とでも思ったのか、止めることはなかった。
しかし、恭吾はそんなことで気を抜くことはない。
死にかけたことなど、これまで幾度あったか数えるのも馬鹿らしい。鍛錬で死にかけ、実戦で死にかけ、殺し合いで死にかけた。
恭吾にとって、死は常に隣りにあるもの。故に、そんなことで気を抜くことはありえない。
朝早いこともあって、まだ薄暗い空を恭吾は見上げる。

「…………」

神咲が敵対するかもしれない……そんなことよりも、思い悩むことがあったのだ。

「俺は……後悔しているのか?」

今、恭吾の内に潜む思いは、後悔に似ていた。
それが何にたいしてか、そんなことはわかっている。

「俺は……」

今までの自分の行動は、正しかったのだろうか?
ただただそんなことを考えてしまう。

「恭吾」

自らの名を呼ばれた。

「っ!?」

恭吾は反射的に顔を上げる。声は目の前から聞こえたというのに、恭吾はそれにまったく気が付かなかった。
相手が気配を消しているわけではない。ただ恭吾が気付かなかっただけ。

「ざから?」

目の前にいたのは、ざからだった。
雪と同じ顔のため、間違えそうではあるが、髪色と雰囲気が違うため、すぐにわかった。
彼女は訝しむように眉を寄せ、恭吾を見ている。

「何を呆けているのだ? 気配も消していないというに、儂が来たことに気付かぬなど、お前らしくもない」
「…………儂?」

さがらの言葉の一つ一つを吟味し、もっとも気になったのは、その単語だった。昨日は我と言っていたはずなのだが、いつのまにか一人称が変わっている。

「うむ。昨日、宿場で『てれび』とやらを見たのだがな、それに出てくる者たちの中に、自らを我と呼ぶ者がおらんかった」

微妙に話し方も変わっているように思う。

「…………で?」
「人間が自分を我と言うのはおかしいのだろう? だから儂に変えてみたのだ、『てれび』に出てきた剣客がそう言っておってな」

間違いなく時代劇。

「…………」

ざからの姿で『儂』というのもおかしいのだが、それを突っ込む気力は、今の恭吾にはなかった。

「浮かぬ顔だな?」
「…………」

自分の表情は見分けにくいらしいが、付き合いの短いざからでもわかるらしい。ざからが表情を見分けることに聡いのか、それともそれだけ今の自分がわかりやすい表情をしているからなのかはわからなかった。

「俺はお前たちを知らない。俺の人生に、ざからと雪という名前など出なかった」

恭吾は何度目になるのかもわからない溜息を吐きながら、淡々と言う。

「今は知っておるだろう?」
「先の話だ」

つまりは未来。
そこで恭吾が、ざからと雪の名前を聞くことはなかった。

「未来では、お前たちは何をしていたのだろうな?」
「なるほど。変えたことを後悔しておるのか?」
「わからん。言ったとおり、俺はお前たちを知らなかった。お前たちが幸福であったのか、不幸であったのかすら。だからこそ、わからない。
お前たちが不幸であったなら喜ぶこともできる。幸福だったなら、後悔したかもしれない。だがわからない」

未来で関わらなかった二人。
今までそんな人たちは多くいた。特に全国を回っていたときは恭吾が高町恭也であったときには、出会わなかった者たちが数多くいたのだ。
しかし、

「わからんが、お前たちは確かにいたんだ」

未来でも五月の雪は降った。それはやはりざからたちに関係した出来事だったのだろう。それが今回は早まって起こったのだ。恭吾がいるが故に。

「俺が関わらなかった以上、他に骸の生まれ変わりがいて、海鳴に現れたからなのか、それとも雪が孤独であることに絶望し、自ら結界を解いたのかはわからんが、確かにお前たちは目覚めたのだろう」

その結末を、恭吾は知らない。
今回のように、骸の生まれ変わりがざからを止めたのか、それとも他の結末を向かえたのか、予想もできない。
しかし、それがどのような結末だったにせよ、この世界では絶対にもう起こり得ない出来事になってしまった。
未来の雪には、ざからには、惚れた相手だっていたかもしれない。だが、こうして恭吾が関わってしまった以上、その未来はない。
知っている人間と積極的に関わるつもりはなかった。だが、こうして知らなかった人間の未来さえ狂わせている。
例えば武者修行の途中で出会った人たち。
例えば七瀬。
例えば雪。
例えばざから。
彼女らの未来は、絶対に変わった。恭吾が関わったことで変わってしまった。
決して幸福であるかはわからない。
仮に未来で彼女らが愛した男がいたとしても、この過去でその男に好意を抱く可能性は限りなく薄い。いや、皆無とさえ言ってもいいだろう。出会い方が違ってしまえば、その関係性は限りなく変わってしまうと、恭吾だからこそわかっている。
それはどれだけ罪深いことだったのか。

