――悠人が目覚めて三日目、昼。
 
 

 広い廊下だった。床は全面に赤い絨毯が張られ、時折横切る窓枠にもいかにも高級そうなカーテンや装飾が施されている。

 柳也は、普段は触れる機会のないそれら豪著な品々をじっくりと観察していたかったが、後ろからせっつくように向けられた槍の矛先にしぶしぶ従い、流し見るに留めた。

 洋館を出た柳也達は、兵達に連れられて馬車に乗って白亜の宮城へと案内された。

 馬車といっても、近世のヨーロッパ社会で見られたような優雅な代物ではない。三頭の馬に引かれた屋根のない荷台はむしろ古代の戦車に近く、乗り心地は最悪だった。

 馬車の貨物室から降ろされると、柳也と悠人はたちまち十数人もの兵達に囲まれた。柳也達を連れ出すために洋館にやってきた兵達よりもはるかに重装な彼らは、みな二人に直接触れるのを嫌がるように槍を向け、怯える男達に代わって彼らを連行した。

 王城は「中世ヨーロッパ時代のよう」と柳也が評した通り、敵の侵入を防ぐための堀や城壁こそ欠落しているものの、過剰ともいえるほど豪勢な装飾と、その見栄えに反するかの如き迷路のような構造が特徴的だった。中世時代といえばまだ火器に絶対的な威力がなく、攻城戦はもっぱら大兵力による包囲戦か、敵城中に侵入する制圧戦がセオリーだった。迷路のような構造は実用上不便なように見えて、敵の侵入時には良い撹乱になる。

 中世という時代は、初期には城砦に関する建築技術が衰退し、十一世紀のノルマン人によるイングランド侵攻の頃までほとんど進歩のない暗闇の時代だった。またこの頃から城砦には軍事的な要衝としてよりも、政治的・経済的な中心としての意味合いが強くなっていき、城という施設には要塞としての役割よりも見栄えの良さの方が優先されていくことになる。その点、柳也達が中を突き進む城はある程度は機能的で、時代的には中世後期の頃の様式に近かった。

 悠人は抜き身の槍を突き立てられるのは初めてなのか、落ち着かない視線で周囲を見回していた。

 柳也も、さすがに本物の槍を向けられるのは初めての経験だったが、長年の薫陶の賜物で度胸は据わっており、自分達を包囲する兵士達を冷静に観察することができた。

 そして観察すればするほど、柳也はこの世界の文明レベルの程が分からなくなっていった。

 ――城中勤務ということを考えても、軽装すぎる。あれじゃ紀元前以前の装備だ。あの馬車にしても、戦車の荷台を少し大きくしただけみたいだったし…。照明器具は現代レベル、建物の内装は中世レベル、武器や馬車は古代レベルって、どういうことだよ?

 少なくとも柳也達の世界の常識に照らし合わせれば異常な文明の進歩スピードだ。

 しかし、苛立ちを口にすることは、許されない。

 さすがの柳也も、十人以上の兵士に囲まれては下手な動きはできなかった。自分ひとりならまだ何とかなるかもしれなかったが、病人の悠人を庇いながらとなると、彼らを敵に回すのは下策だ。ひとりの相手をしている間に、別なひとりが悠人を傷つけようとするだろう。

 二人の少年は、当面の間はおとなしく従うものとして、兵達の後を追い、兵達に後ろを押されながら歩いていった。

『着いたぞ』

 やがて案内されたのは、最近ではテレビゲームの中にすら登場することも稀な豪著な造りの、巨大な門の前だった。

 ――RPGなんかだと、この向こうは謁見の間というのが常道だが。

 今も昔も多くの人々に愛されている古典的RPGでは、多くの場合、謁見の間にて王との会談から物語が始まることになっている。

 まさかゲームと同じようには進むまいと思いながら、柳也は淡い期待を否定しきれなかった。

『入れっ!』

 兵士の一人が、厳しい口調で言った。

 それと同時に、一八二センチの柳也の二倍くらいはありそうな高さの門が、両側から同時に開き出す。ゆっくりと開放される扉。

 柳也は、改めて、

 ――妙なところに来ちまったなぁ…。

 と、内心で毒づきながら、疲れたように溜め息をついた。

 

 

 

永遠のアセリア

-The Spirit of Eternity Sword Another-

第一章「有限世界の妖精たち」

Episode06「少年達の決断」

 

 

 

 ――悠人が目覚めて三日目、昼。
 
 

 役目を終えた兵達の扱いは乱暴だった。

 気力体力ともに漲っている状態の柳也はともかく、病人同然の悠人までもが背後から突き飛ばされ、巨大なホールに押し入れられる。

「…なんだよ、ここ?」

 わけのわからぬまま連れてこられた悠人はきょろきょろと周囲を見回す。

 テレビの中、あるいは映画の中でしか見たことのない部屋には、両脇を埋めるように多くの廷臣達、そして兵達が肩を並べ、悠人達が入ってきた扉から見て正面には、何段か上の上座に、豪華な造りの、しかし飾り気のない椅子が置かれている。いわゆる、王座といものだろうか。

「……まさか、本当に謁見の間とはな」

 想像通りの展開に、半ば呆れたように柳也が溜め息をつく。

 上座に置かれた座席には、目つきの鋭い初老の男が胸を張って座っていた。いわゆる闘将の相と呼ばれるその眼差しの奥には暗いルビーの輝きがあり、恰幅の良い胴回りは、しかし若き日には勇猛果敢な戦士だった頃を偲ばせる筋肉の張りがある。王冠や重厚なマントこそ着こなしてはいなかったが、たしかにその容姿は王と呼ぶに相応しい風貌と、服装をしていた。

 そのすぐ隣には、柳也達と同じぐらいの年齢と思わしき少女が立っている。こちらも初老の男に負けず劣らずの服装をしており、その上、頭頂に頂く冠や繊細なラインのドレスがかすむほどに美しい顔立ちをしていた。どことなく隣の男に似た切れ目の双眸は意志の強さを感じさせ、腰までかかる長い黒髪は、白いドレスと好対照でよく似合っていた。

「……いかん。また、恋をしてしまった」

 柳也は自分と同年代であるはずの少女に見惚れた。これで四度目。まさかこの星には、美しい女性しかいないのだろうか。

 年齢からして、王の妃にしては若すぎる。おそらくは王の娘、この国――この世界に国という単位があるかどうかすらまだ分かっていないが――のお姫様といったところだろう。

 ――この国の住人は幸せだな。こんな美人のお姫様を頂いて。

 意志の強そうな瞳が、こちらを見つめている。

 向けられる眼差しはどことなく人間味に欠けていたが、美人に見つめられていて悪い気はしない。

 柳也は気前の良い愛想笑いで返そうとして……突如として耳に入ってきた、聞き慣れた少女の声に、一瞬、一切の表情を失ってしまった。

「! お、お兄ちゃんっ!!」

「!!!」

「なっ! 佳織ちゃん!?」

 少年達の眼差しは、一瞬にして姫の立っている方とは反対側の王座の隣へと釘付けになる。

 こんな時にも間抜けな謎の動物をかたどった帽子は、こんな時だからこそ余計に不気味だった。

 そこには、後ろ手を鎖で縛られた、柳也の幼馴染の少女がいた。

「佳織っ! なんだよ、どうしたんだ! なんでここに!」

「お兄ちゃん! お兄ちゃんっっ!!」

 佳織が悠人達のもとに駆け寄ろうと身をよじる。しかし拘束された小柄なその身は、あまりにもあっさりと屈強な兵士の手によって押さえつけられてしまう。

 紀元前同然の武装で固めただけとはいえ、鍛えられた男の腕力に、少女の力はあまりにも無力だった。

「やあぁ…っ! お兄ちゃぁんっ!!」

 目に大粒の涙を溜め、佳織は悠人に助けを求める。

 柳也の存在など視界には入らないようで、ただただ兄にのみ助けを求める少女の姿は、悠人の心に焦りと憤りの火をつけた。

 ――助けないと! ……佳織を……佳織をッ!!

 怒りに染まる心。

 佳織が虐げられると思った瞬間、悠人の心の中で、何かがはずれた。

「…ッ! なんだ? このマナの弾ける気配は!?」

 隣で茫然となりゆきを見つめている友の声も、もはや悠人には聞こえない。

 今や悠人の中には、一刻も早く佳織を助けなければという純粋な想いと、佳織に危害を加えようとするすべての者に対する憎しみしかなかった。

 ――ふざけるな……いい加減にしろ……ッ!!

