――聖ヨト暦三三〇年、エクの月、緑、ふたつの日、朝。

 

前日に柳也が予告した通り、その日の訓練は第一詰め所と第二詰め所の面々を引き合わせることから始まった。

「全員注目してくれ」

柳也は主に第二詰め所の面々に向かって呼びかけた。

彼の目の前ではすでに第一詰め所と第二詰め所の面々が整然と列をなしていた。

スピリット同士すでに面識のある者も多いようで、こちらの顔合わせはさしたる混乱もなく済みそうだった。

問題はこちらだ、と柳也は自分の両隣に交互に目線を配った。

スピリット達の対面に立つ柳也の左隣には緊張した面持ちの悠人が、右隣にはリリアナ・ヨゴウを始めとしたラキオスのスピリット隊の訓練士が肩を並べていた。訓練士の顔ぶれには他にセラス・セッカや、つい二日前にラキオスに到着したばかりの壮年の槍使いキード・キレの姿もある。

今日の午前の訓練では、彼らラキオスの訓練士とSTFの顔合わせも目的の一つとしていた。

顔合わせの司会進行役は第一詰め所、第二詰め所の両方に顔が利き、リリアナ・ヨゴウとも親しい柳也が執り行うことになった。

「それじゃあまず、俺達のボスを紹介しよう」

柳也は左隣を振り返り、それから対面するみなの顔を見回した。普通なら緊張に冷や汗のひとしずくでも流しそうな状況にあって、その表情はどことなく楽しそうだ。

柳也の言葉を受けて悠人は一歩前に出た。

途端、みなの視線が彼に集中する。その多くは好奇心からくるきらきらとした眼差しだったが、悠人を半歩退かせるのに十分な威力を持っていた。

自分から名乗りを上げようと開きかけた口が、途中で閉じてしまう。

緊張に身を硬くした友人の様子を見取った柳也は、大振りのジェスチャーで彼を示した。

彼の緊張を解くため、あえて茶化した口調で言う。

「こちらにおわすお方こそ先の副将軍……」

「いや、そんなネタふりはいいから」

お約束な前振りで自分を紹介しようとする柳也に、悠人は待ったをかけた。

柳也はすかさず、ニヤリと笑って反論する。

「何を言うか? 俺だって好きでこんなネタふりをしたわけじゃあないぞ。お前の緊張をこり解そうとしただけだ」

「嘘をつけ! 絶対に楽しんでるだろ、お前? ……それに、ネタふりにしたって異世界人相手にご老公は通じないだろ?」

「それもそうだな。じゃあ……最初に言っておく! 特に言うことはない!」

「悠人繋がりかよ。もっと駄目だろ、それ。第一、読みは一緒でも字が違うだろうが、字が」

「字だあ? 俺はそんなの気にしない。……というわけで、悠人、ピーマン、食べた?」

「……しいたけじゃないのか」

悠人はまだ訓練を始めていないにも拘わらず、がっくり、と力なく肩を落とした。みなの前で自己紹介しなければならないという緊張は完全に消え去っていた。しかし代わりに、柳也の言葉がもたらす途方もない疲労感が、悠人の双肩を重くしていた。

他方、ご老公のネタも、デネブのネタも理解出来ない有限世界の住人達は、そんな二人のやり取りを呆然と眺めていた。

柳也は、くっくっ、と大声で笑い出すのをこらえながら、目の前のみなを見回した。

ぐっ、と拳を作って、

「……うし。いい感じに空気が冷えたぞ」

と、大塚芳忠の声真似をしながら呟いた。

「お前なぁ……」

そんな彼の隣で、悠人は深々と溜め息をついた。

それから、ふっ、と真顔になると、悠人は柳也の耳元で、彼にだけ聞こえる声で囁いた。

「サンキュな、柳也」

「……いいってことよ」

耳元で紡がれた言葉に、柳也は優しい笑みを返した。

見つめ返す悠人の顔は、まだ少しぎこちなかったが、十分な自信に満ちていた。

悠人は改めて目の前のスピリット達の顔を見回すと、ゆっくりと口を開いた。

「高嶺悠人だ。正直、なんでこんなことになったのか自分でもよくわからないけど、この部隊の隊長をすることになった。隊長といっても、まだまだ新米だから頼りないところもあるだろうけど、よろしく頼む」

悠人はそう言って軽く頭を下げた。

自己紹介としては非常に簡単なものだった。ラキオスに召還された伝説のエトランジェの名前と活躍については、ここにいるみなが知っていることだから、たしかに今更多くを語る必要はない。

柳也としては、悠人にはここで訓示のひとつでもぶってもらいたかったが、本人自ら口にしたように、彼はまだまだ新米の隊長だ。初めての自己紹介で、さすがにそこまでは求められない。

悠人の簡単な紹介が終わって、柳也は続いて右隣の訓練士達を振り返った。

リリアナ・ヨゴウ、セラス・セッカと続き、最後に柳也も今日が初対面のキード・キレが名乗りを上げた。

「キード・キレだ」

しわがれた声で呟いたキード・キレは四四歳。リリアナと同年代のはずだが、全身から滲み出ている独特の雰囲気は、それより一回り年老いた印象を見る者に与えている。

身の丈は一七二、三センチといったところか。

その双眸は大きく、眉は太い。柳也の世界でいうところのアラブ系の浅黒い肌に、もみあげとほとんど一体化した顎鬚がよく似合っていた。

「そして最後は俺だ!」

キード・キレの自己紹介が終わって、柳也が言った。

順番が回ってくるのを心待ちにしていたらしく、ようやく自分の番がやって来たとあって嬉しそうに笑みを浮かべている。

「俺の名前は……」

「さて、早速だが訓練を始めるとしようか」

柳也が自らの名前を言い終えるより先に、リリアナが言った。

改めて紹介されるまでもなく、桜坂柳也の名前は、ある意味では伝説の〈求め〉の契約者である高嶺悠人以上に知られている。

軍隊というのはとかく無駄をはぶく傾向にある組織だ。リリアナは、今更柳也に名乗らせるのは無駄と判断したらしかった。

「なぁ、最近、主人公の扱いがひどくないかな? かな?」

柳也は憮然とした表情で周囲に問いただした。

しかし、周囲のみなはそんな柳也の質問に対して面倒くさそうな表情を浮かべるばかりで、誰も答えるようとしてくれなかった。

かくして柳也の紹介がないまま午前の訓練は始まった。

今日の訓練の最大目的は、お互いをよく知ること、にある。

軍隊の戦闘力を構成する要素のうち、最も重要なのは団結力とそこから発生する旺盛な士気だ。そして団結を生むには、訓練や日常の生活を通してお互いのことをよく知るのがいちばん手っ取り早い。

訓練が始まって最初の数十分間は、三人の訓練士はスピリット達の戦いぶりを観察することになった。

そして当のスピリット達は、第一詰め所と第二詰め所とで一対一の対抗戦をすることになった。組み合わせは悠人とヒミカ、アセリアとヘリオン、エスペリアとハリオン、オルファとシアーの四組だ。組み合わせは、たったいま、くじ引きで決めた。

第二詰め所の出身であぶれてしまった柳也とネリーは、二人で対戦することになった。この二人の組み合わせについては、昨日のうちから決まっていたことだった。

前日の訓練の終わり際、「ネリーには自分が特別な稽古を付けてやる」と、みなの前で言うことになった経緯を、柳也は悠人やリリアナらに事前に話していた。

この話を口にした時、彼らはひとりを特別扱いすることに難色を示していたが、訓練の主旨を説明すると、自分の意思を汲み取って納得してくれた。セラスなどは、「同じ立場だったら自分もそうしていただろう」と賛同すらしてくれたくらいだった。

「それじゃあ、始めるか」

各組が十分な距離を取ったことを確認して、柳也は正面に立つネリーを見据えた。

その腰には、木刀ではなく父の形見の大小が閂に差してある。

同田貫と脇差には、すでにそれぞれ〈決意〉と〈戦友〉の一部が寄生していた。片方の神剣を細かく分裂させてふた振りに寄生させるよりも、ひと振りずつに寄生させる方が高いパワーを発揮出来る。

昨日の訓練では〈決意〉ひとりの独壇場だったが、柳也は、今日の訓練では始めから〈戦友〉の力も使う腹積もりでいた。現時点における桜坂柳也の、全戦力をネリーに対して注ぎ込むつもりだ。

そんな柳也の考えを知ってか知らずか、ネリーは第八位の〈静寂〉を正眼に構えた。

片刃の両手剣の切っ先が、まだ地平線に程近い太陽を睨む。

柳也も同田貫を正眼に構えた。

両者は相正眼に、三間あまりの距離を隔てて向かい合った。

スピリットの身体能力ならば、一瞬にして間合いを詰められる距離だ。

「いくぜ、〈決意〉、〈戦友〉……」

【領解した、主よ】

【今日はわたしも思いっきり暴れますよ〜】

粛々とした〈決意〉と、元気な〈戦友〉の声が頭の中に響いた。

日頃は仲悪く、事あるごとに自分の力を使う方が柳也にとって役に立つと譲らない二人が、今日は互い協力する姿勢を見せていた。

両神剣から不満の声が上がらないのは、二人が柳也の考えを知っているからに他ならない。

柳也は構えを正眼から上段へと移した。

道場稽古の常道、実戦での愚挙。

最も守らねばならない腹を晒した上段の構えは、しかしそれだけに圧倒的な攻撃力を生む。

文字通り一心同体の相棒らに背中を押されて、柳也は、静かに地面を蹴った。

 

 

 

 

 

永遠のアセリア

-The Spirit of Eternity Sword Another Story “Twin Edge of Protection”-

第一・五章「開戦前夜」

Episode30「生きるということ」

 

 

 

 

 

――聖ヨト暦三三〇年、エクの月、緑、ふたつの日、夕方。

 

午前の訓練が終わり、昼の休憩を挟んで、また午後の訓練が始まり、終わろうとしていた。

午前の訓練開始から約八時間が経ち、スピリット・タスク・フォースの面々は、慣れない相手との戦闘にみな例外なく心身ともに消耗し、疲れていた。体力のないヘリオンやオルファなどは、地面に、ぺたん、と座り込んで、青色吐息で肩を上下させている。

体力がないという意味では、悠人もほとんどヘリオンらと変わらなかった。

なんといってもほんの数ヶ月前までは普通に生徒をやっていた身だ。ハイペリアでは特に運動系の部活に所属した経験もなく、本格的に身体を鍛え始めたのはファンタズマゴリアに来てからになる。幼い頃から訓練を強制させられているエスペリア達とは、もともとの蓄積が違う。

とはいえ、悠人にも男としてのプライドがある。それに、最近はマナを与えてやっていないせいか不機嫌な時が多いが、〈求め〉の加護もある。

悠人はなんとか尻餅を着くという醜態を晒す寸前のところで踏みとどまっていた。

もっとも、その両膝は、けたけた、と怪しい笑いを繰り返していたが。

「……情けないよなぁ」

自身の震える両足を省みて、悠人は思わず日本語で呟いた。

今日から隊長としてみなを纏め上げねばならないというのに、訓練ひとつまともにこなせない自分が本当に情けなくてしようがない。そしてそれ以上、みんなと同じことが出来ないいまの自分自身が、悔しくてしようがなかった。

思えば、ファンタズマゴリアに来てからというものの、自分はいつも周囲の足を引っ張ってばかりだった。自分が頼りないせいで、いつも柳也やエスペリア達に迷惑をかけてしまう。

