孤独の痛みを知っているお前が、誰かを孤独にして、不安がらせるな。

 それは返答を期待しての呟きではなかった。

 いまこの部屋の中には、自分と、自分のパートナーの二人しかいない。

 そしてその相方が眠っている現状、自分の独り言に反応して、誰かの声が上がるはずがなかった。

 だからマチルダは驚いた。期待していなかった返答があったことに。その声が、聞き慣れた男の唇から発せられたことに。

「……そう、言ってくれるなや」

 ベッドの上。仮面の男の放った雷光からマチルダ達を守るために力を使い果たし、失ったマナを取り戻すため、昏々と眠り続けている一人の男。

 目は閉じたまま、身じろぎ一つせず、唇だけを動かして、言の葉を紡ぐ。突然の返答に驚いたマチルダは、思わず彼の額を撫でる手を止めた。

「俺だって、好きで気ィ、失ってたわけじゃねぇんだからよ」

 瞼が押し開けられる。頬の筋肉が躍動し、不敵な冷笑を形作る。黒曜石の瞳には、部屋の天井と、唖然とするマチルダの顔が映っていた。

「あんた……いつから?」

「ついさっきだよ。額、小突かれて、目ェ覚めた」

 いつから意識を取り戻していたのか、と問うマチルダに、柳也はやや掠れた声で答えた。長の眠りから目覚めたばかりで、全体として運動機能がまだ本調子ではないらしい。喉を震わし、声を出す。その動作一つにしても、ひどく億劫そうだった。

「すぐにまた睡魔が襲ってきたんだが、こう……ひんやりとして気持ちの良い手が、優しい手つきで撫でてくれるもんでな」

 柳也は掛け布団から右腕を出し、いまだ額に添えられた女の手を掴んだ。すべすべとした手触りの、柔らかな手だった。続く言葉は、いかにも女好きの彼らしいものだった。

「いま眠ったら、この感触を感じられない。もうちょっとこの感触を楽しみたい。そう思って、二度寝、必死に我慢してた。そしたら、聞き逃せない台詞があったもんだからよ」

 ベッドに横たわったまま、柳也は首を傾け、周囲を見回した。どうやらまだ、起き上がれるほどの体力は取り戻していないらしい。周りを注意深く観察することで、いま自分を取り巻く状況を把握しようとしていた。

「……いま、夜か?」

「ああ。ついでに言っておくと、ここはラ・ロシュールの宿屋だよ」

「仮面の男の襲撃を受けたところまでは覚えている。……逃げれたのか?」

「なんとかね。……あるいは、向こうが見逃してくれただけかもしれないけど」

「アルビオンへの船便は?」

「明後日にならないと出ないってさ」

「そうか……みんなはどうしてる?」

 柳也は憂いの滲んだ眼差しをマチルダに向けた。躊躇いがちに、言を紡ぐ。

 神剣士の仮面の男を前にして、唯一対抗可能な自分が真っ先に気を失ってしまった。残されたみなのことは、柳也にとって最大の懸念事項だった。

 件の男の魔の手から逃げ延びることが出来たのはすでに聞いている。問題は、逃走に際してみながどの程度の傷を負ったか、だ。なんといっても相手は神剣士。逃げるにしても、無傷ではいられなかっただろう。いったいどの程度の出血を伴ったのか……。

 答えを聞くのが恐い。だが、聞かなければならない。柳也は、最悪一人か二人は再起不能なダメージを負っているもの、として、マチルダに訊ねた。

「無事だよ。少なくとも、身体の方は全員、無傷だ」

 マチルダのその言葉に、柳也はほっと安堵の息を漏らした。覚悟していた犠牲に対し、実際のダメージは圧倒的に少なかった。徐々に血色が良くなってきたせいもあるだろう。みなが無事だと知って、その表情は安らいで見えた。

 マチルダはそんな彼に釘を刺しておく。

「ただ、あんたのことでみんな不安がっているし、心配もしている。心の方には、結構なダメージがいっているみたいだったよ」

 だから、なるべく早く、元気な姿を見せてやんな。

 最後に小さく呟いて、マチルダは乱れた掛け布団を整えた。

 柳也は優しく微笑んで、応、と頷いた。

 

 

 

  永遠のアセリアAnother × ゼロの使い魔クロスオーバー

ゼロの魔法使いとその使い魔と、ついでに現われた守護の双刃

EPISODE:29「港町」

 

 

 

 柳也が目を覚ましたちょうどその頃、才人とギーシュの二人は揃って部屋を飛び出し、宿を周辺を歩いていた。

 本当ならば明後日の出航に備えて体調を万全にしておかなければならないのだが、二人揃ってなんとなく寝付けず、軽い運動がてら散歩に出かけていた。ギーシュは例によって魔法学院の制服を着込み、才人は自慢の一張羅に、鞘に納めたデルフリンガーを背負っている。

 ワルドから伝え聞いた話によれば、かつて“女神の杵”は、アルビオンの侵攻に備えるための砦としての役割を担っていたという。広々とした中庭は、古き時代には練兵場として機能し、一周するだけでも結構な運動量になるはずだった。