「貴様っ! 何をするつもりだ!」

 佳織のもとに…上座へと走り出そうとする悠人を、素早く側にいた兵達が取り押さえようとする。

「う……ぐっ、佳織を離せ…お前らぁっっ!!」

『暴れるな! 取り押さえろ』

 思ったよりも抵抗の強い悠人に、他の兵士達も雪崩を打ったように少年を押さえにかかる。両側から両腕を拘束され、背中から何人もの男に圧し掛かれ、悠人はうつ伏せに倒れてしまう。

 眼前に迫る赤い絨毯。しかし、痛みはなかった。自分の受けた痛みなど、佳織の受けている苦痛を思えばいかほどのものであろう。痛みは、怒りによってすぐに掻き消えた。

「く、くそッ! 邪魔なんだよ、どけよッ!」

 力を込めると、呆気ないくらい簡単に立ち上がることができた。

 押さえつける男達の抵抗をまったく感じない。

 驚いた兵達がさらに人数を増して悠人を押さえようと集まってくる。だが彼らは、苛立たしげに悠人が振るった腕の一振りで、どっと吹き飛んでいった。

「高嶺!?」

 悠人の腕力の凄まじさに、柳也が表情を硬化させた。

 柳也の知る限り高嶺悠人は人並み以上の体力の持ち主であるが、大の男数人を一撃で吹き飛ばすような腕力の持ち主ではない。それも今は病人同然の弱っている身体だ。そんな彼の身体の、どこにこんな力があったというのか。

「佳織ッ!!」

 悠人はなおも乱暴に兵達を振りほどきながら佳織のもとへ駆け寄ろうとする。

 しかし、所詮は素人の動きだ。いくら力があろうとも、鍛えられた男達の統率された動き、連携した人海戦術の前には、程なくして取り押さえられてしまう。

 どんな強大な力も、それを使うことができなければ意味がない。両腕を振り回せないよう拘束され、両脚をばたつかせられないよう押さえつけられ、数人がかりで圧し掛かられては、悠人も再び赤い床に倒れ込むしかない。

 押さえつけられた悠人の口から、呻き声が漏れる。

「やめてっ! お兄ちゃんを離して!」

「くっ! 高嶺…!!」

 柳也が、同田貫の柄に手をかけた。

 しかし、鯉口を切るまでには至らなかった。

 これだけの人数だ。悠人から引き剥がすために刀を振るえば、確実に何人かは殺さねばならないだろう。いかに人殺しの技術を磨いていても、所詮、柳也は現代日本に生きるごく普通の少年だ。人を殺す覚悟など、そう簡単に固められるものではない。

『さすがエトランジェだな…剣を持たずにこの力か』

 その時、それまで傍観者に徹していた王が、何か呟きを漏らした。

 感嘆しているようにも聞こえたその言葉に、柳也の意識が目の前の悠人からそちらへと移る。

『離してやれ…』

 王の言葉に、悠人を取り押さえる兵達、周囲の廷臣達までもがざわめいた。

 自信ありげに言葉を紡ぐ王の様子が、柳也はどういうわけか気になってしょうがなかった。

 ――なんだ? 何を考えている?

『し、しかし、陛下…危険なのでは』

『大丈夫だ…大丈夫なのだよ』

 狼狽する兵達に、王は落ち着いた態度をもって応える。

 この世界の言語の分からない柳也が、王の言葉の意味を理解したのは、初老の彼が軽く手を振る仕草を見せた直後のことだった。

 兵達が悠人に対する拘束の力を急に弱め、悠人がここぞとばかりに兵達を跳ね飛ばして立ち上がる。

 悠人は、柳也が止める間もなく佳織のもとへと駆け出した。

「佳織を離せっ!」

 もう少し…!

 あと少しで、佳織のもとに手が届く!

 怒りに燃える少年の視界の中で、拘束する兵士の顔が恐怖に歪んでいた。

「かっ…!!!」

 だが、上座まであと数歩というところで、悠人は歩けなくなってしまった。

 突然、これまでに経験したことのない種類の衝撃が全身を襲い、四肢の力を急速に奪っていく。

 悠人は、立っていることすらできずに、ガクリと膝を着いた。呼吸を整えようとするも当たり前のことが正常にできない。身体が急に重くなり、冷や汗が、途方もなく噴き出してきた。

「なん…だ…!? か、から…だ、が……」

「高嶺、どうした!?」

 柄頭に手をかけたまま、悠人のもとへと柳也が駆け寄った。

 佳織の悲鳴が、広い謁見の間全体を震わせるように痛切に響く。

 ――なんだ? 脈が異様なほど速い…呼吸も荒いし……体温もどんどん低下している……!?

「くく…。これがエトランジェなのだ……我々には逆らえないのだよ」

「お兄ちゃん! おにいちゃ―――んっ!!」

 唖然とした表情をする兵士達。

 取り乱し、泣き叫ぶ佳織。

 ただひとり冷静に状況を傍観している涼しげな眼差しの姫。

 その中で柳也は、友の安否に気を配りつつも、状況の把握に努めた。

 ――高嶺が病気持ちだという話は聞いたことがない。いやそもそも、病気持ちだったらバイトなんてできないはずだ。こっちに来て、未知の病原体に感染した? だとしても、こんなタイミングで突然発症するなんて不自然だ。それにあの男の余裕の表情……。

 悠人は、佳織を助けようとしてあの男達に近付いた途端、今のような症状を発現させた。

 だとしたら、原因はあの男達の誰かにあると考えるのが妥当だ。いや、柳也達の世界の常識からすればそれは非常識な現象だが、残念ながらここは柳也達のいた世界ではない。

 ――……俺は、どうだ?

 悠人がこのような状態では、今や佳織を助け出せるのは自分しかいない。

 決意とともに立ち上がろうとしたその時、悠人が、もがき苦しみながら前へと指先を伸ばした。

「か…お、り……!!」

 額に脂汗を浮かべ、辛そうに表情を歪めながらなおも前へと悠人は進もうとする。

『ほう…かなり苦しいはずだがな。なかなか見上げたものだ。よほど、娘が大切なようだな……』

 感心したように、しかし侮蔑も露わに王が言った。

 言葉の意味は分からなかったが、王の浮かべた笑みが、柳也にはたまらなく不快だった。

 ――……悪い、母さん。俺はまだ、誰に対しても優しさを注げるような、そんな大人にはなりきれてないみたいだよ。

 心の中で亡き母に謝りながら、柳也はそっと悠人を抱き起こした。

「申し訳ない、高嶺…。文句はあとでいくらでも聞いてやるから、ちょっとだけ痛いの、我慢してくれ」

「な、に……?」

 柳也は悠人の胸にそっと手をあてがった。そして、そのまま掌で友人の胸板を強く押した。肺の中の空気をすべて吐き出させるように、強く、全力を篭めて。

「ぐぅ…! か、は……!」

「悪いな。高嶺…」

 ぐったりと全身から力を抜いて、意識を失い床に倒れこむ悠人。

 王や兵達は、柳也のこの行動に驚いて目を丸くしている。

 それまで表情をぴくりとも動かさなかった姫さえも、驚きに眉をひそめている。

 そして佳織は、幼馴染の乱行に、絶句した。

「桜坂、先輩……?」

「……大丈夫。肺の中の空気を全部吐き出させて、一瞬だけ意識を奪っただけだ。すぐに失った空気を取り戻そうとして、肺が動き出す。そうしたら、すぐに目が覚めるから」

 佳織を安心させるように大声で叫んで、柳也は立ち上がった。

 立ち上がった足下では、もう悠人が咳き込みながらも意識を取り戻そうとしている。驚異的な回復力だ。

「さて…虎穴の中で、虎児は得られるかな……?」

 乾いた笑みで己を奮い立たせ、柳也は上座へと続く階段を一歩、踏み出した。

 呆気にとられた佳織は、助けを求める言葉すら忘れて茫然と近付いてくる柳也のことを見つめている。

『愚かなエトランジェだ。先ほどその男が見せた無様な姿を、もう忘れおったか』

 王が、今度こそ完全なる侮蔑の眼差しを柳也に向けた。

 柳也はその視線を真っ向から受け止め、一歩、また一歩と段差を登っていく。

 馬鹿々々しそうに言い放った初老の顔色が、徐々に変わり始めた。

『……なに?』

「……なんとも、ないな。今のところは」

 柳也は佳織や悠人にも聞こえるようわざと声を出して言った。

 悠人のように途中で苦しみ出すこともなく、確実に距離を詰めていく柳也の様子に、王が明らかに顔色を変えていった。

 侮蔑の眼差しは驚愕の視線へと、驚愕の表情は恐怖の顔へと変わった。

『そ、そのエトランジェを止めるのだ!』

 王の声に、王座の脇に控えていた衛兵が二人、柳也に殺到する。柳也達を連行した兵と違い、鎧を着込んだ重装歩兵だが、やはり着ている鎧は紀元前のローマ兵風だ。両手にした槍は、屋根の下でも扱いやすいショート・スピアー。

 柳也はついに鯉口を切り、同田貫の豪剣を抜き放った。

 階段を低く這うようにして、長柄の先の二尺四寸八分の刀身が擦り上がる。左手の男の槍の穂先を見切るや躱し、長柄の先端部ごと切り落とすと、さらに伸びやかな弧を描いて右手の襲撃者を斬り払った。

 二人の衛兵は最前、武器を使い物にならなくされ、慌てて腰の短剣を抜こうとするが、直心影流二段剣士は、それぞれの相手がその動作を完遂するのを待たずして、同田貫を相手の側頭へとぶつけた。無論、峰打ちだ。

 〈決意〉の力の一部を寄生させた同田貫はその頑健さにさらに磨きをかけ、柳也の技量と相まって峰打ちといえども一撃必倒の威力を有するにいたっている。

 頼りの衛兵があっという間に倒され、王の恐慌は極限に至ろうとしていた。

『ひっ……!』

 ぼんやりとマナの輝きを宿した豪剣のかます切っ先が、王の眉間に向けられる。

 長柄の柄は左手で握り、利き手の右手は脇差にかけ、いつでも佳織を救出できる体勢にあった。

「さ、桜坂先輩……」

「初めて会った時以来だな。こうやって、佳織ちゃんの前で剣を振るうのは…」

『え、永遠神剣だと!? な、なぜこのエトランジェが永遠神剣を持っているのだ!?』

 柳也は、目の前の王、隣に立つ他の衛兵、拘束されている佳織、未だ目立った動きを見せぬ姫、背後の悠人、騒然とする廷臣達、驚愕と恐怖の眼差しを向ける一般兵のすべてに油断なく意識を割きつつ、王……というよりは、佳織に向かって声をかけた。