「それが傲慢の極みであることはわかっている」

恭吾は今、それらを『神の視点』で見ているのだ。
未来を知っているから、未来と比較して、他者の幸、不幸を決める。これが傲慢でなくて何だというのだ。

「未来に関わった人たちに、事件に積極的に関わる気はなかった。そう決めていた。それは人の感情と人の行く末を操ることと同義だから。だけどこれはどうなんだろうな?」

同じことではないのか。
そんなこともわかっていなかったのだ。身近な人たちだけの過去は変えないと決めて、身近になってしまった人たちの未来を変えてしまったことに嘆く。
先ほど恭吾は、未来で彼女らが不幸であったなら喜ぶこともできたかもしれないと、幸福であったなら後悔したかもしれないと言った。それ自体が、そしてそれこそが、傲慢の極地だったのだ。

「勘違いだったんだよ、ざから。俺は確かに未来を知っている。だけど、未来は変わるんだ。容赦なく変わる」

人間は神になどなれない。もはや恭吾にも未来の予測はつかないのだ。

「だけど、俺は神ではなく人だから、悩むんだ」

身近になってしまった彼女たちの未来を狂わせ、幸福を奪ったのではないかと。
未来の人間に声を大にして言いたい。どれだけ科学が進歩しようと、タイムマシンなど作るべきではない。
ファンタジーやSFの物語の描く作者たちに言いたい。タイムリープなどしても幸福にはなれないと。人間の精神など、過去という時間に壊される。
人間は神にはなれない。そうであるが故に、未来が変わってしまうことに耐えられない。
それは不安と呼ばれるものだ。

「未来が不確定であることなど当然で、でも俺はそれを覆させられた。だからこそ、未来にこれほど不安を覚えたことはない。恐怖を覚えたことはない」

それは誰もがもつ不安だ。だが、恭也の不安は、恐怖はそれらとは向かう方向が違うのだ。
他の人たちの未来への不安は、恐怖は、不確定であるが故。恭也は逆なのだ。確定したはずの未来を壊してしまう。
幸福であったかもしれない人たちの幸福を壊す。その不安は、その恐怖は、恭吾がこの時代で、この世界で生きる限りは続く。
それを今更自覚してしまった。
これほどまで不安であったことはなく、これほどまでに何もかもを放りだして逃げ出したくなったことはない。
『今』を生きる誰よりも、自分に関わる人物は、自分など関わらなかった方が幸せだったのではないかと思わされる。
これが過去に来る、ということだ。もうこの世界は、絶対に恭吾が知るような未来にはならない。
雪がいる以上、さからがいる以上。恭吾がいる以上。
そんなことはわかっていたつもりだった。
しかしそれは、雪とざからの未来さえ変えてしまったということ。
誰もが恭吾を責めることはできない。だからこそ恭吾は、未来の誰も彼もに責められている気分だった。
未来の雪に、未来のざからに、未来でその二人を愛した男に。二人に関わった者に。今回初めて出会った人物たちの未来に。
なぜ変えたのだと。
自分たちは彼【彼女】を愛するはずだったのに。愛されるはずだったのに。
子を成し、幸福を掴めたのに。
お前はそれを壊した。
もう決して戻れない。
なぜなぜなぜ?
なぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだ?
そう、誰もが責め立てるのだ。
過去は変えてはいけなかった。未来を変えてはならなかった。
その瞬間、この世界は地獄と化す。
これからもざからと雪に関わる。係わり続ける限り、彼女たちの未来が、恭吾を責め立てる。

「なかなかきついものだ」

恭吾は自嘲気味に笑う。
恭吾がどこまでも利己的な人間だったなら、そこまで悩まなかったかもしれない。
いや、もしくは逆に利己的だからこそ悩むのかもしれない。
周囲の大切な者の幸福を願い、守ると誓う男だからこそ悩むのだ。この時代で新たに出会った大切な人たちが、自分のせいで不幸にしてしまったのかもしれないと。
過去の改変。
自分の都合で未来を変える。恭也が完成する姿が見たい。その恭也と戦いたい。その思いは、その願いは、どれだけ罪深かったのだろうか。
まるで未来で女性にふられ、過去に来て、それをなかったことにしつつも、未来で知った女性の趣味嗜好を使い、己を好きになるように感情を操っているかのようだ。
それは最悪のことだろう。
他者から見ても、己から見ても。少なくとも恭吾にとっては、吐きけを催すほどに、殺意が溢れ出すほどに……
最低であり、最悪である行為。

