――聖ヨト暦三三〇年、エクの月、青、ふたつの日、早朝。

 

柳也は夢を見ていた。

夢の中で柳也は、“安い・早い・美味い”が持ち味の某牛丼屋チェーンの一店のカウンター席にひとり座り、店員に対して非常に無茶な注文をしていた。

どれくらい無茶だったかというと、

「ふへへへへ〜…さぁ、牛丼の肉なし、汁なし、ネギなしを八〇円で売れ〜〜。さもなくばネットの掲示板で、この店の誹謗中傷をでっちあげてやるぞ〜〜?」

と、これくらい無茶な注文だった。

しかも要求が聞き入れられなかった場合の報復が非常にセコイ。

「なにい? それは無理、だとぅ? ……ふっ、仕方がねぇ。じゃあ、これからネットカフェに行って、掲示板を荒らすしかぬぇなぁ……」

店員がこちらの要求を断り、柳也は非常にいやらしい冷笑を浮かべる。

すると場面が転移し、柳也の周囲に薄っぺらい板で四方を区切られた狭い空間が出現した。椅子の正面にはパソコンのキーボードとディスプレイが置いてある。どうやらネットカフェの個室のようだ。

「ふっ…さて……」

柳也は酷薄に微笑むとパソコンの電源を入れた。

ディスプレイに命が宿り、キーボードを叩くべく両手の指がわきわきと不気味に動き始めた時、柳也の意識は、唐突に覚醒していった。

「う…んん……つぁ……」

ぼやけた視界とまどろみの中にあった意識が、次第に鮮明になっていく。

上体を起こしてベッドの上から周囲を見回すと、そこはここ数日で見慣れた兵舎のガンルームだった。

いつの間に眠ってしまったのか、そもそも誰が運んでくれたのか。いまいちはっきりと思い出せないまま左手のModel.603.EZM3に目線を落とすと、時刻はふたつの日の午前五時半を示していた。柳也の普段の起床時間だ。

ふと隣のベッドを見ると、そこに眠っているはずの男がいないことに気付く。

反対に窓のほうを振り向くと、本来ならばこの部屋にいないはずの少女がいることに気が付いた。椅子に座ったまま、毛布も被らずに眠っている。薄い水色の長髪を背中に流したセシリアは、長い睫毛を時折揺れさせ、規則正しい寝息に胸を上下させていた。

その装いは見慣れた戦闘服姿だ。記憶の中にあるセシリアの最後の服装もまた戦闘服だったから、おそらく着替える間も惜しんで看病してくれたのだろう。

――セシリア…ありがとうな。

普段から献身的なセシリアが一晩中、付きっきりで看病してくれていたと思うと、柳也の胸は嬉しい気持ちでいっぱいになる。

早くに両親を亡くし、一人暮らしの長い柳也だったから、人情の温かさと大切さは、誰よりもよく知っていた。

柳也はベッドから降りるとセシリアを起こさぬようそっと毛布をかけてやった。

すぐそばにまで顔を近づけると、水色の髪が汗で額や頬に張り付いて乱れているのに気付く。柳也は指で額にかかる髪を払い、整えていった。

背後で静かにドアの開く気配があった。

振り向かずとも、誰が入室してきたかは疲れた足音でわかった。

『……起きていたのか?』

『ああ。たったいま、起きたところだ』

柳也はセシリアの髪を二度三度と手櫛で梳いてから、ようやく背後の男を振り返った。

戦いのための衣装を脱ぎ、両手に円盤状の盆を持ったセラス・セッカが立っていた。盆の上には数枚の小皿と果物ナイフ、それからよく熟したレナミの実(現代世界でいうところのリンゴのような果物)が二個載っている。

『サムライはいつもこの時間に起きるからな。そろそろではないかと思っていた』

セラスは、自身徹夜明けなのだろう、無精髭を濃くたくわえた顔で微笑を浮かべた。

柳也は再びベッドに腰掛けると、『あの後、どうなったんだ?』と、訊ねた。

いったい何があったのか、自分の記憶はウラヌスに跨ったセラスの姿を見たあたりでぷっつりと途切れて、それ以上の事が思い出せなかった。

『倒れたのだ、お前は』

セラスは言葉短く柳也の疑問に答えた。

自身もまた自分のベッドに腰を下ろし、セラスは傍らの台に盆を置く。

『憶えていないかもしれないが、敵の撃退に成功した後、私たちの見ている前でお前は倒れたのだ。おそらくは敵の気配が感知できなくなった瞬間、気が抜けたのだろう。ここ数日の疲れが一気に襲ってきたらしく、お前は糸の切れた操り人形のように意識を失い、倒れてしまったのだ』

『なるほど…それで、これは?』

柳也は得心した様子で頷くと、自分の装いを示して言った。

彼が纏うのは水を吸った重い戦闘服ではなく、程よく乾燥した病人服だった。

『セシリアだ』

セラスはまた言葉短く言った。

『健気な娘だ。一晩中、お前に付きっきりで看病をしていた。お前をこの部屋に運び、着替えさせ、汗を拭いたのも彼女だ。後で礼を言っておけ』

『そうだな。そうするよ』

『それ以外のことは……こいつを剥きながら話すとしよう』

セラスは左手でレナミの実をひとつ掴むと、右手に果物ナイフを握った。

セラスの大きな掌の上でくるくるとレナミが回り、一本につながった皮が盆の上で山を作っていく。

『できれば手早く頼むよ』

手際良くレナミを剥くその様子を眺めながら、柳也は小さく微笑んだ。

『結局、昨日は晩飯を食い損ねちまったからな。腹、減ってるんだ』

 

 

 

 

 

永遠のアセリア

-The Spirit of Eternity Sword Another Story “Twin Edge of Protection”-

第一章「有限世界の妖精たち」

Episode24「最後の夜」

 

 

 

 

 

――聖ヨト暦三三〇年、エクの月、青、ふたつの日、早朝。

 

セラス・セッカの話はレナミの実を剥くわずかな時間の中では終わらず、結局、彼の話は柳也が皿に盛られた二個分の果実を食べてからも続いた。

『――というわけで、バトル・オブ・ラキオスは我々の勝利で終わった。ヤンレー司令ら上級将校も無事見つかり、すべては万事解決した……のだが、発見された時点でヤンレー司令らはしたたかに酔っていてな。とてもではないが事務仕事が務まるような状態ではなかった』

『それで、結局、セッカ殿が指揮を執り、徹夜で事後処理を行ってくれたわけだ。……なんというか、申し訳ないな。セッカ殿にばかり、貧乏くじを引かせちまったみたいで』

『いや』

申し訳なさそうに紡がれた柳也の言葉に、セラスはかぶりを振った。

『スピリットと戦えぬ私がやるべき事だ。貧乏くじなどとは思っていない』

『そう言ってもらえると、こっちも少しは気が楽になる。ところで、ラキオスへの報告はもうしたのか?』

通信技術の未熟なファンタズマゴリアでは、前線の逼迫した状況を伝えるのにも人の手と足を介して行なわねばならない。今回の場合は事後報告だからそう急ぐ必要はないが、なんといってもラキオスとエルスサーオの間には四十キロという物理的な距離の隔たりがある。通信兵を出発させるなら、早いに越したことはない。

『ああ。戦闘の経過と、事後の処理について簡単にまとめた報告書を密偵に持たせた』

『密偵?』

『あのリリィという女に書簡を持たせ、馬を走らせた。早くて、今日の晩には次の指示とともに戻ってくるはずだ』

『次の指示、ねぇ……』

柳也は実だけでは足りないとレナミの皮や芯までむしゃむしゃしながら瞑目した。

『戻ってこい。あるいは、続けてエルスサーオを防衛せよ。そのどちらかだろう』

『じゃあ、もしかするとこの基地にいるのは今日が最後になるかもしれないわけだ』

『名残惜しいか?』

『そりゃあ、な。一泊とか、二泊とかと違って、一週間近く滞在しているんだ。愛着も湧く。できることなら、この娘とも離れたくないと思っている』

柳也は目を開くと傍らのセシリアを顎でしゃくった。

思えば、エルスサーオにやって来たその日からセシリアには世話になりっぱなしだった。ファーレーンやニムントールのように実際に肩を並べて戦ったわけではないが、彼女もまごうことなき柳也の戦友だった。

ある意味では夫婦のそれよりも強い絆で結ばれた間柄といっても過言ではない。

そんな戦友との別れが近いと思うと、やはり辛いという感情が付き纏う。

『……まあ、今日が最後の日になるとまだ決まったわけではない』

寂しそうに乾いた笑みを浮かべる柳也の横顔に、セラスは優しく語りかけた。

『沙汰はいずれ下る。いまは無用な事は考えず、身体を癒すことだけを考えたらどうだ?』

『……そうだな、そうさせてもらおうか』

柳也はゆっくりと息を吐くと、後頭部を枕に埋めた。

あまり眠気を感じなかったが、とにかく神経が磨耗していた。

体内に寄生するふた振りの力の作用か、先の戦闘で負った肉体へのダメージはすっかり消えていた。それどころか、新たに〈戦友〉と契約したことで、五体にはかつてない力が漲っていた。しかし、どんなに新たな力を手に入れようと、精神が負った疲労だけは、時間をかけて癒さねばならなかった。

『敵もあれだけの大部隊を送った後だから、すぐには攻めてこないだろうし。久々にゆっくりさせてもらおうか』

『そうするといい』

セラスは無精髭に覆われた口元を緩めた。

だがすぐに表情を引き締めると、彼は盆を片付け、柳也に背を向けた。

『私は司令部に戻る。ヤンレー司令の酔いは、まだ抜けきれていない』

『ああ。俺はもう一眠りさせてもらうよ。…二度寝なんて、ここ数年じゃ久しぶりのことだ』

柳也はおどけて笑うと瞑目し、呼吸を整えた。

老人のような起床時間がすっかり染み込んだ身体に、相変わらず眠気はやってこなかったが、瞼を閉じてじっとしているだけも少しは気が休まる。

それに目を閉じて外界からの情報を遮断していたほうが、自分の中に新たに宿った相棒の存在を、強く感じることができた。

予期せずして得た突然の休息だが、この機会に彼女との親睦を深めるのも良いかもしれない。

――なぁ、〈戦友〉……。

【はい、ご主人様。どうなさいました?】

――ちょっとお前と話しがしたくてな。お前のことを、教えてくれよ。

ガンルームから、セラスの気配が消えた。

柳也は久しぶりに安らいだ気持ちで〈戦友〉に話しかけた。

 

 

――聖ヨト暦三三〇年、エクの月、青、ふたつの日、昼。

 