 二人はなんとはなしに中庭を、ぶらぶら、歩いていた。

 かつての練兵場は、現在は物置き場として機能しているらしく、樽や空き箱が機能的にまとめられ、積まれていた。

 才人達はそうした区画を避けながら下肢の筋肉を動かした。軽い運動で発熱した身体に、冷たい夜風が心地良かった。

「僕は自分が情けないよ」

 かつての栄華の名残か、整備された石畳を踏みながら、ギーシュが力なく呟いた。

 端整な美貌は悔しげに歪み、肩を落とした後ろ姿はすっかり意気消沈した様子だった。

「ミスター・リュウヤがあの怪物と戦っていた時も、ミスター・リュウヤが倒れた時も、僕は何も出来なかった。誇り高きグラモンの息子が、情けない限りだよ」

「何も出来なかったのは、俺だって一緒だ」

 活力に乏しいギーシュの呟きに、才人もまた低い声で応じた。

 その視線は隣を歩きギーシュに向けられていない。二つの月を見上げる彼の横顔には、深い懊悩が刻まれていた。

「柳也さんを助けようとして、かえって足を引っ張った。非力とか、無力とかじゃねぇ。あの時の俺は、単なる足手まといだった。いっそいない方がよかった」

 僅かに数時間前の戦闘の様子を思い出して、才人は悔しさから歯噛みした。

 怪物の超音波攻撃に苦しむ柳也を助けようとして、自分もまたその餌食となった。かえって柳也に余計な心配をさせてしまったことが心苦しく、悔しかった。

 何が伝説の使い魔だ、何がガンダールヴだ、と胸の内で自分をなじる。

 伝説の使い魔の証たるルーンを刻んだ自分の左手は、大切な人一人、助けることが出来なかった。

「……強く、なりたい」

 異界の夜気に溶けていったその呟きは、はたしてどちらの口から発せられたものか。

 小さく、掠れた声で紡がれた独り言に、もう一人の少年も頷いた。

 強くなりたい。

 永遠神剣と契約している柳也とまでは言わないが、せめて、足手まといにならないくらいには。それが無理ならば、せめて……。

「……そばにいる女の子くらいは、守れるようにならないとな」

「ああ」

 ギーシュの言葉に、才人も決然と頷く。

 そう。自分達はまがりなりにも男の子だ。男の子には、無条件で女の子を守ってやる義務がある。

 今日、自分達は改めて己の非力さを知った。身の程を知った。知ったからには、強くなろう。もう二度と、こんな悔しい想いをしないように。もう二度と、あんな情けない姿を晒さないように。才人は持ち前の負けん気に、ギーシュは貴族としてのプライドに、それぞれ火を灯した。

「強くなりたい……いや、強くなる」

「ああ。なってやろうぜ」

 ギーシュが呟き、才人が応じた。

 才人は自分の左側を歩くギーシュに向けて、左手で作った拳を掲げた。

 ハルケギニア人のギーシュが、何の仕草か分からずに怪訝な表情を浮かべる。

 才人は苦笑しながら、

「俺の世界じゃ、こうしたら、自分も拳作ってぶつけるのが礼儀なんだよ」

「そ、そうなのか……変わった風習だな」

 呟きながらも、ギーシュもまた右手で拳を作った。

 ガツン、と才人の左手とぶつけ合う。

 軽い痛み。

 そして僅かに一瞬、友人の手の温もりを感じた。

 ギーシュは自分の右手を見つめた。

 端整な美貌に、魅力的な微笑が浮かんだ。

「だが、悪くないな」

 

 

 翌朝、目を覚ました才人達が柳也の様子を見にマチルダの部屋に赴くと、件の彼はすでにベッドから立ち上がり、ヒンズースクワットを繰り返していた。

 そのいでたちは久しぶりの褌一丁スタイルだ。腰を落とし、膝を曲げるその都度躍動する筋肉の様子がよく見える。六尺豊かな巨体がダイナミックに筋肉を駆動させ、反復運動を繰り返す姿は、さながら巨大なレシプロ・エンジンが唸っているかのようだった。

 スイートルームのドアを押し開けるや最初に視界に映じた光景に、才人達は呆気に取られた。

 はて、いま自分達の目の前に広がっているこの光景は何だろう?

 昨日、自分達を守るために力を使い果たしたはずの男は、いま、自分達の目の前で快活にヒンズースクワットを繰り返している。それも褌一丁のいでたちで。やや浅黒い肌を窓から差し込む陽光に惜しげもなく晒しながら。

 昨日目にした柳也の悲惨な姿と、目の前で元気にヒンズースクワットを繰り返す彼の姿とが頭の中で結びつかず、才人達は一瞬、何が現実なのか分からなくなってしまった。

 才人達を茫然とさせたのも柳也ならば、彼らをを正気に戻したのもまた柳也だった。

 才人達がドアを開けてきっかり三秒、ようやく彼は訪問客達の存在に気が付いた。

「二九五…二九六……筋肉一番! 目指せ、テリーマンのようなナイスガイ! 二九七…ニ九八……む? おおっ、才人君、それにみんな、おはよう!」

「柳也さん! もう、身体は大丈夫なんですか?!」

 ドアを開けるやしばし硬直していた才人達は、柳也の言葉に、はっ、とすると、口々に彼の体調について訊ねた。なお、テリーマン云々の発言については無視だ。

 柳也は莞爾と微笑みながら、それらの問いかけ一つ一つに、丁寧に答えていった。

「ああ。もう、大丈夫だ。……ほれ、この通り、激しい運動だってお茶の子さいさいだ」

 柳也は、からから、と笑いながら、ヒンズースクワットを再開する。

 二九九回、三〇〇回……。自らの壮健さを誇示するかのように、ややオーバーアクション気味に屈伸運動を繰り返した。

 そんな柳也の姿を見て、みなは安堵の笑みを漏らした。どうやら本当に大丈夫らしい。

 他方、才人達の反応を見た柳也は、嬉しそうに微笑んだ。

 今回、自分が倒れた主な原因は、極端なマナの消耗……すなわち疲労だ。特別、大きな怪我をしたとか、病気に罹ってしまったとか、そんな理由ではない。身体のことについて、そこまで深刻に心配する必要はない。しかし、それでも彼は自分の身を案じてくれた。心配してくれた。そのことが、純粋に嬉しかった。

「心配してくれて、ありがとな、みんな。桜坂柳也、完全復活だ。……昨日は不覚を取ったが」

 柳也はそこで一旦言葉を区切ると、不敵な冷笑を口元に浮かべた。眦が好戦的に釣り上がり、頬に狂気の血色が差す。

 思い返すは昨日遭遇した仮面の男のこと。殺到する稲妻の嵐。視界を埋め尽くす無数の雷光の、あのなんと恐ろしく、美しかったことか。みなを守りながらその雷撃を受け止めたあの瞬間の、なんと楽しかったことか。

 あの時の光景を、あの時感じた歓喜を思い出した瞬間、柳也の闘争本能に、火が灯った。

 もう一度、あの仮面の男に会いたい。あの男に会って、戦いたい。昨日みたいに自分が一方的に受けてばかりの戦いではない。己が攻め、相手も攻め、力と力をぶつけ合う。その果てに、どちらがより強い戦士なのかを証明する。勝った方が生き残り、負けた方は死ぬ。生者だけが、この世でいちばんの快楽を得る。そんな戦いが、したい。

