注)この話はHeroes of Heartに登場するオリキャラ……闇舞北斗のストーリーであり、本編開始前の外伝的内容となっております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「蛇は女にいった。

『園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか』」

 

(創世記第3章1節)

 

 

 

 

 

――1972年8月11日。

 

 

 

 

 

「俺も貴様も生物だからな……生きている以上は、酸素を取り込まねばならない」

「ウウーウクッウクッウクッ」

「……もはや答える術すらもたぬか」

 

自分の身にナイフを突き立て、死神カメレオンごと海中へと消えた北斗だったが、改造人間である彼は普通の人間よりも長く呼吸が出来、また、若干ながら皮膚呼吸の機能も強化されている。

海中に潜ってすでに3分が経過しているが、消耗し、あまつさえ海水が傷口からの出血に拍車をかけているにも関わらず、北斗は平然と死神カメレオンと格闘していた。

否、平然とではない。ギリギリの戦いでもある。

いかに皮膚呼吸が強化されているとはいえ、それでも生存可能なレベルにはほど遠い、せいぜい、北斗の潜水時間は本調子の時で20分。現状の体力を考慮して考えると、あと4分ほどが限界だろう。

 

(ダメージを与えたとはいえ、怪人である奴の潜水時間を10分とすると……)

 

とてもではないが持久戦は不可能だ。

出血の酷さも加速度的に増している。

北斗が拳を繰り出す。

水中のため、速度は鈍り、威力も激減していたが、速度の面では死神カメレオンも同様に減速しているため、攻撃は躱されない。

2度3度と殴り、蹴り飛ばす。

だがこの際に遠くまで飛ばしすぎると相手を逃がしてしまう。

出来れば、この死神カメレオンはこの場で倒しておきたい。

否、倒さねばならない。

それがせめてもの、仲間達への償いなのだから……。

足の運動だけで背後へと回り込み、再び、今度は掌底で死神カメレオンの頭部を殴った。

 

“メシャアッ!”

 

頭蓋の軋む、嫌な音が響き渡る。

水中の中でして、改造人間である北斗にははっきりと聞こえた。

 

(……久しぶりにあれをやるか)

 

自分に残された時間はあまりにも短く、体力も限界にきはじめている。

頼みの綱のナノマシンも酸欠状態に陥り、もはや機能をなしていない。

頭蓋にダメージを受けた死神カメレオンが必死に手足をばたつかせる。

海面へと泳ぐ死神カメレオンを、北斗は許さなかった。

 

「吼破・水月っ!」

 

より速く、より遠く―――

放たれた拳は天王拳や地王拳の比ではない。

水中であるがゆえか、証拠隠滅プログラムは誤作動を起こしているようで、いつものような液状化はせず、徐々にその姿は水泡と化した。

だが、北斗に勝利の美酒に酔う余裕はなかった。

 

「……限界、だな」

 

もはや言葉にもならない。

 

強化された声帯のおかげで超音波を発し、水中でも喋ることの出来る北斗だったが、それすらももはや機能していない。

体中の出血も酷く、視界が紅で染まった。

活動限界まではあと20秒弱といったところだろう。

海面へと浮上するには、あまりにも短すぎる時間だった。

 

「意外に……呆気ないものだな」

 

今まで自分が与えてきた“死”というものは、こんなにも簡単に訪れる。

判りきったことではあったが、何故か、どうしようもなくやるせない気持ちだった。

 

 

 

 

 

海水に混ざった赤い液体も、徐々に薄れてく……。

いつしか、北斗は考えるのを止めた。

自分で自らの心臓を止め、自分で体内の全機能を停止させた。

 

 

 

 

 

―――自分を見詰める、別の存在にも気付かずに……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Heroes of Heart外伝

〜漆黒の破壊王〜

―――奪われた誇り―――

第五話「救い在りし原罪」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――1958年3月7日。

 

 

 

 

 

その日、ひとつの組織が滅びた。

壊滅したのは日本の、とある暴力団とそれに関わるいくつもの事務所からなる連合組織。壊滅させたのはたったひとりの少年。

血塗られた表情からは少年の憂いを判断することは難しく、ただひたすらに握り締めていた硝煙が立ち昇る拳銃だけが、その戦いの凄惨さを伝えていた。

戦闘要員だけでも総勢87名からなる組織を相手に、たったひとりで戦い、勝利した少年はその日のうちにこう呼ばれる

―――『killing child(死の天使)』と。

 

 

 

 

 

――1958年4月8日。

 

 

 

 

 

形式だけの入学式を終え、俺はふと一旦学校から抜け出して、もう一度来ていた。

明治から続く歴史の古い校舎は、戦争の記憶を忘れ去るかのように新しく建て直され、鮮やかな白亜を青空の下に晒している。

もはやほとんど生徒がいないことを確認し、俺は屋上へと向った。

一応、立入禁止区域である屋上には南京錠がかけられており、その進路を塞がれている。

ただ、今回ばかりは相手が悪かったいえよう。

かつて義兄弟の間柄であった男から教わったピッキングの技術は、市販の南京錠などものともしない。

それに、いざとなれば懐に忍ばせたブローニングを使えばいいことだ。

 

“ガタンッ……”

 

もう何年も開閉した形跡のない扉は固く、埃を撒き散らす。

ぐっと力を篭めて戸を開くと、光が射し込んだ――――――

 

「…………」

 

目の前に30坪ほどの巨大なコンクリートブロックが広がる。

当初は人の出入りも予定していたのだろう。片隅にぽつんと、色褪せたベンチがあった。

俺はそれを引き摺って、金網の方へと寄せる。やはり何年も使っていないようで、塗料の剥げや、鉄の錆が酷い。持って行くべきだったかと、少し後悔。

金網越しに見える景色はなかなかに絶景だ。場所によっては内陸の山の方から海の方まで見渡せる。

踵を返すと、地上からこの場にいて、ばれないような死角を探した。

死角というのは意外にあるもので、端の方にいてなお、角度的に発見するのが困難な場所まである。

 

「……よし」

 

明日から飯はここで食べることにしよう。

鞄から合鍵を作るべく持ってきた薬品を取り出して、踵を返す。

――と、

 

“ガチャッ……”

 

本日開閉2回目の音がして、ドアノブがゆっくりと回った。

相当難儀しているのか、ググ…グググ……と、ゆっくりと扉が開かれる。

俺は即座に薬品を閉まって、学生服の内ポケットに忍ばせたブローニング・ハイパワーに手をかけた。

扉のある小屋の上へと素早く移動し、そっと左薬指に嵌めた指輪を見る。

指輪の中には小さな鏡が内蔵されており、下の様子が覗えた。

 

「ほら、貸してみろ」

 

男の声。

声変わりを終えた、やや低いテナー。

 

“ガタン……”

 

扉が開かれる。

 

「うっ……!」

「っ……!」

 

先程の男の声と女の声がして、中から制服を着た2人が出てくる。

気配を殺して、俺はその動向を覗った。

 

「へぇ……なかなかによさげな場所だな」

 

男……短髪の、長身が言った。

動きの端々に見られる仕草から、空手……それも『明心館』空手の使い手と分かる。

もう1人の女は、髪を後ろで結わえて、しっぽを流している。

“あちら”流の言い方をすれば、ポニーテールというやつだ。

2人とも後ろ姿なので、顔立ちや表情までは分からない。

 

「ホント……でも、ここ立入禁止区域だよね?」

「ああ…そうらしいな。でも、鍵は付いてなかったぜ。誰か入って……閉め忘れたんだろ」

 

南京錠は俺が手元に持っている。鍵の戸締まりと一緒に合鍵の製作を考えていたため持っていたのだが……どうやら、裏目に出てしまったらしい。

例え開いていたとしても、南京錠を下げておけば俺がこの屋上にいるということが分かる。それならば“たまたま鍵が開いていて、中に入った”という言い訳が成立する。

しかし、俺が南京錠を持っていてはそうはいかない。

よしんば言い訳出来たとしても、俺という存在が彼らの心に印象付けられてしまう可能性はかなり高い。そしてそれは、甚だ不味いことだ。

高校に在学している間ぐらいは、俺とて平穏を望みたいのだから……。

……自己紹介が遅れたが俺の名前は闇舞北斗。

ついこの間まで、とある組織に所属し、壊滅させてしまったがために、名実ともに他のヤクザや暴力団関係からちょくちょく突っかかられている身だ。

俺たったひとりのために組織が総出で攻めてきたことすらある。

そういった事情もあり、なるたけ人とは関わらず、かつ平凡な生活を送りたいと願っていたのだが……初っ端から躓いているわけだ。

なんとか、この場を穏便に解決する手段はないものか?

 

「いつも開いてんなら、昼飯はここで食うかな?」

「…………っ!」

 

冗談ではない。

極力人と関わるまいと思って、人気のないこの場所を見つけたのだ。

……しかたない。ここは素直に出て行くのが良策であろう。

驚かせるべきではないと梯子に手をかける。

――と、女の方がベンチを見つけ、腰掛けようと前に出る。

 

「おい!」

『!?』

 

2人が同時に振り向いて驚く。

見ると、男の方はなかなかの好青年で、精悍な顔付きをしている。女の方は……それなりに美人の部類に入るだろう。10年後が楽しみだ。

俺は2人の驚愕などに構わず続けた。

 

「そのベンチはかなり老朽化している。危険だから近付かない方がいい」

 

止む終えず地を蹴って跳躍し、2人の前に降り立つ。

“トンッ”と、少し力を入れてベンチに手刀を振り下ろす。

 

“バキィッ!”

 

そんな音を立てて、木製の背凭れに亀裂が入った。

女が目を見開いて驚いている。

先刻、引き摺った際に感じた触感から、40キロ以上の負荷は危険だと思ったが、事実だったらしい。

 

「……な?」

「あ、ありがと」

 

女が慌ててベンチから離れる。

 

「べつに礼を言われるほどのことはしていない。ただ…注意しただけだ」

 

……しめた。

これに乗じて立ち去ればとりあえずこの場は逃れられるかもしれない。

南京錠は……また、夜にでも忍び込もう。

跳躍して小屋の上に登り、鞄を取って扉の方へと降りる。

 

「すげぇジャンプ力……」

「ホント……って、ちょ、ちょっと!」

 

立ち止まり、振り返る。

 

「……なんだ?」

「あ、あの……あたし1年2組の夕凪春香(ゆうなぎ はるか)!」

「お、俺も1年2組の…小島獅狼(こじま しろう)だ!」

「……1年1組、闇舞北斗」

 

……これが、俺と獅狼、そして春香の出会いだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――1958年4月9日。

 

 

 

 

 

「―――で、何故君達はさも当然のようにここにいるのかな?」

 

昼休み。

入学式の翌日から通常授業とは、頑張った学校だ。さすが、進学校といったところか。

それはさておき、目の前に広がるこの光景はなんなのだろう?

 

「あ、ワンちゃん、それ頂戴」

「ああ、いいぜ。しかし、そのワンちゃんってのはやめてくれ」

「…………」

「えー! いい名前じゃない」

「お前にしたらヒットかもしれないが、こっちは逆だっての」

「…………」

「あ、ヤンミのそれおいしそう」

「本当だ。なあ、それ一口くれよ」

「…………」

 

俺は無言で箸でおかずをつまみ、差し出した。

小島のやつがぱくりと咥える。

美味そうにおかず頬張る小島。料理人としては嬉しいものだが、裏腹に、俺の心は煮えたぎっていた

胃の辺りがしくしくと痛む。今すぐに食事を中断して保健室に行きたい気分だ。

否、むしろ病院か?