この世界と自分が生きた世界は違うと言いながら……――
ハメを外して生きてやろうとほざきながらも……――
不破恭吾として守ると宣言しておきながら……――
ここで数年を生き、本当に今更になって……――

このザマだ。
なんと無様。
なんと弱い。
なんと傲慢。

「ならば恭吾、ここで死ぬか?」
「…………」

少なくとも今恭吾がいなくなれば、未来の改変は少なくて済む。
雪もざからも、恭吾から解放される。それで未来と同じになるかはわからないが、それでも近付くことはできるかもしれない。雪が、ざからが未来で惚れた男に、この時代でも出会えるかもしれない。
恭吾の不安は、確かに解消される。

「死ぬ覚悟はある。だが自殺だけはできない。きっと俺は死ぬとわかっても抗うのだろうさ」

死ぬのが恐くないなどとは言わない。恐いに決まっている。何が恐いって、自分が死ぬことで悲しむ人がいるからだ。
この世界の大切な人たちが、本来いるはずだった大切な人たちが悲しむから、それだけはできない。
どこまで傲慢だ。

「で、あるならばならば一つだけ」
「何だ?」
「儂はお前に出会えたことは、『幸運』であったと思っている」
「…………」
「未来の儂が幸福であったのか、それとも不幸であったのか、それはかつて神とすらも呼ばれた儂にすらもわからぬ。しかしそれは、お前にも、未来の儂にも、決して、決して否定させぬぞ。
もう一度言う……この先が幸福であるかはわからぬ。だが、お前に出会えたことは、この上ない幸運だった」

幸福ではなく、幸運。
その言葉は、恭吾にとって、どこまでも悲しい言葉だった。
恭吾にとって、何の救いにもならない言葉。そんなことはざからもわかっているだろう。

「そうか……そうか」

それは未来を知らぬが故の幸運。
未来を知れば不運になるかもしれないもの。
だからこそ、恭吾にとって救いにはならない。
でも、

「初めが幸運であるならば、幸福になれる未来もまたある、か」
「儂はそう信じておるよ。儂と雪が、未来とまったく同じ幸福を得ることは、もはやあるまい。可能性としては限りなく零だ。
惚れたかもしれぬ男に出会えたとしても、惚れることも最早ない。どうしようとお前や恭也と比べてしまうだろう。そして、すでに出会ってしまったからこそ、お前たちに天秤は傾く」
「…………」
「だが、幸福の道は一つではなかろう?」
「……そうだな」
「どうせならば、これよりの未来において、お前がいたからこそ、儂らは幸せだ、と儂らに思わせてくれ。ありえたかもしれない未来よりも、それ以上の幸福を……雪に与えてやってはくれぬか? あやつの四百年の孤独を癒せるほどの幸福を」

そこまで言われ、恭吾は目を瞑った。
彼女たちを幸福にする。それができるなどと恭吾には断言できない。今まで誰かを幸せになどしてやれたことなど、恭吾が『恭也』であったときにもなかったから。

「…………」

だけど、それはもはや恭吾の義務なのかもしれない。恭吾の勝手で未来を、幸福を壊した者たちに対する義務だ。

「……そうだな。努力……しよう」

彼女たちをどうやって、何をもってすれば幸福にできるのか、それはわからない。けれど恭吾ができることなどたかが知れている。

「守ろう。今度こそ、真に誓う。恭也たちの未来を。お前たちの未来を……俺が守る」

これからも変えていってしまうであろう未来。
昨日、ざからに宣言したように。
不破恭吾として守ろう。
【高町恭也】ではなく、不破恭吾が出会った新たな大切な人たちを。

「そう、か。ならば良い。それでこそ、儂が認めた不破恭吾だ」

ざからは鷹揚に頷く。そして、その手を軽く振った。
次の瞬間には、昨日恭吾を叩き切った巨剣が現れる。

「そう誓うのであれば、未来を求めるのであれば、これをお前にやろう」
「…………は?」

唐突なざからの言葉。それを恭吾が理解するのに、時間がかかった。
巨剣。
それを与えると、ざからは言う。
が、理解すると同時に、答えは決まっていた。

「いらん。そんなもの」
「そんなもの!? これは我の半身とも言えるものだぞ!? それをそんなもの!?」
「そうではなく、そんなもの人間の俺が使えるわけがなかろう。というか、『我』に戻っているぞ」