「……どうする?」

「え?」

 突然の質問に、佳織は一瞬、自分の置かれている状況も忘れて茫然となった。

「このままここで佳織ちゃんを助けて、高嶺を連れて逃げることは……まぁ、死ぬ気で頑張れば可能だろうが…」

 柳也は、そこで苦々しげに口調を変えた。

「佳織ちゃんも気付いていると思うけど、ここは間違いなく日本じゃない。俺の推測では地球ですらないし、悠人もその意見に同意している。そんな右も左も分からない世界で、仮にここから逃げ出したとして、生き延びれる可能性はかなり低いと思う」

「……」

 佳織は、黙って柳也の話を聞いている。

 下座の悠人も、まだ完全に回り始めていない頭で、必死に柳也の言葉を聞こうとしている。

「少なくともある程度のコミュニケーションと、この世界の常識を学んでからじゃないと、下手に動く方が危険だ。……今は、この連中に従っておいた方が得策だ」

「桜坂、お前……」

「…といっても、これは俺の意見だからな。ここは民主主義に従うよ。……どうする? このまま佳織ちゃんの鎖を切って、何人か死なない程度に叩きのめして、逃げ出すか? …それとも、今はしばらくこの地に留まって、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍ぶか?」

「……」

「……」

 悠人と佳織は、柳也の問いに対してしばしの沈黙をもって答えた。特に佳織は、深く思いつめるように柳也の言葉に耳を傾けていた。

 やがて下座の悠人が、

「……訊いていいか?」

「なんだ? 瞬ほど頭が良くないから、あんまり複雑な質問はやめてほしいんだけどな」

「今はしばらく……っていうけど、その間、俺達の身の安全の保証は?」

「……少なくとも、高嶺と佳織ちゃんの身の安全の保証はされるだろうな。

 もし、連中が俺達を殺すつもりなら、わざわざここに連れてくる必要はないし、仮に公開処刑のつもりだったとしても、佳織ちゃんを引き合わせる必要はなかったはずだ。それなのに、わざわざこんなところに連れてきたということは、何か企てがあってのことだろう。さっき、高嶺が倒れた時も、連中はお前を殺そうとはしなかった。お前が暴れ出した時ですら、兵ども、槍を持っているにも拘わらず、素手で取り押さえようとしていただろ? 連中、お前には死んでもらっては困るんだよ。

 それから、佳織ちゃんはその高嶺を御するための人質だ。人質は生きていなければ価値がない。少なくとも、佳織ちゃんに危害が及ぶのは、俺か、悠人を殺した後の話だ。

 それに高嶺は、さっき見たようにあいつらに近付くと、どういう原理かは知らんが、今みたく動けなくなってしまう。…まぁ、現時点でまだ床に倒れているのは、多分に俺の責任に負うところが大きいだろうが、手が出せないと分かっている以上、連中が高嶺を無理に拘束する必要はないということだ。

 奴らにとって高嶺は恐れるに足らない存在。しかし同時に高嶺は必要な存在。そしてその高嶺の動きを制御するための人質が、佳織ちゃん。……少なくとも、二人の身の安全は保証されるだろうよ」

「桜坂先輩は?」

「俺は……どうだろうなぁ。どうも俺は、連中からしてみれば意外な行動に出てしまったみたいだし。こんな刀まで振り回してしまったからな。…正直、ヤバイかも」

「そんな……」

「まぁ、なるようになれ、さ」

 泣きそうに表情を歪める佳織に、柳也はにっこりと安心させるよう笑みを浮かべた。

 本当は自分も、殺気だった衛兵や背後に大勢の兵を抱えて泣き出したい気分だったが、今、自分が泣いたりしたら、本当にどうしようもないことになると、必死に自制を効かせてなんとか耐えていた。

 ――世話の焼ける兄妹だぜ。

 柳也は作り笑いを浮かべながら、内心で悲鳴を上げていた。

「……さぁ、どうする? あまり時間もないぞ。逃げ出すという選択は、今だからできることだ。このままじっとしていたら、間違いなく援軍が駆けつけてくる。城の中だからな。兵力はいくらでもあるだろうし…そうなったら、勝ち目ないぞ。ささ、どうする偉い人?」

「……お兄ちゃん、ここに残ろう?」

 思いつめた表情で、佳織が苦しそうに言った。

「佳織!?」

 佳織の返答に、悠人が声を荒げる。

 佳織は、苦しそうに倒れる悠人に、泣き笑いの表情を向けながら、

「桜坂先輩の言っていることは正しいと思う。今、このタイミングでならたしかに逃げ出せるかもしれないけど…でも、その後のことが分からないよ。……それに、そんな苦しそうにしてるお兄ちゃんの姿、私はもう見たくない…」

「佳織……」

「ね? お兄ちゃん。今は我慢しよう。私も、頑張るから」

 悠人を安心させようと、健気にも笑みを浮かべようとして、結果、それが泣き笑いになってしまう少女は、震える声で言った。だがその声には、凛とした決意と、力強さがあった。

「……わかった」

 佳織に見つめられ、佳織の言葉に諭され、悠人はしっかりとした口調とともに頷いた。

 悠人と佳織、強い絆で結ばれた二人の視線が、僅かな時間、交錯する。

 そこには、お互いのことを真に信頼する、強い意志の光があった。

「……結論は出たみたいだな」

 すっと、柳也が同田貫の切っ先を下ろし、鞘に納めた。

 初老の男の大きな身体が王座からガクンと滑り落ち、怯えの顔が若き襲撃者の鋭い眼差しを受け止める。

「ちなみに俺も、今はここに残って従う派だ。満場一致だな。民主主義多数決万歳だ」

 柳也はたっと踵を返すと、王座へと続く階段を下りた。

 悠人のもとへと歩み寄り、友人に肩を貸す。

「立てるか?」

「あ、ああ…」

「さっきは悪かったな」

 短いやりとりを終えた二人は、再び王達の方を振り向いた。

 柳也は先刻洋館の一室でそうしたように、ホールドアップの姿勢を取った。無抵抗を示すポーズ。両手には武器を持たず、また、武器を取るには距離がある。

 しかし、土気色に染まった顔に脂汗を浮かべる国王は、そんな柳也の無抵抗を示す仕草すら理解できなかったらしい。ただただ愕然とした眼差しを向ける初老の男に、柳也は内心舌打ちをした。

『その者達を取り押さえなさい』

 その時、騒然とする謁見の間で、なお凛と通った冷静な声が反響した。

 それまで沈黙しているだけだった姫が、初めて柳也達の前で言葉を発したのだった。

 ――ほぉ…声にもなかなか張りがあって……うむ、本気で惚れちまいそうだぜ。

 姫の言葉に、逆に一歩あとずさった兵達に対する感慨はない。不思議と、人を引き付けるその声に、柳也は一瞬にして王に対する苛立ちを忘れてしまった。

『し、しかし……』

『大丈夫です。その者に抵抗する気はありません』

 兵士達が顔を見合わせている。

 誰かひとりでも手をかけてくれれば踏ん切りがつくのだろうが、その勇敢なる一人目の勇者がいないために、全員が気後れしている状況だ。

 ――早くしてくれや。

『早くしなさい!』

 柳也の祈りが届いたのか否か、姫が兵隊に発破をかけ、ようやくひとりの男がホールドアップした柳也の右腕を掴んだ。反射的に投げ飛ばしそうになるが、ぐっとこらえてそこは我慢する。

 まったく抵抗を見せない柳也に、兵士達は安心したのか、一斉に柳也を取り押さえにかかった。

『その永遠神剣も抜き取るのです』

 腰に差した脇差、そして同田貫も抜き取られる。

 父の形見の品々を、どこの馬の骨とも分からぬ連中に渡すのはかなり腹立たしいことだったが、〈決意〉の一部を寄生させたままなので、手離しても実質的には常に柳也の手の中にあるような状態だ。兵士達に取られても同田貫の位置は常に“感じる”ことができたし、いざとなれば奪い返しに行けばいいだけの話である。

 柳也が完全に取り押さえられた時点、兵士達の魔の手は悠人にも及んだ。

 二人の少年は完全に拘束され、しかしなおも抵抗がないのを確認して、廷臣達もようやく安堵の息を漏らした。

 

 

『陛下、このエトランジェ達はいかがいたしましょう?』

 悠人達を取り囲んだ兵士の中で、最も階級の高そうな兵士が言った。片方の手には自前の槍を、反対側の手には柳也から奪い取った同田貫と脇差を抱えている。永遠神剣を持っているという意識のためか、どこかおっかなびっくりな態度なのは、柳也の気のせいではないだろう。

『ス、スピリット共の館にでも放り込んでおけ!! 下賤なもの同士、勝手にするだろう!』

 王は動揺した口調で叫んだ。

『…ならばエスペリアにでも世話をさせましょう』

 一方の姫の方はいたって落ち着いた口調だ。柳也の取った予想外の行動にも、少なくとも表面上は動じた様子はない。

 ――肝も据わっているときたか。本気で惚れちまうかもな。

『そうしておけ。あの無骨な剣はまだ近づけるなよ。特に、そのエトランジェにはな!!』

 王は血走った眼で柳也を睨んだ。

 言葉の分からない柳也は、向けられた敵意の視線を真正面から受け止めるばかりだ。

 まったく動じない柳也の態度が不快なのか、それとも王族としてこんな無礼な態度を剥き出しにされるのは初めてなのか、王は顔を真っ赤にしながら早口で言う。

『は、早く行け!!』

『ハッ』

 隊長格の兵士が背筋を伸ばし、周りの兵達に素早く何か指示を下す。柳也と悠人は、そのまま兵士達に引きずられるようにして謁見の間から連れ出されていった。

 柳也も悠人も、その視線は最後まで佳織を捉えて離さなかった。

 