ラキオスからの命令書を携えた伝令は、柳也達の予想をはずれて夜を待つことなく昼過ぎにはエルスサーオに到着した。

相変わらず司令部で指揮を執るセラスと、兵食堂で昼食を摂っていた柳也は、まったく別の場所で同じ報告を受け取って、また同じように顔をしかめた。

『帰還命令か……』

奇しくも二人は同じ呟きを、別な場所で漏らしていた。

ラキオス王の直筆で書かれた指示書には、簡潔な文体で『任務ご苦労。此度の戦闘をもって任務を終了と見なし、帰還を命じる。明朝にはエルスサーオを出立せよ』と、あった。

悠人達本隊の龍退治の結果がまだ明らかになっていない段階での、帰還命令である。

どうやら二個大隊になんなんとする敵を撃退した時点で、王もこれ以上の敵の侵攻は、少なくともすぐにはないと踏んだらしい。それよりもセラスが送った報告書だけでは知りえない作戦の細部、戦闘の推移について、詳細な報告を優先したようだ。

午後一時半。

いつ帰還命令が下るにせよ、エルスサーオにいられる時間はあと僅かと思った柳也は、朝から兵食堂に入り浸っていた。

兵食堂のメニューの全制覇を目論んだ矢先に飛び込んできた歓迎できない報告に、柳也は渋い顔になった。

『明朝に出立って……いくらなんでも急すぎるだろう?』

思わず、命令書を持ってきたリリィに愚痴をこぼしてしまう。

我ながらまったくのお門違いだ、と柳也は自分に対して怒りを覚えた。

書簡を書いたのはラキオス王であってリリィではない。彼女は命令に従って自分に命令書を届けに来ただけで、愚痴をぶつけられるいわれはまったくない。それなのに命令書の内容について彼女に厳しい言葉をぶつけるなど、理不尽にも程がある。

とはいえ、愚痴のひとつでも言ってやらないと気がすまない命令なのもまた事実だった。明朝にはこの基地を出立せよ、とはいうが、そのための準備期間をまったく計算にいれていない。ラキオスを発つ時もそうだったが、あの国王が下す命令はいつも急なものが多い。

―― 一年が二四〇日しかないせいか、この世界の住人はせっかちさんが多い。

柳也はそう分析する。

ラキオス王だけでなく、目の前のリリィからしてそのきらいがあった。

セラスから聞いた話によれば彼女がラキオスへと向かったのは午前四時、再びエルスサーオに戻ってきたのが午後一時というから、単純に考えて八十キロを九時間で往復した計算になる。

午前四時といえば自分でさえまだ眠っていた時間だ。リリィがちゃんと睡眠を取っているかどうか、柳也は少し不安になった。

『……ちゃんと寝てるか?』

『はい。昨夜も三時間ほど熟睡させていただきましたから』

『…………』

愛想笑い一つ浮かべることなく、機械的に紡がれたリリィの言葉に柳也は思わず絶句した。

昨晩はバトル・オブ・ラキオスの関係で自分も同じ程度の睡眠しか取れなかったからよくわかるが、三時間程度の睡眠では身体の疲れはほとんど取れまい。それなのに熟睡したと言ったリリィの身体のことを思い、柳也はだいぶ不安になった。

『と、とにかく明朝出発っていうのはいくらなんでも急すぎる。俺はこの身一つでエルスサーオにやって来たから身軽だが、セッカ殿はそうはいくまい。ウラヌスの世話のこともある。出発には準備が必要だ』

『ですが、それが命令です。国王陛下は早急に詳細な説明を求めています』

リリィは能面のように不変の無表情で答えた。美しい美少女ゆえに、淡々とした口調で表情なく語るその姿からは、奇妙な迫力が感じられる。

いったいこれまでにどのような訓練を受けてきたのか、自分とそう変わらぬ年齢なのに、己を殺すことに慣れているようだ。アセリアとはまた違った意味で、感情の感じられない少女だった。柳也がこれまで遭遇したことのないタイプの女性である。

『どうしても…と、おっしゃるなら、縛ってでもラキオスに連れていきます』

淡々とそんな物騒なことまで言ってくる。

目を見ると、このまま返事をしないでいたら本気でやりかねない意志の輝きが見受けられた。

やがて柳也は大皿の上の揚げ物を平らげると、諦めたように頷いた。

『女を縛る趣味はあっても、縛られる趣味はない。わかった。明朝までには身体をフリーにしておく』

『たしかにお承りいたしました。その旨、陛下にお伝えいたします』

『お伝えする?』

柳也は目を丸くした。

背中を、嫌な汗が滑っていった。

『まさか、また君がラキオスまで連絡に向かうつもりか?』

『はい』

『これからすぐ?』

『そのつもりですが、何か?』

質問を質問で返され、柳也は思わず返す言葉を失ってしまった。

あまりにさらりとした口調と態度に、彼は頭を抱えたくなった。

ラキオスとエルスサーオ間の距離は約四〇キロ。リリィはそれを一度往復してこの場に立っているから、すでに八〇キロを踏破した計算だ。いくら馬を使ったといっても、女の身には相当な負担だったことだろう。あぶみを用いたとしても、疾走する馬の乗り心地は良好とは言いがたい。

じっくりと裸身を見たわけではないので確証はないが、ぱっと見たところ、リリィは決して体格の良いほうではない。密偵ということでそれなりに鍛えてはいるようだが、それでも、柳也から見れば華奢なほうだ。肩幅など、柳也の八割あるかどうかしかない。八〇キロを往復できただけでも驚きなのに、この上さらに四〇キロを走るなど、労働過多以外の何物でもない。

ところが、当のリリィの態度から与えられた任務に対する不満は感じられなかった。

というより、自分の任務について疑うことを知らないように思える。

上官の命令に対して、無条件に服従することが、骨の髄まで染みついているようだった。

本当にこれまでどんな訓練を受けてきたのか、この調子だとラキオス王が「死ね」と、命令したら、本当に自刃しかねない。

――一兵卒としては理想的な性格だが、指揮官や密偵としては……。

フレキシビリティに欠けると、分析せざるをえない。命令に対して従順すぎるきらいがある。時に自分の判断のみを頼りにして行動せねばならない密偵としては、致命的な性格といえた。もっとも、リリィは職業軍人としての諜報員ではなく、あくまでダグラスの私兵だが。

『他に質問がないようでしたら、私はもう行きますが?』

リリィはラキオス王の命令書を小脇に抱え込むと問うた。

感情を伴わぬ冷ややかな視線が、柳也を見下ろしてくる。

「質問はないか?」と、問うているにも拘わらず、その質問を口に出させない、奇妙な威圧感があった。普段の柳也ならここで悪戯心がむくむくと首をもたげ、お決まりの「スリーサイズは?」なんて質問をするところだが、そんな気すら起こらない。

ただ、任務に対してあまりに従順すぎるリリィの身を案ずる想いしか湧いてこなかった。

一向に返事のない柳也の態度に、質問はもうないものと判断したか、リリィは黙礼すると、踵をかえした。

小脇に抱えた指令書は、後で処分するつもりだろう。セラス・セッカの一時的な司令代行役就任により、バトル・オブ・ラキオスはいまや公然の秘密となっている。とはいえ、ラキオス王からの命令はいまだ特殊作戦に類するものであり、関係資料の扱いは人目に触れぬよう行なわねばならない。

『……あんまり無理するなよ』

リリィが兵食堂の暖簾を潜った時、ふとそんな呟きが漏れた。

食堂から遠のいていく小柄な背中を、柳也はいつまでも見つめていた。

アセリアとは違った意味で無感情な娘だが、アセリアと同様に、リリィ・フェンネスという少女は不思議と目の離せない存在だった。

 

 

――同日、昼。

 

リリィからラキオスへの帰還が明日に迫っていることを告げられた柳也は、兵食堂のメニューを三分の一ほど平らげた時点で席を立った。

昨夜、何も入れてやらなかった若い胃袋は食堂のメニューを三分の一ほど消化してもまだ八分目といったところだったが国王陛下の命令とあっては仕方ない。

柳也は兵食堂を後にし、帰還のための準備をすることにした。

準備といっても、ラキオスからエルスサーオまでこの身ひとつでやって来た柳也のこと、今更、荷造りに慌てる必要はない。

柳也のすることといえば、多忙なセラスに代わって関係各所へお礼参りをするくらいだった。

――ファーレーンとニムにも、ちゃんと礼を言っておかないとな。

ともに肩を並べて戦った二人には、特に厚く礼を言っておかねば。

昨晩はあの後、自分が倒れてしまったために言えなかったが、二人には誰よりも早く自分達の帰還の知らせと、今日までの感謝の気持ちを伝えたかった。

『ごめんください!』

第二大隊の詰め所の前までやって来た柳也は戸を叩いた。

ついでに、大声で自分が来訪したことを伝える。チャイムやインターフォンのない異世界では、自慢の大声が何より役に立つ。

しばしの沈黙。

やがて扉の向こうから駆け足の音が聞こえ、戸が開いた。

『お待たせしました。柳也さま!』

顔を出したのはファーレーンだった。急いで駆けつけたらしく、仮面が少しずれている。礼儀正しいファーレーンにしては、珍しい姿といえた。

『身体の具合はどうかと思ってな。……これ、土産』

兵食堂でテイクアウトしたケーキの入った箱を掲げ、柳也はにっこりと笑いかける。

仮面の奥から覗く瞳に、嬉々とした輝きがはじけた。

『どうぞ、あがってください』

『お邪魔させていただく』

柳也はぺこりと一礼すると、詰め所の床を踏んだ。

すると、入ってすぐの階段から、『いらっしゃい』と、声がかかった。

見上げると、ファーレーンとは逆にのんびりやって来たらしいニムントールが立っていた。

建物の中はひっそりと静まり返っており、いつもの賑やかさが嘘のようだった。大所帯の第二大隊の詰め所にしては珍しい。ファーレーンとニムントール以外の皆は、午後の訓練に出ているのだろう。昨夜、激戦を経験した二人には、司令代行の心優しい配慮により、今日一日休暇が出されていた。