どっちでもいいが、必要最低限のカロリーだけは補給したい。

 

「あ〜! ヤンミ、あたしもあたしも」

「…………ほら」

 

……本気で頭が痛くなってきた。

こんなに生命の危機を感じるほどの痛みを伴ったのはいつ以来だろうか?

4年前に“怪獣王”が東京に上陸した時、混乱した警備網を潜って自衛隊の基地から武器をかっ攫った時以来だろうか?

 

「へぇ……ヤンミ、これ誰が作ったの?」

「俺だ……それと、そのヤンミというのはなんだ?」

 

先刻から物凄く気になっていた疑問。

 

「? ヤンミはヤンミだよ」

 

闇舞だからヤンミなのだろうか?

……というより、先刻から疑問符ばかりだ。

 

「許してやってくれ。こいつ、人に変な名前付けるのが趣味みたいなもんでさ」

「失礼しちゃうなぁ、もう。ニックネームって言ってよ」

 

趣味という部分に対して弁解はないのだろうか? というより、何故わざわざ英語表記にする必要がある?

 

「なに言ってんだよ。お前、俺のことワンちゃんなんて呼んでんじゃねぇか。アレ、正直わけわかんねぇぞ」

「ええ〜、可愛いと思うのに……」

 

 

―――ワンちゃん。

小島のフルネームが小島獅狼……獅狼……狼……犬科?

 

「獅狼の狼が犬科だから?」

「うん! 分かりやすいでしょ!」

「分かり難いってのっ!」

 

“ゴッ!”

 

小島が正拳でツッコミを入れる。

 

「きゅぅ〜〜〜〜〜」

 

不思議な擬音を言いながら、夕凪が崩れ落ちる。

ご丁寧に敷かれた青いビニールのレジャーシートの上に寝転がった。

いや、“ゴッ!”って…………

 

「小島、少しは手加減してやれ」

「ん? って、あああーーー!!」

「……ったく」

 

俺は思わず頭を抱えた。

確認はしていないが、今の突きを見ても、小島は明らかに武道家……それもかなりのレベルに達している。

そんな小島が放った拳である。

よほどの手加減をせねば、かなりの激痛が伴うはずだ。

早合点は禁物だが、見たところ夕凪は体を鍛えているようには見えない。“ゴッ!”などという擬音がした暁には、こうなるのが普通である。

 

「だ、大丈夫か春香ぁっ!」

「あまり動かしてやるな。おそらく、軽い脳震盪でも起こしたんだろ」

 

見たところ、前頭骨の継ぎ目には当たっていない。ここを強く打つと頭蓋腔が外傷を受け、気絶したり脳内出血したりするものだが、今のところ大丈夫そうだ。

おそらく命中したのは頭蓋骨の基部。ある程度の力で殴ると、後頭部が振動を受けて気絶し、強く殴れば脳震盪を起こしてしまう。

もっとも、小島とて一介の空手家だ。夕凪には通用しなかったとはいえ、それなりに手加減はしていたので、死に至る恐れはない。

その旨を告げると、小島は驚いたような表情を浮かべた。

 

「俺、手加減し忘れた……」

「……っ!? 馬鹿、早く言え!!」

 

いつの間にか彼らのペースに呑み込まれている自分を意識しつつ、俺は夕凪の治療にあたった。

 

 

 

 

 

「―――ふうん、そんなことがあったんだ」

「……まったく! あいつは馬鹿か。頭蓋骨基部は下手をすれば脳内出血を起こして死に至るんだぞ」

「まぁまぁ。生きてたんだからそれでよかったじゃない」

「そういう問題じゃないと思うが…」

 

日も暮れて夜桜が楽しめる時間。

俺と留美は夕食を摂っている。

俺達の借りているアパートの部屋は2階にあり、桜前線の遅いこの辺りは、4月になってやっと桜が満開になるため、窓を開けて見る景色はなかなかの絶景だ。

俺は今日あったことを留美に話した。

無論、“昼休みを俺なんかに構って棒に振った馬鹿者ども”についてである。

 

「―――大体あいつらはなんだ。人が人付き合いというものを避けているのにも気付かず、いけしゃあしゃあと……」

「ふふふ」

「ん?なにが可笑しい?」

「だって、兄さんがそんな楽しそうに話すの久しぶりだもん」

「…………くだらん」

 

そうなのだろうか?

自分では分からなかったが、俺はそんなに楽しそうにしていたのだろうか?

俺はふと、自分の唇に指を這わせた。

 

「…………」

 

微かだが……本当に微かだが、笑っている。

まさか、微笑みなどとうに捨ててきた……俺が?

 

「兄さん、きっと2人のことが好きなんだよ」

「くだらん!」

 

内心の動揺を抑えつつ、俺は飯を掻き込んだ。

夜も更けたら、鍛練に出ねばならない。

 

 

 

 

 

「はぁっ!」

 

繰り出した拳が空を切り、近付いてきた蛾を振り払う。

べつに掛け声を出す必要もないのだが、ブレス・コントロールも兼ねて出すことにした。

時刻は10時半。あと30分ほど体を動かして、それから帰るとするか。

近くの市民公園での鍛練は日課だった。

仕事もあるので時間はまちまちだったが、10分でも5分でも体を動かすのはいいことだ。

下手に気配を消して茂みに隠れている連中は俺に手を出すことはない。

よしんば出してきたとしても、返り討ちにする自信はある。

ブーツの下に、ポケット・ピストルも隠しているしな。

 

「ふっ」

 

構えを『松涛館』空手のものから『極真館』のものへと移行し、型をやって今度は実戦向きの『陳式太極拳』へと変える。続いてボクシングのストレート、フック、アッパーカットを一通り終え、再び空手……『明心館』のものへと変化させる。

 

「はぁっ!」

 

気合とともに一撃。

その拳はより速く、より遠く飛んで、風を起こした。

 

「ふぅ……」

 

構えを解き、ベンチにかけた手拭いで汗を拭う。

 

“パキィ”

 

「……っ!」

 

枯れ木を踏む音。

辺りにはいつ不審者が接近しても対処できるように枯れ木をばら撒いておいた。

不信に思われない程度にばら撒かれた枯れ木は、プロでもない限りばれる事はない。

俺はゆっくりと振り向いて、接近者の顔を見た。

 

「……小島、か?」

「へぇ…意外だな。闇舞も、なんか武術とかやってんのか?」

 

小島だった。

戒めのつもりなのだろうか。道着を着ていつでも戦える気配を放っている。

 

「人を見掛けだけで判断するな。それと、着るんならせめてジャージにしておけ。そんなものを着ていると、挑発行為と思われるぞ」

「ははっ、違いねぇ。……それよりも、いっちょ勝負してくれねぇか?」

「空手ルール……でか?」

「べつに俺はどうでもいいぜ。闇舞が空手ルールでやりたいっていうなら、そうするけど。……っていうか、道着見ただけでよく空手って分かったな。ちなみに俺は、『明心館』空手だ」

 

やはりそうだったか。

『明心館』空手というのは、フルコンタクト空手を最初に始めた『極真館』空手に続き、国内でもトップクラス規模の団体だ。

俺も一応、空手に関しては『松涛館』、『松涛会』、『糸東会』、『修交会』、『三空会』、『和道会』、『極真会』、『剛柔流』、『剛柔会』そして『明心館』と、メジャーなものは一通りこなしている。

その中でも多用するのは、船越義珍が開祖の『松涛館』、ゴッドハンドこと大山倍達が開祖の『極真館』、そして小島も修めている『明心館』の順番だ。

 

「……“吼破”は修めているのか?」

「ん? なんだ、それ?」

「いや、知らないならいい」

 

吼破とは、『明心館』空手における奥義のようなものだ。

編み出した人物の名は“巻島源之助”。『明心館』空手の、開祖である。今は息子の“巻島十蔵”が、時期『明心館』館長の後継者だとか。

閑話休題。

吼破というのは、とかく強力な打撃である。

もともと打撃系統の技を主流とする空手だが、その打撃を極めた者はもうワンステップ上の段階に昇る。それが武道家というものだ。回し蹴り開祖の船越義豪しかり、牛殺しを果たした大山倍達しかりである。

巻島源之助が編み出した吼破もまた、そういったワンステップ昇り上がった技だ。

吼破は拳でも蹴りでも、とにかくその人がもつ最高の打撃力を篭めた一撃で、最高の間合いまで詰め、最高の一撃を放つというものだ。

最高の一撃を放つ……といっても、この状況を成立させるには難しい。

相手は棒っ切れではない。暦として動いている、人間なのだ。

相手も動くのだから、相手の動きを計算に入れて翻弄するテクニックか、相手の動きを封じるパワーがないと、とてもではないがこの技は成立しない。

ついでに言うと、この吼破という奥義は使い手によって最高の一撃は変形するため、その人その人によって様々なバリエーションがある。創案者である巻島源之助の最もオーソドックスな型を基本に、派生型はそれこそ無数だ。

中には3つも4つも吼破を持っている人物もいれば、1つしか持っていない人もいる。

余談ではあるが、この吼破という奥義は当然ながら門外不出で、小島が知らないのも無理はない。ちなみに、知っているからには俺も吼破を2つほど習得している。

 

「じゃあ、こちらも“空手だけ”使わせてもらう」

「よっしゃ」

 

小島が、パキポキと指を鳴らす。

そんな暇があるのならばさっさと構えろと言いたいが、所詮、裏の世界に生きる人間と表の世界の武道家とは考え方が違うのだろう。

俺は静かに構えをとる。構え方は小島と同じ、『明心館』空手のものだ。

小島がフッと鼻で笑う。自分も修める『明心館』空手ならば、手はすべて読めているとでも言いたいのだろう。

小島もまた、すっと音もなく構えた。

先に仕掛けたのは―――小島だった。

3歩。5メートルほどの距離を素早く詰め、腰溜めの拳を閃光のように突き出す。……普通人から見れば、だが。

 

「ふっ」

 

たしかに速いが……俺からすれば閃光というほどでもない。武術の心得のない一般人の突きを乗用車に例えるなら、せいぜいF1レースといったところだ。それでも充分速いが。

 

「だが―――」

 

『明心館』の構えから『松涛館』の構えに移行。

追撃の拳を躱し、そのままラウンドハウス・キックで背中を蹴り上げる。

 

「ぐっ!」

 

フルコンタクト空手である『明心館』空手の相手に、いかに“寸止め”が基本の、伝統派空手である『松涛館』空手とは言え、遠慮する必要はない。

俺の放った回し蹴りは小島の背中にクリーンヒットし、小島はその長身を仰け反らせる。

無論、急所は外しておいたが……。

 

「まだまだぁっ」

 

さすが直接打撃の認められたフルコンタクト空手の使い手。早々にくたばってはくれないらしい。

 

「ふむ。さすがF1だな……かなりの底力だ。だが―――」

 

F1では、飛行機の速さには敵わない。

 

「食らってみろ……」

 

俺は構えを『極真館』空手のものへと移す。

いかなる構えであっても、技を出せるようになるまでが、本当に技をマスターしたと言える。

 

「これが、お前の修める『明心館』空手の奥義―――」

 

大きく一歩踏み込んで、拳を繰り出す―――

 

「吼破だっ!!」

 

―――『吼破・水月』。

より速く、より遠くを突き詰めた俺の最高の一撃は、急所は外しておいたとはいえ、小島の脇腹へとクリーン・ヒットした。

 

「ぐっ! ……がぁっ!!」

 

吹き飛ばされ、背中を強く地面に打った小島が呻き声を上げる。

……やりすぎたか?