 

 二人の異邦者が立ち去って、ようやく謁見の間に普段の荘厳な空気が戻ってきた。

 配下の家臣達は自分達の主上の醜態を見なかったことにし、いそいそと本来の作業に戻ろうと動き始める。

 そもそも、今回の謁見は突然に催された政であり、廷臣達がそれぞれに抱えている本来のスケジュール表は記載されていない仕事だった。そこに急遽『伝説のエトランジェがやってきたので、お披露目の会談を行う』という、国王の力を見せ付けるためのショーを開かれたので、家臣達は今ある自分達の仕事を放り出して、参列させられるはめになったのだ。多くの廷臣達は王の戯れ事にほとほと愛想が尽きていたし、一部の有能な官職らは王のこの催し物にあからさまな不快感を露わにしつつ、政に参列していた。

 廷臣達の去る足音は台風のように急速に大きくなり、そしてまた急速に静かになっていった。

 人気の少なくなった謁見の間で、王はずり落ちた王座に改めて深くかけ直すと、脂汗に濡れる額を拭った。

『…いったいどうしたことなのだ? なぜ、あのエトランジェには王家の制約が効かぬ? それにあの永遠神剣は何なのだ? 四神剣以外に、エトランジェが永遠神剣を持つなど…』

『それに関しては、大した問題ではないと思えますが』

 王の隣で姫は、慇懃な態度を崩すことなく、しかし冷静な口調で指摘した。

『少なくともあの者は自由に動けたにも拘わらず、我々におとなしく従いました。どうやらあの者にとってもこの娘、そしてあのもうひとりのエトランジェは大切な存在のよう。人質がこちらにある以上、不必要に刺激するよりは泳がせて様子を見てみましょう』

『ふむ…』

『それよりも、この娘ですが…』

 姫は視線を王からその後ろの人質の少女へと移した。

『っ!!』

 姫の視線が自分の方に向いて、佳織はビクリと身を竦ませる。

『この娘は私に預けていただけないでしょうか?』

『ん? どうした?』

『戯れ相手がちょうど欲しかったところなのです。この娘もエトランジェ。ならばハイペリアの話しも聞けるでしょう。エトランジェの制約は、王族にしか効かないと聞きます』

 姫の視線が、再び初老の父へと戻る。

 少しだけ父親に似た切れ目の双眸には、父が持ちえぬ澄んだ瞳があった。

『私が常に監視していましょう』

『ふむ……なるほど。それも良いかもしれんな』

『ありがとうございます』

『王女として、間違いを起こさぬように』

『はい…承知しています。父様』

 姫は背後に控える衛兵達を見回した。柳也によって気絶させられた二人の介抱に同じ人数が割かれ、手の空いている兵は佳織を拘束している男の他に、あとは二名しかいない。

『誰か、この娘を私の寝室の隣に』

『そこは、殿下の客室では?』

 兵士の一人が尋ねた。

 おそるおそるといった口調になってしまうのは、陛下に刃を突きつけられたままどうすることもできなかった自分達を恥じているからだろうか。

『良い。目に見える範囲においておきたい。しかし、しっかりとした鍵と、武器になるようなものは外しておくように』

『ハッ!』

『もの好きなことだ』

 王は呆れたような口調で呟いた。

『ハイペリアのことには興味があります』

『ふむ……ほどほどにな……。剣を持たぬとはいえエトランジェだ』

『…はい』

『こっちに来い!!』

 兵士の一人が佳織を拘束する鎖を乱暴に引っ張る。

「キャッ…!!」

 佳織は転びそうになるが、必死で体勢を立て直す。

 もともと佳織は、運動があまり得意な方ではない。

 何度もバランスを失いそうになりながら、少女の小さな足は、必死に男の大きな歩幅に着いていく。

『さっさと来い!!』

 兵士の乱暴な力に振り回されながらも、佳織は唇を真一文字に結んで耐えた。

 ――お兄ちゃんや桜坂先輩がいるんだから…絶対に、大丈夫…。私、負けないから……。

 固い決意を胸に抱き、佳織は謁見の間を後にする。少女の小さな胸には幼馴染の先輩と、大好きな兄への絶対的な信頼感があった。

 そして本当に信頼する家臣と衛兵以外、誰もいなくなった謁見の間で、王は姫に言った。

『スピリット、エトランジェ…。天が我等に力を与えているのだな』

『……』

『いつまでも落ちぶれた小国でいるつもりはない…』

『どうなさるおつもりですか?』

『古豪の力というものを見せてやるのだ。歴史のない国々に大きな顔をされたくないっ!』

『戦、ですか…』

 未来の政策について語る父の言葉に、娘の表情が翳りを見せたような気がしたのは、背後の衛兵の目の錯覚だったのだろうか。

 すでに柳也の存在など頭にない王は、自信に胸を張って告げた。

『龍の同盟も、所詮は我が国に頼ってのもの。もうすぐだ……』

『……』

 

 

――同日、昼。
 
 

「……とんでもない虎児を得られたな」

 兵士達に引きずられるようにして元居た洋館の部屋に連れてこられた柳也は、開口一番そう言った。

 続けて彼は悠人に、

「少なくとも佳織ちゃんもこの世界に来ていることが分かった。それから、俺達が今、置かれている状況も、少しずつだが判明してきた。…どうやら俺達は、虜囚の身にあるみたいだな」

「……そんなことはどうだっていい。今は、佳織が無事なことだけでも確認できたんだから」

 ノロノロとベッドに倒れ込むように寝転がり、悠人は疲れた声で柳也の言葉に応じる。

 柳也には想像もつかないが、どうやら彼の身を襲った苦痛は相当酷いものだったらしい。単語のひとつひとつを紡ぎ出す度に体力を消耗していくような友人の様子に、柳也は悲痛な表情を浮かべた。

「そんなに、辛いか?」

「…ああ。嘘ついてもしょうがないから、正直に言うけどさ…。正直、指一本動かすのも辛い」

「じっとしてろよ」

 柳也は悠人の身体を支え起こし、寝返りを打たせてベッドの上に寝かしつける。胸の辺りまで毛布を被せて、柳也は「聞いているのも辛いようだったら聞き流せ」と、あらかじめ断ってから口を開いた。

「俺自身、考えをまとめるために独り言をしたい。……とりあえず、今日のところは大収穫だ。佳織ちゃんを見つけ、俺達の立場というものを少なからず理解することができた。それから、あの兵達の装備や、馬車の性能、城の内装なんかからも、文明の程度を思い知ることができた」

「……文明の、程度?」

「城の内装は中世ヨーロッパ風。兵の装備は古代……それも紀元前のローマ風。馬車という名の戦車は古代エジプト王朝のロバで荷台を引いていたのとさして変わらない造り……。俺達の頭上を照らしているこの照明なんかと比べると、文明の進歩があまりもちぐはぐすぎて泣けてくる。俺が歴史学者だったら、とっくに発狂しているだろうな」

 そう考えると、この自分達を照らし続けている照明器具や、風呂場の湯を沸かしている技術などを調べることに、この世界の文化文明の謎を解く鍵があるような気がする。

 しかし、それも虜囚の身では叶わぬことだ。

「…取るべき行動は今後もあまり変わらないだろうな。高嶺は身体をまず治す。俺は情報収集に努める。この世界に対する考察も二人でやる。ただ、そこに佳織ちゃんの救出と、コミュニケーション手段の習得を入れるだけだ」

 柳也が言い終えた時、控えめなノックの音が鳴った。

 返事をし、振り向くと、心配そうな顔をしたメイド服の少女が入ってきた。

『大丈夫ですか?』

 心配そうな視線は、主に悠人に向けてのものだ。

 メイド服を着た彼女が謁見の間での出来事をどこまで知っているかは分からないが、出ていった時よりも疲弊した様子の悠人に何かを感じ取ったようだ。不安げな眼差しは、心から悠人の身体のことを心配していると分かる。

「…何て言っているか、分かるか?」

「いや、さっぱり。…けど、なんとなく言いたいことは分かる」

 柳也は悠人を指差すと、ガッツポーズを取った。

『……大丈夫のようですね』

 悠人は大丈夫だということを示そうとしたボディランゲージを、少女はやや間を置いてなんとか理解してくれたらしい。

 少しだけ安心したかのような笑みは、柳也や悠人の高ぶった神経を癒すのに十分な安らぎに満ちていた。

『食事を用意してきますね。少しおなかに入れたほうが良いでしょう』

 少女が何を口にしたのかは、柳也にも悠人にも分からない。

 だが、見ているだけでこちらを安心させてくれるその微笑みと声に、二人は、

 ――少なくともこの女の子は敵じゃない。

 と、確信するにいたった。

 

 