時には自分が戦えないせいでエスペリア達が窮地に立たされることさえあった。

そんな時、自分はいつも何も出来なかった。

柳也やアセリアの戦う姿を、見ていることしか出来なかった。

――強く、ならないとな。

いまの自分の力量が劣っていることは誰よりも己自身がよく理解している。

自分は柳也のように優れた剣士でもなければ、アセリアのように剣と心を通わせることも出来ない。

しかしせめて、彼らの重荷にだけはなりたくはなかった。

自分の存在が彼らの負担になることだけは、絶対に避けたかった。

柳也のために。アセリア達のために。佳織のために。なにより、自分自身のために。

強くなりたい。もっと、もっと強く。それは純粋な願いであり、強い決意だった。

悠人は固い決意とともにひとり頷いた。

「ユートさま」

不意に背後から声をかけられた。

振り返ると、今日の訓練で悠人の対戦相手を務めた〈赤光〉のヒミカが立っていた。

柳也を別とすれば第二詰め所随一の実力を誇るスピリットで、赴任地は違えどエスペリアとは同期だという。

悠人よりもはるかに小柄なヒミカは、しかしその荒い息遣いは彼よりもいくぶん穏やかだった。顔の血色も良く、いまの悠人とヒミカとでは、基礎体力に格段の差があるようだ。

心の中に去来する悔しさを堪え、悠人は口を開いた。

「どうしたんだ、ヒミカ?」

「今日の訓練はこれで終わりなんですよね?」

ヒミカは、異世界の言語に不慣れな悠人にも聞き取りやすい丁寧な聖ヨト語で訊ねた。

礼儀正しいが慇懃無礼というほどではない、好感の持てる態度だ。

「ああ、そうだけど?」

ヒミカの易しい言葉遣いを受け取った悠人は、素直に頷いた。

他ならぬ自分自身がへとへとに疲れている状態で、これ以上訓練を続ける理由はない。

「でしたら、そろそろあの二人の戦いも止めていただけませんか?」

ヒミカは小さく頷いてから続けて言うと、目線を悠人から別な方向に向けた。

釣られて悠人もそちらに目線をやる。

数秒とせぬうちに、悠人の顔に複雑な表情が浮かんだ。

二人の視線の先では、柳也とネリーがいまだ対戦を続けていた。

第三者がその光景だけを客観的に見れば、ネリーに特別な稽古をつけている柳也が、対戦訓練を延長しているように思うかもしれない。

しかし、視線の先にいる二人が、休憩時間も挟まずに、すでに八時間以上休むことなく対戦を続けているという事実を知っている悠人は、主観的にしか物を見ることが出来なかった。

 

 

八時間を超える運動で酷使した筋肉が、声にならない悲鳴を上げようとしていた。

すでに筋繊維は身体中の各所で断裂を始め、肉体は灼熱の熱さを伴っていた。

しかし不思議と痛みはなく、むしろ柳也の集中力はここにきて極限の領域まで高まろうとしていた。

身体はこれまでになく軽く、四肢にエネルギーが満ち溢れているという実感が、彼の中で歓喜という感情を生み出していた。それは人間の本能に根ざす、根源的な感情だった。

いわゆるランナーズ・ハイの状態にあるのだろう。八時間の運動を経て、柳也は気力と体力の充実を感じていた。

際限なく高まり続ける集中力からか、目の前のネリーの動きが、ひどくゆっくりに感じられた。

いや、実際ネリーの動きは最初の頃に比べて格段に鈍くなっていた。

時間が過ぎれば過ぎるほど思考はより冷静に、動きは俊敏になっていく柳也とは対照的に、ネリーは時間が経てば経つほど消耗し、動きを鈍らせていった。

柳也とネリーは互いの得物を相正眼に構えていた。

ネリーは右、左、と身体を小さく飛び交わしながら、飛び込む機会を虎視眈々と狙っていた。

明らかに柳也が打ち込んでくるのを誘っている。

対する直心影流の剣士は不動だ。

かといって威圧的でもなく、ただ粛々とネリーが仕掛けてくるのを待っていた。

「ヤァァァァッ!」

裂帛の気合とともに背を丸めたネリーが、鞠のように飛び込んできた。

抜き身の〈静寂〉が、容赦なく柳也の眉間を襲った。

直後、柳也の同田貫がネリーの電撃の面打ちを擦り合わせて、軽く〈静寂〉を叩いた。するとどうしたことか、〈静寂〉はネリーの両手から軽やかに飛翔し、虚空高く舞い飛んだ。

得物を失ったネリーの肩口を、同田貫の峰が押さえていた。

ずるずる、とネリーが腰砕けになってその場にへたり込んだ。

柳也の同田貫はネリーの肩に触れていたわけではない。

寸止めで、それも峰の部分が止まっているだけだ。

にも拘らず、ネリーの腰は砕けていた。

肩口に斬撃の緊迫を感じた瞬間、柳也の身から放出されたまごうことなき剣気が、ネリーに、斬られた、という錯覚を与えていた。

すでに三度の実戦を経験している男だからこそ発することの出来る殺気が、ネリーから抵抗する意志を奪った。

「……これでネリーは今日、四二回死んだな」

柳也の唇から、冷たい響きが漏れた。

あえておどけた口調だったが、空気を震わせながら突き進む音は、ネリーの心臓さえも震わせた。柳也の声には、殺気が宿っていた。

柳也は続けて言う。

「どうした? もうへばったのか?」

「う、ううん……」

ネリーは浅い呼吸を繰り返しながら首を横に振った。

すでに八時間以上も戦闘訓練を続けている彼女の顔色は蒼白だったが、その瞳から戦意は失われていなかった。

「ま、まだやれるんだから……」

しかしそう言いながらも、ネリーはすぐに立ち上がろうとしなかった。立ち上がることが出来なかった。すでにネリーの身体には、剣を執って抵抗する余力はおろか、立って〈静寂〉を取りに向かうだけの力すら残っていなかった。

生来の負けず嫌いなのだろう、本人にやる気はまだまだあるようだったが、気持ちに身体が付いていない。

そんなネリーに一瞥をくれてから、柳也は盛大に溜め息をついた。

こんなものか…と、失望感も露わに肩を落とす。

哀れみを含んだ柳也の表情を見たネリーは、悔しさから下唇を噛んだ。

なおも必死に立ち上がろうとするが、やはり出来ない様子だった。

「……十分休憩だ。その間に立てるようにしておけ」

ネリーの精神を追い打つ呟きをこぼし、柳也は同田貫を鞘に納めた。

 

 

二人の攻防の様子を眺めながら、悠人は深く溜め息をついた。

ヒミカの方を向き直ると、首を横に振って言う。

「……無理だ。俺には柳也を止められない」

「なぜですか!?」

ヒミカはやや強い詰問口調で言った。

普段、礼儀正しい彼女にしては珍しい反応だ。

「いくらなんでもあんなしごき方は無茶です! あれじゃあ強くなる前にネリーが壊れてしまいます」

ヒミカは身長差のある悠人の胸元に詰め寄った。

必死の形相で訴えかけるその表情からは、彼女が心からネリーの身を心配している気持ちが痛いほど伝わってきた。

ヒミカだけではない。

ふと目線を転じてみれば、周りのスピリット達はみな悠人に対して何か物言いたげな眼差しを向けていた。みな口にこそ出さないが、この場にいる全員がネリーの身を案じていることは誰の目にも明らかだ。そして、徹底的に同僚をいじめている柳也に対して、憤りを覚えつつあることも。

悠人は一度だけ深く、長い溜め息をついた。

端正な横顔が、苦渋に歪む。

悠人自身もまた、彼女達の真剣な想いを理解できるからこそ、次の言葉を口にすることが辛かった。

「柳也には柳也の考えがあるんだろう。いまは続けさせてやってくれ」

悠人は疲れた口調で言葉を吐き出した。

彼らの視線の先では、柳也が十分間の休憩を挟もう、と提案していた。

 

 

一方的に休憩時間の開始を告げると、ネリーは、ぐったり、として地面に寝そべった。

汗に濡れた服と肌、そして青いポニーテールに、砂埃が容赦なく襲い掛かるが、それを気にする気持ちの余裕は、いまのネリーにはない。

強がってみせてもやはり身体は限界だったらしく、地面に寝そべることおよそ三秒、彼女は早くも、うとうと、し始めていた。

他方、柳也は、ネリーが寝転んだ一画から七、八メートルほど距離を隔てた木陰に腰を下ろした。

木の幹を背もたれに支給品の軍靴を脱ぐと、おもむろに足裏マッサージを始める。足の裏には身体の全臓器のツボが集中しているから、素人が何も考えずにマッサージしてもかなりの疲労回復効果が狙える。

さらに柳也は膝頭の下にある外側の少し窪んだ部分……三里のツボを念入りに押した。本来は灸をするツボだが、普通に指で押しても効果はある。たった五分の休憩時間でも、ここを押しておくのとおかないのとでは、行動を再開した時の体力回復の程度が違う。

柳也は弱い力で数秒、三里のツボを押してから力を抜くと、また弱い力で数秒押すのを繰り返した。

親指の腹が自身の肉の強張りを捉えるその都度、柳也の唇から心地良さそうに熱を帯びた吐息が漏れ出た。

続いて柳也の指はさらなる肉の強張りを求めて大腿、肩、首筋へと移動していった。

長時間、同田貫を握り続けてずいぶん張っている上腕筋を揉んでいると、不意に右の足の裏に快感を伴った痛みが走った。

見れば、訓練を終えたらしい悠人が自分の足の裏を揉んでくれていた。普段からマッサージすることに慣れているのか、絶妙な力加減で足裏のツボを的確に押してくる。

柳也の口元に、自然と微笑が浮かんだ。

快感の吐息とともに、悠人の腕前について賞賛の言葉を紡ぐ。

「……上手いな」

「ハイペリアで暮らしていた頃、バイトから帰ってきた時に佳織によくやってもらったんだよ」

「なるほど、悠人のマッサージの技前は佳織ちゃん仕込みなのか」

道理で気持ちが良いわけだ、と柳也は得心した様子で頷いた。

以前、柳也も稽古の後にしてもらったことがあるが、佳織のマッサージはたしかに気持ち良かった。マッサージの要領を心得ているとうべきか、とにかく力加減が絶妙なのだ。その上人体のツボを的確についてくれるから、足の裏を五分も揉んでくれた頃には、自分の相好は緩みっぱなしだった。

それらの技術も、もともとは義兄のためだったのだろう。義兄想いの彼女のことだ。少しでも悠人の疲れを癒そうと医学の本を読んで勉強したに違いない。

その佳織の手つきを真似た悠人のマッサージが、快感を伴わないわけがなかった。

「ん……良い気持ちだ。ありがとうな、悠人」

友の厚意に心からの感謝を述べ、柳也は悠人の指先に身を委ねた。

一分、二分と揉まれているうちに、足の裏だけでなく下半身全体が熱くなっていく。悠人の手から伝わってくる温もりが、この上なく心地良かった。

右足のマッサージが終わり、続いて左の足裏マッサージが始まった。

左足の親指の付け根に圧力を感じたその時、不意に悠人が真顔になった。

彼は左の足裏マッサージを続けつつ辺りに目線を配った。

スピリット達との距離が十分に離れていることを確認した悠人は、ひとつ頷いてから、

「ところで……」

と、声をひそめて切り出した。

柳也は直感的にその先に続く言葉を理解した。

みんなとは十分な距離を取っているにも拘らず、わざわざ声をひそめて口を開いたということは、周りのみんなには絶対に聞かれたくない話なのだろう。思いつく話題は、一つしかなかった。

「ネリーのことだな?」

柳也は問いかけという形で悠人の言葉を先取りした。

悠人が真剣な表情を変えぬまま、小さく頷いた。

親指の付け根を押す指の力が、少しだけ強くなった。

「柳也の考えは知っているつもりだけど、いくらなんでも今日のしごき方はやりすぎだと思う。……ネリーはもう限界だ。今日はこの辺りでやめてやらないか?」

悠人の言葉は、最後には提案という形で締めくくられていたが、柳也の行為を咎める厳しさがあった。「やめてやらないか?」とは建前で、本音としては「やめろ」と、命令したいに違いない。

しかし柳也は、そんな厳しさを孕んだ友の言葉を、むしろ穏やかな表情で受け止めた。

「そうだろうな」

柳也は、悠人の言葉を首肯した。

悠人は黙って足裏マッサージを続ける。

「たしかに、ネリーは他と比べてずば抜けて体力に優れているわけじゃない。体力に限界なんてものがあるとしたら、二時間くらい前からとっくに見え始めていた」

「だったら……」

「けどな……」

続けようとした悠人の言葉は、さらに続く柳也の言葉によって途中でかき消された。

前言の肯定を否定するかのような切り出しを耳にし、それまで足の裏に目線を落としていた悠人は思わず顔を上げた。

柳也の顔に、もはや穏やかさを感じさせる要素は一つもなかった。

迷うことを知らない強い意志の輝きを宿した瞳が、悠人の眼を真っ直ぐに見つめ返していた。

「けどな、俺はやめる気はないぜ」

柳也は毅然とした態度できっぱりと言い切った。

自分の信念を決して曲げようとしない泰然自若とした気構え。

反論を許さぬ強い語調に、悠人は「柳也……」と、呟いただけで、続く言葉を見失ってしまった。

沈黙してしまった悠人に対し、柳也は渋面を作って再度口を開いた。

「なあ悠人、俺はネリーのことが好きだ。可愛くって、素直で、負けん気の強いところも魅力的だと思う。出来ることなら、戦争なんかでむざむざ死なせたくはない。だが、この世界は確実に戦争の時代へ向かって進んでいる。そんな時代の波からネリーを守るいちばんの方法は、彼女自身に強くなってもらうことだ。