一応、試合ということで手は抜いておいたのだが……足りなかっただろうか?

 

「ふぅっ……つ、つぇ〜」

 

どうやら、大丈夫だったらしい。それどころか、あの一撃を受けてまだそんな口が叩けるとは……信じられないタフさだ。

駆け寄って手を貸してやる。

 

「お、サンキュ」

「大丈夫か?」

「ああ。……2度も背中打ったから、ちょっと痛いけどな」

「一応、病院に行っておけ」

 

 

 

背骨には脊髄を始め、様々な器官が集中している。

そこを痛めてしまうと、かなり危険だ。

診たところ異常はないようだが……所詮、俺は医師免許など持ってはいないので、保証はできない。

 

「しっかし強いなぁ〜闇舞は。今のは?」

「……吼破と言う技。お前達の……『明心館』空手の技だ」

 

俺は少し考えて、答えてやった。

べつに教えて損をするようなことでもあるまい。情報を相手に渡すのは禁物だが、俺と小島が本気で命の遣り取りをする状況に陥るとも思えない。

 

「チクショウ……あとで館長をとっちめてやる」

「頼めば教えてもらえるんじゃないか? お世辞抜きにして、お前は強い。見たところ基礎はしっかりしているようだし、吼破を放つ土台は出来ている」

「……俺に勝った相手に言われても嬉しくない」

「勝った相手だからこその言葉だ」

「違いねぇ」

 

そう言って、小島は朗らかに笑った。

けなされて笑えるその神経は理解できなかったが、なんとなく……本当になんとなくだが、その笑顔には好感が持てた。

 

 

 

 

 

――1958年5月2日。

 

 

 

 

 

あれから一ヶ月が経ったが、状況は変わらない。

むしろ悪化していると言っていい。

仮にもひとつの組織が潰れたのだから、その後の利権争いなど起きてもよさそうなものなのだが、今のところ水面下の小競り合い程度で済んでいる。

俺もまた、傭兵感覚でそういった抗争の一端には参加しているが、所詮、末端の傭兵が仕入れられる情報などさして良質なものではなく……今後の行動を左右するような判断材料は何も得られなかった。

裏の世界ではそんな風に静かな激動が始まっているというのに、表の世界における俺は……その…………随分まるくなったものだ。

 

「闇舞、今度、いっちょやらねぇか? 最近じゃ相手がいなくてよ」

 

当初は“人付き合いを避けて”平凡な暮らしをしたいと願っていたのだが、最近は“人付き合いをしながらの方が”平凡な暮らしが出来ると意識変化しつつある自分がいる。

 

「あ、ヤンミ、今度それの作り方教えてよ」

 

毎日のように話しかけてくれる彼らの声を疎ましく感じながらも、それに答える回数が日に日に増えている自分がいる。

 

「……ああ。2人とも、今度な」

 

そして、そんな日々を悪くないと思っている、自分がいた。

 

 

 

 

 

――1958年5月11日。

 

 

 

 

 

「…………でか」

「初めて見る奴には結構な驚きだろ?」

「ああ。だがまさか、夕凪のやつが夕凪総合病院の一人娘だったとは……」

「驚いたか?」

「十二分に」

 

俺の答えに何故か満足そうに頷いて、意気揚々に小島は大きな門を潜っていく。

俺もその後に続いたが、少々の戸惑いは隠せなかった。俺もまだまだ未熟である。

広大な敷地と、その上に聳える様々な施設。そして巨大な屋敷。

俺も頭領達の付き合いで何度か豪邸と呼べる家には入ったことはあるが、目の前の屋敷は建物だけでそられすべてがすっぽりと収まり、別格だった。

ついで言えば、そんな屋敷が知り合いの自宅だというのだから驚きである。

 

「小島様、お久しぶりでございます」

 

初老の女性――おそらく使用人と思われる――が、小島の姿を捉えるなり微笑を浮かべて挨拶をしてくる。

これで7回目。どうやら小島のやつは、結構な頻度でここに来ているらしい。

いくら幼馴染とは言え、小島の家は雑貨商を営んでいるという話なので、言い方は悪いが、庶民と上流階級の付き合いとしては異例と言える。そういった意味では、実は小島のやつは凄い男なのかもしれない。

 

「あ、ワンちゃん!」

 

なかなかの大声。

とても上流階級のお嬢様とは思えないほどにやんちゃなこの声は聞き間違えるはずがない。

 

「晴香っ! そんな大声でワンちゃんって呼ぶな!!」

「ええ〜! いいじゃない。可愛いよ、ワンちゃん!!」

「だ〜か〜ら〜!」

 

絶対にわざとだな。

周りの方々もくすくすと笑っている。

 

「……いつもこんな調子なんですか?」

「はい…小島様がこちらにいらした時は、晴香様もいつも以上に明るくて」

「ほう…」

 

―――たしかに、俺と小島の姿を確認する前の一瞬、夕凪の表情には憂いの翳りが見えた。

あれは俺の見間違いじゃなかったらしい。

やはりあれも、上流階級の縛りゆえの表情なのかもしれない。

 

「……ところで、あなたは?」

「ああ…申し訳ありません。自分は、小島と夕凪の同級で、闇舞北斗と申します」

「あらあら、ご丁寧にどうも」

「いえ……最初に名乗らなかった自分も自分ですから」

 

以前の俺ならば、こんな対応は考えられなかった。

あの2人は、少なからず俺に影響を与えているのかもしれない。

 

「あ、ヤンミもどうぞー」

「ああ、今行く」

 

通された部屋は……一言で表現するならば“豪勢”だった。

本当にこれが同級生の部屋なのかと疑うぐらいに広く、内装も凝っている。

俺は勧められるがままに椅子に座って、部屋の隅々まで見渡した。

 

「あんまりじろじろ見ないでよー。結構、恥かしい」

「む、ああ…すまん」

 

戦場において、地形や環境、気候などの情報は持っているだけで有利に戦闘を進められる材料となる。

俺のこの癖は、もはや脊髄反射の世界だ。

 

「まぁ、ここに来て落ち着かない方がどうかしてると思うがな」

 

小島は都合よく解釈してくれたらしい。

それに習って俺も頷くと、夕凪はぱっと頬を赤らめ、照れ始めた。

 

「あ、あたしなにか飲み物貰ってくるね」

「あ、俺は日本茶な」

「うん。ヤンミは?」

「軽めのアルコールを頼む」

「……ヤンミ?」

「冗談だ。アレルギーや好き嫌いはないから、適当に頼む」

 

咎めるような夕凪の視線を受けて、俺は譲歩した。

本当は冗談でもなんでもなかったのだが、戸籍上俺は15歳なので仕方ない。

 

「闇舞、ホント酒好きだな」

 

夕凪がいなくなって、小島が話してくる。

 

「そんなことはない」

「いや、むしろそっちの方がそんなことないと思うぞ」

「そうか?」

「そうだ。学校で白昼堂々ビールなんか飲むなよ」

「べつに誰かに迷惑をかけているわけでもあるまい」

「まあ、ビールぐらいならともかくよ。度数42のテキーラはまずいだろ?」

「……べつに普通だろ?」

「絶対に違う! 少なくとも、俺は度数42をボトル1本飲んだ暁にはぶっ倒れるぞ」

 

……なんて不幸なやつだろう。

酒が飲めないなど、人生の半分を棒に振るようなものではないか。

 

「……………………なに世界で一番不幸な人間を見るような哀れみの表情を浮かべてんだよ?」

「そんな顔してたか?」

「思いっきり」

 

自分がそんな顔をしているとは気付かなかった。

これからは善処するようにしよう。

 

「―――ところで、前々から気になってはいたのだが……」

「ん?」

「お前と夕凪は幼馴染らしいが、恋人同士ではないのか?」

「!?」

 

小島が喉にキャラメルを詰まらせた。夕凪の家に来る前に買ったものである。

俺は小島の背中を擦りつつ、食道に唾液の流れが円滑に進むようツボを押してやった。

何度か咳をして、小島が立ち直る。

 

「ば、バーローッ! そ、そそそそそげなことあるわけなかっ!!」

「落ち着け。喋り方が変だ。はい、深呼吸」

 

さすが空手家。動揺時のブレス・コントロールは体が覚えているようで、俺の言葉に、即座に反応する。

少し経って、小島は口を開いた。

 

「い、いきなり何言い出すんだよ!」

「……べつに他意はない。ただ、なんとなく不思議に思っただけだ」

「不思議?」

「……憧れからくる不信感かもしれんが」

「何、言ってんだよ?」

「俺には幼馴染というものがいない。だから、情報としてその概念は分かるんだが、実体験がないせいか、知識としては分からない。まあ、感覚として分からないんだろうな。……だから、俺は幼馴染という分野においては無知だと言っていい」

「―――それで?」

「だから分からないんだ。普通、思春期に入った場合、異性の幼馴染がどういった関係、及び行動をとるのかが、な。それが知りたかった」

 

俺の話に小島は無言だった。

これは本当のことだ。

“あの事件”で東京まで来た俺と留美は、その時点で幼馴染と呼べる存在と袂を別れた。

そのため、俺が肌で知っている幼馴染の関係というのは9歳の頃までのものあり、当然に異性に対する興味や関心などがあまりなかった……それ以前に、異性と差があまりなかった頃の関係しか知らない。

 

「―――で、どうなんだ?」

「は?」

「いや、だからお前と夕凪は恋人同士ではないのか?」

 

再び放たれた俺の言葉に、小島はぽかんと口を開ける。

押して駄目なら引いていけ。

一旦、話を関係のないような横道に逸らして本題にもっていく。話術におけるテクニックの、初歩の初歩だ。

 

「お、お前……!」

「早く答えてくれ」

「……違うよ。今は」

 

やや諦めたような口調で、小島は答えた。

俺は頷いて更に問い詰める。

 

「今は?」

「未来なんて判るはずないだろ? もしかしたら俺と春香がその……付き合うことになる可能性だってあるんだ」

「お前自身はどう思っているんだ? 夕凪のこと」

「……好きだよ、そりゃあ」

「……そうか」

 

それが聞ければ充分である。

幼馴染という関係は実感として湧かなかったが、小島がどう考えているかによって突破口は開かれた。

結論、この歳頃の幼馴染というものは『微妙な関係』。

詰まるところ、小島は恐れているのだろう。

夕凪に好きだと告げることで、今の関係に亀裂が生じるのを。

好奇心からの興味本意で聞いた事とはいえ、少なくとも小島にとっては事の重大さになんとなく罪悪感を感じてしまう。この話はもう切り上げよう。

ふと、扉の外に夕凪の気配を感じた。お盆で両手が塞がっており、ドアを開けるのに四苦八苦しているようだ。

俺はひとつ溜め息をついて、席を立った。

 

 

 

 

 