どう考えても人間が使える武器ではない。恭吾では何とか正眼に構えるのがやっとであろう。
恭吾以外でも、人間がその巨剣を武器として振り回すのは無理だ。それだけその巨剣は常軌を逸している。

「ふむ、ではこれでどうだ」

ざからがそう言うと、巨剣は縮んでいく。その様は端で見ると滑稽にすら感じた。
僅か一秒とかからず、巨剣はその身を数分の一にまで小さくする。
鉈のようだった刀身が短くなり、反りを持ち、焼きが入ったように黒ずんでいた。波紋は乱波で、本当に波のように浮かんでいた。柄もまた恭吾には握りやすそうな華美になりすぎない拵え。
見覚えがありすぎる形だった。

「八景?」

八景だ。未来においては、恭吾が使っていた小太刀であり、今の時代では恭也が使う小太刀。不破士郎が長く使っていた小太刀。
ざからが持つ小太刀は八景と似通っていた。

「昨日、恭也が使っていたのを視たからな。あれが最も名刀に感じた」
「昨日? ああ、根を斬ったときか」

恭也はざからと戦っていないが、その前に根を斬るのに八景を使っていた。それを遠くからでもざからは視ていたのだろう。
昨日、形は自由に変えられると言っていたのを恭吾は思い出した。

「お前の武器だ、使え」
「……いや、しかしな」
「儂らの未来を守ってくれるのだろう? その誓いを守るのであれば、この剣を肌身離すな」

ざからは恭吾の目を見つめる。

「そうでなければ……お前は死ぬ」

まるで明日の天気を占うように、淡々とざからは言った。

「……どういうことだ?」

死ぬ、と言われては穏やかではいられない。例え今は後悔に苛まれていようと。

「このままでは、お前はそう長くもたん。そういう意味では、昨日儂とお前が出会えたのは奇跡であった。まだ不調は現れてはおらんようだが、儂から見れば、お前はすでに死ぬ寸前だ」
「……身体に違和感はないが」
「お前の魂がだよ、恭吾。お前には……退魔師で言うところの霊力とやらが少なすぎる。人間の平均を百とするなら、今のお前は一以下だ」

それはすでに七瀬に聞いていることだ。
生きているのが不思議なぐらいに、霊力がない。元々、未来でも那美たちから、霊力が少ないというのは聞いていたので、特段気にしたことがなかった。

「お前は、この時代に来て、元々少なかった霊力がさらに減ったのだろう」
「なに?」
「予測、というよりも、恭也を見ての結論だな。先ほどの平均との比較で言えば、恐らくお前は最低でも十は霊力を所持していただろう。最高値は、恐らく常人の倍以上。元々お前は、常人よりも霊力があったはずだ」
「最高値とは?」
「満タンの量、つまり容量の限界値ということだ。霊力が完全に回復すれば、そこまでの量があったはずだ。もともとのお前は、衰えた退魔師が、霊力技を使い切った後のようなものだったはずだ」
「似たようなことは聞いた」

これもまた七瀬からだ。今の恭吾の状態は、退魔師が霊力を使い切ったあとのようだ、と表現していた。

「それをこの時代で聞いたのならば、その者は恐らくは最高値のことを言っているのだろう。もしくは、衰えた退魔師ではなく、現役の退魔師で例えたかだろうな。
正確に言えば、今のお前は最高値が既に一以下なのだ。これからどれほど回復しようが、それ以上はいかない」

恭吾は首を傾げつつ、意味を咀嚼する。
車で例えれば、本来は『恭也』という車には、満タンで百リッター以上のガソリンが入る。しかし、それが『恭吾』となった今では、満タンでも一リッター以下しか入らないということだ。ガソリン自体ではなく、その許容量が減ってしまっているということだろう。

「先ほど元々の俺は、常人の倍以上はあったと言っていたが、所持していたのは十であったというのはどういうことだ?」
「単純だ。体力と同じことで、生きている限り生物は霊力を消費する。儂で言えば妖力を消費するがな。消費は割合で減っていく。どちらにしろ一日経ては、ある程度回復する。とはいえ、お前と恭也の消費率はいっそ異様だ。常人ならば一日減っても最高値の一割……いや、五分と言ったところなのだが」

つまりは満タンの状態ならば……この時代に来る前の……恭吾という車には百リッター以上入っているが、一日走り続けると九割減り、残りが十リッターになる、ということなのだろう。