じゃあ、ネリーを強くするにはどうすればいい? あの娘の力を効率的に活かすにはどういう風に鍛えてやればいい? いま彼女にいちばん必要なのは何だ? 基礎力か? 高度な技術か? どれも必要なものには違いないが、どれも違う」

「…………」

「ネリーは……あの娘は俺に向かって言ったよ。『だって、必殺技とかあった方がクールじゃん』って。楽しそうに、笑いながら。まるで、戦いを楽しむことを前提にした口ぶりだった。戦いは楽しめて当たり前、自分が死ぬなんて絶対にありえない、そんな態度だった」

柳也の語調は、言葉を重ねるにつれて徐々に強く、徐々に激しくなっていった。

彼はそこまで一気に言葉を吐き出すと、一旦言葉を区切り、深く静かに深呼吸をした。

柳也は言葉遊びを続けるにつれて次第に感情的になりつつある自分を自覚していた。

こんなことで心を乱してはいけない、と自分に言い聞かせながら、彼は深呼吸を繰り返した。この後にはまだネリーとの戦いが控えている。興奮は、戦いの中だけの感情としなければ。

やがていくらか落ち着きを取り戻したか、柳也の顔から渋面が消えていった。

彼は悠人に向けたものとも、ただの独り言とも取れる小さな声で言葉を紡いだ。

「ネリーは、特別だとか、クールだとか言っている前に、考えないといけない事がある。それは戦士にとって最も重要なことの一つだ。戦いを楽しむにしても、第一にそれを考えないといけない。けどそれは、俺達が口で言ってもしょうがないことだ。ネリー自身が、その重要性に気付いてくれないと意味がない」

柳也は呟くと、左手首の腕時計に目線を落とした。

いつの間にかあと二分ほどで休憩時間の十分が終わろうとしていた。

柳也はなおもマッサージを続けようとする悠人の手を制した。

「そろそろ十分だ。俺はもう行くよ」

「マッサージ、ありがとうな」と、軽く頭を下げ、柳也は軍靴を履き直して立ち上がると、再度穏やかな笑みを浮かべて見せた。

同じく立ち上がった悠人の肩を軽く叩いて、その左隣をすり抜ける。

柳也の目線の先では、疲労から襲ってくる睡魔に屈服したネリーが完全に眼を閉じていた。なんとも愛くるしい寝顔だ。

――でも、起こしてやらないとな。

柳也は表情を引き締めると横になったネリーに向かって歩き出した。

「柳也!」

歩き出した柳也の背中を、唐突に悠人が呼び止めた。

いったい何がそんなに辛いのか、振り返ると、悠人は己に対し痛切な視線を向けていた。

「たしかにネリーのことは心配だけど、俺がいまいちばんに心配しているのはお前だ!」

躊躇いがちな日本語が、柳也の耳朶を打った。

母国語の懐かしい響きとともにあふれ出す感情が、柳也の胸を叩いた。

「柳也がネリーをしごけばしごくほど、みんなからの印象がどんどん悪くなっていく。なんでネリーだけがあんなにいじめられるんだ、柳也はネリーのことを私情でいじめてるんじゃないか、って。事情を知っている俺はいい。でも、柳也の考えを知らないエスペリア達は……」

「その先は言うなよ、悠人」

続くはずだった悠人の言葉は、同じく日本語で紡がれた柳也の制止によって飲み込まれた。

たとえどんな事情があったとしても、柳也は、友人の口から彼女達の悪口を聞きたくはなかった。

「俺は元いじめられっ子。嫌われるのは慣れている。俺は、大丈夫だよ」

柳也は安らぎに満ちた笑みを口元にたたえると、悠人に言った。

「ホントありがとうな、悠人。こう思うのは罰当たりかもしれないけど、嬉しいよ。そんなに俺のことを心配してくれるなんて」

両親を早くに失った柳也には、自分のことを心配してくれる人がいるという事実は何よりも嬉しいことだった。

家族以外で自分のことを心から案じてくれる存在は、柳也にとって何にも代えがたい大切なものだった。

「とはいえ、誰かから嫌われるっていうのは俺も嫌だ。せいぜい、その一歩手前で踏みとどまるように頑張るさ」

柳也はそう言ってクスリと微笑む。

その笑顔には、揺るぐことのない信念と自信が満ち溢れていた。

 

 

――同日、夜。

 

ネリーと柳也の戦いは、九時間はおろか、とうとう十時間を突破しようとしていた。

いまやネリーは気力体力は言うに及ばず、生来の負けず嫌いからくる根気の強さまで失われ始めていた。

動作から精彩さを欠き始めている、というレベルではない。

ネリーの瞳からは柳也に抵抗しようという意志の輝きさえ消えつつあった。

「疲れたか、ネリー!?」

柳也は怒鳴るような勢いでネリーに質問をぶつけた。

といっても、特別柳也がネリーに対して怒りの感情を抱いているわけはない。長時間の運動で五感の機能を低下させ、また睡魔にも襲われているいまのネリーには、大きな声でなければ言葉が届かない。

「だ、大丈夫! まだやれるんだからぁ」

怒鳴る柳也の威勢とは対照的に、対面しているネリーの声に覇気はなかった。

無理に元気な声を出そうとして、かえってかすれた声を出し、喉を痛めている。

昨日の稽古で見せた快活はもはや失われ、意識は四方に散っていた。

柳也とネリーは互いに相正眼に構え、三間の距離を隔てて対峙していた。

両者ともに自らは攻めようとせず、相手の攻撃を待つ構えで不動の姿勢を取っていた。

柳也もネリーも自ら果敢に攻めていくタイプの戦士だから、この構図は珍しい現象といえた。

訓練の再開から約一時間半、中途半端な小休止を挟んだことによってかえって判断力を鈍らせたネリーは、すでに十回以上金の輪をつけて天国に向かっていた。

ネリーの疲労は極限さえ突破し、彼女から積極的に攻めようとする意欲を奪っていた。

もっとも、仮に攻める意志があったとしても、身体の方がついていかなかっただろう。

体力と気力の大きな阻喪。それが、ネリーに慣れない“待ち”の戦法を強いていた。

他方、柳也もまた十時間に渡る運動を経て、さすがに激しく攻め立てるだけの体力をなくしつつあった。とはいえ、ネリーに比べればまだまだ余裕はあったし、精神力においてはいまだ大きく勝っていた。

しかしネリーが不慣れな待ちの構えを取るならば、と自らも直心影流の“秋”の気構えで応じたのだった。

両者の相正眼の睨み合いはすでに二十分以上続いていた。

その間、ネリーは剣尖を揺らすなどして必死に“誘い”を仕掛けていたが、柳也は不動を維持したまま決して動こうとはしなかった。

ネリーが誘いを仕掛けてくるまでもなく、柳也は付け入る隙をすでにいくつか見出していた。

ネリーの正眼は隙だらけで、しかもそのことに本人が気付いていない様子だった。

いつでも攻められる立場にある以上、あえて誘いに乗ってやる必要はあるまい。

待ちの構え同士の戦いは忍耐力の戦いだ。一定の構えを何十分と維持していられるだけの持久力と、精神力の勝負といえる。

柳也はここにきてネリーの精神、をさらに追い詰める腹積もりでいた。

すでに訓練の終わっている悠人達は、二人の対峙を固唾を飲んで見守っていた。

まるで彫像を眺めているも同然の光景だったが、誰一人としてその場から去ろうと足を動かす者はいなかった。それどころか、見ている方が息を殺して、身動きすることも出来なくなっていた。

緊迫感と、自分が殺されるような恐怖感から、みなの目線は両者の剣に吸い寄せられていた。身の毛がよだつような緊張感に、肉も骨も固まってしまいそうだった。

誰もが白刃の切っ先を凝視していた。咳払いだろうと、声らしきものは出なかった。耳が痛くなるほどの、しぃぃん、とした静寂が、辺りを支配していた。

柳也は、ネリーの額が汗で濡れていることに気が付いた。

すでに時刻は七時を向かえ、辺りはすっかり暗くなり始めている。

夜の冷気が肌を刺しているにも拘らず、ネリーは額だけでなく顔や首筋にも汗の粒を噴き出していた。脂汗だ。〈静寂〉の切っ先が、震えを帯び始めている。

ネリーは顔面を蒼白にしていた。呼吸の乱れが、剣にさらなる鈍重さを与えている。

あまりの緊張感の中で、意識を保つのも辛くなってきたようだ。

ネリーが、うつらうつら、とし始めた。

この際立ったままでもいいと、肉体が睡眠を求めているようだ。

いよいよ限界らしいことを悟った柳也は、同田貫の柄から主たる左手を離した。

右腕一本の片手正眼に構えるやすぐに左手を脇差の柄に伸ばし、刀身をゆっくりと引き抜く。ファンタズマゴリアでは絶対にありえない、二刀流だ。

周囲から、ここにきて初めてどよめきの声が上がった。

静寂が破られ、ネリーが、はっ、と正気を取り戻した。

その直後、ネリーの目の前から柳也の姿が消えた。

文字通り瞬き一回分の一瞬の後、再びネリーの前に姿を現した柳也は、すでに彼女の内懐に潜り込んでいた。

「……これで六二回目だ」

重苦しい響きを孕んだ呟きがネリーの耳朶を打った時、彼女の眼前に、突如として竜巻が出現した。

スパイラル大回転斬り。

天真正伝香取神道流剣術に伝わる表居合……抜附之剣から抜刀の動作を排除し、代わりに身体の回転を加えた柳也創案の必殺技だ。

神剣の力の作用によって、無限に続く独楽の回転力ともに放たれる二刀流の斬撃は対象を何度も叩き、暴れ、そして最終的には破断する。

間合いの問題から敵の内懐まで潜り込まねば使えない技だが、冒した危険の価値だけの威力を持った強力な攻撃だった。

危険を察知したネリーは咄嗟にウォーターシールドを前面に展開した。

ほぼ同時に、無限に続く斬撃の雨と、剣気の風が嵐となってネリーを襲った。

バトル・オブ・ラキオスにおいて、柳也がこの技で同時に三体のスピリットを消滅させたことを彼女は知らない。

三体ものスピリットの防御壁に阻まれてなお威力を失わなかった斬撃の渦には、青スピリットのウォーターシールドなど薄皮も同然だった。

ネリーは目の前に展開した水の盾がいとも簡単に斬割されていく光景を信じられない思いとともに見ることになった。

柳也の放った無限の斬撃は、“斬る”というより“破壊する”という暴力的な印象をネリーに抱かせた。

水の盾が文字通り霧となって四散した。

次の刹那、ネリーは顎先に何かひんやりとした硬いものを感じた。

眼球運動だけで下方に目線を落とすと、肥後の豪剣のかます切っ先が、ネリーの喉元に、ぴたり、と触れていた。

「ひっ!」

自分の置かれている状況を悟って、ネリーが身を震わせた。

恐怖のあまり、思わず〈静寂〉を取り落としてしまう。

同田貫の峰でネリーの顎先を撫でながら、柳也は酷薄な嘲笑を突きつけた。

「……スパイラル大回転斬り。この一刀をあと数ミリ進めていたら、致命傷だったな」

柳也はそう呟いてから、ようやく同田貫を下ろした。

直後、ぺたん、とネリーが腰砕けになってその場に座り込む。

極限の緊張感の中で消耗した心と身体に突きつけられた死の恐怖にこらえきれなくなったか、ネリーの目尻に、じわあ、と涙の雫が滲んだ。

柳也がちょっと力を篭めて抱き締めたら折れてしまいそうな細い肩が、ガタガタ、と震え出す。三度の実戦を潜り抜けてきた男の放った本気の剣気に、ネリーはすっかり当てられていた。

「も……」

ネリーの小さな唇から、甲高い声が漏れた。

ガチガチ、と鳴り響く歯の隙間から流れ出した声は、はっきりと湿り気を帯びていた。

これまで文句一つ言わずに対戦を続けてきたネリーだったが、あまりに過酷なしごきにとうとう泣き出してしまった。

「もうやだぁ……」

嗚咽混じりの痛切な言葉が、柳也の耳朶を、胸を強く叩いた。

自分よりもはるかに幼い女の子を泣かせてしまったという事実が、柳也の心に罪悪感を生む。しかし、その後ろめたい気持ちが同情に結びつくことはなかった。

これはネリーのために必要なことなんだ、と自分に言い聞かせ、柳也は酷薄な笑みを決して崩すまい、と顔面のあらゆる筋肉に意識を集中させた。

人間という生き物は不思議なもので、邪悪な表情を浮かべ続けていると感情まで邪悪な昂ぶりを覚えてしまう。

柳也はいつしか作った表情ではなく、心からの冷笑とともにネリーを見つめていた。

「こんな酷い目に遭うんなら死んだほうがマシだよ!」

ネリーは怒声を通り越した悲鳴とともに柳也に向かって口角泡を飛ばした。

「なんでネリーだけこんなに酷い目に遭わなきゃならないのさ! ネリーの何が気にいらないの!?」

「……自分で考えろ。それが分かるまでは、明日も明後日もこの訓練だ」

柳也は一方的な口調で告げると、仕切り直しとばかりにネリーから距離を取った。

背後から突き刺さる涙混じりの恨みがましい視線が、そして全周から注ぐ不信を孕んだ眼差しが、なによりも痛烈だった。

 