「……なぁ、桜坂」

「ん?」

「俺達、まだあの女の子の名前も知らないんだよな」

「……ぬぉう! そうだった」

 悠人達がそんな今更な事実に気が付いたのは悠人が起きて五日目の朝のことだった。

 病人同然で思考力も衰えていた悠人はともかくとして、「少なくともある程度のコミュニケーションを学んでからではないと…」と、自ら言っていた柳也がその事実に気付かなかったのは致命的だった。

「よし、今日はお互いの名前を教えよう。親友同士も最初は自己紹介からだ」

「……ついさっきまでその事実を忘れていた男の台詞とは思えないぞ」

 悠人が呆れたように言ったが、柳也の耳には届いていない。

 桜坂柳也とは、自分に都合の悪いことは聞こえない、そんな男だった。

 

 

「ごちそうさまでした!」

「なんだ? もう終わりか? もっとしっかり食べんと、治るものも治らんぞ」

「いや、もう腹一杯だよ」

「高嶺は小食なんだな」

「桜坂が食いすぎなんだって」

 すでに十個のパン、四杯ものシチュー(?)を胃に収めてなお食欲の留まるところを知らない柳也の様子に、悠人は苦笑を浮かべる。

 たった五日と少しの付き合いだったが、メイド服の少女も柳也の食べっぷりにはもう慣れたもので、意志の疎通ができない状況にも拘わらず、空になった柳也の皿に、タイミングよくお替りのシチューを満たしてくれた。

「お、ありがとうございます」

 感謝の言葉とともに軽く頭を下げる。

 頭を下げるという行為は万国共通どころか全惑星共通の仕草なのか、少女は小さく微笑むと、「お粗末様でした」とばかりに頭を下げた。

『お口に合ったようで、なによりです』

 そう言いながら、少女は食事を終えた悠人の食器を手際よく片付けていく。

 少女の細い手が目の前のコップに伸びてきて、悠人はそれを彼女に手渡ししつつ、未だ食事中の柳也に言った。

「なぁ、いつまでも食べてないで、そろそろやらないか?」

「んう? そうだな……」

 五杯目のシチューを平らげ、シンプルながらも舌触りの良い味付けの肉を頬張り、十一個目のパンを食べ終えた柳也は、手を合わせると静かに頭を下げた。

「ごちそうさまでした」

 柳也もまた両手を合わして頭を下げたのを確認し、メイド服の少女は手早く食器を片付け始める。

 食後の一杯を口に含み、舌の根もさっぱりしたところで、柳也は悠人に言った。

「とりあえず今のところは、名前だけ教えることにしようぜ。苗字はあとあと教えればいいだろ」

「そうだな。あの…」

 悠人が作業中の少女に声をかけ、娘が不思議そうに顔を上げる。

 悠人は自分を指差すと、自分の名前を連呼した。

「えっと…俺は、悠人。俺、悠人!」

『え? ええと…困りました…。本当に、違う言葉なんですね』

 自分の名前を連呼しているだけなのに、はぅ…と、溜め息をつかれてしまう。

 苦笑しながら頬に片手を当てて何やら考え込んでいる仕草は可愛らしく、美人の仕草とあってずっと見ていたい気持ちにさせられるが、残念ながらそれどころではない。

 少女の困った表情を見ているうちに、段々と悠人は不安になってきた。

 そんな悠人の顔を見て、慌てて少女がにこりと笑う。

『だ、大丈夫です! 私が必ず理解いたします!』

 少女は両手を肩の辺りまで上げて組み、ふん、と気合を入れるようなジェスチャーをした。おそらくこれは、“まかせろ…”とか、“頑張る”といった意味のボディランゲージなのだろうが…。

「……ダメだ。全然、分からない」

「あ、諦めるな高…いや、悠人! とりあえずそのまま名前を連呼だ!」

 隣から柳也の援護射撃。少女に名前を憶えてもらうためにも、普段呼び慣れた「高嶺」ではなく、「悠人」と呼んだ彼の表情は必死だ。悠人の自己紹介が失敗した場合、下手をすれば自分の名前も憶えてもらえないかもしれないのだから。

 柳也の声を受け、悠人はひたすら自分を指差し、名前を連呼した。

 なんだか自分が情けないようでしょうがなかったが、実際問題として、名前を伝えなければ何も始まらない。

「俺、悠人! 俺、悠人!」

『……』

 じっと悠人の言葉を聞き、メイド服の少女は考え込んでいる。

 何度も繰り返される同じ単語に、何回目からか、少女もその意味に気付き始めたらしい。少女はやがて悠人を指差し、口を開いた。

『ユート? お名前はユートさま?』

「おおッ!」

 柳也が歓声を上げた。

 そしてそれは、同時に悠人の心の声でもあった。

 悠人は少女の口から出た奇跡のような固有名詞に、何度も頷いて答える。

 すると、少女の顔がぱっと明るくなった。悠人が名前を伝えたがっていたという事実に気付いた彼女は、自らもまた自分の胸に手を当てて、

『私は、エスペリア。エスペリアと申します』

 ゆっくりとした調子で、同じ単語が二回。悠人も柳也も、それを聞き逃さなかった。

「えす、ペリア?」

 悠人の問いに、少女がにこりと微笑んで頷いた。

 もう一度、悠人に手を差し出して、彼の名を呼ぶ。

『あなたは、ユートさまですね?』

 続いて、自分を指差して言う。

『わたしの名前はエスペリアです。そして、あなたは……』

 少女の視線が、悠人から隣の柳也へと移る。

 腹六分目といったところで食事を終えた少年は、待ってましたとばかりに身を乗り出した。

「俺は、柳也だ。俺、柳也。俺、柳也」

『……リュウヤ、さま?』

「ああ!」

 柳也が、力強く頷いた。

 その隣で悠人が、少女を指差し、訊ねる。

「君は、エスペリア、だね?」

『そうです!』

「そうか、エスペリアか…」

『ええ』

 ようやく名前を憶えてくれた。そして、ようやく名前を教えてもらった。

 たしかにそれは小さな出来事かもしれない。しかしこれは大きな前進だ。どんな親友付き合いも、最初は互いの自己紹介から始まる。

 悠人と柳也は、ほっと安堵すると同時に嬉しくなった。

 それは本当に、本当に小さな達成感に過ぎなかったが、二人にとっては大きな意味を持つ出来事だった。

 

 

――悠人が目覚めて八日後、昼
 
 

「……かくして、俺達はあのメイドさんの名前だけは理解できるようになったのであった」

「……誰に話してるんだよ?」

 明後日の方に向かって叫ぶ柳也に、悠人が怪訝な面持ちで声をかける。

 柳也はそれを無視して、腕立て伏せに精を出しながら言った。

「とは、いえ、やっぱり、所詮、まだ相手の、名前が分かった、だけなんだよなぁ…っと、二五四、五、六、七、八、九、六十っと!」

「まぁ、な…」

「ゆくゆくは、俺もお前も、この世界の、言葉、憶えていかないと、なぁ!」

 二六六回目の腕の屈伸運動を終えて、柳也の動きが一度体勢を立て直すべく止まる。

 運動の熱と汗を振り払うように、ぶるり、と身震いしたのと、悠人が口を開いたのはほぼ同時だった。

「勉強かぁ…」

「不安か?」

「自慢じゃないが、英語の成績は悪かった」

「まぁ、なるようになるさ。言語なんて頭で難しく考えるよりも、身体で慣れろ、だ。学校でどんなに勉強しても英語を覚えられなかったやつが、ホームスティ先の英語しか周りにない環境で、話せるようになったってケースは、よくある話だぜ」

「気楽だよな、柳也は…」

 悠人はベッドに横たわった状態で肩を竦めた。

 エスペリアに名前を教えあったその日から、悠人達は無用な混乱を防ぐためお互いのことも名前で呼ぶようになっていた。もともと社交的な性格の柳也と、柳也とは決して仲の悪くなかった悠人である。違和感はすぐになくなり、今ではそれが当たり前の光景となっていた。

「別に、余裕が、あるわけじゃないって…よし、三百回終了」

 もはや日課となった筋力トレーニングを終え、柳也は立ち上がる。薄い布を張り合わせただけの簡素な衣服は全身から流れる汗でびっしょりと濡れ、立ち昇る熱気が少し離れた悠人のところまで漂ってくる。

 汗臭い臭気だが、不快ではない。

 いや不快なことは不快だが、遠慮のない友の行動にはもう慣れてしまった。

 それに風通しの良い部屋に二つある窓のおかげで、室内の空調はしっかりと保たれており、嫌悪感を催す臭いはすぐに四散してくれた。

 二の腕辺りの筋肉を揉みほぐし、柳也は「さて……」と、壁に立てかけてあったある物を手に取る。

「…んじゃ、俺は外に行ってくる」

 柳也が手に取ったのは、小さな枝を折って削っただけの、簡素な造りの木刀だった。一見するとただの棒切れのようだが、これも現地調達した立派な稽古具だ。

 二日前から、柳也は洋館の外への出入りが自由になっていた。といっても、まだ右も左も分からない状態だから、館からそう遠くへと離れることはできない。せいぜい、洋館のすぐ側に広がっている森の中、エスペリアがいつも洗濯をしに出かけている清流の辺りくらいまでだ。柳也はその限られたエリアの中、特に用がない時は鍛錬に身をやつしていた。

「最近になってようやくこの辺りの地形も分かってきたしな。素振りが終わったら、軽く走ってその確認もしてくる」

「迷子になるんじゃないぞ」

「……帰りが遅くなったら、晩飯は先に食べていてくれ」

 悠人の言葉に、柳也は自信なさそうに答えた。

 

 