4時になった。

空手の稽古があるため先に帰った小島を見送って、俺と夕凪は再び部屋へと戻る。

しばらくは談笑していたものの、考えてみれば俺と夕凪のパイプラインは小島であるわけで……必然、あいつが帰ったことで会話は途切れ途切れとなっていった。

あらかたネタも尽きたところで帰ろうと席を立つと、夕凪の父親が帰ってきていた。

彼は俺の顔を見るなり、

 

「……き、『killing child』!?」

 

こちらとしてはなかなかに禁句な異名を発してくれたものだから、それこそ不可視の速度で離脱しようとした瞬間、むんずと腕を掴まれて、夕食をご馳走になった。

仮にも裏社会ではそこそこ名の売れた俺に取り入れば何か見返りがあると踏んだのだろう。そうはいかないと、一応、話だけ聞いていたのだが、なかなかに有意義な時間を過ごすことが出来た。

特に氏は『ソ連共産党官僚主義批判』運動を強く推進しているようで、彼の考える『近代ソビエト文明崩壊のために日本がとるべき経済政策』についての討論では久々に燃えた。

また、氏は娘とは違いなかなかに話のわかる人物で、酒豪でもあった。つくづく気の合う人である。

 

「ゴメンねー。なんか、お父さん気に入っちゃったみたいで」

「いや、俺も久々に有意義な時間を過ごすことが出来た。特に、あの人の考える今後のソ連の辿る道に関しては、奇抜な発想で面白い」

「あはは、なんかお父さんもおんなじようなこと言ってた」

 

帰り道、何故か送ってもらうという形になった俺は、普通逆だろうと思いながらも、周囲を警戒しつつ夜道を歩く。

父殿の手前、夕凪にもしもの事があってはと、懐のブローニングはいつでも抜き出せる状態だ。

父殿の影響もあってか、会話はいたって円滑に進んでいた。

俺の家までの20分ほどの道のり。

10分ほど歩いたところで、話は2人の共通の話題へと移行していた。

 

「―――それでね、その時のワンちゃんってばもう可笑しくって」

「ふむ、それは現場に居合わせたかったな」

 

聞き手はもっぱら俺。

話されるのは夕凪と小島の過去。

過去の思い出を語る夕凪の表情は様々で、コロコロと変化する様を見るだけで楽しませてくれる。

また、その変化は、夕凪と小島の過去は本当に様々なことがあり、長い付き合いを重ねてきたのだと物語っていた。同時に、2人の絆の強さも。

そして、夕凪の言動の端々に聞こえる、優しい『ワンちゃん』という発音。

おそらく、夕凪も小島のことが好きなのだろう。

 

「―――そういえば、ふと、思ったんだが、夕凪と小島は恋人同士ではないのか?」

 

我ながら芸のない質問の仕方である。

 

「そ、そそそそそげなことあるわけないじゃないですか! ハイ!!」

 

―――こちらもまた芸のない返し方である。

というより、幼馴染2人、揃って同じ分だけ“そ”を繰り返しているのは偶然だろうか?

 

「ふむ。では、質問を変えよう。夕凪は小島のことはどう思っているんだ?」

「え? えと……それは……」

love or hate ?

lovelikeにするって選択肢は「却下」あう……」

 

ここでlikeなどと言われては意味がない。

―――意味が……ない?

そもそも、何故俺はこのような質問をしたのだろうか?

それすらも分からないまま、俺は夕凪の回答を待った。

 

「う、うん……好きだよ、そりゃあ……」

 

答え方までほぼ一緒とは……俺も予想だにしなかった。

しかし、これで完全に理解出来た。

小島獅狼と夕凪春香はお互いに両想いであり、現在の関係が壊れるのを恐れて前を踏み出せないでいる……と。

 

「告白とかしないのか?」

「出来るわけないよ……獅狼があたしの事好きかどうかも判らないし」

 

どうやら小島も夕凪も、こと恋愛に関しては『当たって砕けろ』思考にはなれないらしい。

裏の世界に生きる者としては、踏ん切りは良い方がいいと思うのだが……。

 

「小島は受け入れてくれると思うんだが」

「わかんないよ、そんなの……」

「―――小島が他の誰かに盗られてもいいのか?」

「え!?」

 

はっと顔を上げる夕凪。

俺は頭を掻きながら、

 

「小島は、ルックスは悪くないし、腕っ節も強い。加えてそれを鼻にかけるような事もなければ、面倒見もいい。―――と、これだけ長所が揃ってれば必然小島も人気が出ると思うんだが」

 

これは本当の話だ。

小島は今言ったように長所尽くめなせいか、女子からは結構な人気がある。非公式ながら、ちょっとしたファンクラブのようなものもあるし、気付いてないのは本人と、夕凪ぐらいのものだろう。

ついで言えば、夕凪も美人の部類に入るため、男子からの人気は高い。小島も、そのことは知っている。

 

「う、嘘…」

「いや、本当の話だ。あいつはあれで結構レベル高いぞ」

「う、うう……」

「他の誰かに、知らないうちに盗られてもいいのか?」

「ぜ、絶対に嫌!!」

「それなら、ちゃんと伝えたらどうなんだ? 自分の気持ちとやらを」

 

何故、俺はこうも世話を焼いているのだろうか?

いつもの俺ならば考えられない行為だ。否、最近の俺ならば考えられる事なのかもしれない。

最近の俺は、自分でもそうだと思うくらいにおかしいのだから……。

 

「で、でも伝えようにもきっかけが……」

 

夕凪はまだ逃げようとしている。

言い訳を並べて、この状況を打破しようとしている。

だが、それは本人の考えだけだ。仮に言い訳して、それが成功したとしても、それは打破ではなく問題の先送りにしか過ぎない。

 

「―――小島の誕生日はいつだ?」

「ほぇ? ……えっと、5月16日だけど……」

 

5月の16日……近いな。

 

「じゃあ、その日にでも告げればよかろう。誕生日に告白などインパクト性は高いし、成功率もそれなりに、だ」

「で、でも……」

「でももなにもない」

 

俺は少しだけ語調を強め、俯き加減の夕凪に言った。

すると夕凪は、立ち止まってワナワナと震え出す。

どうしたのかと顔を覗き込むと―――

 

「なんでヤンミにそんなこと言われなくちゃならないの!」

「なんでヤンミにそんな風に言われなきゃならないのよ!そんなのあたしの勝手でしょ!これ以上、あたし達の関係に口出ししないで!!」

 

普段の夕凪からは考えもつかない怒声。

いつもの、唇の端にあどけなさの残るような可愛らしいものではなく、完全に怒り狂った形相。

だが、その言葉に俺は回答する事が出来なかった。

なにせ、俺自身、なんでこんなに世話を焼いているのか判らないのだ。

いつからだろう?

俺がこんなにもお節介な人間になってしまったのは―――?

否、答えはもうすでに出ているか……。

 

「……俺はお前達に感謝しているんだ」

「……え?」

 

猛りをぶつけた事で落ち着きを取り戻しつつある夕凪が一瞬キョトンとした表情を浮かべる。

俺は構わず続けた。

 

「一ヶ月前、お前達と会った事で、俺は随分と救われた。だから、だろうな」

 

救われた具体的な内容までは話せない。

話せば、夕凪達を“こちら側”に巻き込んでしまうから……。

 

「お節介だとは自分でも思っている。しかし、秘めたままの想いは、いざという時になって吐露しておかないと辛いだけだ」

 

“あの事件”の後、俺達は誰にも別れを告げず、住んでいた街から離れた。

あの頃は俺も幼く、極端な話『“人殺し”の自分がみんなと関わっちゃいけない』なんて、本気で考えていたものだ。

その時に幼馴染と呼べる存在や、親友と呼べる存在とも袂を断った。その後の東京での生活は苦難の連続ばかりで、その度に“あいつら”のことを思い出して、それだけで俺は救われた。

あの時、たった一言でも別れの挨拶を告げなかった事が、今だ後悔となって押し寄せてくる。

もはや名も忘れた友人達の顔が、走馬灯のように流れ、ちらつく。

 

「俺はな、お前にそんな思いを味わってほしくはないんだ。たしかに、そういった選択の決断は難しい。勇気もいるし、どう決断するか判断力も問われる。だが、何もしないで後悔するよりは、何かしてからの方が断然良いに決まっている」

「でもそれは……」

「ああ。たしかに難しいだろうな。まして恋愛における告白など、下手をすればその人の人生そのものに大きく関わってくる出来事だ。責任感も生じるし、様々な疑念が介在するだろう。だが、何事も前向きに考えるべきだ。その疑念すらも肯定し、あえて勇気を振り絞ってみるべきだ。これは強制ではない。判断は夕凪に任せるよ」

 

言うべきことを伝えて、俺は歩き出した。

夕凪はもう着いてこない。狙い通りである。今は夕凪も考える時間が必要だ。

背を向けながらも感じる夕凪の微妙な息遣いから、彼女の想いの成就を祈りつつ、俺は帰路へと就いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

乳白色の濃い雲が月明かりを遮り、眠らぬ街東京の界隈に完全な闇をもたらす。

肌にまとわりつく嫌に生暖かい風を切り裂くように、獅狼は左右の拳を振るいながら帰路に就いていた。

走りながらでも肩の崩れない見事なフォームで繰り出される拳は素早く、そして鋭い。

普通ならばこんな暗い時間帯は、彼のような大人にも子供にもなり切れていない歳頃というのは狙われてしまうものなのだが、彼が拳を振るう度にただならぬ気配を感じるのか、闇に潜む住人達は手を出そうとはしなかった。

 

「近道、近道っと」

 

もう夜も遅い時間である。

獅狼の家は住宅街から少し離れた所にある一軒家で、彼は神社の裏手を通ることにした。

100段ほどの階段を一気に駆け上がり、本殿を抜け、裏道へと入る。

神社の裏は雑木林になっており、10分ほどその中を歩けば住宅街のはずれに出てこられる。そこから5分歩けば、獅狼の家に着く。

普通に歩くと40分ほどの時間だが、これで20分の短縮が出来るのだ。

否、本気ではないが駆け足でいるため、30分ぐらいは短縮できるかもしれない。

雑木林の中には、当然、電灯などの明かりはない。

月明かりも遮られた最悪の視界の中、獅狼は足元に注意しながらペースを速めた。

間もなく雑木林を抜ける。

――と、そこで彼は珍しいものを見た。

雑木林を抜けると目の前には一本の車道が伸びているのだが、その端を女性が歩いている。

この時間帯、住宅街でもないこの辺りを女性が歩いているというのは珍しい。

加えて、足元がフラついている事からかなり酔っていると思われる。

大丈夫か? と、思いつつ、遠巻きに眺めながら獅狼は走り出そうとして―――立ち止まった。

遠くからやってくるトラック。

どこか頼りげのないふらふらとした動き。

日頃鍛えた動体視力で、獅狼は運転席を見た。

 

「―――っ!」

 

眠っている!

そしてトラックの進路上には―――あの女性がいる!