 

さらにそれから三十分が過ぎた。

ネリーの戦死回数が七十を数え、いよいよ彼女から戦う意欲はおろか動こうとする意志まで損なわれ始めてきたのを見て、柳也はようやく「やめ」の声をかけた。

斬撃の緊迫から解放された途端、ネリーはフラフラとした足取りで心配そうに見つめていたシアーのもとへと歩き出す。

「ね、ネリー、大丈夫?」

「し、しあ〜」

すがるようにシアーに抱きつくネリー。長時間の運動で心身ともに疲弊しきったそんな姿だけを見るならば、本当に普通の女の子なのだが。

――あれでも、兵士なんだよな。

柳也はネリーの背中を見つめた。

「今日は七十回死んだな。明日は、もっと回数減らせよ?」

ネリーの背中に、柳也は声をかけた。なるべく自分が悪人になるよう意識して冷たい声を出そうとしたが、失敗してしまった。言葉を吐き出した彼の声は掠れており、声帯を動かして音を発する度に、喉に痛みが走った。

ゆうに十一時間に及んだ訓練の後で、さすがの自分も疲れていたらしい。

もっとも、ネリーの疲労はそのさらに上をいっているらしく、彼女は柳也の言葉にも溜め息で返事するだけだった。

普通ならばスピリットがこんな態度を取っただけで上官不敬罪として吊るし上げられてもおかしくない。それが何の躊躇もなく出来たということは、よほど消耗しているらしい。

――ま、全部俺のせいだけどな。

柳也は告げるべきことを口にすると、ネリーから視線を逸らした。

エスペリア、ヒミカ、ハリオンなど、事情を知らないスピリット達を順繰りに一瞥する。

彼女らはみな一様にして厳しい眼差しを自分に向けて注いでいた。

いつもはにこにこと笑っているハリオンでさえ、眉をちょうどハの字に曲げ、ちょっと怒ったような視線を向けている。あのハリオンの笑顔を壊してしまったと知ったその瞬間、柳也の心の中にこれまで以上の罪悪感と後悔が生まれた。

しかし柳也は、弁解も、言い訳するつもりもなかった。

柳也はスピリット達からの視線を、何も口にせぬままを甘んじて受け入れ続けた。

その一方で、事情を知っている悠人達からの同情的な視線を、彼は無視し続けた。

同僚をいじめられたようにしか見えなかっただろうスピリット達からの厳しい視線は受けて当然と思っていたし、むしろそれくらいで済んで柳也は安堵すらしていた。

――……ん?

順繰りに移動していた柳也の目線が、ある一点で停止した。

自分に向けられたスピリット達の否定的な視線の雨。そんな中、ただひとり別な眼差しを向けてくるスピリットの存在に、柳也は気が付いた。

「……ヘリオン?」

柳也は思わずその名前を小さく呟いた。

他のみんなと同じように遠巻きに自分とネリーの対戦を眺めていたヘリオン。

そのヘリオンから、不安と哀しみの入り混じった視線を向けられた柳也は、眉間に深い縦皺を刻むと訝しげな表情を浮かべた。

てっきり、彼女もまた他のスピリット達と同様、不信と憤りに満ちた眼差しを自分にぶつけてくるかと思っていたが。

――ヘリオン……なんで、俺をそんな目で見る……?

自分に向けられるヘリオンの視線に怪訝なものを感じた柳也は小首を傾げた。

実は今日、柳也は朝起きてからヘリオンとは数度の言葉を交わしただけで会話らしい会話をほとんどしていなかった。

それだけに柳也はヘリオンがなぜそんな……まるで自分の身を案じるかのような視線を向けてくるのか、まったくわからなかった。

柳也がその事についてヘリオンに問い質そうとしたその時、彼の耳膜を、背後から聞こえてきた不吉な物音が振動させた。

振り向くと、疲労からかネリーがうつ伏せになって地面に倒れていた。

一緒にいたシアーは不意の出来事にネリーの体を支えきれなかったらしく、巻き込まれて彼女の下敷きになっていた。

「ね、ネリー!」

一瞬、遅れてから響くシアーの悲鳴。

それを合図に、柳也は他の誰よりも素早い反応で駆け出していた。

二人のもとに駆け寄るやその場にしゃがみ込み、とにもかくにもネリーを仰向けにしてシアーから引き離してやる。そうしてから、続いて呼吸と脈を診た。併せて頬を叩き、意識を確認する。

すべて正常なことを確認した時、ようやくエスペリア達が駆け寄ってきた。

柳也はネリーを挟んで対面にしゃがんでいるシアーを見た。

不安そうな顔でネリーの顔を覗き込んでいる彼女に、柳也は口元に微笑を浮かべて言う。

「大丈夫、眠っただけだ」

うつ伏せに倒れてしまったせいで頬に付着した土を取り払いながら、柳也はネリーの寝息が正常なことをシアーに示した。

ネリーがただ眠っているだけと知ったシアーの唇から、ようやく、ほっ、と安堵の息がこぼれ落ちる。

そんな何気ない仕草のひとつひとつから、シアーがネリーのことを本当に心から大切に想っていることを知って、柳也は己の胸がひどく痛むのを感じた。

ネリーが突如として倒れてしまったのは明らかに十一時間に及んだ対戦の疲労のためだ。そして、そこまでネリーを追い詰めてしまったのは他ならぬ自分である。罪悪感が湧かないはずがなかった。

せめて部屋まで運ぶくらいのことはしなければ。

柳也はそうすることがごくごく自然なことであるかのように、ネリーの背中に左腕を、そして両膝の下に右腕を通した。ぐったりと完全に脱力したネリーの身体は、少女の身とはいえ鍛えているだけあって少し重い。とはいえ、苦になるほどではなかった。

疲れた筋肉にまた新たな労働を課すことになってしまったが、不快ではない。

むしろ少女特有の適度に張ったやわらかな肌の感触が心地良いくらいだった。

腕よりも腰にいっそうの力を篭めた柳也は、ゆっくりと立ち上がった。

やわらかな温もりを抱き上げた彼は、そのままシアーやヒミカを振り返って、

「んじゃ、帰るぞ」

と、極めて明るい口調で、あっけからんと言い放った。

 

 

「んじゃ、帰るぞ」

ここ数日ですっかり聞き慣れた明るい調子の声が響き、柳也はネリーを抱き上げたまま第二詰め所へと歩き出した。

やや遅れて、シアーが柳也の隣に付こうといつもより少し大きな歩幅で踏み出した。

ただ眠っているだけと知らされても、やはりネリーのことが心配なのだろう。

少しでも彼女の側に寄り添おうとするシアーへの気遣いからか、それとも両腕の中のネリーに余計な負担をかけないためか、柳也は普段よりもいくぶん短い歩幅を刻んだ。

歩調を合わせてやると、シアーはすぐに柳也の隣に追い着いた。

彼女は腕の中のネリーを気にしつつ、寄り添うように彼の隣にくっ付いて歩いた。

ネリーのことを心配しての足取りだろうが、互いにペースを合わせて歩くその様子は、傍目には恋人同士のように見えなくもない。

しかしそんな二人の背中を見つめるヒミカの表情は、複雑そうだった。

「リュウヤさま……」

主に六尺豊かな大男の背中に視点を置きながら、ヒミカはその名前をひっそりと呟いた。

すでに他のみなは柳也の後を追って、野外訓練場から去ろうとしている。

しかしヒミカだけはその場から動こうとせず、ただひたすら、去りゆく柳也の背中を見つめ続けていた。

――リュウヤさま、あなたは……。

今日は見れば見るほど、そして考えれば考えるほど、上官の青年のことがわからなくなる一日だった。

ヒミカが初めて柳也の存在を知ったのは彼がセラス・セッカとともにエルスサーオに赴任してきた翌日のことだった。

スピリットという小規模集団の中では、興味ある噂話はあっという間に広がる。首都圏からやって来た騎士と奇妙な従者の情報はすぐに周知のものとなり、翌日の時点で二人の存在を知らぬ者は方面軍のスピリット隊にはいなくなっていた。特に、スピリットにも分け隔てなく接する従者の方の噂は、妖精趣味という黒いレッテルとともに蔓延していた。

当時はその従者が異世界からやって来たエトランジェだとは知らなかったし、後に彼と一緒に仕事をすることになるとは思いもしなかった。

しかしスピリット・タスク・フォースの設立とそこへの配属が決まった時、ヒミカは桜坂柳也という男に対して格別の関心を抱くようになった。

なんといっても相手は妖精趣味と噂されるような男だ。妖精趣味はそれ自体が変態的嗜好であると同時に他の変態的嗜好を誘発しやすい。もし件のエトランジェが本当にそんな男だとしたら……不安にならないはずがなかった。

ラキオスにやって来た翌日、ヒミカは桜坂柳也がハイペリア式の戦術を取り扱った勉強会を開くらしい、という話を耳にした。

彼女は迷うことなくこれに参加することにした。彼女は自らも講義に参加することで件の副隊長の品定めを試みたのだった。

そうして実際に会ってみた桜坂柳也は、なるほど、噂通りスピリットを差別しない男だった。しかし妖精趣味というわけではなく、好みの女性を見れば思わず「恋をしてしまった」を連発する、ただの女好きのようだった。

と同時に、彼は女以外にも多くのものを愛していた。

剣術が好きで、歌が好きで、戦争が大好きな男だった。なにより仲間のことを愛し、いまは離れ離れになっている幼馴染の少女のことを常に案じていた。

そして、これからともに戦うことになる自分にも優しく、大事なものを扱うように接してくれた。

一回目の戦術講義の後、ヒミカはこの青年を「信頼に足る人間だ」と評価した。

あの時の柳也から得た確信はいまでも変わっていないし、あの時そう判断した自分の目利きを、いまも彼女は信じている。

しかし、今日の柳也の行動は、そんなヒミカの評価を一変させてしまうのに十分な威力を持っていた。

ネリーのことを徹底的にいじめ抜き、ついには倒れさせてしまった柳也。

同僚をそんな目に遭わせたこの男を、はたして自分は、もう一度「信頼に足る人間だ」と断言出来るだろうか。

副隊長として、また詰め所の管理者として、受け入れることが出来るだろうか。

――あなたは、いったい何を考えているのですか……?

ヒミカには、柳也がいったい何を考えているのか、まったく分からなかった。

 

 

――同日、夜。

 

ネリーとの対戦訓練を終えた柳也は詰め所の自室でひとりデスクの上を睨んでいた。

士官室と一緒に与えられた作業用のデスクには、ラキオスとバーンライトの位置関係を示した詳細な白地図が広げられている。

縮尺は三〇〇万分の一。緻密な調査・測量と、未熟な印刷技術を結集して描かれた地図は、ダグラスを通じて戦略研究室から借りてきた、非常に精密な物だった。

戦略研究室が対バーンライト戦に備えた戦略研究に入ってすでに十日が過ぎていた。

ラキオスの戦略研究室は、旧軍でいうところの参謀本部に当たる。旧軍の参謀本部と大きく違うのは、戦略研究室が王城の中にあるのに対して、参謀本部は皇居と国会議事堂のちょうど中間辺り……三宅坂に位置しているということだ。しかし、どちらの機関にも、その国の誇る最高の頭脳を持ったエリート達が集っていることに変わりはなかった。

しかしその最高の頭脳を持ったエリート達でさえ、対バーンライト戦略の研究は難航しているらしく、柳也達のもとにはいまだ具体的な作戦計画が提示されていなかった。

もっとも、これは両国の対立の歴史を振り返れば仕方のないことといえた。

聖ヨト暦二六六年にバーンライト王国が建国して以来、ラキオスは幾度かの戦争をこの国に仕掛け、その度に決定的な勝利を収められないでいる。先達が六四年分の蓄積を駆使しても勝てなかったこの国を、打倒するための作戦の立案を任された戦略研究室の負担は大きい。難産は、むしろあって然るべきことといえた。