 戦いを求める男の本能が、心臓を打った。再戦への期待で、胸がはち切れんばかりに高鳴っていた。

 全身が一気に熱くなっていった。残忍な感情に滾る血液が、柳也の体温を上げていった。

「次、会った時は、負けねぇぜ」

 舌先に、戦いを求める己の欲望を存分に載せて、柳也は力強く言い放った。

 その残忍な冷笑を目にした一同は、揃って引き攣った笑みをこぼす。

 あの男もとんでもない虎の尾を踏んでいったものだ、と。敵ながら、仮面の男に対して同情を禁じえなかった。

「……っと、ああ、そうだ」

 不意に、柳也が何か思い出したように呟いた。

 好戦的な笑みから一転、神妙な面持ちで才人とギーシュを見る。

「二人とも、これ、終わった後、ちょっと付き合ってくれるか?」

 自分でノルマと定めた三〇〇回の反復運動を消化し、次なるストレッチ運動へと移行しながら、柳也は訊ねた。

 師匠から問いを投げかけられた才人とギーシュは顔を見合わせた。はて、マチルダの言によれば、柳也は昨夜目覚めたばかりのはずだが、そんな彼が、自分達にいったい何の用事だろうか。明日の出航までこれといった用事はないから、時間はあるが。

「……べつに、いいですけど」

「僕も構いませんが……いったい、何の用事です?」

 二人はともに怪訝な面持ちで師の顔を見た。

 柳也は屈託なく笑うと、

「決まってるだろ?」

と、軽くウィンクを投げかけた。

「俺のリハビリを兼ねて、いつものお稽古だ」

 

 

 四半刻後、柳也と才人、そしてギーシュの三人は、“女神の杵”の中庭へと足を運んだ。

 中庭に赴いた目的は無論、あの仮面の男との再戦に向けた稽古をするためだ。

 自分達の宿泊している宿が、かつて軍事施設として機能していたことは、昨晩のうちにマチルダから聞かされて柳也も知っていた。彼女の言によれば、宿の中庭は古き時代、練兵場だったという。いまでこそ物置き場として使われているが、リハビリ後の本格的な運動をするのにもってこいの場所だった。多少、ベニヤ板のコンテナや樽が目につくものの、空きスペースは十分に広かった。

 中庭にやって来た柳也達は、まず剣の稽古をするのに適当な広さの場所を探した。

 首尾よくテニスコートほどの広さの空きスペースを確保すると、柳也はそれを半分に割ってやった。二つに分けたそれぞれのスペースで、才人とギーシュを鍛える腹積もりだった。

 なお、柳也の装いはM-43フィールド・ジャケットだ。これから稽古をするというのに、さすがに褌一丁のスタイルは憚られた。

「今日はいつもとは違う内容の稽古をしようか」

 それぞれの稽古に入る前に、柳也は二人を集めてそう言った。

 師匠のこの言葉に、弟子の二人は揃って顔を見合わせた。まるで事前に示し合わせていたかのような二人の息の合った動作を見て、柳也の唇に思わず苦笑が浮かぶ。

 そんな柳也の苦笑いをどう解釈したのか、ギーシュがやや、むすっ、とした様子で唇を尖らせた。

「……こんな時に、ですか?」

「ああ。こんな時に、だ」

 怪訝な口調で訊ねてきたギーシュに、柳也は、きっぱり、と言い切った。

 ついで、諭すような口調で彼に言う。

「ギーシュ君の言いたいことは分かる。平時のときならばいざ知らず、俺達にとってはいまは有事だ。この時機に訓練内容に大幅な変更を加えることは、かえって自分達の足枷となりかねない。ましてや、俺達に許された時間は僅かだ。ここは新しいことを始めるよりも、いままでやって来た訓練を完璧にこなし、地力をつけた方が断然良い。それが一般論だろう」

 「だけどな」と、柳也はかぶりを振った。

「悪いが、いまはその一般論を適用出来るような事態じゃない」

 柳也は苦々しく呟くと、小さく溜め息をついた。

 おもむろに、空を仰ぐ。

 雲ひとつない快晴の蒼空を見据えたまま、彼は静かに続けた。

「……さっきは、るーちゃん達の手前、ああ言ったが……実を言えば、完全復活、っていうのは、嘘だ」

 柳也のその発言に、才人とギーシュの顔が硬化した。

 驚愕に目を瞬かせ、信じられない、といった面持ちで師の顔を見つめる。

 その表情は、重く、暗い。

 柳也は、「事実だ」と、言葉短く頷いた。

 昨日。

 あの、仮面の男の襲撃を受けた時。

 仮面の男が放ったライトニング・クラウドに、柳也はオーラフォトン・バリアを広域展開することで対抗した。

 しかし、咄嗟のことでバリアの出力調整が上手くいかなかった。反射的に最大出力で展開したバリアは、秒刻みで柳也の肉体からマナを奪っていった。そんな時に、防御範囲の拡大を強いられた。その結果、昨日のような無様な姿を晒すはめになった。

「俺達神剣士の肉体は、マナによって構築されている。そのマナを消耗しすぎた。最低限の生命維持活動が危ういレベルまで、な。だから、気を失った。何もせず、ただ眠り続けることで消費を抑え、呼吸により、大気中から少しずつマナを得る。これまた、最低限の生命活動が可能なレベルまでな。言うなれば、緊急用の休眠モードだったわけだ、あれは」

 その緊急時の眠りから目覚めたいまの自分の肉体は、失ったマナをどの程度取り戻しているのか。

 柳也は暗い面持ちのまま続けた。

「いまの俺がプール可能な最大値を一〇〇とすれば、一五、六といったところだろうな。状況次第だが、相手が同じ位階の神剣士なら、全力での戦闘は七、八分が限界だろう」

「そんな……」

 才人の悲観にくれた声。

 自分達の切り札たる男の現状に、ギーシュも表情を歪める。

 他方、柳也は努めて冷然と言を紡いだ。

「あの仮面の男が神剣士で、貴族派に与している可能性が出てきた以上、俺は奴との再戦に備えねばならない。現状、神剣士の奴と正面きって戦えるのは、俺だけだからな。だが、さっきも言ったように、いまの俺に残されたマナはごく僅かだ。そうなると、俺は奴との戦いのために、少しでも体力を温存しておかないといけない」