 

「くそっ!」

 

獅狼は駆けた。

だが、トラックのスピードはかなり速い。

 

「逃げろっ!」

 

声を張り上げるも、女性には聞こえていないようだ。

トラックのヘッドライトが自分と女性の影を照らし出す。

 

「チクショウッ!」

 

獅狼は一旦走るのを止めると、次の瞬間、物凄い速さで踏み込んで、足を突き出し、女性を蹴り飛ばした。

 

「きゃっ」

「ぐああああああああっ!!!」

 

それぞれが対称的な悲鳴。

トラックに跳ね飛ばされた獅狼は、電柱に足を強くぶつけ、頭から落ちた。

 

 

 

 

 

――1958年5月3日。

 

 

 

 

 

小島志郎が交通事故にあったと聞いたのは翌日のことだった。

なんでも、居眠り運転のトラックから泥酔した女性を庇ってのことらしい。

大規模な手術をし、長期の入院をするほどではなかったにしろ、とりあえずは検査入院という形で、本日は欠席している。

報を聞いた時の夕凪の表情は凄まじいもので、表面上は見せていないが、かなり荒れていた。しばらく放っておいた方がいいだろう。

ゆえに今日は久々にひとりで昼食だ。

本来ならば、いつもこうしている予定だったというのに、いざなってみるとあまり良いものではない。やはり、食事は大勢で囲んだ方がいい。それを教えてくれたのは小島や夕凪だ。

侘びしくひとり屋上で昼食を摂って、教室へと戻る。

夕凪は……まだ暗い表情をしていた。

 

 

 

 

 

日課の鍛練に市民公園に来てみると、そこには意外な先客がいた。

いつも俺がタオルなり、なんなりを置くベンチに陣取って、そいつは俺の姿を見るなり爽やかに笑みを浮かべて片手を振ってくる。

反射的に振り返しそうになるのをぐっと堪え、俺は頭を抱えながら言った。

 

「……何をやってるんだ?」

「お前を待ってたんだよ。友達甲斐のねぇやつだな」

「ほっとけ」

「ああ、そうしとくぜ」

 

いつもの憎まれ口にも、どこか覇気がない。

空手家にとって足を壊すというのは、相当にショックな出来事のはずだ。小島とてそれは同じなのだろう、涙を流すことこそなかったが、態度を見れば彼が落ち込んでいることは一目瞭然だった。

 

「足の方はもういいのか?」

「いいわけねぇだろ。ははっ、あと2週間はこのまんまだ」

 

そう言って、“ガンガンッ”と、乱暴にギプスを叩く。

ギプスを壊しかねないその勢いに、俺は小島の腕を掴んで止めた。

鋭い視線で射抜かれるも、有無を言わせず首を横に振る。

ふっと腕から力が抜け、小島は諦めたような表情でベンチに座り直した。

隣にかけられた松葉杖が痛々しい。

 

「どうした?」

 

どうも今夜の小島の様子はおかしい。

普通ならば、トラックに跳ね飛ばされて2週間のギプス装着程度で済むのならば願ってもないことである。大袈裟な話、半身不随にもなりかねない事故なのだから。

たしかに、空手家にとってこの怪我はかなり痛いものだ。

だが、2週間のギプス装着期間が済んで、ちゃんとした治療と療養を済ませば復帰できないこともない怪我であるのも、また事実。

往年のファイターではないのだから、そう悲観することもない。

だというのに、この意気消沈ぶりはどういうことなのか。

 

「いや、実はよ……」

 

小島の告白は驚愕に値するものだった。

なんと、5月16日――詰まるところ、小島の誕生日なのだが――に、部活の練習試合があると言うのだ。

小島は異例の一年生レギュラーで、それに出る予定であり、またこんな状態にあるにも拘らず実際に出る気なのだから驚きである。

 

「愚か者」

「そう言うと思った」

「馬鹿か……16日といったら2週間丁度だぞ? メンタル面もコンディションも最悪、おまけにその右足がどうなっているかも、ギプスを開いてみないと判らないんだ」

「勘弁してくれよ、それ、医者から何度も聞いた」

「だったら!」

「だからこそ……だ」

 

俺は小島の目を見た。小島も俺を見返す。

2人の視線が交錯し、ぶつかり合った。

瞳の奥に揺らめく決意の炎は凄まじく、中途半端な水や風では到底消えようものではない。

一体、何がこの男をそうまでして空手道に駆り立てるのか。

所詮、戦闘に役立つスキルのひとつという程度の認識でしか空手を学んでこなかった俺には、理解出来るものではなかった。

俺はひとつ溜め息をついて、

 

「わかった」

 

実際のところ、何も分かってはいない。

しかし、そう言わざるをえなかった。

 

「―――それで、何故、俺を待っていた?」

「いや、非常に言いにくいことなんだが…………」

 

言葉を濁す小島。

 

「言え。大抵のことならもう驚かない」

 

俺は胸を張って言ってやった。

なんとなく、そうした方が良いと思ったのだ。

だが、小島の返答は俺の予想を大きく上回っていた。

 

「いやな、闇舞に……稽古を付けてほしいんだ」

「…………は?」

 

小島の懇願に、俺はとぼけた返事をした。

 

 

 

 

 

――5月16日。

 

 

 

 

 

時が流れるのは早いものである。

気がつけばもう2週間は過ぎ去り、5月も中旬。

白い巨棟に背を向けて、俺と小島は風を肩で切りながら歩き出す。

小島の足にはもう……痛々しいギプスはない。ついで言えば、松葉杖も。

俺との夜間特訓が功をそうしたのか、それとも小島曰く「根性で治します!」が成功したのか、物凄い回復力で小島は右足の傷を治した。

もっとも、フルに実力を発揮するならば5分が限界。それ以上動けば、1分につき1時間のマッサージをせねば後遺症すら残るという話である。

5分内であっても、1分につき3倍の3分はマッサージせねばならない。

単純に数字だけ見ても、いかに5分の境界線の重要さが分かる。

 

「調子はどうだ」

「絶好調! ……ごめんなさい。嘘です」

 

笑顔で返答してくる小島を睨むと、案の定答えは変わった。

俺達が向っているのは聞いたこともない名前の学校。

これから、小島、ひいては俺も含めた空手部の練習試合を行なうのだ。

帰宅部の俺が空手部の練習試合に出られるものなのかと聞かれれば、1ヶ月限定で入部したと、堂々と答えられる。

学校の部活というものは、顧問の教師、ないし学校側が贔屓にしている流派がない限り、基本的に部員の扱う流派はバラバラだ。特にひとつの流派にこだわらない俺のような人間の方が、実際は都合がいい。

―――あの日、小島に稽古を頼まれて以来、俺達は夜、公園に集まって特訓を開始した。

活動限界時間の短い小島でも戦えるように、極端に言えば短期決戦型の戦術を教え、今の状態の小島でも差し支えなく繰り出せる接近後の連続拳を集中して鍛えさせた。

接近時の踏み込みはともかくとして、拳を繰り出す最中は踏ん張りが利くかどうかの問題で、その辺りは『左足一本で持ちこたえてみせる!』と、豪語したように、実際に練習してみて型になっていた。

あとはこれを、逃げ場のないライン際ギリギリで出せるかどうかだが……。

一応、吼破も型だけは見せておいたとはいえ、2週間かそこらの付け焼き刃戦術でどこまで通用するか、実際に戦ってみなければ分からないのが現状である。

 

「テーピング、きつくしとくか?」

「頼む」

 

こんなに頼りない小島を見るのは忍びなかった。

だからこそ、俺も試合の参加を申し込んだのである。

練習試合とはいえ、レギュラー5人参加形式の試合である。当然、待ったがかかったが、顧問の目の前でレギュラー4人(小島除く)、補欠1名、空手部員73名の計78人、三本勝負計234試合を行ない、全勝したことで急遽、一時的に参加を認めさせた。

1対78での乱取りや、複数組み手ならばともかく、1対1の試合ならばお互いに制約もあり、流派もバラバラという状況下で俺が負けることはまずありえない。

234試合もよくスタミナが続いたなと小島が大仰に驚いていたが、中2の時、別の組と抗争になった際、相手の親分の首を狩るために1週間飲まず食わずで尾行した俺にとっては、休憩ありの234試合は大した労働ではなかった。……いや、疲れたは疲れたが。

ちなみに、レギュラーとの試合では吼破は使っていない。

というより、2・3年生ともに、吼破を使わなければならないような実力者……つまり、期待の新人、小島獅狼ほどの実力者はいなかった。

 

「情けない」

「?」

「いや、気にするな」

 

苦笑を浮かべ、俺は小島の右足のテーピングをきつくした。

1日1時間のマッサージをかかさなかった結果、特に問題はなさそうに見える。

あくまで、今のところは、だが。

 

「行くか」

「ああ」

 

互いに道着の入った鞄を抱え、俺達は相手校への道のりを進んだ。

 

 

 

 

 

「……厄介だな」

 

たかが空手の練習試合になに熱くなってるんだという自嘲の意味も含めて、俺は敗北した中堅の肩を叩いた。

先鋒が余裕の一勝上げて、意気揚々と次鋒が向ったのが不味かった。

結果、惨敗。

そして中堅が向ったのだが、何故か戦う前から暗い面持ちのまま敗北してしまった。

ちなみに、この中堅が我が校の元大将である。

 

「そりゃ無名の一年に負けりゃ落ち込むはな」

「闇舞、それ逆効果だって」

 

よく意味の分からない補欠(先輩)の声に頭上に疑問符を浮かべつつ、俺は帯を引き締めて素足で畳の上を進んだ。

ちなみに帯の色は白。昇段試験を受けていないのだから当然である。

これで色があったら……実際、俺という存在を自分自身で疑わなければならない。

などと考えていると、相手方の副将と目が合った。

相手はあからさまに「一年かよ」な表情を浮かべ、フンッと鼻を鳴らした。俺が白帯であることも、嘲りの一因となっている。

 

「影山高校副将! 三年、『正道会館』流、笹沢椎名!!」

「オスッ!」

 

―――そんな名前だったのか。

ちなみに『正道会館』流というのはフルコンタクト空手の流派で、K−1を主催している団体として有名な流派でもある。

余談ではあるが、K−1の『K』とは、空手・キックボクシング・拳法の頭文字を取ったものだ。

 

「如月高校副将! 一年、『明心館』流、闇舞北斗!!」

「オスッ」

 

俺の流派は小島と同じ『明心館』流にさせてもらった。

もっとも、名乗ったからといって『明心館』流で戦うとは、誰にも言っていない。

 

「両者、構え!」

 

一応、構えだけは『明心館』流のものにはしておいた。

笹沢も『正道会館』流の構えをする。

 

「ほう……」

 

副将だけあって、なかなかの実力者だ。

構えだけで、それが分かる。付け入る隙がない。

 

「一本勝負、始め!」

 

審判が旗を降ろし、試合が始まる。

 

「でやああああああっ!」

 

気合も高らかに、笹沢が踏み込んで拳を繰り出す。

簡単に説明すると、これはフルコンタクト形式の試合で、顔面殴打・金的・頭突き・組技以外はすべてが有効という、『極真館』空手のルールを採用している。

相対的に、敵味方ともにフルコンタクト空手の使い手が多いための決断である。

さすがに『大道塾』空手とまではいかないものの、タックルなどの体当たり系統も、組技に繋げなければ許可されてしまう。

まあ、タックルなど危険極まりない技を出す気は毛頭ないが……。

 

「うらぁっ! ……りゃあっ!」

 

流れるように繰り出される攻撃は鮮やかですらある。

さすがに相手も副将だけあって、ひとつのレベルに到達しつつある。

とりあえず、ばれない程度に大東流合気柔術の体捌きで躱していった。

 

「あの一年何者だ?」

「笹沢先輩の突きを躱してやがる」

 