とはいえ、具体的な作戦計画はともかく、基本的な大戦略の方針すら柳也達前線で戦うことになる将兵に提示されていない現状ははなはだ不味い。

なぜなら、軍隊の装備や編成、教育、戦術は、根本の大戦略があって初めて活きてくるからだ。

自衛隊を例にみてみよう。冷戦時代、自衛隊の装備や編成はすべて『北方からのソ連の脅威に備える』という大戦略の基本方針に沿って決められていた。ソ連が日本を攻めてくるとしたらその矛先は北海道に向けられる公算が最も高い。ゆえに冷戦時代の自衛隊は北海道に特に精強な師団を置き、装備も最新鋭のものを優先的に回していた。またその基本戦術は『上陸してくるソ連軍をいかにして迎撃するか』という基本方針の下、研究されていた。

これが『北方からのソ連の脅威に備える』という大戦略が定まっていないと、自衛隊としてはどの地域の防衛に重点を置くべきか、優先順位が付けられなくなってしまう。理想としてはすべての地域に万全の守りを敷くことだが、それは予算の制約などもあり現実的には難しい。

また、自衛隊全体の装備・教育にしても、仮想敵国が明確化されていないと、どの程度の水準のものをどの程度の数揃えればよいか、どれだけの人数を何年かけて鍛えてやればよいかが、まるで分からなくなってしまう。

いかに強力な装備を保有し、圧倒的な大兵力を擁していたとしても、大戦略なき軍隊は勝つことは出来ないのだ。

そこで柳也は、数日前から対バーンライト戦の戦略と戦術計画の研究を独自に始めていた。

この世界の歴史、政治、経済を踏まえた上で、情報部の入手した情報とダグラスが独自に得た情報を基にラキオスとバーンライトの国力を総合的に分析・検討をする。自身の実戦経験と、ハイペリアの戦史の知識を総動員して、大戦略を練る。

自分がラキオス王の立場になったとしたら、何を最優先にするか。ラキオスという国の体力は長期戦向きか、それとも短期決戦向きか。具体的な作戦計画を考える上で必要不可欠な基本事項を、徹底的に洗い出す。

――まずは問題を整理しろ。その次に課題の設定だ。問題を解決するためには、どんな課題を目指すべきか……。

柳也は白地図の全体を見渡しながら何度も深呼吸を繰り返した。新鮮な酸素を脳に送り込むことで、常に思考をリフレッシュさせる。

ラキオスの戦力がバーンライトに攻め込む上で適当なルートは大別して二つ。

一つは東のエルスサーオを中継して国境線を越えて進軍するルート。もう一つは南のラセリオを中継して敵国領土内のサモドア山脈に侵入、山脈を踏破して首都サモドアに直接殴り込むルートだ。

この二つのルートにはそれぞれ進軍する側にとっての長所と短所があり、当然、どちらのルートから攻め込むかによって執るべき戦術も変わってくる。

勿論、部隊の訓練は、その戦術に即したものが望ましい。そしてそのためにも、基本戦略の方針の決定は早い方が望ましい。

――もしこのまま方針が決定されずに時間ばかりが過ぎていくようなら、一度ダグラス殿を通して催促をしないと。

戦いはたとえ拙劣でも素早い決断の方が重要である。孫子の『兵聞拙速』の原則は、なにも実際に戦っている時ばかりに適応されるのではない。戦いの前の準備の段階においても、戦略の素早い決定は有利にはたらく。決定が早い分だけ、浮いた時間をその準備に当てることが出来る。

柳也はダグラスを通じてラキオス王を動かすことを本気で検討し始めていた。

そしてその際に提出するべきデータとしての戦略案を、彼は本格的に練り始めていた。

ノックの音が二度、柳也の背中を叩いた。

白地図を広げたデスクはドアとは真逆の方向を向いて、部屋の壁に寄り添っている。柳也が『どうぞ』と答えると、今度はドアの開閉する音に加えて、『し、失礼します』と、聞き覚えのある声が彼の背中を撫でた。

柳也は身体ごとそちらの方を振り返る。

ここ数日ですっかり見慣れたツインテールの少女が、やや緊張した面持ちで立っていた。

「どうした、ヘリオン?」

「ば、晩御飯が出来たので呼びに来ました」

「お、もうそんな時間か」

柳也は父の形見の腕時計に目線を落とし、軽い驚愕に苦笑する。

白地図との睨めっこに夢中になっている間に、すっかり時間が経っていた。

今日は自分とネリーの対戦訓練にみなが付き合ってしまったため、その分、夕食の時間が遅れている。いつの間にか午後九時を過ぎていたという事実を認識した柳也は、その瞬間、空腹を感じた。我ながら現金なものだと、柳也は二重の苦笑に顔をしかめた。

しかしすぐに気を取り直すと、彼は嬉しそうに顔をほころばせた。

飯時がやってきたことで、早くも楽しい気持ちが込み上げてくる。食べることが趣味といっても過言ではない、大食漢の柳也だった。

「ありがとうな、ヘリオン。いまやっている作業のキリをつけたら、そっちに行くよ」

柳也はそう言って、ニコニコしながら机と向き直った。

ここにきて、頭脳労働への意欲は最高点に達しようとしていた。

「あの……リュウヤさま!」

再び柳也の背中に声がかけられた。

先ほどよりやや強い語調の声。

柳也は他にも用件があったのかと、再度へリオンを振り返った。

相変わらずドアの前に立っているヘリオンは、緊張からか顔を真っ赤にして、なにやら口をもごもごさせていた。

言いたいことはちゃんとあるのにどう切り出せばよいか考えが上手くまとまらない、といった様子だ。どうやらヘリオンの用件は、本来ならば口にすることがはばかられるような内容らしい。加えて恥ずかしさもあるらしく、発すべき言葉を探す間、ヘリオンの目線が柳也の顔を捉えることはほとんどなかった。たまに視線がぶつかり合っても、すぐに目を逸らされてしまう。

まだ年若いスピリットだからというのも、なかなか話を切り出せない原因の一つだろう。妖精差別の思想が根深い有限世界では、スピリットは対人スキルを磨く機会が少ない。まともな常識の持ち主であれば、スピリットと進んで話そうなどとは思わないからだ。その結果、特に人生経験そのものが絶対的に少ない若いスピリットの中には、コミュニケーション能力が著しく低い者が生まれてしまう。

柳也はヘリオンから話し出すまで待ちの姿勢を貫くことにした。

彼女が言葉を紡ぎやすいよう助け舟を出してやるのも考えたが、それではいつまで経ってもヘリオンのコミュニケーション・スキルは上達しない。

柳也はこの部屋にやって来たヘリオンの勇気を信じることにした。

彼はヘリオンがこの部屋にやって来たもう一つの用件について、大体の見当をつけていた。おそらくヘリオンは、訓練にかこつけて同僚をいじめた自分に対し文句を言いに来たのだろう。

スピリットが人間に対して上申をするなど、本来ならば許されることではない。たとえそれがどんな理不尽な命令であっても、スピリットは人間に服従しなければならないからだ。その禁を破ってまでやって来たヘリオンの勇気は、賞賛に値すべきものだ。

この部屋に来るのとて、かなりの勇気が要ったに違いない。

柳也はそのヘリオンの勇気を信じ、彼女が口を開くのを待った。

躊躇いは、十秒にも満たない短い時間だった。

やがて意を決したか、ヘリオンが、おずおず、と口を開いた。

「あ、あの……昨晩は、ありがとうございました!」

ヘリオンは顔を真っ赤にしたままそう言って勢いよく腰を折った。

両側から垂らした長髪の先端が床に着くか着かないかというギリギリの位置でピタリと止まり、その位置を維持し続ける。腰の角度は、ほとんど六十度近かった。

「……うぇ?」

突如として礼を述べられた柳也は、思わず素っ頓狂な声を上げた。

ネリーに過酷なしごきを強いたのはわずか数時間前のこと、てっきりその件で糾弾されるものとばかり思い込んでいただけに、ヘリオンの言葉と態度は、完全に柳也の不意を衝く形になった。

まさか礼を言われるとは思ってもいなかった柳也は、思わず唖然としてしまう。

ヘリオンがなぜこのタイミングで礼を述べたのかもわからなければ、その理由すら思いつかない。

それもそのはず、あまりにも予想外の事態に、柳也は一瞬、軽い思考停止状態に陥っていた。

頭の中からあらゆる思考が掻き消えたのは、ほんの一瞬だった。

次の瞬間にはもう、柳也の頭は思考を活発化させていた。

吟味に吟味を重ねた冷静な思考の末、彼はヘリオンに向かって口を開いた。

「……ええと、何が?」

吟味に吟味を重ねた冷静な思考の末、柳也はヘリオンに礼を述べられる理由に思い至らなかった。

ヘリオンと初めて出会った一昨日から今日までの三日間をつぶさに思い返してみても、それらしい記憶に結びつかない。そればかりか、思い浮かぶのは、自分が「申し訳ありませんでした」と、謝罪しなければならないような出来事ばかりだった。

――エルスサーオに引き続きまた記憶喪失か? ……はっ、それともまさか、今度こそ本当にキャトルミューティレーション!?

【主よ、その可能性は絶対にありえない】

一瞬、脳内をよぎったドリームな妄想を〈決意〉の無情な一言によって両断されてしまった柳也は、本格的に思考の迷宮に囚われてしまう。以前、エルスサーオで記憶を失った時は、「ドリーム」というキーワードから失わ(させら)れた記憶を取り戻したが、今回ばかりはお手上げだった。

柳也はヘリオンの返答を待った。

顔を上げたヘリオンは、控えめな口調で柳也に言う。

「昨晩の、お菓子のことで」

「ああ……」

ヘリオンの小さな呟きに、柳也はようやく得心した様子で頷いた。

昨晩遅くまで独り稽古に精を出していたヘリオンにドーナツを作ってやったことは、柳也にとってあまりにも当たり前の行為だった。いってみれば呼吸をするのと同じで、一日の間に息を吸って吐いた回数などいちいち憶えているわけがない。柳也の中で昨晩の出来事は、すでに風化した記憶となっていた。

「あれはそんな、礼を言われるような立派なことじゃないな」

柳也は苦笑を浮かべながら頭を掻いた。いまのいままですっかり忘れていた出来事を褒められても、いまいちピンとこない。

「それより、アレ、食べてくれたのか?」

「はい! 美味しく頂きました」

ヘリオンは嬉しそうな笑みを浮かべて頷いた。

裏表のない明るい口調は、それが本心からの言葉であることを柳也に教えてくれる。

「そ、そうか」

柳也は自然と頬の筋肉が緩んでいくのを実感した。

たとえお世辞だったにせよ、自分の作った料理を褒めてもらえるというのはやはり嬉しい。それがヘリオンのような美人の発言なら尚更だ。

柳也はヘリオンの笑顔に対し、自身もまた笑顔で向き合った。

「いや、それはよかった。本音を言うと久しぶりに作ったものだったから、ちゃんと食べられるものになっていたかどうか、ちょっと心配だったんだ。口に合ってくれたようでなによりだった」

実をいえば、久しぶりだったのはドーナツを作ることだけではなく、料理自体久しぶりの経験だった。まして味付けは異世界出身の自分好みのものだ。ありがた迷惑でなかったか、と柳也は安堵の息をついた。

そんな柳也の態度にヘリオンもだいぶ緊張が解れてきたか、彼女はごくごく自然な笑みで続けた。

「嬉しかったです」

「ん?」

「お菓子を作ってもらったこともそうですけど、わたしのことを気遣ってくれたこと。あまり無理はするな、って手紙をくれたこと」

「いままでに人間の方からそんな風にしてもらったこと、ありませんでしたから」と、ヘリオンは少しだけ寂しそうに呟いた。

ここにも、スピリット差別の風潮の被害者がいた。

なるほど、スピリットのヘリオンはそれだけでこれまで人間から何かしてもらうなんて経験はなかったに違いない。むしろ、一方的に奉仕を強要させられるばかりだったことだろう。そしてそんなヘリオンに、奉仕を強要した有限世界の人間達は、感謝の言葉一つ与えてこなかったに違いない。

柳也にとっては記憶にも残らないような当たり前の行為は、ヘリオンにとってはすべて生まれて初めての経験だったのだろう。

生まれて初めて、人間から手紙をもらった。

生まれて初めて、人間からお菓子を作ってもらった。

生まれて初めて、人間からその身を気遣ってもらえた。

ヘリオンの目にはそれらの体験が、特別なことに映ったのだろう。

ヘリオンの言葉を受けた柳也は厳しい表情を作った。

「嬉しかった」と、自分の気持ちを正直に告げたヘリオンに、かけるべき言葉が見つからない。

暗い雰囲気を伴った、短い沈黙。

ヘリオンに対してどんな言葉をかけてやるべきか悩む柳也に、しかし彼女は、場の空気とは反対に、明るい笑みを浮かべて口を開いた。

「ネリーさんのことで、リュウヤさまを悪く言う人がいるのは事実です。でも、わたしはリュウヤさまを信じています」

「ヘリオン?」

「だってリュウヤさまは、わたしに無理をするな、って言ってくれましたから。スピリットのわたしにも、そういう風に言ってくれましたから。……そんなリュウヤさまが、ネリーさんに無理をさせるのは、何か理由があるから、ですよね?」