「ま、迷っちまっとぅぁぁぁああああッ!!」

【主よ…】

 ざわついた虫の音、獣の声、木々の息吹と盛大な合唱を奏でる柳也の叫びに、〈決意〉が呆れた声を返してくる。

 柳也が自分が迷子になった事実を確認したのは、森の中に入って一刻余りが過ぎた頃だった。

 まず四半刻ばかり走って同じところを何周かしていることに気付き、次に半刻ほどゆっくりと周辺の地形を確認しながら歩いて、最後に時計の針が森に足を踏み入れてちょうど二時間経ったことを示し、柳也はようやく自分が迷子になったということを自覚した。

「〈決意〉、エスペリアの神剣の反応を辿って、なんとか引き返せないか?」

【残念だが主よ、現在、付近に我以外の神剣の反応はない】

「付近…って、お前、最大どれくらいの距離が探知可能なんだ?」

【ふむ。今の我の力では、主らの言うところの五キロメートルほどが限界といったところか】

「……イグラ携帯地対空ミサイルの最大交戦射程と同じくらいか」

 柳也は難しい顔をして呟いた。

 〈決意〉の言うように永遠神剣を探知するレーダーのような感覚の最大探知距離が五キロメートルだとしたら、少なくとも自分は今、洋館からそれ以上離れているということだ。

 直線距離を走ったならともかく、同じところ何度もぐるぐると回っているとなると、実際にどれほど離れているかは分からない。

 〈決意〉の一部を寄生させたままでいる同田貫の位置はここからも分かるが、柳也は洋館に帰りたいのであって、城に行きたいわけではない。

【もっとも、主の決意と力量次第で、この探知距離は増やすことが可能だ】

「ははっ…便利なレーダーだな」

【れーだー? 主の頭の中にある知識だな】

 柳也が〈決意〉と契約した際に多くの知識を得たように、〈決意〉もまた柳也と正式な契約を交わした時に彼から多くの知識を得ていた。その知識の中に、レーダーという単語はあっても、その具体的な内容までは入っていなかったらしい。

 柳也はレーダーについて自分の持っている知識を、簡単に説明した。

「……ってな風に、マイクロ波で目標物の距離・方位を測定するんだ。最近の物だと最大探知距離八〇〇キロ、最大探知目標数六〇〇個、識別可能数二〇〇個なんて、化け物みたいなレーダーもある。…まぁ、空自で採用しているAWACSのレーダーだけどな」

【なるほど。では、これからは永遠神剣を探知する際には、そのレーダーという言葉を使おうか】

「そうするか。その方が俺も分かり易いし。……この際だ」

 柳也はそう前置きしてから、近くの木陰に座り込んだ。

 まだ陽は高い。夕飯までにはたっぷりと時間がある。

 柳也は油断なく辺りを見回しながら、体内の〈決意〉に静かに語りかけた。

「迷ってしまったのは仕方ない。けど、これはお前の力を知る良い機会だと思うことにしよう」

【?】

「嘘偽りのない回答を聞きたい。はっきり言うけど、〈決意〉は他に何ができる?」

 柳也が問いかけると、〈決意〉から不機嫌そうな気配が伝わってきた。顔のない、ただ声だけの存在である〈決意〉の感情表現を、柳也は気配でなんとなく感じることができる。

 決意から伝わってきた気配に、柳也は「勘違いするなよ」と、前置きした。

「これから長いこと一緒にやっていくパートナーだ。能力くらいは知っておきたい」

【我は主が望むのであれば、どんな事でも成し遂げよう。ただし、それも主の決意の程と、神剣の使い手としての能力次第だ】

「なるほど…。能力の大半は俺次第ってわけだ」

【そういうことだ。主の匙加減ひとつで、我にできる事、できない事は決まる】

「現時点でできることは?」

【主の身体機能の強化。我の一部を主の持った道具に“寄生”させ、それを実質的には永遠神剣と同質の武器へと変化させること。我の一部を寄生させた道具に、マナを注ぎ込むことで強化を施すこと。…それから、永遠神剣を探知するレーダーとしての役割だ】

 そしてそれらの能力の程度も、柳也自身の力によって大きく左右されるのだという。

【我ら永遠神剣の力の源はマナだ。我らはマナを燃焼することで力を生み出し、マナを大量に消費することによってより多くの力を引き出すことができる。

 マナとは原始生命の力。マナは万物の源であり、世界のそこかしこに存在する。主と我の吸う大気の中に、主と我が食す食物の中に、マナは確かに存在している。主と一体化している我は、平時、そのマナを啜って生きている。

 だがそれ以外にも、我はこの大地から必要以上のマナを吸い出すことができる。また、他の永遠神剣を砕くことで、我はその永遠神剣が有していたマナを喰らうこともできる。そうして大地から吸い出すマナの量や、蓄えたマナをどれだけ消費するかは、すべて主の考え方ひとつなのだ】

「俺の決意、覚悟の程が、〈決意〉の力加減を決めるっていうのは、その吸い出すマナや、引き出すマナの量を決めるってことか」

【左様だ。……憶えているか、主よ?】

「ん?」

【我と契約を交わした直後、まだ神剣の使い方の要訣も経験として知らなかった主が、初撃からしてあれだけの一撃を放てたのは、“友を守る”という主の決意の強さゆえだ。あの時の強き決意がなければ、主はまだ今ほど我を使いこなせていなかったはず】

「始めに大口径の銃を撃ってから、次に小口径の銃を撃つようなもんか」

【例えがよく分からぬが…まぁ、そのようなものだ】

 初めて銃を撃つ人間が、同じモデルの銃で四五口径を撃った後に二二口径を撃つと、最初は反動の違いに戸惑うも、慣れてくると最初に撃った四五口径よりも命中率は良いという。最初に四五口径の大きな反動を経験した後だと、二二口径の小さな反動は可愛いもので、制御が容易なのだ。

「…そうすると、ここで一発、レーダーの探知範囲を一気に広げておけば、次からがラクかもしれないな」

【主よ、汝はまた迷うつもりか……】

「い、いや、そんなつもりはないぞー! ただ、念のためにだね…」

 柳也はしどろもどろになって答えた。

 〈決意〉からは、怪しいものだというような訝しげな気配が伝わってくる。

 柳也は別に方向音痴なというわけではない。今回は本当にたまたま迷っただけだ。しかし、早くこの世界の言語を習得し、地理を学ばなければ、今後も同じような事態が発生する可能性はかなり高い。

「再発を防止するためにも、帰ることが最優先だ」

 柳也は毅然とした態度で立ち上がった。

「右も左も分からぬこの世界で、無事に帰還することはなによりの奇跡! 〈決意〉、今一度俺の決意の程を知れ。俺は、エスペリアの家に、帰る!」

【主よ…それは決意というより願望のような……】

「うるさい。細かいことは気にするな」

【ふむ…。認めたくないが、主の言動にはある種の決意を感じる。致し方ない。我の力を、少しだけ解放しよう】

 頭の中に響く、古びた鎖が強い力で断ち割られるような音。

 自分を束縛する見えない鎖が断ち切られ、何か開放されたような快感が身体の中を突き抜ける。

「お? おお…?」

 柳也は、自分の体内で起こっている変化に戸惑いの声を漏らした。

 永遠神剣が発する特徴的なマナの波動を知覚できる範囲が急速に拡大し、その精度も急激に洗練されていくのが分かった。

【…こんなものか。先ほどの主の決意の程度では、探知距離を半径八キロメートルに広げるのが精一杯だった】

「いや、十分だ」

 柳也のいる位置から東に七キロメートルほど、覚えのある永遠神剣の反応が一つ。まだ確認していないが、エスペリアの物と思わしき永遠神剣の反応だ。

 エスペリアが洋館の中にいるかどうかは分からない。もしかしたらまったく別の場所にいるのかもしれないが、少なくともこの反応のある場所に近付いて歩いてゆけば、彼女には会えるだろう。

 ――……ん?

 少なくともエスペリアのいる方角が分かって、歩き出そうとした柳也の足が、不意に止まった。

 拡大化されたレーダーの探知圏内に、永遠神剣の反応が、もう二つ。

 柳也のいる位置から西の方角……つまり、エスペリアのいる方とは反対方向八キロぎりぎりの辺りを、行ったり来たりと彷徨っている反応を、二つ感知する。探知エリアのぎりぎり辺りにいるためか、それとも別な要因か、感じ取れるマナの波動は驚くほど小さい。

 ――やっぱり、この世界にはまだ永遠神剣があるのか……。

 自分の嫌な予想が当たってしまったことに、柳也は軽く溜め息をつく。

 探知圏内ぎりぎりの反応は、すぐに掻き消えてしまった。

 

 

――同時刻
 
 

 エスペリアの洋館から西方に十五キロ余り。

 まだ陽が高いとはいえ、鬱蒼と覆い茂る原生林に閉ざされた世界は暗く、陽の光は木陰を作るほどにも差し込んでこない。

 地面に伸びる三つの影は、他ならぬ彼女達自身の放つ光によって浮かび上がっていた。

 人影の正体は、まだ年端もいかない少女が二人と、彼女達よりは年老いているとはいえまだ十代も後半が関の山といった少女が一人。

 みな目麗しい容姿を持った、珠玉の美少女達だ。

 年長の少女はまるで近世ヨーロッパの重装騎兵のようないでたちで、面と頭を覆う兜こそ身に着けていないものの、細身の体躯には明らかに異質な佇まいをしている。首筋の辺りまでで切り揃えた水色の髪は自然な色をしており、同色の瞳がたたえる眼差しは、どこか神秘的な輝きすら宿している。