「さらに正確に言えば、おそらくお前は満タンは百以上であるはずが、常に十の状態であっただろうな」
「というと?」
「今の恭也は満タンの状態ならば、一万三、四千はあるが、通常は三、四千ぐらいを維持し続けている。つまり常に消費されているということだ。お前も恐らく同じぐらいの割合を消費していたはずだ。とはいえ恭也も異常だな。満タンの状態であれば、骸をも軽く越える。現代でも最高峰だろう」

恭吾は眉を寄せた。
確か七瀬は、恭也はかなりの霊力を所持しているが、退魔師をしてもそれほど強力な霊障を相手にできるほどではない、と言っていたはずだ。それはつまり、薫たちには及ばないということではないだろうか。
しかし、今のざからの言い様では、まるで薫たちよりもあるように聞こえる。
いや、今は恭也のことは切り放そう。

「そもそも何で俺たちは常にそんなに消費しているんだ?」
「単純な話だ。霊力とは魂だ。そして魂とは、その生き様に左右される。お前たちは生き急いでいるのだよ。常人よりも濃密に過ごしていると言い換えてもいい。
お前の言動、戦い方と武器からしての推測だが、恐らくお前たちは守ることを至上にしているのだろう?」
「よくわかるな」
「だから推測だ。
とにかくお前の、お前たちの守るという生き様は、その誓いは、それだけ魂を消費させる。削り取る。それ自体が肉体に影響することはない。寿命が減るわけでもない。だが、魂がそれに純化させる。それ以外の道を捨てさせる。もうお前たちはそれ以外の道を選ぶことは不可能だろう。もはや生き様が魂を左右するのではない。魂が生き様を左右させている。生き様を曲げれば、そのときは魂が死ぬ。それはやはり死だ。
似たような者は確かにいる。骸とてそうだった。しかし、ここまで生き様を一つに純化させた者など、儂も初めて見た」

つまりはもう、恭吾と恭也は守るという道以外にはいけない。魂がそうなっている。それを曲げれば死ぬ。

「……そうであるならば、それで構わん」

それ自体、すでに恭吾にはどうでもいいことだ。曲げるつもりなどない。
ざからは苦笑し、そう言うと思っていたと呟いた。

「さて、問題はお前が今ここにいる以上、『高町恭也』という人間が二人いることになるということだ。お前たちは同じ存在で、それはこの世において、絶対にありえない矛盾」
「それは、そうだな。それが?」
「お前たちが同じ人物であるが故に、根源的にではあるが魂自体が繋がってしまっている。だが、この時代本来の『高町恭也』はお前ではない。そのため、平行に存在しているのではなく、お前が斜めになり、恭也に突き刺さっている状態だ。斜め、坂になっているため、お前の魂……霊力が恭也に転がり、流れていってしまっている。その結果、本来なら恭也も、お前と同等の量であったにも関わらず、今では人類の中でも最高の霊力量になってしまっているわけだ。儂がお前たちの存在に、雪よりもいち早く気付いたのも、これが原因だな」

つまり同一人物である恭吾と恭也は、完全とは言わないものの、魂的に繋がってしまっている。しかし、この時代という意味でなら、恭也こそが本物の『高町恭也』であり、恭吾が異物なのだ。
異物である恭吾の魂が、恭也の魂に突き刺さり、自らの魂を恭也に分け与えている状態。

「恭也の肥大化した現在の霊力量が、最高値を押し上げる。逆にお前は最高値まで目減りしていっているのだ。自然、現在の霊力量も減っていく」
「ん? しかし、俺の霊力は最高値は高くとも、平時は少ないのだろう? それが流れていっても、大した足しにはならないではないか?」

百に百を足したところで、二百だ。倍にはなるが、一万には到底届かない。

「実際には累乗に近い」
「足されるのではなく?」
「お前たちは先ほど言ったように同一人物のせいだろう。ここまで来ると儂でも真の原因はわからんがな。規則性もないようだから、そのときによって違ったかもしれん」
「しかしそれではどちらにしろ一万程度ではきかなくなるぞ」

二十をどれだけ累乗したかは知らないが、今度は逆に一万程度ではない数値になるはずだ。

「やはり原因と同じで、儂でも正確な計算式までわからぬ。途中でお前の霊力が減りすぎて、もしくは恭也の霊力が増えすぎて、その式自体が変わっている可能性もある」

ざからとて全知ではないのだから、当然ながらわからないこともあるだろうと、恭吾はそうかと頷いて返す。
七瀬が恭也の霊力を感じ取ったときは、恐らくそこまでではなかったのだろう。霊力が跳ね上がったのがつい最近だった可能性もある。