柳也は階段をおりてくるニムントールをしげしげと眺めた。

『元気そうだな』

『うん。リュウも、気を失ったわりには元気そう』

『おう。セシリアの手厚い看護のおかげだ』

もし、この場に当の本人がいたら顔を真っ赤にするだろう言葉を口にし、柳也は莞爾と笑う。

しかし、柳也の笑顔とは対照的に、階段を下りてきたニムントールは不機嫌そうにむっつりとしていた。

『? なんでそんなにむっつりしているんだ?』

『知らない。ただ、セシリアのこと話すリュウを見てたら、なんとなくムカついた』

『……お前も瞬と同じか!?』

柳也はやや大袈裟に溜め息をついて、頬を引き攣らせた。

ファンタズマゴリアに召還された数日前、学園の教室で親友と交わしたやりとりが思い出される。

あの時、瞬は悠人達と仲良く登校する自分を見て、不機嫌な態度を露わにしていた。

あの時の瞬も相当に子どもっぽかったが、自分で原因を自覚していない分、ニムの方が一枚上手だ。もっとも、ニムントールの場合は外見からして本当に子どもっぽかったが。

『まぁ、よくわからんが……これやるから許せ』

柳也はそう言ってケーキの箱を見せる。

ニムントールは相変わらずの仏頂面で、『ニムはそんな単純じゃない』と、言ったが、その口元はわずかに緩んでいた。

――やっぱ、子どもだ。

ケーキを前に瞳を輝かせるニムントールを見て、柳也は懐かしい幸福感に微笑を浮かべた。

まるでしらかば学園の兄弟達と一緒にいる気分だった。

柳也は食堂兼談話室に通されると、簡単な茶会の接待を受けることになった。勿論、茶菓子は柳也が持ってきたケーキだ。

食堂に通された柳也は、二人に対して背を向ける形で座ろうとした。対人赤面症で、男性恐怖症のファーレーンに対する配慮のつもりだったが、彼の行動は当のファーレーンによって止められた。

『正面を向いてくださっても大丈夫ですよ』

『でも……いいのか?』

ファーレーンが仮面を着ける理由を知っている柳也は、思わずそう聞き返す。

対人赤面症に加えて男性恐怖症の彼女にとって、男の自分と向かい合って茶をすするというのは拷問に近いはずだが。まさか仮面を着けたまま茶を飲むわけではなかろうか。

柳也の問いに、ファーレーンは仮面の奥で光る双眸を優しく細め、静かに頷いた。

『はい。いま、お茶を用意しますね』

ファーレーンは言って、食堂と併設されたキッチンへと向かった。

すでに一度ファーレーンの男性恐怖症のことで失敗を犯している柳也は、おそるおそる椅子に着いた。

正面ではニムントールが一人、ちょこんと座っている。

やがてキッチンのほうからティーセットと、ケーキを置くための皿を抱えてファーレーンがやって来た。

戻ってきたファーレーンを見て、柳也は思わず目を見開いた。

『ふぁ、ファーレーン、仮面はどうした!?』

キッチンから戻ってきたファーレーンは、なんとお馴染みの仮面を着けていなかった。

驚く柳也に、素顔のファーレーンはやや頬を赤らめながら、優しい微笑を向ける。

『わたしなりに、努力してみようと思いまして』

ファーレーンはそう言ってティーセットをテーブルに並べた。

柳也は、『ああ、そうだった…』と、わずか数日前に自分が口にした言葉を思い出し、ついでにっこりと穏やかに笑った。

そうだった。男性恐怖症のことで悩むファーレーンに、『出来るだけ努力はしてくれ』と、言ったのは、他ならぬ自分だった。その自分の言葉を実践しているファーレーンを、柳也は嬉しく思った。

着席したファーレーンを、柳也は改めてまじまじと眺めた。

対面して座っているといっても、ファーレーンの目線は微妙にこちらを逸れているし、赤面症はまったく克服できていない。身体もそわそわと落ち着きがなく、時折、自分に目線を配っては、僅かに身を震わせた。

仮面をはずして顔を合わせるという、事情を知らぬ人間から見れば他愛のない行為は、ファーレーンにとってはたいへんな冒険なのだろう。その冒険の大切な第一歩の相手に自分を選んでくれたことを、柳也は誇りに思った。

柳也はファーレーンの落ち着きのない所作については何も言わず、黙って彼女が茶を淹れる仕草を見守った。

男の自分に見られている、という意識からか、ポットに添えた細い指は、静かに震えている。

――ゆっくりでいいんだ、ファーレーン。

柳也は声にならないエールを胸の内で送った。

柳也の目には、かつて対人恐怖症に陥っていた頃の自分と、いまのファーレーンとが重なって映じていた。

兵食堂のシェフらがたっぷり時間をかけて作ったケーキを頬張り、三人はしばし談話の時を楽しんだ。

やがて全員の皿の上からケーキがなくなり、カップの中身もそろそろ少なくなった頃、柳也は頃合とみて本題を切り出すことにした。

『明朝、ここを発つことになったよ』

柳也は談笑を楽しむ笑顔から一転、真顔になると二人の顔を交互に見比べ、言葉を紡いでいった。彼は二人にリリィから言われた内容を細分余すことなく伝えてから、二人の反応を待った。

ファーレーンとニムントールは柳也の突然の帰還報告に最初驚いた表情を浮かべ、ついで悲しみと、悲しみからくる寂しさを漂わせた顔で、柳也を見つめた。

『明日の朝……ですか?』

『ああ』

『いくらなんでも急すぎだと思う。もっとゆっくりしていけばいいのに』

『俺も本音はそうしたいんだけどな。国王命令だし、こればっかりはしょうがない』

『…そうですね』

ファーレーンはひどく悲しげな、そして残念そうな溜め息を漏らす。

彼女達との別れは柳也にとっても辛いことだったが、それは彼女達のほうも一緒だったらしい。まだ十日に満たない付き合いながら、そこまで自分のことを想ってくれる二人に、柳也は嬉しい気持ちで胸がいっぱいになった。

『そんな顔するな。今生の別れってわけじゃないんだ。所在さえはっきりしていれば、いつだって会える』

柳也は自身感じている寂しさを押し殺し、にっこりと微笑みかけた。

続いて、暗い気分を払拭しようと、明るい声音で、もう一つの本題を口にする。

『今日、ここに足を運んだのは、その事と、もう一つ伝えたいことがあったからなんだ』

『もう一つ、ですか?』

ファーレーンが怪訝な顔で見つめてきた。

柳也もファーレーンのことを見つめた。ファーレーンの美しい素顔を網膜に、そして魂に刻みつけるべく、食い入るように彼女の顔を見た。

互いの視線と視線が絡み合い、白い頬にさっと赤みが差す。しかしファーレーンは、顔を背けなかった。背けずにいてくれた。

柳也はゆっくりと頷いてから椅子を引き、きびきびとした動作で立ち上がった。

そして彼は、今日までの想いのすべてを篭めて、深く腰を折った。

『……ありがとう』

『……え?』

突然、礼を言ってきた柳也の態度に、ニムントールがキョトンと小首を傾げた。

柳也はもう一度『ありがとう』と、繰り返した。

『今日までの戦い、本当にご苦労だった。異世界からやってきた得体の知れない男の言う事を、今日までよくぞ聞いてくれた。本当に感謝している。本当に、ありがとう』

『お礼はわかりましたから、頭を上げてください!』

ファーレーンが慌てた口調で言った。

柳也は不意に既視感を覚えた。

以前にも一度、ファーレーンから同じような言葉をかけられた記憶がある。

あれはいつだったか……と、記憶の引き出しを調べてみて、彼は思い出した。

エルスサーオに到着した最初の日、二人と初めて顔を合わせて、自分は『力を貸してくれ』と、今日と同じように頭を下げたのだった。これまで人間に頭を下げられた経験のないファーレーンは激しく動揺して、今日と同じように慌てた口調で、同じ言葉を紡いでいた。

柳也はゆっくりと顔を上げた。

暗い深海の底のような瞳と、目線が合った。

あの時は目が合った直後、視線を逸らされてしまった。

今回は、真っ直ぐ見つめ返してきてくれた。

あの時と同じ、しかしあの時とはわずかに違った輝きの眼差しが、柳也の目を見つめていた。

やがて柳也は二人に莞爾と笑いかけた。

その顔には、大役を務めきった後の心地良い疲労感が漂っていた。

『……これが、言いたかった。二人には他の誰よりも早く、感謝の気持ちを伝えたかった』

『他の誰よりも早く?』

『ああ』

オウム返しに問うてきたニムントールに、柳也は力強く頷いた。

『このエルスサーオに来て、いちばん長く一緒にいた間柄だしな。ともに肩を並べて戦った、大切な戦友だ。その二人に、いち早く感謝の気持ちと、帰還の報を伝えたいと思うのは当然だろう?』

『なんか、ニムたちが柳也にとって特別な存在、って言われてる気分』

ニムントールの顔に、歳相応の可愛らしい笑みが浮かんだ。

それまで姉以外からそういう風に特別扱いされたことがなかったのだろう。

嬉しそうに微笑むニムントールを見ていると、彼女も普通の女の子なんだな、と、改めてそんな当たり前の感慨を覚えた。スピリットといっても、やはりこういったところは普通の人間と変わらない。

柳也はニムントールの笑顔に気を良くし、少しおどけた口調で答えた。

『特別だぜ。言っただろう? 俺は二人に、ぞっこんLiebeドリームを見ている…ってな』

『……また、ぞっこんりぃべどりいむ?』

『どういう意味なんですか?』

ファーレーンが興味深そうに訊ねてきた。

昨夜の戦闘に引き続き、ここでも柳也の口をついて出た日本語、独語、英語の集合単語に、彼女は何か崇高な意味を期待しているようだった。

柳也はニヤリと口元を怪しく歪めて、

『まぁ、要するに、俺は恋多き男ってことだな』

と、からから、と笑った。

笑いながら柳也は一抹の寂しさを感じていた。

大切な戦友二人との、別れの時が近付いていた。

 

 

――同日、夕方。

 