「つまり、それ以外の敵は、僕達が倒さなければならない。ミスター・リュウヤが後顧の憂いなくあの仮面の男と戦うためには、僕達が露払いをする必要がある」

「そうだ。そしてそのためにも……たとえ付け焼刃であろうと、君達にはもっと実戦的な戦闘技術を学んでもらいたい」

 柳也はそう言ってまず才人を見た。

「才人君、きみはあの木刀を、一日に何本振れるようになった?」

「五〇〇本は、軽くいけるようになりました」

 柳也の質問に才人は胸を張って答えた。

 ここで言う“あの木刀”とは、柳也が才人の鍛錬用にこしらえた鉄柱入りの特別な稽古具のことだ。柳也が学ぶ直心影流では、重量約一六キロの鍛錬棒……振棒を一日に一〇〇〇本素振り出来るようになって、初めて形稽古に入ることが出来る。異界の地で「剣術を教えてほしい」と、才人に請われたとき、柳也の手元に振棒はなかった。そこで、「しばらくはこれで鍛えよ」と、柳也が渡したのが、件の木刀だった。急ごしらえの上に振棒ほどの重量はない。しかし、鉄柱を仕込んでいる分通常の木刀よりも断然重く、初心者の稽古具にはもってこいの代物だった。

 柳也はこの木刀を使って、才人に剣術の基本中の基本たる上段と中段の構え、正しい手の内と、正しい足裁き、そして正しい運剣の作法を叩き込んだ。

 才人の返答を聞いた柳也は、静かに瞑目した。

「五〇〇か……本当はもう少し、ちゃんと地力を鍛えてからにしたかったんだが……まぁ、最低ラインは超えているな」

 瞠目し、柳也は続けた。

「才人君、いまから君には五行の構えの残り三つ……下段、八双、脇構えを教える。それぞれの構えの特性をよく理解し、状況に応じて使い分けられるようになってもらう」

「はい!」

 才人の気持ちの良い返事に満足げに頷くと、柳也は次いでギーシュを見る。

「ギーシュ君、最初、きみの弟子入りを認めた時にも言ったが、きみの最大の武器はワルキューレだ。その最大の武器をどう活かすか。自分の武器の特性を最大限に発揮出来るような戦術とは何か。それを学んでもらうために、俺は今日まできみと模擬戦を繰り返した」

 柳也の言葉に、ギーシュが首を傾ける。

 弟子の首肯を見取った上で、柳也は言った。

「実戦を通して得られた経験は何物にも代えがたい。しかしまた同時に、書物の中でしか学び取れないものもある」

「ミスター・リュウヤ、それはいったい……」

「古の名将達が、己の経験の中で、あるいは古き戦史を研究し、見出した、戦いの極意だ」

 柳也は炯々たる眼光をギーシュに向けて言い放った。

「老兵が、暖炉を囲みながら若武者に古き戦史を語る。この、昔ながらの戦術研究の古典的手法を、今日はあえて取りたい」

 頭の中に自然と思い浮かばれるのは、古の名将達が、その力量を存分に発揮した名戦闘の数々。カディシュ、城濮、ティルス城、トレビア、トラシメヌス、カンネ、ザマ、タギネー、一の谷、リーグニッツ、クレーシー、長篠……。かつて、己の生まれ育った世界では、綺羅星の如く軍事史に燦然たる輝きを遺す名将達が、生命の火を燃やし、戦った。彼らはみな、いまだ硝煙の立ち上る戦史はもとより、埃にまみれてもなお色褪せぬ古戦史を学び、大成した。クラウゼヴィッツはナポレオンに学び、ナポレオンはフレデリック王に学んだ。

「戦いの技術には、二つの系統がある。一つは戦士の技術。もう一つは、将の技術だ。ギーシュ君、きみにはいまから、その将の技術を学んでもらう。きみの最大の武器たる七体のワルキューレの性能を、最大に引き出す技術だ」

「はい」

「身体を動かすのではなく、頭を動かす修行だ。若い男の子のきみには苦痛かもしれないが、耐えてくれ」

 「なにより、きみ自身が生き延びるために」と、そう付け加えて、柳也は腰元に差していた鉄柱を抜き放った。

 正眼に構え、才人の方を睨む。

 途端、才人は、ぶるる、と身震いした。凄絶な剣気。素人に毛が生えた程度の自分でも、はっきり、と知覚出来るほどの、凄まじい覇気。負けじと才人も、デルフリンガーを抜き放つ。正眼に構えた。五歩ほどの距離を隔てて対峙する師匠と弟子。

「ギーシュ君の稽古は、基本、俺が集中して話すことになるからな。先に、才人君に五行の構えを教えるぞ。……準備はいいな?」

「いつでも」

「いい返事だ」

 柳也の構えが、変わる。

 正眼から、下段へと。

 次の瞬間、地を這うように銀色の閃光がひた走った。

 それが、稽古開始の合図だった。

 

 

 貴族ご用達の宿、“女神の杵”は、すべての部屋にベランダを設けている。柳也とマチルダが泊まる部屋のものは、長方形型で、ゆうに十畳ほどの広さがあった。

 夜。

 柳也はひとり、部屋のベランダから空を見上げていた。

 まだ産業革命を迎えていないハルケギニアの空気は澄んでいる。広大な星の海の中、血のように赤い月が白銀の月の後ろに隠れて、一つに映じていた。青白い月光。なんとなく、慣れ親しんだ地球の月を思い起こさせた。

 柳也は穏やかな心持ちで、酒場から調達してきたウィスキーをボトルごと呷った。

 モルトの味わいが喉を滑り落ちていく。美味い。そして美しい。明日はいよいよアルビオンへ出発だというのに、満天の星々と大きな月、そしてウィスキーの味わいが、心を落ち着かせてくれた。

 ふと耳を澄ませば、神剣の力を使うまでもなく、エトランジェの聴覚が男達の笑い声を拾った。一階の酒場では、ギーシュ達が騒ぎまくっているようだ。明日はいよいよアルビオンだ、と相当盛り上がっているらしい。「三番、平賀才人、一升瓶を三秒で飲み干します!」なんて声が耳朶を打つ。ほどほどにしとけよ、と柳也は口の中で呟いた。本来は彼も宴の席にいるはずだったが、なんとなく騒ぐ気分になれず、こうして一人で酒を飲んでいた。