外野から情報を収集。

今の言葉から、やはりこの笹沢はかなりの実力者で、相手校……影山高校だったか?の空手部内のヒエラルギー中、文字通り副将にあたいするようだ。

早合点は禁物だが、大将との実力差は極めて少ないらしい。

必要なだけ情報を収集して、俺は構えを『明心館』空手のものから『松涛館』空手のものへと素早く移行する。

後味が悪いのでばれないように攻撃を躱しながら行ない、そのまま笹沢の背後にラウンドハイ・キックを見舞った。

 

「ぐっ!」

 

躱してばかりの俺に油断したのか、笹沢は受け身もとれずに地面に倒れ―――ない。

顔面強打の直前、俺は笹沢の手を掴んで、左腕の力だけで起こしてやった。

 

「大丈夫ですか?」

 

一応、学年は上なので敬語を使ってやる。

 

「あ、ああ……」

 

笹沢が青ざめながら礼を言う。

 

「い、一本!!」

 

審判が一瞬迷って、俺の旗を掲げた。

縁起の悪いことに、旗の色は白かった。

 

 

 

 

 

10分の休憩を挟んで大将戦は行なわれることとなった。

急遽、相手方が提示してきた条件である。

まぁ、事実上如月高校空手部(あくまで形式上)最強の実力者が副将に甘んじていれば、次の大将はもっと強いやつだと思われるのも当然である。

今回の練習試合におけるメンバー表は、俺が今回顧問に提示したものだ。

一応、一通り如月学園の空手部部員全員と戦ってみて考えるに、我が校最強の空手家は小島獅狼その人に違いない。

その結果ゆえの結論である。当然、顧問は小島の怪我のことを持ち出したが、夜間の特訓で手負いの小島と何度も戦ってみて、やはり手負いでも小島の方が強いという結論が出た。

実際に他の部員から聞いてみると、小島と2・3年生レギュラーの勝率は8割7分だという。

さて、形式上とは言え師である俺が、一応、弟子である小島を放っておいて何処にいるかというと、影山高校の校門前である。

 

「……出てこいよ」

 

俺の言葉に、気配がビクリと動いた。

先刻から影山の校内に出たり入ったり……入ったとしても、道場の前をうろうろして、入り口から覗いたら覗いていたで小島に心配そうな視線を送りつつ、どうしていいか分からないといった溜め息を洩らしていた、“愚か者”の気配である。

俺はひとつ溜め息をついた。

 

「誰にも気付かれないうちに出てきた方が身のためだぞ」

「あう……」

 

不思議な擬音を発して、校門傍にある電話ボックスの影から出てきたのは予想通りというか何と言うか……夕凪だった。

 

「素直に見に来いよ」

「だ、だってあたし、べつに空手部のマネージャーとかじゃないし……」

「そういう問題か? 自分の、高校の、空手部の練習試合を応援しに来て、何の不都合がある?」

「あるよ……そりゃあ……」

 

ひとつひとつの単語を強調して言って、夕凪は言葉を濁しながら答えた。

俺は右手に巻いた腕時計を見た。

休憩時間は残り5分。早めに話をつけておきたい。

 

「どんな理由があるというんだ?」

「それは……」

「明確な回答、なし」

 

俺は夕凪の手を取った。

 

「行くぞ」

 

グイと引っ張ってやる。

しかし、夕凪は動かなかった。

強情なやつだ。

 

「……夕凪、お前、空手に打ち込んでいる時の小島のことをどう思う?」

「え……?」

「正直に答えてくれ」

「えっと……うん、一生懸命……だとは思うよ」

「次の質問だ。確認のために訊いておくが、お前は、小島のことが好きなんだよな?」

「え、あ、う、うん…」

「では、小島のどんなところが好きなんだ?」

「それは……」

 

1分ほど沈黙が続く。

これほど居心地の一分間を、俺は知らなかった。

 

「答えられないよ、そんなの……」

「それは何故だ?」

「だって……あたしは、ワンちゃんの……獅狼の全部が好きなんだもん。いつからかは分からないけど、小島獅狼っていう人の、全部を好きになっちゃったんだもん」

「全部……か。ならば、それはあいつが懸命に空手に打ち込んでいる姿も指すな?」

「……うん」

 

控えめに、けれども力強く夕凪は答えた。

 

「ならば、なおのこと行くべきだ、夕凪春香。あいつはこれから……怪我も完治していないのに、戦いに臨もうとしている」

 

怪我という単語に、夕凪が一瞬ビクリと肩を震わせる。

俺は左腕に力を篭めてそれを抑えた。

 

「空手を習得すべきスキル……就職の際に役立つ資格程度にしか考えていない俺には分からないが、あいつにとって空手というものは、もはや生涯を賭してでもやるべき価値あるものなんだ」

 

夕凪が両手で耳を押さえる。

俺は夕凪の両手を握って手を離させた。

夕凪の細腕を、80キロを超える握力が締め付ける。

 

「その姿を見てやってほしい。先日の俺の言葉は無視して、あいつの姿を見てやってくれ」

 

ふと時計を見ると、移動時間を考えればとうに30秒を切っていた。

俺はぱっと夕凪の両手を離して、道場へと向った。

 

 

 

 

 

「……しまった!」

 

道場に戻ると、すでに試合は開始されていた。

今のところ小島が優勢に見えるが、10分もの休憩を挟んで立てた作戦がすでに終了し、小島に破られているとは思えない。

連中も小島が先日、右足を負傷したことぐらいは知っているだろう。

相手側の狙いはほぼ右足に集中していると見ていい。

 

「……っ!」

 

相手側の大将が一歩後ろに下がる。

ライン際ギリギリの連続拳はこの2週間でみっちりと叩き込んだ。ここですぐに攻めていくのがセオリーではあるが、小島は慎重だった。

すぐには相手を追わず、右膝を曲げて左足で相手を蹴り、場外負けを狙った。

切り札は最後まで取っておく……ではないだろうが、正しい判断だ。これで勝ちを貰えればそれに超したことはない。

 

「ぐっ」

 

踏み込む際に浮かべた苦悶の表情が痛々しい。

蹴る際に右膝を曲げて衝撃を緩和したようだが、それでも蹴る足ほどではないとはいえ、軸足への衝撃は相当なものなのだろう。

すでに試合開始から1分が経過していた。

 

「がっ!」

 

一方、小島の蹴りを食らった相手は場外越えこそなかったものの、ライン際ギリギリに追い込まれた。

1回の蹴りで安心したのか、小島が一気に攻めようとする。

 

「やめろっ!!」

 

俺は大声で叫んだ。

小島がピタリと踏み込むのを止め、チラリと俺を一瞥する。

大将の口元が、苦々しく歪んだ。

やはり相手側は何か狙っている。

それも、急ごしらえとはいえ、今の小島の体にベストな戦術を踏まえて、だ。

大将が体勢を立て直し、踏み込む。不自然なくらいに綺麗すぎるストレートだ。

必要最低限の体捌きで繰り出された拳を躱し、脇腹に拳を見舞った。

やはり不自然なくらいに吹き飛び、ライン際で立ち直す。

これにはさすがに小島も小首を傾げた。

 

「早まるな!」

 

しかし、今度は周りの歓声に掻き消され、俺の声は小島に届かなかった。

 

「おらあっ!」

 

小島が踏み込んで、拳を放つ。

右ストレート。

一撃目はダメージ覚悟の攻撃なので仕方がないが、苦痛に顔を歪める。

しかし、二撃目以降は足はそのまま、リーチも短く繰り出した連続拳だった。

繰り出す際のモーションを考えて、フックやアッパーカットに通じる技はなるたけ控えている。

大将はそれを寸前のところで流し、捌き、防いでいたが、途中、何発か食らってしまう。大将の体がゆらりと仰け反った。

しかし、その瞬間に見えた大将の、不適な笑み。

 

「待て、小島!」

 

しかし、またも俺の叫びは掻き消された。

それに気付かず、小島が拳を繰り出して―――時が止まった。

 

「!?」

 

一瞬、小島自身もわけが分からなかったことだろう。

大将は小島のモーション中の僅かな時間で体捌きを応用して、ラインを越えぬよう小島の背後へと回った。

小島も機敏にそれに反応し、向き合う。

形勢逆転。

小島はライン際に追い詰められ、大将が拳を振り上げた。

ふと、道場に新たなる気配が入ってくる。

俺は試合に気を配りながら、入り口を見た。

―――夕凪だった。

白熱する試合に集中して、観戦者は誰も彼女の“存在”に気付いていない。

 

「……最悪だ」

 

呪詛の言葉を吐き出し、ふと、時計を見てみる。

時間はもう2分を過ぎており、あと3分で小島は活動限界を迎えてしまう。

マッサージのことを考えると、1分は余裕を持っておきたかった。

 

 

 

 

 

試合は攻守を逆転して、今度は獅狼が攻められる側になっていた。

手負いの獅狼に、大将の拳を捌くことは不可能に近く、ブロックするにも、足の踏ん張りが利かない以上、そう長くは保たない。

それでも、獅狼はブロックを選んだ。

流しや、捌きよりは、膠着時間の長いブロックの方が、起死回生のチャンスはあると踏んだのである。

獅狼は冷静だった。

しかし、その冷静な獅狼をして気の動転するような事態が目の前で起きた。

相手の隙を探るべく、舐め回すように視線を這わせていた刹那、入り口に、春香の姿を見てしまったのである。

それは一瞬、まさに一瞬の一瞥にすぎなかった。

その一瞬の間、獅狼の思考は停止し、今まで上手くブロックし続けていた両手が悲鳴を上げた。

 

(―――なんで、なんで春香がここに!?)

 

そんな思いを馳せつつ、獅狼は倒れようとする自身の体を必死に支えた。

1歩だけ踏み込んで、前のめりに赤いテープから離れることに成功する。

歓声が上がって、獅狼を褒め称えた。

大将が苦々しく破願する。

『よくやった』という歓声を受けながら、獅狼は心中穏かではなかった。

場外負けという最悪な事態は回避できたものの、唯一の戦術であるライン瀬戸際の戦いが封じられた以上、最悪の状況はまだ続いている。

敗北の二文字が頭にチラついた。

 

「りゃああああああっ!」

 

大将が蹴りを繰り出す。

何度も対戦した北斗のものよりは数段劣るが、それでも、今の獅狼にとってそのスピードは脅威だった。

だがふと、攻撃を寸前で避ける獅狼の脳裏に、北斗が放った“あの技”がよぎった。

あの夜間特訓の際にも、獅狼はあの技を何度か見せてもらっている。

北斗が言うには―――

 

「『明心館』空手が奥義……吼破。その者が持てる最強の一撃を、最高の条件で繰り出す技だ。如何なる状況をも粉砕するパワーか、如何なる状況をも切り抜けるテクニックの必要な技だ。まぁ、両方あるにこしたことはないがな」

 

今の自分の状況を冷静に見詰める。

今の自分……踏ん張りの利かない自分が出せる、最強の一撃―――。

 

(あるぜ……!)

 

獅狼は奮起した。

弱音を吐こうとした己を一喝し、大将に牙を剥いた。

 

「はああああああっ!」

 

思わぬ獅狼の反撃に、大将がビクリと体を震わせる。

 

(あるぜ、北斗!)