エルスサーオ最後の夜をセラスとともにガンルームで過ごしていた柳也は、そこで思わぬ来客と遭遇した。

『あ、あの……』

二度のノックとともにかけられた声はセシリアのものだった。

なぜ、人間の暮らす兵舎にセシリアがわざわざやって来たのか。怪訝に顔を見合わせた柳也とセラスは、また同時に「どうぞ」と、来訪者の入室を促した。

『し、失礼します』

おどおどと部屋に入ってきたセシリアは、人間だらけの道中、かなり心細かったのだろう、二人の顔を見るなり、ほっ、と安堵の息を漏らした。

『こんばんは、リュウヤさま、セラスさま』

『うむ。こんばんは、セシリア』

『こんばんは、セシリア。…う〜ん、相変わらず“チャーミング”な髪をしている』

『サムライ、“ちゃーみんぐ”とはどういう意味だ?』

『ハイペリアでいうところの褒め言葉の一種だ。まぁ、あんまり気にしなくても大丈夫だよ』

『何が大丈夫なのか、さっぱりわからんな』

二人は当たり前の態度でそんなやりとりを交わす。

スピリットが入室しても、変わることのない雰囲気。

そんな部屋の空気に安心したらしく、セシリアは可愛らしい微笑を浮かべた。

『あ、あの…お二人は、もうお夕食は済ませた後でしょうか?』

『いんにゃ、まだだよ』

柳也はかぶりを振った。

今日は二人とも帰還の準備で忙しく、とてもではないが夕食のことなど考えていられなかった。

いまはすべての準備を終えて、ほっと一息ついていたところだ。

『でしたら、今夜はわたしたちの詰め所のほうでお食べになられてはいかがでしょう?』

『……セシリアたちのところで?』

柳也は目を丸くした。

見ると、セラスのほうもセシリアの意外な申し出に驚いた表情を浮かべている。

『はい』

セシリアは明るい口調で頷いた。

『明日、リュウヤさまたちがエルスサーオを発ってしまうと聞いたものですから……ちょっとしたパーティを開くことにしたんです』

『送別会を? わざわざ、私達のためにか?』

『はい。…時間がなかったので、大したもてなしはできませんが』

柳也とセラスは顔を見合わせた。

二人とも夕食についてはこれから考えようとしていたところだったから、願ってもない申し出だった。

パーティといえば宴だ。宴といえば大量の料理と酒である。柳也はテーブルに並ぶ料理の数々を想像して、いまから口の中に唾を溜め込んだ。

『俺はいいぜ。セシリアの料理は美味いからな。……セラス殿は?』

『うむ。私も今夜は特に予定はない。サムライが舌鼓を打ったセシリアの料理、私もひとつ味わってみよう』

『……よかったぁ』

二人のあっさりと下された快諾に、セシリアは安堵に胸を撫で下ろす。

すると、セラスが思い出したように手を打った。

『宴とあっては、これが必要になるやもしれんな』

そう言って、セラスは備え付けの戸棚から底深な木箱を取り出した。同じく木製の蓋で厳重に閉じられ、側面には聖ヨト語で“ビール”を示す文字がペンキで書き殴られている。どうやら軍支給の嗜好品らしい。箱の大きさから想像するに、ハイペリアでいうところの大瓶と同じくらいのボトルが半ダースといったところか。ちなみにわが国における大瓶一本の容量は633ml、以下に500mlの中瓶、330ないし334mlの小瓶と続き、スタイニーボトルの容量は334mlとなっている。

『……それは?』

柳也は目を爛々と輝かせながらセラスに訊ねた。

酒や煙草といった嗜好品は配給量が限られている。いくら士官クラスの立場にあるセラスといえど、エルスサーオ方面軍の兵でない彼がそうした嗜好品を入手するのは難しいはずだが。

セラスはいかにも愉快そうに口を開いた。

『なあに、司令官代行を務めていた時、嗜好品の配給量を管理する補給係が他と比べてもやけに血色が良かったのが目についてな。小一時間ばかり問い詰めてみたら、案の定、搾取が起きていた。これはその調査の戦利品だ』

『…なるほど』

目の前に酒をぶら下げられ、怪しい目をしていた柳也の顔が苦笑に歪む。

司令も司令だが、補給係も補給係のようだ。最前線という環境からか、どうもエルスサーオ方面軍は軍規が乱れているきらいがある。

柳也は溜め息をついてセシリアに目線を配った。

目の前で人間の汚い部分を見せつけられた彼女は、複雑な表情を浮かべていた。

酒や煙草といった嗜好品が配給されるのは、基本的に人間の兵のみである。スピリットがそうした嗜好品が欲しい場合は、隊の予算から買わなければならない。

配給の過程において搾取が行なわれているということ自体、彼女達からしてみればはらわたが煮えくり返る思いなのだろう。しかし、スピリットである彼女達に、人間を糾弾する権利はない。

――この手の補給の問題は、どこの世界の軍隊も同じか。

かつての帝国陸海軍やベトナム戦争中の米軍では、この手の搾取がそれなりの頻度で行われていたという。

柳也はげっそりと溜め息をついた。

 

 

――同日、夕方。

 

ガンルームを後にした柳也とセラスは、セシリアの案内に下、第二大隊の詰め所へと向かっていた。

『そういえばセッカ殿は方面軍の詰め所に行くのは初めてだったよな?』

『ああ。道順は知っているが、実際にこうして足を運ぶのはこれが初めてになる』

『きっと驚くぜ。もう、美人ばっかりの楽園だぞ』

二人は道中、そんな会話を交わす。

彼らはビールのケースを一つずつ抱え、特に抵抗もなく敬遠するべき道を歩いていった。

時刻はまだ夕方頃とあって、人の目は少なくない。

スピリットの館へ向かう三人に、周囲は奇異の眼差しを注いでいた。その中にはスピリットの館へ出向かねばならないセラスと柳也に対する、同情や哀れみの視線も含まれている。

――ああ…なんか非常に腹が立ってきた。

ビールのケースを押し当てた胸の中で、柳也はふつふつと煮えたぎる感情のうねりを感じていた。

俗に郷に入れば郷に従え、とはいうが、このスピリットに対する差別意識だけはいまだ受け入れられない。なんとなれば、親のいない子どもの常として、柳也自身被差別者としての経験を持っていたからだ。

異世界でスピリットが受けている差別ほど辛いものではなかったが、差別される側の苦しみ、悲しみは痛いほどよくわかる。

『……セシリア、さっさと行こうぜ』

このような視線が集中する道を、いつまでも歩いてはいられない。

柳也が小さく呟くと、セラスも「まったくだ」とばかりに頷いた。

かつてはこの騎士もかなり高いレベルで妖精差別の考え方が身に染み付いていたが、柳也と出会ってからはその考えも少しずつ薄れてきている。

セラスは周囲に嫌悪と威嚇の意味を篭めた視線を振りまきながら、最後尾に続いていた。その前を柳也が歩き、先頭をセシリアが進んでいる。

セシリアは悪意ある視線の集中砲火の中で緊張に身を震わしながら歩いていた。

柳也が耳元で『あんな連中、気にするな』と、囁いてやるも、一向に力が抜ける気配はない。

かつての柳也同様、セシリアもまた、被差別者としての感覚が骨の髄まで染み付いているようだった。

かすかに震える細い肩、小さな背中を見ていると、柳也はこの世界の不条理な原理に対して怒りを覚えた。と同時に、柳也は悲しくてしょうがなかった。

 

 

『ヒャッホーイ!』

第二大隊の詰め所に到着した柳也は、食堂に通されるなり歓声をあげた。

第二大隊の正隊員十二名、訓練兵四名の総勢十六名が一同に会して囲む食卓の上には、信じられないほど豪勢な料理の数々が並んでいる。大食漢で、食事には質より量を求める柳也にはこの上ない宝の山だった。出入り口のところにまで漂う香ばしい匂いに、思わずビールケースを取り落としそうになってしまう。

柳也は慌ててビールケースを掴み直すと、改めて食卓の上をしげしげと眺めた。

そして、もう一度歓声をあげる。

『モヘンジョダロゥ!』

……二度目の歓声は、非常に怪しい奇声だった。

それはさておき、改めてテーブルに視線を滑らせた柳也は、食卓の上に存在する楽園に目を奪われた。

兵舎にやって来たセシリアは、『大したもてなしはできませんが』と、言っていたがとんでもない。

おそらくは数人がかりで作ってくれたのだろう珠玉の品々は、見た目からして柳也の食欲中枢を刺激し、また量も申し分なかった。

隣に立つセラスも、『これはすごい』と、感嘆の呟きを漏らしている。

『いらっしゃいませ、リュウヤさま、セラスさま』

詰め所のみなを代表して、アイシャが席を立った。第二大隊所属の十六人の顔と名前は、この数日で二人とも頭に叩き込んである。

見ていて惚れ惚れとするきびきびとした所作で一礼され、二人の剣士は反射的にお辞儀を返した。

『本日はお招きいただき光栄の極み』

『……ありがとう』

ちょっと気取った調子で言う柳也に続き、セラスは照れくさそうに小さく呟いた。

スピリットに対する差別意識の改善著しいセラスだが、まだ彼女達に素直に礼を言えるまでにはなっていないらしい。

その時、柳也はセラスを見るアイシャの視線に、自分を見る時とは違った輝きが宿っていることに気が付いた。

『どこがどう違うのか? それはどんな輝きなのか?』と、訊ねられると返答に窮してしまうが、とにかく、何かが違うのだ。セラスのことを見るアイシャの視線からは大きな感情のうねりを見ることができるが、自分を見るときにはそれが感じられない。

食堂には八人掛けのテーブルが二つ並んでおり、それぞれの食卓には簡単な主賓席が設けられていた。

柳也とセラスはみなに乞われるまま、それぞれの椅子に着した。柳也はセシリアが手招き誘う食卓に、セラスはアイシャを始めとする第二大隊の主力が一同に会している席に着く。

柳也の両脇はファーレーンとニムントールによって挟まれていた。

ラキオスでの生活もそうだったが、両手に花というのはやはり悪い気分ではない。

しかも二人ともとびきりの美人とあれば幸運に対する喜びはひとしおだ。

自然と、頬の筋肉が緩むのも無理のないことだった。

腰を落ち着けた柳也とセラスは早速ビールのケースを開けた。

スピリットの少女達は普段目にする機会すら稀なアルコールの登場に、めいめいの反応を示す。

厳しく制限された配給の中でも、少しは酒の味を知っているらしいアイシャ達年長者は嬉しそうに顔をほころばせた。他方、そうでない者や年少者は柳也達の持ってきた黄金色の液体に、不思議そうな眼差しを向けてきた。

『……こん中で飲めるやつ、何人いる?』

柳也は二つのテーブルを囲む少女達の顔を見回した。

少し間を置いて、柳也のテーブルからはファーレーンを始め三名のスピリットがおずおずと手を挙げる。

柳也は嬉しそうに微笑むと、彼女達からグラスを取り上げ、手早くビールを注いでいった。

グラスの中を、黄金色が嬉しい液体と白い泡が満たしていく。泡立ちはハイペリアで見慣れたラベルより少し悪く、グラス全体を満たすにはかなりの量が必要だった。

隣のテーブルに目線を向けると、セラスもまた数名のスピリットのグラスにビールを注いでいる。人間の騎士から酌をされているとあって、注がれる方はみんないささか緊張気味だ。柳也は苦笑とともにその光景を眺めながらビールを注いで回り、最後に自分のグラスをビールで満たした。四人に均等に注いで、ちょうど一本が空になる。