 部屋の中に気配を感じた。

 誰なのかはすぐに分かった。

 背後より、そっ、と自分の方へ忍び寄ってくる。

 柳也は振り返ることなく口を開いた。

「俺の生まれ育った世界では、月は一つなんだ。だから、今夜の月は、眺めているとなんとなく落ち着く」

「……月を見ながらの晩酌も良いと思うけど」

 背後より耳膜を叩く声は、耳慣れた女の声。自分をこの世界に呼び寄せた、ご主人様の声だった。 

「でも、みんなと一緒に飲んだ方が、もっと楽しいと思わない?」

「思う。……けど、今日はそんな気分なんだ」

「あっそ」

 今夜は一人で飲んでいたい。月を見上げながら。故郷の思い出に浸りつつ。

 誘いの言葉をやんわりとした表現で断った柳也に、ルイズもあまり期待はしていなかったのか、特に表情を変えることなく頷いた。

 そのまま、当たり前のように柳也の隣に滑り込む。

 ウィスキーのボトルを片手に、軍服姿の男は眉をひそめた。

「……一人にさせてほしい、というニュアンスで言ったつもりだったんだが?」

「ええ。わたしもそう聞こえたわ」

 ルイズはすました様子で呟くと、鳶色の瞳で柳也を睨み上げた。

「でも、あんたが一人でいたい、と思っているように、わたしもあんたと二人でいたい、って思っているの。そして、あんたはわたしの従者。従者の意思より、主人の意思が優先されるのは、当然だと思わない?」

 柳也は小さく諦めの溜め息をつくと、ボトルに口付けた。

 視線を夜空の月に戻し、そのまま口を開く。

「ここには、俺を誘いに来たんじゃなかったのか? 俺が誘いを断った時点で、ここにい続ける理由はないと思うんだが」

「理由ならあるわよ。……ちょっと、話したいことがあるの」

 ルイズの方を見ないまま言うと、ご主人様の少女もまた、自分を見ずに言った。

 その視線は、自分と同様、重なり合う双月に向けられている。

 ちらり、と横目で流し見た。

 心臓が跳ね上がるのを自覚した。

 月を仰ぐルイズの横顔は、星々の輝きに淡く照らされて、静謐な凛々しさを感じさせた。

 自分の視線に気が付いたか、ルイズがこちらを見る。

「なによ?」

 刺々しい質問を投げかけられる。

 柳也は肩をすくめながら、「べつに」と、かぶりを振った。

 何か隠し事をされたと思ったのか、ルイズは、むすっ、とした顔で口を開く。

「わたしにも、ちょっとだけちょうだい」

 ルイズは柳也の手の中のボトルを見て言った。

 柳也は難しい顔をして答える。

「べつにいいが、グラス、持ってきてないぞ」

「大丈夫よ。ほら」

 ルイズはそう言って、懐からグラスを二つ取り出した。どうやら酒場から調達してきた物らしいが……二つ?

 ――最初から、ここで飲むつもりだったのか。

 なるほど、自分を誘いに来たのは口実で、本題はその“話したいこと”とやらにあったわけか。どうやらルイズの中では、この場所でグラスを傾けることは確定事項だったらしい。

 柳也は苦笑しながらグラスを受け取ると、ボトルを傾けた。お互いのグラスに、並々とそそぐ。

 静かに打ち合った。

 あえて、「乾杯」の言葉は口にしなかった。杯を乾す、と書いて乾杯だ。こんな美味い酒を一気に飲むなど考えられない。チビチビ、と楽しんでいくのが、礼儀のように思えた。

 また、二人の手元に氷や水はない。柳也は始めからストレートで飲むつもりだったし、ルイズもさすがにそこまでは用意していなかった。

「あんた、お酒、強いのね?」

 すでに三分の一ほどが減っているウィスキーのボトルを見て、ルイズが言った。

 紡がれた内容は、先ほどルイズが口にした“話したいこと”には思えない。本題の前に、他愛もない話題を口にしたいらしかった。それだけ緊張しているということか。まったく、世話のかかるご主人様だ、と柳也は苦笑した。

「どうだろうな。永遠神剣と契約して以来、俺の身体は変わった。身体能力が全般に向上し、その中には、アルコールの分解能力なんかも含まれているから」

「分解能力?」

「要するに、酒に酔えない身体になっちまったんだよ」

 柳也は複雑な表情を浮かべて笑った。

 相棒の永遠神剣達と出会えたこと自体に後悔はしていない。しかし、変わってしまったこの身を思うと、もう二度と元の身体には戻れないのか、と寂しさに似た感情を覚えてしまう。

 柳也は手の中で波打つ琥珀色の水面を見つめながら言う。

「かといって、それ以前の俺が酒に強かったかといえば……正直、分からん。神剣士になる以前の俺にとって、酒は数ある嗜好品の中でも特に上等な部類だったからな。限界を見極められるほど、飲んだことがないんだ。酒を飲むカネに困らなくなったのは、神剣士になってからだし」

「ふぅん。……いいじゃない、それ」

「そうか?」

「だって、お酒に酔えない、ってことは、美味しいお酒をいくらでも飲んでいられる、ってことでしょう?」

「ああ、そういう考え方もあるか。……でも、酔いたい時に酔えないっていうのも、なかなか辛いものがあるぜ?」

「あ、そういう考え方もあるわね」

 どちらからとなく苦笑が漏れる。一方は酒を飲める身を羨んで。もう一方は、酒に酔える身を羨んで。

 やがて、ルイズの鳶色の目が優しく細まり、口元が、ふぅっ、と綻んだ。

「……わたしね」

「うん」

「昨夜、ワルドに、求婚されたんだ」

「……唐突だな」

 ウィスキーを一口飲み干して、柳也は静かに呟いた。

 唇から僅かに数センチの水面に、小さな波紋が浮かぶ。

 表情こそ平静を保っていたが、彼の胸の内では、驚愕がさざなみように心臓を揺らしていた。ワルドがルイズにプロポーズをした。そのこと自体は、別段、驚くようなことではない。二人は婚約者同士だし、結婚のことが話題に上ったとしても何ら不思議ではない。