「しかし、お前の霊力は未だ恭也に流れ込み続けている。このままではお前の霊力がいつ枯渇するかわからん。
その上お前の生き様が、魂が問題になる。先ほど割合で減っていくと言ったが、もはやお前の霊力は、恭也に流れ込みすぎて、割合ではどうにもできぬほどに小さくなってしまっているのだ。最終的には割合ではなく、直接減り、霊力が0になった瞬間……魂がなくなった瞬間、お前は死ぬ。もしくは恭也に全ての霊力が流れ込んだ瞬間、やはりお前は死ぬ。下手をすると肉体も残さず消滅するやもしれん」

どちらにしろ、恭吾はこのままでは死ぬだろう、とざからは言った。
これが過去に来たことへの代償というべきなのかもしれない。そう考え、恭吾は今更それが目の前に見えて、皮肉なものだと笑う。

「恭也への影響は?」
「霊力が肥大化したことだけだな。しかしこちらはむしろ良いことだろう。ここまで来ると、多少ではあるが、傷の治りも早くなるだろうし、疲労も簡単に抜けるはずだ。どちらも霊力が勝手に治す。これ以上増えないというのなら、とくに問題はない」

そうか、と恭吾は呟き、深く息を吐き出し、上空を見上げた。

「ならばいい。俺だけならばいい。恭也を巻き込むことがないのならば」

先ほどの悩みが馬鹿らしいものになった。
もうこれ以上自分は生きられない。すでに代償を払い、罰も受けることになっていたのだ。
そう、つまりはこれが罰なのだろう。未来を、過去を変えてしまったことへの罰だ。神がいるのかは知らないが、それはこの罪に、死という罰を下してきた。
ならば仕方あるまい。
自分ではどうしようもない理由で死ぬというのなら、足掻くことさえできないのだから。
恭也に……この世界の自分に迷惑をかけないのであれば、それでいい。

「阿呆、だからこれを持てと言っているのだ」

ざからは座る恭也の頭を軽く小突き、八景に似た小太刀を差し出した。

「これを?」
「昨日も言ったが、これはもはや儂自身と言っていい。骸が儂の頭に突き刺したこれは、常に儂の力を浴びていたからな。銘ならば魔剣ざからというのが正しかろう。気に入らぬのならば、お前が決めればよい」
「しかし、これが何か……」
「これを近くに置いておけば、恭也に霊力が流れ込むのを防げるだろう。儂自身と言ってもいいそれは、妖力を纏っている。遮断程度は簡単にこなす。お前の霊力に干渉し、底上げも可能だし、長時間所持していれば、逆に最大値を上げることも可能なはずだ。
また他者の魂を見る目を誤魔化し、お前が『高町恭也』であることをわかりづらくもしてくれるだろう」
「では……」
「これがあればお前が死ぬことはない」

恭吾はその小太刀……魔剣ざからを受け取り、その瞬間、顔を顰める。

「なんだこれは……」

特段、退魔師やら妖怪やらに詳しいわけでもないし、超常現象を操ることもできない恭吾だったが、この剣の凄みはすぐに理解できた。
いっそ異様とすら言ってもいい。握るだけで力が湧き出てくる。さらにその刃は、どんなものであろうと斬れるとわかってしまう。
むしろざからが持っていたときよりも、より強力に感じた。
さもありなんとざからは笑う。

「それは儂自身ではあるが、儂は担い手ではないのでな、儂でも本当の力は引き出せん。出せるとすれば、担い手であるお前か恭也だけだろう」
「おい」
「儂がその剣と『完全同化』すれば、儂が魔獣と呼ばれていた頃と同等の力が出せるようになる。昔は吐息で山を破壊したが、その時は軽い一『撫で』と言ったところか。無論、使う気がないのならただの剣としても使用できるぞ。まあ、それでも伝説の名刀にさえ並ぶがな」

言いながら、どこか誇るようにざからは胸を張った。
一『振り』ではなく、一『撫で』というのがミソだろう。

「…………」

ざからの説明に、恭吾は思わず顔を引きつらせてしまった。気分としては、核兵器をその手に乗せられた感じだ。
そして深々と、本当に深々と溜息を吐いた。
それから左手で眉間を押さえる。

「正直に言えば、受け取りたくはない」
「ふむ、理由は?」
「武器が強力であることが何よりも気にくわん。俺の敵は霊障ではない。無論、必要ならば何であろうと戦うが、それでも俺の敵は人間だ」

恭吾が出る戦場にある敵とは、どこまでも人だ。もちろんそうでなかったことも多数ある。護衛対象者を襲ったのが、夜の一族であったこともあるし、超常現象を操る者もいた。
しかし、それでも恭吾の敵はどこまでも人なのだ。