配給係が隠匿していたビールは、やはりハイペリア産のものより質で劣るのか、口をつけないうちから泡が消えつつあった。ビールの泡には、液体と空気の接触を防ぐ役目がある。このままでは一口目を飲み干す前に、酸化現象が起きて味が変わりかねない。ビールはあの独特の苦味が醍醐味だというのに。

柳也は儚い泡立ちのグラスとセラス達のテーブルを、焦れた様子で交互に見比べた。

セラスが最後のグラスにビールを注ぎ終えたのを見届けると、彼は素早く口を開いた。

『みんな、グラスは行き届いたか?』

柳也はみなの顔を見回す。

酒が飲めない、あるいは酒の味を知らない者達のグラスには、最初は無難にお茶か、水が注がれていた。テーブルにはジュースの瓶も置かれているが、まだ誰も手を出していない。アルコールと同様、ジュースは配給量が制限されているため、遠慮が先立ってしまうらしい。

柳也は全員がグラスを持っていることを確認すると、隣の食卓のセラスを見た。

できることならさっさと飲みたいところだが、ここで人間の騎士たるセラスの顔も立てねばならない。

『それじゃあセッカ殿、乾杯の音頭を頼む』

『いいや、私は遠慮させてもらおう』

セラスはきっぱりと首を横に振った。

『こういう宴の席で長々と喋るのは性に合わん。お前がやれ』

『いいのか?』

『ああ』

『それじゃあ、仕方がないな』

『仕方がない』と、言いながらも、柳也の顔はどこか嬉しそうである。

次の刹那、柳也の手の中に魔法のようにカンペが出現した。

柳也は意気揚々といった様子で、されど早口でカンペを読み下す。

『あの春の日、いつものように川辺を走っていた俺は、前方からやってくる近所の高校生(陸上部)で顔見知りの女の子のスパッツに異様な興奮を……』

『……乾杯』

『…………あれ?』

柳也の音頭を最後まで言わせず、ニムントールがぼそりと呟いた。

残酷な一言が空気を切り裂いた直後、グラスを打ち鳴らす音が次々と響き、柳也は茫然としたまま動かなくなる。

いったい何でこうなってしまったのか。乾杯の音頭はこれからだというのに。

頭の中で、いくつもの言葉が飛び交っていた。

『リュウ、乾杯』

硬直したまま動かない柳也のグラスに、ニムントールが軽くグラスを打ち付けてくる。

チン…と、泡の層薄い黄金色のグラスが小さく音を立てた。

かくして、宴は始まった。

 

 

『……迂闊だった』

ビールで満たされたグラスをちびちび傾けながら、柳也は思わず暗い溜め息をついた。

不本意な乾杯からわずかに一時間が経ち、柳也は、この場にビールを持ち込んだことを少し後悔していた。

『酒の味を知っているからといって……酒に強いとは、限らないよなぁ』

『ニムはぁ、わたしの手伝いをよくしてくれるしぃ、いつもはにかんで笑ってくれる、とっても可愛い子なんですよぉ〜』

ちびちびとビールのグラスを傾けながら、ぼそり、と呟く柳也の頭を、ペチペチ、と素顔のファーレーンが叩いてくる。

にやけた笑みを浮かべるその頬は赤く、至近距離で吐き出されるその吐息は、はっきりいって酒臭い。普段の飲酒量が少ないからか、アルコール度数の低いはずのビールでへべれけに酔っ払ってしまったファーレーンは、かれこれ三十分以上もの間、柳也に絡んでいた。

呂律の回らぬ舌先から紡がれる言葉は、先ほどからニムントールに関連するものばかりだ。それも、ファーレーンにとってニムントールがいかに素晴らしい妹であるかをとうとうと語り続けている。

『それにぃ、わたしがお風呂上りのニムの髪を拭いてあげると、ニムがはにかむんです。ありがとう、お姉ちゃんって。その笑顔がもう、可愛くって可愛くって』

『お姉ちゃん、そんなことリュウに話さなくてもいいってば!』

顔を真っ赤にして言う姉の言葉に、同じく顔を真っ赤にした妹が慌てて言う。

アルコールは一滴も入っていないのに、羞恥に頬ばかりか耳まで真っ赤にさせたニムントールは、聞いているだけで恥ずかしい姉の言葉を必死になって否定していた。

『駄目よぉ。リュウヤさまにはニムのいいところをいっぱい知ってもらわないとぉ。それでですね、リュウヤさま。ニムは笑っている時の顔もそうですけど、寝ている時の顔も可愛いんですよ〜』

『はぁ、さいですか……』

すでに三十分以上にわたってニムの素晴らしさと可愛らしさについての講釈を受けている柳也は、いささか辟易とした様子で気返事を返す。

しかし次の瞬間、ファーレーンは眦を吊り上げて柳也に喰ってかかった。

『……む。なんですかぁ、その気返事はぁ? リュウヤさま、ちゃんと聞いてますか〜?』

『あ、ああ…うん。聞いている、聞いている』

酔った口調ながら、重苦しい迫力を漂わせながら、ずいっ、と滲みよるファーレーンに、柳也はしきりに頷く。

普段なら美人のファーレーンの顔が接近したことに、胸の高鳴りの一つでも覚えてよさそうなものだが、今日に限ってはまったくそんな気は起こらなかった。

普段は温厚な性格のファーレーンだけに、怒った時のエネルギーは凄まじい。

特に、ニムントールについて喋っている時の彼女は非常に危険な存在といえた。

話の腰を折ったり、中途半端な返事は、彼女の機嫌を損ねかねない。

『それからですねぇ、ニムはぁ、お茶を淹れるのが誰よりも上手くてぇ……』

『お、お姉ちゃんっ、そんなことないってばぁッ!』

『むぅ…そうですよぉ。お茶を淹れるのだったらわたしだって負けません!』

ファーレーンの言葉に過剰なほどの反応を示し、ニムントールの隣に座るセシリアが小さく叫ぶ。いつもより強い態度で口を開いたセシリアの頬もまた、アルコールからくる朱色に染まっていた。

『わたしのほうが上手いに決まっています! そうですよね、リュウヤさま? ね、ね?』

『そんなことありませんよ! ニムの淹れたお茶の方が美味しいに決まっています。リュウヤさまもそう思いますよね?』

『……なんでそうなる』

素面の時より八割増しで態度の強い二人の迫力に気圧されし、直心影流二段剣士は、がっくり、と肩を落とす。

酒を飲んだことがないというセシリアに、「何事も経験だ」と、言って、彼女のコップにビールを注いだのが間違いの始まりだった。

いつもは周囲のフォロー役であり、調整役のセシリアが酒を飲みだしたことでファーレーンの暴走に歯止めが効かなくなり、思いのほか酒の味を気に入ってしまった彼女がさらに飲み続けたことにより、ここにまた厄介な酔っ払い一人が誕生してしまった。

そして、その酔っ払い二人がよってたかって柳也に絡んでくるものだから、彼のテーブルはたいへんなことになっていた。

『せ、セッカ殿、Help me……』

『言葉の意味はよく分からないが、言いたいことはだいたい分かる。……だが、許せ。こちらは、こちらで手一杯だ』

セラスに救いを求める視線を向けた柳也だったが、隣のテーブルの惨状を見てそれは同情的なものに変わった。

セラスのテーブルでもまた、酒に弱いスピリット達によって大惨事が発生していた。

『はい。セラスさまぁ、お注ぎいたします〜』

『こ、こらアイシャ、私のグラスにはまだ残って……っとと』

いまだ半分ほどが残るグラスに、なおも容赦なくビールを注ぐ……というより、ビール瓶を垂直に叩き込むアイシャ。もはや描写するのが面倒臭いのだが、彼女の頬もまた朱色に染まっている。

いやアイシャばかりではない。セラスのテーブルでも、グラスを黄金色の液体で満たしたスピリットは、みな例外なく酔っていた。

これも制限された配給の弊害なのか、酒に対する免疫の弱いスピリット達はみな酒癖悪く、柳也とセラスに絡む、絡む、絡む。

『ニムはぁ、ニムはぁ……』

『ねぇ、リュウヤさまぁ、聞いていますかぁ?』

『あ、セラスさま、コップの中がまた少なくなっていますよ?』

『いや、まだ一口も付けて……っとと』

『……なぁ、ニム、どうすればいいと思う? この状況』

『どうしようもないと思う』

柳也始め正気を保っている面々は、一斉に溜め息をつく。

ビール瓶の数が一ダースと限られているのが、唯一の救いだった。

悪夢のような宴は、この後さらに小一時間ほども続いた。

 

 

一ダースあったビールの瓶がすべて空になってからさらに一時間後、次第に酔いから醒める者が出始めた。

もともとスピリットの身体能力は高い。それは肝臓や腎臓といった器官も例外ではない。

とはいえ、いくら肝機能や腎機能が優れているといっても、それには当然個人差がある。また、マナの影響を受けやすいスピリットのこと、その能力は日や場所によって違ってくる。

時間が経つにつれて、柳也の周りからはひとつ、またひとつと空席が出始めていた。心地良い酔いがいよいよ不快感となり、椅子に座っているのも億劫になり始めた者達が続出したのだ。

ちなみにセシリアは残った。摂取したビールの量が僅かだったおかげか、酔うのも早かったが醒めるのも早かった。

反対に自室に引き返す羽目になったのはファーレーンだ。激しく頭痛を訴えた彼女はひとり席を立ち、自室へと戻った。ニムントールが酔い止めの薬を持って着いていったが、彼女自身は食堂に戻ってきている。うんうん、と唸る姉から、『しばらく一人にしておいてほしい』と、言われて、不承不承戻ってきたらしい。