「…………」

柳也は答えなかった。優しい微笑みとともに問うてくるヘリオンに、答えることができなかった。

そんな柳也の態度を無言の肯定と受け取ったか、ヘリオンは「やっぱり」と呟くと、

「わたしはリュウヤさまを信じます」

と、先ほどとは少しだけ違ったニュアンスの言葉を口にした。

自分を見つめる黒い瞳には、強い決意の色が覗えた。

「それだけ言いたかったんです。……では、失礼します」

「あ、ああ……ヘリオン!」

ヘリオンは礼儀正しいお辞儀を一つ柳也にくれると部屋のドアに向き直った。

柳也はそんな彼女の背中を、思わず呼び止めていた。

彼女にかけるべき言葉が、ようやく見つかった。

「……ありがとう」

不意に呼び止められ、きょとん、としていたヘリオンに、柳也は心からの言葉を告げた。

次の瞬間、ぼっ、とまるで火がついたかのようにヘリオンの顔が真っ赤に染まった。

おそらく、このように礼を言われるのも初めてなのだろう。

耳まで真っ赤にしたヘリオンは、それでも、嬉しそうな笑顔を浮かべて部屋を出て行った。

 

 

「信じます、か……」

彼女の去っていったドアを見つめながら、彼女が去り際に言い残した言葉を反芻する。

そうしているうちに、柳也の口元に、不意に微笑がはじけた。

「……やばいなぁ。癒される」

呟いた柳也は再び机の白地図に向き直ると、ぱんぱん、と頬を二度叩いて気合を入れた。

「さあて、もちっと頑張りますかね!」

 

 

――聖ヨト暦三三〇年、エクの月、緑、みっつの日、夜。

 

「し、死んだ方がマシ……」

柳也との対戦訓練を十時間以上続けたネリーは、最後の力を振り絞ってそう呟くと、へとへと、に疲れきった身体をベッドに投げ出した。

同室で暮らすシアーが隣から「ネリー、大丈夫?」と、気にかけてくれるが、それに答える気力すら湧いてこない。

襲ってくる強烈な睡魔に、ネリーは抗うことなく身を委ねた。

 

 

――聖ヨト暦三三〇年、エクの月、緑、よっつの日、夜。

 

「死にたい……」

その翌日、今日も柳也にしごかれたネリーは、昨夜と同じようにベッドに身を投げ出した。

昨晩と同様、襲ってきた睡魔に対し、ネリーは抗う術を持たなかった。

 

 

――聖ヨト暦三三〇年、エクの月、緑、いつつの日、夜。

 

「死ねばいい……」

さらにその翌日、今日も今日とて十数時間に及んだ柳也のしごきを受けたネリーは、自室に戻るなりベッドに倒れ込んだ。

酷使した肉体と、すり減らした神経は、睡魔に抗うだけの力を持っていなかった。

 

 

――聖ヨト暦三三〇年、エクの月、黒、ひとつの日、夜。

 

「死んだ……」

もはや辛いという感情すら湧いてこなかった。

訓練というよりは作業となりつつある対戦を終えたネリーは、部屋に戻るなりベッドに寝転がった。

睡魔と戦う気は、最初からなくなっていた。

 

 

――聖ヨト暦三三〇年、エクの月、黒、ふたつの日、朝。

 

今日も今日とて対戦訓練にいそしむ柳也とネリーは、三間の距離を隔てて対峙していた。

「ネリー、今日は何度死ぬ予定だ?」

〈決意〉を寄生させた同田貫を正眼に構える柳也は、同じく正眼に構えるネリーに問うた。

最低でも十時間に及ぶ対戦訓練も今日で六日目。さすがに慣れてきたか、このような軽口はいまや当たり前のやり取りだ。

「うん……と、十五……ううん、十回くらいかな」

「ふっ……腕を上げたな」

指折り数えて言ったネリーの返答に、柳也はニヤリと笑った。実際、一日々々と時を刻むにつれ、ネリーの実力はめきめき向上していた。そのことは初日と比べて格段に上達した正眼の構えからもわかる。対戦訓練を始めた初日は、七十回以上死んだネリーだった。

午前の訓練開始を告げる鐘が鳴り、同時に、柳也とネリーの対戦訓練が始まった。

柳也はネリーに己の持つ全力をぶつけ、ネリーもまたそれによく応えた。

リリアナ・ヨゴウを始め、ラキオスの訓練士達はその光景を、じっ、と眺めていた。

時折、一文字に閉ざされたリリアナらの唇から、「おおっ」と、感嘆の呻きが漏れる。

対戦訓練を始めた初日では防戦一方、なす術もなく柳也の攻めに翻弄されるしかなかったネリーが、時に反撃すら見せるようになっていた。

リリアナらの視線はいつしか二人の織り成す斬撃の軌跡よりも、二人の顔に吸い込まれていった。

柳也の顔にも、ネリーの顔にも、強者との戦いに歓喜する、剣士の笑みが浮かんでいた。

 

 

――同日、夕方。

 

エクの月はハイペリアでいうところの七月に相当する。

日本やヨーロッパといった比較的温暖で、四季の安定した地域に似たラキオスでも、この時期の日の入りは遅い。

柳也とネリーの対戦訓練が始まってから十時間が過ぎようとしていた。時刻はいまや午後七時。昼の間に腹を空かした地平線が太陽を飲み込み始め、空には薄い朱色と山吹色、紺色が同居するようになっていた。

ほの暗い紺色の夜空の方には、ちらほらと星の姿が見て取れる。

すでに正規の訓練は終わっていた。

自らの訓練を終えたSTFの面々は、しかし誰一人として詰め所への帰路に就こうとはせず、みな一様にしていまだ続く柳也とネリーの対戦を眺めていた。

いつまでも続くかと思われた二人の戦いは、いよいよ佳境を迎えようとしていた。

距離にして約四間半の間合いを隔てて、柳也は同田貫を地擦りに、ネリーは〈静寂〉を八双に構えて、静かに睨み合っていた。

自分から攻め込む戦い方を得意とする二人が、互いに待ちの姿勢を取るようになってすでに十分が経過していた。その間、武人の作法を弁えている訓練士達は言うに及ばず、STFの面々もまた、なんら声を発せないでいた。咳払いだろうと、声らしきものは出なかった。そればかりか、野外訓練場にやって来たヒバリさえ啼こうとしない。

あたかも、対戦訓練初日の、最後の攻防を思わせる静謐な睨み合いだった。

静かすぎてかえって耳が痛くなるほど、しぃぃん、と静まり返ったその場では、対峙する両者の息遣いだけが、世界に存在する唯一の音だった。

すでに幾十、幾百と打ち合った得物を支える二人の息は荒かった。

柳也もネリーも、連日の戦いで疲労は極限に達していた。

対戦訓練を始めたばかりの頃の軽快な動きをするだけの余力は双方ともになく、両者は互いに無駄な動きを一切排した、待ちの戦術で睨み合っていた。

相手の攻撃を誘う動きすらしない。

ただ付け入る隙を決して見逃すまいとする双眸だけが、互いに炯々と輝いていた。

峻烈な殺気が、大地の上を幾重にも滑っていた。

野天の下の二人は自分達が透明な見えない箱の中にいると感じた。

箱の中には互いの闘気と殺気、そして剥き出しの剣気が充満している。

この箱からそれらの純然たる生気が溢れ出た時が、勝負の時だった。

ネリーの背中に、白い羽根が出現した。

ウィング・ハイロゥ。

青白い燐光を放出する戦闘用の白い翼の出現は、ネリーがここにきて自身の持つ最大の力を放とうとしている証だった。

荒い息遣いが、徐々に静かに、徐々に細くなっていく。

互いに相手の一点を見ているようで相手の一挙一動すべてに視線を配る二人の目に、烈々たる炎が灯った。

斬撃の緊迫が、対峙する二人を、二人を取り巻くみなを襲った。

ほぼ無音で地面を切ったネリーが、一発の砲弾と化した。

まるで野生の蛇を思わせる俊敏な動きで、青い稲妻が地面を這った。

獲物を完全に補足した蛇はかま首をもたげると、腰の捻りを加えながら跳躍した。

重力が作用するよりもいち早く、ハイロゥの力で強引に落下し、八双に構えた〈静寂〉を袈裟に振り抜く。

跳躍の落下とハイロゥの加速を刀勢に載せた、リリアナ・ヨゴウの必殺剣リープアタックの変形だ。

リリアナのリープアタックは跳躍の際にあえて背中を向けることで相手の虚を衝くが、神剣の加護を受けているスピリットに相手の油断を誘う必要はない。

ネリーのリープアタックはリリアナのそれと比べるとはるかに雑で、むらも多かった。

しかしネリーの袈裟斬りはリリアナのそれよりもはるかに高速で、強力だった。

集中力のすべてを斬撃に託したか、ネリーの一撃はかつてない正確さと勢いを孕んでいた。

目前に迫る斬撃を、柳也は真っ向から迎え撃った。

地擦りに構える柳也の下肢が、ぐっ、と地面に沈み、肥後の豪剣二尺四寸七分が信じられない伸びを見せて上空へと舞い上がった。

昇竜。

天から地へ。

地から天へ。

二つの斬撃が激突し、火花が散った。

周囲の観衆から、「ああっ」と、どよめきが上がった。

互いに神剣の位は第七位。

豪剣同士の一騎打ちを制したのは、天から降り注ぐ斬撃だった。

柳也の手から、同田貫が滑り落ちた。

次の瞬間、柳也は己の左肩に硬い感触を感じた。

柳也の左肩に、〈静寂〉の切っ先が鋭角に、ぴたり、と触れていた。

あとほんの数度、水平に近付ければ、いつでも自分の首を切り落とせる進入角だった。

柳也は自身の肩口には一瞥もくれず、間近に迫ったネリーのアクアマリンの眼を見た。

少女の瞳には、自分の顔が映っている。そして瞳に映る自分の目もまた、少女の姿を捉えて離さない。

視線と視線が、静かにぶつかり合った。

やがて柳也の乾いた唇から、掠れた声が漏れた。

「ネリー……まだ、死んだほうがマシか?」

「ううん」

柳也の問いかけに対し、ネリーは首を横に振った。

次の瞬間その顔に、可憐な微笑が浮かんだ。

見ている方が不思議と元気の出てくる、屈託のない笑顔だった。

「生きてるほうが、やっぱり楽しいよ」

「……そうか」

ネリーの返答に、柳也は静かに頷くと瞑目した。

一瞬の沈黙の後、目を開けた柳也の顔には柔和な笑みが浮かんでいた。

「よし、訓練終わり」

柳也はそう呟くとにっこり笑ってネリーの肩を抱き寄せた。

周囲の観衆から、どよめきの声が上がった。

水色のポニーテールが、ふわっ、と空中で跳ね、肩口に触れていた〈静寂〉が地面に滑り落ちた。

何の宣告もない、突然の抱擁。度重なる戦いの中ですっかり染み付いた汗と土の匂いに混じって、少女特有の甘酸っぱい香りが柳也の鼻腔に広がっていく。

先ほどのリープアタックに文字通りすべての力を注ぎ込んだか、ネリーの小さな身体はさしたる抵抗もなく柳也の腕の中に納まった。

「りゅ、リュウヤさま!?」

突然の事態に戸惑いを隠せないネリー。

柳也はネリーの頬を胸板に感じながら、構わず彼女の小さな背中を、何度も、何度も撫でさすった。

ヤスデの葉を思わせる大きな手が見せる繊細な手つきは、今日まで自分との対戦に付いてきた少女への労いと敬意で、どこまでも優しかった。

柳也はネリーの耳元に口を近づけると、彼女にだけ聞こえるよう、そっと囁いた。

「今日までお疲れさん。それから、申し訳なかった。さんざんいじめるような真似をしてしまって」

柳也の呟きを耳にしたネリーが、彼の胸元で、はっ、と顔を上げた。

柳也は穏やかな表情と口調で言葉を続ける。

「俺と初めて戦った日のことを憶えているか?」

「うん」

「あの時、ネリーは言ったよな? 必殺技とかあった方がクールだ、って」

「うん」

「実はさ、あの言葉を最初に聞いた時、俺は不安だったんだよ」

「不安? リュウヤさまが?」

ネリーが意外そうな表情で問うた。

見れば、周りのみなも同じように目を丸くして柳也のことを見ている。

柳也はゆっくりと頷いた。

「ネリーが、楽しむことを前提に戦おうとしているんじゃないか、って。戦いは楽しめて当たり前、自分が死ぬなんて絶対にありえない。あの時のネリーの態度が、俺にはそう見えてしまったんだ」