「相対したものが人以外であるならともかく、人間を相手に、そんな力は必要ない」
「かもしれぬな」
「何より、剣士の矜持として気にくわん」
「矜持?」
「剣士にとって剣とは、頼るものではない。俺にとっては魂ですらない。剣士である己が、その剣に置いて行かれる。これ程の屈辱はない」

敵が人間であるように、恭吾もまた人間なのだ。人間である恭吾が、この剣を真の意味で操れるということは絶対にない。また剣士でしかないが故に、この剣は絶対に完璧な状態で操れないだろう。
剣士は己の剣が魂だという。しかし、恭吾にとってはそれすらなかった。魂であるわけがない。先ほどざからが言ったように、恭吾の魂とは守ることにある。決して己の魂は剣には宿らない。

「剣におんぶに抱っこなど、それはもう剣士ではない」

それは最早、剣士が剣を使うのではなく、剣士が剣に使われるということだ。否、その時はすでに剣士ですらない。剣に使われる人間だ。
ハンドガンを、ショットガンを、サブマシンガンを、ロケットランチャーを持ったからと言っても、それで人が強くなるわけではない。それらを人間が使っているだけだ。それらの武器が強いだけなのだ。
この剣もまた同じ。この剣を使ったところで、恭吾が強くなったわけではない。剣が強いだけ。
そんなもの、剣士としては屈辱以外の何ものでもなかった。

「ならば剣だけを使い、力を使わなければよい。そうであれば、あくまで名刀だ。まあ、それでも強力ではあるがな」
「……敵が強く、どうしようもなくなったとき、俺はその力を使ってしまうかもしれん」

それが恐い。
未来を変えてしまうのと同じぐらいに恐い。
自分よりも強い敵と戦って、勝てないと悟ったなら、これの力を使ってしまうのではないか。縋ってしまうのではないか。そう思ってしまう。
それは自分で自分は剣士ではないと否定することだ。

「ふむ、お前の気持ちはわからなくもない。矜持など腹の足しにもならぬとほざく者もいるだろうが、矜持をなくせば、その生物は獣ではなく、虫と同等となる。獣は人間よりも気高い矜持を持つからな。そんなことは死んだ方がマシだろう。むしろそんな存在、儂が殺してくれる。生きる価値も見出せん」
「……過激だな」

そんなことはない、とざからは首をすくめた。
誰だってあるはずなのだ、矜持というのは。
父親の家族を庇護しようとする矜持。母親の子供を守るという矜持。子供にだってある。
情けない姿を晒すことが、矜持を曲げ、なくすことなのではない。
誰もがそれに気付かないだけだ。
そして、それは一つであるわけでもない。
恭吾や恭也にとって、それは守ることであり、同時に己の剣に対してのもの。

「しかし、その儂があえて言う。お前には、その矜持を曲げてほしい」
「……ざから」

恭吾は、頭を下げてくるざからに、思わず目を見開きながらも、その真剣な想いを感じ取り、渡された魔剣の柄を握り締めた。
ざからもまた己の半身を握られたことに気付いたのか、しばらくして顔を上げる。

「魔剣としての力をお前と同じ人を相手に使うことは、その剣の半身たる儂が許さぬ」
「…………」
「されどその剣はお前を確かに守り、そして人以外の存在がお前に、お前の大切な者たちに牙を剥き、その身を脅かしたならば、それを排撃する力となろう」

強く握り締めた魔剣の刀身を恭吾が覗き込むと、まるでざからの言うとおりとでも言いたげに、日の光を反射して輝いた。
それを見て、恭吾は目を瞑る。

「わかった」

目を瞑ると、柄を握る手から、まるで心臓が脈動するような温かい振動が伝わってきたような気がした。
それはまるで、自分を守っているかのように感じるし、事実意識すると何かに包まれているかのような感覚がある。
それらを感じ、恭吾は唇の端をわずかに上げ、笑みを作った。


――これが守られる感覚か……


常に守ってきた男が、誰かに守られるという感覚を、父を失い久しく感じていなかったそれを思い出す。
しかし、だからこそ思う。
自分は守られたいわけではないのだと。
先ほど未来を守ると再び誓ったばかりなのだから。
恭吾は、己の脈動を逆に伝えてやるとばかりに、さらに柄を強く握ると目を開く。