アイシャは……今日は赤マナの勢いが弱いのか、いまだ酔っていた。相変わらずセラスのグラスに飲み物を注ぎ続けており、ビールがなくなってからは水を注ぎまくっている。

『セラスさまぁ、グラスがお空きですよ〜』

『こ、こらアイシャ、もうやめないか』

『なんですかぁ! わたしの酒が飲めないっていうんですかあ!?』

『……そもそも酒ですらないではないか』

『セッカ殿……頑張れ』

柳也は隣のテーブルを涙目で眺めながら、その実、料理を口に運ぶ手だけは止めなかった。

料理が数少なくなってきたところで、いよいよ胃袋のエンジンが最大回転数を発揮し始めたらしい。質より量の男の本領発揮とばかりに、目に付いた皿を分刻みに平らげていく。

『サムライよ…そう言ってくれるなら、席を変わってくれ』

『それは無理』

唐揚げを頬張りながら、柳也はきっぱりと言い切った。

その時、アイシャの反対側で困惑気味のセラスに生温かい眼差しを向けていた緑スピリットの目線が、柳也のほうへと向いた。

『そういえば、リュウヤさまは異世界から来たのでしたよね?』

『んう?』

大根に似た触感がなんとも美味な紫色のサラダを、シャキシャキ、させていた柳也が振り向く。

普段あまり言葉を交わすことのない少女を、頭の頂からふくよかな胸元までしげしげと眺めた柳也は、神妙な顔つきで、

『……八五のDか』

『は?』

『いやあ、なんでもない。それで? 俺がどうしたって?』

まさか胸のサイズを目測していたなどとは正直に言えない柳也は、からからと笑って誤魔化した。

『いえ、料理も後少しですし、リュウヤさまの世界についてお話しいただけないでしょうかと思いまして』

『俺の世界について?』

思ってもみなかった質問に、柳也はオウム返しに聞き返す。たしかに料理も残り少なくなってきて、宴会は飲んで食べて騒ぐ場から会話の場へと移行しつつあるが。

『面白そうだな』

緑スピリットの少女の隣で、アイシャ曰く酒という水を飲みながらセラスが呟いた。

『思い返してみれば、サムライと話すことといえば剣術の話か、軍事に関することばかりだった。今日は、サムライ自身のことについて聞いてみたい』

『ニムも、もっとリュウのこと知りたい』

『わ、わたしもリュウヤさまのお話しが聞きたいです!』

目線を転ずると、柳也のテーブルでも同様の声がいくつもあがり出す。

みんな異世界からやって来たエトランジェに対して、内心では興味を抱いていたのだろう。これまで口に出してくることはなかったのが、セラスの発言をきっかけに次々と質問の声が柳也に降り注いできた。

期待に満ちた少女達の眼差しが、柳也の見に一斉に集中する。

柳也は困った顔になった。

『あ〜……つまらない話だぞ? 少なくとも、君達が期待しているような冒険譚はじゃない』

『仮に私達とお前の立場が逆だったとして、まったく異なる文化圏・世界で生まれ育った者の人生について聞いて、つらまぬと思うか?』

『なるほど。そりゃあ、興味深い話しだな』

柳也は少し考えてからニヤリと笑い、諦めたように溜め息をついた。

『質問を限定してくれ。生まれてからのことを全部話そうと思ったら、同じだけの時間が必要だ』

『リュウヤさまは、この世界に来る以前は何をしていたんですか?』

『やっぱり軍人?』

最初に柳也に問いかけてきた緑スピリットの言葉を、ニムントールが続けた。

やっぱり……ということは、どうやら自分は彼女達にとって軍人以外には見えないらしい。嬉しいような、悲しいような、複雑な気分だった。

『ご期待に添えず申し訳ないんですが……そのう、普通に学生やってました』

柳也は苦笑とともに呟く。

『学生? 士官学校か? それとも軍の技術学校か?』

『いえ、あの、普通の、学生です。普通に、民間人やってました』

『……本当か?』

正直に答えた柳也の言葉に、セラスが訝しげに問い返してくる。

いやセラスばかりか、周りのスピリット達はみな自分が嘘をついていると思っているらしく、怪訝な表情をこちらに向けてきていた。

――な、なんだよ、みんな? 俺が普通に民間人やっていたのがそんなにおかしいってか!?

【主の軍事に関する知識と、戦術眼を見れば、当然だと思うが】

――くそぅ。せめて、学生は無理でも……警察官に見られたかったぜ!

【五十歩百歩の職業ですねぇ】

柳也は悔しげに歯噛みすると、毅然とした態度で口を開いた。ちょっぴり涙目で。

『だから言ったろう? つまらない話になると。俺は元居た世界ではただの民間人。そりゃあ、剣術もやっているし、普通よりはちょっとそちら方面の知識に通じてもいる。そのせいで、左よりな連中に睨まれたこともある。けど、基本は貧乏苦学生だ』

『貧乏苦学生?』

『ふっ……ああ、そうだ』

ニムントールがオウム返しに聞き返し、柳也は不意に窓の外へと目線をやった。なぜかその口元はニヒルに歪んでいる。

『貧乏だった……自慢じゃあないが、貧乏だった……』

脳裏に、苦悩の日々の情景が鮮烈に蘇った。

一週間の食費を残り三百円ぽっちで切り抜けねばならぬと悟ったあの日、己は泥水をすすり、草を食んだのだった(後日、そのことを瞬に話したら米俵を贈呈された)。

貧乏のあまり鉛筆が買えなかったあの日、己は泣く泣く小指を噛み切り、自らの血で答案を埋めたのだった(後日、クラスメイトのみんなからとびきりの笑顔とともに文房具一式を貰った)。

人間は困窮が極まるとどんな細い蜘蛛の糸にもすがりたくなるようで、一時などは本気で徳川の埋蔵金を探したりもしたものだった(その時に見つけた古代文明の遺品と思われるベルト状の装身具は、後日拾得物として警察に届けた。きっと今頃誰かが身に付けて、みんなの笑顔を守るために戦っていることだろう)。

思い返してみれば、両親を失ってからの桜坂柳也の人生は、まさに貧乏との激闘の歴史だった。

偉大なる喜劇王サー・チャールズ・スペンサー・チャップリンは、『人生で大切なことは愛と勇気といくらかのお金だ』と、言ったが、自分にはそのいくらかのお金すらなかったのである。あったのは幸いにも人より丈夫なこの身体と、愛と勇気、そして根性だけだった。

勿論、父母が自分に遺してくれた財産は少なからずあった。しかし、柳也は出来ることならそれには頼りたくなかった。結果的に自分のために両親が残してくれた遺産である。使うなら使うで、もっと最適なタイミングがあるはずだと考えた。

『冬の寒い日にはご近所さんから古新聞を集めて燃やして、暖を取ったものだ。……三十分後、消防士の方に、やめなさい、って言われたが。まったく嫌な時代になったもんだ。お役人さんの許可なしには焚き火ひとつできない世の中になっちまった。

それにしてもあの時、寒さに震える俺を見かねてお向かいの田中さんが差し入れてくれた肉じゃがは非常に美味かったなぁ。なんというか、人情の素晴らしさを感じたよ』

『そ、そうですか……』

わずかに頬を引きつらせ、セシリアが乾いた呟きをこぼす。

見れば、異世界出身の柳也の口から、どんな美しい世界の情景が語られるのだろうと期待に胸を躍らせていたスピリット達の顔にも苦笑いが浮かんでいた。

ただひとり、セラスだけが、うんうん、と頷き、彼に同情的な眼差しを向けていた。

『わかる……わかるぞ、サムライ。私も武者修行時代はそうであった』

『おお、わかってくれるかセラス殿!』

柳也は、ガタンッ、と席を立った。

セラスも、ガタンッ、と席を立つ。

二人の間で、熱い視線が交錯する。

『『同士よ!』』

二人は互いに歩み寄ると友情のバロムクロス……もとい、利き腕を肘から絡め合った。友情のバロメーターが300バロムを超えなかったのか、合体こそしなかったが。

『でも、そんなに苦しい生活じゃ楽しいことなんて何もなかったんじゃないですか?』

二人の男が友情を確かめ合う横から、それを理解できぬ少女の声がかけられた。

健全な青少年であれば魂の炎を燃やさずにはいられない方法で友情を確かめ合っている最中に冷静な言葉を投げかけられ、柳也とセラスはしぶしぶ腕を解く。

柳也は、

――所詮、女には理解できぬ世界か。

と、胸の内で嘆きながらかぶりを振った。たしかに、バロム1のドルゲ魔人は女の子向けの造形ではない。女優の南野陽子(二代目スケバン刑事)はバロム1のファンという節があるが。

『そうでもなかったさ。たしかに俺には金はなかったが、友達はたくさんいたし、兄弟もいた。ご近所さんは優しい人が多かったし…。そりゃあ、嫌なやつもたくさんいたけどさ、それでも、比較的恵まれた環境だったと思うよ』

柳也は莞爾と微笑んだ。

『それに俺は日本人で、若かったからな。俺の住んでいた国は世界第二位の経済大国で、国民は最低限の衣食住を保障されていた。社会にも俺を受け入れてくれる余裕があった。仕事先も、いくつかあったし。アルバイトだけど』

『どんなお仕事をされていたんですか?』

『色々やったなぁ。工事現場の作業員に引越し業者。年齢を誤魔化して警備員もやったし。……原発の清掃なんかもやったな。あとは似顔絵とか』

『似顔絵? リュウが?』

似顔絵と聞いてニムントールが怪訝な表情を浮かべる。

どうやら彼女の頭の中では、桜坂柳也という男と絵を描くという繊細な作業が上手く繋がらないらしい。

柳也はニヤリと笑った。

『お? 疑っているな? 結構、評判いいんだぜ、俺の絵』

柳也は紙と筆記具を求めた。

すぐに質感の粗いやや黄ばんだ紙と、インクと筆が運ばれてくる。

ファンタズマゴリアには黒鉛をベースにした、いわゆる鉛筆はまだ発明されていない。現代世界でも鉛筆は1565年にスイスで理論が確立し、16世紀後半になって黒鉛鉱が発見されたことによりようやく製造が始まっている。また万年筆は19世紀前半に登場した筆記具であり、これまたエーテル技術を除けば中世時代の文明レベルでしかない有限世界においてはまだ発明されていない。

用具一式を受け取った柳也は、居並ぶ面々をぐるりと見回した。

そして一言、「よし」と、頷くや、インクに浸したペンをさっと紙に走らせる。

熱心に紙面と向かい合いながら、柳也は言葉を続けた。

『これでも手先は器用なほうでね。戦車とか、航空機とかの模型を作るのが趣味なんだよ。……ただ、やっぱり貧乏だからさ、700分の1とか、72分の1スケールとかでもおいそれとは手が出せんわけよ』

『……それで?』

セラスは柳也の話の半分も理解できていなかったが、先を促した。もっとも、そもそも戦車や航空機がどのような代物であるかを知らないスピリット達は、セラスのさらに半分も理解していなかったが。

『模型のパッケージってさ、どこのメーカーも絵師の人がすんげえカッコイイ一枚を描いてくるんだよな。それで模型を買う金がない時は、パッケージのカッコイイ絵を見て、頭の中で作っているのを想像して我慢するわけ。けど、パッケージを見ているだけじゃ、やっぱ我慢の限界があるんだよな。でも金はない。そういう時は、店先に走ってパッケージを見て、それから家に帰って絵を描くんだ』