柳也は背中に回していた両手を解くと、ネリーの両肩にそっと置いた。

ゆっくりと、諭すような口調で語りかける。

「でもな、違うんだよ。俺達がやっている戦争っていうのは、自分が死ぬなんて絶対にありえない、じゃないんだ。実際はその逆で、死ぬ方が当たり前、むしろ、生きていられる方が幸運なんだよ」

両親を一度に失ったあの交通事故。あの時、もし父と母の二人のうち、一人が自分の命を優先してその場から逃げ出したとしたら、自分はいまこうしてネリーの温もりを感じることも出来なかっただろう。そしてそうなる可能性は、あの時、十分にあった。

人間の生死とは本当に些細な偶然で決まるものだ。

柳也はそこで一旦言葉を区切ると、深々と息を吸い込み、周囲の観衆にも聞こえるような大声で続けた。

「みんなも聞いてくれ! 俺達が戦いの中で生き残るためにいちばん必要なのは、格闘戦の技術でも永遠神剣の位でもない。死んだほうがマシだと思える状態にあっても、生きて明日を見るんだというその気持ちが……生きることに対する貪欲な執着心が、俺達を生き残らせるんだ。

生きているということはそれだけで幸福なことだ。生きてさえいれば、美味い飯が食える。やりたいことがやれる。楽しい、嬉しい、幸せだ、辛い、苦しい、悲しい……そうした感情は、生きている者だけの特権だ。

楽しめばいいんだよ、戦いなんて。思いっきり楽しんでやれば。俺自身、戦うことが楽しくて、楽しくて、しょうがない人種なんだから。……でもな、楽しむことを前提に戦うのは駄目だ。楽しい、って気持ちは、生きていて初めて感じることが出来るものだ。楽しむことよりも先に、まずは生き残ることを考えないといけないんだ。それから、何があっても死んだ方がマシだなんて思ってはならない。ネリーには、そのことを知っておいてほしかった」

柳也はもう一度ネリーの水色の瞳を見た。

「最後の方は長々と説教みたくなっちまったな。最後ついでに、一つだけネリーに質問だ。今日の訓練はこれで終わりにするが、明日からネリーはどうする? ネリーが望むのなら、俺のスパイラル大回転斬りを教えてやってもいいが」

「ううん」

柳也の申し出に、ネリーは首を横に振った。

「やっぱりシアー達と一緒に訓練するよ。そっちの方が楽しいし、いまのネリーには必殺技よりも必要なことがあると思うから」

「そうか」

ネリーのきっぱりとした返答に、柳也は微笑を浮かべて頷いた。

「それに、スパイラル大回転斬りって、なんかクールな名前じゃないし」

「そ、そうか……」

柳也は今度は複雑な顔で頷いた。

スパイラル大回転斬りのネーミングは柳也自身会心の出来栄えだと思い込んでいただけに、それを否定されるようなことを言われるのは少しショックだった。

しかし柳也はすぐに気を取り直すと、リリアナら訓練士連中に目線を転じた。

「ということだそうだ。ネリーには、明日から他のみんなと同じ訓練を課す」

「わかった」

STFの訓練スケジュールの総監督を努めるリリアナが、重々しく頷いた。

「それじゃあ解散だ。……みんな、帰ろうぜ」

リリアナの承諾を受けた柳也が宣言し、同じ詰め所の面々を帰路へと促す。その中には無論、ネリーも入っている。

柳也に促されたネリーは「うん!」と、元気良く歩き出そうとして、失敗した。

「あれ?」

と、不思議そうな声を唇から漏らし、ネリーはその場にへたり込んでしまった。

すぐに立ち上がろうとするが、それが出来ない。どうやら柳也の訓練終了の宣言で筋肉の緊張が解けてしまったらしい。両脚にまったく力が入らない様子だった。ネリーの顔に、困惑の表情が浮かぶ。

さっきまで自分を追い詰めたあの眼光鋭い剣士はどこにいったのか。

柳也は苦笑を噛み殺しながら、「ほら」と、ネリーに右手を差し出した。

「あ、ありがと」

ネリーは礼を口にしながら柳也の右手を掴んだ。

柳也は右腕に最大の力を篭めて、ぐっ、と引っ張り上げようとする。しかし、柳也もまた失敗してしまった。

引っ張り上げて立たせるところまでは上手くいったが、その後、勢い余って倒れてきたネリーを支えようとした柳也は、自らもまたバランスを崩してしまった。

どうやら筋肉に上手く力が入らないのは、彼も一緒だったらしい。

受身を取ることすら出来ぬまま背中から地面に倒れ込んだ柳也は、苦痛に顔をしかめた。

柳也の上に倒れ込んだネリーも同様に顔をしかめた。

柳也が身体を起こそうと首を傾けると、ネリーと目が合った。

二人はしばしの間黙って互いに見詰め合っていたが、やがてどちらからとなく吹き出した。

柳也もネリーも、感情の昂ぶりを抑えられなかった。二人はわけもなくしばしその体勢のまま笑い合った。

それから柳也は、自分達に怪訝な眼差しを向ける悠人らを見た。

「……申し訳ないが、誰か、手を貸してくれないか?」

慌てた様子のヘリオンとシアーが駆け寄ってきた。

 

 

――同日、深夜。

 

第二詰め所の管理者に就任した柳也の一日は予算の仕訳と業務日誌の作成で終わる。

いつもならほんの二、三十分で終わる簡単な作業だったが、連日の対戦訓練で疲れきった今日ばかりは、その二、三十分が非常に辛かった。

「ね、眠い……」

いずれ正式な帳簿に転記するためのノートに数字を書き込みながら、柳也は呻くように呟いた。

手にした百グラムにも満たない筆が、非常に重かった。のみならず、瞼も異様に重い。すでに意識は朦朧とし始め、いよいよ睡魔との持久戦にも限界がこようとしていた。

「や、ヤヴァイ……いよいよ、俺とスイマーの戦いがツーストライクでオフサイドからのパスがタックルに結びついてコールド負けのタッチダウン……」

襲いくる眠気を振り払おうと、必死に動かす唇から出てくる言葉も、呂律が回らないどころか意味がわからない。

詰め所の予算の動きを書き記す運筆もふらふらしており、無地の帳面には、古代の失われた文字と言い張っても十人中六人までが信じてしまうような、得体の知れない“何か”が書き殴られていた。

【眠そうだな、主よ】

「ね、眠そうじゃなくて、本気で眠いんだヨーゼフの口の中からパトラッシュがこんにちは……」

頭の中に直接語りかけてくる〈決意〉の声もどこか遠くの出来事のように聞こえた。すでに五感のあらゆる機能が、著しく低下している。

ちなみに〈戦友〉の意識はすでに眠っていた。〈戦友〉は永遠神剣という深い英知の塊にも拘らず、数字に対して極端な拒否反応を示す傾向がある。根っからの文系娘なのか、足し算と引き算が苦手で、柳也が毎晩仕訳を始めると、すぐに寝てしまうのが、ここ最近の常だった。

【主よ。仕訳と日誌は明日に回して、今夜はもう寝たらどうだ?】

「うぅ…そうするかなぁ……」

エコノミック・アニマルとまで呼ばれた日本人だけあって、柳也も普段ならばどんなに眠かろうと一日の仕事をきっちりこなしてからベッドに横になる。

しかし今夜ばかりは、〈決意〉の申し出は魅力的であり、抗いがたかった。

「うん。そうしよう」

柳也は帳面にどこまで作業を進めたのか簡単なメモを挟むと、のろのろとベッドに足を向けた。

エーテル灯の明かりを落とし、ほとんど倒れるようにしてベッドに横たわる。手探りで毛布をさぐり当てると、肩までかぶった。

――……おやすみ、〈決意〉。

【……うむ。主よ、よい夢を】

〈決意〉の声が、やけに遠かった。

瞼を閉じてわずか数秒、本当に疲れていたらしく、柳也の意識はすぐさま暗闇の世界へと足を向けていった。

 

 

「……ようやく、眠ってくれたか」

柳也が闇の世界へと意識の手綱を手渡して十分後、眠りに就いたはずの彼の唇から、不意に呟きが漏れた。

低く、どこまでも暗い声だった。それでいて割れ鐘を叩くような、くすんだ高音を含んでいる。動いているのはたしかに柳也の唇だったが、普段の彼が発するそれとは明らかに異質な声だった。

柳也は上体を起こすと、ゆっくりと瞼を開けた。

わずかにすかした窓から差し込む月明かりが、その横顔を照らしている。

もしこの場に、柳也のことをよく知る第三者がいたならば、あまりの現実離れした光景に思わずわが目を疑ったことだろう。

開眼した柳也の瞳は、ルビーの原石よりもはるかに濃い、燃えるようなスピネルの赤い輝きを宿していた。光の加減でも、比喩でもない。ましてやカラーコンタクトのような、作られた色でもない。典型的なモンゴロイドの柳也では絶対にありえないはずの、天然の赤い輝きが、彼の眼を彩っていた。

心なしか、顔つきもいつもの柳也より険しく見える。

不意に、柳也の口元の筋肉が、ふっ、と緩んだ。

「まったく、わが主は強き男よな……。眠っている間ですら精神は強靭にして強大。まさか肉体の主導権を得るのに、これほどの時間がかかるとは思わなかったぞ」

不敵な冷笑とともに、再び、柳也の唇から呟きがこぼれ落ちた。

その口調は誰であろう、他でもない永遠神剣第七位〈決意〉のそれだった。

いま柳也の身体の中では、かつて悠人が〈求め〉の意思に肉体の主導権を乗っ取られた時と同じことが起こっていた。永遠神剣の意識による、契約者の肉体の支配。いまや柳也の肉体は、完全に〈決意〉の制御下にあった。

実は〈決意〉は、オペレーション・ゲットバックを終えたあの日から、柳也の身体を乗っ取るべくその機会を虎視眈々と待っていた。

〈決意〉には柳也の肉体を使わなければ果たすことの出来ないある目的があった。

その目的とは、柳也には決して明かせない内容であり、告白すれば最後、いまの自分達の関係は修復不可能なくらいに壊れてしまう可能性を秘めた爆弾だった。

ゆえに〈決意〉は、柳也の身体を乗っ取ることを企て、それを今夜実行に移したのだった。

永遠神剣と契約した者はその強大な力の恩恵を得る代わりに、精神の侵食というリスクを常に背負わねばならない。

柳也達エトランジェやスピリットが永遠神剣の持つ超絶的な力を引き出すには、己の所有する神剣との同調を深めねばならない。これは言葉にすると簡単なことのように思えてしまうが、その実、非常に危険な行為だった。

神剣と同調するということは、文字通り神剣と心を一つにすること、神剣の精神と自分の精神とを同化させることに他ならない。高名な心理学者や脳外科医の言葉を借りるまでもなく、契約者の脳に多大なストレスを強いることは明白だった。精神障害に陥ってしまったとしても、なんら不思議ではない。

また、一度混ざり合ってしまったコーヒーとミルクを再び分けることが難しいように、同調の度合いがあまりにも深すぎると、取り返しのつかないことになりかねない。〈求め〉の強制力に苦しむ悠人然り、神剣との同化が進んでいる節のあるアセリア然り。強大すぎる神剣の意思力に飲み込まれ、自我を喪失してしまったスピリットの数は、決して少なくない。

ゆえに永遠神剣の契約者は、同調の際には細心の注意を払うのは勿論のこと、万が一、神剣との同調を深めすぎてしまった場合に備えて精神を鍛えておかねばならない。

そしてこの精神力という点において、桜坂柳也という男は永遠神剣の使い手として第一級の資質を持った人間といえた。

もともと柳也は過去に両親の死やいじめといった辛い体験を経験している。それらの苦しみを乗り越えた柳也の精神の強靭さ、状況に対する順応力は、同世代の普通の青年よりもはるかにずば抜けていた。

また、肉体の乗っ取りを企む〈決意〉は第七位の神剣で、決して強い強制力を持った神剣ではなかった。第四位の〈求め〉のような力があればまだしも、真っ向から強制力を行使して肉体が乗っ取れるほど、柳也は簡単な相手ではない。