 柳也の感じた驚きは、なぜ、このタイミングなのか、という疑問に由来していた。聞けば、二人は婚約者同士とはいえ、久しく会っていなかったという。そんな二人が、十年越しの再会を経て、いきなりそんな運びになるものなのか。女を抱く経験はあっても、いまだ初恋を知らぬ柳也には分からなかった。

 また、自分達はいま、非常事態の渦中に身を置いている。想定される敵は質量ともに強大で、翻って我が方は少数だ。斯様な状況下を乗り切るためには、何よりチームワークが必要となる。混乱や動揺を誘発する軽挙な発言は慎むべきであろう。にも拘らず、結婚の話題を口にしたワルドの神経が、柳也には信じられなかった。

 とはいえ、相手は仮にも子爵の身分で、かつ自分のご主人様の婚約者だ。婚約者のことを悪く言われて不快にならない女性などおるまい。柳也はあえてやんわりとした表現に留めた。

「まぁ、めでたい話じゃないか。子爵は同性の俺から見ても魅力的だし」

 現状で結婚の話題を口にした無神経さはさておいて、客観的に見てワルド子爵は魅力的な男性だ。容姿もそうだが、将来有望で、現時点でさえ魔法衛士隊の隊長というステータスを持っている。人格云々については、まだ付き合いが浅いからよく分からないが、言葉の端々からは貴き品性が感じられた。まごうことなき優良物件だ。そんな人物に見初められたルイズは、幸運な娘だといえよう。

 柳也は莞爾と微笑んで、祝福の言葉を投げかけた。

 しかし、幸運を手にしたはずのルイズの表情はなんとも冴えないものだった。喜ぶどころか、暗い面持ちで自分の顔を見つめている。

「本当に、そうなのかしら……」

「うん?」

 不意に呟かれた、自問の言葉。

 いまいち意味を掴み取れない柳也は、反射的に聞き返す。

「おめでたい話、なのよね?」

「うん? そうじゃないのか? 魔法衛士隊の隊長ともなれば、数多の女達がその隣で花嫁姿を披露することを夢見るような有望株だろう?」

「そう、よね……わたし、幸せな女なのよね……」

 まるで自分に言い聞かせるかのような小さな呟き。

 その声音に宿る、不安や、寂寥といった感情を読み取って、柳也は怪訝な表情を浮かべた。

 グラスを傾ける手を止め、ルイズの顔を覗きこむ。

 いまのルイズの様子は明らかにおかしい。薔薇色の未来がすぐ先に横たわっているというのに、なにやら思いつめたような重苦しい表情をしている。

 耳目に神経を集中させる。ルイズは小さく、何かを呟いていた。エトランジェの聴覚を使って、ようやく拾い上げられるほどの、か細い声。

 でも……。だったら……。なんで……。

 続くルイズの独り語りに、柳也は表情を硬化させた。

「なんで……心から喜ぶことが、出来ないんだろ……」

「るー……」

 ちゃん、と続けようとして、柳也は口をつぐんだ。いまのルイズに、よく考えもしないで言葉をかけるのは躊躇われた。無神経で無責任な言葉は、彼女の心を容赦なく傷つけてしまうように思えた。かといって、どんな言葉をかければよいのか。

 柳也は小さく溜め息をつき、苛立たしげに頭をかいた。

 まったく、男と女の事情とはままならないものだ。周りからは幸せなカップルに見えても、当人にとってはそうでないとは。

 恋を知らぬ柳也に、ルイズの気持ちは分からない。分からないから、かけるべき言葉を見つけられない。

 次の言葉を見失った柳也に、ルイズは小さく呟く。今度は独り言ではなく。彼に向けた、言葉を紡ぐ。

「ワルドはね」

「うん」

「彼は、凄い人よ。いくら才能があったって、それだけで隊長になれるほど、魔法衛士隊は甘くない。きっと、いっぱい努力したんだと思う。それに比べて、わたしはなに? 何の才能もない、ゼロのルイズじゃない。そんなわたしと彼とじゃ、釣り合いが取れないわ」

 自嘲の微笑み。

 その顔を正視するのが辛くなって、柳也は視線を青白い月へと向ける。

 小さく溜め息をついた。なるほど、ワルドほどの男からプロポーズをされて素直に喜べない原因には、魔法が使えないことへのコンプレックスもあったのか。魔法を使えない自分に対して、ルイズが抱いている劣等感は並々ならぬものがある。そんな彼女にとって、十年ぶりに再会した婚約者がスクエア・クラスのメイジになっていたという事実は、自分を惨めに思う材料にしかならなかったのだろう。ましてやその彼からプロポーズされたとなれば、彼女の胸中は複雑に違いない。

 柳也は黙々とグラスを傾けた。

 彼女の抱くコンプレックスについて、自分は何も言えない。何かを言う資格がない。自分は異世界からやって来た男だ。彼女の過去も、彼女が過去に歩んできた苦しみの道程も知らない。そんな自分が、軽々しく口を開くことは許されない。

 だから、考える。

 彼女の古傷に触れぬ言葉を。

 彼女の過去に触れずして、自分の意志を伝える言葉を。

「昔、さぁ」

「え?」

「俺が剣術を本格的に学び始めてしばらく経った頃にな、柊園長……俺の剣の師匠にばっさり言われたことがあるんだよ」

 柳也は二つの月からルイズの顔へと視線を戻した。

 白い肌。愛らしい顔。アルコールの影響か、やや赤い頬。銀色の光に照らされて、思わず見入ってしまう。

 そんな心の動きをおくびにも出さず、怪訝な顔をするルイズに、柳也は言う。

「俺にゃ、剣術の才能はない、ってよ」

「は……?」

 ルイズは唖然として聞き返した。男の言葉が聞こえなかったわけではない。言葉の意味を理解出来なかったわけでもない。ただ、男の言葉の示す内容が信じられなかったから、思わず聞き返した。