『絵を?』

『そう。パッケージの絵を模写するんだ。模型を作るのと同じでさ、自分の手を使って絵を描くんだ。絵に描いた餅……っていっても、わからないか。とにかく、そうやって今度は自分の書いた絵をベースに想像力を膨らませて、買いたいって欲求を押さえ込むんだよ。

んで、そんなことを繰り返しているうちに、自然と画力と記憶力が上がっていったってわけさ。最初は絵も下手くそだったし、一枚を描き終えるまでに何度も模型店に足を運んだけどな。けど、そのおかげでいまじゃそれなりの画力は身に付いたと自負しているし、一度見たものは大概忘れないっていう特技も身に付いた。この歳までに、戦車はだいたい一〇〇種類、航空機は二〇〇種類、軍艦は五〇種類くらい、資料なしでも描けるようになったんだぜ?』

柳也はそう言って得意げに笑う。

記憶力の高さは自分の自慢できる数少ない特技のひとつだった。一度見たものを忘れないというのは、試験の時にたいへん重宝する。

もっとも、引き合いに出された対象が対象だけに、セラス達は柳也の記憶力が本当に優れているかどうかいまいち判断しかねていた。有限世界に生きる人々は戦車や航空機の実物を見た経験を持っていないし、陸繋がりの世界に生きる彼らでは、鋼鉄製の軍艦の姿など想像もできなかったからだ。

『しかしなるほど。それでファーレーンは戦車とやらの威容について語ることができたのだな』

『そう。俺が絵を描いて、そいつを見せたんだよ』

『……あんまりお姉ちゃんに変なものを教えないでほしいんだけど』

『変なもの……って、W号戦車は傑作なんだけどなぁ……っと、出来たぞ』

大好きな戦車を変なもの呼ばわりされてしかめっ面を浮かべていた状態から一転、柳也は会心の笑みを浮かべる。椅子から立ち上がり、ぐっ、と両腕を前に出すと、観客達のほうへ入魂の力作を向けた。

次の瞬間、彼の周囲は感嘆の吐息で満ちた。

示された紙面上には、なるほど、たしかに自慢するだけのことはあるスケッチが存在していた。

『ほぅ……』

間近で見ていたセラスが目を細め、呆れとも感慨ともつかぬ溜め息を漏らした。

値踏みをするように、しげしげと柳也の描いた絵を眺める。

閉ざされた黄色い空間の中では、ひとりの少女がにこやかな笑みを浮かべていた。

あまり時間をかけなかったせいか、そのタッチはやや粗さを孕んでいたが、時に力強く、時に繊細に描かれ、互いに影響し合う線によって構成された少女の絵は精彩を放っていた。時間の止まった空間にありながら、絵の少女はまるで本当に自分達と同じ時間を生きているかのようで、三次元的な広がりに留まらず、四次元的な膨らみを持っている。

なにより、少女が浮かべている笑みは活き活きとしていた。それでいて大袈裟すぎず、むしろ自然な微笑みとして紙面に刻まれている。

幻想的な美しさはなく、むしろ親しみやすい美しさがあった。

上品に微笑む少女の細い輪郭は、セラスも見慣れた人物のものだった。

『上手いものだな』

『……これ、お姉ちゃん?』

もっとも間近で見ていたニムントールが、柳也を見上げた。

柳也は両腕を突き出したまま首を縦に振る。

『おう。どうだ? 結構、似てるだろう?』

柳也はニムントールを見た。

しかし彼の言葉に、ニムントールだけでなくその場にいた全員が頷いた。セシリアなどは何度も頷いて感動を表現している。

みんなのそうした反応に気を良くした柳也は、ますます頬の筋肉を緩め、饒舌に口を開いた。

『ファーレーンは美人だからな。絵を描くならやっぱ笑顔が一番だろうと思って描いたんだ』

『でも、なんでお姉ちゃんを?』

ニムントールが姉と慕う少女の似顔絵から視線をはずし、当然の疑問を口にした。

これだけ絵に起こす対象がいながら、なぜ、この場にいないファーレーンを選んだのか。

柳也は、

『特に深い理由はないな』

と、肩をすくめて答えた。

両腕を下ろし、くるくると似顔絵を丸めていく。

『ただ、誰を描こうかな…って考えたら、ぱっと思い浮かんだのがファーレーンだった。ファーレーンのことを描きたいって思った。それだけさ』

柳也は丸めた似顔絵をニムントールに手渡した。

『というわけで、後でファーレーンに渡しといてくれよ。エルスサーオを出る餞別だ』

柳也はそう言ってニムントールの小さな手に筒状にした似顔絵をしっかりと握らせる。

出来ることならもっとちゃんとしたプレゼントを渡したいところだが、生憎自分はこの世界の通貨を持っていない。経済能力皆無のいまの自分が用意できる餞別など、この程度でしかなかった。

『うん。わかった』

ニムントールは、渡された薄い筒を大切そうに両手で抱え込んだ。

柳也の口元に、自然と嬉しげな笑みが浮かぶ。

自分の描いた絵が大切そうに扱われているのを見るのは、やはり気分がよかった。

『あの……』

柳也の手からニムントールの手へとファーレーンの似顔絵が移動した直後、隣のテーブルから声があがった。柳也に最初に質問をしてきた、緑スピリットの少女だ。

『わたしの似顔絵も、描いていただけないでしょうか?』

『ん? ああ、構わないぜ』

『あ、それじゃあ、わたしもお願いします』

ふたつ返事で柳也が頷くと、別の方向からまた声があがる。

それを口火に、彼の周りから『わたしも、わたしも』という声が、次々にあがった。

最終的にはセシリアまでもが柳也に絵を描いてほしいと願ってくる。

『え、ええと…それじゃあわたしもお願いできますでしょうか?』

『あ、ああ…べつにいいけど……ど、どうしたんだみんな? そんなに絵、描いてほしかったのか?』

柳也はおっかなびっくりみなの顔を見回した。

学校の授業以外で絵を描くことを請われる、それは柳也にとって初めての経験だった。

いくら上手いといっても所詮は素人の作品、本格的に絵画を学んだプロに比べれば、柳也の絵は断然劣る。実際、ハイペリアで似顔絵のアルバイトをしていた時も、カネを払って依頼されることはあっても、わざわざお願いされることはなかった。

『…分かる気もするがな』

珍しくおろおろしている柳也の背後で、セラスが呟く。

その顔は複雑に歪んでいた。

『サムライの世界ではどうであったか知らぬが、この世界で絵を描かせる、描いてもらうということはよほどの資産家でなければできぬ行為だ。中流階級出身の者だと、一生に一度あるかないかの大事といえる。ましてこの娘らは、スピリットだ』

セラスは、スピリットという部分を強調して言った。

スピリットには絵描きを雇う金もなければ、その権利もない。

『…ああ。そういうことか』

柳也は得心した様子で深々と頷いた。その表情には、暗い翳りが差している。

異世界の掟に縛られた少女達には、誰かに何かをしてもらう、という行為そのものが重要なのだろう。絵の上手い下手よりも、もっと大事な価値観が彼女達にはあるのだ。

――たしかに、俺もそうだったしな…。

貧乏だったのは何も柳也だけではない。

両親を失ったしらかば学園の兄弟達の多くは、経済的に恵まれていない者のほうが多かった。

そんな彼らから誕生日や昇段試験合格などで祝福された時、柳也がなによりも嬉しかったのは「おめでとう」という、心からの一言だった。自分の幸福を祝おうとしてくれる、彼らの心遣いだった。

――貰ったプレゼントの中身より、プレゼントを貰った、っていう事実のほうが、嬉しかった。プレゼントを用意してくれった、その気持ちが…。

彼女達もまた同じなのだろう。描いた絵の内容より、描いた絵の価値より、絵を描いてくれたというその事実が、絵をプレゼントしようとする自分の気持ちが、嬉しいのだ。

『……ついでに言っておくと、私も中流階級の出だ』

不意にセラスが口調と表情を一転させて囁いてきた。

『肖像など一生に一度きりの大事と思っていたが……意外なところで絵師を見つけられた。私の絵も頼むぞ、サムライ』

そう言って、柳也の肩を叩いてくる。

柳也は一瞬、きょとん、とした後、すぐににっこりと笑った。

『まかせろ。本物の六割増しで美男子に描いてやる』

 

 

――聖ヨト暦三三〇年、エクの月、青、ふたつの日、早朝。

 

特殊作戦部隊帰還の報がリーザリオ司令部に届けられた時、トティラ将軍は早朝の日課、ケカレナマ(レスリングのような競技)の稽古の真っ最中だった。

予定よりもはるかに早いオディールらの帰還に嫌な予感を覚えたトティラは、稽古を早々と切り上げ、バクシーとともに待機所のブリーフィングルームへと足を運んだ。隊員に会って状況を聞くためだったが、トティラは待機していた人数の少なさにまず驚いた。

二四名の精鋭が揃っていたはずの特殊作戦部隊が、たった六名にまで戦力を減退させていたからだ。そればかりか、帰ってきた少女達の顔はみな例外なく憔悴しきっており、まさに敗残兵といった風体だった。

トティラは相手がスピリットということも忘れて、驚愕混じりの同情的な眼差しを向けた。

――いったい何が起こったのだ!?