 一方、まだあどけない顔立ちに、少しだけだぶついたお揃いの服を着ている二人は、同時代のフランスの軽装騎兵といったところだろうか。といっても、その装備はやはり騎兵にしては不完全なもので、年長の少女と同じく兜を持たず、そればかりか胴回りの鎧を完全に捨て去った少女達が装備するのは、重厚な造りの篭手のみだ。それぞれ緑色の髪と同色の瞳、赤色の髪とこれまた同色の瞳をしている。

 騎兵……と、評したが、それはあくまで外見から見て取れる印象を言葉にしたに過ぎない。

 少女達の周りに馬はなく、また馬を都合する必要も、彼女達にはなかった。

 彼女達は自分達の身体能力が常人をはるかに上回ることを知っていた。長時間長距離の移動ともなればともかく、今回のように近辺に設置した仮の住居からの出張に、馬を使うほどのこともない。

 少女達は、全員がその美しい容姿、小柄な身に不釣合いな無骨な武器を握っていた。

 緑の髪の少女はシンプルな形状の槍を。赤い髪の少女は柄の上下から広刃の鋼が伸びる双剣を。

 そして青い髪の少女は片手と両手のどちらでも運用が可能で、斬ることにも突くことにも適した刀剣……十五世紀に、スイスで生まれたバスタード・ソードと呼ばれる武具にも似た剣を、右手に握っていた。刀身だけでも一メートル近い。一般に知られるバスタード・ソードよりもやや広刃のそれを苦もなく握る腕力は、到底、少女の白い細腕で出せるものではない。

 彼女達は、厳密にいえば人とは違う生き物だった。

 そして彼女達の握る武器もまた、普通の武器とは一線を隔てた器械だった。

『アイリス教官、ただいま戻りました』

 森の奥深くからやってきた二人の少女は、青い髪の少女の前に跪くと、身体に馴染んだ動作で平伏した。少女の手の中にはあっては異質ですらある巨大な刀剣を握る少女の青い瞳を見る眼差しには、並々ならぬ畏敬の輝きがあった。

 アイリスと呼ばれた少女は、水色の瞳に検分するかのような視線をたたえ、平伏する二人の少女を見た。

『…二人とも、途中で敵には見つからなかったか?』

 歌うような、澄んだ声だった。だがどこか冷たい、氷結した刃を思わせる鋭い口調だ。

 アイリスの問いかけに、緑の髪の少女が顔を上げる。

『それは隊長の方がよくご存知でしょう?』

 くす、と、隣に肩を並べる少女と顔を見合わせ、口元に小さな笑みを浮かべる。その表情は一仕事終えた達成感と、その仕事が上手くいったことに対する自信めいたものが見え隠れしている。

 だがアイリスは、冷たい刃のような口調を崩すことなく、静かに告げた。

『……たしかに、今回の斥候任務は上手くいった。ラキオスの哨戒線の内側に入って、敵と遭遇しなかったバーンライトのスピリットは、お前達を含めても十人といないだろう』

『アイリス教官の薫陶の賜物です』

 赤い髪の少女が、調子に乗って答える。

 しかしその浮ついた表情は、すぐに引き締まった。

 アイリスの水色の瞳が鋭く赤髪の少女を睨むと、赤髪の少女の背筋にじわりと冷や汗が湧いた。春のような陽気の中、分厚い生地の服が肌に張り付くのは不快だったが、そんな様子もおくびに出さず、赤い髪の少女はしゃっちょこばった姿勢を取った。

 アイリスは、少女達が口を閉ざしたのを確認すると、静かに言葉を続ける。

『…慢心するな。お前達の神剣の気配を消す技術は確かに上達した。だが、今日、哨戒線の内側に侵入して気付かれなかったのはたまたまかもしれない。そのことを肝によく命じておけ』

『は、はい』

『それに……』

 しゅん…となった二人の少女に、アイリスは冷静に指摘した。

『哨戒線を抜ける瞬間、集中を切らしたな。少し遠いが、近くに永遠神剣の気配があった。確実に探知されていたぞ』

『まさか……』

『慢心するな、と言ったはずだ』

 口答えしようとする赤い髪の少女の言葉を途中で遮り、アイリスは言った。

『この距離からでは、私の力でもいったい何者かは分からなかったが……位は第七位、だがかなりの力を持った相手だな』

『スピリットではないのですか?』

『…分からない。もしかしたら、伝説のエトランジェかもしれない』

『まさか……』

『先日、ラキオス、マロリガン、サーギオスで確認された光の柱の存在を、お前達も知らないわけではないだろう?』

『……』

『そんな顔をするな。あくまで、可能性のひとつだ』

 アイリスはそこで一旦言葉を区切ると、ふっと少しだけ穏やかな表情を浮かべた。

 少女達を見下ろす眼差しにも、鋭さが消え、優しげに見守るような視線へと変化がみられる。

『…さっきの話だがな……』

『?』

『言ったとおり、これでラキオスの哨戒線の内側に入って生還してきた人数はお前達で記録が更新された。お前達は確実に強くなっているぞ』

 優しい声とともにかけられた、自分達の努力が報われている事実をこれ以上ないほど如実に言い表している言葉。

 幼い少女達の表情に笑顔がはじけ、お調子者の赤い髪の女の子が照れ笑いに身をよじる。

『慢心はするな。しかし、自信は持っていい。……そのことを、忘れるな』

『はい! アイリス教官!』

 二人の少女達が、口を揃えて言った。

 元気の良い返事を背に、仮設キャンプに待機している仲間達のもとへと合流するべくアイリスが踵を返す。

 白い翼を生やした背中を向ける彼女の表情は、もう先ほどの鬼教官のものへと戻っていた。

 

 

――悠人が目覚めて十六日後。
 
 

 悠人が目覚めて半月以上が過ぎていた。

 目覚めて三日後に王城に連れて行かれたあの日以来、ずっとベッドの上に縛り付けられていた身体も大分本来の調子を取り戻し、洋館の中に限れば自由に出歩けるまでに回復している。

 未だ言葉の相互理解はさっぱりの状態だったが、エスペリアとのコミュニケーションもそれなりに取れるようになり、悠人はこの洋館での生活に少しずつだが慣れつつあった。

「リュウヤ、ラ、ニノウ、セィン、ヨテト…これで合ってるのか?」

 今やベッドから立ち上がるのにも補助のいらなくなった悠人の隣では、病人の悠人よりも一足先にエスペリアから言葉を習い始めた柳也が、覚えたばかりの単語を繋げて何やら簡単な文章を作っている。

 まだ本格的に言葉の勉強を始めていない悠人からしてみれば、そんな簡単な文章さえも宇宙人の話す長文も同然だ。しかし、四苦八苦しながら文章を作っている柳也を見ていると、自分もなんとなくできそうに思えるから不思議である。

「…それ、どういう意味なんだ?」

「ん〜…文法的には、My name is…… と、同じ意味のはず。ヨテトが“私”で、ニノウが“名前”だから、ラとセィンの使い方を間違えてさえいなければ、『私の名前は柳也です』って意味に……なる、はずだ」

 柳也は自信なさげに言った。

「とりあえず自己紹介とThis is a pen.ぐらいは、言えるようになっておかないとなぁ。…たしか、Thisがイスカで、どうもそれぞれの単位に該当する単語は全部別々らしい。ペンを数える時の一本、二本が、どういう単語かはまだ分からない」

「……聞いてるだけで、頭が痛くなってきた」

「ま、そうだろうなぁ。実際、俺も、今、ガンガンしている。…まぁ、悠人は今はあまり難しいことは考えずに、早く身体を治すことだけを考えていろよ」

「…そうは言っても……」

 悠人は軽く腕を回したり、その場で膝の屈伸運動などを繰り返した。一時期に比べれば身体はずいぶん軽くなっている。まだまだ本調子とはいえないが、それでも短い距離ならば走ったりジャンプしたりと激しい運動も可能だろう。

「もう、だいぶ良くなってきてるんだけどな…」

「暇で暇でしょうがない?」

「そこまでは言わないけど…まぁ、たしかに暇だな」

 考えるべきことはたくさんある。囚われの身になっている佳織のこと。光に巻き込まれたかもしれない光陰と今日子のこと。しかし、そのいずれもが、自分が今頭を悩ませたところでどうしようもない問題ばかりである。

「世話の焼ける男だなぁ」

 柳也は呆れたように苦笑しながら、部屋に備え付けられた本棚の前へと歩いた。図書館やサスペンスドラマの中でしか見たことのない重厚な造りの書架は、しかし図体の大きさのわりに蔵書量は極めて少ない。本が並べられているのは六段あるうちの下から四段目だけで、それにしたってスペースの余裕は半分以上ある。柳也は、そんな物寂しい本棚の中から真新しい一冊の本を抜くと、悠人に表紙を見せた。

「なら、これでも読むか?」

 柳也が手に取ったのは、小さな子ども向けと思われる童話だった。早くこの世界の言葉に慣れてもらうためにと、比較的文章が少なく、挿絵の大きい絵本をエスペリアが用意してくれたものだ。悠人達の世界に比べると印刷技術は未熟だが、挿絵の繊細な色使いもしっかりとプリントされている。

「…いや、いいよ。余計に頭が痛くなる」

 悠人はうんざりとした様子で言った。

 絵はともかく、アルファベットともアラビア文字とも違う系統の字の羅列を見ていると、それだけで動悸、息切れ、目眩などの症状が起こってしまうことはすでに経験済みだ。

「その本に書いてあるのはきっと呪いの呪文だ」

「そこまで言わんでも…。まぁ、この文字を解読するのにはかなり時間がかかりそうだけどな」

 ぱらぱらと絵本を捲り、ページを眺めながら、柳也も言う。

 アルファベットともアラビア文字とも、無論、漢字とも違う言語体形の基に構築されたそれらの文字は、象形文字をベースにしている風でもなく、強いていえば楽器の譜面に使われる五線譜に書かれた楽譜のような形に近い。

 しかも、印刷技術が未熟なためところどころ黒く滲んでおり、悠人よりはこの世界の言葉について知っている柳也ですら、字というよりは絵としての印象の方が強かった。

 ――……たしかに、呪いの呪文に見えなくもない、かぁ?