そこで〈決意〉は、柳也の精神が最も油断し、最も弱ったタイミングを狙うことにした。

人間の精神は肉体の影響を強く受け、肉体は精神の影響を強く受ける。

病気や怪我で身体が弱っている時は、精神も弱気になる。

ネリーとの対戦訓練で疲れきった柳也の意識はいまや闇の底に沈んでいた。その隙を衝いた〈決意〉が、肉体の主導権を握るのは造作のないことだった。

もっとも、裏を返せば、そうした諸々の条件が揃わなければ〈決意〉が柳也の肉体を乗っ取るのは不可能だったということだ。

〈求め〉と契約を交わした悠人は、しばしば容易にして肉体を乗っ取られることがあった。神剣の位の差を踏まえても、並々ならぬ柳也の精神力だった。

「わが主は、まこと頼もしくもあり、厄介な男よな」

桜坂柳也の姿をした〈決意〉は、契約者として選らんだ男の精神力の強大さに改めて誇らしい気持ちと疎ましい気持ちとで、複雑な表情を浮かべた。

ともあれ、肉体の乗っ取りには成功した。

これで、かねてから目論んでいた計画を実行することが出来る。

柳也の姿をした〈決意〉はベッドから降りると、すぐ手の届く範囲にたてかけられた同田貫と脇差を手挟んだ。

実用一本黒鞘を鷲掴むその眼からは、剣呑な眼光が放出されている。

〈決意〉はラキオス王国軍の制服に手早く着替えると、開放された窓枠に足をかけた。

玄関は使えない。玄関を通って外に出れば、誰かに見つかってしまうかもしれない。

「我のため、主のため…そして、法皇テムオリン様のために……」

窓枠を乗り越えるわずかな一瞬、〈決意〉は自らの役目を、そして目的を再確認するように、小さく呟いた。

「〈求め〉…今宵こそ、貴様を砕かせてもらうぞ!」

間違いなくラキオス最強を誇る剣士の肉体を乗っ取った永遠神剣は、その男の戦友が眠る洋館へと歩き出した。

 

 

 

 


<あとがき>

 

〈決意〉支配柳也「ぐっへっへっへっへ、幼女はどこだぁ〜?」

 

北斗「ふっはっはっはっ、幼い美少女はいないかぁ〜?」

 

タハ乱暴「……え? こんな入り?」

 

リリィ「―――――――――――帰ってもいいですか?」

 

タハ乱暴「ああっと、駄目だリリィ! 今回のあとがきでは、お前の立ち絵初公開、お披露目パンチという名目なんだ! 主役がいなくなってどうする?」

 

柳也「……お披露目パンチ?」

 

北斗「個人的にはお披露目パンチよりもお披露目パンチラを……」

 

タハ乱暴「北斗、その発言駄目っ! お前のキャラのイメージがどんどん崩れていく!」

 

アヴァン「ども〜、ゆきっぷうの代理で注文の品を届けに……来たんだけど、何ゆえ北斗が変態チックな笑顔を?」

 

北斗「よいではないかリリィ君、さぁ、いまこそ私の目の前でお披露目パンチラを……」

 

“ぱきゅーんっ”

 

北斗「ぐふぁあっ!」

 

柳也「あ、死んだ」

 

タハ乱暴「この距離、この頭部をピンポイントに狙った正確さ……あいつがやったのか。よし、変態が死んだいまのうちに!」

 

柳也「まぁ、お前も変態だけどな」

 

タハ乱暴「うるさいわい! え〜、永遠のアセリアAnotherEPISODE:30、お読みいただきありがとうございました!」

 

柳也「今回は変態による、変態のための、変態が……」

 

北斗「……どこまで変態を押すつもりだお前は?」

 

柳也「あ、変態が復活した」

 

北斗「もう、変態はいいから。……それよりも、だ。アヴァン、ゆきっぷうからの届け物と言ったな? それはもしかしなくても例の……」

 

アヴァン「うむ。チェン恋×アセリアおまけ短編のクロス企画書だ」

 

柳也「いやいやいや、超絶カッコイイ俺様が、三国志世界の美女達と次々に恋に落ちていく大河ドラマの企画書だろう?」

 

タハ乱暴「いやいや、さすらいのガンマン・トゥハ・ランボゥが美女と恋に落ちるらぁぶ・すとうりぃだろう?」

 

リリィ「…………ではロファー、荷物を開封して下さい」

 

ロファー「はい」



タハ乱暴「おおぅっ! これがリリィくわぁぁぁ!」

 

柳也「うむ。なんというか……結婚を前提にお付き合いを……」

 

北斗「いまはそういう場ではないだろうが……。ところで、俺と美女が恋に落ちるスペクタクルなスペースオペラの企画書はどちらに?」

 

アヴァン「まっがーれ♪」

 

北斗「ぐわっ!?」(体が180°捻じ曲がる)

 

タハ乱暴「ああっ、効果音はハルヒ風なのに実際の効果は空の境界風に!?」

 

柳也「ありゃぁ、死んだな。……というわけで、今回のあとがきではリリィの絵を紹介することになりました。リリィ。本人として、この絵はどうだ?」

 

リリィ「……わたし、萌えキャラだったんですか?」

 

アヴァン「ゆきっぷうからのメッセージカードによると……『あの桜坂柳也さえも美化してしまうほどのオーラを追及した』とのことだ」

 

北斗「美化? ああ、あの変態チックな絵か」

 

柳也「いやだから、もう、変態ネタはやめようぜ? まぁ、要するに、リリィのキャラクタがゆきっぷうの心の琴線にクリティカルヒットしちゃったらしい。その結果が、↑あれ」

 

リリィ「ゆきっぷうは心の琴線がクリティカルヒットすると萌え絵を描くんですか?」

 

アヴァン「…………あー、そこはほら。タハ乱暴公認で載せてもらってるから、ね? アイツも色々大変なんだよ、最近抜け毛ひどいらしいし」

 

タハ乱暴「抜け毛は若さの証明さ!」

 

柳也「や、それ違うから。若さの証はニキビだから」

 

タハ乱暴「んじゃ、老いの象徴……」

 

“ぐさっ”

 

タハ乱暴「……何の音だ?」

 

柳也「ゆきっぷうの心にナイフが突き刺さった音じゃねぇ?」

 

リリィ「まぁ、あの方も最近は冗談抜きで忙しいようですし……ところで、リュウヤさま?」

 

柳也「ん?」

 

リリィ「さっきの……その……結婚を前提にお付き合いというのは……」

 

北斗「おいこら、そこ! ここはラブコメをする場所じゃない! ここはゆきっぷうを苛めて、苛めて、苛め抜く場所だぞ?」

 

アヴァン「しかし、柳也の『結婚〜』発言を引き出したことで、ゆきっぷうの策略は成功したことになるな。タハ乱暴?」

 

タハ乱暴「なに!? いまの、ゆきっぷうの策なのか!?」

 

アヴァン「うむ、成功したから話すが……リリィ・フェンネスの立ち絵に奴は尋常ならざるほどの尽力し、その過程で表情パターンまで作っていたほどでな」

 

柳也「え? 主人公にはないのに?」

 

タハ乱暴「そりゃあ、まぁ、お疲れ様としか言いようがないな。ふむ。気に入ってくれたこと自体は嬉しく思うが」

 

アヴァン「その言葉を聴いて、奴も草葉の陰で泣いていよう。で、その最終目標がさっきの……」

 

リリィ「リュウの『結婚〜』発言だったのですか」

 

タハ乱暴「すでに愛称で呼び合っている!? おのれ、ゆきっぷうめぇ〜」

 

柳也「あれぇ? 俺、もしかしなくても、地雷踏んじゃった?」

 

北斗「少なくとお前の軽率な発言のためにタハ乱暴は驚愕のエキセントリックサンダーを浴びている」

 

アヴァン「安心しろ、柳也。今回の策が成功した暁には、リリィとセットで君の絵をグレードアップする計画が発動されるだろう」

 

柳也「よし、リリィ、やはり結婚を前提にお付き合いを……」

 

タハ乱暴「軽い男だなぁ……え〜、永遠のアセリアAnotherEPISODE:30、お読みいただきありがとうございました!」

 

北斗「気が付けばアセリアAnotherも三十回か。いやぁ、長くやっているわりに進んでいないなぁ」

 

タハ乱暴「それは言わないお約束。では読者の皆様、次回もお付き合いいただければ幸いです!」

 

北斗「では!」

 

 

オデット「ねぇ、お姉さま、最近わたしたち、忘れられてません?」

 

アイリス「そ、そんなことはないはずだ! もう少し辛抱すればきっと出番が……」

 

オディール「あの、二人とも……台本によると、あと五話、出番ないって話よ?」

 

二人「「なっ!?」」

 

 

 

 

<おまけ>

 

公孫賛との共闘の末になんとか黄巾党を撃退した我らがジョニー・サクラザカ。その後各地における群雄達の活躍により黄巾の乱は次第に終息していったが、戦乱の時代は彼らに束の間の休息さえも許さなかった。

霊帝の死と、その後の宮中における権力争い。何進が謀殺され、董卓が実権を握った。しかし董卓は洛陽の地で暴政を敷き、民意は王朝から離れていく。そして群雄達は、反董卓連合を結成する運びとなった。

「……というわけで檄文が届いた。わがジョニー・サクラザカ軍も、反董卓連合に参加すると見せかけてよそ様の台所事情を荒らし、あわよくば大リーグボール二号を完成させたいと思う」

「いえ、普通に参加しましょうよ」

かくして、反董卓連合に参加するジョニー・サクラザカ軍。そして方針を決める軍議の場で、柳也は公孫賛と再会する。

「よぉ、久しぶりだな、さくらざ……」

「うわぁぁぁぁん!」

過去にフラれた記憶が蘇ったか、到着とほぼ同時に幽州に帰ろうとする君主ジョニー。それをなんとかなだめすかす朱里の姿は、あまりに健気だった。

到着早々の一悶着の後、柳也は三国志世界の英傑達と対面した。

「あなたが最近庶人の間で噂になっているジョニー・サクラザカですわね?」

「……ふっ、ブ男ね」

「……ああん?」

曹操の発言に過敏に反応するジョニー。彼が抱いた怒りの矛先は、曹操軍に向けられる。

「顔のことは言うんじゃねぇよ、うわぁぁぁぁぁんっ!」

怒りの唾と、悲しみの涙を振りまきながら、柳也は刀を振り回した。

「不細工だっていいじゃねぇかっ! ブ男だっていいじゃねぇか!? 初対面でブ男とかいうテメェの心の方がよっぽど不細工だっつぅぅぅの!!!」

かくして、怒りの修羅と化した桜坂柳也によって、曹操の軍は進軍開始前の時点でその二分の一を失った。

「ご、ご主人様、落ち着いてください!」

「そ、そうだぞ桜坂! お前はいい男だ。二枚目だ。だから落ち着けって」

その後、朱里と公孫賛の必死のとりなしによって柳也は正気を取り戻した。

しかし、逆に自軍の悲惨な姿を見た曹操は茫然自失の体となってしまった。

「か、華琳さま、わが軍は兵力の半分を喪失、糧食も焼かれ、まともな行軍は不可能に……」

「…………」

後の歴史家たちは語る。この時の曹孟徳の発言は明らかに失言であった、と。行軍も開始していない時点での兵力半分と兵糧の喪失は、連合内における曹操軍の発言力を大きく低下させた。

「おーほっほっほっ、あの曹操さんに一泡吹かせるなんて、あなた、ブ男のわりになかなかやりますわね?」

「……ああん?」

袁紹の発言に過敏に反応するジョニー。彼が抱いた怒りの矛先は、今度は袁紹軍に向けられた。

「だからブ男言うんじゃねぇっ! うわぁぁぁぁんっ!」

「と、斗詩ぃ、なんか不細工な男が向かってくるよぉ!」

「だから不細工言うんじゃねぇっ! うわぁぁぁぁんっ!」

こうして袁紹軍は行軍開始前の時点でその三分の一を失った。連合軍の主力、壊滅の危機だ。しかも柳也はまだ暴れている。誰もが連合軍の行く末を案じたその時、それまで黙っていた孫権が、口を開いた。

「……そろそろ落ち着いたらどうだ、美男子?」

「……朱里、孫権殿はいい人だ。同盟を組もう」

「ご主人様! いくらなんでも軽すぎですよぉ!」

後の歴史家たちは語る。この時の孫権の「美男子」発言は明らかな成功であったと。結成と同時に空中分解しかけた反董卓連合は、孫権の鶴の一声によって壊滅の危機を脱したのだった。




ネリーたちとの特訓のお話だったけれど。
美姫 「後半の決意の言動の方がやっぱり気になるわよね」
ああ。思わず、俺はあとがきにあったような事をするのかと思ってしまったんだが。
美姫 「全然、シリアスだったわね」
狙われた悠人は災難だな。
美姫 「実際に狙われているのは求めの方だけれどね」
ああ、どうなるのか気になる。
美姫 「次回も待ってますね」
待ってます!



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