 

「今の俺に出せる最高の一撃がな!!」

 

試合開始からすでに3分。獅狼の活動限界まで、あと2分を切っていた。

 

 

 

 

 

「ひどい……!」

 

夕凪が口を覆う。

しかし、目は逸らさず、試合を一心不乱に見詰めている。

そばまで駆け寄った俺は、夕凪を道場の中に招いた。

やっと夕凪の存在に気付いた顧問が怪訝な顔をするが、

 

「小島の彼女です」

 

と、言ってやった。夕凪が顔を真っ赤にする。

もう後には引けないな、と内心で細く笑みを浮かべつつも、俺は劣勢の状況に焦りを感じていた。

しかし、その時――――

 

「はああああああっ!」

 

小島が嘶いた。

拳を繰り出し、相手の大将を吹き飛ばす。

おりしも、中国拳法・形意拳の、崩拳にも似たシンプルだが強力な一撃だった。

相手方の大将が激昂し、拳を繰り出す。

小島が再びライン際に追い詰められる。

だが、先刻よりもいくぶんか余裕があるように見受けられた。

 

「―――なにか狙っているな」

「え?」

「小島は頭のいい男だ。普段、勉強などではその頭脳を行使していないが、こと空手に関してはそのすべてを行使している。そのあいつが、あの状況下で反撃し、再び追い詰められるという失態を冒すはずがない。あの反撃の一撃は、別の策に通じているに違いない」

 

一瞬、俺の顔を夕凪が不思議そうに見詰めた。

だが、それに構っている余裕はない。

俺は小島の狙っている策の正体を見極めるべく、五感を研ぎ澄ました。

そして、ひとつの可能性に思い当たった。

 

「―――まさかあいつ!」

 

試合開始からすでに4分。

小島の活動限界も、近付こうとしている最中のことだった。

大将が、今までの小さなモーションから、一際大きなモーションを掲げた。

この一撃に、全体重を乗せる気である。少しだけ後ろに下がって、踏み込みに充分すぎるほどの距離をとる。

しかしこの瞬間、小島もまた少しだけ前に距離をつめて、拳を繰り出すモーションを仕掛ける。

大将が拳を繰り出した。

コンマ01秒後れて、小島も拳を繰り出す。“倒れ込む”ように、小島は踏み込んだ。

2人の腕が空中で交差して―――大将が吹っ飛んだ。

 

「があっ!?」

 

下手をすればラインすらも完全に越えてしまうかという勢い。

ラインぎりぎりの地点で踵を引っかけて、大将は仰向けに倒れた。

しかし、小島のダメージも甚大であった。

 

「小島ぁっ!」

 

慌てて小島の元に駆け寄る。

右足がドクドクと痙攣を起こしていた。

ホワイトボードに書かれた小島獅狼の名前の横に、白星が記された。

 

 

 

 

 

「…………まぁ、色々聞きたいのは山々なんだけどよ」

「―――言ってみろ」

「まず、ここは何処だ?」

「影山の保健室」

「次に、試合はどうなった」

「お前の白星」

「最後に……これがいちばん重要なんだが、なんで、春香がここにいるんだ?」

 

小島の質問に小首を傾げて答えてやる。

今の小島と夕凪の構図をデッサンしたら、万人が万人、2人の関係をひとつの方向へと邪推することだろう。

涙で目の辺りを赤く腫らして、夕凪は安らかな寝息を立てつつ、椅子に腰掛けて小島のベッドで眠っていた。

 

「んん……」

「―――じゃ、そういうことで」

 

夕凪の覚醒が近いことを察して席を立つ。

さすがにこれ以上ここに留まるのは野暮というものだろう。

 

「あ、闇舞!」

 

扉のノブに手をかけたところで、小島が引き留める。

個人的には早々に退散したかったのだが、俺はゆっくりと振り返った。

 

「えっと、サンキュな」

「貸しひとつだな……」

 

それだけ言って、俺は保健室を早々に退散した。

 

 

 

 

 

「少し……寝ちゃった」

 

春香は目を擦りながら起き上がると、自分の右手に巻かれた腕時計を見て時間を確かめる。

 

「もう、こんな時間なんだ」

 

時刻は3時23分。

練習試合は11時半から12時までの30分で終了したので、それなりに時間は経過している。

 

「今、何時だ?」

「3時23分だよ」

「そっか……いや、まいったまいった。ここの時計、さっきから全然動かないからな……自慢の腹時計で時間を測ろうにも、なにも入ってないからずっとグゥグゥ言ってるし」

「あ、あたしもお腹空いたな……って」

 

何かおかしいということに気付いた春香は、獅狼の顔と右足を交互に10回ほど見詰めて、さらに目をパチクリさせる。

そして次の瞬間、目尻に涙を浮かべて破顔した。

 

「とりあえず、おはようさん。春香」

「わ……わんちゃぁ……」

「いや、こんな状況でもワンちゃんかよ…」

 

そのチャレンジャー精神に呆れつつも、獅狼は笑顔で春香の頭をポンポンと叩いた。

それからすっと動いて、泣きじゃくる春香をそっと抱き締める。

絡めた腕は徐々に篭める力を増していき、いつしか春香も腕を絡めていた。

 

「ま、色々心配かけた」

「ほ、ホントだよ……」

「と、とりあえず盛大に感謝。……それから、ゴメン」

「うん……うん……」

「んで、最後に―――」

 

獅狼はコホンと咳払いして、

 

「えっと……まぁ、色々思うところもあったわけだが……とりあえず俺からは一言」

「?」

 

涙で赤く腫らし、潤んだ瞳を上目遣いに見上げる。

ツンッと、獅狼の鼻を女の子特有の甘い香りがくすぐった。

一瞬、クラッときて、ここが他校の保健室であることすら忘れてしまいそうになるのをぐっと堪え、獅狼は春香の目を見て言った。

 

「まぁ…こんな俺だし、色々迷惑かけるのも必至だと思うが……これからもよろしく、春香」

 

あれだけ北斗にそそのかされてなお、遠まわしに獅狼は告げた。

しかし、長年の付き合いからか、はてまた女の感性ゆえか、春香にはしかとその意味は通じたようだ。

頬を紅潮させて、彼女は俯き加減に頷き、獅狼の厚い胸にそっと顔を埋めた。

 

 

 

 

 

「えっと……初めまして。闇舞留美です」

 

いささか緊張しつつ、控えめな留美の自己紹介に周りが湧き立つ。と言っても、今、ここ――夕凪の屋敷だが――には、俺、小島、夕凪そして留美と、数名の使用人の方々しかいなかったが。

 

「よろしくね、留美ちゃん」

「くぅぅ……闇舞に似ずなんて可愛い娘なんだ」

「……小島、一度死んでみるか?」

 

殺気を放って小島を脅すと、小島は冷や汗を浮かべつつ首だけで振り向いた。

―――自覚はないが、俺はそれほど恐ろしい表情をしているのだろうか?

小島は異常なまでに脂汗を浮かべ、自由に動かない右足を引き摺って逃げようとしている。

 

「いやヤンミ、本気で恐いから……」

「兄さん、顔が地獄の悪鬼羅刹みたいだよ」

 

失礼な連中である。

あまりにも失礼な態度をとるので、俺はヤクザ時代によく使った、ドスの利いた声を発して言う。ついでに指をパキパキ鳴らしながら。

 

「お前達……Dead or alive ?

『あ、あらいぶ……』

 

ガクガクブルブルと震えながら、3人はほぼ同時に頷いた。

周囲にいる使用人の方々も顔を引き攣らせている。

……そんなに恐いのだろうか?

 

「まぁ……いい」

 

怒りの牙を鞘に納めつつ、俺はテーブルの上に置かれたブランデーのボトルを一本、無造作に取り出した。

少し離れたテーブルに、ワイングラスもいくつか置かれている。

グラスを手に取って、改めてボトルを見てみると、ブランデーはレミーマルタンのルイ13世という、驚愕に値すべき代物だった。

 

「あ、ヤンミいけないんだ〜」

「闇舞、だからお前、未成年だろ」

 

夕凪に支えられながら、小島も毒づいてくる。

先刻の復讐という意味合もあるのだろう。ニヤニヤと怪しい笑みを浮かべながらのそれは、まったくと言っていいほど説得力がない。

ただ、今回ばかりはあちらが正論なので、こちらとしては何も言いようがない。

こういった場合は無視にかぎると、俺はボトルの口を開け、クリスタルグラスに琥珀色の液体を注いだ。

豊潤な香りが、辺りに漂う。

アルコールには疎い留美も、「いい臭い……」と、賛辞を贈っていた。

俺は13世を口に含んだ。

まったく抵抗なく、まろやかなモルトが食道を滑り落ちる。

その美味さは、とても口では言い表せない。

 

「美味い……」

「うわぁ……闇舞が笑ってるよ」

「ホント、あたし、ヤンミのあんな顔見たことないよ」

「兄さんはお酒にしか反応しない人なんです。まるでお酒が恋人みたいに」

 

外野が五月蝿いが、すでに俺の耳には届いていない。

2杯、3杯と口に含んで、俺は再びテーブルの上に整列したボトルを見た。

 

「カミュのシルバーカラ……」

 

1本20万もする、超極上のブランデーだ。

俺は、自然に顔が綻ぶのを感じた。

 

「……ああして見ると、ヤンミも普通の男の子なんだけどね」

「つーか、あの歳であそこまで酒に反応するってのは……」

「私はいつ、兄さんが警察の厄介にならないか心配です」

 

 

 

 

 

夕凪家の大ホールから少し離れた場所に、外の景色が見れる小さなテラスがある。

人三人がやっとこさ立てるようなスペースしかないそこは、広大な夕凪家の敷地を一望できる位置にあり、日によっては夜空の天球さえ広く展望することができた。

先程から酒に入り浸っている北斗を放って、獅狼と春香はそこにあった小さな椅子に腰掛け、北斗には内緒で持ち去ったクリスタルグラスとボトルを手摺に置いた。

北斗があまりに美味しそうに飲むからと、春香がくすねてきたルイ13世である。

アルコール初心者の2人は、クリスタルグラスの3分の1ほどに注いで、チンとグラスを鳴らせた。

 

「キミの瞳に乾杯」

「あはは、似合わないよ〜それ」

「……今、俺もそう思った」

 

お互い笑い合い、グラスを傾ける。

ぐっと一気に飲んで、同時に噎せ返った。

 

「な、なんだこれ!?」

「ヤンミって、いつもこんなの飲んでたの!?」

 

2人は驚愕の表情を浮かべつつ、今もなお至福の表情で酒を楽しむ少年の姿を思い浮かべた。

普段とのギャップが激しすぎるせいか、2人は同時にぷっと吹き出す。

あまりのタイミングのよさと、同じ事を考えていた事実に、また2人で笑ってしまった。

 

「あ、そうそう」

「ん?」

「はいこれ、お誕生日おめでとう!」

 

あらかじめ用意していたのか、傍にあった紙袋から包装された箱を2つ取り出し、そのうちの大きい方を獅狼に手渡す。

獅狼は春香と箱を交互に見詰め、「開けてもいいか?」と言った。

春香が頬を紅潮させながら頷く。

やや不格好な包装をゆっくりと紐解き、中から出てきた物を獅狼は慎重に取り出す。

 

「これ……」

「えへへ、あたし、こういうのあんまり詳しくないから苦労したんだよ?」

 