「嘘でしょ? だって、あんた……」

 ルイズは知っている。目の前の男が破壊の杖事件の際にいかに勇敢に戦い、勝利を収めたかを。その強さを。その目で見て知っている。

 ゆえに、自分には才能がないと語る柳也の言葉が信じられなかった。

 ゆえに、自分には才能がないと語る男の顔が、信じられなかった。

 自分には才能がないと語る男の顔は、平然としていた。その事実を、当然のものとして受け止めていた。受け止めることに、長く親しんだ顔だった。

「本当だよ。あの時かけられた言葉は、一字一句違わずに憶えている。『……柳也君、残念だが、きみには剣の才能はない。何十年と時間をかければ直心影流の免許皆伝には至れるかもしれない。けれど、そこから先の世界へ進むことは、きみには出来ないだろう』って」

「その先の世界?」

「俺もよくは分からん。師匠は、ある境地に踏み込むことが出来た武芸者だけが歩むことの出来る武の道と言っていたが」

 「まぁ、それはさておいて」と、柳也は続ける。

「それ、聞かされたときはショックだったぜぇ〜。なんて言うか、どんだけ上を目指しても、決して高みには至れない。どんなに努力しても、頭打ちです、って言われちまったわけだからよぉ。しかも、そん時の俺はまだガキだったから。色々と辛かったねぇ。何より、心にきたよ」

 柳也が十一歳、小学校五年生のときのことだった。両親を失ってから本格的に剣の道を歩み始め、その深遠なる旅路を歩くことの面白さを理解し始めた頃のことだった。当時の柳也にとって、剣術に勝る価値観はこの世に存在しなかった。例外は佳織や瞬、しらかば学園の兄弟達といった一部の親しい人達だけだった。そんな柳也少年にとって、柊の発した言葉はあまりに重く、残酷だった。

 自分には剣の才はない。自分の剣は、決して大成しない。

 悲しかった。

 悔しかった。

 悲しさゆえに、剣術をやめようかとも思った。

 悔しさゆえに、柳也は以前にも増して剣にのめり込んでいった。

「は? え、な、なんでそこでそうなるのよ?」

「いや、単に俺がガキだったって話さ。もぉ、悲しくって、悔しくってよぉ……悔しさのあまり、そのこと認めたくなくて、前にも増して剣術の稽古頑張ったんだ。……いやま、その後、色々あって、やっぱ自分には才能ない気が付いて、そのことについては、いまはもう納得したんだけどな」

 苦笑。

 屈託はない。

 頬をかき、グラスを傾ける。

「俺、やっぱり剣が好きだからさ。才能がないからって、諦められなかったんだよ。剣の道ってやつを。剣が大好きだから、才能がないって言われた程度で、嫌いにはなれなかったんだよな」

 いまにして思えば、当時の柊園長は自分に剣術を続けるか否か、一つの決断を迫るつもりで、あのような発言をしたのだろう。平成日本の世において、古流剣術は無用の長物だ。せいぜい、喧嘩の役に立つくらいだ。そんな無用の長物に、友達と遊ぶ時間を削ってまで学ぶだけの価値があるのか、才能云々の話と絡めて、幼い柳也の判断を求めたのだ。そして柳也は選んだ。剣が好きだから。その一心で、平和な時代には無用の長物を学ぶことを。

「なぁ、るーちゃん」

 柳也はルイズを見た。

 黒檀色の瞳には、真摯な眼差しが宿っていた。

「るーちゃんは、才能がないから、ただそれだけで、好きな人の隣に立つことを、諦めるのか? ゼロのルイズだから、というだけで、諦めるのか?」

 魔法が使えないことに対してルイズが抱いているコンプレックスは強い。そして、そのコンプレックスがもたらす痛みは、当人にしか分からない。

 だから柳也は、無責任な慰めの言葉を口にしない。ただ耳に優しいだけの慰めの言葉は、彼女の傷を踏みにじるだけだろうから。余計に惨めな思いをさせてしまうだけだろうから。

 その代わりに、彼は言う。突き放した口調。厳しい言葉。諦めるのか、という問いかけを。

 柳也の質問に、ルイズは何も答えない。

 しばしの間、じぃっ、と彼の顔を見つめて、やがて小さく何か呟いた。

 か細い声。

 しかし、神剣士の耳は、その小さな音を確実に拾う。

 柳也の顔に、柔和な笑みが浮かんだ。

「……そっか。強いな、るーちゃんは」

「強くなんてないわよ。……リュウヤ」

「ん?」

 ルイズは柳也の目を真っ直ぐに見据えた。

 グラスをゆっくり呷り、中を空にしてから、柳也はその眼差しを真っ向から受け止める。

 アルコールのせいだけなのか。ルイズの白磁の頬には、やけに強い朱が差していた。

「ウレーシェ。あと、るーちゃんって呼ぶのはやめなさい」

 聖ヨト語による礼の言葉。そして、唇を尖らせての命令。

 柳也はにっこり笑って、

「シエステハノハイ。それから、その命令は断固拒否する!」

と、応じた。

 

 

 みんなのところに戻るわ、と言って、ルイズはバルコニーから立ち去っていった。

 柳也はなおも一人静かにグラスを傾けていた。

 やがて室内から、そして部屋の周辺から完全にルイズの気配がなくなったのを確認して、男は、小さく呟いた。

「……まったく、こういうフォローは、婚約者の役目だと思うんですけどねぇ?」

 残り三分の一ほどになったボトルを掲げ持つ。翡翠の溶け込んだガラスを通過して歪んだ月光が、薄い陰影を男の顔に浮かび上がらせた。

 背後から人の気配。

 ルイズとは対照的に、長身の男でなければ演出出来ない足音が、ステップを踏みながら近付いてくる。

「婚約者と言っても、もう十年近く会っていなかったからね」

 太い声が、耳朶を撫で上げる。気さくな口調。振り返らずとも、声の主が誰なのかは明白だった。

「心の機微とか、そういう繊細な部分に立ち入るのは、躊躇われてしまったんだよ」

「酷い言い訳ですね。……しかも盗み聞きたぁ、お人が悪い」

「言わないでくれ。自分でも卑怯な真似をしたと、自覚はあるんだ」

 長身の男の気配が、隣に立った。

 自分と同様、六尺豊かな大男。ワルド子爵だ。どうやらルイズの帰りが遅いことに気が付いて、様子を見に来たらしい。灯りに乏しい室内に隠れ潜む気配に、柳也はずいぶん前から気が付いていた。