 もっとも、柳也は生まれてこのかた呪いの呪文書の現物を見たことがないので、違いなどまったく分からなかったが。

 その時、コンコンという控えめなノックが、ドアを叩いた。

「エスペリアだな……シェサン?」

 覚えたての言葉を使って、柳也が返事を投げかける。どことなく語尾に自信がなさげなのは、仕方のないことだろう。

 柳也の返事から一瞬の遅滞もなく、ドアが開き、エスペリアが入室してきた。

『ユートさま、リュウヤさま、昼食にしましょう』

 スプーンを口に運ぶ仕草。エスペリアが食事をする時に必ず使うジェスチャーだ。

 この仕草を見るたびに、柳也はこの世界の人間が自分達地球人とほとんど変わりがないようで良かったと安堵する。もし、生物学的に消化器官が自分達とは別なところにあったとしたら、それだけでジェスチャーは変わってしまうだろう。もし、彼女達がへそで食物を摂取するような生物だったとしたら……想像するのも恐ろしい。

「もう、そんな時間なのか」

「みたいだな。悠人は一日中館の中で暮らしているから、時間の感覚に乏しいだけだろ。鍛錬を早めに切り上げておいて、正解だったぜ」

 食事の時間は柳也に取って風呂に次ぐ一日のうちで楽しみな時間のひとつだ。ちなみにいちばん楽しい時は鍛錬をしている時で、風呂は二番目に当たる。

 一日のうちで三番目に楽しい時間がやってきたとあって、柳也の表情は自然と緩む。

 貧乏暮らしの長い彼にとって、エスペリアの出す食事は破格のご馳走だった。

『さ、食事が冷めてしまいます』

 エスペリアが言い、悠人と柳也は一階の食堂へと向かう彼女の背中を追って歩き出した。洋館の一階には巨大な風呂場があるだけでなく、二十人ぐらいが一度に宴会を開けるだけの広さを持つ、食堂もある。

 最近では悠人も、食事は二階の部屋ではなく一階の食堂で済ますようになっている。

 この洋館にやって来て半月以上が経ち、二人とも館の各部屋についてはひと通りの知識を持ち始めていた。

 

 

「……下が騒がしくなってきたな」

 最初に異変に気が付いたのは柳也だった。

 食事を終えて二階の部屋へと戻った二人は、柳也はこれまでの勉強の復習を、悠人は特にやることもないので暇を持て余していた。

「下?」

「ああ…見回りの兵士とも、荷物の搬入にきた商人とも違うみたいだが」

 柳也は手にしていた本を閉じると、手製の木刀を持ってそっとドアを開けた。

 強化された感覚器官を極限まで研ぎ澄まし、一階の方から聞こえてくる物音を一つ残らず拾い上げる。

『……そ、そんな!』

『これは決定だ。スピリット如きが不満を口にするな』

『……そんなこと…って』

 男の怒号と、エスペリアの悲痛な叫び。男の声にも、何度か聞き覚えがある。相手はどうやら時折この館に訪れては、エスペリアに横暴を行う兵士達のようだ。

「……また、あいつらが来たみたいだぜ?」

「あの兵士達か…」

 悠人は吐き捨てるように言うと、ベッドから立ち上がる。

 軽く屈伸運動などをして身体の調子を確かめた彼は、すでにドアを全開に開け放っている柳也に言った。

「行こうぜ」

「おう」

 手製の木刀を片手に柳也も応じ、廊下へと足を運ぶ。

 どたどた、と一階にも聞こえるようにわざと大きな足音を立てながら階段を駆け下りて、ちょうどリビングに入った瞬間の出来事だった。

『うるさいと言ってる!』

『……ッ!』

 柳也と悠人の目の前で、苛立った兵士のひとりによってエスペリアが張り倒される。押し殺した少女の悲鳴が軽く響き、その直後、リビングを殺気だった怒声が席巻した。

「貴様ら、何をやっている!?」

「なにやってんだ! よせよっ」

 悠人と柳也は素早くエスペリアと兵士達との間に割って入った。前回、屋敷にやってきた時よりも人数が多い。前の時は両手で数えられる人数だったが、今回は一個分隊規模の人数が詰め寄っている。

 ――明らかに、俺を警戒しているんだろうな…。

 前に兵士達がやって来た時、柳也は三名もの鍛えられた男達を一瞬にして倒してしまっている。今回の増員の背景に、十日以上昔の自分の行動が関係しているのは、誰の目にも明らかだ。

『ユートさま! リュウヤさま! 何でもございません。部屋にお戻りくださいっ』

 先回よりも多い戦力に対して、一歩も退かぬ二人の少年の背中に、エスペリアが焦ったような声をかける。

 そんな二人に対して、エスペリアを張り倒した兵士がニヤリとシニカルに笑いかけた。

『ちょうどいい、エトランジェか。さっさと準備をしろ。王がお呼びだ。そこまで元気ならば大丈夫だろう』

 剣に手をかけながら、兵士が侮蔑も露わな態度で口走る。

 これも前回とは違う点だ。前回、兵士達の武器は捕り物用の棍棒だった。今回、兵士達が帯びているのは敵を殺すための剣だ。

 エスペリアのようにゆっくりとした口調ではなく、早口でまくし立てられては、柳也も悠人も、相手の言っていることはほとんど理解できない。しかし、柳也にも悠人にも、兵士が何を言っているのかは、手に取るように分かった。

 こんなにも剥き出しの悪意を、そして侮蔑の眼差しを向けられて、分からないはずがなかった。

 ――また来いってことか。いいさ、行ってやる! それに、佳織を助けることができるかもしれない……。

 静かな怒りが心を満たしていく。エスペリアに対しての暴力も許せなかった。それでも、できるだけ冷静でいようと努め、悠人は決意とともに叫んだ。

「ああ、行ってやるよ!」

「隣に同じく。貴様らについていってやろう」

『! お二人とも、いけません! それにユートさまは、まだお体の調子が……』

 声に篭もる決意の響きで、二人の取ろうとする行動の意味が分かったのだろう。

 縋りつき、少年達の行動を制止しようとするエスペリアに、しかし悠人は首を横に振った。

「エスペリア、俺、行ってくる。佳織を助けなくちゃ」

 片言の異世界の言語と、僅かに混じる日本語。文法もイントネーションも自信はない。しかし、自分の身を本当に心から案じてくれていると分かる少女に、悠人は感謝の笑みを浮かべた。

「サンキュ、エスペリア。大丈夫、なんとかなるよ」

 微笑みかけながら、肩と胸を掴む手をそっとはずした。

 こんなことで上手く気持ちが伝わるとは思えない。だがそれでも、気持ちが伝わるように相手の目を見て、悠人は真摯に語りかけた。

『……ユートさま』

「ハル、リュールゥラス…エスペリア。クミネ、ヤァ、ハァガ、ラ、ユート(安心してくれ…エスペリア。悠人は俺が守る)

 片言の言葉を話しつつ、柳也もまた力強く胸を叩いた。

『行くぞ』

 エスペリアの肩を軽く叩き、少年達は歩き出した兵士達の背中を追った。

 

 


<あとがき>

―謁見の間にて―

タハ乱暴「おお勇者柳也よ、どうか竜に囚われた姫を助けておくれ…」

柳也「おお、わかりました国王陛下。必ずや姫君を救い出し、竜に奪われた財宝を取り戻して……」

北斗「ないない。そんな設定はない」

柳也「……はい。永遠のアセリアAnother、EPISODE06、お読みいただきありがとうございました!」

北斗「今回の話でようやくお姫様の登場、そしてエスペリアの名前を知るにいたったわけだな」

タハ乱暴「そして謎のスピリットの登場と、いよいよ物語が大きく進み始めたぞ」

柳也「わー! 書いている本人が言うなんて、あからさまな煽りなんだー(棒読み)」

タハ乱暴「うるさいわい。…さて、いよいよ次回は二回目の登城。それはつまるところ原作でいう……」

柳也「あー…それ以上この場で口にするのは次回の楽しみをバカスカ奪うことになるからやめとけって」

北斗「この男の書く話に楽しみも何もないと思うんだが…」

柳也「いやあ、きっといるって。…100億人に1人くらいの割合で」

北斗「地球人口を超えているじゃないか…」




国王やお姫様との初顔合わせ。
美姫 「柳也が居たから、かなり違う展開よね」
だな。とりあえずは大人しくして様子を見ることにしたみたいだな。
美姫 「そうね。そして、またしても現れる兵士たち。態度悪いわね」
まあ仕方ないさ。さてさて、次回はどうなるのやら。
美姫 「次回も楽しみにしてますね」
待っています。



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