中に入っていたのは格闘用のグローブだった。

合成皮革ではない本革製のものだ。

ボクシング用のものほどではないにしろ、獅狼の手の大きさを配慮して選び、さらに調整されたと思わしき薄手のグローブはそれなりに大きい。

 

「嵌めてみても?」

「うん、いいよ」

「じゃ、遠慮なく」

 

グローブは実際に嵌めてみて、初めてその質感などを確かめることが出来る。

左右ともにジャストフィットしたグローブの感触を確かめるように、獅狼はグーパーを繰り返した。

 

「……ぴったりだ」

「ホント?」

「ああ。……よく、俺のサイズ分かったな?」

「もう、何年幼馴染やってると思ってるのよ」

「違いねぇ」

 

獅狼はニヤリと笑みを浮かべた。

嬉しそうにグローブを露出した指先で撫で、2・3度拳を突き出す。

 

「サンキュ、大事に使わせてもらう」

「ふふふ、大事に使ってたら意味ないよー」

「違いねぇ」

 

お決まりの文句を言って、獅狼はグローブを外した。

 

「―――それから、これは」

 

春香がもうひとつの、小さな方の箱を持ち出す。

「開けて、開けて」と目で語っている春香に応え、獅狼は包みを開いた。

中に入っていたのは……少しだけ不格好な包装と同様に、少しだけ崩れたチョコレートケーキ。

 

「あたしが作ったの……初めてだから、あんまり期待しないでね」

「いや、そりゃ期待するって」

「一応、ヤンミに手伝ってもらったから大丈夫だと思う」

「……あいつには世話になってばかりだな」

「ふふっ、ホントだ」

 

今にしてみれば、闇舞北斗という人物がいなかったら今の自分達はありえなかったかもしれない。

闇舞北斗というお節介焼きの蛇がいなかったら、2人は幼馴染のままだったかもしれない。

 

「お、結構美味いぜ、これ」

「ホント!?」

「ああ」

「よかったぁ」

「お前も一口食ってみろよ」

「え、いいの?」

「ああ…」

 

そう言って、獅狼はフォークで一切れ口に含み、もう一度フォークで一切れを春香の方へと持っていく。

 

「じゃ、じゃあ…いただきます」

 

そのまま春香は、その可愛らしい唇をケーキの欠片に持っていこうとして―――止まった。

 

「んんっ!?」

 

あろうことか、獅狼は差し出したフォークを引っ込め、春香の唇を奪った。

先刻自分が頬張ったチョコレートケーキを口移しで春香の口内へと運ぶ。

拙い舌使いだったが、苦労してそれは春香の口へと放られた。

しかし、春香はチョコレートケーキを味わうどころではない。

突然のキスに目を見開いて、顔を真っ赤にして、呼吸すらも止まっていた。

獅狼が唇を離す。

 

「し、獅狼……?」

「う、うううう美味かったか?」

「う、うん」

 

獅狼も獅狼で相当な冒険だったのだろう。

春香に負けず劣らず顔を真っ赤にして、動揺していた。

慌てて体ごと振り向き、春香に背中を向けながら残りのケーキを食べる。

 

「ね、ねぇワンちゃん……」

「な、なんだよ!」

「今の、も一回……」

「ば、バカァッ! あ、あああああんなの、勢いに任せなきゃできねぇよ」

 

最後の方は小声だったが、春香にはしっかりと聞こえていた。

頬を紅潮させながらも笑いながら、

 

「ねぇねぇ、もう一回」

「む、無理だって! も、もう全部食っちまったし」

「あ、冷蔵庫の中にまだあるから」

「……か、勘弁してくれぇ」

 

優しく月光に照らされながら、2人の掛け合いはしばらく続いていた。

 

 

 

 

 

「―――ねぇ、兄さん」

「ん? どうした、留美」

「うん…。ちょっと、疑問に思ったんだけど……小島さんって、試合中思いっきり劣勢だったんでしょ? 場外ギリギリまで追い詰められて……しかも手負の状態。それで放った正拳が、どうして逆転するほどの威力になったの?」

 

俺という戦闘者が身近にいるためか、留美はたまに思わぬ質問をしてくることがある。

以前、おもむろに見ていた相撲の試合で、「相撲取りの人って実際に強いんですか?」と聞かれて、2時間ばかし説明してやった記憶はまだ新しい。

俺は『腰の曲がった老婆』というポルトガル産のブランデーのボトルを置いて、留美に向き直る。

 

「―――たしかに、手負いで、踏ん張りの利かない小島の拳が、仮にも影山の大将に通じるとはにわかに信じられないだろうな……だが、それがカウンター・パンチだったら、どうだ?」

「あ……」

 

留美は何かに思い至ったかのように声を上げた。

俺はクリスタルグラスに残ったブランデーを一気に口に含んだ。

カウンター・パンチは、相手の体重+自身の体重、そして2人の加速度プラスアルファが加わることで、超弩級の破壊力を生み出す、ボクシングでは高難易度のテクニックである。

相手の、全体重をのせての一撃と、自分の全体重をのせた一撃を、相手よりも素早く繰り出さねばならない。

あのタイミングで、影山の大将はモーションを大振りにしすぎた。

対照的に、小島の攻撃のモーションは短かったが、消耗していたこともありちゃんと全体重ののった一撃が、相手よりも素早く極まったわけである。

 

「俺は以前、小島に吼破を放ち、夜間特訓の際に一応の説明をしている。『最強の一撃を最高の状況で繰り出す!』……それが、吼破の第一前提だ。だが、この説明には、最強の一撃というのは、その日のコンディションによって大きく変わってしまうことに留意しなければならない。あの時の小島の状況は、まさにそれだった。あいつは、吼破の第一前提である『最強の一撃を最高の状況で放つ!』を、カウンター・パンチとして放ったんだ」

「でも……なんでカウンター・パンチが吼破に?」

「カウンター・パンチほど吼破にしやすい技はない。カウンター・パンチは、カウンター・パンチとして成立した時点で、『最高の状況』を満たしているわけだからな」

 

グラスの中のブランデーを空にして、新しいボトルを開ける。

余ったボトルは、そのままお持ち帰りをオッケーされたので、しばらくは夜は困らないだろう。

 

「……変わったね、兄さん」

 

不意に、留美がそんなことを言った。

一瞬、なんのことか分からず思考が途絶えたが、省みるに、たしかに俺は変わったことを自覚する。

知らず、自虐的な笑みが浮かんでいた。

 

「ああ……たしかに変わったな、俺は」

「よく笑うようになったよ。うん、いい意味で変わった」

 

裏社会では『killing child』と呼ばれている俺が、こんなにも笑みを浮かべる日がくるとは思いもよらなかった。

それも表面上ではない。心の底からの、笑みが……。

 

「まだまだ大半は微笑とか苦笑だけどな」

「うん……でも、それも少しずつ変わっていくよ、きっと」

「……だと、いいな」

 

心からの俺の呟きは夜風に流れ、掻き消されていった。

 

 

 

 

 

――1959年11月27日。

 

 

 

 

 

「ひとりで、それも深夜の公園で、女性がたったひとりでそうしているのはどうかと思うんだがな」

 

俺の言葉は冬の風に流され、凛として彼女に届いた。

 

「ご心配なく。これでも、そこいらのチンピラ程度には負けない自身はありますから」

 

俺のひとつ下の学年で、後輩でもある彼女は、見た目から推察される年齢からは縁遠い、背筋がゾクリとするような妖艶な笑みを浮かべた。その仕草や物腰は、とても10代とは思えない。

そしてなにより、彼女から感じる……人外の、気配…………。

 

「闇舞北斗」

 

自然と、ホルスターののブローニング・ハイパワーにかける力が強まった。

あろうことかセフティを解除した状態でトリガーを引き絞りそうになり、慌てて力を抜く。

 

「5千万相当のダイヤ及び5千万相当の金塊、それから、1億5千万円の紙幣に5万ルーブル、45万ドル紙幣をお渡し致します。また、上質の住居に今後の生活の保証。無論、学費の面倒も見ましょう。この他にも色々ありますが、これで、手を打ってもらいたいことがあります」

 

異常なまでの優良待遇に裏があるのではと、思わず疑ってしまう。

普通の金銭感覚の持ち主ならば当然であろう。

5万ルーブルも45万ドルも、換算すれば約1億5千万円。

総計すれば、約5億5千万円もの資金をたかが一高校生にくれるというのだ。これで疑わない方がおかしい。

 

「―――一応、話だけは聞こう」

「ありがとうございます。……実は、私はある組織のエージェントなんですよ。それで、あなたにはその組織に入ってもらいたいんです」

「……その組織の名は?」

 

彼女はニッコリと可憐な笑顔を見せて―――

 

 

 

 

 

「私達は〈ショッカー〉です」

 

 

 

 

 

後に俺が参加することになる、地獄の軍団の名を告げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

〜あとがき〜

 

真一郎「今回も設定なしかよ」

タハ乱暴「いや、書くことないでしょ?」

タハ・ランボー「あるだろ。『明心館』空手の歴史とか、吼破についてとか」

真一郎「そうそう。『松涛館』空手についてとか大山大先生についてとか」

タハ乱暴「あんたらは俺を過労死させる気ですか?」

タハ・ランボー「人が死なない戦争なんてないさ……」(夕陽をバックに)

タハ乱暴「あんたはいいわ」

タハ・ランボー「なにおうっ!仮 にも自分の一部分に対してその一言!!」

トゥアハ・ランボー「そうだそうだー!!」

タ波乱ボー「そうだそうだー!!」

真一郎「なんか増えてるし……」

タハ乱暴「いや、もはや自分で自分のことが分かりません……ハイ! 外伝第5話、いかがでしたでしょうか?」

真一郎「今回は闇舞さんの過去編だな」

タハ乱暴「はい。外伝世界において北斗には空白の2年間があるんですよ」

真一郎「ああ、ヤクザ組織を壊滅させてフリーになってから、〈ショッカー〉に入るまでな」

タハ乱暴「はい。今回はその空白の2年間にスポットを当ててみました」

タハ・ランボー「徐々に明らかになっていく北斗の過去! そして、海中で死亡した北斗はどうなってしまうのか!?」

タハ乱暴「煽ってる、煽ってる」

真一郎「いや、実際、闇舞さんこれからどうなるんだ? ハカイダー02っていう姿で本編に登場している以上、このまま死んじまったらおしまいだと思うんだけど」

タハ乱暴「昔の東映で大きく終と出したい状況ですね」

タハ・ランボー「―――って、終わっちまったら“アレ”が出せないだろ!」

真一郎「“アレ”?」

タハ乱暴「企画段階の“アレ”ですね。あんまり出したくないんですけど」

真一郎「だから“アレ”ってなんだ!?」

タハ・ランボー「北斗専用マシーンだ」

真一郎「……は?」

タハ乱暴「劇場版(!?)登場予定のな」

真一郎「…………はぁっ!?」

タハ・ランボー「では、Heroes of Heart外伝第5話、お読みいただきありがとうございました!」

タハ乱暴「では、次回もまた!!」

真一郎「ちょっと待て! 劇場版ってなんだ〜!?」

タ波乱ボー「予定ではカ○ンとか、メ○オフとかも出すんだよな〜」

トゥアハ・ランボー「まったく!あの男にまとめきれるんだろうか?」

タハ・ランボー「路線としては2パターン考えているらしいぞ」






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