外人部隊を含む精鋭二四名が、こんな短期間で七割以上の被害を受けるとは、通常では考えにくい事態だった。七割の損害といえば、柳也達の世界なら全滅に近い打撃だ。

ブリーフィングルームには軽傷の者五人が集められていた。

彼女達はみな疲れきっている様子だったが、将軍の姿を見て反射的に敬礼した。

挫折感と怒りに満ちた表情が、トティラ将軍を迎えた。

トティラは彼女達に答礼すると、

『疲れているだろう。楽にしていい』

と、珍しく穏やかな口調で言った。妖精差別主義者のトティラだったが、さすがにこの時ばかりは軍人として彼女達への同情を禁じえない。

『……オディール、状況を説明しろ。いったい、何があったのだ?』

『トラップです、閣下』

オディールは疲労に引き攣った顔をトティラに向けた。

『我々は敵の新戦術に遭遇したのです。さらに、ラキオスのエトランジェとも、交戦しました』

『……詳しく話せ』

“新戦術”、“エトランジェ”の二つの単語に対し、特に敏感に反応したトティラは厳しい顔でオディールを見つめた。

オディールは疲弊しながらもきびきびとした所作で頷くと、エルスサーオで経験した、これまでにないまったく新しいタイプの戦争のやり方について語った。落とし穴を始めとする各種のブービー・トラップ。正確な狙いとスピリットの防御壁を突き破るだけの威力を持った矢。精強なスピリットと、そして“守護の双刃”と名乗ったエトランジェの存在。

にわかには信じられぬ部分も多かったが、オディールの説明は問題の要所々々を的確にまとめており、なによりリアルだった。そしてすべての説明が終わった時、トティラはオディールの言う事をすべて信じることにした。

『なんということだ……』

トティラ将軍は顔をしかめると、隣に立つバクシーを見た。

『これは由々しき事態だ。やはりラキオスのエトランジェはすでに実戦配備されていた。そればかりか、ラキオス軍は新戦術を採用し、八対一という戦力差を跳ね除けおった。おそらく、この新戦術はそのエトランジェが異世界より持ち込んだものだろう』

『間違いないかと思われます。ここまで大胆な戦術の転換は、そうでも考えなければ説明がつきません』

メモを取りながらバクシーが頷く。さすがに二人とも頭が切れる。ラキオスの防衛戦術が一変した原因を、早くも見抜いてしまった。

『すぐに報告書を作成しましょう。これは、一刻も早く幕僚本部に伝えねばなりません』

『うむ…』

バクシーの進言に、トティラは重々しく頷いた。

今回の敗北については徹底的な研究をしなければならない。今回召還されたエトランジェに対する研究を怠ることは、バーンライトの滅亡に繋がりかねない。

バーンライト最強の猛将、スア・トティラの勘が、そう告げていた。

悲観的決定論者の不安に満ちた鉛色の将来のビジョンなどではない。

数々の戦いで自軍を勝利に導いた、歴戦の猛将の直感だった。

『すぐに資料の作成に取り掛かれ。スピリット達の調書は……』

トティラ将軍は居並ぶ敗残兵の少女達の顔を見回す。これ以上の尋問は彼女達に無用なストレスを与えるだけ、と判断した彼は、一度瞑目した後、バクシーに言った。

『兵達は疲れている。調書は少し時間を置いてからにしろ』

トティラは、“スピリット達”を“兵達”と、言い換えた。

目の前で憔悴しきった顔をこちらに向ける彼女達が、祖国のために必死に戦ったことは疑う余地もない。妖精差別主義者のトティラだったが、国のために必死に戦った彼女達をぞんざいに扱うことは、軍人としてのプライドが許さなかった。

『トティラさま……』

その時、おずおずとオディールが口を開いた。

『任務に失敗した、わたしの処分は……?』

特殊作戦部隊を率いたオディールが、やけに落ち着いた声音で問う。失敗の責任をすでに覚悟しているらしく、その顔はむしろ晴れやかだった。

トティラ将軍は作戦に失敗した彼女達を処罰するつもりはまったくなかった。

もともと、今回の作戦は女王陛下にゴマを擦った情報部の立案によるものだ。騎士リリアナ・ヨゴウの暗殺計画と、ラース襲撃事件の失敗による信頼を失った情報部が、名誉挽回のために計画した、到底、実現不可能な作戦だ。エトランジェの登場というアクシデントがあったとはいえ、それに失敗したところで、トティラ将軍に処分する気は最初からなかった。そうでなければ、出発の前夜に、オディールに『貴様の判断で撤退せよ』などとは言わない。

それにオディールには処分を受けるよりもやってもらいたいことがある。

実際にエルスサーオで戦い、ラキオスの新戦術を体験した彼女の経験は、今後の戦闘・研究で大いに役に立つ。

『……処分は必要ない。貴様も疲れているだろう。少し安め』

『いいえ、そういうわけにはまいりません』

命令口調で告げたトティラ将軍の言葉に、オディールはかぶりを振った。

『本作戦の失敗の原因はわたしの判断ミスです。あの時、わたしが戦力分散の判断を下していなければ、敗北は仕方ないにしても、これほどの大損害は受けなったはずです。すべての責任は、わたしにあります』

『黙れ!』

トティラは叱咤した。だが、オディールはやめなかった。

『わたしはトティラ将軍からお預かりした多くの部下を失ったばかりではなく、作戦の遂行そのものを放棄しました。この重大事を、黙って見過ごされては困ります。わたしには特殊作戦部隊の隊長として、この責任をとる必要があります。いかなる責任も、引き受ける覚悟です。どうぞ厳しい処分を、お願いします』

作戦に失敗したスピリットに対する最大の処分……それは処刑に他ならない。オディールはその最大級の処分を覚悟していた。

『たとえこの身を失わねばならない審判が下ったとしても、それを真摯に受け止め……』

『やめろ!』

トティラが一喝した。

ブリーフィングルームに、六二歳の老将軍の天地を揺るがす怒声が響き渡った。

『もういい。貴様の気持ちはわかっておる。ここに責められる者はひとりもいない。オディールも、ここにいるみなも、よくやってくれた。責められる者がいるとしたら、それはこんな馬鹿げた作戦を立案した情報部の連中だ。そして、その作戦を実行に移す決断をした、この儂だ』

『……ッ!』

トティラ将軍が、威厳に満ちた声で重々しく呟いた。

自らの責任の所在を明らかにした彼の目の前で、オディールが肩を震わせた。くくくっ、と涙を押し殺す。それが他のスピリットにも移り、少女達はみな例外なく静かに涙を流した。

ついにはバクシーまで涙をもらう。猛将の秘書として、常に冷静でなければならぬ彼の目尻には、熱い雫が浮かんでいた。

『しかし……オディールの言う事も一理ある。作戦が失敗した以上、誰かが責任を取らねばならない。ならば、一つその責任を取ってもらおう』

全員が、トティラ将軍の次の言葉を待った。

トティラはゆっくりと口を開いた。

『……大陸第一の部隊を、再建せよ』

トティラのこと一言が、その場にいた全員の心を打った。

『トティラさま!』

『トティラ閣下、うううっ』

同じような声があちこちから聞こえた。涙を拭う者。溢れそうになる涙を堪えるために天を仰ぐ者。そっと指先で目頭を押さえる者。

泣き声の渦巻く中心で、オディールもまた感涙にむせていた。

――わたしの命は、今日、トティラさまに拾われた……。

本来ならば処刑処分を受けてもおかしくないはずの失敗。しかしトティラ将軍はそれを許し、その上で自分の力を貸してくれ、と求めてきた。

――トティラさま、わたしは……。

言葉にならぬ想いが、オディールの中で爆ぜた。

オディールはこの猛将の下で戦えることを、誇りに思った。

 

 

 

 


<あとがき>

 

北斗「さて、ダダ二七一号……もとい、タハ乱暴、何か申し開きはあるか?」

 

タハ乱暴「ど、読者の皆様たいへん申し訳ありません! なんとか二〇〇八年中にエルスサーオでの戦いを終わらせてみせる、と公言しておきながら、結局間に合わず、ただいま一月中旬というこの現状……深く、深くお詫び申し上げます! 謝ります! 謝るからブローニングを額に突きつけるのはやめて北斗ぉぉぉ――――――!!!」

 

北斗「(ブローニングをしまいつつ)反省しているな?」

 

タハ乱暴「は、はひ!」

 

北斗「それは本心からの言葉だな?」

 

タハ乱暴「オフコース!」

 

北斗「ちなみに執筆が遅れた理由は?」

 

タハ乱暴「いや、名古屋ドームに名護さんが……」

 

“ズキューン!”

 

タハ乱暴「ほ、本心からの言葉なのに……名護さん……画鋲……ガクッ」

 

 

柳也「……なんちゅー始まり方だ」

 

北斗「永遠のアセリアAnotherEPISODE:24、お読みいただきありがとうございました。仮面ライダーイクサの真の装着者は次狼だと信じて疑わない闇舞北斗です」

 

柳也「おはこんばんちはっす。仮面ライダーイクサの真の装着者は蜘蛛の人と信じて疑わない桜坂柳也でっす!」

 

タハ乱暴「うぐ……仮面ライダーイクサのフィギュアの完成度に終始涎を垂らしているタハ乱暴……ですぅ……ぐは!」

 

柳也「今回のお話はいかがだったでしょうか? 戦いばかりの一夜が明け、エルスサーオには平和が戻ったわけですが」

 

北斗「何気にちゃっかりしているセラス・セッカの出番が多かったな。そして主人公は食べてばかりという……」

 

柳也「いいんだよ。俺はそういうキャラだから」

 

北斗「そしてなぜかハーレムを築いている主人公」

 

柳也「いいんだよ。俺はそういうキャラだから」

 

北斗「……そういう、キャラだったか?」

 

柳也「な、なんだよ? その不信に満ちた眼差しは? 俺はラキオス一の美男子二枚目モテモテのキャラだぜ?」

 

北斗「……二枚目?」

 

柳也「ごめんなさい。調子に乗りすぎました。だから顔のことは言わないで下さい」

 

北斗「まぁ、許してやろう。そしてついにバーンライト側は、桜坂柳也というエトランジェの名前を知ったわけだ」

 

タハ乱暴「これまでは伝説の〈求め〉の契約者ってことで、悠人の名前ばかりが一人歩きしていたからな。今後、柳也の存在を知ったバーンライトが、そしてバーンライトと通じるダーツィ、サーギオスがどう動くのか。読者の皆様には楽しみにしていただきたいと思います」

 

北斗「戦乱の風が吹くファンタズマゴリア! 混迷の度合いを増す有限の大地は、どこへ向かって突き進むのか!?」

 

タハ乱暴「煽ってる、煽ってる」

 

柳也「……それで、次回は?」

 

タハ乱暴「次回はようやく悠人達と合流。んでもって、話の流れが大きく動く?」

 

北斗「……待て。どうして語尾が疑問形なんだ?」

 

タハ乱暴「予定は未定ってことさね」

 

柳也「そうだな。下手に公言するとまた今回みたいな目に遭うし」

 

タハ乱暴「……ごめんなさい」

 

北斗「反省したのならよし。……さて、読者の皆様、永遠のアセリアAnotherEPISODE:24、お読みいただきありがとうございました!」

 

タハ乱暴「次回もお付き合いできれば幸いです」

 

柳也「では!」




あの乾杯の音頭はどうだろう。
美姫 「そういう意味で言えば、ニムは良い仕事をしたわ」
あ、あははは。今回はあの激しい戦いの後という事で、幾分かはのんびりした感じだったかな。
美姫 「まあ、内容的には翌早朝に立つという慌しいものなんだけれどね」
まあな。何はともあれ、これで柳也の存在も知られたし、トラップも次からは警戒されるだろうな。
美姫 「本当にこれからどうなるのかが楽しみでしょうがないわね」
うんうん、次回も待っています。
美姫 「待ってますね〜」



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