 柳也は左手に持っていたグラスをワルドに差し出した。

 ワルドは「ありがとう」と、小さく呟いて、グラスを受け取った。

 柳也はボトルを傾け、ウィスキーを注いでやる。トクトク、と耳に馴染む音を立てながら、琥珀色の液体が満たされていった。

「なんでまだここに? るーちゃんはもう、みんなのトコに戻りましたよ」

「ルイズのことが心配になって来たのは確かだが……」

 グラスとボトルを打ち合う。ルイズが持ってきたグラスは二つあったが、彼女が使っていた方は、退室の際にそのまま持っていってしまった。

 ワルドは静かにウィスキーを舐めると、

「それとは別にね、僕も、きみとはゆっくり話せる場を設けたいと思っていたんだ。この機会を逃すのは惜しいと、そう思ったんだよ」

と、人懐っこい笑みを浮かべて言った。

「……話、ですか?」

 他方、柳也は怪訝な面持ちになった。

 自分は異世界出身の平民で、貴族の彼がわざわざ対談の場を設けるような価値のある人物ではないはずだが。

 ――よくある異世界召喚系冒険譚だと、現代人の知識を求められて、ってのがパターンだが。

 ミリタリー・オタクであり、SF好きでもある柳也はそんなことを考える。しかし、すぐにかぶりを振った。ハルケギニアは機械的な科学技術こそ未熟だが、その代わり魔法文化が発達している。自分の持つ現代日本人としての知識や経験が活かされる場はほとんどないはずだ。だとすると、いったいどういう意図の下での発言なのか。

 柳也の態度を警戒していると受け取ったか、ワルドは苦笑をこぼし言う。

「そんなに警戒しないでくれたまえ。べつに、取って喰おうと思っているわけじゃない。僕は、純粋に、きみと世間話がしたかったのさ」

「貴族のあなたが、平民に私にですか?」

「僕は確かに貴族で、メイジだが……」

 ワルドはそこで一旦言葉を区切ると、ニヤリと笑った。

 歴戦の、勇者の笑みだった。

「それ以前に、一人の男だよ。喧嘩と賭け事が大好きで、美味い酒と美人に目がない。歴史と、兵に興味を抱いている。そんな男の一人さ。……僕はね、一人の男として、異世界の勇者であるきみと、話がしたかったんだ」

「勇者、ですか」

 柳也は思わず苦笑をこぼした。

 どうやらワルドは、ルイズ達から己の素性についてある程度のことを教えられているらしい。それにしても、勇者とは……。誰が最初に口にしたのか、自分には相応しくない呼び名だ。気恥ずかしさを通り越して笑ってしまう。

「いいでしょう」

 柳也は笑いながら言った。

「夜は長い。月の女神と三人で、お話ししましょう」

 

 

 みんなのところに戻るわ、と言って、ルイズはいまだ月を見上げる柳也の背中に背を向けた。そのまま、早足で彼の部屋を立ち去る。柳也達の部屋から退室したルイズは、真っ直ぐ一階の酒場へ向かおうとして、途中、自分の部屋に立ち寄った。

 先ほどからやけに頬が熱い。具体的に言うと、従者から「諦めるのか?」と、質問を投げかけられた辺りから。それなりに強い酒を、ストレートで飲んだせいだろうか。

 赤面した顔をみんなに見られるのは恥ずかしい。特に、キュルケには見られたくない。もし酷いようなら、化粧をしてからみんなと合流したい。そう思って、ルイズは自分の部屋に戻ると、鏡台の前に立った。

 鏡は貴重品だが、“女神の杵”のような高級な宿ともなると、どの部屋にも普通に鎮座している。

 やはりというべきか、磨かれた鏡面には、赤い顔が映っていた。

 不意に、耳の奥で先ほどの柳也の言葉が蘇る。

『るーちゃんは、才能がないから、ただそれだけで、好きな人の隣に立つことを、諦めるのか? ゼロのルイズだから、というだけで、諦めるのか?』

 最初、その言葉を耳にした時、ルイズの内で生じた感情は、悔しさ、だった。次いで湧き上がった感情は、諦め。ゼロの自分がワルドの隣に立ったところで、惨めな思いをするだけだ、という確信。暗い気持ちになったルイズは、しかし次の瞬間、頭の中で想像してみた。

 もし、隣に立つ相手がワルドでなかったら。たとえば、自分のことをいつも困らせてばかりの従者だとしたら。

 諦めたくない、と思った。

 諦めたくない、と思えた。

 ワルドの隣に立つ姿を想像したときは、諦めかけたのに。

 柳也の隣に立つ姿を想像したときは、諦めたくない、と思った。

 ルイズは自分の頬に指を伸ばした。

 酔いのせいか。それとも、別な要因があるのか。

 頬はまだ、熱かった。

 


<あとがき>

 

 EPISODE:14のときと同じジレンマに陥ってしまった。……あれぇ? ルイズって、このとき、こんな乙女させて良いキャラだったっけぇ? ……あるぅぇえ?

 ってなわけで(だからどういうわけだ?)、読者の皆様、おはこんばんちはっす。

 タハ乱暴でございます。

 今回もゼロ魔刃をお読みいただきありがとうございました。

 今回の話は前回までとは一転、柳也が復活し、彼と関係を持つ人々をメインに据えて書き上げました。頑張れ男の子。頑張れ女の子。そして目指せテリーマン。少しでもそんな感情を抱いていただけたのであれば、幸いです。

 さて次回は、EPISODE:22で登場した“あいつら”の登板です。そして始まる、“女神の杵”店主の悲劇……下手をすると、原作より酷いかもしれません。

 次回もお付き合いいただければ幸いです。

 ではでは〜




柳也、思ったよりも早く目が覚めて良かったな。
美姫 「そうね。とは言え、完全復活とはいかないみたいだけれど」
まあ、流石に消耗しすぎたみたいだしな。
美姫 「一方で、才人とギーシュはやる気をみなぎらせているわね」
あの襲撃の件で色々と思う所があったみたいだしな。二人がどれぐらい強くなるのか楽しみの一つだよ。
美姫 「そうね。それじゃあ、次回も待っていますね」
待ってます。



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