「ざから、お前の想い。お前の半身。確かに受け取った」

そこにはもはや本当に先ほどまで未来に悩み、怯えていた男の顔はなく、ただ御神の剣士としての顔だけがあった。

「恭吾……」
「この剣の半身たるお前に誓おう。この剣を人に向けることがあったとしても、決してこの剣の力を向けることはしない。例えそのために俺の命が失われることがあったとしても。
だが、守る者があったとき、人が相手でありながら、力を使わねば守れぬというのなら、そのときは俺の命を供物として借りる。
そして、人在らざる者と敵として対峙したときは、その力、真に借り受けよう」

たとえどんな敵であろうとも、己のためにその力は使わない。それは剣士としての矜持。しかし恭吾はその矜持を、守るためならばいかようにも捨てられるのだ。
だからこそ、それが守るためにつながるならば、剣士としての矜持など捨て、だが己そのものを供物に一度だけ、その力を借りる。
そして、相手が真に人ではないなにかであったならば、それに対抗する力として借り受ける。
聞きようによっては都合のいい誓いであり、またそれが真に履行されるのか、怪しまれかねないような誓い。
どんな聖者が同じ誓いを宣誓しようとそう思えてしまうほどに、その剣は強力であり、魔剣と半身たるざからが呼称するように、常人ならばその力に魅入られてしまいかねないほどのものだろう。
しかし、この誓いが破られることはない。
事実として恭吾は、人に向けてその力を行使したならば、どんなにその行為が正当なものでも、返す刃で己を斬る。
それはざからだからこそ、よくわかるのだろう。彼女は唇を緩め、どこか誇らしげに笑った。

「それでこそ我が御者だ」

その言葉には、万感の想いが込められているのが、恭吾にもわかる。そしてその想いも握る剣から伝わった。
四百年の長い間、雪と共にざからは躯の子孫を待ち続けたのだ。雪は絶望しかけていたが、それはざからもまた同様であった。
いつかこの地に、己の血を継ぐ者が現れる。そう骸は言ったのだ。
そして、骸とざからの約定は二つ。
いつか来る骸の血族との遊戯。
骸は、ざからを悪童と呼び、子供らしく今度は一対一で遊ぼうという子供染みた約束した。そして、その遊びに己の血族が勝利したならば、ざからの力を貸してやってほしいというもの。
ざからが真に楽しみにしていたのはどちらだったのか。
たった一度だけの遊戯か。
それとも……

「ざから、『これから』よろしく頼む」

その遊戯の先にあるかもしれない共にある未来か。

「任せておけ!」

それは鷹揚に頷きながらも、見た目同様少女に相応しい可憐でありながらも、嬉しそうに笑みを浮かべる姿が物語っていた。



あとがき

……というわけで、お久しぶりでございます。
エリス「お久しぶりすぎるわよ! 育成計画の更新何年ぶり!?」
いやいや、本当に色々とあったんですよ。
エリス「はあ、この作品では珍しい前回からの完全な続きなのに、こうまであけるなんて」
本当にすみません!
すみませんでした!
エリス「とにかく今回は前回とセットで、複線いくつか回収の話ね」
はい。恭也の霊力がなぜ上がったのか、ざからが今更になって恭吾たちに気づいた理由です。
エリス「ざからと出会わないと、恭吾って詰んでたんじゃ……」
それはもう間違いなく。
エリス「で、恭吾がこの時代に来ての弱音ね」
これまでは深く考えていなかった、もしくは考えないようにしていたことを、未来でも確実に存在すると自覚し、しかし完全に、完璧に別の道を歩き始めてしまったざからと雪の存在で見つめなおしてしまいました。
エリス「まあ、恭吾もちゃんと区切りはつけられたかな」
これはどこかではやらなければならなかったことでしょう。ある種、逆行ものの命題であり、逆行ものを描いておきながら、ある種逆行アンチ的な話となりました。
エリス「今回はこんな感じで。また次回に」
ではー。



前回の続き〜。
美姫 「今回は珍しく恭吾の弱音や苦悩といったシーンね」
流石に恭也や美由希相手には溢せないけれど、ざから相手だからこそだな。
美姫 「伊達に年は、って所かしら」
ともあれ、新しい刀の件も含めて苦悩しつつも一応の納得っという感じかな。
美姫 「そうね。後はさらりと恭吾が結構、危ない状況にいたという話も出てきたけれど」
まあ、これは特に問題なさそうと本人も思っているみたいだしな。
美姫 「そうね。詳しく考えても仕方ないというのもあるような気もするけれど」
そういえば、今回は恭吾とざからの出番がいっぱいで、雪の出番はなかったが。
美姫 「可哀相だけれど、話の内容的には仕方ないわね」
だな。果たして、次回は出番があるのか。
美姫 「次回も非常に楽しみにしてます」
待ってます!



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